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27:Golden Dawn
これ以上のものはもう描けないかもしれない。そうと思えるほどの傑作だった。信じられないくらい上手くいったという確信が手の中にまだ残っている。
明日はもっと良いものが描けるかもしれないが、それでも今日のところはこれが『最高』だ。今までで一番、理想に近い色を作り出すことができた。
深い満足感がその胸には宿っている。少年は満面の笑みを浮かべて、己の作品と向き合った。
手直しをする時間を考えても、次のコンクールには十分間に合うだろう。この作品なら、大賞だって取れるはずだ。
また一つ夢に近づくことができる―――
希望に満ちた眼差しは、しかし背後からかけられた声によって陰りを帯びた。
『祐介、話がある。こちらへ来なさい』
それは敬愛してやまない師のものであるはずだというのに、彼は怖気と落胆に心が塗りつぶされるのを感じていた。
言いつけ通り面前に座した少年に、老年の域に達した師はいつもの通り申し訳なさげな顔を作って申し付ける。
『……だからな、先方からのたっての願いで、儂もどうしても断り切れんでな……』
『でも、先生』
『大恩のある御方でもあるのだ、頼む、祐介』
老人は白髪頭を下げて涙声でもって訴えた。
少年はそこに涙なんて浮かんでいないことも、申し訳無さなんて微塵も感じられていないことを察していた。
それでも、彼は憐れさを誘う真似をする老人に逆らうことはできなかった。
なにより演技だと解っていても心のどこかで本当のことを言っているのではないかと、自分が穿ちすぎているだけなのではないかと彼自身が思いたがっている。
『先生、やめてください。顔を上げてください。大丈夫です。ちょうど今、新しい作品が仕上がるところなんです。だから……』
だからそれを、先生のものとしてお渡しになってください。
血を吐くような気持ちで告げると、老人は直ちに顔を上げて少年の手を取った。
『おお、そう言ってくれるか、ありがとう……! ああ、祐介、お前は本当にいい子だ……』
しわだらけで骨ばった老人の手は暖かく、力がこもっていた。
望めば簡単に少年の手を破壊することが出来ると言いたいのだろうか。
少年は恐怖と嫌悪、そしてささやかな優越感をひた隠して曖昧に笑った。
『俺にとっては、先生こそが大恩のある御方です。こんなことでお役に立てるのなら……』
これは嘘ではなかった。
親の顔も知らない己が身をここまでたててくれたのは他でもない目の前のこの老人だ。筆の握り方も、麻紙の貼り方もなにもかも、この人が教えてくれた。暮らしに困ることもなく芸術の世界に没頭することが出来ているのはこの人のおかげだ。
だから、我慢しなければ。
世話になっているんだから。
なにもかもを授けてくれた人なんだから。
縁もゆかりもないこの俺をここまで育ててくれたひとなんだから……
(でも……)
一体いつまで我慢すればいいんだろう?
そう思ったとき、少年はぞっと背筋を走る寒気を感じて震え上がった。
いつまで? 一日? 一ヶ月? 一年? 五年? 十年? 二十年?
そんな先まで、俺はこの人の傀儡として生きていかねばならないのか!?
少年は老人が去った居間でこみ上げる吐き気と嫌悪すべき思想と戦っていた。
そんなことは思うべきじゃないんだ。世話になっている人に対して、こんなふうに思うのはいけないことだ。
けど、でも、だって……
『いつになったら終わるんだ……?』
それは一つの永き道のことを指していた。人が産声を上げた瞬間から確約された終焉の日を。
少年は勢いをつけて手近な柱に己の額を打ち付けた。
ゴンと鈍い音がしてあばら屋全体が軋むような音を立てる。
(なんてことを……俺はなんてことを考えたんだ……!)
じんじんと痛む額を押さえて後退る。
そこまでしてもまだ内から湧き上がる唾棄すべき発想は止まなかった。憎悪とそれに対する疚しさ、悲しみと憤りと、これ以上ないほどの心細さがぐるぐると回って渦を作り、少年の心を引き裂こうとしているかのようだった。
このままでは暗く落ち込むばかりだとあばら屋を飛び出せたのは、彼にとって本当に幸運なことだった。
人で溢れかえった駅前に来てからやっと手ぶらであることに気が付いて、少年はしまったなと呟いた。それは誰の耳に届くこともなくアスファルトの上に落ちて消えてしまうが、元より頼るよすがもないのだ。聞こえていようがいまいが、なんの変化もない。
人通りの多いところを選んで壁に寄りかかりじっと行き交う人々を観察することで気を紛らわせようとしたが、これは少年の孤独感をより強めただけだった。吹き付ける秋の風だけでなく、楽しげに寄り添って歩く恋人や夫婦、親子連れの姿がそうさせていた。
また師と同じ年頃の男を見かけるたびに身体は強張った。
こうしていれば少しは忘れることもできるかと思ったが、逆効果だったか。
落胆して、肩を落として、それでも人の波に目を向ける。
こんなにたくさんの人で溢れているのに、まるで世界にたった一人取り残された気分になっているのはどうしてだろうか。
もちろん、少年はそれが虚しい自己憐憫であると解っている。大きな声を出して泣き喚けば、きっと一人くらいは手を差し伸べてくれるはずだ。
でも、そうしたとき、先生にも迷惑がかかるかもしれない……
そもそも涙も浮かんでこなかった。ただ空虚な感覚が胸のうちにあって、そこから声が湧き出て止まないのだ。
(あの人はいつになったら俺を開放してくれるんだろう)
考えていると、またふっと新たな言葉が湧き上がった。
(一生? ……一生このまま? あの老人の陰に隠れて、死ぬまでずっとこのままか? 先に死ぬのはどちらなんだ? 先生か? それとも俺が?)
いずれにせよ、死は最も明解な解決方法であると言えた。それは誰にでも必ず訪れる逃れ得ぬ定めなのだから、今日明日でもいいはずだった。
問題は、どちらに訪れるべきなのかということだ。
少年の脳裏に解決に導くための方法が幾つか浮かび、そして消えていった。
そもそもそんな勇気もない。あるいは、衝動的に行うことなら可能なのかもしれないが―――
しかしその衝動は訪れなかった。これから先も続く彼の人生において、ただの一度もなく済んだ。
それは得難い友人たちをこれから先に得るからであって、そしてこのときは、そのうちの一人が彼を見つけたからだった。
『喜多川くん? なにしてるの、こんなところで』
気が付くと目の前に少女が一人佇んでいる。それはよく知る姿だった。
『……』
呼んでから、そう言えばそんな名前だったと思い返す。
極めて貴重な友人らしい友人であるというのに薄情な話じゃないかと自嘲すると、少女はそんな彼の姿に当惑した様子で小首を傾げた。
『お前こそどうしたんだ。もういい時間だぞ』
ちらりと見上げた街頭モニターの隅に記された時間を確認しつつ言ってやる。時刻はちょうど七時になるところだった。
『帰るところだったんだよ。電車の乗り換えの関係で少し待たなくちゃいけないから、いつもこの辺りをぶらぶら……』
言って、少女の手が手近なファストフード店やカフェを指し示した。
そういえば、彼女はずいぶん遠くから電車を乗り継いで学校にも通っているらしかった。時間の都合で塾や予備校もこの近辺を選んでいるとかなんとか、他愛のない雑談の中で耳にした記憶がある。
どうしてそんな遠くからわざわざ洸星に通っているんだろうとは聞くたびに思っていたが、なにか理由があるのだろうか。
尋ねようとして、しかし少年は口を閉ざした。彼女の事情にかかずらわう余裕が今の彼には無かったのだ。
だから少年は曖昧に相槌だけを打って返した。友人を大切にしたいという気持ちはあったが、今は独りにして欲しかった。
ところが少女のほうは放っておくつもりはないらしい。少し距離を置いて少年の隣、同じように壁に寄りかかって人並みに目を向け始めた。
『なにをしているんだ?』
『喜多川くんこそ。こんな時間に、こんな場所で、なにをしてたの』
返された声に戸惑いつつ、少年は低い位置にある少女の横顔に目を向ける。
『なにを……というほどのことはしていない。ただ、人を見ていたんだ』
『そっか』
『なあ、、帰らないのか』
『電車を待っているんだよ』
それならホームで待てばいいのに。言おうとして、しかし少年は少女の手が前を通った女の手元を指し示したのに目を奪われて忘れてしまった。
『今の人』
『なに?』
『袖が汚れていた』
『汚れることくらいあるだろう』
『でも、右手だけというのは奇妙じゃないかな』
『利き手が右なのでは? たいていの人は右利きなのだし』
『そっか。確かに、汚れていたのは右手の小指側だけだった。右手でペンを持ってなにかを書いていたんだね』
『じゃあ作家かなにかだ』
『もしくは、きみみたいに絵を描くのかも』
『それなら汚れることくらいは予め知って、腕まくりする。だから作家だ』
『そうかな? 今日始めたばかりの人かもしれないよ』
『その可能性もあるかもしれないが……』
作家だ、と断固として言い切っている間に、件の女性はとっくに歩き去っていた。
『じゃあ、あの人は?』
また目の前を、カジュアルな格好の壮年男性が大きなスーツケースを引きずって歩いていった。
『出張帰りのサラリーマン』
『スーツじゃなかったよ』
『帰りなんだから、別に私服でもいいんじゃないか?』
『会社に帰りました〜って報告とかしなくていいのかな』
『それは明日でいいだろう。え? いるのか?』
『さあ……』
二人は揃って首を傾げた。
そうやって少女が次々に示す人の背格好や動作に適当な当て推量を続けていくうち、少年は考え事をすっかり忘れてしまっていた。考える隙も与えぬほど次に次にと少女が人を指し示すから、そのたびに律儀に答えるために忘れざるを得なかったのだ。
わざとやっているのかと疑問に思えたのは少女がやっとこの奇妙な遊びを止めたころになってからだった。
『帰らなくて大丈夫なのか?』
今度は独りになりたいからではなく、少女の身を案じて問いかける。
彼女はすぐには答えなかった。もの言いたげに己のつま先を見つめて、なにかを言おうとして口を開いては閉じることを繰り返した。
少年は彼女が言わんとする言葉に察しがついていた。強く追及すべきではないとも。
だから、彼は辛抱強く彼女がなにかを言い出すのを待った。もしかしたら助けを求める言葉が聞けるかもしれないと期待もした。
もしも彼女がそうやって本心を吐露してくれたら、そうしたら、きっと己も……
しかし言葉は発せられることなく、少年のポケットの中から響いた着信音に遮られてしまう。
ぎくりとして身を固くしつつ慌ててスマートフォンを取り上げる。発信者は少年の師だった。
せっかく忘れることができていたのに、あともう少しで切り替えることも出来ただろうに。思わずと顔をしかめ、少女に断りを入れようとして少年は顔を上げた。
そこにあったのは憤怒の表情だった。
わけは分からぬが、少女は、なにかにひどく怒っている様子である。
楽しいおしゃべりを不粋な着信音で途絶えさせたからではなかろうが、しかし彼女の怒りは明らかに少年の手の中の通信機器に、その向こうの相手に向けられているように見受けられる。
どうしてそんなに怒っているんだ、と問いかけようとして、しかし少年は言葉を失った。
『帰りたくないの!』
唐突に少女が大きな声を出したから、少年はびっくりして、目を見開いて、ぽかんとして彼女を見下ろした。
怒りと恥じらいによって顔を真っ赤にした少女がまくし立てる。
『家に帰りたくない理由はいろいろあるけど、とにかく、まだここにいたい! きみは……喜多川くんは! こんな時間にこんなところに、女子をほっぽり出して帰ってしまうような人じゃないよね!』
疑問ではなく断定であった。有無を言わさぬ迫力に圧されて頷くと、少女は鼻を鳴らして着信に応じるよう促した。
受話口の向こうの師は帰りの遅いことを咎め、いつ帰るのかと問いかけてくる。
少年は……
少年はたった今少女が述べたことをそのまま伝えた。
同級生の女子が事情は分からぬが帰りたくないと駄々をこねている。独りにさせるわけにもいかないから、もう少し付き添うつもりだ、と。
師はしばらくの沈黙の後、了承を示した。きっと何某かを秤にかけて、そうさせたほうが良いと判断してくれたのだろう。
あまり遅くならないようにと厳命して通話は終了した。やり取りは五分もかからなかった。
そして少年は再び仰天する。
ぽかんとしたままスマートフォンを握るその手首を、少女が力いっぱい握りしめて引っ張ったのだ。
『え……うわっ』
この小さくてやせっぽちな身体のどこにと思えるほどの剛力が少年に歩を進ませた。
『おい、。待て……どこに……』
『いいから』
『良くはないだろう。おい……』
『いいから!』
人波をかき分け、引きずるようにして駅の構内に連れ込まれるのに時間はかからない。そのようにして訪れたのはどこにでもあるようなチェーンのコーヒーショップだった。
『ここでよく時間を潰すんだ』
そういってやっと手を離した少女に当惑の目を向ける。
『ごめん。でも、本当に、もう少しだけでいいから、一緒にいてほしい』
先程の勢いと力強さが嘘のように俯いて絞り出された声に、少年は頷く他なかった。
それくらいはしてやってもいいかと思えた。
なにより、彼女に構っている間は老人と離れていられる。しかも紳士的な理由を伴って。
……今にして思えば、彼女は己のためにしていたのではなくこちらのためを思ってあのような恥知らずな振る舞いをしてみせたのだろう。
今もまた、手を引いて先を行く少女が己の不躾な振る舞いを恥じているのが顔も見えていないのに解ってしまう。
喜多川はもはや逆らう気もなく引かれるがままに彼女のあとを付いて足を運んでいた。
ぱらぱらと降り続ける雪は相変わらずで、むき出しのままの手指や鼻頭が痛みに似た感覚を訴えている。
逃れようと口を開く。
「なあ、」
「なに」
「どこまで行くんだ」
ぴたりと足が止まる。二人はちょうど、住宅地の片隅の小さな公園の前で立ち止まった。
「じゃあ、ここまで」
ベンチもあるし、明かりもあるから。
適当な理由をつけて手を離し、ポケットに手を入れて先を歩く少女に、喜多川はまるで縄でも付けられているかのように従った。
パーゴラの柱に手をついて立ち止まると、ちょうどベンチの前に辿り着いた少女が振り返る。
頼りない人工の灯りを受ける姿はまるで、そのもの自身がほのかな輝きを発しているかのようだった。
しかしその表情は、いつかのようにひどく怒っている。
当然だろう。助けなければよかったなんて言われて怒らない者がいるものか。
少年は裁きを待つ白洲の上の罪人のような心地で彼女がなにかを言うのを待った。近頃は口の悪さを覚えはじめた彼女のことだ、きっと恐ろしい罵倒か手酷い叱責が待っていることだろう。
彼はこれを受け入れるつもりでいた。それはきっと概ね事実だろうからと。
「本当に助けが必要なときに、素直に助けてと言うことがどれだけ難しいのか、今のきみを見ているとよく分かるね」
果たして与えられたのはそのどちらでもなかった。
はむっとした表情のまま納得したように幾度も首を縦に振っている。
彼女はまたその怒りのわけを語ってみせた。
「私の力不足だったのか、それとも、きみにとって私はまだ頼りにできるほどの存在ではないということなのかな。きみはどうしたら私を認めてくれるんだろう」
「……なんだって?」
「だから、きみは、自分の得た結論に失望したんでしょう。そして私を頼ってここへ来た。でも、素直に助けてと口にすることが出来なかったんだ」
「そ、そう、なのか? だが、俺はお前に……ひどいことを言ったのに」
「それが認めてないということだよ」
びしっと音がなりそうなほどの勢いで指を突き付け、右足でもって地を踏みしめた少女は、憤懣やるかたないと言わんばかりに語気を強めて言った。
「私はその程度のことではもうなんとも思わない!」
喜多川はやっと合点がいって、脱力感を覚えてよろめいた。
つまり、彼女は、この少年に侮られたことが気に食わないのだ。
それは対等に扱ってほしい、対等でありたいという彼女のたっての願いでもある。
喜多川は眩しいものを見るかのように目を細めた。
小さくやせ細っていた身体がここ数ヶ月で大分ましになったことには気が付いていた。背が伸びたし、ほんの少し肉付きがよくなっている。
けれど、その内側の成長までには気が付くことができなかった。
もしかしたらあえて目を逸らしていたのかもしれない。
彼女が『サユリ』に籠められた想いにいち早く勘付いたことから目を逸らしていたように。
そうとも、きっと彼女は、これからも己が苦心し、長い年月をかけて得る答えをいとも簡単に、呼吸するように得ていくのだろう。ただ母親が生きているというだけで、ただ失わずに済んだというだけで……
そしてそれは、この少年がどれだけ努力しようと、決して、決して手に入らないものだ。
そのことがどうしようもなく悲しいのは、悔しいのは、己が極めようとする芸術の道を彼女が歩こうとしているからじゃない。そもそも彼女に芸術的なセンスは備わっていないのだから、その心配は無用だった。
ただ、彼女が一人成長して、自分を置いて先に行ってしまうことがどうしようもなく悲しくて、寂しいのだ。
そしてこの事実に気が付いたからといって、そのまま伝えるのは確かに至難の業だった。
だって、恥ずかしい。
喜多川は黙り込んで俯いた。
それを見つめるの唇からはため息が漏れる。白く染まる吐息の中、少女はうっすらと積もった雪の上、つい今しがた己がつけた足跡の上を辿って喜多川のすぐ間近にまで歩み寄った。
「きみは自分になにもないなんて言うけど、なにもなくなんてないよ。きみは優しくて、親切だ。それは、なにより、私とずっと友達でいてくれたことが証明している」
慰めの言葉は逆効果だった。喜多川は胸を抑えて首を左右に振った。
「お前と友人でいられたのは、俺がお前に自分を重ねて、お前に寄り添うことで己を慰めようとしていたからだ。こんなの誰が聞いたって、俺を浅ましいと言うだろう」
「私をそんな人たちと一緒にしないで」
傲慢な物言いだった。笑いこそしなかったが、気を削がれるくらいには。
ポカンとする少年に、畳み掛けるようには告げる。
「忘れているみたいだから言っておく」
「なに……」
「私が今、きみの言う母の愛とやらに包まれて生活できているのはきみのおかげなんだ。忘れてしまったとは言わせない。私はきみに、私を助けてくれるかと問いかけた。そしてきみはその通りにした。約束を果たしてくれたんだ。そうでしょう」
「それは、あの時は」
「言い訳しないで。きみは私を助けた。これは事実なんだ。たとえきみがどれだけ否定しようとも、しなければよかったと後悔しようとも、私という存在がある限り、きみは決してこの事実から逃れることは出来ないんだよ。私はきみが、優しくて、親切で、傲慢なところがあって、そして才気と勇気に溢れた人物であることの証明なんだ」
自信深げな様子の少女に、喜多川は呆然としながらそれを見下ろすしかなかった。
痛いほど真っ直ぐに見上げてくる瞳には侮られたことに対する怒りが燃えている。
侮ったわけじゃない。ただ、置いて行かれそうな気がして恐ろしかったんだ。
言葉にしようとして、しかしそれを不得手とする少年は困り果てる。なにかを言えばいいのだとは分かるが、なにを言ったらいいのかが分からない。
ただ、目の前で口を閉ざしてじっとこちらを見つめてくる少女をあまり待たせたくもなかった。
だからというわけではないが、彼はまだざわつく胸の内をただそのまま吐き出した。
「俺は、お前に嫉妬しているんだと思う。うん、そうだ、自分で助けたくせに、お前が幸福そうな姿を見て嫉妬しているんだ。助けなければ良かったと。しかし同時に嬉しくもある。お前を救うことができて本当に良かったと」
言葉として外に出すと思考がまとまるのがよく分かった。またが律儀に頷いて返してくれるから、なおのこと彼は饒舌になって、必死で己の中のからまったものをほどいて一つずつ並べ立てる。
「俺とお前は同じだと思っていた。お前は俺だと、だからお前のそばにいて、救いになれれば、自分自身も多少なりとも救われるんじゃないかと……」
少年の手が拳を作って痛みを感じるほどきつく握り込められる。外気に晒され続けた指先は冷え切って、摩擦による小さな刺激にも痛みを訴えている。
それでも彼は続けた。
「でもそうじゃなかった。お前と俺はそもそも根本から違っていた。お前の母親は、円さんは生きていて、お前を心から愛している。お前が羨ましいんだ。今はただ、お前になれたらいいと……でも、そんなことは叶うはずもないんだ。死んだ人間が生き返らないのと同じように……」
声は掠れ、ほとんど囁きに近かった。距離が近くなければ聞き取れなかったかもしれない。
「どうして……」
続く声もまた。
「どうして母さんは死んでしまったんだろう。俺をおいて。死にたくて死んだわけではないだろうが、それでも、どうして……」
それはほとんど独り言のようなものだった。彼はほんとうにただ、思いつくことをそのまま口にしていた。
はやはり頷いて、腕を上げて握られた拳を取ってそれをほどかせた。それはあたかも自分の存在を彼に思い出させようとするかのようだった。
「過ぎたことは戻らないよ」
「分かっている」
「でも、想像は自由だ。もしもきみのお母さんが生きていたら、こんなふうに私が必要とされることもなかったかな」
残酷な問いかけだった。少年は小さく肩を震わせて、のいない世界を思い描いた。
おそらくきっと、それはそれで上手く回るのだろう。もしかしたら彼女の存在がない分、かえって苦労は少ないかもしれない。
「きっとここには居ないんだろうな。お前の名前も声も、姿すら知らずにどこか別の場所で生活しているかもしれない」
消え入りそうなほど小さく囁かれた声は申し訳なさそうに震えている。はふっと口元を緩ませた。
「きみがこんな風に震えるくらいならそっちの方が良いかもしれないね」
「馬鹿なことを言うな」
「きみが言い出したんじゃないか……それに、私にとってはそちらのほうがいい」
「どういうことだ」
「自分よりもよっぽどきみのほうが大事だってこと」
それはどういう意味だろうかなどと考えるまでもなかった。そもそも、こうして一緒にいる時点で答えを得ているようなものだ。
そうでなくたって、喜多川はずっと前から知っていた。
ただ、今それが実感となって降り掛かっているだけのこと。
は苦笑して手を離し、芝居じみた仕草で両腕を広げた。
「そうは言ってもきみの望みを叶えてやることはできないんだけど」
「そんなことは」
無い、と言おうとした声は小さな笑い声に押し潰された。
「それでも、力になってやりたいと思う気持ちは本当なんだ。だから……」
少女は顔を上げて、腕を伸ばして喜多川の頬に手を添えた。少しだけ背伸びをしてまたさらに伸ばし、目尻を拭う。
「泣くんじゃない。男の子でしょ」
別に泣いたりなんかしていなかったが、それでも目元に添えられた手は暖かかった。咎めるような口調と声も。籠められた優しさと相反しながら同居する厳しさは少年をすっかり許している。
そもそも彼女は特別怒ったりもしていなかったが、少なくとも彼の気を楽にさせるだけの効果はあった。
少年は反論できなくなって、項垂れて彼女の肩口に顔を埋めた。
「死んだ人間を生き返らせることができたらな」
「それはやってはいけないと思う。そんなことをしたら、ただでさえ人口過多の地上が人で埋まってしまうよ」
「それなら、どうすれば俺が本来得られていたであろうものを取り戻すことができるだろう」
「わからない。でも、約束する。力になってみせるよ」
今度こそ言葉を失って、少年は黙り込んだ。
胸にあったはずの痛みはすっかり消え去っている。あたかも失われていたものがすっかりそこに収められたかのように。
もうずっとこのままこうしていたいとさえ思えたが、黙っていることに堪えられなくなって迂闊なことを言ったばかりに少女は離れてしまった。
「……お前の頭の上に、さっきから雪が積もってる」
告げるなり、は身を捩って肩に乗った喜多川の頭を放り出し、慌ててフードの上の雪を払い落とした。
そのまま、憮然とする喜多川の腕を引いて屋根のあるあずま屋まで避難する。幸いなことに風は強くなかったから、ベンチはどれも乾いていた。
「はい、ほら、座って。すぐそこに自販機があるから、温かいものでも買ってくるよ。きみがまだここに居たいって言うんならね」
どうする? と問いかけられて、喜多川はやっぱり拗ねた様子で首を左右に振った。
「ここに居るが、飲み物はいらん」
「寒くないの」
「寒い」
「ほらみろ」
「だから……」
「なに?」
「……だから」
少年は、恥じらうように目をそらし、それでも両腕を広げてみせた。
せっかく暖かかったのにどうして離れてしまったんだとでも言わんばかりのむくれた様子だ。その意味が分からぬほどの頭も凍りついてはいなかった。
「寒いんだ、あまり待たせないでくれ」
ダメ押しとばかりに拗ねたような口調で言われてしまうと、もはや少女は逃れることもできない。はじめからそんな気もなかった。
誘われるまま中に入るのを見るや、腕は直ちにその細い身体に巻き付いた。身長差の関係でちょうど胸部に顔をうずめるような形になってしまったのは不可抗力というものだった。
ともあれ、少女もまた腕を伸ばして彼の頭を抱え込む。すると少年は猫のようにそこに頬を擦り付けた。
「」
「ん」
「もう少し肉をつけてくれ」
「ブッ飛ばすぞ」
「いやすまん、違うんだ。骨が……胸骨が当たって……」
「そ、そのうち成長します」
「是非ともそうしてくれ」
「ふん」
少年は胸の内で「頼めばまたこうしてくれるんだな」と思ったが、口にはしないでいることにした。余計なことを言って、また離れられてはたまらない。今はどうしたってこのぬくもりを手放したくなかった。
それはきっと少女のほうも同じなのだろう。落ち着かなさげにつま先で床を叩きながら、それでも動こうとはしないでいる。
やがて彼女は白い息を吐き出しながらどこかぼんやりと語り始めた。
「私たちはまだ子供なんだから……肉体も精神も、まだ成長の余地があるんだ。背だってまだ伸びるだろうし、心もいつかは落ち着きと言うものを得るんだろうね」
聞くともなしに耳を傾ける。すると彼女はぼやくように言を重ねた。
「きみはそろそろ止まってくれてもいいけど……」
「なにが?」
「身長。これじゃいつまで経っても追いつけないよ」
ため息が少年のつむじにふりかかった。それに彼はなんだと苦笑する。相手の成長を恐れているのは自分だけではなかったのか、と。
そう思うと、今度は苦労することもなく言葉を紡ぐことができた。
「大人になったら、失敗や後悔は減るんだろうか」
「どうかな。なってみないと分からないよ」
「うむ、それもそうだな。なあ、でも、。大人になったら……」
「うん」
「俺にももう一度家族を得るチャンスが巡ってくるんだろうか」
不安げに揺れる問いかけには、一呼吸の間すらおかずに答えが与えられた。
「当然でしょう。きみほどの人を世の女性が……あるいは男性や、それ以外の性別の人だって、放っておくもんか。選り取り見取りだ。一番きみのお眼鏡に叶う人を選べばいいよ」
どこか自慢げに吐かれた台詞には確固たる自信と賞賛が込められていた。しかし、少年は小さく首を左右に振る。
誰も彼もじゃ意味がないんだ。もしそんな未来があるのなら……
言おうとして何度も口を開くのに、言葉は喉に貼り付いて出てこない。
そして思う。どうしてこの子はここまでの献身的な愛を捧げてくれるのに、こちらの気持ちには気がついてくれないんだろう? と。
どうしたら分かってもらえるんだろう。こんなにこの子のことが好きなのに。他のことなら大抵は勝手に読み取って先回りしてくれるというのに、どうしてこればっかりは伝わらないのだろうか……
そこではたと気が付いて、喜多川は難しい顔をつくった。
なんでこんなに簡単なことに気が付けなかったのか。要求したいところがあるのなら言えばいいんじゃないか。
喜多川は勢いよく顔を上げて身体を引き離し、立ち上がって少女の華奢な肩を掴んだ。
「!」
「はいっ!」
勢いに押されてか元気よく応じたに、少年は己の欲するところを率直に伝えようと口を開いた。
「俺はお前に言わねばならんことがある!」
「と、唐突だね。なに?」
「お……」
お前のことが好きだから、恋人になって欲しい。と、言おうとして、しかし彼はそこで思考を差し挟んでしまった。
……恋人になって、それで何が変わるんだ? 今だって十分ただの友人以上の関係で、それで満足できているのに。
然らばよく考えてみるべきだろう。……これは過ちであった。
畢竟、恋人とは法律的に強制力の無い契約関係の一種だ。互いに定まった相手がいるのだから、無為に他の異性―――あるいは同性、その他―――を惑わすような真似をするな、と。しかしこれは法によって定められたものではなく、あくまでも個人間で交わされる約束でしかない。その約束をきちんと守るか否かは個人個人の倫理観に大きく委ねられる。
しかし現状を鑑みて、が他の異性、あるいは同性、その他に懸想するような様子はない。もちろん自分だって。ただ、高巻あたりに全力で誘惑されたとき、二人ともがそれを跳ね除けられるかと言われると怪しいものではある。しかしこれはどちらかと言えば当方ではなく先方の問題だろう。だからこれも、現状から特別変化する要素とは思えない。
では肉体的な接触を伴ったスキンシップか。……つい今さっきまでしていたのはなんだったんだ?
であれば、恋人とは即ち、口づけをする権利か? しかしそれも、今しようと思えばできるではないか。目の前の少女も拒まないだろうという自信はあった。
そうなると、つまり、突き詰めれば結局最終的な目的は生殖行為なのではないか?
……
……生殖!?
愕然として、喜多川は後退った。
「祐介? どうしたの、さっきから」
喜多川は慌てて、大きく首を左右に振った。ふらついた拍子にベンチですねを打ってどすんと座り込む羽目にすらなる。
最高にかっこ悪かった。
それでもはわけが分からないなりに楽しそうに笑って、その隣に腰を下ろすのだ。
喜多川は再び彼女の存在がない世界を思い描いた。やっぱり、それはそれで上手くいくだろうと思える。なにしろ彼には最高の仲間が付いている。失敗や後悔なんてあるはずがなかった。あったとしても、それは全然大したことではないだろう。
しかれども、この喜多川祐介にはここが居場所に他ならない。
己の失態と先走った思考を振り払って背すじを伸ばす。ついでに彼は言わんとしていたこととまったく別の話題を投げかけることで見事に誤魔化してみせた。
「何故パレスが生まれるのかその理由が分かった気がする」
は首を傾げている。それが言いたかったことなのか、と。
喜多川は誤魔化しと誠意を込めて言を重ねた。
「彼らにはお前がいなかったんだ」
はてとはなおも首を傾げた。
「俺にとってのお前がいなかったんだ。心が腐って折れ曲がりそうなとき、支えとなってくれるような存在がな」
これに彼女はいかにも照れくさそうに頭を掻いた。満足げに微笑みもする。
「そっか」
二人の腕は隙間なくぴったりと寄り添っていて、触れ合った手はごく自然な形で繋がれた。
充足感に息をつく。先に想像したような口づけや生殖行為より、それは深く彼を満たしていっぱいにした。
「お前にパレスがあったのもきっとそう言うことだろう。今はそれが、とても悔やまれる。俺はお前にとっての支えにはなってやれなかった」
「それは……仕方がないんじゃないかな。私自身が拒絶していたのだし。それに……」
繋いだ手に力が込められるのを感じ、喜多川は首を巡らせてを見やる。彼女は喜多川を見上げ、照れくさそうに笑っていた。
「今は違う。お互い様だ」
喜多川は応えるように手を強く握り返した。指先や手の甲は凍り付いたように冷えているのに、触れあった手の平だけは燃えているかのように熱かった。
その感触を確かめながら彼は言った。
「俺の言った通りだったろう」
「なにが?」
「俺にはお前が必要だ、と」
はぽかんとして、幾度か瞬きを繰り返した後、声を上げて笑った。
「ひどいこじつけだ! あのとき、きみはこうなることを予測していたわけじゃないでしょう」
「何故そう言い切れる? はじめからこうするつもりだったかもしれないじゃないか」
「いいや、きみは絶対にそんなつもりじゃなかった」
「だとしても、俺にお前が必要なことに間違いはない」
笑いあって、二人はしばらくずっとそうしていた。
雪はずっと降り続いていたが、不思議と寒さは感じなかった。繋いだ手から伝わる暖かさで十分だったのか、あるいは単に感覚が麻痺しているだけなのかもしれない。
ただ、暖かさは沈黙の中にもあるようだった。
雪が降り落ちるかすかな音に耳を傾けるなか、ぽつりとが漏らす。
「私もきみに聞いてほしい話があったんだ。ちょうどいいから、今言うよ」
「ん?」
「進路の話をしたよね」
「ああ……決まったのか?」
頷いて、少女は満面の笑みをたたえて少年を見上げた。
「私やきみや、皆のような人を助ける仕事がしたい」
「というと?」
「どこにも逃げ場がない子供を守るんだよ。変かな。もっと変なことを言うけど、つまり、私は、守護者になりたいんだ」
ガイウス・マエケナスが文化の守護者であったようにね。
誇らしげに夢を語る少女の瞳には強い輝きがあった。少年はいまやすっかりそれに魅入られて、返事をすることも忘れていた。
「必要のない重荷を背負わされた誰かと、苦難によって逃げ出すことすら忘れてしまった誰かを守るための存在だ」
「ほんの少し前の俺たちのような?」
「そう。大人は、怪盗団にお任せします」
「なるほど。いいんじゃないか? 俺としては、共に歩めないことは少し残念だが……」
少しばかり消沈したその鼻先には、しかし繋いでいないほうの指先が付きつけられる。それは制止を呼びかけていた。
「話は最後まで聞くべき」
「ん」
頷いてみせると、は深呼吸を行って、それからゆったりと己の得た結論を語ってみせた。
「具体的には、児童福祉司を目指します。だから、大学は心理学か教育か、社会学を専修できるところに行くよ。可能なら、社会福祉士の資格も欲しいね」
「ふむ」
「とにかく一年以上の実務経験を積んで、それから地方公務員試験を突破」
「うむ」
「それで児相にお勤めします」
「なるほど」
「そこで、未来の怪盗団候補生をこっそり育成する!」
これは多分に冗談めかしていたが、しかし真剣ではあるのだろう。喜多川はこのいかにも質の悪い冗談に乗ってやった。
「英才教育というわけか」
「そう!」
応えて、少女はいかにも楽しげに笑い声を上げた。とはいえ時間が時間だ、慌てて口元に手を当て、声を潜めて笑いを噛み殺す。
ふうと息をついて、彼女は今度こそ静かに、穏やかな声で続けた。
「でも、これは一人では到底成し遂げられない」
「自信がないのか?」
「そうかもしれない。だから……」
言い淀んで、言葉の代わりにか握られた手に力が籠められる。
それで十分だった。少年にはもはや欠けたるところなく少女の欲するところを汲み取ることが可能だった。
高い蓋然性を伴って彼はこたえた。
「俺の力が必要か?」
そして少女は確かに首を縦に振る。
「うん。私を助けてくれる?」
「何度も言わせるな」
「最後まで?」
少女はまた、今度は小さな笑い声を上げた。少年も釣られて笑みを浮かべる。そこには確固たる自信があった。
「当然だ」
「そっか」
「礼の言葉は、終わるときに受け取ろう」
「うん」
「だが、勤め先には早めに目星をつけておいてくれ」
「こちらが指定できるものでもないから難しいとおもうけど……どうして?」
「俺にも都合というものがある。アトリエを構えるのなら内見は早い方がいいだろう」
「ついてくる気?」
「駄目なのか?」
「いや、駄目ではないよ」
「ならいいだろう。それに、お前がやっと『一人前』になる頃には俺はとっくに画家として大成しているだろうから、そばで生活できればしっかり面倒を見てやれるぞ」
「面倒を見る? きみが? 私の? どの口が言うんだか」
「俺たちにまだ成長する余地があると言ったのはお前だろうに」
ふっと口元を緩めて、は息をついた。喜多川を見上げる瞳には挑戦的な光が宿っている。
「言ったな。それなら頼りにするから、覚悟しておきなさい。私は金のかかる人間だよ」
少年はその挑戦に受けて立った。
「いいだろう。お前一人程度、どうということはない」
重々しい内容の軽口に二人は今度こそ声を揃えて、時間も場所も憚らず笑い声を上げた。とっくに夜半を過ぎて深更に至った住宅街は雪の降り積もる音さえ響きそうなほど静まり返り、子供らの笑声もまたよく響いた。
もしかしたら咎められるかもしれないと思えたが、それでも堪えることはできなかった。
だってこんなに楽しくて、胸がすくような想いでいられることはそうそうあることではないのだから、今くらいは無作法を許してもらいたかった。
「はあ、ああ……笑い過ぎた……ふふ、きみのそういう、自信満々なところには本当に惚れ惚れするよ」
「惚れ直したか?」
「馬鹿なことを言わないで」
肩をぶつけて、少女はそのまま少年の腕に頭を預けて寄り添った。
「そんなのは、会う度にしているよ」
―――結局、雪が降り止んでも終電の時間をとっくに過ぎてしまったから、喜多川は家に始発の時間まで避難させてもらうことと相成った。
朝の支度に慌ただしく走り回る円は知らぬ間に訪れていた客人に驚きはしたものの、別段咎めることもなく、かといって改まった歓迎をするでもなく「すぐにお暇しますので」と述べる少年を受け入れた。
背筋を伸ばしたまま、喜多川は忙しくする円を眺めて思う。
彼女は本当に『サユリ』とは……自分の母とは似ても似つかないな、と。気の強そうな目つき、大きな口、肌は冬だというのに少し日に焼けている。
けれど彼女は間違いなく母親だった。娘とその友人を見つめる目にはこぼれんばかりの慈しみが溢れている。
改めて観察すれば娘であると似ている点はいくつも見受けられたが、それを差し置いたって美しい人だと思えた。
顔のつくりの美醜ではなく、一つの家庭の経済資本を支えるだけの生命力の強さがそう思わせているのかもしれない。
また彼女は遠慮しなくていいとまで言ってはくれたが、点呼の時間が近づいている。消灯時間に居なかったことは誤魔化せてもこちらは難しいだろう。
「本当にもう大丈夫だね?」
「そうだと言っているだろう」
門扉の外まで見送りにきてそう言った少女にどこか拗ねたような調子で返す少年の頬は照れているのか微かに朱に染まっている。
「そっか」
短く応えては勝ち誇ったように笑った。快活なその笑みに救われたような気持ちになって、喜多川もまた笑みを浮かべる。
漏れ出た息は冷え切った外気によって白く染まる。氷点下にこそ達していないだろうが、0℃には近いのだろう。ふと時計を見ればもう六時をとっくに過ぎていた。
「では、俺は帰る」
「うん」
後ろ髪を引かれる思いでなんとかそれだけを言うと、はやはり笑顔でこたえた。
別れがたいと感じているのは自分だけかとまたいじけた気持ちになりそうになるのと、が次の言葉を重ねるのはまったく同時だった。
「またね、祐介」
次があることを示唆する言葉に不平や不満は一時に吹き飛んだ。なにを腐っていたのかを忘れてしまうほどに。
喜多川は笑みを浮かべて踵を返し、歩き出した。
気がつけば空が幾らか白み始めている。日の出の時間だったのかと思うと途端に眠気が襲い掛かる。あくびを漏らし、住宅街の角まできたところで彼は振り返った。
はまだ門扉の前に佇んでいる。部屋着のままの彼女の姿はいかにも寒そうで、短い時間外に出ただけだというのに鼻や頬が真っ赤に染まっているのが遠目からでもよく分かった。
振り返った喜多川に気が付いたのだろう、は小さく片手を上げて振ってみせる。
ちょうど、その背後の住宅の屋根から太陽が顔を見せ始めた。常緑樹や家々の外壁を黄金に染め上げ、深く濃い影が落とされる。はっきりとした明暗のコントラストに目を細めたのは何も眩しいからというだけではなかった。
冬の太陽高度は夏と比べると大きく落ちる。これが春夏秋冬の気温の差を生み出しているのだと習ったのは中学生の頃だったか、高校に入ってからだったか……
低い位置を這うように回る太陽の輝きを背から浴びる少女の姿は、まるでそのもの自体がかすかに発光しているように見えた。
その姿を見て、少年はただ単純に、なんの打算も思惑もなく、きれいだと思う。
黄金の輝きの中、己だけを見て手を振る姿……そのあまりの眩しさに目を細める。
体の奥からはこみ上げるものがあった。胸がぎゅうっと締め付けられるような感覚……そこに痛みはなく、ただ彼女の暖かな手のひらの感触が思い出される。むず痒さに堪えきれなくなって、少年は思わずとその名前を呼んでいた。
「!」
少女の瞳に疑問符が浮かぶのを見て、少年はらしくなく頬を赤く染めた。
―――自分は今、何を言おうとした? 彼女の名前を呼んで、それからなんと言うつもりだったんだ? また馬鹿なことを考えて、かっこ悪いところを見せるつもりか?
吐き出された呼気には感嘆の声が乗せられるばかりで言葉にならない。そうとも、想いや考えを言葉にすることは得意じゃない。
「い……今、描きかけの作品があるんだ! 夏から描き始めたものなんだが、ずっとどう描けば良いのか解らず筆が止まっていて……でも、完成させられそうだ。お前のおかげで……やっと、足りないものがわかった。だから、出来上がったら、一番にお前に見て欲しい!」
少女はこれに大きく頷いてみせた。
たったそれだけのことに少年の心は大きく弾む。天にも昇るような心地とはこのことかとさえ思えた。
「じゃあ、また……連絡する!」
少女は口に手を添えてこたえた。
「うん、待ってる」
それは絵の完成か、それとも連絡をだろうか。あるいは、その両方かもしれない。
喜多川は笑って、再び歩き出した。
ますます上りつつある日の出の輝きは彼の背もまた黄金に染め上げていた。