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26:Every man is the architect of her own Fortune
時計は夜の八時を指している。はまんじりともせず、自室の寝台の上に腰かけてじっとそれに目を向けていた。
……母の帰宅はまだ先だろう。今日は遅くなると連絡があったから、次に顔を見るのは翌日の朝か、最悪明日の放課後になるかもしれない。
母がそうして働くのは生活のためだ。そのおかげで自分は何不自由なく暮らすことができているのだから、帰宅が遅いことに感謝や心配こそすれ、不満などあるはずもない。
いずれ自分もそのようにする日が来るのだろう。それは母に倣うのではなく、己の意志として。
ビジョンは相変わらず漠然としているが、若干の変化があった。数日前と違って言葉が伴っているのだ。
『お前の将来の夢は、怪盗団!』
まったく子供じみた発想だと一笑に付すこともできる文言だ。実際、彼女は一度そのように対応した。馬鹿々々しい、安定感が無いではないか、と。
しかしこれを否定する者が現れる。
誰あろう、新島真である。
恥を忍んで進路の相談を持ちかけたに、他の者が言う通り彼女は喜んで集合場所のファミリーレストランに駆け付けてこう言った。
「いいじゃない、怪盗。本業にしてみたら?」と。
なんとも明快な答えであった。
ぽかんとして言葉を失ったに、新島はまた重ねて
「もちろんそのままの意味じゃないわよ。竜司もたぶんそういうつもり……か、どうかは分からないけど……とにかく、私たちのしていること、つまり誰かの悪事を暴くような……」と思案してみせる。
はうーんと唸って、静かにこたえた。
「探偵……?」
「彼と被るわね」
失言だったと咳ばらいを一つ。新島はならばと別の提案をしてみせた。
「じゃあ、別の方面から考えましょう。誰かを助けるような仕事や研究の道に進むのは? 嫌な言い方だけど、そういうところにも私たちのターゲットはいるだろうし、そうなってくれればこちらのシゴトにも有利になるわ」
「それは、私も考えたんだ。人の助けになれるような……でも、具体的になにかって考え始めると……こう、ぐるぐるって」
中空をかき混ぜるように立てた人差し指を回すに、新島は然りと頷いてみせる。
「一口に言っても色々あるものね。福祉や社会貢献に貧困支援……自衛隊なんて手もあるか」
「……空自にいったらブルーインパルスに乗れるかな?」
「その気なら止めないわよ」
「止めて」
「じゃ、やめときなさい」
「はーい……」
項垂れたに新島は小さく笑う。それは呆れを多分に含んでいたが、彼女は微笑ましさも感じている様子だった。
「いつもしているようにしてみるのがいいかもね」
「ん?」
言葉の意図を掴みかねて首を傾げると、答えるように新島はスマートフォンを取り上げてみせた。
「ターゲットを絞り込むのよ。そうね、まず、場所はここ。少なくとも都内か近郊。祐介と離れたいわけじゃないんでしょ?」
「うっ、ぐ……まあ……はい……」
「よし。次はキーワード。これは人助けってことでいいかしら」
「うん」
「そして名前は、ね」
くすくすと小さく笑って、新島はスマートフォン上に表示されたイセカイナビにの名を入力してみせる。
もちろんそれは戯れだし、そもそもペルソナ使いとして覚醒した今の彼女にパレスは存在しない。ただ、新島はアプリ画面に目を落として、ほんの数ヶ月前のことを懐かしむように呟いた。
「楽園、か」
「え?」
きょとんとした対面の様子に、新島はスマートフォンの画面を示して答える。
「あなたのパレスに侵入するためのキーワードよ」
「ああ……そっか、そうだったね」
「きれいだったわ、すごく。はその状態を知らないんだよね」
「うん。私が入ったときにはもう地下水道のような姿になっていたし、その後はお母さんのだったから」
でも、ともまた懐かしむような、照れくささを隠しきれないような表情を作って視線をさ迷わせる。
やがて少女はいかにも恥じらいながら口を開いた。
「一応、知ってる、というか……見せてもらったというか……」
「んー?」
「だから、あの、祐介が……」
もごもごと口の中で呟かれた不明瞭な言葉に、しかし新島はぽんと手を打って薄っすらとした笑みを浮かべる。面白がっているようにも、興味深く観察しているようにも見える笑みだった。
「ふう〜ん、そう。なるほど」
「あああぁ……」
墓穴を掘ったと頭を抱えるに、新島は小さく声を上げて笑う。
「ふふっ、あははっ、って本当にかわいいわね」
「やめて。ああ、黙っていればよかった……」
「あら、どうして? 秘密の共有は友情の証明でしょう?」
追い打ちであった。は項垂れてテーブルに顔を突っ伏した。
「あなたってどこか抜けてるのよね。そういうところが可愛げに繋がっているんでしょうけど……なるほどなぁ」
「真ぉ……」
「はいはい、ごめんなさい。そうね……」
おざなりな謝罪には頬を膨らませたが、新島は構うこともなくスマートフォンから手を離して仕切り直した。
「人助けと言うけど、あなたが助けたいのは誰なの?」
「誰?」
おうむ返しに、新島は首肯して応える。
「私たちのシゴトだってターゲットが決まらなきゃ始まらないでしょ。あなたの進路も同じこと」
助ける対象を選ぶとは、には無い発想であった。
なるほど、これは確かに独りでは難しい。感心するのと同時に腕を組んで考え込む。
「いいのかな、選んだりなんかして。困っている人を助けるのに、その対象を選ぶなんて傲慢なふるまいじゃないか」
問いかけたに、新島は肩をすくめた。
「そうは言っても、全ての人は無理よ。の手は二つしかないのだし、片方は予約済みでしょう?」
はなんと答えることもできなかった。それはからかわれたからというだけでなく、単純に返す言葉を見失ったからだった。
ただ、幾人かの知り合いの顔を思い返している。今まで関わってきた多くの人々……それには目の前の少女のものも含まれていた。
もしも本当に誰かを助けることができるのだとして、そしてそれを選ばなければならないとして……
……
少女の意識は眠りから覚めるように現在に戻った。
彼女は相変わらず自室の寝台の上に腰を下ろして、じっと壁に飾られた絵を見つめている。
美しい木々と花々が細部まで描き込まれた情景にうっとりと見入るその手には、色あせた作り物の花が乗せられている。花弁に対して大きすぎる葉に拙い文字で『おかあさんいつもありがとう』と書かれたそれは、視線の先にある絵と比べればずいぶんと稚拙で、ところどころがテープで補修されている。そのテープも経年の劣化によってわずかに黄ばんでしまっていた。
それでもそれは彼女にとっての宝だった。この世に二つとない至宝だ。
目の前にある絵のように命が吹き込まれている。たとえ紙の作り物だとしても……
少女の耳にはまた波音が蘇った。重なるように低い声も。
『……ああ、そうだな。、俺を助けてくれ』
たったそれだけのことで胸が高鳴るのが分かる。ただ声と言葉を思い返したというだけで。
そばに居られるだけで満足だと思っていたのに、ずいぶんと遠いところまで来てしまった気がすると少女は思った。
ただそばに居て、彼と彼の生み出すものを見ていられればそれでいいと。
今は違った。ただそばにいるだけでは駄目なのだ。負けたくないと思う。
それは偉業を成し遂げたいというわけではなく、同じ土俵で張り合いたいというわけでもなかった。
ただ、そばに居て力になるだけでは嫌だった。そんなことは凡百の者にでも出来るではないか。
それは嫌だ。代わりのある役割ではもはや満足など出来ない。もっと特別でありたい。認められたい。彼と同じように、大きな目標に向かってともに進みたい。
私にだってそれをするだけの力はあるはずなんだ。
そのように誰かを助けることができるのだと気が付かせてくれたのは他でもない彼なのだ。
新島は言った。あなたが助けたいのは誰なの? と。
坂本などはまったく子供じみたことに、怪盗業を本業にしてしまえば良いなどと言う。
ふと目線を寝台の枕元に向けると、その坂本がくれた黄色のぬいぐるみが転がっている。
逃げ場すらない人たち―――
言葉に和光少年の姿が思い出された。あの無邪気な怪盗見習いの笑顔……
は立ち上がって、勉強机の上で充電中のタブレット端末に手を伸ばした。
……
屋根裏部屋に二人の少年が差し向って黙り込んでいる。
階下からかすかにテレビの音と少ない客の話し声が聞こえてくる程度に静かな中、ストーブの前で丸まった猫がときおりむにゃむにゃと寝言を漏らしたりする。
目だけで部屋を見回して、部屋の主はぼんやりと思う。四月にここへ押し込まれてから、ずいぶん物が増えたな、と。
元々物置として使われていた空間だから雑然としてはいたが、気が付けば彼の持ち物のほうが多くなっている。彼が実家から送らせた物だとか、こちらで購入した物だとか……あるいは、親しい友人たちから押し付けられたり贈られたりした物で溢れかえっている。
自然と少年の口元は緩んだ。柔らかな笑みをたたえた姿は、彼の本質を物語っているようでもあった。
「動くな」
唐突にかけられた声に、少年は呻いて硬直する。
「……まだかかる?」
問いかけとともに目線を向けた先には膝にスケッチブックを抱えて素描を行う喜多川の姿がある。
放課後になって唐突に屋根裏に押し掛けた彼は、これもまた唐突なことにモデルになってくれと言い放った。
どうせまだ気軽に表を出歩くわけにはいかない身分だと快諾したのが運の尽きだった。少年はもうとっくにじっとしていることに飽きて、足先を落ち着きなくゆらゆらとさせている。
「もう少し」
答えた喜多川に、少年は目を細めて唇をつき出した。
「さっきももう少しって言ったよな?」
「動くと伸びる」
「くそ、なんだって俺なんだ? しかもヌードじゃなくていいのか」
特別脱ぎたいわけではなかったが、からかい半分に言ってやる。
しかし喜多川はなんの感慨もなく首を左右に振るだけだった。
「今はお前の顔が欲しい」
「顔?」
怪訝な表情を浮かべた少年に喜多川は然りと頷き、手にした鉛筆の先を突き付けると輪郭をなぞるように動かした。
「最近のお前の顔は面白い」
発言に少年はますます怪訝そうになる。
「今までつまんなかったですかね」
「そういうわけじゃないが……これまでずっとお前の顔にかかっていた薄皮のようなものが取れたからな。前よりずっと魅力的と言える」
まったく素直な賞賛の言葉であった。思わず返す言葉を忘れてしまうくらいには。
少年はだらしなく椅子の背もたれに身を預け、足を投げ出して天井を仰いだ。
「あ、動くなと言ったろう」
「うるさい。祐介までそういうことを言いだすか」
「まで?」
じろりと喜多川を睨みつけて、少年は語気を強めて言う。
「竜司だよ! 今までの仕返しみたいに昔のこと掘り出してからかってきて……くそ、あいつ、どうやって俺の……卒アルなんて手に入れたんだ……」
竜頭蛇尾とばかりにかすれて消えそうなほど弱まる声に、喜多川の手元でスケッチブックが閉ざされる音が重なった。
唐突なその行動と音に小さく肩を震わせた少年を置いて、猛然とした勢いで立ち上がった彼はいかにも不愉快そうな顔をしている。
「度し難い!」
「え、あ、だ、だよな? 人の恥ずかしいところをわざわざ……」
かすかに浮かび始めた喜色は、しかし直後喜多川によって叩き潰された。
「竜司め、なぜそんな興味深いものの存在を俺に教えん! 今すぐやつをここへ呼べ!」
少年は立ち上がって、作業机の上に並べたぬいぐるみの一つを友人の顔面に向かって投げつけつつ叫んだ。
「呼ばねえし呼ばせねえよ!!」
白と黒のクマのような風船のようなシルエットのぬいぐるみは鼻筋にクリーンヒットして床に転がる。喜多川は呻いて椅子に戻された。
すると騒がしさに猫がいかにも迷惑そうなあくびを漏らして、尻尾で床をびたんと叩く。
はっとして、少年もまた椅子に戻る。
「だいたい、つまんない顔してるのはお前のほうだろうに」
ふんと鼻を鳴らして言ってやると、喜多川は眉間にしわを寄せてわずかに俯いた。もはやデッサンに戻る気も失せたのだろう。描き上げたこの日の成果をためつすがめつ訴える。
「思い出させるな」
少年はやっぱり鼻を鳴らした。
「そう言うなら、人を現実逃避に使うなよ」
「うー……」
唸り声に威嚇の色は見受けられない。あるとすればそれは虚勢で、誰にだって見破れるようなはりぼてだ。
「だから言っただろう。既成事実を作ってこいって」
「拒まれたらどうする。今でさえ瀕死だというのに、この上それ以上を求めて拒絶されたらお前の胸に縋りついて泣くぞ。人目をはばからず。大声で」
「そんな脅しがあるか!」
「無責任なことを言うからだ。やっと諸々の問題が片付いたと思った矢先にこうでは、お前の冗談に付き合う余裕もない」
「コーコーセーとカイトウの二足のわらじは大変だな。いや、最近のシゴトは半分くらい俺の私事か。それがなければ……どうだったのかな。ごめんな」
「本気で言っているのか?」
「え?」
「三太郎、甚六、与太郎、馬太郎。好きなものを名乗れ」
また不思議そうな顔をする少年に、喜多川は大仰なため息をついてみせた。ストーブの前でぬくぬくとする猫もまた。
「なんだ?」
「いちいち言わせるな。お前もも、自分のこととなると途端に阿房になるのはどういうことなんだ」
「あ、えー……そういうこと?」
「ふん」
少年は困ったように頭をかいた。その表情は照れているようにも、拗ねているようにも見える。投げつけられて床に転がったままのぬいぐるみをやっと拾い上げて定位置に戻す仕草もどことなく落ち着きがなかった。
喜多川はじっとそれを見つめていたが、やがて窓の外に視線を投げてぽつりと呟いた。
「降りそうだな」
「雨男、傘持ってきてる?」
「ない」
「帰るとき降ってたら貸すよ。竜司の置き傘だけど」
指し示されたほうに目を向けると、そこには漫画本や雑誌、インスタント食品、衣類やゲームソフトの山に二本のビニール傘が立てかけてあった。
「もうあいつがここに置いてないものはないんじゃないか?」
「辛うじて歯ブラシと枕は阻止してるけど、時間の問題かもな」
やれやれと力なく頭を振って坂本の『巣』に歩み寄り、傘を一本取り上げて放り投げる。傘は危なげなく喜多川の手に収められた。
「最近は影響されたのか杏まで色々置いてくんだ。ほら」
言って、少年は棚の隙間を指し示した。なるほど確かにそこには高巻の私物らしき女性誌やペーパーバック、衣類がきちんとまとめられている。
整頓する気があるだけ坂本よりマシと受け取るべきか。
ぼんやりとそんなことを考える喜多川の鼻先に、高巻のシャツが広げられた。
「持って帰らないとニオイ嗅ぐぞって言ってやったら、あいつ、なんて言ったと思う?」
「さあ……」
「やれるもんならやってみろ、だとさ。祐介、嗅ぐか?」
「俺は犬じゃないんだが」
「でも興味あるだろ」
「うーん……まったく無いと言えば嘘にはなる、か……?」
「はノーウェイトで嗅ぎにいって柔軟剤の種類を突き止めてた。あいつの嗅覚なんなの? 試しに俺のもやってもらったらそれも正解だったんだけど……」
「なにをさせているんだお前は」
「ちゃんと洗濯したやつだから……」
まったくなんの益体もない会話に興じつつも、少年二人の目線は確かに高巻のシャツに引き寄せられていた。
こうして見ると、あの少女が華奢なくせに女性的なボディラインの持ち主であることを改めて突きつけられたような気になってくる。
袖も襟も、身頃の大きさも自分たちとは比べ物にならない。袖を通したとして、そもそも腕が入るのか、前立てのボタンは止まるのか。
二人はごくりと唾を飲み込んだ。
「……着る?」
「いや、駄目だろう。さすがに人として越えてはならないラインでは……」
「無防備に置いてくほうが悪くないか? 公正世界仮説だ」
「そうか? そうか。そうかもしれんな」
「そうだよ、俺たちは悪くない! 杏が悪い!」
「そうだな! これは杏の過失だ!」
「どうする!? 直でいくか!?」
「着ていたら入らんだろう! さあ脱いでくれ!」
「よしきた! じゃあ着るぞ! 着るからな!」
「早くしろ! お前の雄姿を見せてくれ!」
奇妙な盛り上がりを見せる二人は、しかしぴたりと動きを止めて、揃って丸まる猫のほうに目線を向けた。
あくびを一つ。モルガナは十二月の外気よりよっぽど冷たい目を返して言ってやる。
「どうした、やれよ。ワガハイ止めないぞ。寒いし、眠いし、アン殿には止めなくていいと言われてるし……ふわぁ~……」
上半身裸のほうの少年は静かに項垂れてもう一人に高巻の服を預けると、ゆっくりと己が脱ぎ捨てたものに袖を通した。
「なんだ、やらないのか」
「やらない……」
「えー……」
落胆とともに肩を落とした喜多川を放って、少年はわずかに冷えた身体を暖めようとストーブの前に陣取った。先客のモルガナが迷惑そうな鳴き声を上げたが、それはすげなく黙殺されてしまう。
するとそんな二人の背後から
「しまった」という声が聞こえてくる。
振り返った少年と猫が見たのは高巻のシャツの片袖に腕を通そうと空虚な努力をする友人の姿だった。
「腕くらいなら入るかと……」
「どうしていけると思ったんだ」
「あ……抜けない……」
「あーあ……」
地の底を突き抜けて奈落まで下がったテンションのまま袖を抜かせるのには、多大な努力を必要とした。
さておき、冬の陽は落ちるのが早いもの。すっかり暗くなった部屋に雨音が響き始めると、少年はいそいそとモルガナの食事の支度をし始める。
「祐介も食うか?」
「美味いのか?」
「バカもん、ワガハイの飯を食う気かオマエは。ニンゲンの飯だろニンゲンの」
「人間用のカレーな」
「ありがたくいただこう」
少年は両手を合わせて拝む姿勢を取った友人のすねを軽く蹴りつけながら階下に促した。
下に降りるとちょうど惣治郎が「洗濯物を外に出しっぱなしだった」と慌てて自宅のほうに戻るところだった。
傘を手に店を飛び出していった惣治郎を見送り、店番を申し付けられた二人はしかし客の来ない喫茶店の中で待ちぼうけを食らうこととなる。
「この雨じゃもう客も来ないだろうし、店閉めちゃえばいいのに」
「そういうわけにもいかんだろう」
洗い物をする少年を尻目に、扉のすぐ前にすべり止め用のマットを出しながら喜多川がこたえる。
切れ間なく続く雨音はホワイトノイズのようで耳に心地よかった。洗い終わった食器が重ねられるかすかな高音も丁度よいアクセントだ。
喜多川はいつもの特等席に腰を下ろして、『サユリ』に目を向けた。
これが己の母と言われてもいまいちピンとくることがないのは、母の顔を知らないからだろうかと思う。とはいえ抱かれている赤ん坊と己を見比べても、人間の成長というものに感心はしても確信は得られないのだから、そういうものなのかもしれない。
ただ、少年はいつも胸の奥が締め付けられるような切なさを覚えている。
それはちょうどこんな冬の日の雨の匂いを嗅いだときのような感覚だった。寂しいけれど不快ではない……
「もう分かってるからかな」
洗い物を終えた少年がカウンター越しにコーヒーを差し出しながら唐突に声をかけた。
喜多川は少しだけ驚いて、目を見開いて彼を見る。
すると少年はそんな喜多川と『サユリ』とを見比べて、いかにも楽しげな笑みを浮かべた。
「似てる気がする」
言葉の意味を掴みかねて、喜多川はまばたきを繰り返した。鼻先をくすぐる芳ばしいコーヒーの香りに促されるまま口に運んで、それでやっと彼は理解して、また『サユリ』に目を向けた。
「この絵と俺か? それは……まあ、母さんなんだから、当然と言えば当然なんだろう」
「オトコは母親に似るって言うしな」
少年の手元にもまたコーヒーが用意されている。まったく手際のいいことだと感心しきり、喜多川はその顔にじっと視線を注いだ。
「お前は母親似なのか?」
問いかけに、少年は一度小さく唸ってから答える。
「どうだろう、考えたこともないな。言われたこともない……かな。憶えていないだけかもしれない」
「ふうん。機会があれば見てみたいものだな」
少年は渋い顔でコーヒーをすすった。
「まあ……写真くらいなら」
「ああ、頼む」
頼むなんて言いつつ、喜多川だってこの少年の母親に積極的に会ってみたいというわけではなかった。本当に、機会があれば見比べてみたい、その程度の好奇心だ。
そうやって思考を巡らせると、ふとあることに気がついて顔を上げる。
「は父親似だったな」
「そうだったっけ?」
「少なくとも円さんとはさほど似ているわけではないだろう。まったく似ていないわけでもないが……」
「そう言われると、そう、か。意識して見たことないな」
他の皆はどうだろうか。思いつつコーヒーをまた一口、少年はちらりと喜多川に目をやりながら言う。
「この話、には言うなよ」
「なぜだ?」
「一応俺たちはの親父さんを知らないってことになってる」
「ああー……」
確かに、の父親の顔を知っていることを告げるわけにはいかないだろう。彼女はあまり父親を好いていないようだし、なにより盗聴の事実を知れば彼女はどう思うだろうか。
「一人一発じゃ済まされんな」
「同感」
苦笑し合って、二人はしばらく沈黙した。ちょうど階段を降りてきたモルガナが惣治郎の姿を探してきょろきょろとしていたが、彼もまた沈黙の輪に加わって雨音に耳を傾けた。
コーヒーの香りと雨音、目には美しい絵画。それに気の置けない友人が隣で同じようにしてくれていると思うと、喜多川は心の底から安らいだ気持ちになって様々なことに意識を向けた。
それは明日の天気や気温、授業の時間割などの日常的なことから、次の作品のテーマはなんにしようかといった切実な問題に、それから、手を離して走り出して行ってしまった少女のことも含まれていた。
……あの子はどうして、手を離して行ってしまったんだろう。
先を行くのはいつも、喜多川の役目のようなものだった。なにしろこの二人は身長差による歩幅のコンパスが大きく違っているから、気を付けていないといつでも喜多川が彼女を置いていく形になる。
だから彼女と歩くとき、喜多川はいつも後ろを気にしなければならなかった。ちゃんと付いてきているのか、人波に流されてしまっていないか。
手を繋げばいいのだと知ったのは彼女が手を繋ぎたいと求めたことがきっかけだった。そうしていると目を向けていなくてもそばにいることが触覚によって確認できたし、歩調を合わせるのも容易で、なんだこうすればよかったのかと関心もしたものだ。
けれどそれでは駄目だった。
いつの間にか隣に並ぶようになった少女は、ついに先を行くようになり、そして手を振り払ってずっと先を歩くようになってしまった。
そうとも、彼女は目をつけて見張っていないと、すぐにどこかへ行ってしまう。
もう一緒にいられないと言ったときのように。盗聴器まで持ち出されたあの騒がしい一幕のように。あるいは、唐津のパレスへ単身飛び込んで行ったときのように。そしてつい先日、手を離して走り出して行ってしまったときのように……
どうしたらいいんだろう。
喜多川は絵の中の母に問いかけた。
どうしたらあの子はずっと自分のそばで、笑ったり、困ったり、まったく怒ったりなんてしていないくせに怒ったふりをしたり、照れて恥ずかしがったり、意地悪な笑みを浮かべて自慢げにしたり……
今日のように静かに降る雨が意図していないのと同じように、ただそうであることとして隣に居てくれるんだろう。
絵画はなにも答えてはくれなかった。
当然だろう。どれほどの技巧を尽くして描かれた大作も、魂削って創り出された傑作も、言葉を喋ることはない。
絵はただ、人の心に直接訴えかけるだけだ。
こちらの投げかけに返るものがあったとて、それも結局は己の心でしかない。
喜多川は初めて、強く心の底から思った。
もしも母さんが生きていてくれたら、そうしたら、きっとこんなふうに思い悩むこともなかっただろうに。
気がつくと雨音は消えていた。
止んだのかと思いきや、店の外に目を向けると雨はいつの間にか雪にすり替わっている。
「あ! 雪!」
少年がはしゃいだ声を上げてカウンターから飛び出して、ドアから店の外へ顔を突き出した。
そういえば、彼の地元では雪はめったに降らないと言っていたっけ……
ぼんやりと思いながら、「なあこれ積もるかな」と言いつつウキウキしながら戻る彼に目を向ける。
喜多川はどうせ朝には溶けているさと答えて、そしてまた『サユリ』に目を向けた。
物言わぬ幽玄な笑みに己の面影を探したが、やはり彼には見つけることが出来なかった。
そして、彼は気付いて問いかける。
「分かっているから、と言ったな」
それはがっかりして再びカウンターに戻った少年に向けられていた。
「ん? ああ、知らないときは気が付かなかったよ。きれいな人だなとは思ったけど」
似ているなと思えたのは、『サユリ』が喜多川の母を描いているからだと知っているから―――
喜多川は静かにまばたきを繰り返した。
その指先がかすかに震えていることには、少年も猫も気がつくことはついになかった。
「ああ、そうか。そういうことか」
声はどこか諦観めいていた。なにかに気がついて、そして彼はその事実に脱力していた。
首を傾げた少年にはその心まで読み取ることは出来ない。
「なに?」
「大したことじゃない」
彼は口元を緩めて言った。
「お前はいつも俺になにかを気付かせてくれるな。良いことも、悪いことも」
少年は少しだけ困ったように喜多川を見つめたが、結局彼がその言葉の意味を語ることはなかった。
……
寮とは逆方向の電車に飛び乗ったのは終電も近い時間のことだった。
ルブランを出たのは八時頃だから、都合四時間近くも喜多川は駅のホームで佇んでいたことになる。
決心が付かなかったのだ。
ただたった一言を告げるためにこんなにも時間を要することになるとは彼自身も思わなかった。
己の意気地のなさを呪いつつ、それでも見慣れた車窓からの景色をぼんやり眺める。
一刻も早く彼女に会って確かめなければならなかった。時間がどうだとか、天候がどうだなんてことはなんの関係もなかった。
ただ、彼は胸にある折り重なった様々なものに答えを得たくてたまらなかったのだ。
幸いなことに雪はちらつく程度で電車の運行に支障はなく、程なくして喜多川は家の最寄り駅に辿り着いた。
改札を抜けると、カーキ色のダッフルコートのフードを被ったが心配そうな顔をして彼を出迎える。車中で呼び出しをかけていたのだ。喜多川は小さく息をついて、彼女が本当に待ってくれていたことに対する安堵と申し訳なさを吐き出した。
「祐介、こんばんは」
「ああ……うん、こんばんは」
律儀に夜の挨拶を交わすことになんの意味もなかった。ただ、彼はの鼻頭が寒さによって赤く染まっていることが気になった。
どれくらいここで待ってくれていたんだろう。そう思うと、喜多川の胸は強く締め付けられる。
がまたいかにも心配そうに歩み寄って問いかけてくるから、また彼は眉を寄せることになった。
「どうしたの、突然。なにかあった? 急ぎの用件だよね。監視はかなり緩んでいるはずだけど、またなにか―――」
「そういう話じゃない。そこは安心してくれていい」
「そっか」
「ああ。すまないな、こんな時間に」
「いいよ、気にしないで。お母さんももう寝てるから抜け出すのはわけないし。なんなら家まで来る? ここは寒いよ」
差し出された手に、しかし喜多川は首を左右に振った。
「それならどこかコンビニにでも……」
とにかく暖を取ろうと提案する少女に、やっぱり彼は首を振る。急いた気が彼から気遣いというものを削ぎ落していた。
「なにか焦ってる。なにがあったの」
そしてにはそれを見抜く力があった。
喜多川は胸を押さえて、じっと不安げに揺れる瞳を見下ろした。
人の感情や想いを仕草や表情から鋭敏に見抜く瞳は喜多川にはないものだ。余人に空気が読めないとか自由過ぎると罵られることのある彼にとってはなおのこと、が見ているものは理解の及ばない領域である。
しかし一方で彼女は動かないものには弱い傾向がある。例えば、クレーンゲームのような自分からアームを動かして制止した対象を捕まえるようなものは大抵時間と金を浪費するだけの結果になる。
あるいは絵画や彫刻といった美術品もまた。
それなのにどうして……
喜多川は弾かれたように問いかけた。
「どうして解ったんだ?」
主語の無い問いにはわずかに首を傾げた。言わんとするところを理解しようと懸命に視線を走らせている。
「お前は知らなかったはずだ、あの絵が俺の母さんを描いたものだと。それに、赤ん坊だった俺を抱いている手元は塗りつぶされていた。それなのにどうして……」
震える声にはきょとんとして目を見開いて、目の前の少年と初めて出会ったときのことを思い返した。
放課後の花時雨、遠くの喧騒、薄暗い廊下に落ちて開いた美術書の一ページ。
そこに大きく掲載された『サユリ』のことを指しているのだと合点がいって、少女は小さく息を呑んだ。
「どうしてあれを見て、彼女が『母』だと解ったんだ?」
「ええと……なんとなく、だったんだけど……」
「母さんのことを知っているわけではないんだな」
「それは、うん。申し訳ないんだけど。そういえば、名前も知らないな」
答えに喜多川は肩を落とした。彼女の答えに落胆したわけではなかった。予測していたことがその通りであると悟って、失望したのだ。に対してではなく、己と、己を取り巻く環境に。
「それが知りたかったの?」
喜多川は首を左右に振った。
そうじゃない。知りたかったのはそんなことではないのだ。もしかしたら、知らないままでいたほうがよっぽど幸せだったかもしれない。
「お前は知っていたんだ」
「え?」
「だから解った。俺が何年も何年も問い、探求し続けてきたものをたった一目見ただけで直感的に理解し得ることができた。そして俺は知らなかった。だから、ずっと解らなかった。あれほど追い求めていたというのに。いつも胸の中にあって、目標として掲げて、ずっと……」
どういうことだと顔をしかめる少女に、少年は震える喉でもって応えた。
「お前はずっと愛されていた。円さんに、母親というものに。たとえそれが歪んだものであったとしても。そうでなかったとして、お前の中にはずっと小さなころの幸福な記憶があって、そこは愛に溢れていたはずだ。だから、お前は知っているんだ。家族に、母親に愛されるということを」
反論を潰すためだろうか、矢次早に喜多川は続けた。
「でも、俺はそれを知らない。俺にはなにも無いんだ。お前が当たり前に持っているものを、いいや、お前だけじゃない、皆が当然のように持ち合わせているものを俺は持っていない。あんなふうに、笑い合って、お互いのことを考えて、支え合うような……」
どこにでもあって然るべきもの。多くの者が当然のように享受し、消費しても尽きることなく注ぎ続かれるもの。我が子への無償の愛情、慈しみ……幸福と呼ぶべきものが。
「だから、俺には解らなかったんだ。あれが『母』だと。母さんなんだって。血の繋がった家族の姿だって……」
絞り出すように辛うじてそれだけを告げる。
現在の己が不幸だとは決して思わないが、しかし最も身近な友人である者たちと比べて大きく何かを欠いていることは彼にとって確かな事実として圧し掛かっていた。
は戸惑いとともに問いかける。
「知らないことは悪いことなの?」
喜多川は強く首を左右に振った。
「そうじゃないはずだ。俺の境遇が特別であるはずがない。同じ苦しみを抱いている人はいくらだっている。その人たちも俺も、なにをしたってわけじゃない」
「うん、そうだね。うん……きみはきっと、ただ、赤ん坊らしく泣いたり笑ったりしていただけ。だというのに、きみの言う、誰もが当然持ち合わせているはずのものを奪われた」
冷静過ぎるの言い様に喜多川は呻いて俯いた。彼女の言うとおりだった。最悪なことは、そのことに今日、彼女に確認を取るまで、奪われていたことにすら気が付けなかったということだろう。
はまた、ためらいがちに問いかけた。
「つまり、きみは被害者であるわけだ。それに、知らないことが悪いことではないと。だというのに、どうしてきみはそんなに申し訳なさそうにしているの」
少年は歯を食いしばって口を真一文字に結んだ。言いたくなかったが、しかし目の前の少女の探るような瞳に逆らうことはできなかった。
どうせ黙っていても悟られてしまうのだ。それならいっそ、すべて正直に明かしてしまったほうがいい。
思うが、しかしだってなにもかもを見透かす目は持っていなかったし、黙っていたほうがいいに決まっていた。それでも彼は、己が楽になるために口を開いた。
「やらなければよかったと思ってしまったんだ」
「なにを?」
追及は容赦がなかった。
不思議そうに首を傾げた少女の瞳にはこれといった感情は湛えられていない。ただ、なにも無いというわけではなかった。きっと瞳の奥では様々な情報が処理されているのだろう。かすかな瞳の動きが示す彼女の心の動きは、まるで静かに降り注ぐ小雨のようだ。
それは虚飾や虚偽を洗い流して少年を正直者にさせる。
「お……お前を、助けなければよかった、と……」
かすれた声に、少女はなるほどと言って深く頷いた。
気が付けばその小さな頭、フードの上にはかすかに雪が積もっている。
「お前がずっと虐げられたままでいてくれれば、俺はこの事実に気が付くことはなかったかもしれない。気が付いたとしても、きっと、お前に嫉妬するようなことはなかったはずだ。お前もきっと、今の俺のような心地でいてくれただろうから」
「なるほど。そっか、そうだね。きみの言う通りだ」
淡々とした応えに非を咎められたような気になって、少年はきつく目をつむって声を振り絞った。
「だが、こんなものは決してあってはならない考えだ。唾棄すべき悪徳じゃないか。他人の不幸を願って、それによって相対的な己の幸福を実感するなんて、この世で最も下劣な発想だ……!」
悲愴感とともに吐き出された言葉に、はなにも言い返さなかった。否定することも肯定することもなく、ただ黙って寒さ以外のものにうち震える少年を見つめている。
少年にとって彼女がなにも言ってくれないこと以上の不安はなかった。常ならば無言は心地よい静寂として受け止められるはずなのに、このときばかりは恐ろしくて仕方がない。
次に彼女が口を開いたとき、そこから出てくるのは失望か呆れか、あるいは怒りだろうか。少なくとも好意的なものではないだろう。
そばにある街灯が照らし出す少女の口元から吐き出される息は白く染まっている。そんな場合ではないというのに、少年の視線はそこに吸い寄せられた。この寒さの中にあっても血色の良い小さな唇は艶やかで、いかにも柔らかそうだ。
沈黙していたのはほんの数十秒のことだろう。わずかにその唇が開かれるのを見て、喜多川は慌てて目を逸らした。
しかしいつまで待っても、罵倒も叱責も飛んではこなかった。
代わりに腕が伸ばされて、ぐいとすっかり冷え切った指先を捕えて引っ張る。
「え……うわっ」
予想以上の力強さと濡れて半ば凍り付いた足元によって、少年は引かれるがままに足を踏み出してしまう。
そして少女はそれで止まることはなかった。右手で彼の左手を取って、背を向けてぐいぐいと無言のまま引っ張っていく―――
「おい、。待て……どこに……」
「いいから」
「良くはないだろう。おい……」
「いいから!」
厳しく言い放って、はひと際強く少年の手を引いた。
その手を振り払うことも足を止めることもできたのにそんな気になれないのは、その手の思いもよらぬ暖かさと力強さによるものだろうか。
喜多川は目を白黒させつつそれに従った。
そして思う。こんなことが以前にもあった気がする、と。
彼は既視感を覚えていた。
あれはいつだっただろうか。そうだ、あの時もこうして強引に、一種暴力的なまでの力強さで手を引かれて……
……