25:You and what army?

「怪盗団読書部定期集会第十回〜」
 両手を上げてそう言って、佐倉は椅子の背もたれにどすんと身を預けた。
 相対するように寝台に腰掛けたはそれに合わせてスクールバッグから本を取り出してみせる。
は相変わらず紙派かぁ」
「やっぱりどうしてもこの感触がないとね」
「かく言う私も今日は紙でね! じゃ~ん!」
 そう言ってまた手を掲げた佐倉の手の中にはハードカバーのぶ厚い新書が抱えられている。黒が目立つの表紙には白抜きの飾り文字でおどろおどろしいタイトルが刻まれ、その本の分類がホラーであることを教えていた。
「お、クトゥルフ系だ」
「なんだ、読んだことある?」
「前にね。一度ね」
「ネタバレするなよっ」
「わかってる」
 大した関心もなさそうに応えたの手にはソフトカバーの文庫本がある。著者名にはJ・G・フレイザーとあった。
はまたマニアックそうなの読んでるなー」
「何かの役に立つかなって調べ始めたらこういう方面にも興味が……」
 すでにある程度読み進めてあるのだろう、挟まれたしおりを抜き取って紙面に目を落とす。佐倉の手が起動されっぱなしのパソコンで手早くアラームをセットし、二人は読書会を開始した。
 静かになった空間―――佐倉家の二階、双葉の部屋に集っているのは読書部などと言いつつ二人だけである。
 本来ならここに高巻や新島、奥村といった女子メンバーも加わるのだが、今日は二人しか集まることができなかった。欠席の理由はおおむね、試験対策だ。
 二時間が経過して、アラームが鳴る。
「うー、二時間って早いな」
 伸びをしながら本を閉じたに、佐倉もまたスピンを挟んで本を閉じる。
「というか、読書会やってから言うのもなんだけどは試験勉強しなくていいの?」
「家でしてるよ」
「なんか特別なことしないんだ」
「まあ、あんまり長時間ずっと机にだけ向かってると色々考えてしまうし」
 それはこうやって読書するのも同じなのではと言おうとして、はたと佐倉は気がついて顔を上げる。
「色々って?」
 問いかけにはしまったと言わんばかりに渋面を浮かべた。
 佐倉はしたり顔で彼女に指を突き付ける。
「うかつ」
「私もそう思ってたところ……人を指差すのはやめなさい」
「はーい」
 素直に手を下げて、代わりに直冷式ワンドア型の小型冷蔵庫に手を伸ばす。そこから二つ飲み物を取り出し、少し迷ってから瓶の方をに手渡した。
「うっ、これまだあったの」
以外好んで飲まないし」
「私だって積極的に飲みたい訳では……」
 渋い顔をもっと渋くした少女の手には爽やかな緑色をした炭酸飲料が握られている。瓶に貼られたシールにはどことなくレトロな書体でお茶コーラと記されていた。
「不味くはないんだけどな」
「カレー味の炭酸と比べたらなんだって美味しいよ」
 蓋を捻って一口を流し込む。
 佐倉もまたペットボトルの蓋を捻り、暖房によって乾燥した体を潤すようにあおった。
「ぷはーっ、それで? 今度はなんだ?」
「今度はって。そもそも双葉に言うってのもどうかな。進路の話だし」
「あーそりゃわたしにはどーにもできないや」
 白旗が上がるのは早かった。あぐらをかいて頭の後ろで手を組んだ佐倉に苦笑しつつ、は立ち上がった。
「そういうこと」
「真や春に聞いてみたらどうだ?」
「先輩たちはお忙しくしてる真っ最中だよ」
「大喜びで駆け付けるとおもうけどなー」
「それには同意する。でも、うーん……こういった問題は自分で考えるべきじゃないか」
「そうかー?」
「そうだよ」
「ほーん」
 ぎいっと背もたれを鳴かせて天井に目を向ける。放り出した足の先をメタルラックに乗せるとすかさずの手が伸びてはしたないと窘められた。
「進路ねぇ……進路かぁ……」
 降ろされた足をぶらぶらとさせながら呪文のように繰り返す。
「双葉も受験するでしょう。来年から?」
「んー、うんー……」
「あ、こっちの学校来る?」
 はっとして手招きする先輩候補に、しかし佐倉はむつかしい顔をしてだらりと肢体を投げ出した。
たちと一緒かあ。それも楽しそうだけど……わたしはやっぱり情報処理技術系の科があるところがいいのかなぁ」
「じゃあ商業か工業系?」
「んー、んー……秀尽も捨てがたい……」
「杏と竜司もいるもんね」
「でも結局、もおイナリも杏もりゅーじも先に卒業しちゃう……」
 それにどこを選んだって、結局あいつはいないんだ。
 呟いて、佐倉は膝を抱えた。
 そのいかにも寂しげな様子に言葉を失い、は腕を伸ばしてその柔らかな頬に手を添える。それから、指先で頬肉を摘まんでみせた。
「あふぅ、なにひゅるんだよお」
「いっそのこと高卒資格だけ取って大学から行く? 彼も大学はこっちに来るみたいなことを言っていたし」
「はっ! その手ぎゃ!」
「佐倉さんが許さないと思うけどね」
「あうー、上げて落とすやつぅ」
 ぱっと手を離して身を翻した少女は声もなく笑っている様子だった。
 むっとして、佐倉はその細い腰に勢いよくしがみつく。
「うわっ」
 驚愕の声は上げても、はぐらつきもしなかった。
「言い出しっぺだろ! そーじろうの説得手伝え!」
「嫌だよ。佐倉さんがオッケー出してもまだ真がいるし、そもそも彼もいい顔しないだろうし」
「裏切者っ、表裏比興っ、トレイター!」
「さっきも言ったけどこういうのは自分でなんとかすべき」
「正論かよ……スパルタ三号……」
 がっくりとしてずるずると腰からずり落ち、椅子からも転がり落ちて床に横たわってしまう。は直ちにそのわきの下に腕を差し込んで引きずり上げ、丁重にベッドの上に放り投げた。
「アラームセットしておく?」
 問いかけに佐倉は眼鏡をヘッドボードに置きつつこたえる。
「二時間で」
「はいはい」
「念のため二時間後に電話して……」
「お夕飯前ね。ほら、ちゃんと布団に入って、電気も消すよー」
「全自動甘やかし機型……」
 わけの分からない言葉を吐いて、佐倉はストンと眠りに落ちた。
 その寝息の穏やかなことを確認して、は足音を立てないようにそっと部屋を出る。
 佐倉家を辞して玄関に鍵をかけ、一度ルブランに立ち寄って惣治郎に鍵を返して、それから駅へ向かう。三十分もかからなかった。
 けれどその足が意気揚々といかないのには訳がある。佐倉に語った通り、進路の話だ。
 十一月の末に行われた進路指導面接で芳しい結果を得られなかったのである。正確に言えば教師はよくやってくれたと言っていいし、どこへ向かうにも問題があるというわけではなかった。
 問題がないことがかえってには問題だった。
 今後大学受験を踏まえた対策を立てていくのであれば、その門が狭ければ狭いほど決定は早い方がいいに決まっている。むしろ高偏差値の学部を目指すのであればもう既に遅いくらいだ。
 漠然とした未来観から勉強だけは重ねてきたが、さて……
 どこへ行きたいのか、と問われては答えられなかった。ほんの半年前までなら母が望む大学名を告げれば良かったが、今はもうそんなつもりは双方ともに無い。迷うくらいならそれを取ってもいいのだが、意地のようなものが邪魔をして選択肢から徹底的に排除させていた。
 全部自分でやるから口を出さないで。と、宣言したところまではよかったのだ。母もそうかと頷いて返したし、やり遂げるだけの気概もある。しかしそれが具体的な進学先を見つけてくれるわけではないのが現実だ。
 そのように迷った様子を見せる彼女に教師はあれこれと道を示してくれた。幸いなことに学業という意味で彼女は優れていると言って良かったから、選択肢は無数にあった。なんなら、海外留学という道もあるとさえ言わしめる程度には。
 海外留学―――もちろん、にそんな気はないが、そういう道もあると言われれば納得もできる。
 もはや母親との間に確執はないが、それでも自立できるのならば早いほうが良かった。
「海外ね……最悪それでも……」
「なんだ、旅行にでも行くのか?」
「今? そんな余裕はな……」
 家にすぐに帰る気にもなれず、電車を途中で降りてふらりと立ち寄ったコンビニエンスストアの雑誌コーナー。適当に選んだ雑誌に目を落とし、しかし内容などそっちのけで長考しはじめてからどれほど時間が経過しただろう。
 は突然思考に割って入った人の声に眉を寄せて振り返った。
 ぎょっとして、大きな声を出しそうになるのを額中に突き当てられた指が押し止める。
「ゆ、祐介、いつも思うんだけど、きみ、人を驚かすのを楽しんでない?」
「そんなつもりはないが。いや……そう言われると楽しんでいる節があるかもしれないな」
「やめて。心臓がいくつあっても足りない」
 押し当てられた指を振り払い、額の中心を抑えて呻く。
 雑誌を棚に戻す間、喜多川は
「そういえば知っているか。イカやタコには心臓が三つあるそうだぞ」などとなんの役に立つのかも分からない知識を披露して楽しそうにしている。
 その緊張感のない様子には口元も緩もうというものだ。思わずと笑みをこぼした少女に、喜多川は首を傾げた。
「どうした、なにか面白いものでもあったか?」
「自分の顔を見るといいよ」
 反対側に首を傾けつつ、彼は素直にそばのガラスを覗き込んだ。鏡のように店内のLEDライトを反射するそこに映る彼の顔は不思議そうな表情を作っている。
「なにも付いてないが」
「ふっ……きみってやつは、本当にもう……」
 かなり真剣に悩んでいたはずだったのに。と胸中で呟いて、そしてはたと気が付く。そういえば定期の範囲内である洸星の最寄り駅で降りたのだった、と。
「誰かに会いたい気分じゃなかったはずなのに」
 小さくぽつりと漏らされた声を喜多川は耳聡く聞き取って、今度は拗ねたような顔になる。
「まるで俺に会いたくなかったとでも言いたげだな。泣くぞ」
「こんなことで泣かないの、男の子でしょう。それに、きみにじゃなくても誰にも会いたい気分ではなかったって意味だよ」
「ならいい」
 いいんだ、と呟いてから改めて友人に目を向ける。
 制服の上に冬用のジャケットを羽織り、手には通学鞄。鼻先がわずかに赤くなっているのは外気に晒されてきたからだろう。
 どう見たって彼は帰宅途中だった。それをわざわざ見かけたからと言って声をかけてくるとは、よっぽど暇だったのか。
 そうだとしても、誰にも会いたくないなどと言ったくせに、は唇の端がじわじわと上がってくるのをこらえきれない。
 端的に言って嬉しかった。偶然とは言えこうして校外で顔を合わせることができるなんて……
「というか、お前が俺を待っていたわけではないのか。なんだ……」
「なんで」
「帰るのにはいつもここを通るだろう」
 は口を閉ざして目をつむった。偶然なんかではなく、己の無意識での行動だったのかと気が付いたからだ。
 まったく意識せずに彼の行動範囲に踏み込んで待ち伏せるような真似をしていたのかと思うと、穴を掘って埋まりたくすらなった。
 ―――皆はよく、私が彼を甘やかしていると言うけれど、実際のところは私が寄りかかっている割合のほうが多いんだよ。
 などと、とても口に出しては言えない。言った日にはなにを言われるか、されるか、分かったものではない。このことは厳重にしまっておかなければ……
「だが都合がいい。ちょうどお前の顔を見たいと思っていたところだったんだ」
 しかしまた喜多川がこんなことを言い出すから、はどうにかして己の存在ごと消え去れないかと思惑する。
「それで? 旅行に行くのでなければなんだったんだ?」
 追い打ちのように素朴な疑問が投げかけて、は雑誌の表紙を睨みつけた。愛らしい顔立ちの少女が楚々とした衣装を身に着けてこちらに笑顔を向けている。
「いや、その」
「はじめに見つけたとき、深刻そうな顔をしていたぞ」
 その場しのぎの誤魔化しや糊塗は許さないと暗に言われて、は白旗を上げた。
「きみは画家になるんだよね」
 歩きながら話そうと手で尾するように示して暖房の効いた店内から出つつ言った少女に、当然喜多川は首を縦に振った。他に道があったとしても、決してそれ以外に選ぶ気はないと言わんばかりに。
「杏はモデルになるから、養成学校とかいくのかな。それとも普通に大学か……東郷さんはプロ棋士に、双葉は復学を目指していて、竜司は……なにか考えてるのかな。なんだかんだしっかりしてるから、言わないだけであるのかも」
 滔々と友人たちの『将来の夢』を並び立てる。言葉を紡ぐたびに吐き出される息は冬の外気によって白く染まっていた。
 手袋もしないままの手が冷えたのか、息を吐きかけるために言が止まる。
 喜多川はその間を取って問いかける。
「進路の話か? そういえば、面接なんてものもこの間やったな」
「まさしくそれだよ。きみはどうだった?」
「十分もかからなかった」
 は思わずと笑い声を上げた。そりゃそうか、と。目指す先が定まっていて、目標が高ければ高いほど彼にとって良いのであれば選ぶのは簡単だ。
「お前はそうではなかったんだな」
「そういうこと。それで先生が、海外留学という手もあるぞと言ってくれてね」
 困り顔に浮かぶ気弱そうな笑み。あまり深く聞いてくれるなと彼女は無意識のうちに訴えていた。
 しかし喜多川は構うことなく手を伸ばした。彼の行動原理は単純で、だからこそ強かった。すなわち、自分の意思より優先されるべきものなんてないということだ。
 かじかんだ指先をすり合わせる手の片側を取って握り、いくらか強引に己のポケットの中に招き入れて少年は満足げに頷いてみせた。
 はぎょっとして凍りついたが、指先や手のひらはそれに反して暖かく、幸いなことに足は止まることなく動いた。
「行くつもりだなどと言うなよ」
 投げかけられた声は断然としていた。有無を言わさない上意下達には少しだけむっとして、しかし手に伝わる暖かさに様々なものが遮られてなにも言えなくなってしまう。
 どうしてこう、きみは勘違いを加速させるようなことばかりするんだ……
 心の中だけでつぶやいて、しかし手を振り払うこともできずに俯く。振りかけられた言葉はまた彼女を困惑させた。
「だが、お前がどうしても行かねばならんと言うのであれば、それもいいかもしれないな」
「……その心は?」
「俺はアトリエを構えるのに場所は選ばん主義だ。問題はどう売り込んでいくかくらいで……異国の地で一から築き上げていくとなればなおのこと実力だけが頼りとなるだろうな。ふっ、ふふふ……やり甲斐があると言うものだ!」
 そうだろう! と同意を求めているのかいないのか、目を爛々とさせて大きな一歩を踏み出した少年に半ば引きずられながらはこくこくと首を縦に振った。
 しかし籠められた意図に思考が追いつくとすかさず眉間にしわが寄る。
「ちょっと待って。きみ、その言い方だとまるできみまで留学するみたいな……」
「そうだが?」
「そんなお金がどこにあるの」
「まあ……なんとかなるんじゃないか」
「ならないよ! なったとしてもきみ、言語の壁はどうするつもりなの」
「む、それは……」
 やっと歩調を緩めた少年に息をついたのも一瞬のことだった。彼は直ちに持ち直し、また瞳を輝かせて少女の顔を覗き込んだ。
「マエケナスだ」
「は―――」
 ガイウス・マエケナスは紀元前四十年頃から歴史に名を刻み始め、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの『左腕』を務めた人物である。外交・政治面をよく支えた彼は内乱が平定され、平和が訪れたローマにおいて今で言う広報担当官のような役割を与えられた。皇帝の相談役としても勤める一方で、彼はまた芸術家たちの守護者でもあったとされる。
 は呆れ顔で小さく首を左右に振った。
「つまり、私にクルスス・ホノルムを捨てろってこと?」
「そうは言っていない。外交官になってくれと言っているんだ」
「ついでに広報と財政官?」
「支援者だ」
 なんだ、嫌なのか。
 問いかけられては言い淀んだ。
 嫌かと言われれば、やぶさかではないと答えるのが正しいと思える。そもそも自分は自ら先頭に立ってなにかを成し遂げるより、誰かの補佐をするほうがよっぽど向いている。
 なにより支援者という言葉はしっくりとくる。誰かを助けるという行為はもはや当然として彼女の日常の中に息づいているのだ。
 なにかを、誰かを助けることができれば、それはきっとより強く己の心を満たしてくれるだろう。
 では、その相手は目の前で楽しげに未来を思い描く少年なのだろうか?
 右手を包む暖かな手の感触に意識が奪われる。ずっと願っていたことではないか、と。
 この手を離さずにいられたら、ずっとそばにいることができたら。そのために歯を食いしばってきたんじゃないのか?
 思考を遮ったのは恒温性によってすっかり暖かさを取り戻した左手の脈動だった。なにかがあるわけではなかった。それはただ彼女にもう一本腕があることを教えているだけだった。
 少女は少しの間無言で己の空いた手をじっと見つめた。あたかもそこに言語化されない形而上のなにかが宿っているかのように。
 もちろん、この現実の世界において彼女に超自然的な力など備わってはいない。目に見える通り、彼女はただの、ちっぽけで、やせ細った、本質的に臆病な少女でしかない。
 だからといって、それはずっとそのままでいる必要があるということではないのだ。
 気が付けばは握られていたほうの手を引き抜いて己の胸元に返していた。突然外気に晒された手は痛みに似た感覚を覚えたが、それはより思考をクリアにさせた。
 ぽかんとする少年に、決然と少女は告げる。
「嫌なわけじゃない。当然、そんなことはずっとそうだ。でも、それだけじゃ駄目な気がする。きみの……人の夢に相乗りするって、結局なにも変われてないってことになるんじゃない?」
 両の手で拳を作り、きつく目をつむって、少女は一度獣のように低く唸った。
「このままでは私はお母さんの代わりを見つけただけになる。皆がしてくれたことが全部意味のないことになってしまう。それは……きっと、すごくいけないことだ」
 二人の足は完全に止まっている。駅前の通りはクリスマスが近いことを教えるように彩られ、七色のイルミネーションが明滅をくり返して行き交う無数の人の群れと少年たちを照らし出していた。
 白い息を吐いて、は喜多川を正面から見据えて言った。
「もう時間はあまりないけど……時間がないことこそがきみに甘えていたことの証だ。だから、一人で考えないと。時間が無いとしても、それでも、決定するのは私にしかできないことなんだから」
 喜多川は幾度かまばたきを繰り返し、離れていったぬくもりを逃さないようにきつく拳を握った。
「それは、つまり、ノーということか?」
 明らかに気落ちしてしょぼくれる彼の姿に、は曖昧に微笑んでみせる。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それを明らかにするためにも考えなきゃ……」
 唇を引き結んで、続きを口の中で唱える。
 考えることを止めたら、私はきみの隣にいられなくなってしまう。それだけは嫌なんだ。
 そして少女は一歩後退った。とっさに追おうとする少年の身体は、しかし胸元に押し当てられたたった一本の指で止められてしまう。
「話に付き合ってくれてありがとう……じゃあね」
 指は直ちに離された。少女は喜多川に背を向けると一目散に走り出して、一度も振り返ることなく改札の向こうに消えていった。

 明けた翌日の放課後、怪盗団はルブランに集合していた。
「マコトもハルもいいのか?」
 カウンターチェアの上に立ったモルガナが問いかけると三年生組二人は笑顔で頷いてみせる。
「勉強ばっかりしてると肩こっちゃうもの」
「そうね、少しは体を動かしたいわ」
 手首をぶらぶらとさせながら首を回す新島に苦笑しつつ、奥村も肩に手を添えている。
 後者のほうは勉強以外にも肩こりの原因がありそうだが―――男子一同は固く口を引き結んだ。
「……そういうわけで集合してもらった。これ依頼の資料。回し読みしておいて」
 言葉とともにテーブルにプリントアウトされた用紙が一組投げ出された。
 投げ出したほうはさっさとカウンターの奥に引っ込んで洗い物に取り掛かり始め、店内はしばし水音と依頼内容に対する感想の言葉に満ちる。
 とはいえ洗い物の数は大したものではないから、少年はすぐにエプロンを取り外して輪の中に加わることとなる。
「名前は麻倉史郎。罪状はそこにある通りだ。どう?」
 問いかけるまでもなかった。
 力強く頷いてみせる仲間たちに笑みを浮かべて少年は応じる。
「よし、じゃあ行こう!」
 かくしてメメントスに進入した少年たちは対象のシャドウが待つであろう階層まで潜ることとなった。
 すでに幾度も行き来を繰り返した道だ。道中に立ちふさがるシャドウもすでに対処法を心得たものばかりで、道行は平坦であった。
 だからって油断しないように!
 怪盗団の戦術担当官からの厳命に従って慎重に進んだ一同はさしたる困難にも遭遇しないまま麻倉のシャドウを発見した。
 これもまた障害とは言えないものだった。見た目以外は。
 その見た目が問題だった。女性陣のうち半分は絶句して後退り、そうでない者はいつも通りに攻撃を叩きこんだ。そして男性陣はその光景に膝を折りそうになる。まったくもって、見た目の問題であった。
「クイーン、ブレイド! ストップ! 下がって……下がれ!!」
 悲壮感すら滲ませたジョーカーの指示に少女たちは首を傾げる。何故そんな指揮が下ったのかが理解できなかったのだ。
「命令なら従う。でもなんで……」
「まあいいわ。フォローに入るね」
 項垂れながら後方からスカルとフォックスが入れ替わりに進み出る。
 身を低くかがめた体勢を取ったモナが言った。
「ソッコーで片づけるぞオマエら! でなければワガハイたちが精神的に死ぬ!」
 応、とこたえて、少年たちは苦労しつつも依頼を完遂してみせた。

 妙に疲弊したジョーカーからハンドルを譲り受けたクイーンがせっかくだからと向かったのはメメントスの現状行ける範囲内における最下層であった。
 辿り着いたホームの奥では、さらに下へ続く階段を不気味な紋様が刻まれた隔壁が相変わらず隠している。
「やっぱりまだ駄目、か」
 呟いた声に応えるように紋様が赤く脈動する。どこか呪術的なものを思わせるそれが一定のリズムで脈打つ様はまるで血管のようだ。呼応するように音もなく空気が揺らめいているのは気のせいだろうか?
 地下へ潜っていることが影響しているのか、周囲の不気味な雰囲気のせいか、ひやりとした風までもが流れている。その音はまるで死者の怨嗟の声にも聞こえてはじめる……
 ぶるりと身震いを一つして、パンサーは己の身を抱きしめた。
「なんかホント、気味悪い……」
 不安げな声にモナが気遣わしげな視線を送ると、パンサーはすぐに取り繕うような笑みを浮かべた。
「ヘーキ、ビビったりなんかしてないって! それより、残念だったね」
「ん……」
 小さく頷いたネコ型生命体は、耳を寝かせて閉ざされた隔壁に目を戻した。
 そもそもメメントスの攻略はモナの希望によって行われているところが大きい。
 自分は人間だと再三に渡って主張してきた彼いわく、そのための重要な手がかりがこの先にあるはずだとのこと。
 もちろん、仲間たちはこれを叶えてやるつもりでいた。だからこそクイーンもこの先へ続く道が開放されているのではとかすかな希望を抱いてここへの寄り道を提案したし、皆も賛同したのだ。
 しかし結果はご覧の通りだ。
 無駄足を踏ませたことを謝罪しつつ、クイーンは皆を促してもと来た道を辿りはじめた。
「やっぱり総選挙が終わってからね。獅童の改心が皆に知れ渡れば、きっと今度こそまた次に繋がる道が開かれるはず。それまでは待ちましょう」
 モナが頷いてそれに従うのであれば反対する声は上がらない。
 依頼を済ませ、クイーンいわく『軽い運動』をこなした一同はたっぷり時間をかけてメメントスを脱したのであった。

 いつもならば三々五々に解散……となるところ、今日は全員がそのまま渋谷の駅前にたむろすることとなった。
 普段はそのまま戦利品の処理のためセントラル街へ向かう少年が珍しく足を止め、すぐそばで演説を行う男の声に聴き入り始めたからだ。
 演説をする男はやがて仲間に囲まれた少年の姿を目にとめると喜ばしげに目を細めた。そこには清涼としたせせらぎのような爽やかさがあった。
 応えるように少年もまた笑みを湛えて小さく頭を下げると、仲間たちも自然と目礼を向ける。粗末な演説台の上の男は今度こそ満面の笑みでもって応え、言葉にはさらなる熱が加わった。
 日の入りの早まった十二月、すでに辺りは暗く、吹く風は身を切るような冷たさを孕んでいたが、行き交う人々は一人また一人と聴衆に加わっていく。
 拈華微笑。少年は言葉もなく男の心を読み取っていた。すなわち、君の前でかっこ悪いところを見せるわけにはいかないね、と。
 やがて人だかりと言っていいだけの聴衆が集まり始めると、若き怪盗たちは人ごみに紛れて男の前から姿を消した。
 それでも男の弁舌の勢いは衰えることなく続き、立ち止まった者にもそうでない者にも、その心に小さな灯明を残してみせた。


 さて、今度こそ解散かと散り始めると、にゅっと腕が伸びての首根っこを掴む者がいる。これは坂本であった。
「うえっ」
 うめき声を上げた少女に構いもせず、怪盗団の武闘派一派筆頭はその剛力でもって引きずっていく。
「一勝負してこーぜ!」
 いかにも楽しげなその声に、は足をばたつかせて抵抗した。
「ちょっ……と、竜司! なんでみんな人の襟を掴むかな……」
「ちょうどいい位置にあるんだよな。それにほらぁ、ここで会ったが……何年目とかいうじゃん?」
「百年目だよ……ちなみに、本当に百年ぶりという意味じゃなくて、終わりって意味だからね。今日がお前の最後の日だ、みたいなニュアンスで……」
 うんちくを語りながら手を振り払い、それでも足を止めずに並んでついて行く。とて勝負とあればやぶさかではないのだから、引きずられる必要はそもそもなかった。
 ゲームセンターに踏み込んでから勝負がつくまでに大した時間はかからない。
 騒音に満ちた店内で勝鬨を上げたのはのほうだった。
 とはいえ、その戦果は僅差である。リザルトに表示された命中精度という意味であれば坂本はに大きく後れを取っていると言っていいが、消費した弾丸の数において坂本が大きく上回っていることを考慮すれば命中した数自体はほとんど同等だ。いまだ優劣はつけ難いと言えるだろう。
 それでも、坂本は大げさに悔しがっていくらか乱暴に銃型のコントローラーを戻して叫んだ。
「うああまた僅差かよ! くっそー!」
 対するは勝者の余裕か、手元でコントローラーを器用に一回転させてから軽快に定位置へ戻す。
「ふふん、慣れの差かな。私はきみと違ってばら撒けるわけじゃないからね」
 これは精神世界において各々が扱う銃器の特性を指しての言葉である。面の制圧力に優れた散弾銃と一発ごとにレバーを引く必要のある底碪式小銃ではそもそもの用法が違う。ゲームの結果はそれが数値として表れただけのことだ。例えばここに他の面子が加われば、また勝敗は違ってくるだろう。
 とはいえ、坂本とてそれくらいは解っている。解った上で、彼は悔しがっているのだ。
「くっそー……タマなんてばら撒いてなんぼだろーがよ」
「あ、下ネタかな? 真や春に言いつけてやろっと」
「は? ……あーっ! その発想がひでぇ! やめろやめろ! センパイらに知られたらなんでか俺が怒られるやつじゃねぇか!」
 高らかに笑って筐体を次の挑戦者に譲り、は人のいないクレーンゲームを選んで寄りかかった。肩越しに覗いたガラスの向こうには、淡い色合いをした可愛らしいクマが山と積まれている。
「マジでどこで覚えてくんだよそーゆーの」
 呆れつつ追いついた坂本に、は小さく肩をすくめて背を向けた。その指先には百円玉が挟まれている。
「んー……彼に映画を借りたりオススメされたものを見ると、こう、自然と……」
「マジでやめろ。映画なら杏を頼れ杏を。クッソつまんねー恋愛映画しこたま見せられっからよ」
「クソつまんねーってところにきみのモテない理由がよく現れてるね」
「うっせ!」
 拗ねたように唇を尖らせて、坂本はクレーンゲームの側面に陣取って中を覗き込んだ。彼の趣味とはかけ離れたぬいぐるみたちがつぶらな瞳で彼を見つめ返している。
 はどうやらその内の黄色のクマに狙いを定めたらしい。コインが投入されるとやたらと軽快でチープな音楽が流れ始めて、クレーンが動き出した。
「あっ、バカ止めんのはえーって」
「え、うそ、あー……」
「ほら見ろ。あー……」
 謎のSEとともに初期位置に戻るクレーンには、なにも掴まれてはいなかった。
 めげずにもう一枚が投入される。
 坂本はやれやれと頭を振ってそばの自動販売機に向かった。
 ……彼が飲み物を二つ手にして戻っても、少女の手にぬいぐるみは一つとて握られていなかった。
「こういうのはダメなのな」
「苦手かもしれない。空間把握能力が弱いのかな……」
 がっくりとしてガラスに額を押し当てる手元に適当に選んだ清涼飲料を渡してやると、はどことなく照れくさそうにしながらそれを受け取った。
「竜司もお世話焼きだよね。お兄ちゃんて感じ」
「えー、みたいな妹、ヤなんだけど……」
「失礼な! 私だってきみみたいな兄が本当にいたら困るよ!」
「どっちがシツレーだよ! ほんとにもぉ口が悪くなっちまって……」
 げんなりとしながらペットボトルの蓋を捻る少年に倣いつつ、は意地悪く笑ってみせた。
「きみの影響も多分に受けているからね」
「センパイ方と会話して治してこいよ」
「そうするよ」
「んで、本題なんだけどさ」
「唐突だなー」
 呆れながらも耳を傾ける。あらゆる騒音に満ちた店内の中にあって、坂本の声は不思議とよく耳に届いた。
 いささか強引に引きずられた時点で対戦がしたいというだけではないことは予想できていたから、驚きは薄かった。目でもって促すと、坂本は腕を組んで問いを投げつける。
「祐介となんかあった?」
「んー?」
「や、今日ヤバかっただろアイツ。命中七割切ったら罰走ってリーダーがイキってたし」
「軍隊みたいなことを言うなぁ……」
 まだ名残惜し気にガラスの向こうを覗き込む少女を見下ろして、坂本は頭を掻いた。
「あんま首突っ込みたくねーけど」
「でも聞くんだね。お世話焼き」
「うっせ。で、心当たりは?」
「私が原因で確定なんだ……いや、うーん……まさか……」
「あるんじゃん」
「でも、祐介には関係ない話だよ」
「なによ?」
 はわずかな時間口をつぐんだ。細めた目でガラス越しにつぶらな瞳と睨み合う。
 一方で坂本も無理強いをする気はないのだろう。無言のまま促すような様子も見せず、彼もまた獲物の選別に取り掛かっている。アームの設定とか、可動範囲だとか、景品と落とし口との距離だとか…… そういう計算は早いようだった。
 やがてはつい昨日の出来事を、必要な部分だけ切り取って語り始める。
 進路指導面接、海外留学、それらを喜多川に言って聞かせたことと、己の力でなんとかしてみせると決意したこと。
「私が言ったことで彼も迷ってしまっているのかも。海外にも美術系に力を入れている学校は当然あるんだし」
 無駄に選択肢を増やしてしまって、もうしわけない。
 と、結んだ少女に、坂本はひっくり返りそうなほど大げさに背をそらして天井のライトを睨みつけた。
ってさ、ってさぁ……ああもお、全部見えたわ。多分誰よりもハアクしてる自信ある……」
「なにが」
「ンもう! ちょっとはウヌボレってもんを覚えろよお前は!」
「はあー?」
 首を傾げて眉を寄せる少女に、坂本はやっぱり大仰な仕草で頭を抱える。彼はまた、今日のメメントスでいつも以上にフラフラとしていた友人に強い同情心も寄せた。
 きっと喜多川は断られるなどと思ってもみなかったことだろう。それはそうだ。この少女が彼に思慕の念を寄せていることは傍から見ても明らかで、彼自身もまたこれを察していた。なによりこの少女は彼のそばにいるために多数のリスクと血肉すら支払っているではないか。それが何故ここにきてノーなのか。
 坂本には理解しがたいことではあるが察せないわけではない。きっとこの子は自分が好意を寄せることはあっても相手もそうだとは思えないのだ。
 それこそあり得ないと、坂本にはこの点がまったく理解できない。彼は自惚れが悪ではないことを知っている。過剰にさえならなければ、間違いなくそれは原動力の一つになる。
 謙虚も過ぎれば毒とはまさしくこのことか。坂本は額に手を当てて大きなため息をついた。
「あーもうバカ。だからさっさと……」
 告っとけって言ったのに。
 出かけた言葉を飲み込んで、坂本は少女に目を向けた。
 は坂本が怒っていると勘違いしているのだろう。どことなく萎れた様子で己のつま先に目を落としていた。
「あのさぁ……いや、怒ってねぇよ。怒ってるとしたら祐介にだから。アイツ……いや、今はいいわ。だからさ……あーもうほんとに、だから首を突っ込みたくなかったのに……」
 毒づきつつ坂本は言った。
って祐介のこと好きなんだよな?」
「なんで今それを聞いた!?」
 頬を赤くして目を見開いた姿がすべてを教えている。具体的な答えを聞く必要はなかった。
「じゃあなんで、イエスじゃねーの? いいじゃん、祐介の夢に便乗しちまえよ」
「か、関係ないよね? 祐介が元気ないって話をしていたのであって……」
「あるから。ていうか本題だから」
 呻いて、は再び俯いた。その手指に力がこもり、握られたプラスチックのボトルが凹む。軋むようなその音は妙に坂本の耳に障った。
「祐介にも言ったけど、嫌なんじゃないよ。そばにいられたら、きっとどんなことだって満足するだろうとおもう。でも、それだけじゃ嫌なんだ。きみたちと行動するようになって気が付いてしまった。私にも誰かを助けることができるんだと……」
「だから、ノー? んじゃ、お前はなにすんの?」
「……それが分からないから困ってるんじゃないか。ああもう!」
 ぱっと身を翻して、は再びクレーンゲームに取り付いた。現実逃避のつもりらしい。
「ちゃんとそこを言ってやれよ。祐介がグラグラしてんのは迷ってるからじゃなくてお前に拒否されたと思ってるからなんだからよ」
「なんできみがそれを知ってるの」
「想像。でも間違ってない自信あるぜ。賭けるか?」
「賭けない!」
 憮然として言い切って、三度コインが投入される。
 軽快でチープなメロディに乗ってクレーンが動き始める……
 はぬいぐるみから目をそらさずに言った。
「ずっと気になっていたんだけど、そういう竜司の将来の夢ってなに」
 坂本はわずかに顔をしかめる。彼の目もまた、ぬいぐるみを捉えて離さない。
「えー……言わなきゃダメか?」
「教えて」
 クレーンのアームが黄色いクマのぬいぐるみの胴を捕らえた。
 は喜色を浮かべたが、しかしこの筐体の設定では持ち上げられても穴までは持たないだろうと坂本はみている。
 しかしあえて伝えるようなことでもないだろう。坂本はずいぶん恥じらって、照れくさそうにして、やっと質問に答えた。
「あー……教師……」
「えっ!?」
 意外すぎる答えに、は瞠目して思わずと操作盤を叩いてしまう。大した力は込められていなかったが、しかしそのわずかな振動によってクマは逃げ出してしまった。
「あ!」
 ぽとりと落ちたクマにがっくりと肩を落として項垂れる少女に、坂本はむっとして顔をしかめる。
「ンなに驚く事かよ」
「……思っていたより真っ当だったから」
「お前の中で俺の評価どうなってんの?」
 わざとらしく咳払いを一つ。は坂本に向き直ってまた問いを重ねた。
「どうして教師になろうと?」
「それも言わなきゃダメなん?」
「参考にさせて」
 呻いて、坂本は少女の肩を押してクレーンゲームの前に立つ。コインを投入すると、またあのチープなメロディが流れ始めた。
「俺、ガキん頃はグレてイキってるやつなんてダッセーって思ってた」
 クレーンは迷いなく進み、うつ伏せに倒れた黄色いクマの上に到達する。
「俺にはお袋がいたし、それに、足があった。走ってりゃ大抵のことは上手くいってたよ。勉強なんかできなくても、それでカバーできてた。自分が落ちこぼれだなんて思ったこともなかった。でも……」
 気抜けする効果音とともに降下したクレーンが再びクマを捕らえて掴み上げる。は小さく感嘆の声を上げた。
「鴨志田に膝ぶっ壊されて、走れなくなって……どうすることもできなかった。今さらガリ勉なんてタマでもなかったし、そんな気持ちにもなれなかった。今思えば、そっちにシフトして見返してやれりゃ良かったんだけどな」
 持ち上げられたクマはフラフラしながらも落とし口の上に辿り着き、そして音もなく放り出されて穴の中に消えた。
「おおー……きみがガリ勉か。想像つかないな」
「うっせ。んで……それで、わかったんだよ。つまはじきにされて、やり返すことも、逃げる場所もなくて、ミジメな気持ちでいるってのは……そりゃ、グレるよな? 当然だよ。だってもう、他に手が無いんだから。そうするしかなかったんだ。ほかの道ゼンブ潰されてさ……だから、そういう奴らをさ、誰かがっつうか、俺がさ、逃げ場になってやれたらなって……」
 しゃがみこんだ少年の腕が取り出し口に突っ込まれて、黄色いクマのぬいぐるみを引っ張り出した。握る手に力を籠めると、中に鳴き笛が仕込まれているのだろう、ピューと小さな音が響いた。
「お、鳴いた……」
 飾り気のない感想を漏らして立ち上がり、坂本は大した感慨もなさそうにクマのぬいぐるみをひっくり返したり裏返したりして弄んでいる。照れ隠しのつもりなのかもしれない。
 はどことなく期待のこもった目でその手元を覗き込みつつ問いかけた。
「だから、教師?」
「そ」
 短く答えた坂本の手がぬいぐるみを天井から降る光にかざすように持ち上げられる。自然との首も上を向く。
「竜司、かっこいい」
 素直な賞賛の言葉が上を向いた少女の唇から漏れるのに、坂本は思わずと相好を崩した。
「え? そお? えへへ」
「すごいよ、立派だ。羨ましい……」
 途端、の目はクマから外されて床に落ちる。賞賛と羨望を示した口からは重苦しいため息がこぼれてしまう。
 坂本はまた、かかげた格好のままぬいぐるみの腹を押す。プー、と間の抜けた鳴き声が騒音の中に何故かよく響いた。
ならなんでもできそうなもんだけどな」
「ありがと。でも、なかなか思いつかないものだよ。時間がないって思うと余計に……」
「ほーん……」
「情けない。自分はもう少ししっかりした人間だと思っていたのに、過大評価だったみたいだ」
「そんなもんじゃねーの? 俺はたまたま、お前らと知り合えたからこうなっただけで」
 気落ちしてしょげた少女のつむじにぬいぐるみが押し付けられる。またピー、とクマは鳴き声を上げた。
 そして坂本は茶化すような声色とともにの鼻先に指を突き付ける。
「んじゃ、こうしろよ。お前の将来の夢は、怪盗団!」
「はあ?」
 頭の上のクマが落ちないよう手を添えながら顔を上げた少女は、はっきりと不審げな表情をしていた。
「だからぁ、今俺らがやってるシゴトを本業にすんだよ。どうよ、このナイスアイデア!」
 対する坂本はいかにも楽しげだ。はしゃいだ様子で手を打って、自画自賛を繰り返している。
 は手元に返したぬいぐるみの腹を押しながらぼやいた。
「リスクが大きすぎるし、そもそも事業としての区分は……自営業? それにしても安定感の無さが怖いなぁ……」
「人生はギャンブルみてーなもんだろ」
「公務員を目指す人の台詞とは思えないね」
「うっせ」
 軽口の応酬にが調子を取り戻したと見て、坂本は床に放り出してあったスクールバッグを取り上げた。
「まあ……なにをするにしても、無理してキバって一人で考えなくてもいいんじゃねえの」
「自分のことなのに」
「なんでもかんでも独りでできるやつっている? 俺はムリ」
 言って、坂本は、なにかを思い出したかのように真剣な表情を作って勢いよく両手を合わせた。
「だから……サマ、なにとぞ……期末の面倒をですね……」
「台無しだよ、きみってやつは」
「だって! ヤッベーんだよ! マジで!」
「そもそも範囲が違うとおもうんだけど。まあいいや、ノート見せて。それで対策作るよ」
「ノート? あ、はい……」
「……ほかの二人に見せてもらったほうが早そうだね」
 重苦しいため息とともに歩き出す。
 その手の中では黄色いクマのぬいぐるみが、また腹を押されてプーと間の抜けた声を上げている。
 追いついて隣に並んだ坂本はすでに手元のスマートフォンで同級生たちに助けを求めているらしい。どことなく危なっかしい歩みをしながら、また器用に語りかけてみせた。
「お前も連絡してやれよ」
「誰に?」
「カレシにぃ」
 の手が勢いよく坂本の手からスマートフォンを奪い取った。
「あ! なにすんだコラァ!」
「うるさい! 歩きスマホもそのうち罰金刑になるかもしれないんだから控えなさい!」
「なにキレてんだよ! 誰とは言ってねーだろ!」
「明らかに特定の人物を意図していたくせによく言うな! だからモテないんだよきみは!」
「はー!? やんのか!? 調子ブッこいてんじゃねーぞチビ!」
「今日こそきみを武闘派一派の筆頭から引きずり降ろしてやろうか!」
 猛烈な勢いで肩をぶつけ合いながらゲームセンターを飛び出した二人は、ちょうど戦利品の処理を終えて駅に向かっていた少年と猫に見咎められて厳重注意を受けることとなった。