24:...And mostly what I need from you.

 例えば、温暖化が進んだ結果南極やグリーンランドの氷床が失われ、また海水温の上昇による体積の膨張によって海面上昇が起こり、モルディブやオランダ、バングラデシュ……多くの国々が海の底に沈んだ未来。
 日本の首都東京においてはおよそ十メートルほど海面が上昇すれば都市部の半分ほどが海に沈むこととなる。
 だからこそ、現在を生きる我々は各個人単位で己の行動を吟味し、考えていかなければならないのだ―――
 などと禅めいたことは考えもしなかったが、しかしそのような未来を思い描かせる光景、水没した都市の中を進む船上に少年たちは立ち尽くしていた。
「マジで船じゃん」
 なんの捻りもない声を上げたスカルの隣で、パンサーもまたあごに指を当てて唸った。
「豪華客船……うーん、タイタニック?」
 それ沈むやつ、と指摘するスカルの横を通り、船首へ向かって走り出した者がいる。ジョーカーだった。
「俺ジャック!」
 追ってナビがはしゃいだ声を上げる。
「じゃあわたしローズ!」
 舳先で折り重なるようになった二人は、しかし何故か組み立て体操の二人技を作って首を傾げていた。
「あれ……なんか違う……」
「これサボテンだ……」
 二人はがっかりして肩を落として引き返す。
 しかし呆れかえった出迎えにも構わず、ジョーカーはへこたれなかった。
「じゃあ艦隊を追って、だ。俺はジンジャー・ロジャース」
 そして船べりに立ち、手すりの上に飛び乗ってみせる。これには誰も乗らなかった。
「すまんジョーカー、わかんない」
 首を振ったナビにショックを受けたようによろめくが、彼は決してそこから落ちることも降りることもなかった。
 ただ、ブレイドは彼の言わんとするところ、やろうとしているところが分かるのだろう。渋い顔をして指摘してやる。
「そもそもそれは女役のほうでしょう」
「分かるなら付き合って」
「くだらないこと言っていないで早く降りなさい」
「Let's Face The Music And Danceするまで降りない」
 ツンと拗ねたようにそっぽを向く彼に、ブレイドは呆れたように息をつくが、やがてなにかを思って一歩距離を詰めた。
「……まあ、いいよ。フォックス、財布を貸して」
「なぜ」
「きみの財布が一番近い」
 疑問符を浮かべながらもフォックスは財布を取り出してその手に渡してやる。ブレイドは直ちにジョーカーに向きなおってその手を掴み、回転させるように引っ張った。
「あっちょっ、強……」
 床に足をついて二度三度、四度五度、もっと回転してから停止したジョーカーの鼻先にフォックスの財布が突きつけられる。
 ブレイドはそれを広げて中身を彼に見せつけてやった。
「……うわっ……」
「おい、失礼だぞ。月末なのだから仕方がないだろう」
 そして薄っぺらい財布が持ち主の元に投げ返される。
 ブレイドは一歩前に出て、手すりに手を付いて未だ回る視界にふらふらとするジョーカーに詰め寄った。そして有無を言わさず肩を掴み、再び回転させながら中央へ突き飛ばす。
「ああぁぁぁ……待てブレイド、なんかちが……うっ!?」
 がしっと音が鳴りそうなほどの力強さで腰に腕が回される。もう一本の腕はまた少年の膝を叩き、反射によって足を上げる格好を取らせた。
 そしてそのまま一回転。
 腰に回していた腕を離して肩を押し、また彼の身体を回転させるとそれに合わせて鏡写しにスピン……
 向き合って、両手を広げて、ブレイドは首を傾ける。
「満足した?」
「いっ、一ミリもロマンスがない……」
「あるわけないでしょうが」
 小馬鹿にするように鼻を鳴らして胸を押す。まだ目が回っているのであろう少年はそれだけでふらついて数歩後退った。
 するとちょうど侵入地点の探査と確保が終わったのだろう。クイーンが手を鳴らして二人の注意を引いた。
「まずはここを起点に色々見て回りましょ。ほら、ジョーカーもブレイドも遊んでないで行くよ」
 私は遊んでいたわけじゃないのにと不満を垂れながら女王のあとに続くブレイドのまた後を、ジョーカーがふらふらしながら続く。
「め、目が回る……」
「自業自得でしょ」
 情けない彼の様子に、しかしパンサーはいかにも楽しそうにくすくすと笑って隣に並んだ。当然、そこが定位置のように。
 ジョーカーは少しだけ考えて、それから彼女の身長を確かめるように視線を上下させてから応じる。
「パンサー、今度俺とLet Yourself Go してくれ」
「ハァっ!? なに言ってんのぉ!?」
 素っ頓狂な声を上げた少女に、会話を聞いていたスカルが首を傾げる。
 ブレイドが答えた。
「身をまかせて」
「おー」
「でもジョーカーが言ってるのは古い映画の劇中歌のことだよ。さっきみたいに踊るんだ」
 無慈悲に勘違いを是正されたパンサーは、鞭の持ち手でジョーカーの脇腹を突いた。
「あいて」
 大して痛くもないくせに呻いた彼を思わしげに見つめる瞳が複数あることにブレイドは小さく肩をすくめた。
 自分がその原因の一端を担ったなどとは露とも知らず、ブレイドは小走りになって先頭を行った。

 そのようにして、少年たちは獅童正義のパレスに侵入を果たした。
 道行は船上のことであるから、容易とは言えないものだった。なにしろ通路が入り組んでいて、狭い。
 スカルが攻撃を外して床にひびを入れたのが五回、パンサーが振り上げた鞭で天井を叩いたのが三回、ブレイドが壁ごとシャドウを叩き切ったのが実に十三回―――
「そらバレるわ」
 呆れた声を上げたナビはフォックスに背負われ、後方には複数のシャドウが彼らを追いかけている。
「ごめん……もうなんか、通路の幅がちょうど腕と剣身の長さぴったりで……」
 項垂れたブレイドが隣に並ぶ。
「だって避けるんだもんよ……」
 同じくスカルが。
「天井が低いのが悪いんだって!」
 パンサーが。
 先頭を走るクイーンがちらりと後ろを見て彼女を手招きした。口元には彼女にしては珍しく悪戯っぽい笑みを湛えている。
「パンサーもこっちにいらっしゃいよ」
「やだあっ! 私はアンタたち一派には入んない!」
「でも、シャドウを『ブッ飛ばす』のってスッキリするよ?」
 武闘派の末席に座して虎視眈々と頂点を見つめるノワールが腰に下げた自動排莢式五連装グレネードランチャーを叩いた。
 すると今度はフォックスがパンサーを手招きする。
「派手な爆撃だけが美とは限らんぞ。懸待一致を極め、後の先を取ってはどうだ」
 片手を離されてずり落ちそうになったナビが首にしがみついて喉を締めたのか、踏みつけられたカエルのような声がフォックスの喉から上がった。
「私は! こっちのほうが向いてんのッ!」
 叫んで、パンサーは唐突に振り返って急停止する。その背後にはすでに炎を従えた彼女の半身が立ち上がっていた。
「伏せろ脳筋ども!」
 言われて、彼女の後方に位置していたスカルとブレイドは転がるようにして床を滑って身を横たえる。その頭上や鼻先を炎の波が舐めるように渦巻いてシャドウたちに襲い掛かった。
 また赤々と燃える炎を追ってノワールが身を翻す。
「爆発ばかりが私の武器じゃなくってよ―――」
 炎に身を巻かれて悲鳴を上げるシャドウたちに発砲音とともに次々と弾丸が撃ち込まれる。それは寸分たがわず頭部を打ちぬいていた。
「ほらね、どうかしら?」
 腰に手を当ててふふんとふんぞり返ったノワールの背後で無謀の女が高らかな笑い声を上げている。【女帝】の面目躍如といったところだろうか。
 しかしジョーカーの小脇に抱えられたモナが吼える。
「ばかっ! 油断するな!」
「まだ一体残ってるよ! ノワール避けてぇっ!」
 ナビの悲鳴じみた声を受け、スカルとブレイドは直ちに起き上がって得物を振り上げた。
 鈍い金属音が曲刀と両刃剣、長物の間で響いた。スカルとブレイドの得物がまっすぐにノワールへ突き入れられたシャドウの凶刃を防いだのだ。
 そのまま二人は息を合わせて二振りの刃を跳ね上げた。大きく空いた胴に踏み込んだクイーンの捻りの効いた拳が打ち込まれ、シャドウは悲鳴を上げることすらできずに頽れると床に伏せてかき消えた。
「ふうっ! ノワール、怪我はない?」
「うん、大丈夫……うう、お手数をおかけしました」
「いいのよ。ずいぶん片付けてくれたんだし」
 さっと通路を見回し、ナビへ目線を送る。小さな少女はむーんとしばらく唸っていたが、やがて
「とりあえず、追いかけてきてたヤツらは一掃できたみたいだな」と応えた。また続けて来た道に目を向けてジョーカーに水を差し向ける。
「んでも警戒は相変わらずされてるようだし……どうする、ジョーカー」
「まずはこの通路を抜けよう。三人も使い物にならないんじゃ話にならない」
「うっぐ……」
 使い物にならない三人が呻く。
 ジョーカーはふっと口元を緩ませてひらりと手を振った。
「しばらくは俺とモナ、クイーンとフォックスで凌ぐぞ。ノワールは援護、パンサーは怪我人の支援だ」
 応じる声が返されて、ジョーカーはモナを肩に乗せたまま先を行って歩き出した。
 指名されなかった二人は項垂れながらそれに続いた。

 程なくして一同は通路から個室へ辿り着く。
 と―――
 ボン! と小規模な爆発音を立てて先頭を歩いていたジョーカーの姿が煙とともに仲間たちの視界から消える。
 ぎょっとして、頭領たる彼の姿を探さねばと次鋒を務めていたフォックスもまた部屋に足を踏み入れる。
 再び小規模な爆発音が響いて彼もまた姿を消した。
「えっ、なに? 罠!?」
 身構えるクイーンらに、しかしナビは不思議そうに首を傾げる。
「これは……なんだこれ。んん? ジョーカーもフォックスもそこ、目の前にいるぞ? HPも減ってないし……軸が移動したわけでも……」
「でも、二人はどこに?」
 足元から答えが与えられた。
「チューッ!」
「チュッチューッ!」
 ……二匹のネズミが二人が消えた地点で飛び跳ねている。奇妙なことにこの二匹は消えた彼らと同一のデザインの仮面を着けていた。
「まさか……」
「あ! それ! ほらやっぱり目の前にいた!」
「ジョーカー!? フォックス!?」
「まーたネズミになっちまったのかよお前……」
 ジョーカー・マウスとフォックス・マウスはチューチューと何かを訴えているが、スカルにネズミの言葉などわかるはずもない。
 彼はちらりとモナのほうを見て、
「なあモナ、何言ってっか分かったりしねぇの?」と諦観の境地で問いかける。
 猫は首を左右に振った。
「いや、ネズミ語はわかんねーよ、さすがに。でもワガハイ、なんだかこいつらを見ていると……ワガハイは……」
 ネコ型生命体から注がれる視線に、ジョーカー・マウスとフォックス・マウスは後退った。
「ワガハイ、は……にんげンにゃんだから……こんニャの……にゃ……」
 危険な雰囲気を察知して人の形を保っている仲間たちが手を伸ばしたが遅きに失した。
 モナは明らかに興奮しきった声を上げ、二匹のネズミに飛びかかった。
「ニャあうぅーっ!」
 そしてポン、と小規模な爆発音が響く。そこにはやっぱりネズミが転がっていた。
「ぷぷぷ……モナ、なんか電気出しそう」
「十万ボルトくらいな」
 ナビとスカルのからかうような声に、モナ・マウスは地団駄を踏んだ。
 さておき、部屋を覗き込んだノワールが室内に置かれた彫像を指し示す。
「ねえ、あれ……」
「獅童正義の像かな。あれがどうかした?」
 ブレイドが反応すると、ノワールは口元に指を添えて小首を傾げる。
「目が光ってるのが気になるなって」
 確かに彼女の言葉通り、獅童正義を象った像は瞳に人工的な輝きを宿している。おそらくは内部に電球かなにかが仕込んであるのだろう。
「うむ、ノワールお見事。あれが仕掛けの本体だな。獅童の目には我々がネズミとして映るってことだろう」
 これも認知の歪み、というやつだ。
 語って、ナビの指もまた像を指し示す。
「というわけだ、ぶっ壊してこいマウスども!」
「チュウ!」
「チュッチュウ!」
「チュッチュー!」
 三匹のネズミは直ちに像に走り寄り、一斉に取り付こうとして……
 そのつるりとした表面に爪をかけることも出来ずに三匹揃ってひっくり返った。
「知ってた」
「そうなるよね」
 パンサーとクイーンが当然と言わんばかりに頷く横でナビは声を殺して笑っている。ブレイドもまた壁に額を打ち付けて小刻みに震え始めた。
「うくく……っ、と、とりあえずお前ら、戻ってこい。それの有効範囲は部屋の中だけっぽいから、廊下にまで出れば……」
 三つの小規模な爆発音が響いて、マウスたちは人の姿を取り戻した。
「ひどい目に遭った……」
 戻るなり呟いたフォックスにブレイドはますます激しく震え出す。どうやら笑っているらしいと見て、彼はその細い肩を掴んだ。その隣でジョーカーもまたナビの肩を掴む。
「うわフォックスやめ」
「待てジョーカー落ちつ」
 二つの小規模な爆発音。
「チュウチュウチュウ!」
「チューッ! チュチュー!」
 転げながら不平を訴える二匹に、今度はパンサーとクイーンが決壊した。盛大に噴き出した口元に両手を当て、しゃがみこんで震えだす。
 二匹のネズミは直ちに引き返して人の形を取り戻すと、今度は彼女たちを部屋に押し込んだ。
「あっちょ……チューッ!」
「チュウー……」
「あーもうやめろやめろ! これ無限に続くやつじゃねーか!」
 わにゃわにゃと喚いて暴れるモナを抱え上げたスカルががなる。
「モナちゃん落ち着いてー、ほーら、シーシー、ホーイホーイ」
「センパイそれ牛連れてくるときの掛け声だからぁ! っだー! どーすんだジョーカー! これ以上進めねーぞ!」
「かと言って戻ればまた追われることになるだろうな」
 来た道を一瞥するフォックスに、人の姿を取り戻して立ち上がったクイーンが応える。
「ふう……とにかくこの仕掛けをなんとかしなくちゃよね」
「あの状態でシャドウに見つかったらヤバいよ」
 同じくパンサーが。
 ジョーカーは腕を組んでふうむと唸った。
「認知の歪み、となるとナビもお手上げか」
「うーん……あれのナカ見てみないとなんとも言えないけど、たぶんソフトじゃなくってハードの問題だとおもう。単純なオンオフの切り替えってなるとわたしもちょっとな」
「どゆこと?」
「電子制御じゃなくって、スイッチ式っぽいってこと。メインシステムに侵入できれば船全体の電源そのものから落とすこともできるけど……」
 パンサーの疑問にとうとうと答えつつ、ナビもまた腕を組んで唸る。
「それをしたら今度は開かなくなるドアも出てくるかもだし、パレス全体に『JOKER WAS HERE』って宣言するようなもんだよ」
「それはそれで望むところだけど」
 ふっと鼻を鳴らした頭領に仲間たちの冷たい視線が突き刺さる。
「ゴホン! 地道に行くしかないか。と、いうわけで……」
 ジョーカーの手が勢いよく広げられ、仲間たち全員を抱きしめるように掴みかかると勢いよく部屋に押し込んだ。
 九つの小規模な爆発音。
 そして現れた九匹のネズミたちはわやくちゃになってしばらくなにかを揉めていた様子だが、やがて一列になって通気口へ入っていった。

……

 一週間が経過する。
 少し落ち込むようなことがあったから、という理由だけではなかったが、は四軒茶屋の路地に並ぶ古ぼけたテナントビルの一つを訪れていた。
 エレベーターを降りて狭い通路を進み、目当てのドアを押し開ける。
 するといかにも低血圧らしい声がとても歓迎しているとは言えない態度でもってを出迎えた。
「今日の診察は午後から……」
 受付カウンターの向こうでカルテに目を落としていた女はちらりと目線を上げ、ほんの少しだけ口元を緩めてみせた。
「なんだ、キミか」
「お久しぶりです、武見先生」
 朗らかに微笑んだ彼女の様子に武見は目を細めた。それは眩しいものを見たかのようでもあるし、健康状態を確認するようでもあった。
「よく効くおクスリでも欲しいの?」
「薬は他のところで処方してもらっていますよ。お昼はもうお済みですか?」
 言って、は腕に抱えていた紙袋を女医の目に映るよう掲げてみせる。白地の紙袋にはスープ専門のチェーン店のロゴが印刷されていた。
「差し入れ? ありがと。じゃあこっちはコーヒーで支払おうかな。インスタントだけど」
「へへ、十分です」
 笑って、少女は武見医院の事務スペースに滑り込んだ。

 食後のコーヒーを楽しみながら、武見はの現状をよく理解しようと多くの質問を投げかけた。
 専門ではないなどと一々合間に挟みつつ、それでも少女の周辺を取り囲む環境や彼女自身が健全な方向に向かっていることを知るたびに武見は微笑んだ。
 やがてすっかりを健康体と見なしたのだろう。武見はふっと息をついてほんの数か月前のことを懐かしむ顔を見せた。
「そもそもは彼の紹介でうちに来たんだったね」
 は頷いてこたえる。
「そうですね。先生は内科の医師だってのに……何考えてたんだろ」
「それだけキミのことを心配してたんでしょ。カワイイところもあるもんね」
「ふふふっ、先生からしたら彼も形無しですね」
 共通する知り合いであるところの少年を槍玉に笑い合うのはいかにも趣味の悪いことではあるが、咎める者は誰もいなかった。時計は十二時半を指しているから、診察を希望する患者もまだ姿を見せることはない。
 だからだろうか、武見は黒塗りのマグカップを傾けながら興味深げに切り出した。
「あの子、普段はそうでもないんだ?」
「彼ですか?」
 首肯した武見に、は脳裏に『彼』の姿を思い描く。どこにでもいそうな平凡な高校生らしい背格好。猫背気味の背中に猫を背負った歩き姿。暖かな眼差しで皆を見守っていたかと思えば唐突に冗談を言って奇矯な振る舞いをしてみせたり。
 ……因縁を断ち切り、運命とでも言うべきものを打ち倒したあの横顔を思い出す。
 獅童正義の横っ面に拳を叩き込んだ彼は、初めて見せるスッキリとした表情で皆に告げたものだ。
『一週間くらい便秘してからクソひり出した気分』
 最低だった。主に女子一同から総スカンをくらった彼はその後、相棒の靴下猫から紳士たる振る舞いについて長々とお説教をされたらしい。
 は苦笑して武見に言う。
「まあ、そうですね。すぐふざけるし、訳のわかんないことばっかり言ってみんなを混乱させたり……かと思ったらすごく頼りになったり、そのくせ最後の最後でカッコつけ切れない。変な人ですよね、本当に」
 でも、皆そんな彼に救われてきた。そんな彼だったからこそ、ここまでやり遂げることができたのだ。
 『クソをひり出した』とまでは言わないが、だってすっきりとした気持だった。怪盗団に向けられる目や世論はまた騒がしくなっているが、それよりも爽快感のほうが強い。なんの気兼ねもなく武見の元を訪れることができたのがその確たる証拠だった。
 武見はしかし、そんな彼女の清々しさを濁らせるように顔を逸らし、ぽつりと寂しげに呟いた。
「そう……やっぱ、同年代にしか見せない顔ってのがあるんだ」
 聞かせるつもりはなかったのだろう。声は小さく、不明瞭で、集中していなければ聞き逃してしまいそうだった。
 幸か不幸かこれをしっかりと聞き取ってしまったは、嫌な予感を胸に抱いてぎこちなく問いかける。
「先生? 今なんと?」
 武見ははっとして、誤魔化すようにぎゅっとマグカップを両の手で握り込む。
 そして、はそのマグカップに見覚えがあった。
 いつも世話になっているから。もそうだろう。気兼ねなく受け取ってもらえるようなプレゼントはないか考えてくれないか―――
 そう言われたのはそんなに遠い記憶ではなかった。はどことなく照れくさそうな様子を見せる『彼』にあれこれと考えを述べてやった。日常的に使える物でそこまで高価じゃなく、先生の趣味を考えてあまり淡い色合いや派手過ぎるデザインは避けて……
「先生まさか」
 まさかあなたまで。
 喉まで出かかった言葉は武見の剣呑な目つきによって押し返された。これ以上の追及は許さないと瞳が語っている。
 もちろん、とて心得ている。人のそんな、プライベートな感情に土足で足を踏み入れるなんて、良くないことだ。
 しかし同時に高巻の笑顔も脳裏に浮かび上がる。彼のことが好きなんだとまったく正直に明かしてくれた友人の碧い瞳。
 は心の中で武見に頭を下げながらそこへ踏み込んだ。
「先生の前ではどうなんですか?」
 婉曲的な問いかけの底に隠されたものを武見は見抜いているか、あるいは勘違いをしているのだろう。困った顔をして、インスタントのコーヒーを一口。それでも大人の女は彼女の要望に応えてやった。
「そうだね……いつも困った顔してる、かな。しょんぼりしたり、泣きそうになったり……」
 武見は胸の内に彼の姿と思い出を返して玩味しているのだろう。思わしげなため息が艶やかな唇から零れ落ちた。
「かと思ったらあの目……ただの子供じゃないぞとでも言いたげな目。なにかを隠し持ってるって感じの……あの目に見つめられていると……」
 彼女が陶酔とも言える境地に至っていることは見た目からも明らかだった。それはまるきり恋をする乙女か、あるいは女の姿だった。
 は項垂れながら腕を伸ばして武見に正気を促した。
「先生、戻ってきて下さい」
「はっ! あ、いや……その……」
「いいんです、先生。いいんです。大丈夫です。私は違います。彼は本当にただの友人です……」
 武見は、両手で己の顔を隠して膝に突っ伏した。それは照れているようでも己の失態を呪っているようでもあった。
 いいんですよ、先生。重ねて告げたに、武見は呻くように懇願する。
「忘れてくれる?」
 応えては言った。
「もちろんです、先生―――」

 時計の長針が10を指したころに診察待ちの患者が待合室に姿を現したため、は武見医院を辞してテナントビルを早足に脱出した。
 彼女の足は駅には向かわず、真っ直ぐ路地の先―――ルブランへ向かった。その目には険悪な光が宿っている。
「たのもう!」
 荒々しく開かれた扉に、ドアベルが非難するようにけたたましい音を響かせる。
 昼時だというのに客のいない店内で紫煙を燻らせていた佐倉惣治郎は大げさなくらいに肩を震わせ、衝撃で煙草の先の灰が床に落ちる。
「な、なんだ、お前さんか。いらっしゃい」
 驚かすなよ、という彼の言葉を無視して扉を閉ざし、問いかける。
「彼はいますか」
 惣治郎は頭を掻きつつ答える。
「アイツならまだ寝てんぞ」
「どうも! おじゃまします!」
 猛然とした勢いで踏み込んで屋根裏に続く階段を、入ってきたときと同等かそれ以上の荒々しさで上っていく。
 惣治郎はしばらくぽかんとしたまま彼女が消え去ったほうを見つめていたが、やがて床に落ちた灰を片付けようと箒に手を伸ばした。
 さて、階段を上り切ったは屋根裏で退屈そうにあくびをするモルガナに挨拶もせず、真っ直ぐ寝台に歩を向ける。
「あれ? 、お前一人か? どうした―――」
 遮って、暖かそうな毛布の端を掴んで引っ張り、は声を張り上げる。
「起きなさいこの女たらし!!」
 大声にモルガナは毛を逆立てて硬直した。
 寝汚いことに定評のある屋根裏部屋の主もさすがにこれには驚いて飛び起きる。
「あえっ!? モルガナ、ついに人間に……お前メスだったの!?」
 まだ寝ぼけているのだろう。ばかばかしい勘違いをして目を白黒とさせる少年の胸ぐらを掴んで、はまくし立てた。
「きみってやつは! 仲間内どころか東郷さんや大宅さんだけじゃ飽き足らず、武見先生にまで手を出しているのか!」
 東郷、大宅、武見の名に、少年はやっと覚醒して目の前で怒りに顔を赤くする少女の名前を思い出した。
……? なんの話だ?」
「誤魔化すんじゃない! きみは不誠実だ。いったいなにを考えてこんなに大勢の女性にちょっかいを出してるんだ」
「ま、待ってくれ、話が見えない」
 心底から申し上げるが、しかしは聞き入れてはくれなかった。こういうところが余人から頭脳筋と揶揄される原因を作っているのだとよっぽど言いたくなったが、しかしがくがくと揺さぶられた状態では舌を噛みかねないと少年は口を閉ざした。
「この女の敵! 色事師! カサノバ!」
 いよいよ寝台にまで乗り上げて詰め寄るから逃れようと少年は両手を突っ張ってその肩を押し返さんとした。
「だからなんのことだ! 俺はまだ清らか―――」
「浮気者!!」
 一際大きな声を上げた瞬間、二人の後方、階段の最上段からなにかを落としたような音が響いた。
「あ、アン殿、これはぁ……」
 ……杏?
 モルガナの焦った声と言葉に振り返る。
 そこには確かに呆然とした顔の高巻と、そして喜多川が同じ顔をして立っていた。
「……おはよう、杏、祐介」
 少年がどこか諦観の境地で挨拶をすると、二人はぎこちなくこれに応えた。
「あ、ああ、うむ、おはよう……」
「うん、お、おはよ……もうお昼過ぎてるけどね、あはは……」
 は胸ぐらを掴む手を離し、乱れた襟元を整えてやって、それからゆっくりと立ち上がった。
「……違うんですよ」
 やっとのことで喉から出てきた言葉に、高巻と喜多川は項垂れた。
「いや、いいんだ。その、俺はそいつに用があっただけで、お前が来ていることは知らなくって……」
「わ、私も……ちょっと遊びついでに、どうせ寝てるだろうから起こしてやろーって……」
「ちょっと待って」
「なにも言うな。不用意な発言は死を招くぞ。俺の。泣くぞ、恥ずかしげもなく、ここで、大声で」
「もしかしたらって思うことも時々だけどあったんだ。でも、でも、できれば、教えてほしかったかな……うっ、ふえ……っ」
「あ、アン殿! ワガハイがっ! ワガハイがついてるぞ!」
 目に涙を溜め始めた高巻の周りをモルガナが必死になってぐるぐると回っている。同じくらい目をぐるぐるとさせながら、は声を張った。
「待ってってばふたりとも! ものすごく不本意な誤解をしている!!」
「不本意なんだ?」
 横臥して毛布を被り直した少年が問いかける。彼ははっきりとこの状況を迷惑がっていた。当然だろう。惰眠をむさぼって幸福の象徴たる暖かな毛布に包まれていたところを強制的に引きずり出された上にこの珍妙な展開だ。
 彼は意趣返しとして最大限この場を引っ掻き回すつもりでいた。そのために高巻と喜多川が泣こうが、モルガナがバターになっても構わないというくらいの気持ちで。
 は怒り心頭と彼を振り返って指を突き付けて訴える。
「当たり前だ!! 私はきみのことを異性として見たことは一度も無いっ!」
 断言である。少年はうつ伏せになって枕に顔を埋めた。彼にだってそんなつもりは微塵も無いが、そうもはっきり言われてしまうと繊細な思春期の心にひびが入る。
 もうこのまま全部放り投げて寝てやろう。
 心に決めた瞬間、高巻が彼にとって愉快なことを言いだした。
「じ、実質、女同士ってこと……!?」
 両手を口に当てて顔を赤らめる高巻の様子は控えめに言ったって愛らしかった。横目で彼女をじっくり眺めて、少年は口を開く。
 しかし彼がなにかを言うより喜多川が乗っかるほうが早かった。
「倒錯的過ぎるんじゃないか!?」
 少年は、二人のちょっと抜けたところを心の底から愛おしく思った。そう思うとなにを見たのか聞いたのか知らないが、単身乗り込んできたのこともまあ許してやろうと思えてくる。
 上体を起こし、あぐらをかいて突き付けられたままの指を見上げる。細い指を伝って手の甲、腕、肩から顔へ。
 目が合った瞬間のぞっと背筋を走る怖気には震えあがった。
 そして彼は言う。
「むしろが男説」
 勘違いを深めた二人はこれ以上はできないところまで目を見開いた。
「ぼぼぼ、ボーイズラブってヤツ!?」
「なんだ、それは……っ!? なんだそれは!」
 少年は再び枕に突っ伏してこみ上げる笑いを噛み殺すことに努めた。
「ちがうから! きみ、二人に妙なことを吹き込むのはやめなさい!!」
「しーらない。三度寝するから起こすなよ……」
「コラァ! せめて誤解を解いてから……いや、先にきみの不特定多数の女性にちょっかいかける癖を改めさせて……」
 枕を抱きしめる腕や肩を引っ張るの背に高巻が縋りつく。彼女はまた目に涙を浮かべて口元をわななかせていた。
「ややややっぱりそーなの……? ひぐっ、う、うえぇ……っ」
「アン殿! アン殿が! ニャーッ!」
 モルガナもついてくる。喜多川も。彼は不審げな顔をしての肢体ををまじまじと眺めては右に左にと首を捻っている。
「結局お前は女なのか? 実は男だったのか?」
 まったく失礼な文言であった。喜多川の目ははっきりと少女の身体の一部分に定まって動かない。あるとかないとか、揺れるとか揺れないとか表現されることのある部位を。
 のこめかみに青筋が浮かび、手は拳を作って振り上げられる。しかし少女の身体には高巻が貼りついて身動きが叶わない。おまけにその背中には己とは対照的で柔らかな感触があって、のほうが泣きたい気持ちになった。
 混迷する状況に少年は心の底から満足げに頷いて、枕元に放置したままの手帳とペンを取り上げた。こんな面白いことは日記に付けておかねばならないとして。
「やってる場合じゃないでしょう!?」
「うわああんのバカバカなんで言ってくれなかったのぉうわああん」
、アン殿を泣かすな! 相手がオマエだとて許さんぞ!」
「ある、ない……いや、しかし骨格は……ハッ、両方……!?」
「今日何日だっけ? まあいいや、えーと……」
 無秩序を極めた空間であった。この世のあらゆる虚無と混沌がそこにあると言っても過言ではない。
 そしてカオスのなかにガイアが姿を現すが如く、調停者が現れた。
「落ち着けぃお前ら!」
 それはオレンジ色の頭をした野暮ったい眼鏡をかけた少女の姿を取った原初の神……ではなく、ただの人間の佐倉双葉であった。彼女は何故か見栄を切るようなポーズを取って一同を見据えている。
「あ、双葉。おはよう」
 手帳から顔を上げて挨拶をすると、佐倉はポーズを崩して腕を組んで唇を尖らせた。
「はいおはよう。まったくお前らは朝っぱらから……」
 唐突な闖入者の存在で一先ず平静を取り戻した客人たちは揃って俯き、項垂れる。
 歩み寄った佐倉は手際よく高巻をから引き剥がし、清潔そうなハンカチを彼女に差し出してやってからこんがらがった糸を解き始める。
「いいかよく聞けお前ら、まず……」
 ズボッと音がしそうな勢いで佐倉の腕がの服の裾から突っ込まれてその慎ましやかな胸のふくらみを鷲掴みにする。
「ぎゃあっ!?」
 腕は直ちに引き抜かれた。佐倉はその感触を教えるように手をわきわきとさせながら喜多川に告げてやった。
は女だ」
「そうか、よかった」
「疑う余地があると……?」
 安堵の息をついた喜多川を胸を押さえつつ見上げる瞳にはこれ以上ない驚愕がある。失望もちらちらと垣間見えた。
 そして佐倉はさらにを驚愕させるようなことを言い出した。
「次、わたしが確認できたところまでだと七人」
「えっ増えてる」
 のぼやくような声は黙殺され、佐倉の指が高巻と喜多川を交互に指した。
「最後、その中には入ってない。マジでお互いに男同士女同士くらいの感覚っぽい」
「失礼な話だよな」
 ぽい、と手帳がまた枕元に放り出される。結局彼が記入できたのは日付だけだった。
「以上だ。何か質問は?」
 どうだこの名采配はと言わんばかりに胸を張った佐倉に、喜多川が律儀に挙手をしてみせる。
「なんだおイナリ」
が女だとして、リーダーはどちらなんだ?」
「見りゃわかるだろ。コイツのどこをどうとったら女になるんだ」
 呆れ返ったモルガナと首を傾げた佐倉に、喜多川はきっぱりと告げた。
「両方という可能性もある」
 真剣に訴える彼に猫は処置なしとその場に倒れるような勢いで寝っ転がった。佐倉はまた、うーんと唸る。
「それはちょっと困る……いや、別に困んないのか? アレ、なんでそもそもわたしが困るんだ。あー、うーん?」
 はしゃがみこんでモルガナに手を伸ばしつつ呻く。脱力した猫は優しく喉を撫でる手を抵抗もせずに受け入れた。ごろごろと喉を鳴らして、目の前に横たわる煩わしい現実を忘れようと四肢を投げ出しもした。
 そんな一匹と一人を見下ろしながら、稀代の漁色家―――濡れ衣だ―――は立ち上がった。そして言う。
「脱ごうか?」
 少女たちはぎょっとして少年たちに目を向ける。彼らはまったく淡々と、短いやり取りを交わした。
「それが手っ取り早いな。頼む」
「いいだろう!」
 応えて、彼は勢いよく寝巻の上を脱ぎ捨てた。
「よくないからっ! わっ、ばっ、バカーっ!」
「えっ、あっ、わああっ!?」
「うわっ、うわっ、ひええっ!?」
 重なった三つの悲鳴などどこ吹く風と喜多川は唸る。顎に手をやってじっと晒された少年の上体を眺め、感嘆の息を漏らした。
「ふむ……」
「どう、この腹筋。ジム通いの成果」
「うむ、見事だ」
「あああ……ああ、な、なんだ上だけか」
 脱力して床にへたり込む少女たちに、少年ははしゃいで応える。
「下もご所望か!?」
「いらねーからっ!!」
「いや、せっかくだからデッサンモデルを頼んでもいいか。というか、今日はそのつもりで来たんだ」
「よしきた」
「きてない! 祐介もやめなさい!」
「えー……」
 再び騒がしくなり始めた屋根裏にもう一人登場する。ムラなく脱色させた金髪頭を掻きながら階段を上がってきたのは坂本竜司だ。
 彼は呆れを隠そうともせずに言う。
「何してんのおまえら」
「ん、竜司。おはよう」
「ウッス。つーかすっげーうるせーなここ」
 屋根裏を見回して、坂本は少しだけ怒ったような顔をしてみせた。
「ていうかなんでお前脱いでんの? 着替え中? 女子の前でそーゆーのやめろよ」
「あ、はい」
 至極真っ当な指摘に、上体を晒したままの少年はいそいそと着替えを漁り始める。喜多川の手が彼のためか己のためかは分からぬが、石油式のストーブに火を入れてやった。
 坂本のお説教はまたそんな彼にも向かう。
「祐介、お前もだかんな。女子連れてってんならお前だけで上がって起こしてやるとかあんだろ?」
「えっ、あ、ああ……」
 目をパチクリとさせる彼をおいて、床に寝転がるモルガナをひょいと持ち上げストーブの前に安置させてやる。
 そして彼は少女たちにも言ってやった。
「ていうかお前らも少しは考えろよ。あいつ寝間着じゃん。せめて先に連絡くらいしてから来いって」
「う、うん」
「ご、ごめん」
 こくこくと頷いた高巻とに満足げに頷いて、坂本は最後に佐倉を指差した。
「双葉も。騒がしくしたらマスターに迷惑かかんだからよ、お前が一番止めてやんなきゃだろ」
 佐倉はあんぐりと口と目を開いて、まばたきを繰り返した。
 やがて指を突き付け返して叫んだ。
「にせものー!!」
「いきなりなんだよ?」
「なに竜司のくせに常識的なこと言ってんだ!! 誰だてめー!!」
「サカモトさんちの竜司くんだよコラ。つーかうるせーってんだって、やめてやれよ、下お客さん来てんだよ」
 ぐっと詰まって、佐倉は頬を膨らませた。
「とりあえず着替えるから、降りてて」
「おう。オラ全員下行ってマスターにごめんなさいすっぞ」
「ぐぬぬ……竜司のくせに生意気だぞ!」
 歯ぎしりと共に坂本を追いかけて佐倉が、顔を見合わせた高巻と、喜多川がぞろぞろと階下へ向かう。
 揃って頭を下げた子供たちを、惣治郎と客の老夫婦は苦笑しつつも快く許してやった。

 さて、着替え終わった少年に促されて店を出た一同は先導されるまま近くの公園に誘われていた。
 ぶぅんと空を切る音を響かせてラケットが虚しく空中を掻き、背後の足元、土の上にシャトルが叩きつけられる音を聞いて坂本は天を仰いだ。
「っだー! はえーよチクショウ!」
「そうでもない」
 こたえて、ネット代わりの縄跳びを挟んで相対する少年は手の中のラケットを腕と手首でもって器用にくるりと回してみせる。
 少年たちは大して広くもない公園を占領してバドミントンに興じているところだった。
「まっ、リュージはスピードタイプって感じじゃないもんな」
 アンパイアを務めていたモルガナが茶化すように言うと、何故か彼は自慢げに胸を張る。
「それそれ! 俺はどっちかってーとパワーファイターだし? つーか、そもそもバドミントンで勝ったからって、バトルで負けるわけじゃねーし!」
「言い訳、おつ」
 日陰でラップトップをいじっていた佐倉が小さく突っ込むのを敏く聞き取って、坂本はラケットを放り出す。勝敗の行方を見守っていたがそれを受け取るのを見届けて、彼は佐倉の隣にどすんと腰を下ろした。
「お? お? な、なんだ? やるか?」
「やってやろうじゃねえかぁコラぁ!」
 少年の両手がオレンジ色の側頭部に伸びる―――
 悲鳴が上がったが、誰もそれを止めようとはしなかった。
 さて、ラケットを受け取ったは落とされたままのシャトルを拾い上げ、手の中で観察する。打ち合いを始める前からいくらかくたびれていたところを見るに、どうやら新品ではなく中古のようだが……
「これ、マスターの?」
 少年は首を左右に振った。
「俺の。すぐそこの店で中古で買った」
 意外な発言であった。もちろん、惣治郎の持ち物と言われればそれもまた意外なことだったろうが……
 そもそも、バドミントンは最低でも二人で遊ぶスポーツだ。それを彼が所持しているということは誰かもう一人と遊ぼうとしたということになる。
 面倒見の良い彼のことだ。佐倉を少しでも運動させるためにと購入したのかもしれない。当の本人は日陰で坂本とじゃれあって少しも興味のなさそうな様子だが。
 仮説はしかし、どこか照れくさそうな声に否定される。
「まあ……その、皆で遊べたら、と思って」
 俺たちが集まるのはシゴト関係であることが多いし。と言って、少年は頭をかいた。伊達眼鏡の奥の目が細められてそっぽを向いてるのを見て、はくすっと小さく笑った。
「可愛らしいことをするじゃないか」
「言い方。というか、結局さっきのはなんだったんだ」
「私が行く先々で知り合う人や話をする人がきみに陥落されている事実がある」
 声を落として告げてやると、少年は口をへの字に曲げてうんざりとした表情を作った。彼女の背後では、高巻が―――服を着用したまま―――背筋を伸ばしてベンチに腰掛け、喜多川のデッサンモデルを務めている。
 思うところがあるのだろう、少年もまた声量を落として応える。
「……明智も言ってたな、それ。けど、俺には心当たりがない」
 明智の名にか内容にか、はわずかに眉を寄せた。
「無意識に口説いてるってことじゃないか。不誠実な真似は慎むべきだ」
「だから、俺の身体は清らかだって……」
「言わなくてよろしい!」
 唸って、はシャトルを高く放った。自重に従って落ちるそれに、足を開いて構えを取り、ラケットを振り下ろす。
 小気味の良い音を立てて弾き飛ばされたシャトルに少年は反射的に腕とそこに握られたラケットを伸ばした。また小気味の良い音が鳴る。
「この際既成事実の有る無しは関係ない!」
「じゃあ何があるって言うんだ!」
「なにも無いのが問題なんだ!」
「あっていいのか!」
「いいわけがあるかぁ!」
 二人の間で激しく行き来させられたシャトルは最終的にのひと際強いスマッシュによってネット代わりの縄跳びの上に叩き落された。
 モルガナが難しい顔をして尾を振る。シャトルは本当に見事なことに、ロープの真上に垂直に座していた。
 また睨み合う二人の間には奇妙な緊張感が張り詰めている。
 はやはり声を抑えて言った。
「斎藤さんとオトモダチなんだって?」
 ぴくりと少年が片眉を跳ね上げさせる。
 斎藤とは家に勤める齢五十になる通いの家政婦であり、パーソナルシェフの資格も持つ女性の名である。少年は一度家政婦という言葉に無謀な夢を見ての家に乗り込んだことがある。メイドという言葉が彼を狂わせたのだ。
 さておき、斎藤という女性は若いころは三ツ星レストランにも勤めていた料理人としての立派な経歴を持ち、そこで出会った男性と三十を前に結婚。二人の子を儲けたが十年ほど前に夫に先立たれ、そこから女手一人で子を育てるために家政婦業と料理人業を並行して行ってきた。近頃は子供たちも家を出て自立し始めたため、仕事はほとんど趣味のようなものだと語っている。
 年の割に溌溂とした外見を保っているのは仕事に精を出しているからだと本人は語っているが―――
「きみが年上好きであることは既に把握している」
「うっ!」
「というか、私のお母さんともよく話すよね。やめて」
「あ、アイムユアファーザー……」
「斬り落とすぞ」
「なにを!?」
 思わずと前屈みになって己の男としての矜持を守った少年に、は鼻を鳴らして腕を組んだ。シャトルはまだ直立している。
「明智吾郎も言っていたけど……痛い目を見る前に決断すべきだ。このまま行くときみは十中八九酷いことになるぞ」
「そうは言っても、俺には心当たりが無いんだぞ。どうしろって言うんだ」
 は親指でもって密かに己の背後を示した。そこでは相変わらずモデルを務める高巻とそれを写し取る喜多川の姿がある。
 少年は目を逸らして言った。
「祐介か……悪いけど俺、そういう趣味はないんだ。あいつきみの傍を離れないよとか言うタイプじゃないし……」
「誤魔化すにしてももっと他に言い様があるでしょうが、喧嘩売ってるの。言おうが言うまいが許さないから」
「すいません。いや、ほんとちょっと……そういうの無理っていうか……あっちがダメって言うんじゃなくて……」
「ヘタレ野郎」
「はい、すいません。ほんと口悪くなったね」
「きみのおかげでね」
「ほんとすいません。お母さんにもよく謝っておきますので」
「や・め・て」
「はい」
 シャトルはぱたりと少年のほうに向かって倒れた。
「あ、の勝ち」
 モルガナの声に、はラケットを握ったほうの腕を高々と掲げた。そして空いたほうの手で少年に指を突き付ける。
「警告はこれっきり。あとはきみの好きにしたらいい。でも武見先生でも大宅さんでも東郷さんでも私の知らない誰かさんでも斎藤さんでも私のお母さんでも……最後のは全力で阻止させてもらうけど……私としては杏を推すけど、そこはきみの自由意思に委ねることにする。とにかく誰か一人。そしてその信頼を裏切らないように」
 でなければ―――
 はきつい眼差しを仲間であり自分たちを率いるリーダーであるはずの少年に向けた。
「ひっどいことになるからね」
 少年の脳裏に散々手を焼かせてくれた仇敵の最期の言葉が蘇る。
 獅童正義のパレス、豪華客船の地下部分、明かりの乏しい機関区域と貨物区域を繋ぐ通路、決定的な断絶を示すかのように降ろされた隔壁。その向こうから響く明智の妖しげな囁き……
『君の勝ちではあるけど、男としては僕のほうが数段上だから。早目に一人に絞らないと後悔することになるよ。でも、ヘタレの君には難しい注文かな? じゃあね、童貞クン!』
 高らかな笑い声が耳にこびりついている。少年は思い切り顔をしかめてシャトルを蹴り上げた。
 そして思う。
 なんであいつは俺が『未使用品』だって知ってたんだ。
 落ちてきたシャトルを捕まえた手をじっと見たが、彼には一ミリも理解できなかった。

 じっとしていることに耐えられなくなった高巻が少年からラケットを奪い取ってとラリーを始めたのはそれから十分もしないころだった。
 置いてきぼりにされた喜多川はしばらく追い縋る格好で固まっていたが、やがて気を取り直して佐倉とモルガナをベンチに座らせて一人と一匹を素描し始めた。
「『もう』? 『で』? 『いい』? ってどういうことだ! 描かせてください双葉さま、だろお!?」
「おい動くな。モルガナが落ちる」
「おおおっ、ゆさぶっ、るっ、なっ! あばばば……」
 騒がしさから取り残された少年と坂本は日当たりの良いところに並んで座り、和やかな雰囲気でラリーを繰り返す少女たちを見るともなしに視界に収めている。
 その口からは益体もない雑談が続いている。揺れるだとか揺れないだとか、ああいう髪型が良いとか悪いとか……
「真も春も暇じゃないんだなー」
「あと二週間くらいで期末だし。二人はセンター試験もある。むしろなんで暇だと思えるんだ」
「二人とも推薦じゃないっけ?」
「センター必須のところもあるよ。国公立とか」
「おええ……」
 げんなりとしながら、坂本は地べたの上にあぐらをかいた。冬の日が傾き始めた頃だが、地面はまだ暖かさを保っている。
「俺らも来年は受験かー……あー……」
「頑張れ、竜司」
「他人事みたいにぃ。つか、お前はどーすんの? 地元で進学すんの?」
「……どうしようかな」
 誤魔化すような言い方だった。
 いつもなら坂本はそれを察して話題を切り替えるか適当に話を合わせてその誤魔化しに乗ってやっただろう。隣に座る友人が生まれ育った土地での経験をあまり話したがらないことを彼はよく知っていた。
 でも、もういい加減甘やかさなくたって構いやしないだろう。
「お前さ、なんで俺のこと助けたん」
 少年は驚いて目線を向ける。坂本は困ったように頭を掻いて「なぜ今更そんなことを聞くんだ」と言いたげな瞳に答えた。
「まあ、やっぱ、気になるじゃん」
 今度は少年のほうが困り顔をする。
「言う必要ある?」
「わかんね。一応、察しはついてる。けど、答え合わせは必要だろ」
 どことなく照れたふうに告げる彼に、少年は偽りを述べたってよかった。つい今しがたしたように適当に誤魔化して有耶無耶にすることも、質問自体をなかったことにすることもできた。
 けれど、もういい加減甘える必要もないだろう。少年は正直に答えた。
「状況的にも殺されそうでヤバかったし、鴨志田のしてることを見て許せないって思った……ってのもあるけど、一番デカいのはやっぱり、お前は俺だと思ったからかな」
 首を傾げる坂本に、少年は続ける。
「俺、サッカーやってたんだ。結構有名で……知ってるだろうけど」
 なにかあるとすぐに文明の利器を頼って検索し始める彼のことだ。とっくに自分の名前くらいは検索済みだろうと暗にほのめかして言ってやると、坂本はまったく素直に首を縦に振った。
「うん、知ってる」
「だよな。地元のプロチームに入らないかなんて声もかけられてた。本気だったかは今となっちゃわからないけど……」
「ああ、だから俺はお前、か。ふうん……」
 納得したのかしないのか、中間のような反応を返して、坂本は手の中のスマートフォンを操作し始める。
「お前さ……」
「なに」
「昔は坊主頭だったんだな」
「は?」
 瞠目して聞き返す少年に、坂本はにんまり笑って液晶画面を突き付けた。何年か前の地方紙のネット掲載版が地元スポーツチームの活躍を綴っている―――
 掲載された写真の中には確かに面影を残した昔の少年の姿があった。
「これ中学のころの?」
「やめろやめろ!」
「つーか黒っ、日焼けで真っ黒じゃん。ウケるぅ」
「お前だってそうだっただろ!」
 腕を伸ばしてスマートフォンを奪い取ろうとすると、坂本は素早く身を翻して遠ざける。
「必死か」
「うるせえ」
「まあ……あんがとな」
「うるせえ……」
「……お前、学ランだったんだな」
「うるせーっ!」
 よほど過去の姿を知られたことが恥ずかしいのか、少年は膝を抱えた格好で頭を抱えて坂本に背を向ける。そばの歩道を母親に手を引かれて歩いている少女が不思議そうな顔をして彼を見ていたが、もはや取り繕う余裕もなかった。
 坂本はスマートフォンをジャケットのポケットに放り込んでまた問いかける。
「じゃ、地元に戻ったらまたサッカーやんの?」
 沈黙が返される。やがて少年は九十度反転を行って元の位置に納まると、膝を抱えたまま告げた。
「お前と同じ」
「あん?」
 聞き返した友人に、少年は意趣返しと言わんばかりに唇の端を釣り上げた。
「今は竜司クンの面倒見るので手一杯だと言ったんだ」
「ンだとコラ!」
 堪え切れなかったと言わんばかりの笑い声を上げて背を逸らす少年の顔に暗い影は見当たらなかった。
 ふざけているとか、場の空気を入れ替えるためだとか、なにかを誤魔化すためではなく、心の底から愉快そうに笑っている。