23:Light My Fire

 断続的に続くかすかな振動とノイズに少年はうとうととしながら車窓の向こうを流れる景色に目を向ける。
 対向車線のヘッドライト、街灯、家々の明かり……後方へ流れて行くそれを見つめる目はどこか虚ろで、その身体には痛みと疲労が山と積まれていた。
「まだ薬が抜け切っていないのね。少し寝なさい」
 後部座席に横たわっていた彼に運転席から怜悧な声がかかる。車内に満ちる暖気と正反対の冷たい声……
 しかし彼は今や、その奥に隠された温もりを暴き、盗み出して手中に収めている。
「冴さん……」
 かすれた声で呼びかけると、女はじっと進行方向を睨みながら「何?」とやはり感情を抑えた声で応えた。
「真のこと、怒らないでやって欲しい」
 冴、と呼びかけられた女の唇がきゅっと引き結ばれるのをバックミラー越しに見つつ、少年は続ける。
「あいつはいつも俺のことも、みんなのことも助けてくれた……怪盗団の仲間だからというだけじゃなくて、友達として……真は……あいつは……」
 語尾は段々と不明瞭になって弱まり、程なく少年は眠りに落ちた。
 首都高速を走る車内は規則正しい呼吸音とかすかなエンジンの駆動音、延々と暖気を吐き出し続ける空調の音だけが響いている。
 新島冴は小さく息をついてバックミラー越しに寝入る少年の顔をちらと見やった。まだあどけなさの残る顔には痛々しい青あざが浮かび、目の下は濃いくまによって黒く変色してしまっている。
 こうして見れば彼はほんとうにどこにでもいる男子高校生の一人にしか見えない。きっと己が知らぬ場所ではよく笑い、はしゃぎ、勉学に励み、まだ知らない多くのものに目を輝かせて未来を臨み、そして友人が家族とうまくいかない可能性を思って胸を痛めたりする―――
 ただの心優しい一人の少年に過ぎないのだろう。
 けれどその心優しい少年はただ優しいだけでは許されなかった。彼から取った供述を胸に返して冴は眉を顰める。
 打ちのめされた少年の前に助けを必要とする誰かが現れたのは四月のこと。少年は我が身を守るためか、それともその優しさ故かは分からないがその誰かを救ってみせた。すると彼の進む先にまた困難にあえぐ者が現れる。それを拾い上げるとまた次が。次を片付ければまたその次。次の次にはまた次の次の次……
 冴は彼の境遇を悲しく思った。
 彼が救ってきた者たちは、きっと本来私たち―――大人である私たちが救うべき者たちだったはずだ。
 何故私たちは彼がしてきたように苦悩に晒される人々を見つけ出してやることができなかったのだろうか。それは現状の司法の仕組みの問題であるとも、心構えの問題であるとも言えるだろう。
 こんなふうに思えるのも、彼が私の心を盗んだせいかしら。
 思い、冴はふっと口元を緩ませた。
「心を盗まれる、なんて……ふっ、この私がね」
 穏やかな表情を浮かべた女は妹のことに思いを馳せた。
 しっかり者の優等生。才色兼備。文武両道。そうとも、彼に言われるまでもない。あの子は自慢の妹だ。
 冴はアクセルを踏み込んだ。一分一秒でも早く、妹に会いたくてたまらなかった。

 そして少年は夢を見る。
 夢の中で彼は見覚えのある場所に立っていた。
 歩き慣れた暗い夜道。街灯が瞬いて女の悲鳴が響く。彼は走り出してそこへ駆けつけた。すると酒に酔っているらしい暴漢に腕を掴まれた女が震えている。
 少年はこれが夢だと分かっていた。
 だからこそ冷静になって『もしも見なかったふりをして通り過ぎていたらどうなっていただろうか』と考える。
 そうすることもできた。なにしろこれは夢なのだ。そうでなくたって咎められる謂れはない。
 震えながら踵を返そうとした彼の左右を挟むように、気が付くと蒼い衣装に身を包んだ少女たちが立っていた。不思議なことはなにもない。何故ならこれは夢だからだ。
「逃げるのか? 囚人」
「構いませんよ。好きになさい」
 ぎょっとして動きを止めた彼の顔を下から覗き込んだ少女たちの顔は瓜二つだった。
「そうとも。どこまででも逃げるがいい」
「現実のあなたは変わらず檻の中ですが」
「どうした、行け。目を閉じ、口を覆い、耳を塞いで、愚衆のように生きるのも一興だ。それはそれできっと楽しいさ」
「人の生は所詮瞬きをするが如きもの。あなた一人がどのような選択をしようと大勢に影響などありませんよ」
 妖しい誘惑にぐらつく少年の胸にふと過るものがあった。彼はそれを双子に問いかけた。
「あいつらはどうなるって? あいつら? ああ、お前の連れ合いどもか。さて、どうなるとは……これは異なことを言う」
「まったく、愚かな囚人ですね。とはいえ、あなたは一つ試練を乗り切ったばかり。褒美を上げてもよいかもしれません」
「甘やかすな、ジュスティーヌ」
「鞭ばかりでは人は動きませんよ、カロリーヌ」
「む……確かに、お前の言うことにも一理あるな。よし、いいだろう! 囚人、お前に褒美をくれてやる!」
「喜びなさい。これは『リスト』にはありませんが―――」
 双子の手がそっ、と少年の背に触れる。柔らかな感触と暖かさはしかし、直ちに振り上げられて思い切りよく少年の背中を押して彼を突き飛ばした。
「しかし必然ではあります。励みなさい、囚人」
 たたらを踏んだ少年の耳朶を叩く双子の笑い声を吹きすさぶ風がかき消した。
 気が付けば彼は夜道でも監獄でもなく、どこか荒涼とした土地に建てられた城塞の敷地内に立っていた。
 この光景には見覚えがあった。直接見たわけではないが、建物の配置や感じる空気に覚えがある。これは唐津某のパレスではないか―――
 瞬きをくり返して呆然とするが、長くは続かなかった。
 いつの間にか彼の傍らにはよく見知った姿があった。傷だらけの小さな体躯に見合わぬ長剣を構えるのは―――ブレイドだ。
 思わずと声をかけるが、どういうわけか彼女は彼の存在にまったく気が付くことが出来ない様子で歯を噛んでいる。
 その視線の先には獅子と鷹、蛇を掛け合わせた怪物が幽鬼を従えて立ち、彼女を見据えている。
 合点がいって少年はなるほどと頷いた。どうせこの少女のことだ、堪え切れずにパレスの攻略を敢行してしまったのだろう。少年はきょろきょろとあたりに視線をやった。そして少し離れたところにあるフォックスの姿を見て安堵の息をつく。よかった、いてくれたか。
 それならばこの場は自分がいなくても大丈夫だな……と思いたいところではあるが、しかし二人は満身創痍と言っていい。少年は苦笑して一歩を前に踏み出した。
 いつしか彼は寝入る前にまとっていたはずの制服ではなく黒衣を身にまとってそこにあった。
 荒い息をつくボロボロの少女の肩に腕を回す。すると少女は初めて彼の存在に気が付いたと言わんばかりに目を見開いた。
 少年はにっこりとして彼女に囁いてやる。
「手を貸そうか?」
 すると少女は苦笑して
「見て分からないの。さっさとして」などと可愛くないことを言う。
 なんて尊大な物言いだろう! 初めて会ったときはこんな子じゃなかったのに……
 この変化を成長と取るべきか、ガラが悪くなったととるべきか。迷ったが、しかし彼からすれば今の彼女のほうがよっぽど『アリ』だった。
 少年もまた苦笑してその背を叩く。傷に響かないよう、極めて優しく。
 するとそれを契機に風景が歪み始める。少年は直感的に夢が終わることを悟った。
 ならばと入れ替わりに彼女を支えた腕に言い残す。
「すぐ戻るから。ここは任せた」
 フォックスは困り顔をしてはっきりと彼を見つめていた。その目は幻覚や妄想を見る目でなく、彼が某かの確信をもって少年の姿を捉えていることが見て取れる。瞳の奥には小さな興奮もあった。
 フォックスは唇の動きだけで言ってやる。
「いいからさっさと自分の身体に戻れ」と。
 薄れゆく景色と意識の中、二人の元へ駆けつけようと疾駆する仲間たちの姿を捉える。
 竜司、モルガナ、杏、真、双葉、春……一人ひとりの名前を呼んで、少年は微笑んだ。
 みんな無事か、良かった。この身を張った甲斐があった。お前たちが無事でいてくれることがなによりの報酬だ。俺を信じてくれてありがとう……
 日ごろ言おうとしてもなかなか言い出せない言葉も、夢の中ならすんなりと口にすることができた。
 それともこれも、薬の影響だろうか?
 やがて少年は再びあの暗い夜道に佇んでいた。そこにもう双子の姿はない。引き換えにか、見覚えのある姿が蒼い炎とともに佇んでいた。
 それは彼自身でもあった。トップハットに濡れ羽色の翼、強烈な赤と黒のコントラスト……
「アルセーヌ」
 彼は己自身であるそれに声をかけた。半身は応えない。まんじりともせず中空に漂って、じっと片割れであるところの少年を見下ろしている。
 もうずいぶん前に―――処刑という形で―――心の海へ帰したはずだが、どうしてまたここにいるのか。
 するとアルセーヌは彼に語りかける。
「間違ったことをしただろうか?」
 彼らの前には再び過去の光景が繰り返されていた。酔漢に腕を掴まれて助けを求める女性が悲鳴を上げている。
 少年は一部の迷いもなく答えた。
「してない。あのときも今も、俺は自分が間違ってるなんて思ってない」
 断固として告げた彼に満足げに頷いて、しかしアルセーヌは再び問いかけた
。 「ならば何故震えている」
「……だって」
 叱られた子供のように俯いて少年はこたえる。
 だって誰も……
 アルセーヌは何も言わなかった。それは彼自身なのだから、彼が抱く怖れはまた彼自身のものでもある。
 夜の闇はゆっくりと揺らぎ、街灯がひと際強く瞬いて落ちる。完全に閉ざされた闇こそが今度こそ夢の終わりを告げていた。

 そして目覚めて少年は言った。
「やっべ……今、死にかけてた……」
 それは冴を動揺させるには十分過ぎる効力を発揮して、危うくハンドルを切り損なわるところだった。

 そのようにして『ジョーカー』は生還する。密かに、敵には死んだと思わせたまま。
 問題があるとすればそれは敵―――精神暴走事件及び廃人化事件の真犯人の姿が相変わらず茫としたままであることだろう。
 しかし少なくとも範囲は大きく狭まった。敵は一定の秩序をもって組み立てられた、一般、特別司法にまで力の及ぶ組織……つまり、政府に属する者である。
 考えてみればこれは当然のことだった。認知訶学を利用した犯行を行う、あるいは行わせている以上、黒幕はこれになんらかの影響力を持っていることになる。そしてその研究は政府直下のシンクタンクによって行われていた。
 であれば訶学……科学技術の研究なのだから文部科学省かというと、これは佐倉が否定した。認知訶学研究の第一人者である彼女の母、佐倉若葉の人事ファイルには文部科学省の「も」の字も無いというのだ。
 それではどこか。司法との強いつながりを考えると警察庁か。確かにここにも研究機関は存在しているが、認知訶学と結びつけるにはどうにもピンとこない。
 ここに新島冴が登場する。
 怪盗団への協力を約束した彼女が情報の提供を申し出たのだ。
「今ならこちらの内部もごたついているから、資料の持ち出しは容易よ」
 重々しいため息をつき、彼女は苦笑して子供たちを順に一瞥した。
「このタイミングで経費詐取の飛ばし記事なんてね……これもあなたたちよね。そうでしょ?」
 少年たちはあらぬ方向へ目線を投げてそらとぼけてみせた。
「よくもまあ、本当に……怖いもの知らずというか向こう見ずというか」
「こっちはリーダーがボコされてるんですよ、もっと派手にやってやったってよかったくらいです」
 腕を組んでつんとする高巻に、冴は肩をすくめた。
「少し時間を頂戴。あなたたちへの監視も停止とはいかないまでも多少は緩めさせることも可能だから、羽目を外さない程度に休んでいて。ただ……あなたはしばらく大人しくしているほうがいいでしょうね」
 満身創痍でうとうととする少年に向けて吐かれた言葉に、一同は然りと頷いてみせる。
 怪我のこともあるが、なにより彼は死人なのだ。その辺をのうのうと歩き回られて厄介ごとを招かれても困る。
 そのようにしてこの日は解散となる。

 本当に長い一日だった。
 そして―――

 そして、怪盗団のリーダーにしてリーサルウェポン、エースインザホール、フィニッシュブロー……ワイルドカードが、ちょっと薬を盛られて怪我をさせられた程度で大人しくしているわけがなかった。
 青々と晴れ渡った冬空の下、目深にフードを被った彼は天に向かって拳を突き上げて高々と宣言する。
「オペーレーション:オーバーバイトタートル!!」
 出っ歯の亀太郎。これに集った仲間たちが返した反応は様々だった。
「またそれぇ?」
 うんざりした様子を見せる高巻。
「ま、いいんじゃねえの……」
 呆れつつも大役を果たした彼を労おうと付き合うつもりの坂本。
「オマエがいつも通りで安心したぜまったく」
 どことなく喜ばしげな様子のモルガナ。
「ま、体調の確認も兼ねてってことなら付き合うわ」
 同じく肩を竦めた新島に、
「まこちゃんまで? 良くないと思うけどなぁ」
 少しだけ怒ったような顔をした奥村が続く。
 最後に佐倉があくびを一つ、スマートフォンをいじりながら「んじゃ賛成多数ね。えーっと待ち合わせ場所は……」と手元を手繰る。
 ルブランの店前に集った少年たちの中に喜多川との姿は見当たらない。
 つまり―――
「くくく……今度こそ出歯亀してやる……!」
 まるで時代劇に出てくる悪代官のような顔で低く喉を鳴らす少年に坂本までもが重々しいため息をついた。
「おーい、帰ってこーい」
「はあ……もう……仕方がないなあ。今回だけだからね?」
 指を立ててたしなめるように言った奥村に、少年は元気よく「うん!」と子供のように頷いた。
 どうやら肉体は健康そのものらしいが、頭のほうはまだ薬の影響があるのかもしれない。
 一抹の不安を抱きつつ、一同は先頭を行く少年に付いて従った。

 向かった先は渋谷から一駅のところだった。
「絶対に二人で出掛けると思ってたんだよ」
 柱の陰に身を隠した少年はしたり顔で立てた人差し指で中空をかき回す。その足元でしゃがみこみ、同じくこそこそとしながら佐倉が頷いた。
「よろしく哀愁ってわけだな」
「もっとスナオにぼーくのー」
 なにを思ったのか声を合わせて歌い出した二人に、隣の柱に身を寄り添った高巻が素早くツッコミを飛ばす。
「ちょっとそこのバカ兄妹、うるさい。バレたらどーすんの」
「こんな妹いやだ」
「こんな兄いやだ」
 声を揃えて返した二人の前方、十数メートル先ではなにも知らない喜多川とが楽しげになにかを話しつつ歩いている。
 彼らはまったくいつも通りの様子だった。それこそ冴が言った通り、羽目を外さない程度に休日を満喫している。
 ギラリと伊達眼鏡のグラスを輝かせながら少年が高巻に迫った。
「杏、ファッションチェック!」
「は? あ、えと……まあ、、いつもよりかわいーかっこしてるよね」
「つまり?」
 極めて楽しそうに笑う彼の背後で奥村がほう、と息をついた。
「デートだよね、あれ……いいなぁ」
 目には羨望の輝きがある。彼女はすっかり己がこの出歯亀行為に反対していたことを忘れてしまっていた。
「んでもさぁ、デートならもっと別なとこ行けばいーのに。駅ビルって味気なさ過ぎ」
「そういうもの? あ、竜司。今のところちょっともう一回」
「ここな。あー、この踏みつけがさ……」
 高巻の隣で新島と坂本はスマートフォンで再生させた何某かの動画に夢中になっている。二人はこの趣味の悪い遊びに真面目に付き合う気もないのだろう。
「杏なら嫌なの」
 なんの気もなさそうに、喜多川とに目を向けたまま少年が問いかける。その背中では鞄入りのモルガナが興味深げに尻尾を振っている。
 高巻はうーんと唸ってこたえた。
「そーいうわけじゃないけど。好きな人とならどこだって楽しい……と、思うし……まあ、でも? どうせならアクティブな? もしくはロマンチックな? 場所のほうが……私は? 嬉しいかもだけど?」
 多すぎる疑問符をつけながらの答えに、奥村などは楽しそうにうんうんと頷いている。彼女も高巻の言に同意するということだろう。
「そうか。参考にさせてもらう」
「ワガハイも! ワガハイも!」
 素知らぬ顔の少年はともかく、デレッとした表情でにゃんと鳴く猫は愛らしい。思わずと相好を崩した高巻に代わって奥村が応えた。
「ふふっ、でも、私たちはともかく世間一般の女の子はどうかしら」
「だから参考になるんだろ」
 あら、と奥村は両手を頬に当ててぽっと顔を赤らめた。その隣で高巻が、背中では猫もまた、渋い顔をしている。
「また、キミは……そーいう……」
「ンっとにちょっとは自重しろよ……」
「静かに。バレちゃうよ!」
 一歩前に踏み出て噛みつこうとする高巻を、佐倉の鋭い制止の声が阻んだ。
 とはいえ前方を行く二人は楽しげで、跡をつける一行に気が付いてもいない様子であれこれと話し合いながら品物を選んでいる。
 なんてことのない買い物である。本屋でなにかの文庫本を二冊、洋菓子の類の詰め合わせに、今また二人の足は花屋に向かい、店先で「いるか?」「いらないかな?」などと話し合っている。
 高巻と奥村は顔を見合わせて眉をひそめた。
「なんかさ……」
「そうね……」
 顔をつき合わせてうーんと唸る。
「さっきから買ってる物、変じゃない?」
 やがて率直な疑問の声を上げた彼女たちに、ちょうど動画の切れ目だったらしい坂本と新島が顔を上げる。
「ンな変なもの買ってたのか?」
「別に変じゃないよ、ただ……」
「なんというかまるで……」
 答えようとする二人の袖を佐倉が引いた。
「ヤバい、見失うぞ」
 どうやら結局花は買わずに済ませるらしい。店の前を通り過ぎて角を曲がる二人を一同はいくらか早足で追った。
 壁にぴったりとくっついて顔だけを出して先を窺う。店内の見取り図を見るに店舗の密集する区画ではなく階段に続いているらしい通路は二人の他にまったく人気がなく、その姿をすぐに見つけ出すことができた。
 立ち止まった二人は何事かを囁き合っている。潜められた声は少年たちには聞き取れない。
 そして彼らは驚愕に目を見開いた。
 の手が喜多川の肩を突然強かに押してみせたのだ。よろめいた彼は手近な壁にぶつかって停止するが、その胸ぐらには直ちに少女の腕が伸びる。
 なんだケンカか? そう思って身を乗り出しかけた追跡者たちは、直後に硬直する。
 壁に追い詰められ、胸ぐらを掴まれた喜多川の上体がわずかに前傾する。一歩前に踏み出したがつま先立ちになってそれに顔を寄せ―――
 追跡者たちからは角度の関係で決定的な部分は見えなかったが、しかし、けれど、だが、これは。
 状況的にこう言い表すべきだろう。喜多川が、に、く・ち・び・る・を・う・ば・わ・れ・た……
 まず、高巻の手が作戦立案者にして立役者の少年の背を掴んで思い切りよく後方へ引っ張って放り投げた。その背中の鞄に潜んでいた猫は首尾よく押しつぶされる前に脱出し、空中で一回転してから仰向けに倒れた少年の胸に着地する。
 次に口づけを交わす―――ように見える―――二人に魅入られる奥村を坂本が、ぽかんと口を開いたまま硬直してぴくりともしない佐倉を新島が、それぞれ優しく後方へ退避させる。
「て……撤退……ッ」
 仰向けに倒れて後頭部を強かに打ち、胸を猫に強打された少年は辛うじてそれだけを言うと、がっくりと力を失って静かに涙ぐんだ。
「ゆーすけに先を越されたぁ」などと呻いている彼を引きずりながら、坂本と新島はやれやれと息をついた。
「ふわ……ふわあぁ……ったらったら……」
 ふわふわふらふらした奥村と
「あわわ、あわわわ、そんなバカなぁ……」
 オロオロしながら悔しがる佐倉の手を高巻が引いてやる。
 高巻は高巻で引きずられる少年をチラチラ見つつ思う。
に先を越された……わ、私もあれくらい強引に行くべきなの……!? いやでもどーなの!? 引かれない!? で、でも、でもでもでも、誰かに彼を持ってかれちゃうくらいなら……!)
 少年に向けられる眼差しがぎらりと肉食獣のような輝きを放ったのは一瞬のことだった。それでも向けられたほうはびくっと体を震わせて視線の正体を探るようにきょろきょろとする―――
 一部始終を見守っていた佐倉が60年代から70年代のロック黎明期に活躍した、アメリカは西海岸を代表するロックバンド、その代表曲を口ずさんだ。
 カモンベイビー・ライト・マイ・ファイア。発音はそんなに良くなかった。

 さて、もちろんと言うべきか、誰も先を越されてなどいなかった。
 ただそのように見せかけていただけの二人は足音が遠ざかるのを確認してゆっくりと身体を離す。
「そこまで趣味の悪いことをしないようで感心感心」
「……そのようだな」
「まったく。こそこそと跡をつけるなんて……いつか思い知らせてやる」
「はぁ……あー……」
 腰に手を当てて少年たちが逃げ帰った方向を睨みつけるを他所に、喜多川は壁に背を預けたまま天井を仰いで息をつく。そうするだけで身長差の関係でから顔が窺えなくなることを彼はよく知っていた。
 先に追跡者の存在に気が付いたのは喜多川のほうだった。彼がそれを告げるとは直ちにその正体を確認し、それが仲間たちであると分かるや否や般若のような顔になった。それは一瞬のことだったが、一計を案じるのと喜多川を怯えさせるには充分な時間だった。
 ハンムラビ法典に乗っ取って悪趣味には悪趣味で返そうと言い出したのはである。きみはなにもしなくていい、ただ、抵抗しないで。それだけ言って彼女はこの少年を突き飛ばしたのだ。
 喜多川は上から少女をちらりと一瞥する。まだ怒りもあらわに腕を振り回す姿は珍しくはあるがいつも通りだ。少しも動揺したり恥ずかしがっている様子は窺えない。
 ―――この子は俺のことが好きなんじゃなかったのか?
 この上なく自惚れた考えだが、そう思いたくなるほどの素面ぶりであった。
 もしかしたら彼女は自分がなにをしたのか気が付いていないのかもしれない。そうであって欲しいと彼は思った。自覚してやっているのなら、自分などよりよっぽどデリカシーがないではないか。
 瞬きをするたびに思い返される。間近に迫った少女の顔。胸倉を掴む手の想像以上の力強さ。口元にかかった吐息……
 喜多川は呻いて言った。
「本当にされるかと思った」
 振り返って彼を見た少女はなんということか、不思議そうな顔をしている。
「するわけないじゃないか。きみにまで嫌がらせしてどうするの」
 少年は思い切り首を逸らして頭頂部を壁にぶつけた。
 嫌がらせ! その発想はなかった。呆然とする彼を置いては階段を降り始めた。
、お前は思い違いをしている」
 追いすがる声に、しかしは首を傾げただけだ。おまけに警句めいたことまで口にする。
「きみは少し無防備すぎる―――」

 駅ビルを抜けて歩くことしばし、二人は総合病院の小児科病棟を訪れていた。
 目的は一つだ。受付で教えてもらった部屋番号を頼りに廊下を進み、程なくして一つの病室前に辿り着く。

「ん、なに? まだなにか?」
 己の方に注意を向けさせようとその名を呼ぶと、少女は思惑通りに顔を上げてノックをしようとする手を止めた。
「そうではなく。いや、そちらも十分問題なんだが……今はいい。とにかく、今さらだが俺が一緒で大丈夫か?」
「本当に今さらだね。平気だよ。きみだって彼を助け出した立役者じゃないか」
「それなら他の連中も連れてきてやればよかったんじゃないか」
 そうしたら、あんなふうに跡を追われることもなかっただろうに。
 言いたいことを汲み取っては肩をすくめた。
「色々理由はあるけど……いきなり大人数で押し掛けるのはどうかと思ったのと、女子ばっかりじゃ嫌だろうというのと。かと言って竜司は見た目で怖がらせる可能性があるし、リーダーは悪影響を及ぼしかねない」
「ああ、だから俺か」
「そう。きみなら安全……安全? まあ、安全かなって」
「なぜ今迷った?」
「あー、それから」
「おい、誤魔化すな」
「他にも理由があって」
 明後日のほうへ目線を投げながら、しかしはここにきて初めて照れたように顔を俯けさせた。
「二人でどこかに行こうって約束した。遊びにってわけじゃないけど、相変わらずはしゃいでいられる状況ではないし、せめて少しでもきみの望みに叶うようにと……思ったんだけど……」
 歯切れ悪く告げ、胸の前で組まれた手指が落ち着きなく動いている。
 少年は自惚れを自覚しながら思った。―――やっぱりこの子は俺のことが好きなんだよな?
 誰かに問いかけたくてたまらなかったが、生憎とその望みを叶えてくれる友人らは目の前の少女の悪辣な手段によって退けられたばかりだ。
「駄目だったかな」
 苦笑する少女に、喜多川は慌てて口を開いた。
「そんなわけがあるか。どこであろうと、お前と一緒にあって嬉しくないはずがない」
 今日の目的を聞いたときがっかりしていないかと言えばそれは嘘になるが、今言った言葉にも嘘はない。それに気が付いているのかいないのか、は安堵して顔を綻ばせた。
「よかった。きみにK……圭太くんと会って欲しいとずっと思っていたんだ。きっと仲良くなれる」
 朗らかにそう告げる少女の様子に密かに息をつき、その手が再びドアを叩こうと上がるのを見やる。
 喜多川は二日前の夜のことを思い返した。
 ……崩壊した唐津壮一のパレスから脱した一同はしばらくその場に留まった。が園の中に忍び込もうとするのを止めようとしたのだ。
 何故忍び込もうとするのかと問えば彼女は「まだ圭太くんを見つけていない」と答える。パレスの崩壊は急激で、唐津から彼の居所を聞き出すことができなかったのだ。
 元より一刻の猶予も無いと判断しての独断専行だ。彼女の逸る気持ちが理解できないわけではなかったが、しかし園には警備システムが配備されている。迂闊に飛び込めば駆け付けた警備員に通報されかねなかった。
 しかしそれも落ち着き払った新島が諭す間に佐倉が解除する。その上で彼女は仲間たちに己の推察を語ってみせた。
「杏たちがパレスで見たっていう倉庫のことが気になるんだ。パレス内の施設の配置と、ここの設備の配置は共通点がある。そう考えると、確かにこの園の外周沿いに唐津の専用ガレージがあって、そのそばに鋼板仕様の物置がある。皆が見た倉庫って、茶色の三枚扉じゃなかった?」
 問いに高巻たちは肯定を示した。
「パレスの中に他に人を監禁したり、隠すような場所はそうない。前日に現実のほうで手伝いとして入ったときにチェックもしたけど、いずれにも圭太くんの姿や痕跡は見られなかった」
 であれば、もはやそこ以外に手がかりはない。
 理路整然と語られた動機には新島も降参するしかなかった。幸い警備の問題はクリアされている。一同は忍んでそこへ向かい―――
 こじ開けた倉庫の中でボロボロになって衰弱し切った和光圭太を発見した。
 そして救急と警察に通報した少年たちは騒ぎに乗じてその場を立ち去ったのだ。
 その後の動向は救急の無線を拾った佐倉から伝達された。受け入れ先の病院名が知れたのもこのためだ。そしてその返礼として今日の見舞いの予定を教えたのだが……教えない方がよかったというのは二人の共通した認識だった。
 意識は現在に戻り、軽やかなノックに少しだけ眠たそうな声が返される。
「こんにちは。具合はどうかな」
 スライド式のドアを滑らせながらかけられた声に、寝台の上の和光少年は嬉しそうに跳ね起きて声を上げた。
! お見舞い来てくれたの?」
「そりゃ来るよ」
 笑って部屋に進入する彼女に続いてドアをくぐると、和光少年は驚いた顔をして喜多川をまじまじ見つめた。
「誰? のカレシ?」
 これにはつんのめって床に転びそうになるが、喜多川の手がいつものようにその襟首を捕まえてそれを防いだ。
「ちっ、ちがいます。 彼は私の……大切な仲間の一人だよ」
 大切な仲間、という文言にこそばゆさを感じつつ喜多川は苦笑する。少しだけ傷ついてもいた。それじゃあまるで他の仲間たちと己が同列みたいじゃないか、と。
 もちろんそれはそうだろう。喜多川がそうであるように、だって仲間の内に上下や優劣はつけられない。
 しかしそれとこれとは別の問題だった。
 けれどこれを彼が追求しようとする前に和光少年が瞳を輝かせて問いかける。
「じゃあ、その人が怪盗?」
 思わずと喜多川の口元は緩んだ。昨今の怪盗団への風当たりの強さに反し、この少年の喜ばしげな様子と言ったらどうだろう。彼は素直に嬉しい、と思った。
 そして後ろ手にドアを閉ざし、口元に人差し指を立ててみせる。
 あまり大きな声で言うんじゃないと目で告げてやると、少年は慌てて口を両手で押さえて首を何度も縦に振った。やっぱり喜多川は相好を崩した。
 そしてふと気付く。彼は「その人が」と言ったのだ。
「お前は自分のことを明かしていないのか」
「……それは伏せておいて欲しかった」
 あちゃーと額に手を当てて俯くに、和光少年は今度こそ潜めた声を上げる。
「やっぱり、も怪盗だったんだ。なんで黙ってたんだよ」
 どことなく拗ねたような調子に苦笑しつつは答えた。
「なんとなく……誰にでも彼にでも言うようなことではないし」
「なんで。おれを助けてくれたじゃん。ブレイドはヒーローだよ!」
 自慢げに顔を上げる少年に、はいかにも照れくさそうに頭をかいた。
 見舞いの品をベッドそばの棚に置き、窓際に向かってカーテンを開ける。差し込んだ陽光は彼女の顔もまた誇らしげに見せた。
「きみにそう言ってもらえるだけのことが出来たのはそこの彼と皆のおかげで、私一人の力じゃないんだ」
 水を向けられて、手近な椅子に断りもなく腰掛けていた喜多川は肩をすくめる。さすがの彼もこの少年の前で彼女の失態を語ってやるほど無神経ではなかった。
「この人……えっと」
「フォックスだ。が、ここでは呼ぶなよ。本名は喜多川祐介」
「喜多川、さん」
「祐介でいい」
「……祐介以外にも仲間がいるの?」
「まあな」
 ついさっき置き去りにして来たところだが。と心の内で付け加えつつ頷いてやると、少年は瞳をまた輝かせてはしゃいだ声を上げる。
 その顔と身体を見ながら、喜多川はやっとがこの少年を救おうと奔走したわけを理解できた気になって少しだけ眉を寄せる。
 投げかけられた数々の質問に頷いたり首を横に振ったり、受け流したりしながら彼は朝方寮を出る前に見るともなく眺めていたテレビの内容を胸に返す。逮捕勾留された怪盗団の少年が自殺した件が相変わらずセンセーショナルに報道される中、都内の児童養護施設の理事長が数々の容疑によって逮捕されたという件もまた、小さな扱いではあるが流れていた。男の自白によって二十年前の行方不明児童の殺人が明らかになり、その死体遺棄現場の捜索が行われいるのだとか。
 もしも一日遅れていたら、半日遅れていれば、きっと目の前のこの少年も同じところに埋められて、無かったことにされていただろう。
 そうならなくて本当に良かった。心からそう思い、喜多川はふと少年から目を離して顔を窓際に向けた。すると軽く腕を組んで少年たちを見つめる瞳と目が合うではないか。どうやらじっとこちらを観察していたらしい。
 背に陽光を浴びる少女はまるでそのもの自身が輝きを発しているかのようであった。うっすらと細められた目と笑みを湛えた唇はいかにも優しげで、彼女がまったく欠けることなく満ち足りているのを教えるようでもある。
 しかしきっと、実際の彼女の内面は欠けたところばかりだろう。今回救い出すことができた少年のように、あるいは己のように。今ごろどこかで「先を越された」などと喚いているであろうあの少年を筆頭とした仲間たちもそうだろう。
 喜多川はもうとっくにこの世に完璧なんてものが存在しないことを理解していた。だからこそそれに憧れ、求め、欲して多くの人が刻苦するのだとも、己がその一人であることも。
 とりわけ和光少年に関しては厳しい道が待っているだろう。大人たちから与えられた手酷い仕打ちが癒されるのには長い月日と膨大な努力を必要とすることは喜多川自身も痛感しているところだ。
 この小さな子に耐えられるのだろうか?
 不安から湧き上がった疑問に答えは直ちに与えられた。
「何も心配することはないよ」
 窓際の少女はまた、かすかに首を傾けて和光少年に語りかけた。
「そうでしょう、K」
 わざとらしくコードネームで呼びつけられて、少年は胸を張って鼻を鳴らした。
「うん。解ってる。おれはもう一人じゃない」
 こたえに、は満足げに頷いてみせる。
「そういうこと。……困ったときはまた呼んで。必ず、力になる」
「それもよくわかってるよ、ブレイド」
 フォックスもね。裏表のない笑顔で付け加えられる。喜多川は苦笑して少年の額の傷のないところを突いた。
「きみは本当に利口だな。ねえ、祐介、この子が私たちくらいになったら彼にも仲間になってもらおうよ」
 冗談めかした声色のわりに、瞳は真剣だった。
 頷いて、喜多川もまた冗談半分真剣半分にこたえる。
「異論はないが、全会一致が俺たちの掟だ。まずは他の連中にも確認せねばな」
 これに和光少年ははしゃいでベッドの上に立ち上がり、堂々と二人に言い放った。
「大丈夫、おれは大成するから! ゼッタイにあんたたちの役に立ってみせるよ!」
 喜多川はふっと笑って少年を見上げ、挑戦的に返してやる。
「期待しているぞ、K」
「うん!」
 元気よく応じた彼をたしなめて座らせるのはの役目だった。
 また彼女は思案顔で口元に指を当てる。
「そうなるとコードネームがいるね」
「ブレイドとか、フォックスみたいな?」
 首を傾げた少年に然りと頷いて、案を出す。
「そう。Kだけじゃ味気ないし……キングとか」
 すると喜多川もまたこれに加わった。
「Kならキロがいいんじゃないか?」
「きみにしては捻りがないね」
「む……ではケイトはどうだ」
「ちょっと物々しいんじゃないかな。ミラージュは?」
「ドラマか? あれが許されるのならばコバックスはどうだ。ロールシャッハだ」
「それパーンてなって死んじゃうよね?」
「でも、カッコいいだろ」
「分かるけども」
「ダメか」
「ダメですね」
 うーん、と唸った二人に、Kは少しだけ困ったように頭を掻いた。
「もし、本当に必要になったら……ジェイドがいい」
 顔を上げた二人のその意外そうな視線に身を捩りつつ、和光少年はそのわけを語る。
「俺の名前……圭太って、父ちゃんがつけてくれたんだって。母ちゃんが死ぬ前に教えてくれた。そんで、圭太のケイはギョクケイって物からだって。えらい人からホウビとして与えられるもの……おれは父ちゃんと母ちゃんにとってそういうものだったんだ、って……」
 そしてその玉圭なるものは翡翠で作られるのだという。
「だから、ジェイド」
 照れくさそうに語ってみせる少年に、ブレイドとフォックスは目を細めた。
 が語った通り、彼に関して心配することはないのだと彼自身が教えている。
 二人の若き怪盗は己らが盗み出したものの真の価値を目の前にして満面の笑みを浮かべた。
 怪盗団を囲む状況は決して好転したと言い切れるものではないし、この世のあちこちにある暗がりに汚泥が満ちていることはもはや疑う余地もない。
 それでも、今目の前にある小さな希望の前にすべてが首を垂れることも彼らはよく知っていた。
「それならきみは、今日からジェイドだ。よろしく、怪盗見習いさん」
 言葉に和光少年は屈託のない笑みでもってこたえた。

 長居は危険として早々に病室を辞した二人の足はルブランへ向かった。
 今回の一件でついに喫茶店のマスター、佐倉惣治郎に世を騒がせる怪盗団が彼らであると知るところになったため、もはや屋根裏部屋にこそこそと集う必要はない。
 堂々と喫茶店のドアを潜った二人ではあるが、待ち構えて迎え入れた一同の間に漂う空気は微妙な緊張感を湛えている―――
 そして屋内だというのにフードを目深にかぶったままの少年が喜多川を両手で指差して吠えた。
「この裏切者!!」
 首を傾げた喜多川は応えて言った。
「人を指差すんじゃない。しかも両手で。行儀の悪い」
 カラン、とドアベルが鳴って、が静かにドアを閉める。彼女はどうしたものかと思案顔をして一同を見回した。
 瞳をキラキラと輝かせた奥村に、すっかり冷めきっているであろうコーヒーカップに視線を落としてまんじりともしない高巻、すまし顔をしつつも落ち着きなく脚を揺する新島に、漂う空気に疲れ切った坂本、そわそわと身体を揺すりながらモルガナを抱きしめる佐倉に、時折力を籠められてうっと呻く猫―――
 カウンターで新聞に目を落としてた惣治郎もまた、苦笑して子供たちを見守っている。
「やってみせるのが一番早いかな」
「ええ……またか……」
 恥じらいか食傷か、喜多川がいくらか困った様子を見せるのを無視してはとんと彼の肩を押して角度を調整し、また胸倉を掴んで引き寄せた。
「う、わ―――」
 悲鳴じみた声を仲間たちが上げるのをどこか遠くに聞きながらは踵を浮かせて距離を詰めた。
 動揺がさっと広がったのを背中で確認して喜多川を突き放し、『サユリ』の目の前の特等席に彼を座らせてやる。彼は無体を為された乙女のようにぐんにゃりとしてカウンターに突っ伏した。
 そして惣治郎が額を叩いて笑い声を上げる。
「はっはっは! お前さんたち、謀られたな!」
 そうとも、彼の立つ位置からは二人が触れていないことが丸見えだった。それを組み込んでの行動だった。は肩をすくめて惣治郎に「ブレンド二つお願いします」と述べた。
 軽く手を上げて応えた惣治郎は、手早くコーヒーを用意しながら子供たちに仕掛けを教えてやる。
「お前らのとこからそう見えるってだけだ。実際キスなんてしちゃいねえよ、こんなことで大騒ぎしやがって、まったく」
「は、はあーっ!?」
 子供たちは一斉に立ち上がってに詰め寄った。
「ちょ、ちょっと! じゃあアンタ、もしかして……!」
「やっぱバレてたんかよ……」
「やられた……」
「せっ、セーカク悪いぞ!」
「そんなぁ……すっごくドキドキしたのに……」
 喜多川の隣に腰を下ろしたがツンとして言う。
「こそこそと跡をつけるのが悪い」
 正論であった。少年たちは手痛い反撃に呻いて各々座席に頽れた。
「やれやれ……まっ、これに懲りたらもうバカなことはやめるんだな」
 佐倉の腕から逃れたモルガナが尾っぽをふりふり少年たちに戒めの言葉を与える。
 猫がなにを告げたのかは分からない惣治郎は不思議なものを見る目でモルガナを一瞥し、と喜多川の前に注文の品を揃えてやりながら子供たちを上から見下ろした。
「けどこれで一つ分かったことがあるな」
「なんだよそうじろう、もったいぶるなよ〜……」
 テーブルに突っ伏した顔をかすかに傾け、横目を向ける佐倉が唇を尖らせつつ恨み言を吐いた。我が子の如き少女のそんな様子にどこか安堵を滲ませながら、惣治郎は器用に片眉を跳ね上げさせて
「お前さんたちゃみーんな、まだまだ『お子様』ってこった」と言ってやった。
 だれもこれに反論することは出来なかった。年長者の言うことだったし、なにより図星だったからだ。
「じゃあ……結局今日はどこ行ってたの?」
 まだ若干ダメージから抜け切れていなさそうな高巻が頬杖をついて問いかけた。
「ただのお見舞いだよ。例の、ほら、あの子の。双葉から聞いてない?」
「ああ、言ってなかった」
 しれっとして起き上がった佐倉が応える。一同は呆れたような目線を彼女に向けたが、佐倉は素知らぬ顔で気の抜けかけたメロンソーダをすすっただけだった。
「それなら俺たちも連れて行ってくれればよかったのに」
 言ったのはぶすっとしてやっとフードを下ろした少年だ。元々癖のある黒髪が鳥の巣が爆発したようになってしまっているのを見て奥村がくすっと小さく笑った。
 ルブランの自慢の一品であるところのコーヒーを一口、は苦々しく答えてやる。
「きみをあの子に会わせるのはちょっと」
「なんで」
 怪訝な顔をする少年に、少女はまったく正直に言った。
「悪い影響を与えそう」
 あー……と誰にともなく声が上がる。それは納得と呆れがたっぷりと込められた雑音交じりのため息でもある。
「失礼だぞみんな。なんなら遊戯王でもデュエマでもMTGでも実家からデッキ送ってもらうのに」
「うわ懐かしい名前聞いた。それまだ遊んでるやついんの?」
 思わずと坂本が反応する。喜多川のほうは首を傾げていたが、佐倉はビッと指を立てて二人に身体を向けた。
「全然流行ってる。んでも、新カードとか出てるし、今の潮流はわかんないだろー」
「俺のデッキは現役だもん。まだ全然いけるもん」
「やかましいわ」
「もん、てキモい」
 坂本と佐倉の悪態に少年は歯を剥いてみせた。
 それを見ては肩を落として言う。
「ほら、悪い影響」
 佐倉以外の女子は皆同じようにやれやれと小さく首を左右に振った。ほんと子供なんだから、と。
「……でも私はまだ納得してないかんね!」
 ドンとテーブルを叩いて食い下がったのは高巻だ。は困ったような顔をして曖昧な笑顔を彼女に向ける。
「もう……ご主人さまはなにが気に食わないんですかね」
「ぜーんーぶー! のくせに生意気だぞ!」
「それはどこから私を見て言ってるの……今回ばっかりはどう考えたってご主人さま側の過失でしょう」
 言い合うが、しかし二人の間に剣呑な雰囲気はない。どちらかと言えば微笑ましいじゃれ合いの範疇だろう。の隣の喜多川や、カウンター席に並んだ新島と奥村などは苦笑しつつ視線を交わし合って口元を緩めている。それは仲の良い姉妹たちのやり取りを見守るようでもあった。
 そんな少女らの背後で惣治郎がテレビのリモコンを取り上げる。店主として席を外すわけにはいかないが、さりとて会話に混じるのも無粋と己を子供たちから切り離そうとしているのだろう。誰もそれを咎めることなく、また坂本などは彼に付き合って身体をテレビのほうに向き直して見るともなしに視界に収める。
 佐倉は膝の上で丸まるモルガナの喉や狭い額を撫でてやっている。モルガナはうっとりと目を細めて喉を鳴らし、長い尾をゆらゆらとさせて夢見心地だ。
「ちょっと待って」
 やおら流れ始めた店内の穏やかな空気に、怪盗団の首魁が待ったをかけた。彼は強烈な違和感に苛まれて頭を抱えていた。
「二日くらい前からアレ? って思っていたけど、それなに」
「それって?」
「杏がなんだって?」
「ご主人さまがどうかしましたか」
「それだよ。なに、ご主人さまって。」
 は沈黙し、高巻はくすっと笑って己の金糸の髪を指先に巻きつけた。ついさっきまで見合っていたというのに、二人は決して目を合わせない。少年以外の怪盗たちはそろって彼女らから目を背けている。
「なに? 俺が不在の間になにがあったんだ?」
 伊達眼鏡のブリッジを押さえてきょろきょろとする彼に、高巻は色つやのよい唇を歪ませた。
「んー……私がにナニをしたのかぁ、説明してあげてよ。ね~え?」
 湿気を含んでいるかのようにじっとりとした女豹の目と声が隅で平静を保とうとする子狐に向けられた。
「祐介クぅン?」
 彼女は無手であるというのに、どうしてか誰もが鞭が強かに床を叩く音を聞いた。
 びくりと身を竦ませた彼を見ては虚ろな目を天井に向ける。小さな声で「言ってもいいよ」とさえ漏らした。
 しかし、彼は決然として首を左右に振る。
「お……俺も男だ、いかなる誹りを受けようとも、彼女の名誉を守るために口を閉ざそうじゃないか!」
 けなげにタフガイを務めようとした少年を、しかし少女は嘲笑った。
「あははっ、違うよねぇ? 言わないんじゃなくてェ、言えないんでしょ? ふふふふふっ」
 勝ち誇ったように笑い、高巻は喉を晒すように逸らした。細く白い喉首が店内を照らし出す蛍光灯に晒される。艶めかしい曲線を描くそれに、は顔を赤くして俯いた。
「マジでなんなんだ……俺の知らないなにがあったっていうんだ」
「世の中には知らないほうがいいこともあるよ」
 新島の警句に、奥村が深く頷いている。
 坂本はテレビを見ながら両手で己の耳を塞いでいたし、佐倉は目をつむってモルガナの毛並みをかき回し、猫は口を引き結んでそれに耐えている。
 高巻は笑顔を引っ込めてふんっと鼻を鳴らした。
「言っとくけど、ぜーんぶの自業自得だからね。心配ばっかりさせて、いっつもそうなんだから。反省するまで私がご主人さまっ!」
「はーい……」
「返事がちがぁーう!」
 は長い長い沈黙の末、屈辱に顔を歪めながら「ワン」と鳴いた。
 このように騒がしいのは彼らの長所と言えるだろう。命を落とす危険性のある非日常から穏やかな日常への移行が正常に行われているということだ。切り替えの早さという意味で、怪盗団はまったく上手く回っていた。
 なにより大きなリスクを支払った少年がそれを率先している。
 もちろんこれは虚勢でしかない。高巻との様子を訝しがる彼の一連の奇矯な行動が強がりだということくらいは皆気が付いている。その上でそれを敢えて口にしないだけの分別は誰もが持ち合わせていた。
 彼が妙な行動を見せるのは、なにか内にある恐怖と戦っていることの証だ。ともに戦わせてくれないことをもどかしく思うこともあるが、いずれ彼が本当に心を預けてくれたときに明らかになるだろう。
 仲間たちはそう思っていた。戦う準備は出来ている。それこそずっと以前、彼に手を差し伸べられたときから、彼らは皆臨戦態勢で待ち構えていた。
 その心にはずっと炎が燃えている。
 そのときが来たのだと教えたのは、路地の向こうの大通りを騒がす何某かのざわめきだった。
『本日は皆さまのご支援を願いたく参上いたしました……』
 真っ先に気が付いて顔を上げたのは坂本だった。
「ンだようっせーな、外なんかやってんの?」
 これに惣治郎が答えてやる。
「選挙の宣伝だよ。ほれ、今ちょうどテレビにも映ってんぞ」
 少年たちはなんともなしにテレビへ視線を向けた。
 スキンヘッドに薄い色のサングラス。スーツに身を固めた男がマイクを前に立派なことを唱えている。
「ああ、獅童正義だ。最近よくテレビで見るね」
 の言った通り、テロップには獅童正義の名が記されている。
「コイツどっかで……」
 唸って、坂本は本と手を打った。
「あ! 思い出した! あんときの割り込み野郎じゃん!」
「ああ、ビュッフェ行ったときの? えーこの人なんだ……口先でキレイなこと言っといて、サイテー」
「政治家なんてそんなもんだろ。裏でなにやってんだか、分かったもんじゃないぜー」
 分かったような口を利くのは佐倉だ。彼女はテレビにも獅童にも興味はないと目線を『彼』へ向けた。
 そして息を呑んで硬直する。
「この声……」
 つぶやき声は不気味なほど狭い喫茶店に響いた。
 少年たちの視線は一斉に彼の元へ集う。
「もしかして……いや、そんな馬鹿な……」
 じりっと後退って、彼はフードに手をかけた。
 一呼吸の後、フードで顔を隠して彼は踵を返して店の外に飛び出して行った。
「えっ? ちょ、ちょっと! どうしたの!?」
 新島の驚嘆に返されたのはドアベルの音だけだった。直ちに坂本が腰を上げて彼を追う。
 残された者は呆然として、しかしすぐに慌ただしく席を立って店外へ飛び出して行った。

 四軒茶屋の駅前に宣伝カーが停まっている。その前には人だかりがあった。音響機器の甲高いハウリング音が喧騒を引き裂くように響くのに眉を寄せ、少年はフードの下からその男を見た。
 あの声。あの姿。顔。手。肩幅。身長。目つき。
「この国の未来のため、まず必要なものは我々政治家が襟を正すことです。不正を滅し、正しい仕組みを取り戻す、なにもかもが始まるのはそこからです。どのような政策も根底が腐っていては芽は出ないのですから―――」
 パズルのピースがぱちりとはまる音がした気がした。
「あ―――!!」
 引きつった声を上げ、胸を押さえる。手の平に急激に強く跳ね上がった心臓の鼓動が痛いほど伝わり、どっと背すじと額に汗がにじみ始める。
 やにわに呼吸は浅くなり、間隔が狭まって早くなる。過呼吸の症状を呈し始めた少年に、真っ先に追いついた坂本が驚愕の目を向け心配の声をかけるが、一つとして彼に届いてはいなかった。
 彼の目にはただ、泣いている母と激昂する父、失望を向ける祖父母と、腫れ物を見る級友たちの目―――好奇心、卑下、嘲り、侮辱、あらゆる否定的な感情の込められた無数の目と囁きが彼を取り囲んでいた。
 そしてその中心に、誇らしげに手を掲げて理想の未来を語る男の姿がある。
「……なんで、今まで……」
 どうして今まで気が付けなかったのか。何度もテレビや雑誌、様々なメディアを通じて顔に、声に接していたのに。間近に迫ったことだってあったのに―――!
 ふらついた彼の背を支えたのは坂本だった。
「おい、どうしたんだよ、しっかりしろって……」
 顔を覗き込んでぎょっとして言葉を止める。少年の顔は蒼白に染まっていた。身体ははっきりと分かるほどに震えていて、目には涙すら滲んでいる。
 彼は怯えている。坂本は直感的にそれを理解して驚愕した。
 この常に自信深げなやつが。なにがあったって皆の先頭に立ち、ここまで自分たちを引っ張ってきたリーダーが。まるで本当にただの子供のように怯えて震え、目に涙まで浮かべて―――!
「竜司、おれ、俺は……ああ、俺は……やってないんだ、本当に……ただ肩を掴んだだけで……なのに誰も……」
 誰も俺のことを信じてくれなかった。少年は口ごもりながら友人にそう訴えた。両親や祖父母たち、友人と思っていたやつらも、目をかけてくれていた教師、そのとき所属していたスポーツチームのコーチやチームメイト、よく挨拶をする近所の人たち……誰も!一人として己を信じてはくれなかった、と。
 あの男に向けられた憎悪の眼差しより、何よりそれこそが一番強く彼の心を打ち砕いた。
 こんなの全然大したことじゃないと少年は幾度も自分に言い聞かせた。けれど本当は分かっていた。そんなのはただの強がりだ。大したことじゃなくなんかない。大したことなのだ。
 誰か一人でも「お前はそんなやつじゃない」と言ってくれればそれだけでよかったのに。ただの一言、かすかなぬくもりすら与えられなかった。
 そのことに彼はずっと苦しめられてきたが、なんとかしてうまく飲み込んで隠し通してきた。それが突然発露したのは、二日前の強烈な体験が尾を引いているせいだろう。
 少年は膝を折りそうになったが、支える坂本の腕がそれを妨げた。
「はっ、は、ああ……ううう……! なんで……なんでだよ……」
 乱れた呼吸と流れ始めた汗が彼の様子が尋常ではないことを教えている。それは追いついた他の仲間たちの目にも明らかだった。  収縮した瞳孔に自分たちの姿が映っていないこともまた。
「なんで……」
 その瞳に溢れた涙がついに零れそうになるのを見て、坂本は彼の胸ぐらを掴み上げた。
「しっかりしろよッ!! お前は! そんなやつじゃねーだろォが!」
 怒りとともに吐き出された言葉はつまり、お前はそんなガタガタ震えて縮こまるような奴じゃないだろうと言いたいようだった。
 泣くことすら許さないと心火に燃える坂本の瞳は訴えている。
 お前はどんなときだって諦めるって言葉を知らないみたいに振る舞ってきたじゃないか。今さら、なにがあろうと、どんな目に遭おうと、そんな振る舞いは許さない。
 だって、お前はそんなやつじゃないって、こっちはもう、最後まで信じ抜くつもりでいるんだ―――
 気がつけば少年の身体を支えているのは坂本の腕だけではなかった。
 小さく震えた高巻の白く細い手が肩に添えられ、瞳が訴えている。私がそばにいること、忘れてない? やめてよね。カッコ悪いとこ見せないでよ。じゃないと、頭から食べちゃうから。
 喜多川の細く骨ばった大きな手が彼を叱るように強い力で腕を掴んでいる。この程度か? ふざけるなよ、大概にしろ。お前はそんなに弱い男ではないはずだ。そうだろう。
 新島の女の子にしては力強い手が背中を押す。なんだ、可愛いところもあるんだね。怖がらなくっていいわよ、私に任せなさい。あなたを補助するのが私の役目。このポジションは誰にも譲らない。
 佐倉の手が縋るように服の裾を引っ張った。痛いのか? 苦しいのか? 辛いのか? だいじょーぶっ、心配するな、このわたしがついてるんだ。おまえを泣かすようなやつはぜんぶブッ飛ばしてやる!
 の細く痩せた手が手を握った。助けが必要なら呼べと言ったでしょう。忘れたとは言わせない。……言ったら引っ叩くからね。どうせやるなら、最後までカッコつけなさい。不様な姿を見せないで。
 奥村のたおやかな手はまたもう片方の手を取った。あなたって釣った魚に餌をやらないタイプなんだね。いいよ、決めたの。絶対、この手を離したりなんかしてやらないんだから。だから、泣かないで。
 そして足元に猫がすり寄り、にゃんと鳴く。覚悟はできてんだろ。今さらビビってんじゃねーぞ。ほら、行こうぜ相棒。
 少年は息を呑んで、そして震えも涙も、恐怖心もなにもかもが消え去っていることに気がついた。
 仲間たちから向けられるもの、与えられたものは、彼が欲して止まない全てだった。
 盲目ではない信頼と友情。一部からは思慕の念すら伴われている。
「信じてるからね」
 ただの一言。たった一言。かすかなぬくもりが寄り集まって、少年の心に炎として現れる。
 それは叛逆の灯火だ。
 立ち上がった彼から仲間たちは手を引いた。そしてともに男を見上げる。
「アイツなんだな」
 少年は頷く。
「キミを嵌めたやつ」
 少年は頷く。
「タダで済ます気はないのだろう」
 少年は……
「いつでもいいよ」
「どうしてやろうか、一緒に考えような」
「今度は参加させてもらうよ」
「私もいるよ。頼ってね」
 少年は頷いて、足元の猫を抱き上げた。
「おっ……と、なんだよ、まーだワガハイが必要か?」
 ふふんとヒゲを広げたモルガナに、少年は唇の端を釣り上げた。
「お前がいなきゃ始まらない」
「ふっふーん! もちろん! 分かってるなオマエ! いいぜ、やってやろうじゃないか!」
 少年は仲間たちに少し待つように告げて、顔を隠すフードを下ろし、伊達眼鏡を高巻に預けた。
 そして演説を終えた男に歩み寄る。周りをSPらしき黒服たちが囲んでいたが、構うことなく彼は声を張り上げた。
「獅童正義!」
 一瞬の静寂。指を突きつけた彼を誰もが怪訝な顔をして見つめている。獅童もまた胡乱げな顔で彼を見た。
 ばちりと目が合う。しかし獅童は不思議そうな顔をするばかりだ。
「俺を憶えているか」
 答えは返されなかった。SPに誘導された獅童は、彼になんの関心を示すこともなく車に乗り込んで走り去った。
 それで十分だった。
 彼には確信があった。あの男が次のターゲットだ、と。