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22:Invisible hand of “JOKER”
覚醒はスイッチのオン・オフを切り替えるように唐突で、状況を理解するのには時間が要った。
突き刺すような肩の痛みの次に天と地の位置関係を知覚して、少女はやっと己がうつ伏せになってなにか柔らかなものの上に倒れているのだと把握する。
うっと呻いて顔を上げるが目に映るものは何もない。一瞬眼が潰れたのかと不安になるがすぐ間近の手や顔は見えるから、単に明かりが遠すぎるせいだと分かる。
一条の光も差さない暗闇の中、自分の下敷きになっている少年の顔―――正確には、それを覆う狐を模した仮面はよく窺えた。
「……生きてるよね?」
身体をずらし、慎重に声をかけて頬をつつく。
すると彼はうっすらと目を開いて、苦々しく笑って返した。
「生きている。お前も……幽霊じゃないよな?」
「どうかな。なんで無事だったのかも分からないし……」
呻吟とともに上体を起こす。辺りを見回しても暗闇が広がるばかりで一寸先を確認することすら難しい。
「明かりを、なにか……あ、そうだ」
ぱたぱたと己の体をまさぐることしばし、ブレイドの手が何かを取り出して掲げたのが空気の動きでフォックスにも読み取れる。キン、と硬質な音が響いた。
もしやと思い、フォックスは制止を呼びかける。
「待て、ブレイド」
「え、なに?」
返答とともに小さな炎が灯される。彼女の手の中にはブラッシュクロムのオイルライターが握られていた。
「なぜそんなものを」
「パ……父がくれた。どういう趣味をしてるんだろうね」
苦笑しつつにじって距離を取る。仰向けに倒れていた少年は慌てた様子で身体を起こした。
「つぅ―――」
苦悶の声にブレイドは眉を下げる。
「ごめん、きみを巻き込むつもりはなかったんだ。一人でもなんとか出来る算段だった、本当に……ごめんなさい」
「無茶をする理由もあった、そうだろう?」
唇を噛んだ少女はいかにも悔しそうな顔をして手元の炎を睨みつけ、三日前からKが行方不明になっていることを明かした。
「黙っていたのは、そちらの仕事の邪魔になると思ったからだ。きみたちがしくじればこちらも、なにもかもご破産になる。唐津の罪を暴くどころか、逆手に取って捏造として喧伝されかねない」
だから、変にプレッシャーを与えるよりはそちらの仕事を確実なものにしてもらおうと沈黙を選んだのだ―――
小さく息をついて語り終えた少女に、少年は小さな灯りの中で分かるように大きく首を縦に振ってやる。彼女の憂いを払うためでもあったし、彼自身が納得できる訳合いでもあったからだ。
同じ状況にあったとき自分ならどうするだろうとも考える。彼女を救いたいと仲間たちに持ちかけた頃は時間的にも状況的にも余裕があった。けれど今ならどうだろう。自分は単身で彼女を救いに向かえるだろうか?
答えはその手の中にあった。
ふとブレイドがなにかに気がついて息を呑み、隠すように身体に押し当てられていた少年の手を強引に取って灯りのもとに晒させる。
彼の手には一本の千切れたロープが握られていた。おそらく、岩肌に無数にぶら下がるうちの一つだろう。千切れているのはきっと二人分の体重と落下による衝撃に耐えられなかったからだろうが……
彼女の目はそんなものより、そこから滴って落ちる鮮血に釘付けになっている。
衝撃に耐えられなかったのはなにも縄だけではなかった。少年の手は手袋が破け、皮膚を晒し、その下の肉と筋を露わにしているではないか。もう少し縄が千切れるのが遅ければ骨まで露出するほど擦り切れていたかもしれない。
バツが悪そうに目をそらす少年に、ブレイドは震えながら頭を下げた。
「ごっ、ごめんなさい」
「平気だ、問題ない。だから……」
頭を上げろと促すが、少女は強く首を左右に振った。
「なにが平気なの。きみ、それ、手が……手が!」
思わずと声が大きくなるのを抑制できないのだろう。それでも灯りだけは落とすまいとする手は震え、小さな炎が揺れてちらちらと瞬いた。
まるで催眠に誘われているかのようだと少年は思う。信頼関係という意味では、第一条件は満たしているだろうとも。
そしてまた揺れる小さな灯りに照らし出された表情には見覚えがある。そこにあるのは絶望や銷魂といった類の感情だ。
少年は出来うる限り静かに、今にも崩れ落ちそうな少女に向かって語りかけた。
「落ち着け。落ち着いて、思い出せ。お前も以前このような……いや、もっとひどい傷を負ったことがあるだろう」
言葉に少女は瞬きを繰り返した。大きな瞳が記憶を探って上に下に動くのを眺めて彼は続ける。
「思い出したか。メメントスで、お前はシャドウに一撃をくらって腕を千切れかけさせたことがあったな。皆で悲鳴を上げて、パンサーなどは腰を抜かしかけていた。よもやあの惨事を忘れたわけじゃないだろうな?」
「あ、あ……ああ、覚えて、るけど……」
「その後お前の腕はモナによって接合された。たったそれだけで、お前は平然とあの鉄の塊を振り回していたじゃないか。それ以後にも、お前の腕は不調を訴えることがあったか?」
「は……あ、いや……」
「そうだろう。そもそも、パレスやメメントスで負った傷はそこを出れば消えるんだ。思い出したか? では落ち着いて、息をしろ」
促されて少女の胸がやっと呼吸を取り戻し、かすかに動き始める。それを見て彼もまた小さく息をついた。
「よし……お前は少し心配し過ぎだ。ジョーカーもスカルも、お前よりもっとひどいことに何度なったと思っている」
「は、はい」
「あいつならきっとこう言うさ。こんなの全然大したことじゃない……それに、もしも手が動かなくなったとしても、足でも口でも使えばいい。そうだろう?」
宥める声と言葉に、ブレイドはゆっくりと首を縦に振る。瞳はいつも通りの知性の輝きを取り戻していた。
「まあ、痛いことは痛いんだが」
「……止血するよ。これ、持って」
「ん」
オイルライターがフォックスの手に渡ると、ブレイドは己の衣装から器用に飾り布を切り離し、即席の包帯を作り出した。取り出したハンカチを傷に押し当て、その上から切り取った布を巻いて固定する。
時間がかかったのは彼女もまた肩に傷を負っているからだろう。時折苦痛に眉を寄せながら、最後にきつく固結びをして満足げに頷いてみせる。
「どうかな」
「武器くらいは握れそうだ。ありがとう」
明らかな虚勢にブレイドは苦笑する。
ただの布を当てただけで痛みが和らぐはずもない。何も無いよりはマシ程度の応急処置だ。
そのようにしてブレイドのほうも手当を済ませると、そろってそばの岩肌に背を預ける。
すっかり熱せられたライターを冷やすためとオイルの節約のため、炎は一度お役御免となった。暗闇の中お互いの存在を見失わないようにと手を握り合ったのは、ブレイドの提案によるものだった。
「さて、次なんだけど」
声は遮るもののない谷底によく反響した。どこか遠くで小石が転がるような音が被さって余韻を長引かせる。
フォックスは伸ばした足のつま先があるであろう場所を見つつこたえた。
「ああ、どうする?」
これに隣の少女が上を仰いだ気配を感じる。釣られて見上げた天井には微妙な濃淡が漂っている。暗雲がそこにあるのだろうことは察せられるが、それだけだ。
崖の切れ目すら判別できないほどの暗闇は少年の気を滅入らせるには充分な効力を持っていたが、握られた手の感触と痛みが彼を繋ぎ止めていた。そしてそれは、隣で膝を抱える少女もまた同じなのだろう。決然とした声が返される。
「上に戻る。これは多分、なんとかなるよ」
「ほう。いけるか?」
「少し休めば」
よしと応えて隣へ目を向けると、やっと闇に慣れた目が少女のシルエットを捉える。
抱えた膝に顎を乗せて俯く姿。塔から落ちる際に仮面を放り捨てていたから素顔は晒されているはずだが、この暗闇の中では表情は窺えない。
「大丈夫か」
「え? うん、だから、少し休めば……」
「そうじゃない。……大丈夫か」
体力的なことではなく精神的な状態を問いかけられていると気が付いたのだろう、少女は少しだけ言葉を詰まらせる。
しかしやがて意を決したように顔を上げ、その胸の内を詳らかにした。
「正直に言えばへこんでる。こんな無様を晒すことになるなんて、情けない。もっと上手くできると思っていたのに。皆の手を煩わせて、きみに怪我までさせてしまった挙句、あの子を救い出すこともできていない……そう、だから、これは、自己嫌悪だ。冷静になればなるほど……」
「そうだな、失態だ」
「ううう……こんなときくらい優しくしてくれてもいいじゃないか……」
「俺はいつもは優しいだろう」
「そうだけども」
「だから今厳しくしているんだ。それに、登ればもっと厳しい連中が待ち構えている。今のうちに慣れておけよ」
「ああ~……パンサー、すっごいキレてたよね。なにされるんだろう」
「さあな。ロクなことではないだろうが……俺も叱られるだろうし、ああ……」
二人は揃ってため息をついた。鞭を振り回すのと、拳をつくるのと、斧を構えるのと、三人の怒れる女君主が崖の上で待っているのは想像に難くない。ため息も漏れようというものだ。
しかし、泣くほどのことではないだろう。
フォックスは思わずと目を見開いて少女をまじまじ眺めた。
辺りには涙とともに鼻をすするような音が反響している。よもや彼女がと思うと、自然と鼓動が早くなった。
「おい、泣いているのか」
問いかけるが、しかし返されたのは戸惑ったような声だ。
「そう聞くってことは、きみじゃないんだね」
喉を引きつらせてぐずる声は隣に座る相手でもなければ幻聴でもないらしいとみて、二人は身を硬くする。
もしや幽霊の類か―――
思うが、しかしこれは即座に否定する。そもそもここは人の心の中、精神の具現化した世界だ。幽霊が出たからなんだというのか。
問題は泣き声が反響して主の位置が掴めないことだろう。暗闇の中に視線を走らせたところで見えるはずもない。
フォックスは繋いでいた手を離し、抱えていた刀の柄を代わりに握った。ブレイドの剣は塔に突き刺さったままだろうから、対処の比重は大きく彼に傾いている。ブレイドもそれを自覚しているのだろう、じりっと岩壁に背を寄せて後退する。
「位置は分かる?」
「いや……だが、遠くはない」
「灯りを」
「頼む」
小さな火が灯され、ぱっと広がった光が周囲を照らし出す。
ほぼ直角に伸びる岩肌と転がる岩塊以外に特記すべきものは無い。通り過ぎる冷たい風が時折砂塵を巻き上げるが、上に比べれば大したことのない量だ。
しかしやがて、二人の視線は真っ直ぐに伸びる谷底の道の先に固定される。
膝を抱える子供の姿がそこにあった。
ズボンから覗く脚も袖から伸びる腕も細く傷だらけで、衣類は薄汚れている。
引きつけを起こしたかのように漏らされる嗚咽は、確かにその子から発せられていた。
「子供……?」
警戒を解くべきか否か、武器を抜くべきか下げるべきかで迷うフォックスの腕をブレイドが掴んだ。
なんだと横目で確認した彼女の顔は蒼白で、彼を捕まえる腕は震えていた。
「どうした」
「あの子、あの子はたぶん……」
「件のKとやらか」
「違う。そっちじゃない」
ふらついた足取りで進み出たブレイドにフォックスは慌てて手を伸ばす。
「待て、迂闊に近づくな。シャドウの罠かもしれん」
「きみは警戒を。私は確かめなければ……」
するりと水のように手からすり抜けたブレイドは、ゆっくりと、慎重に子供に歩み寄った。
言われた通りにいつでも飛び出せる姿勢を取る少年の前で、彼女は膝をついて子供に視線を合わせ、問いかける。
「きみは……津村浩輔くん、かな」
ぴたりと嗚咽が止まった。
少年は恐る恐ると顔を上げ、じっと泣き腫らした目をブレイドに向ける。
「お姉ちゃん、だれ?」
声に敵意や害意は無い。ただただ見知らぬ相手に対する恐怖と警戒心だけが喉を震わせていた。
「私は……『ブレイド』って、仲間には呼ばれているよ」
子供は不思議そうな目をして幾度も瞬きをした。ブレイドは静かに、小さく笑ってもう一度呼びかける。
「津村浩輔くんだね?」
こくりと首が縦に振られる。少女の唇からは悲嘆の声が漏れた。
「なぜここに? きみは……その、二十年前、唐津壮一に……」
「殺された」
少年の声は平坦だった。なんの感情も湛えず、ただ事実だけを告げている。これにブレイドは俯いて目を閉じ、その背後でフォックスは驚愕を露に目を見開いていた。
もちろん彼も津村浩輔の名は記憶している。ブレイドが怪盗団に渡した唐津壮一の調査報告書にその名が記されていたのだ。受け取った時点ではまだ疑惑でしかなかった。書上で概ね黒だろうとは結ばれていたが、しかし、改めてむざむざと事実を突き付けられてしまうとその衝撃は筆舌に尽くしがたい。
分からないこともある。なぜ唐津のパレスの奥底に津村浩輔の影が存在しているのか―――
「先生は忘れられないんだ」
「なに……?」
疑問符を浮かべて前に進み出たのはフォックスだった。彼の第六感が告げている。聞くべきではない、と。
しかし津村浩輔の影が語るのを止めることはできなかった。たとえ制止を呼びかけたとしても、この少年は口を閉ざすことはなかっただろう。
そして彼の語る内容は、到底信じられるようなものではなかった。
それは幻想的なおとぎ話だったからとか、夢の世界の話のようだったからではなく、二人の常識や倫理、価値観からかけ離れ過ぎていて、まったく理解のできないものだったからだ。
ただ、だからこそこれほどの深層に隠されていたのかと納得はできる。
そういう類の、人の極めてプライベートな嗜好の話だった。
そしてまた津村浩輔の影は語る。
「ぼくは一番初めで、そして唯一の失敗だから一番強く印象に残っているんだ。どんなものだって、刺激は一番初めが一番強くて、興奮するんだって」
呻いて口元を押さえるフォックスの手は震えていた。
「なんということを……おぞましい……!」
率直な感想に影はなんと思うことはないのだろう。虚ろな目をフォックスと、そして顔を真っ青にしているブレイドに向ける。
「でも、ぼくだけじゃない。先生はみんなみんな記憶してる……」
途端、小さな力がフォックスの袖を引いた。なんだと見れば津村少年と似た背格好の子供がそこに立っていた。
そしてそれは一つではなかった。袖どころか手にも足にも小さな力がかかって彼の注意を引こうとしている。
ブレイドもまた同じように取り囲まれているが、奇妙なのはこの子供たちの接近に二人ともがまったく気が付くことができなかったということだ。足音も衣擦れも、気配も呼気も何一つ感じ取れなかった。
驚きに目を剥く少年の視界の中、しゃがみこんだ姿勢のままのブレイドの手に、腕に、肩に、足、腰、背中……あらゆるところに。下は五、六歳から、上は彼らと同じくらいの年齢までの男女が二人の周囲に集い、なにかを求めて手を伸ばしているのが映る。
「みんな? みんなって、この子たちのこと? 全員……?」
ぐるりと見回した範囲に捉えられた顔はいずれも蒼白で、泣きそうな顔をしているか、あるいは涙を流している。体は細く、傷だらけで、汚れていた。
にも関わらず、二人を掴む手には信じられないほどの力が籠められている。もしかするとそれは握力や腕力によるものではなく、精神世界における言い表し難い不可思議な力が働いてのことかもしれない。
いずれにせよ引っ張る力が上から押さえつける力に変化すると、たちまちブレイドはよろめいて膝を着かされる。
「ッ、ブレイド……くっ、この……」
案じて前に進もうとする少年の身体を幽鬼のような子供たちが縋って抑え込む。
一つ一つであればともかく数十に及ぶと彼にも振り払うことはできなかった。
「離せッ、なんだというんだ、お前たちは―――」
ついには膝を着いた少年は奇異なものを目撃して瞠目する。
少女の背中に当てられていた十歳ほどの女児の手がその背にめり込んでいる。よくよく観察すればそれはその子供だけではなかった。
彼女の体に触れている手という手が次々にめり込み、腕と肩、頭までが吸い込まれるように彼女の中へ入っていく。
ゾッとしたのはその光景にではなく、己の腕を押さえつける小さな手も彼女にするようにめり込み始めたからだ。
まるで粘土に指を押し当てたかのようにゆっくりと、抵抗を感じつつ奥へ奥へ侵入する。
「あ―――」
その瞬間彼を襲ったのは強い痛みと熱、衝撃や骨の芯まで凍えるような冷たさだった。息苦しさや鼻の奥に水が逆流するような痛みと、未知の感覚―――分類としては苦痛に振り分けられるものもある。
頭に血が集まったかと思うと、次には足の裏に熱を感じる。痺れるような感触が舌先にくることもあった。
人が想像できうるポピュラーな苦痛のバリエーションが順番に彼を襲った。それは一度ならず二度三度と周回した。
親切なことに、これにはBGMまでもが用意されていた。無数の子供たちのすすり泣く声だ。
げんなりする間もなく幾度も苦痛は繰り返された。
そして、自分自身を見失いそうになった頃になって彼は唐突に解放される。
ぱっと開けた視界こそがいつの間にか狭まっていたことを教えていた。そこには心配そうな顔をしたブレイドがいて、どういう訳か彼女の手にはフォックスが持っていたはずの刀が握られている。
「しっかりして、息を吸って。ゆっくり……」
わけも分からぬまま言葉に従い、息を吸う。ゆっくりと長く。
「吐いて。ゆっくりだよ」
言われた通りに。
しかし彼は唐突にこみ上げた吐き気に喉と舌の付け根を叩かれて身体をくの字に折った。地べたに両手をついてえづくが吐き出せるものがない。ただ激しく咳き込んで混乱を深めるばかりだ。
けれどそれも優しく背中をさすられるとすぐに治まった。
「う……っ、ブレイド、いま、なにが……」
「どうもあの子たちがされていたことを追体験させられていたみたいだ。やっぱりきみの言った通り、罠だったのかな」
「ゴホッ……はぁっ、ああ……そんな……あれが……」
「それとも私たちが唐津の触れちゃいけない部分に突っ込んでしまったのか」
ふうむと考え込む仕草を見せつつ、ブレイドの手が刀を返して器用にフォックスの腰元の鞘に収める。
どうやらフォックスよりも早く立ち直ったブレイドが彼の得物を借りてシャドウたちを打ち払ったらしい。周囲を見回しても、もう幽鬼のような子供たちの姿は見当たらなかった。
「あれは、あの泣き声は唐津の記憶か? だが、あの感覚は」
「どれもかなり痛かったね。唐津が経験したものではないと思うけど……」
自分たちは今、加害者である男の精神の中にいるはずである。だというのに何故被害者側の、それも複数の者たちの記憶をなぞるような羽目になったのか。
―――憑りつかれでもしているんじゃないか。
と、言おうとしてフォックスは口を閉ざした。ブレイド、もといという少女がこの手の話をあまり信じない性質であることを彼は知っていた。
なんにせよ、今自分たちが体験したものは間違いなく被害者たちの記憶に基づいたものだろう。
確信をもって告げたフォックスに、ブレイドはいくらか訝しげにしてみせるものの異論を挟むつもりはないらしい。ただ唇を噛んで眉を寄せている。
悔恨の念を読み取って、フォックスは穏やかな声で言ってやる。
「あまり気負うな」
ブレイドは顔を上げて一度彼を見、つい今しがたまで津村少年の影が膝を抱えていた場所に目を向けた。
そこには彼女が投げ捨てたはずの仮面が落ちていた。上で放り投げてからここまで落下してきたのだろう。喜ぶべきことに、仮面には傷一つ見当たらない。
「うん、平気。たぶん……」
ようやっとのことで応え、ブレイドはじっと己の仮面と睨み合った。
すっかり消え去っているはずの痛みを思い返して腕をさする。
たぶんと応えた身ではあるが、しかし彼女は己自身が思うよりもずっと平静だった。痛くなかったというわけではないが、精神的な打撃という意味では予想よりはるかにダメージは少ないと言うことが出来た。
唐津の内面に隠されていたおぞましい性的倒錯癖に対するものより、そちらへの驚きのほうが大きいかもしれない。
やがて少女は結論に辿り着く。思ったよりも平気なのは、たった今味わった苦痛の数々のうちのほとんどはすでに一度経験したことのあるものだったからだ、と。
「そういうことか」
すっかり得心して呟くと、彼女の前に進み出て仮面を拾い上げたフォックスが不思議そうな顔をする。
は彼にも分かるように語った。
「私がきみより先に今の苦痛から抜け出すことができたのはどれもおおむね覚えのある経験だったからだ。耐性ができていたんだよ。だから回復が早かった」
他人事のような言い様にフォックスは片眉を器用にしかめてみせるが、一先ずは話を聞こうと顎をしゃくって続きを促した。
「はじめにあの子……Kを見たとき思ったんだ。この子は私だと。それは間違っていなかった。きっとおそらく、他の子どもたちも。そして津村浩輔くんも。彼は可能性の中の私だ。きみたちに救われなかった場合の私……」
救いの手を差し伸べられなければ死に至っていたのかと思うと、双方の背筋に悪寒が走る。今目の前に居る者がいない、あるいは存在すらできないと考えることはちょっとした恐怖体験だった。
「明智吾郎は私にどうしてそんなに必死になっているのかと聞いたけど、今思えば自分のためだと答えるのが正しかったかな」
「彼らがお前自身だからか?」
「あるいは……」
少女は傍らの少年を見上げ、じっと仮面の向こうの瞳を覗き込む。
彼女の仮面は彼の手の中にあったから、その素顔は晒されている。頼りのない小さな炎に照らし出された顔には小さな傷がいくつもあって血が滲んでいる。瞳には探るような色があった。
少年はそれを不快とは思わない。隠し立てするようなことは何もなかったし、見透かしてくれるのならばそれでいいやとすら考えた。
そして少女はそのあまりの無防備さに苦笑する。少しは警戒すべきだと諌めようとして、しかしそんな場合ではないと思い直す。機会があればまた別のときに言うべきだろうとして。
「私にとって彼らはきみでもある」
首を傾げたフォックスに、ブレイドは目を細めて告げる。
「もしかしたらきみもああなっていたのかもしれないよ。ジョーカーたちに救われることがなかったら……そうしたら、どうなっていたかな」
「それは、きっとどこかで折れて死んだようになるか、もしくは逃げ出して、どこかで野垂れ死んでいたかもしれない」
「そうならなくて良かった……なんて思うのは、生きている者特有の傲慢かもしれないね」
「かもしれないな。だが、過ぎたことは取り戻せない。そんなことは……」
少年は無意識のうちに胸を押さえていた。喉の奥になにかが引っかかっているような感覚がある。まだあの追体験が尾を引いているのかもと咳を一つ、言い放った。
「自明の理だ」
然り。頷いて返した少女は平淡な声で続ける。
「苦境の中にあって、助けを求めることがどれほど困難か私は知っている。それでもあの子は、圭太くんは私に助けを求めた。だから私はあの子を助けたい……彼のためではなく、私自身のために」
反響する声は本当に淡々としているくせに、その瞳には断固とした煌きがあった。胸がすくような清々しい光だ。
フォックスは黙ったまま彼女に仮面を差し出した。彼女の素顔を隠すもの、精神の鎧であり、武器でもあるものを。
「だって彼は、ついさっきまでそこで膝を抱えていた津村少年も、幽鬼のような子供たちも、苦しむすべての者は皆、私であり、きみでもあるんだから」
誰がために鐘は鳴る、だよ。
受け取った仮面で彼女は照れ笑いを隠した。遅きに失しているようにも思えるが、指摘する必要はなかった。仮面があろうがなかろうが、彼は彼女の望みくらいはもう簡単に読み取ることができるのだ。
そしてまた彼女は、どこか悪戯っぽく彼に問いかける。
「フォックス、『私』を助けてくれる?」
少年は皮肉的な態度でこたえた。
「俺が言ったことを余すことなく記憶しろとは言わないが、その問いかけはあまりに因業な仕打ちじゃないか?」
「そうかな」
「そうだ。憶えていたらそんな言葉は出てこないはずだろう。俺はもう言ったぞ。お前の向かう先が地獄であろうと付き合おうと……さて、お前はどこへ行きたい? 今度はなにを仕出かすつもりだ?」
ブレイドは口元に手を当てて笑い声を上げた。
やがて肺腑の酸素をすべて吐き出すように長く細く呼気をつき、少年に向きなおる。
腕を組み、顎を上げて尊大に、そして下衆っぽく言い放った。
「唐津壮一をブッ飛ばす!」
そして少年は即座に応える。
「いいだろう!」
痛快な返しに満足げに頷いて、少女は踵を返して歩き始めた。
崖の上に取り残された面々は歩廊の屋根を伝い、盾壁の内を潜んで進みつつあった。
目的は封鎖の妨害だ。彼らはフォックスとブレイドの救助を一先ず後回しにすることとして、退路の確保を優先した。それは無慈悲というよりは信頼の表れである。
どうせあいつらのことだからなんとかして這い上がってくるだろう、と。
そのとき逃げ道が失われていてはお宝を奪取できたとしてもパレスもろとも崩壊に巻き込まれかねない。このためにまず跳ね橋を落とさんと走り回る騎士たちを襲撃しようということになったのだ。
すでに内郭に繋がる跳ね橋と城門塔、そこに続く道の確保は完了している。あとは中庭からパレスの脱出口へ繋がる跳ね橋のみだ。
首尾よく進む彼らの前に今のところ敵の姿は見えない。
殿を務めていたスカルはこれに乗じて前を行くパンサーに声を落として語りかける。
「つうかさ……お前、平気なのかよ」
主語のない問いにパンサーは首を傾げた。
「ん? なにが?」
「だからその……」
言い淀む様に彼女はぽんと手を打った。まったくこの男ときたら、粗野な外見や言動の割に意外なくらいにセンシティブだ、と。
それもあの少年の影響だろうか? 考えてみたら、最も付き合いの長いはずのこの人物をよく知ろうとしたのはつい最近になってからのことだ。知らない一面がまだあるのも当然のことかもしれない。
ともあれ、パンサーは顎に指を当てて天井を見つつこたえる。
「んー……自分でも軽くびっくりしてるんだけど、なんか、うん、全然ヘーキ」
「強がってんじゃねえだろな?」
「や、ゼンゼン。すっごいナチュラル」
「はぁー?」
気の抜けた声を上げるスカルに、仲間たちもが振り返る。パンサーは慌ててなんでもないよと彼らに向かって手を振ってやった。
そして歩調を落とすことなく胸の内を明らかにする。
「なんか……なんだろね、さっきモナも言ってたじゃん? もし彼がここにいたら腹抱えて笑うだけって……そうだろうなーって私も思うんだよね。想像できるっつーか。スカルもそうでしょ?」
まあなと答えて、しかし彼は肩を竦めて続ける。
「でも、笑うだけじゃないだろ」
前言を肯定して頷いて、パンサーは踵を鳴らした。長く続く回廊に響く音に一瞬背すじが冷えるが、シャドウが現れそうな兆候は見当たらない。
安堵の息をついて彼女はまた口を開いた。
「きっとすぐに気を取り直して、なんでもないことみたいに『じゃ、助けに行ってやるか』って言いそう」
瞬きをすると、瞼の裏にその光景をまざまざと思い描くことができた。それはすぐ後ろを歩くスカルも同様なのだろう。苦笑する声がパンサーの背を押した。
「そういう奴だわな」
「でしょ? そう思ったら……」
二人の目にちょうど回廊の切れ間が移る。開かれたそこからはシャドウたちが大わらわで藁や油を抱えて駆け回る姿が見えた。
スカルが指摘したのはブレイドが落下する光景を目にしたことによるトラウマの想起だ。
屋上のふちに立って虚ろな目をした友の姿。蒼い顔が身を投じた瞬間に身体を駆け巡った衝撃は、きっと生涯忘れることはできないだろう。
けれど今その友人は生きていて、リハビリを乗り越えて歩くことも笑うことも出来ている。距離はあるが、毎日他愛のないメッセージを送り合って時間と経験を共有している。
逆説的に考えれば、あれだけのことがあっても彼女たちを引き裂くことは不可能だったのだと言うことができる。
どのような困難も、余人の妨害も、決して、この友情を終わらせることは出来ない。今になっても彼女たちを苦しめる確かな痛みは、その証明でもあった。
「別に、本当に、なんてことないなって」
ブレイド―――に関しても同じことが言える。多分きっと、この面子の中で一番しぶといのは他でもないあの小柄な少女だろう。比較的前線寄りの立ち位置を誇って頻繁に怪我をするあの友人のことだ、ちょっと高いところから叩き落された程度じゃへこたれもしないだろう。
それはつまり中々懲りてくれないという意味でもあるのだが……それはまた再会できたときに思い知らせてやればいい。
パンサーは鞭を手に唇の端を釣り上げた。
「二人とも、お喋りはそこまで。橋が落とされる前にやるわよ」
先頭でシャドウたちの様子を窺っていたクイーンが告げると、直ちにナビが己の本領を発揮して敵の内訳を一同に告げた。
「うっし、んじゃ、やるか!」
「オッケー! 」
応えて、パンサーはシャドウたちの前に躍り出た。肉食獣を模した仮面に手を添え、己の半身に呼びかける―――
「踊れ、ヘカーテ!」
宵闇を身にまとった女が立ち上がり、手を振るう。現れた巨大な炎の波に一帯は悉く焼き払われた。
そして……
どおん、と大きな音がして爆発が起きる。
「ンにゃっ!? ぱ、パンサー? なにをしたんだ?」
大きな目をぱちくりとさせるモナに、分からないと正直に答える。彼らの前では城門に繋がる建物が火と黒煙を噴き上げていた。
「あそこ、たぶん、武器庫かなにかじゃないかな」
ノワールが困ったように小首を傾げるのに、ナビが肯定を示す。
「あー、多分そうだな。火薬もあったんだろ……っていうかくっせ! あいつら油も運んでたし、こりゃすぐには消せないぞ!」
どーすんだ! と喚いた最年少に、クイーンは頭痛を覚えるこめかみに指を添えつつ指示を飛ばす。
火災に際して火消しの水が間に合わなければすることは一つだ。
「跳ね橋に燃え移る前に打ち壊すわよ! 全部! 急いで! はやぁく!!」
女王の下命に、怪盗たちは直ちに応じて走り出した。
同じころ、遠くに響いた轟音に身を竦めつつ、ブレイドはよっと掛け声を上げて積み上げられた石材に足をかけて灯りの中に飛び出した。同じようにフォックスもまた乗り上げる。
「なんだ今の」
「分からん。が、どうせあいつらが何かやらかしたんだろう」
やれやれと水に濡れたつま先を振る。
二人は主塔の一階部分に辿り着いていた。広々とした円柱状の空間は湿気に満ち、隅に積まれた木箱や樽はうっすらと苔に覆われて渋い色合いになってしまっている。
崖の底を歩いて探索した二人はしばらくの後水の流れを発見し、そこからこの砦の水源に潜り込んだ。容易な道行ではなかったがほとんどは力技でどうにかすることができたし、実際にこうやって井戸を登って到着出来たのだから御の字というものだろう。
それでもすっかり濡れてしまった足元や衣類の裾を見て苦笑を禁じ得ない。
「タオルとか、持ち込んでおけばよかったね」
ぎゅっと衣装の端を絞ると水が滴って落ちる。同意してぶるぶると首を振ったフォックスの髪からは水滴が飛んだ。
さて、二人はしばしの間沈黙する。これは話すべきことが無いという意味ではなく、塔内の気配を探るためであった。
壁や床、階段に耳を当てて探ることしばし、ブレイドは顔を上げて安堵の表情を見せる。
「どうやらここはほとんど無人になってくれているみたいだ」
「あちらが派手にやってくれているおかげかもな」
先ほどの轟音を指して言う。しかし二人には確信があった。決して意図しての陽動ではないだろう、と。
「お宝は最上階。明智吾郎がネコババしていたり、唐津が移動させたりしていなければ、だけど」
「行けば分かる」
「うん。行こう」
足音も密かに階段を登ることしばし、拍子抜けするほどあっさりと二人は最上段に辿り着いた。一度は手にした宝杖を再び手に収めるのにも苦労らしい苦労は存在しない。
思わずと顔を見合わせて開口部から外の様子を窺うと、中庭の城門付近から黒煙が上がり、足元の広場ではシャドウたちが慌ただしく駆け回っている姿が目に映った。
「あの煙は……パンサーかな」
「賭けるか?」
「きみは誰がやらかしたと思うの」
たなびく黒煙を眺めつつ言ってやると、フォックスは少しだけ考えて
「……パンサーかな」と、答えた。
賭けにならないじゃないかと打ち切って、ブレイドは彼の腰布に杖を差し込んだ。そこに至ってやっと気が付いて声を上げる。
「あれきみ、尻尾は?」
「尻尾じゃないが……あれ? 無いっ!?」
「気が付いてなかったの」
「なかった……どこで落としたんだ……」
「知らない。落ちたときかな」
「えー、これ、一度出て、もう一度入ったら戻ると思うか?」
「どうだろう。怪盗服は戻るけど……これって私たちの意思の具現化みたいなものでしょ。尻尾になにか思い入れが?」
「尻尾じゃない」
「そこは重要なんだね」
益体もない雑談に興じながら来た道を引き返す。道のりは長閑なものだった。
「とはいえ、塔から出たらさすがに無警戒とはいかないよね」
騎士の居室から見繕った剣を一振り、抜身のまま担ぎ上げて調子を確かめるように足踏みをするブレイドに首肯して、フォックスは肩を回す。
疲労は十分過ぎるほど蓄積しているが今すぐ眠りたいというほどではなかった。横になれたとしてもかえって精神的に高揚して早々には眠れそうもない。
「よし、これでいいや」
高く澄んだ音を立てて剣が鞘に納められる。剣帯にベルトで繋げてすっかり己の物としてしまうと、少女は踵を鳴らして歩き出した。
「行こう。その杖を餌にすれば唐津もすぐにやってくる」
「うむ、始末をつけよう」
二人は並んで塔の外へ出る―――
暗雲の下に黒煙と砂塵が舞う内郭は相変わらず騒然としていた。その中に唐津のシャドウの姿を探すがすぐに見つけ出すことは叶わない。
もしかしたらあの怪物の姿ではなく人の形をとっているのかもしれない。であれば厄介だ。シャドウたちはどれも鎧姿に身を変じさせてあちこちを駆けずり回っているから、その中に紛れられてしまうと見つけ出すのには時間がかかる。
ならばまずは仲間たちと合流を狙うべきか。幸い先方の派手な立ち回りのおかげでおおむねの位置は把握できている。やっぱり、それが狙いであんな騒々しさを演出したわけではないだろうが……
塔の外周をぐるりと回る階段を駆け下りて地表に辿り着く。ちょうど目の前には屋根付きの井戸があって、その傍らには厨房棟と城館が建ち並んでいる。素早くその陰に身を潜めると、見計らったように武装した騎士たちの集団が本塔へ駆けて行く。二人が耳をそばだてるまでもなく、彼らの会話は筒抜けだった。
城門が落とされた―――武器庫が爆破された―――貯蔵庫も火に巻かれてしまっている―――主塔へ続く道を外せ―――しかしご城主様はどこへ―――
どうやらシャドウたちも主の居場所を見失っているらしい。
「いけるね、仕掛ける?」
「消耗は避けるべきだ。ここはやり過ごそう……」
了解、とこたえて、ブレイドはゆっくりと影の中に身を落とした。
しかしさて、城主はどこへ行ったのやら。壁に身を預けて思案しつつ厨房棟の窓から内部を覗き込む。無人であることを確認して滑り込み、内部を伝って城館、歩廊、監視塔と大きく迂回しながら主城門を目指す。
どうやらそこはすでに仲間たちが占領しているようだから、そこまで辿り着けば一息もつけるだろうし、合流も果たせるかもしれない。
工廠の中をうろついていたシャドウを奇襲によって叩き伏せ、盾壁の内部に至る。主城門はすぐ目の前に迫っていた。
「あー、怒られる……」
「やめろ。言うな。考えたくない」
「きみはいいよ。ちょっと罵られる程度で済む」
「ちょっと? ちょっとか? 本当にちょっとだと思うか?」
「……いや、大分叱られるな」
「うむ……」
どんよりとして歩調を乱す二人の前に再びシャドウが立ち塞がったが、それはいずれも一刀のもとに切り捨てられた。
「ね、本当に大したことないでしょう」
自慢げに胸を張って誇らしげな様子を見せるブレイドに、フォックスはやれやれと頭を振る。戦いにおいて彼女はどうにも高慢な振る舞いをしがちだ。好戦的と言ってもいい。彼女にこのような一面があるなどと一年前の己に伝えたとて信じてくれまい。
しかし不快感は薄い。それにフォックスだって人のことをとやかく言えるほど謙虚な性質でもなかった。
「そのようだ。この程度なら唐津のシャドウも大した手間はかからんだろうな」
冗談めかした発言ではあるが、裏には絶対的な自信が見え隠れしている。
意気揚々と進む二人の前では困難のほうが頭を垂れた。そしてそれが長続きしないのが彼らのセオリーといえた。
巨大な咆哮がパレス全体を揺るがしたのは主城門から跳ね橋を覗き込んだそのときだった。精神世界全体をビリビリとした振動が襲い、ひときわ強い風が吹きすさんで砂塵を巻き上げる。遠くに見える黒煙の下の炎がそれによって再び勢いを盛り返しさえしていた。
衝撃の振動は彼らの背後―――主塔の方向から響いている。驚愕とともに振り返ったブレイドであるが、分厚い壁の向こうの様子はさすがに窺えない。
咄嗟に警戒態勢を取って跳ね橋へ向かった彼女をフォックスが驚きとともに引き寄せたのは本当に幸いなことだった。
轟音と衝撃が二人のすぐそばの壁にぶち当たって爆発する。驚きをもって目を向ければ、堅牢だったはずの盾壁には大穴が穿たれ、煙を上げているではないか。
おそらく臼砲の類による砲撃だろう。サッと顔を青ざめさせて、ブレイドは己を庇うフォックスの胸倉を掴んで引っ張った。ほとんど突き飛ばすような形で跳ね橋の方向へ押しやって、彼女自身も走り出す。
砲撃の発射地点を目指すのには訳があった。臼砲は曲射砲の一種であり、放物線を描いて砲弾は打ち出される。ものによっては仰角が固定されているから一定以上、あるいは一定以下の距離には弾が届かない。そしてこれだけの騒ぎの中、咆哮響く主塔のそばへ退く気には到底なれなかった。
容赦なく降り注ぐ砲弾を掻い潜って疾走する二人の背後で跳ね橋が爆発とともに崩れ落ちる。城門棟の下には決死の騎士たちが待ち構えていたが、彼らはこれを相手取ることすらせずに突き飛ばし、あるいは飛び越えて後方へ置き去りにした。
木製の斜路を滑り降り、ようやっと臼砲本体が目に映るやいなや二人は直ちに己の半身を呼び起こしてそれに向かって冷気と破邪の力を全力で投げつけた。
攻撃のどちらかか、あるいは両方が火薬に衝撃を与えたのだろう。臼砲は砲撃手や装填手らもろともを巻き込んで爆発し、地表に穴を穿った。
「自分の―――城の中で―――攻城兵器を―――」
「使うやつが―――あるか―――!」
ぜえぜえと荒い息の中訴えるが、聞く者は一人とていなかった。
緊張の糸がぷつりと切れ、滝のように流れる汗と冷や汗もそのままに揃ってへたり込む。だが、危地を脱したと思うのにはいささか早計だった。
安堵する間もなく頭上から影が落ち、羽ばたきによって生じた風が背を叩く。
フォックスはとっさに隣の少女の首根っこを掴んで前方へ跳ねるように飛び出した。すると背後に火柱が立ち上がって周囲を赤々と照らし上げる―――
「小賢しい!」
忌々しげな声に二人は天を振り仰いだ。獅子の頭、下半身は爬虫類、背には猛禽類の翼……
「いたな、唐津壮一!」
ブレイドはどことなく歓喜の色を滲ませた声を上げた。フォックスが襟首を掴んだままでいなければそのまま飛びかかっていたかもしれない。
「逸るな、落ち着け!」
引き戻して耳打ちしてやるとブレイドはうっとつんのめって静止する。
「戦いに入ると周りが見えなくなるのは悪い癖だ」
「く……言い返せない……」
「言い返さんでよろしい」
ぱっと掴んでいた手を開き、改めて得物の柄に手を伸ばす。フォックスの目は素早く辺りを見回したが、周囲に仲間たちの姿は見当たらなかった。代わりにか、騒音を聞きつけたのであろうシャドウたちが逃げ道を塞ぐように集いつつある。
仲間たちはまだどこかで足止めを食らっているのかもしれない。であれば、ここは自分たちだけで対処するしかないだろう。幸い先の砲撃で彼らの注意もこの近辺へ向かったはず。ナビが広域を探索すればこちらの存在にもすぐ気がついてくれる―――
腰を落として構えを取る。その隣でブレイドもまた剣を鞘から抜き放ち、剣先を下後方へ向けた構えを取った。
「まだこそこそと飛び回るつもりか」
天上から威厳のある声が降りかかる。これにブレイドが―――おそらくひどく口汚い罵り言葉を―――言おうとするのを遮ってフォックスが応えた。
「飛び回っているのはお前だろう、姦物め。その悪事、この身をもって見させてもらった! すべてを公知に晒し、裁きの場に出るがいい!」
「未熟者が吠えるでないわ! 子供らしく我が前に頭を垂れろ!」
大声に空気が震え、並び立つ少年たちを引き裂くように再び火柱が立った。目を焼くほどの白熱が辺りを覆い、取り囲むシャドウたちが悲鳴を上げる。
閃光の中、炎をかわしたブレイドが一直線に飛び出して死角から唐津に斬りかかった。中空で羽ばたくそれに切っ先が届くとも思えないが、少なくとも唐突に視界に割って入った彼女の姿に動揺させる効果はある。
「むうっ」
うめき声を上げてバランスを崩した城主のその鱗で覆われた尾をひやりとした感覚が捕える。
何事かと目を向ければ、地上から真っ直ぐに伸びた氷の蔓が彼の尾を掴んでいた。
「堕ちろ!」
がくっと高度を下げた唐津の顔に振り下ろされた裏刃はその中央を真っ直ぐに切り裂いた。
けたたましく上げられた苦悶の声を取り残して着地する少女の後を追って巨体が地に降りる。衝撃に地鳴りと粉塵が巻き上がり、再び場の視界を塞いだ。
細かな砂と呻き声が満ちるその中を、低く這うようにフォックスが進み出る。
ブレイドはそれを目にも映さず己の傍らに剣を突き立て、踏みつぎとして彼の前に差し出した。
音もなくその鍔に足をかけ、痩身が飛び上がる。紫電一閃。それは獅子の頭上を越え、切っ先を翼に届かせた。
重量のある音を立てて切り落とされた一翼が地に落ちる。刀はすでに鞘の中に収まっていた。
「あっけないものだな」
つぶやきに被さるようにより強い苦悶の声が響く。フォックスは鼻を鳴らして背後に目を向けた。相変わらず砂煙によって視界は塞がれているが、そこに唐津が身悶えているのが気配で察せられる。
そしてその向こう、小柄なシルエットが再び武器を構えているのが見えるのだが……フォックスははてと首を傾げた。確かにブレイドは同年代の女子と比べても小柄なほうだが、あんなに小さかっただろうか。
「おのれェ……小さき者の分際で、この私に……傷を負わせるなどォ……」
恨みのこもった声は彼が思うよりずっと上から響いていた。
自然と視線が上にいく。そこで彼は得心した。ブレイドが小さいのではなく、比較対象として並んだ唐津の肉体が膨れ上がっているのだ、と。
「ブレイド、退がれ!」
警句と同時に、巨大ななにかが振り回されて砂煙を払った。
それは巨大な戦鎚だった。叩かれるどころか、かすりでもしたらそれだけで肉のえぐられそうな……
とっさに身を低くしたフォックスの頭上を嵐のような苛烈さで通り過ぎた鎚は辺りを取り囲んでいたシャドウや建築物さえも粉砕しつつ吹き飛ばした。
鬼哭啾々と鳴り響く悲鳴と爆音の中、唐津は堂々と砂塵の中から現れる。
見上げるほどの巨体は三メートルはあるだろうか。筋骨隆々とした肉体が獅子の首があるべきところから生えており、唐津自身の顔をたてがみが飾っている。まるで獅子の頭と胴の間に人の体を差し込んだかのような不気味さがあった。
伝承に聞く半人半馬のようだとブレイドは思い、自分の何倍もあるだろう巨躯に圧倒されて呆然とする。
「世の中の理というものを教えてやろう、小虫ども……今すぐそこに―――」
鍛え上げられた肉体が巨大な鎚を大きく振り上げた。
はっとして後ろに退こうと脚を動かすが、唐津の得物がその胴を捉えるほうが早かった。
「跪け!!」
怒号とともに振り回された戦鎚はブレイドを先端に引っ掛け、柄でもってフォックスもまた巻き込んで振り抜かれる。
もろ共に叩き飛ばされた二人は悲鳴を上げることすらできずに壁に叩きつけられ、その瓦礫のとともに地に崩れ落ちた。
「ガッ、げほっ、っは!」
肺腑に大きな衝撃を受けて止まっていた呼吸が急激に再開された反動にだろう、少女は身体を折り曲げてゲホゲホと大きく咳き込んだ。
咳を一つするそのたびに鮮血が地を濡らし、叩きつけられた際に頭部にも傷を負ったのか、額からもまた血が滴って地べたに吸い込まれていった。
隣で得物を杖にどうにか立ち上がろうと苦心する少年もまた似たようなもの。死んでいないのが不思議なくらいの重症だった。
「敗北を認めて命乞いをするがいい」
屈辱的な言葉が降り掛けられる。少年たちは歯を噛んで身を震わせた。
たった一撃をもらっただけでここまでの深手を負わされるとは―――
誰だ楽勝なんて言ったのは。
思わず愚痴りたくもなるが、言う余裕はなかったし、言えたとしても飲み込むだけの分別は双方あるつもりだった。
「わかっているであろう、お前たちは勝てはしないのだ。戦える力が多少あるから、それがどうした? より大きな力の前では、しょせん無力と変わりはしない」
フォックスは渾身の力を籠めて得物を掴み、震える膝を立てて顔を上げた。
そこには決して折れまいとする鋼のような矜持がある。瞳には強い怒りの炎が爛々と燃えていた。
「さあ、跪いて頭を垂れろ! それが正しい子供の大人への態度だ!」
言葉にブレイドは音がなりそうなほど強く歯を噛んだ。また血が垂れて落ちる。
小さな身体を痛みが支配している。朦朧とした意識が『勝てない』と訴えてもいた。そしてまた、震える彼女の目に傷ついてなお立ち上がろうと苦心する少年の姿が映る。
―――自分が従えば、彼は助かるだろうか?
考えて、ブレイドは床に転がる剣を手に取った。
それはまったく無意識的に行われていた。まるで誰かが彼女の手を取ってそこに導いたかのようだった。
脳裏に声が蘇る。
『血を流しても、手足が吹き飛んだとしても、何があろうと。それでも、それがどうした』
もう一月も前の記憶だろうか。家のリビングで、ソファに腰掛けた少年が語る。
『俺を信じてくれた奴らの前で、決して折れるわけにはいかない』
私はこれになんと答えたんだっけ。納得して、それで、私は……
「私も……」
剣を地に突き刺して、杖代わりにと力を込める。
頭が痛む。額と側頭部が割れ、肋骨も何本か折れているだろう。でも、脳みそまではこぼれていないし、息が止まるほどではない。腕や脚が痛い。けれど立ち上がれないわけじゃない。身体中のそこかしこが痛くてたまらないが、それがなんだっていうのか。
「私も、無様な姿は見せられない……!」
呻き声にフォックスが応える。
「そうだな……こんなところをあいつに見られては、むこう一ヶ月は笑い者にされる……それだけは、ごめんだ」
二人はこの場にいないはずの『彼』の存在を感じていた。それはなんとも言葉にはし難い感覚だった。決して不快なものじゃない。痛みを忘れるほどの高揚感、全能感と万能感が全身に力をみなぎらせている。思考はクリアで、ただ一つの意志によって突き動かされている。
―――『彼』ならどうするだろう? 巨大な力に屈し、跪いて命乞いをするだろうか? 間違っていると解っているのに、逆らえば不利益を被るとして口を閉ざすだろうか?
二人は直ちにこれを否定した。
そんなことはあり得ない。血反吐を吐こうが、手足をもがれようが、いかなる苦しみの中にあっても立ち上がり、己の正義を貫いてみせるだろう。
それこそが本当のこの世の至宝―――何ものにも代えがたい『オタカラ』だ。
『彼』はこの場にいないが、それでも、二人の心の内には『彼』の存在が強く焼き付けられている。
それは例えば、絆と呼ぶべきものだった。
ふらつきながら、全身から血を滴らせながらフォックスは立ち上がる。彼は腕を伸ばし、ブレイドの腕を掴んで同じく立ち上がろうとする彼女を支えてやった。
その瞳には力強い輝きが宿っている。
「跪けだって?」
地から両刃の剣の切っ先が抜き上げられる。
「笑わせるな、俺たちは誰が相手だろうが傅いたりしない!」
踵を踏み鳴らして刀を取り上げ、こじりでもって地を叩く。
武器を掲げ、唐津の巨躯に切っ先を向ける。足元からは蒼い炎が立ち、辺りを埋め尽くすほどに広がりつつあった。
そして二人は声を揃えて吠える。
「場に『ジョーカー』が出ている限り、退くわけにはいかない!」
仮面に手をやった少女の背後に彼女の半身が立ち上がる。
ヴェールの向こうの女は苦悶するように身をくねらせたかと思うと腕を伸ばしてヴェールの向こう、『こちら側』へその身を乗り出した。
夜の闇のように真っ黒な布地が引き裂かれる―――
現れたのはやはり、艶めかしい女のシルエットだけだった。
あるいは、それは光そのものだ。閃光が人の形を取っただけとも言えるが、その姿を目にすれば他に必要なものはないと誰もが思うであろう姿だった。
「さあ……」
巻き上がった蒼い炎を身にまとい、仮面を引き剥がす。
少女は声の限りでもって己の人格を守るもの、神話に謳われる曙の女神、知慧と創造性の光を表すもの―――
夜明けの光そのものの名を呼んだ。
「消し飛ばせ、アウローラ!」
号令に人の形を取った光塊はすかさずその腕を振るった。
質量を伴った光の奔流が辺り一帯を白熱でもって払う。目を焼く強い輝きに唐津は悲鳴を上げて後退ろうと身をよじるが、しかしその脚は凍りついたかのように動かなかった。
否、その脚は猛烈な冷気を放つ氷の蔦によって縛られている。
「これでどうだ!」
一閃が疾走る。鋭い剛撃は唐津の脚をぱっくりと切り裂いて黒い霧を吹き出させた。
傾いだ身体を戦鎚が支える。彼は驚愕こそすれ、闘志は萎えていない様子だった。
「手心を見せれば付け上がりおって……! やはり厳しく躾けてやらねば解らぬか!」
尊大な物言いとともに拳が掲げられる。それは怨嗟の念を纏っていた。谷底で目撃した幽鬼たち、それが腕に縛り付けられて泣き叫んでいる。
耳をつんざくようなその金切り声の群れは真っ直ぐにブレイドに向かい、彼女の心臓を握り込んだ。
氷を直接内臓に触れさせたような感触に胸を押さえるが、彼女は決して膝を着かず、歯を食いしばってうそぶく幽鬼たちに目を向ける。
「あなたにとって彼らは便利な武器とでもいうことか……」
まなじりを釣り上げて剣を構える。もはや身体のどこに意識を向けても痛みのない箇所はなかったが、さりとてそれは膝をついてよい理由には決してならなかった。
そして苦痛は彼女に幻覚のようなものをもたらした。
闇夜に溶けるような黒い衣装、深紅のグローブで覆われた手が伸びる。彼はその見えざる手でもって気安く少女の肩を抱き、囁いた。
「手を貸そうか?」
少女は苦笑して、確かに耳朶を叩いた声に応える。
「見て分からないの。さっさとして」
不遜な言い回しに苦笑する気配を感じる。見えざる手は優しく少女の背中を叩き、しかし物理的ななにかを残すこともなく消えた。
それで充分だった。場所を違え、距離を隔て、あらゆるものが間にあってなおそれは彼女に一つの確信を抱かせた。
―――そうとも、私は一人じゃない。
ふらついた背中を支えるように腕が回される。顔を覗き込む狐面は満身創痍だというのに心配そうな目をしていた。
「まだやれるな」
そのくせ無茶を言いつける。
ブレイドは目を細めて己の仮面に手を添えた。
「当然でしょう」
くっと低く喉を鳴らした少年の頬を陽光が暖める。それは再び姿を見せたアウローラが与えるもので、傷を癒すわけではないが彼にも見えざる手を分け与えた。
「ペルソナ―――」
そして光そのものである女は剣を掲げて唐津に躍りかかる。それはまさしく舞であった。
無数の斬撃が唐津の腕を払い、そこに捕らえられた幽鬼たちを解放する。
アウローラが放つ陽光に溶けるように消えて行く子供たちの幻影を逃すまいと太い腕が伸ばされたが、それは二度と届くことはなかった。
唐津の目がふ、とブレイドに向けられる。彼女は一人でそこに立っていた。まるで誰かのように泰然として、口元に底意地の悪そうな笑みを湛えている。彼女はまた、挑発するように手元で剣をくるりと翻しもした。
違和感は一瞬で、正体はすぐに知れた。彼女の傍らに居た少年の姿が消えている―――
「俺ならここだ」
呼びかけと同時に、伸ばされた唐津の腕に鋭い痛みが走った。遅れて陽光を跳ね返す強い煌きが目を焼く。
それが足元に忍び寄った少年の振るう刃によるものだと気が付いたのは、さらに遅れて続いた赤い線によるものだった。
最後に、どんと音を立てて切り離された腕が地に落ちる。
血振るいを一つ、音もなく刀を鞘に納めたフォックスは素早くその場を立ち退いて降りかかる鮮血から距離を取った。
「お……おおぉッ!!」
苦痛に巨躯は震え、絶叫する。
そして彼は一直線に己に向かって疾駆する少女の姿を見る。
彼女はいまだその足元に佇む少年に向かって端的に要求した。
「リフト」
言われたほうは少しだけ嫌そうな顔をして、痛む体を押さえて応える。
「優しく頼む……」
やっぱりそれは無茶な注文だった。
応える気も起きないと聞こえなかったふりをして地を蹴り、構えたフォックスの膝を踏み、肩に乗って飛び上がる。
「うぐっ……やはり重くなったな、ブレイド」
「後で殴るからね」
言い残して、少女はばねのように身体を伸ばして切っ先をいまだ喚き叫ぶ男の胸元に突き立て、横薙ぎに一閃する。
再びの絶叫を背に空中で一回転。着地体勢を整えた少女の身体は、直接地につくことなくフォックスの腕の中に収まった。
「これで勘弁してくれ」
「……まあ、うん」
どことなく不満げな返答だが、それが取り繕ったものであることくらいは推察できた。
ふっと口元をほころばせた少年の背を咆哮が叩く。それは彼らだけでなく、またもパレス全体を揺さぶるほどの声量をもって放たれていた。
視線を巡らせると、いまや隻腕となった唐津が心火とともに少年たちを見下ろしていた。
「殺す……!」
地の底から響くような唸り声には確かな殺意が宿っている。残された右腕は再び戦鎚を持ち上げてもいた。
思考が言語化するよりも早く、フォックスは少女の身体を抱えたまま脚を踏み出した。
直後、地を穿つ一撃がたった今彼らが居た場所に振り下ろされる。それは柔らかな土どころか岩盤までを抉り取って衝撃とともにその背を強かに打ち付けた。
それでも脚を止めずに前方へ進む少年の背後が再び穿たれる。一度、二度、三度と続けざまに打ち込まれた轟撃をいずれもすんでのところで回避するが、長く続くとは思えなかった。
「フォックス、降ろして―――」
「そんな暇があるか!」
放り投げりゃいいじゃないかと言おうとした少女が衝撃に舌を噛みそうになるのを横目に見つつ、実際のところどうするべきかを思案する。
怒りに任せた攻撃がいつまでも続くとは思えないが、それは彼にも言えたことだ。全力で走り回ったツケとダメージによる出血。腕にこそ力は入るが、肺腑が酷く痛むことを考えると胸の骨が折れているかひびが入っているか……いずれにせよあと百メートルも走れれば御の字と言ったところか。
結論付けて腕に力を籠める。彼女が言おうとした通り放り投げてやれば少なくとも彼女が対処する時間くらいは稼げるだろう。しかしそうしたとき、恐らく自分の脚は少なからず速度が落ちることになる。そういう意味でそんな暇はないと答えたのだが……せめて痛みを感じる暇もなく戦鎚が叩き潰してくれることを祈ろう。
悲壮な覚悟を固めた少年の目に奇妙なものが映りこむ。
それはよく知った姿なのだが、髪を金に染めた少年の腕には子供の頭ほどもあろうかという球体が抱えられていた。
バチっと目が合うと、彼は唇の動きだけで告げる。
『伏せてろ大馬鹿野郎』
怪訝な顔をするのと彼がその球体を放り投げるのは同時だった。
かなりの重量がある物らしい。顔を真っ赤にして雄叫びとともに全力投球を行った少年は、力尽きたと言わんばかりにその場に膝を着いてしまう。
そんな彼をいたわることもねぎらうこともなく、その背後に現れた少女がちょうどいいと彼の肩を銃架に回転式拳銃を構える。西部開拓時代に広く用いられた.45口径が火を噴いた。
「ちょっと待て」と言う暇こそあれ、声は届く前に爆音に押しつぶされた。
衝撃がフォックスを襲うことがなかったのは、抱えたままの少女がとっさに肉眼で捉えることのできない盾を構えたおかげであろう。
呆然として膝を着いてもろともに倒れ込む二人の前に、高らかな音を立ててブーツの踵が落とされる。
「げっ」
ブレイドが思わずと声を上げるのに、パンサーはまなじりを釣り上げて、しかし口元に笑みを湛えて応えた。
「アンタたちぃ? 分かってんでしょうねぇ?」
するっとパンサーの背後からノワールが現れる。
「お・し・お・き・ね? うふっ」
怒りを露にするパンサーより、口元に手を添えてたおやかに微笑む彼女のほうがよっぽど二人を恐怖させた。
「あの、その、前門の獅子後門の豹……じゃなくて、ほら、シャドウが―――あれっ!?」
身体を起こしたブレイドが背後を指し示すが、しかしそこにもはや唐津の巨体は見当たらない。
パンサーとノワールの間からぬっと顔を出したナビが彼女の驚愕に応えてやった。
「ボス敵ならクイーンとスカルのツープラトンで吹っ飛んだぞ」
スカルが放り投げた砲弾が唐津の頭上でクイーンによって着火され、その爆撃によって吹き飛んだのだと語る。ちょうどその二人も高台からこちらへ駆け付けたところだった。
そしてまた足音も少なくのんびりと歩み寄ったモナが言う。
「あーあー、ひっでぇことになってんなオマエら」
「またこんなに怪我して! もおぉっ、さっさと見せなさい!」
怒りつつ心配するという器用な真似をしてみせながらパンサーが手を伸ばす。
「ほいっと」
モナの小さな手も寄越される。ぷにっとした肉球の感触が与えられるや否や、痛みはたちどころに消え去った。
「はあ……助かった……いや、助かってないんだけど……」
「そうね。まったく……ブレイドは当然として、フォックス、あなたも迂闊だわ」
「ぐ……すまなかった……だが、お前たちも遅かったじゃないか。なにをしていたんだ?」
疑問の声にさっとパンサーに視線が集う。彼女は明後日の方向を見つめながら下手くそな口笛を吹いた。
「や、まあ、こっちも色々あってね。うん、爆発……とか? あとなんか、変なもん見つけたりとか……」
「変なもの?」
首を傾げたブレイドに、誤魔化すにはここしかないと高巻はまくしたてる。
「そおそお! ここってなんか、中世ヨーロッパって感じじゃん? なのにあっちのすみーっこのほうに、今っぽい倉庫があってぇ」
「百人乗ってもダイジョーブ」
ナビの補足に乗るようにびっとパンサーの指が一同の遥か後方を指し示した。それは城壁のそば、隅の城塔を指している。
「確かにあの辺りは直接足を踏み入れて調べたりはしていなかったけど……その倉庫の中には何が?」
「それが、開かなかったの」
斧を担いだノワールが答える。その隣でスカルもまた長物を手に頷いている。
「鍵がやたらと固くってよ。いっそドアごとぶち壊してやろーかってあたりでこっちの騒ぎに気が付いて駆け付けたから、中身はわかんね」
「お宝ではないでしょうけどね」
肩を竦めたクイーンの目はフォックスの腰布に差し込まれた宝杖に向けられている。すっかり快癒して立ち上がった彼の背中にはモナが貼りついてゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「はぁんオタカラぁ……」
ブレイドの手が無言で杖を引き抜いた。
「あ、そうだ。ほれフォックス、落としもんだぞ」
ナビの手からぽいと乱雑にふさふさしたものが少年に向かって投げられる。
「あ、俺の尻尾……」
「やっぱり尻尾なんじゃん」
「尻尾じゃないが」
「いや今尻尾っつっただろオマエ」
「聞き間違えだろう」
「誤魔化すの下手か!」
右にパンサー、背中にモナ、正面のスカルから詰め寄られて、それでもフォックスは首を左右に振った。左のブレイドがやれやれと衣装に付着した砂や小石を払い落としながら我関せずを貫いている。
それはまったくいつも通りの彼らの姿だった。
上級生組の二人はそれを見て、目線を交わし合って苦笑する。
ここに『彼』がいたならば、一緒になって大騒ぎをするか一歩離れたところで悪だくみをしているか、どちらにせよ最後には音頭を取って次の行動を提案してくれたことだろう。
しかし今ここにはいないのだから、仕方なし。暫定的なリーダーを務めるべくクイーンが手を鳴らして一同の注意を引いた。
「はいはい、じゃあ帰るわよ。お宝も手に入れたことだし」
これを三度の轟音が遮った。
崩壊した食糧庫らしき建物の瓦礫から巨躯が立ち上がり、戦鎚を手に喧々たる雄叫びを上げたのだ。その背後には無数の炎塊と悲鳴を上げる亡魂たちが渦巻き、咆哮に応えるように湧き上がったシャドウたちが群れをなしている。
「この―――糞餓鬼どもォ―――絶対に、生かしては―――」
怨嗟の声とともに炎と亡魂たちが放たれる。それは大波のように地を舐め、建造物やその残骸を巻き込んで少年たちを丸のみにせんと襲い掛かった。
さて、そもフォックスとブレイドの苦戦は二人が手負いであったことが大きな素因である。
しかし今や二人は全快し、仲間たちと共に立っているのだから―――
まず、花のような芳香とともにドレスの裾を翻した無貌の女が立ち上がった。足元ではノワールが厳しい顔をして迫りくる炎を指差している。
「させない!」
宣言と共に輝きが彼女の前に現れ、炎を巨体に弾き返した。
それを追うようにフォックスが走り出す。掴みかかろうとする亡霊たちはしかし、指一本とて彼に触れることはかなわない。後方で半身を従えたブレイドがその輝きでもってことごとくを打ち払っていた。
ならばと斬りかかったシャドウは追随していたスカルやクイーンの手によって即座に叩き伏せられる。
「オラ行けフォックス!」
「そんなに長持ちはしないわよ!」
彼の前方を遮るものはもはや何もなかった。
「ふぅーむ……フォックス、弱点突けるぞ。やっちまえ!」
ネクロノミコンに身を委ねて中空をたゆたっていたナビがサーチを終えたのだろう。大した感慨もなさそうに告げる。
「承った」
応じて、フォックスはさらに大きく踏み込んだ。その行く手を阻むように戦鎚の柄頭が半円状に地を穿ち、跳ね上げられた砂や瓦礫が彼の視界を塞いだ。また背後からは露払いの二人から逃れたシャドウが大挙して押し寄せている。
止まる必要は無かった。むしろ彼はより早く前に進み出なければならなかった。なにしろ彼とその背後に迫るシャドウの群れ、さらにその後ろでパンサーが巨大な炎の塊を構えて立っている。彼女が容赦や配慮をしてくれるとは思えなかった。
「スカルぅ! そこっ、どいて!」
駆け抜けたフォックスの背後で断末魔の重奏とスカルの怨言、そして己の尻尾……の、ようなものが焦げるのを感じつつ、足場と視界の悪い中を通り抜ける。
「終わりだ、唐津壮一!」
霹靂閃電、吠え声と共に辿り着いた足元に一刀を滑り込ませる。
しかしそれは致命傷には至らず、巨体を傾けさせることさえ出来なかった。獅子の顔の化身―――ナラシンハは妖しく口元を歪ませて彼を嘲笑う。
「蚊の刺すような痛み……所詮子の為すことよ、可愛らしい! 私こそがその不愍な生を終わらせてやろう!」
振り上げられた鉄塊に、しかし巨体から見れば小さな少年もまた笑ってみせた。
「誰が終わらせるのは俺だと言った?」
風がゆっくりと舞い上がって視界を塞ぐものをすべて取り払う。フォックスの肩の上に飛び乗ったモナはふんぞり返って鼻を鳴らした。
「残念なことにワガハイでもないな」
逆巻く風は意志を持つかのように動く。
はっと息を呑んで、ナラシンハは己の身体を見下ろした。痛みが鈍かったのは、身体が傾かなかったのは、己の力によるものではないとやっと気が付いたのだ。
まるで巨大な腕のように彼を捕えていたのは無数の氷柱であった。四つ足を凍りつかせ、腹から胸へ登り立つ冷気―――
風が止み、霜を降らせる。白く煙る視界の向こう、少年の背後には黄金の兜に白髪を振り回した偉丈夫が大刀を構えている。
「蹴散らせ! カムスサノヲ!」
高々と響く号令に大刀が振り下ろされる。
「止めろ!」
制止の声は氷柱が砕け散る高音に阻まれた。
大小の破片と化して舞う氷は天から落ちる陽光を乱反射させて彩氷のように七色に輝いている。フォックスはもはや構えすら取らずに満足げに頷いて、したり顔を浮かべていた。
「うむ、美しい」
天を仰いだフォックスの視界には切り裂かれた暗雲の切れ目から振り落ちる陽光を捉えている。
正しくそれは『天の切れ目』だ。
そしてその中から大上段に剣を構えたブレイドが影とともに現れる。
一同が陽動に動く間に彼女はナラシンハの背後に回り、高台を取ってこのときを待っていた。
大きくぐらついた背はもはや守るものも遮るものも無く、無防備にさらされている。ブレイドは一欠けらの慈悲も赦しもなく、その背を肩口から腰にかけて切り裂いた。
断末魔の悲鳴が上がり―――
ナラシンハはついに地に倒れ伏した。