06:Life is what you make it

……
 パレスを後にした一同は、家のリビングで一時の寛ぎを得てすっかり体力を取り戻していた。
 時刻は十五時を回り、外はますます日差しが強く、アスファルトから立ち上る熱気が住宅地の風景を歪ませている。
 とはいえ、室内は空調がよく効かされていて快適そのものだ。若者たちは文明の利器を享受してだらけきっていた。
「はい、どうぞ」
 渡された炭酸飲料を受け取って、坂本は軽く頭を下げる。
「サンキュ。つーか、大丈夫なのか?」
「なにが?」
 首を傾げるに、アイスコーヒーを受け取った高巻が言わんとするところを察して続ける。
「私らを家に上げちゃって、平気なのかなって。ほら、まだ改心自体は済んでない訳だし……」
 ああ、と納得して、は全員の前に飲み物を置き終える。モルガナの前には器に入れられた牛乳があった。
「たぶん、大丈夫。お母さんは早くても七時まで帰ってこないし。それまでに皆が居た痕跡を消すくらいはわけないよ」
 こともなげに語って、彼女もまた腰を下ろす。
 その表情に陰りは見当たらない。これまであったような怯えや悲壮さが抜け落ち、年頃の少女らしい快活さがあった。
 そして彼女の視線は器に注がれた牛乳に舌鼓をうつ靴下猫にジッと注がれている。
「猫好き?」
 モルガナの隣に腰掛けていた少年が問いかけると、ははっとして照れたように頭を掻いた。
「それもあるけど……モルガナくん? あの時助けてくれたのはきみだよね?」
 さて、モルガナは牛乳に浸していた舌をぺろりとしまって顔を上げ、さりげなくその背を撫でようとしていた少年の手から逃れると、音もなくソファからローテーブルの上に飛び移った。
「バレちまったら仕方がねぇ、その通りだ。けど、感謝する必要はねぇぜ。ワガハイはただこの家の場所と事実の確認をしに来たってだけだからな」
「そっか。それでも、ありがとう。どんな理由でも、嬉しかった……あれ?」
 言葉の途中で首を傾げた少女に、モルガナもまた首を傾げる。そんな二人を眺めて、少年は笑って伊達メガネのブリッジを押さえた。
「ああ、こいつ喋るんだ」
 は勢い良く立ち上がった。
「喋ってる!」
 少女の腕が素早くモルガナを捕まえる。彼は悲鳴を上げた。
「んギャッ」
「ど、どこかにマイクがついてるとかじゃ……ない! あっ、やわらかい、あったかい……!」
「やめろぉ変にゃとこを触るんじゃ……んにゃあうぅ~」
 豹変してモルガナを撫でまわすの姿に、喜多川を除く一同はぽかんとしてそれを見守るしかなかった。
 しかしいよいよ彼女の手が腿の付け根を揉み、モルガナが懇願の声を出すようになると新島が困った顔で隣の喜多川の袖を引く。
「ちょっと祐介、止めてあげて……」
「無理だ。はああなると猫が腹を見せるまでやり続けるぞ」
「ワガハイはっ、猫じゃっ、ねぇっ! あにゃあ~」
「あ、シャッターチャンス」
「モルガナ~こっち向いてこっち~」
「次こっちなー」
「てめぇらぁ……! ゴロゴロ……覚えとけ……ゴロゴロ……よぉ……!」
 新島はため息を吐いた。
……
「ごめん取り乱した」
 十数分ほどモルガナを撫でまわしてから我を取り戻したが言う。その頃には若者たちのカメラロールのほとんどはモルガナのあられもない姿で埋め尽くされていた。
「やり遂げた……」
 腹を見せて転がるモルガナの画像をうっとりと見つめる少年を睨みつけ、モルガナはから最も離れた席で咳ばらいをする。
「まったく……本当にオマエラというやつは……緊張感って知ってるか?」
「すいません……でもほら、可愛く撮れたのよ?」
「マコトまで! ワガハイ帰っちゃうぞ!!」
「わあったわあった。悪かったって、ついなんていうか……な?」
「な? じゃねぇーっつーの! ワガハイは猫じゃないと何度言ったらわかるんだ!」
「猫じゃないの?」
 手についた猫毛を拭き取りつつ、は首を傾げる。
 モルガナは睥睨しながら口を開いた―――
 彼の語る所は即ち、一人の少年が秀尽高校に転入してからの記憶のほとんどである。
 謂れのない前科、保護観察処分、転出と転入、鴨志田、パレス、そしてメメントス。始まりから現在までに至る概要を語り終える頃には、各々の前に配られた飲み物は空になっていた。
 空調の効いた部屋に氷が溶けて転がる音が広がる。それにのため息が重なって、モルガナは語り終えた。
「認知世界……ペルソナ……概ね理解できた、と思う。まるでファンタジー小説みたいだけど……」
「だが、現実としてお前はそこにいた」
「確かに。なるほど、怪盗が心を盗む原理はこういうことだったんだね。私はてっきり……」
「てっきり?」
 首を傾げた高巻に、は遠慮がちに言う。
「その……犯罪の証拠を確保して突き付けて、脅しでもかけてるのかと」
 それではまるで警察や探偵だと苦笑して、怪盗団の長たる少年は足を組む。
 こうやって現実世界の内にあるとき、彼の容貌は地味の一言に尽きる。伸ばされた前髪と伊達眼鏡によって目元は隠され、服装だって奇抜なものではない。外を歩けば凡百の中に紛れて見つけ出すことは困難だろう。
 そしてそんなどこにでもいそうな、ごくごく平凡な少年はよく通る声でに問いかけた。
さん、君はペルソナに覚醒した。ということは、戦う力を得たと言うことだ。それを踏まえて聞くんだけど……どうする?」
「え?」
 質問の意図を掴みあぐねて首を傾げる彼女に、彼は言った。
「これから俺たちは君のお母さんに予告状を出す。そして再びパレスに赴き、今度こそお宝を頂戴する。それには多分、危険が伴うだろう」
 体重を預けられたソファの背もたれがギシッと鳴く。外では蝉が喧しく鳴き立てているというのに、その音だけが屋内によく響いた。
「君もついて来るか?」
 少女はこれに迷うことなく答えた。
「迷惑でなければ」と。
 あまりの即答ぶりに少年のほうが困ったように笑う始末だ。彼は喜多川を一瞥するが、返ってきたのはただ軽く肩をすくめる仕草のみ。他の者を見回したって反対意見のある者はいない様子である。
 であれば、することは一つだ。怪盗団の長はにっこりと笑って手を打ち鳴らした。
「それなら決まりだ。よろしく、さん―――」

……
 預けられた予告状をが郵便物に紛れさせて母親に渡し、彼女の外出を待って潜入する。
 そのように取り決めた一同は翌日の正午過ぎに再び家に集い、パレスへ侵入した。
 内部の様子は再び変化している―――正しくは初めの状態に戻っていた。濃い緑と咲き誇る花々に囲まれた神殿が丘の上で白く輝いている。
「うっそ、なんで?」
 瞠目するパンサーの足元でモナが答えた。
のパレスが消えたからだろうな」
「この光景こそが本来の円のパレス、ってことか……」
 なるほどと頷いて、ジョーカーは足元の花を一輪むしり取った。全員に見えるように掲げられたそれに生花としてのみずみずしさや香りはなく、花弁のふちがほつれて糸くずが垂れ下がっている。
 ジョーカーはつまらないものを見たと言わんばかりにそれを投げ捨てた。
「造花か」
「ねえ、こっちの木、これ……」
 ふんと鼻を鳴らしたフォックスの背後でクイーンが声を上げる。
 その手が軽く木の幹を叩くと、コンコンと軽い音がする。内部に空洞があるのだとは簡単に察せられた。
 改めて辺りを観察すると、周囲を取り囲むもののほとんどは作り物でしかない。
「でも、最初に来た時は確かにちゃんと普通の花や木だったよね?」
「それものパレスだったんだろう」
「私にとっては作り物のはりぼてじゃなくて、本物の楽園だった……そう思い込んでいた、そう思い込むしかなかった……そんなところかな」
 まるで他人事のように漏らして、は足元の造花を撫でる。仮面に隠されたその表情を窺うことは誰にもできなかった。
 悲しんでいるのか、悔いているのか、怒りを覚えているのか……
 いずれにせよ、立ち上がったときには彼女はもう笑みを浮かべていた。
「さ、行こう。お母さんの目を覚まさせないと」
「ちょい待ち」
 一歩踏み出した彼女の足を止めたのはモナだった。彼はぴょんと飛び上がってスカルの背を蹴り、肩に乗り上がってその小さな指をに突き付けた。
のコードネームを決めてなかっただろ」
「コードネーム? ああ、ジョーカーとか、パンサーとか……」
 ちらりとはフォックスの狐面を見、フォックスとか、と呟いてくすっと笑った。
「何か言いたいことがあるのか?」
「だってそのまんまだから……」
「まあ、全員割と外見まんまな呼び方ではあるよな」
 スカルが己の髑髏面を撫でながら言う。彼の目はを頭のてっぺんからつま先までを通り―――
は……踊り子って感じ? ってーと、ダンサー?」
「パンサーと被ってない? 緊急時に聞き間違えるようなことは避けたいわ」
 クイーンの言葉にそれもそうかと頷いて、スカルは腕を組んだ。
はなんか希望はあるか?」
「そう言われると、困る」
 己の仮面や頭飾りを撫でつける手は困惑を示している。
「モナ……みたいに、名前のもじりじゃダメ?」
「それでもいいけど」
 と、ジョーカー。彼は口内で幾度か彼女の名前を呟いた。……しかしこれをもじるというのも中々の難題だった。
 やがてパンサーがフォックスを眺めて、
「一番付き合い長いのあんたでしょ。なんか思いつかないの?」と彼を肘でつついた。
「ふむ……のペルソナはサロメと言っていたな」
「うん」
「サロメ……つまりヘロディアの娘は西洋絵画では古くから多くモチーフにされてきた女性だ。お前たちも見たことがあるんじゃないか。銀の皿に生首を乗せた女の姿を」
「いやねぇよ怖ぇよ……」
 スカルはこう言ったが、しかしジョーカーとクイーンは心当たりがあるようで首を縦に振っている。
「え、あんの? 怖くない?」
「スカルが想像してるような血みどろなやつじゃない」
「そうだ。ヘロディアの娘が描かれるとき、大抵の場合彼女は切り落とされたヨハネの首から顔をそらし、その切り口や血液等が描写されることはあまりない」
 一方で、と言ってフォックスの手が空中で何かを掴むようなしぐさを見せる。それはあたかも切り落とされた生首の髪を掴み、吊り下げているかのようだった。
「このように、己の手で男の首を持つ女のモチーフにユディトという女がいるのだが、この二人はシチュエーションの類似から混同されることがある」
 ぱっと手が広げられると、そこから落とされた生首が地に転がる姿を想像したのだろう、スカルが顔をしかめて結論を求めた。
「で、そのおっかねー女がなんだってのよ」
「どうせ混同されるのだから、ユディトでいいだろう」
「よくねぇよ! いや、ダメだろ! こえーよ!」
「なぜだ?」
「お前それマジで言ってんのか……」
 呆れ返るスカルと、本気でわからないと首を傾けるフォックスを横目に、クイーンがそれならばと声を上げた。
「サロメから考えるのなら、分かりやすくオスカーでいいんじゃないかしら」
「そんな捻らなくても剣持ってんだからブレードとかソードでいいだろ」
「あれ、私だけ言ってない感じ? えっと……じゃあ、剣つながりでスペード……?」
 モナとパンサーもまた消極的ながらも案を出し、これで全員分が出揃ったこととなる。
 さて、困ったのはだ。彼女は別になんだってよかった。呼び名はただの呼び名であって、モチーフがどうだとか、由来がどうだとか、さして興味も無い。
 かと言って、ならばと誰かを選ぶのも彼女の得手とするところではなかった。
 誰をとっても角が立ちそうだ…… はどうしたものかとジョーカーへ目を向けた。
「ごめん、こういうの決めるの苦手で……決めてもらっていいかな」
 ジョーカーは頷いて言った。
「じゃ、ブレイドで」
 は頷いてこれを受け入れた。ただジョーカーが敢えてブレイド、としたことにくすっと笑って
「漫画の方? それとも車?」と彼のそばを通り抜けるときに囁いた。
 ジョーカーは頭を掻きながら「映画の方」と誰にともなく呟いた。

 道のりは平らかと言って良かった。
 見た目が変化したとて構造はそのまま、セーフルームも同じ位置にあったため、彼らはほとんど苦戦することなく二階にたどり着いた。
 広間の様子もヒビが消えていること以外に違いは無く、奥へ続く通路もまたそのまま存在している。
『来るなら来なさい……私が「教育」してあげるわ』
 予告状を受け取った母親に重なるように現れたシャドウの幻影がそう言っていたことを思い出し、ブレイドは顔をしかめる。事前に地図で先の構造を知り、作戦を立てていたとしても警戒を緩めることは決してできなかった。
 音もなく最奥へ続く通路を進むと、先の広間よりさらに大きく広がる空間に繋がっていた。
 天井は高く、大きな天窓が取り付けられて巨大な部屋全体がサンルームのようにもなっている。
 部屋の内部には腰壁……天井までは届かない、しかし二メートルほどの高さの壁が並び、通路や部屋を作り出し、ちょっとした迷路のようにもなっていた。
 その壁の材質にブレイド……は見覚えがあった。昨日この空間の見取り図を見せられた時から感じていた既視感が形となり、彼女の胸を締め付ける―――
「ここ……昔住んでたアパートだ……」
「え?」
 振り返った仲間たちに、ブレイドはかすれ声でこたえる。
「お父さんが出ていく前、家族三人で暮らしてた家。ほら、ここ」
 ブレイドの指が手近な柱を指差した。そこには十年ほど前に流行った子供向けのキャラクターの小さなシールが幾つも縦に貼られている。
「借家だから傷はつけられないけど、毎年背を測ろうって、お母さんが……」
「ブレイド」
 隣を歩いていたフォックスの手が気遣わしげに肩に触れる。
 布越しに伝わるかすかな温もりはブレイドを落ち着かせるのに充分な効果を発揮した。彼女は幾度か呼吸を繰り返し、その手に手を重ねて振り返る。その瞳は乾いていた。
「足を止めさせてごめん。大丈夫。やろう」
 頷いて、少年たちは室内を見下ろす天井近くの足場へ登りはじめた。
 恐らくは天窓の掃除や手入れ用のものなのだろう。アルミ合金と思わしき足場板はしっかりと固定されていて、真下を覗きさえしなければなんの問題もなかった。
「あそこが昔の私の部屋。あっちがお母さんたちの寝室。その隣がリビング……」
 シャドウが闊歩する通路や部屋を一つずつ指し示しながらブレイドが言う。
 巨大な部屋の最奥で、陽光を浴びた円のシャドウが寛いでいるのはかつてリビングだった場所だ。
 そこからバルコニーに繋がっている大きなガラス戸があり、向こうには空中庭園と呼ぶに相応しい緑と色とりどりの花が覗いている。
「お宝は……あそこだ」
 ジョーカーが指差したのはリビングのすぐ横にある小部屋だった。
 ブレイドは少しだけ驚いたような声を上げた。
「あそこは……多分、押し入れだった場所じゃないかな。普段あまり使わないような予備の布団だとか、季節じゃない服をしまったりしてた」
「お宝を隠すって感じじゃなさそうじゃね? 確かにあそこなんだよな、モナ」
「ワガハイの鼻はあそこだと言ってるぞ」
 これまでの経験から彼の嗅覚が信用できるものであるという確信があるからだろう、スカルは頷いてジョーカーへ視線をやった。
 いずれの通路にも巡回するシャドウの姿があり、リビングにはパレスの主がいる。ただ正面から戦いを挑むだけではお宝に手を伸ばすより先に力尽きてしまうだろう。
 そうならないためにも、怪盗たちはそれぞれの務めを果たさんと散開した。

 まず、モナが単身天窓のわずかな隙間から身を滑り出させ、屋根を伝ってバルコニーへ侵入を果たす。パレスの主の背後をつき、撹乱させるのが彼の役目だ。
 次にスカルとクイーンの武闘派二名が正面で音を立て、通路を巡回するシャドウを陽動する。
 足場に残ったパンサーがこの二組の連絡役だ。
 残る三人はスカルとクイーンの影に隠れてやり過ごして潜入し、お宝を奪って逃走する―――
 集合場所は二階の窓を飛び降りた先。つい先日シャドウのほうのによって地下へ叩き落されたあの場所だ。
 全員が配置に着いたのを見て、パンサーがまずモナに合図を送る。
 小柄なシルエットは素早く天井を走り、跳躍してバルコニーに降り立って消える。がさりと大きな音を立てて庭園の木々が揺れたことに円のシャドウは立ち上がり、周辺のシャドウを率いてバルコニーへ向かった。
 これを見てパンサーは陽動部隊の二人に合図を送る。
 すると彼らは各々の得物でもって、手近な壁を渾身の力を込めて殴りつけた。
 鈍い音が響き渡り、巡回のシャドウが何事かと顔を向けるとそこには遠ざかりつつある二人の背中が見える、という寸法だ。
 たちまちシャドウたちは計略にかかり、ぞろぞろと連れ立って二人を追う―――
「よし」
 それを見送ったジョーカーがパンサーを仰ぎ見ながら呟いた。彼女は腕で大きな丸印を作りながら幾度も頷いている。
「……あの二人、大丈夫かな」
 背後の様子を見やりつつブレイドが漏らすと、フォックスは振り返りもせずにこたえた。
「あの二人ならしくじることは無い。行くぞ」
 絶対の信頼を垣間見て、ブレイドは驚きと共にわずかな嫉妬を滲ませる。もしも私が陽動を任せられたとして、彼は同じように言ってくれるだろうか……
 ブレイドが表情を曇らせたのはほんの少しの間だけだったし、そもそもフォックスは彼女に背を向けている。ジョーカーが振り返ってブレイドに続くよう促したが、それも一瞬のことだった。

 作戦は単純ではあったが、だからこそ効果はてきめんと言えた。
 無人の廊下を進み、首尾よくお宝が安置された小部屋にたどり着いた彼らの前にはすでにきらびやかな宝飾の施された箱がある。
 金色の長方形で、縁を白く輝く宝石が飾り、箱全体には草花の文様を用いたアラベスクが浮かんでいた。
「わあ……お宝って、本当にお宝なんだ」
 感嘆の声を上げるブレイドに、ジョーカーはくすっと笑った。
「何だと思ってたんだ?」
「ここは精神世界なのだから、もっと抽象的な物かと」
「ある意味当たり。これは君の母親にとっての宝物だ。彼女の目を通し、心の中で具現化したもの……さて、現実世界に持ち出したら今回は何になるのかな……」
「その前にここでの姿を確認したい……と言いたいところだが、まずは脱出しよう。俺たちだけで堪能しては何を言われるかわかったものじゃないからな」
 首肯して、ジョーカーは箱を小脇に抱え込んだ。
 パンサーに合図を送り、彼女にも撤退を促してから走り出す。
 幸福な子供時代を過ごした空間を模した場所を抜け出すのに、ブレイドはほんの少しだけ躊躇を見せた。
 背くらべの跡を見止めて足が止まるが、しかしフォックスに促されるとすぐに彼女は走り出した。
 途中パンサーと合流し、来た道を引き返しながらスカルとクイーンを拾う。窓枠に足をかけて飛び降りた先には、すでにモナが待機していた。
「オマエラ遅いぞ!」
 ぴょんぴょんと飛び跳ねて一行を迎えたモナが吼える。
 軽い調子でそれに応える少年たちはいずれも無傷であった。互いの無事と首尾よく作戦が完了したことに安堵した彼らは、お宝を囲んで瞳を輝かせている―――
「おっ、お、オタカラぁ……んにゃおん……」
「はいモナ、落ち着いて。……なんか、箱からしてすっごい豪華だね」
「いささか華美に過ぎる気もするが、期待してよさそうだな」
「追っ手もこねぇみたいだし、ちょっとだけ覗いてみるか?」
 異議は誰からも上がらなかった。
 ジョーカーの手が蓋に掛かり、キィッと小さな音を立ててその中身が晒される。
「わあ……」
 感嘆の声を上げたのはクイーンだった。
 艶のある内張の布に包まれているのは白銀と薄桃色の宝石によって作られた一輪の花だ。花弁は一枚とて同じ色のものが無いところから、複数の宝石が用いられていることが窺える。
 ピンクサファイヤ、コンクパール、ロードクロサイトにモルガナイト……あるいはダイヤモンドの中でもさらに希少と言われるピンクダイヤも含まれているのかもしれない。
 女性たちのみならず、男性陣もまたほうとため息を漏らす。それほどの美しさがそれにはあった。時間を忘れ、見入ってしまう……
 しかしやがてジョーカーの手が蓋を閉じると、時は再び動き始める。
「やっべ、なに今の! すっげぇ高そう!」
「ガキみたいな感想だな……」
「小並感」
 モルガナのスカーフに箱を差し込んで呟かれたジョーカーの言葉はさておき、パンサーが少しだけ残念そうにため息をついた。
「んでも、今のも外に出ちゃったら別のものに変わっちゃうんだよね。ちょっともったいないかも」
「俺はそっちにも興味があるよ。これだけのお宝だ、現実世界の円にとってどれだけ価値のあるものなんだろう……」
 よいしょと箱とスカーフの位置を確かめながらモナが立ち上がり、二人に語り掛ける。
「いずれにせよまずは脱出だ。これを持ち出すことができれば、のハハオヤも……」
「改心される、だよね」
 ブレイドの言葉にモナは深く頷いてみせる。
「普通の家族に戻れる……」
 言うものの実感が伴わないのだろう。ブレイドは仮面の下の目を細め、口元に手をやって呻いた。
「直にわかる。行こう、ブレイド」
 ジョーカーの手が気安く彼女の肩を叩いた。それを皮切りに、スカル、フォックス、モナ、クイーンが続き、最後にパンサーが彼女の背中を力いっぱい押した。
「わっ」
「さあ行こう! 終わったら甘いもの食べよっ、ねっ」
 ふらつく彼女にも構わず、パンサーは隣に並んでぐいぐいとその手を引いた。
 ブレイドは苦笑しながらもそれに逆らいもせず、頷いてパンサーに従った。その瞳は希望に輝いている。今よりもっと子供だった頃、優しい母と父に囲まれていたときのように……
 父は戻らないだろう。どこで何をしているのかも知らないし、もう顔も思い出せない。会いたいともあまり思えない。それでも、母が昔のように戻ってくれればまた幸福な生活が戻るのだ。
 ずっと夢見ていたごく普通の生活。誰にも殴られたりせず、怒鳴られもせず、友達がいて、好きな人がいて……きっと学校に行くのも、そこから家に帰るのも楽しくなるのだろう。
 彼女の視界は突然ぱっと拓ける。ずっと暗がりの中に居て、未来永劫続くと想像していたところに光が差し込んだのだ。
 今まで考えたことも無かった将来の夢という言葉すらその脳裏に過った。
 きっと改心が成されたとき、母は私がしたいと言うことを反対しないでいてくれるはず。でも、私は何がしたいんだろう。それもこれから見つけていけばいい―――
 はじめに現れたのは衝撃だった。誰かが背後からぶつかって来たのだ。しかし、誰がそんなことができるというのだろう。パンサーは隣を歩いていて、モナは足元に。すぐ前にクイーンの背中があって、スカル、フォックス、そしてジョーカーの順に前へ並んでいる。誰も彼女の背後にはいないはずだった。
 続いて背中に今まで覚えたことのないような熱さを感じる。焼き鏝を押し付けられたようなそれは、やがて腹部にも訪れると素早く痛みへと変じた。
 すると今度は、痛みを感じる箇所から下が氷水に浸かったような冷たさを覚えて痺れ始める。
 力を失った膝が崩れてブレイドが倒れ込み、釣られてパンサーもバランスを崩した。
「ちょっ、ブレイド、どうしたの?」
 驚きつつも隣を見やり、パンサーはやっと事態を把握して悲鳴を上げる。
 その声にふり返った彼らが見たのは長剣によって背後から貫かれ、血を流して頽れるブレイドの姿と、その後ろに立つ少女の姿だった。
「やだっ、ちょっと、こんなの……!」
 青ざめて涙ぐむパンサーがブレイドに縋りつく。その横を通り抜けて飛び出したのはクイーンだった。
「ペルソナ……ヨハンナ!」
 振り上げた拳と共に力を振るい、剛腕を叩きつける。しかし少女は涼しい顔でそれを受け流し、そのまま彼女を地面に叩き落とした。
「うっ、ぐ!」
 うめき声と共に三度バウンドし、クイーンはようやく停止して体勢を取り戻す。その目は驚きに見開かれていた。
 先手必勝と構える余裕を与えぬ内に組み付いたつもりだが、まさか対処されるとは……
 しかしそれ以上の驚きは対峙している少女の肉体にある。
 それはまさしく異形であった。洸星高校の女子制服に、腕と足は手甲と足当てが包み、首には首輪が巻かれ、顔のほとんどを包帯が覆い隠している。それだけならば珍妙な格好と言うことができた。
 彼女の右足は骨と皮のみのように細く、左足はごく普通の少女のもの。右腕は十六歳の少女とは思えぬ逞しさをしているくせに、左腕は小さな幼子そのものだ。包帯からのぞく口元は赤ん坊のように丸々としているのに、目元は化粧が施された大人のもの。それらはいずれも血の気が無く、まるで全く年恰好の違う女のマネキンを勝手気ままにつなぎ合わせたような姿だった。
 それでも彼らには面影を残した目や口、洸星高校の女子制服からこの異形がを元にして作られているのだと推測できる。誰がこのような怪物を作り上げたのかも。
「これが……こんなのがお袋さんから見たの姿だってのかよ!」
 歯を剥いてスカルが吠えると、応えるように異形は腕を振り上げた。
 ガンと音を立てて剣先が地面を叩く。ジョーカーは咄嗟にスカルを蹴り倒した。
 悲鳴と共に針のように鋭い岩塊が地から突き上げられる。それはジョーカーのすねを擦過し、わずかに血を噴き出させた。
「痛って……!」
 思わずと声を上げるが、ジョーカーはすぐに痛みを振り払ってナイフを構え、駆け出した。
「フォックス、来い! スカルはクイーンのカバーに入れ!」
 一喝するその足元でモナがパンサーに走り寄る。
「止血する。手伝ってくれ、パンサー」
「うっ、うん……」
 二人は直ちにブレイドの傷に手を当てた。その背後には彼らの心像が浮かび上がり、治癒の力を持った輝きがうめき声を上げるブレイドに降り注ぐ―――
 ぼんやりとそれを眺めながらブレイドは自問していた。
 お母さんはそんなに、私のことを殺したいほど嫌いなのだろうか?
 答えを聞く勇気は無かったが、しかし事実として腹部を貫いた傷が教えてくれているように思える。その通りだ、と。
「くっ、ふふふ……っ」
 血の滴る口からはまったく意図せず笑い声が漏れた。聞き取ったパンサーとモナが怪訝な顔をする中、ブレイドは震える腕を支えに上体をゆっくりと起き上がらせる。
 まだ動くなという制止を振り切り、よろよろと立ち上がって背後の戦闘を見やる目はなんの感情も湛えていなかった。
 異形のマネキン人形はバランスの悪い見た目に反し俊敏で、物理的な力も核熱や冷気による攻撃も踊るように回避されてしまっている。
 その動きは理性的と言えた。知能があり、意思をもって攻撃しようとしていることが窺える。多対一の利点を心得ているかのように位置取る動きに、同士討ちを避けるジョーカーたちは全力を出し切れない。
「くそ、厄介だな」
 毒づいてたたらを踏んだジョーカーの隣に着地して、フォックスが同意する。
「全くだ。どうする、ジョーカー……」
 言葉は不自然に掠れる。彼は他所事に気を取られ、他に言うべきことを忘れていた。
 それはジョーカーも同じく。二人は目を見開いて自分たちを飛び越えて獣のように疾駆する少女の影を見送っていた。
 異形の前にはスカルが立ち塞がり、その刃を受けている。彼の背後にはバランスを崩して膝をつくクイーンの姿があり、今まさに立ち上がらんとしているところだった。
 そのすぐ隣の地を蹴って影が飛び上がる。それはスカルの背を踏み台か何かのように利用して高く跳躍し、空中で体を捻ると手にした剣を鋭く一閃した。
「ブレイド!」
 驚きの声を上げたのはクイーンだった。体勢を整えた彼女の足元には踏みつけられたスカルが潰れている。
「いってえ、クソ、何すんだよ―――」
 どん、と音を立てて顔を上げたスカルの目の前に異形の首が落とされた。彼は悲鳴を上げることも忘れて虚ろなその目と見つめ合ったが、生首はすぐに溶けて消える。残されていた肉体もまた。後には息を乱した少女が立っているのみだ。
 彼女はその口内で何事かを呟き、異様な雰囲気を湛えている―――
「ブレイド?」
 誰もが驚愕しつつ彼女を見つめる中、極めて慎重にフォックスが声をかけたが、彼女は応えなかった。
「お、おい……まだ傷は完全に塞がってない、こっちに来るんだ」
 モナの言う通り、ブレイドの腹部からは未だ鮮血が滴り、その衣装を赤く染め上げている。
 やっと気が付いたと言わんばかりにぼんやりとそれを眺め、ブレイドは気弱そうな笑みを浮かべた。
「……お母さん、私を殺したいくらい嫌いみたい。いらないって、本気だったんだ」
 応えるように再び異形の姿をとったシャドウが複数体現れる。
 違う、とは誰も言えなかった。流れ落ちる血がそれを証明しているのだ。
「あんなふうに言われても、まだ心のどこかで本気じゃないだろうって思ってた。でも、そうじゃないみたい……」
 少女の手が己の仮面に掛かる。それはゆっくりと青い光に変じ、彼女の背後にペルソナとして現れる。平静を装う彼女の姿とは正反対に半身は荒れ狂い、腕を振るう度に異形の首が落とされていった。
「っ、呆けてる場合か! 加勢するぞオマエラ!」
 モナの一喝にようやく我を取り戻した若者たちは各々武器を手に立ち上がる。
 状況は良好とは言い難かった。
 異形は地の底から湧き上がる水のように無尽に現れて終わりが見えない上、これらが襲い掛かって来るということは円のシャドウが彼らの居場所を把握しているということだ。
 ならばと撤退しようにも、ブレイドは一歩たりともそこを動こうとしないのだ。
「ブレイド!」
 声をかけるも彼女は振り返りもせず戦い続ける。傷のこともあるが、何よりも精神的な消耗が気掛かりだった。
 ジョーカーは腹の底に苛立ちと焦りが蓄積していくのを感じて舌を鳴らす。
「うっとおしい……!」
 苛立ちに任せて己の仮面を引き剥がす。現れたのは記紀神話と古事記に語られる軍神、タケミナカタである。
 両の腕を奪われた神格が顎をしゃくると応じるように雷光が走り、異形らを焼き焦がした。
 溶け落ちるかあるいは感電した異形らが動けないのを見るや、クイーンが声を張り上げる。
「今よ! 走って!」
 号令に一同は素早く動き出した。ブレイド以外は。彼女は未だ剣を構え、ペルソナを従えて異形らに対峙している。
 舌打ちを一つ、ジョーカーが素早くフォックスへ目をやると、彼は瞬時に言わんとするところを察したのだろう。踵を返して共にブレイドの元へ駆け寄り、寸分の差も無いタイミングでその膝に蹴りを入れた。
「いっ!!?」
 両の膝裏を打たれて大きく傾いだ上体を上下から引っ掴み、直ちにクイーンに向けて放り投げる―――
 待ち構えていたクイーンとヨハンナの上に落ちたブレイドを抑え込むようにパンサーが馬乗りになると、バイクを象った彼女の写し身は全速力で走り始めた。
 遅れてモナが車へ姿を変え、男たちはそれに乗り込んで後を追う。
「待って、なんで……私は……!」
「動かないで! 落ちる! 私まで落ちちゃう!」
 揺れる車体の上、涙ぐんだパンサーにしがみつかれてブレイドはやっと忘れていた痛みを取り戻した。振動が腹に伝わるたびに苦悶の声を上げるが、クイーンはほんの少しもスピードを落とそうとはしなかった。
「あああ、追って来てる! すんげー来てる!」
 並走する車窓からスカルのわめき声が響く。ちらりと後ろを確認すれば、確かに無数の異形がこちらに追いつかんと群れをなしているのが見えた。
 それでも脱出口はもう目と鼻の先だ。このまま逃げ切れば問題ない。
「散らせ」
 アクセルを踏み込みながらジョーカーが言えば、フォックスは速やかに車窓から上半身を乗り出して自動小銃を構えた。
 足元を狙ってばら撒かれた弾丸に異形たちの速度が落ち、スカルもそれに倣うと追跡は更に緩んだ。
「よし……!」
 勝利を確信した歓喜の声は、しかし怨嗟をまとった重々しい声に押しつぶされる。
『逃がさない―――』
 轟音が鳴り響いて、進路を塞ぐように巨大な竜が降り立った。
 赤い鱗と吊り上がった目、細身の体はどこか女性的で、声と併せてそれが円のシャドウが本性を現したのだと教えている。
 ブレーキを踏み、ハンドルを切ってその巨体を回避しようとした車体がバランスを崩して横転する。クイーンらが搭乗するヨハンナもまた。
 衝撃にペルソナもモナの変身も解け、少年たちは造花の上に放り出された。
―――大人しくしなさい―――お母さんに逆らわないで―――』
 降りかかる言葉に、ブレイドは身を硬くして震えあがった。
「お、お母さん、どうして……そんなに、そんなに私のことが憎いの? いらないって思ってたの? 私を……」
 産んだことを後悔しているの……?
 問いかける声に母親は無慈悲に答えた。
『そうよ!!』
 雷撃のように響いた怒号は張りぼての木々や草花を揺さぶった。血の繋がった娘の心も。
『あなたがいなければあの人も出ていくことはなかった! そうでなかったとしても、もう一度、 私は私の幸せを追い求められた! 、お前がいなければ……!』
 地に伏せながら、言葉を失うとはこういうことかと全員が実感し、戦慄する。
 円のシャドウは各々が思い描く母親像からあまりに逸脱しすぎていた。想像すら飛び越え、もはやその実在を疑うほどだ。
 これは現実なんだろうか? 家族から、存在そのものをこれほど痛烈に否定されるなんてあり得ることなんだろうか?
 無関係の第三者である自分たちがこれほどの精神的苦痛を感じているのだ。当事者たる彼女はどうだろうか?
 ジョーカーは少し先に尻をついて赤い竜を見上げる少女に目を向けた。
 表情は仮面で窺えないが、震える唇が何事かを唱えているのが見える。
「私……私は……生まれてきちゃいけなかったの……?」
 寂しげな声は不思議とよく響き、ジョーカーの鼓膜を強かに叩いた。同時に、何かが勢いよく切れる音も。
 ブレイド以外の全員が、己の中でまったく同じ音と感触が響くのを感じていた。
 遠慮があったのだと思う。そのように考えながら、ジョーカーは痛む身体に鞭打って立ち上がった。
 なにしろ、知り合いの母親だ。たとえ暴力を振るうような毒親だとしても、彼女にとっては家族なのだ。手心も入ろうというものだ。
 ジョーカーの手がモナのスカーフに差し込まれていたお宝を掴み上げる。モナは抵抗しなかった。同じく立ち上り、低く唸っている。
 やれ、とその瞳が語っているのを見て、ジョーカーは勢いよく箱を地面に叩きつけた。
 豪奢な細工もそこに納められていた美しい芸術品も砕けて希少な宝石の類が辺りに散らばるが、誰もそれに不満を漏らすことは無かった。
「皆、ターゲットの変更だ」
 少年は悠々とシャドウの前を横切り、震えるブレイドの手を掴んで無理矢理に立ち上がらせる。彼女の肩を支えていたパンサーが後ろからその細い体を掻き抱いた。
は俺たちが頂戴する!!」
 驚きに目を見開いたのはブレイドとシャドウだけだ。怪盗団の面々の意思は言葉を交わす必要もなく一致していた。
『何を―――』
「いらないのだろう? ならば俺たちが貰い受けると言っている」
 戸惑いの声に、フォックスが進み出て答える。
『ふざけないで! 勝手なことを言わないで頂戴!』
「ふざけてるのはそっちでしょ! はうちの子にするんだから!」
 力いっぱいブレイドの身体を抱きしめながらパンサーが吠える。
 子供っぽいその物言いに、思わずと場違いにもクイーンが声を上げて笑った。
「ふふっ、あははっ、やだもう、パンサーったら……ふふふ、ねえ、私の家なら部屋も空いてるわ。うちの子になったほうがいいわよ」
「いいや、俺の所に来い。一緒に暮らそう」
「いやお前寮だろ。っていうかダメだろ……ってことは俺んとこもダメか。いや、二、三日なら平気か……?」
、屋根裏で良ければ俺の所でもいいよ」
「オイこらジョーカー、オマエはワガハイと同じ居候の身だろうが」
 困惑して言葉を失うブレイドに後ろから抱きついたままのパンサーが治癒の光を与える。傷はゆっくりと塞がり、あとも残さずに消えた。
 ブレイドは是とも非とも言えず、瞬きを繰り返している。四方八方から伸ばされる誘いの手に、滲みかけていた涙はすっかり乾いてしまっていた。
 ジョーカーは、まったく珍しいことに優しく微笑んで彼女に手を差し出した。
「誰にする? 今なら選び放題だけど」
「いや、常識的に考えて俺らはダメだかんな? 実質二択だかんな?」
 至極真っ当なことを言うスカルに軽く蹴りを入れて、ジョーカーは赤い竜に向き直る。
「そう言うことだから、彼女は頂いていく」
 言うだけ言って握ったままのブレイドの手を引いて歩き出すと、しがみついたパンサーもついてくる。他の者もそれに倣った。
 当然と言うべきかそれで済むはずも無く、背後からけたたましい咆哮が発せられる。
『っざけんなああぁぁぁっ!!!』
 衝撃と共に炎熱が一同を襲うが、これは予測できていたことだった。揃って地を蹴り、襲い来る火炎を回避する。
 炎は作り物の花々や木々に燃え広がり、辺りは瞬時にして獄炎に包まれた。
『私が、私がその子にどれだけの時間とお金をかけたと思ってるの!? これまで、ずっと、やりたいことも我慢して、私みたいに間違えないように、完璧に―――』
 燃え盛る炎の中心に立つ竜は今や牙を剥き、瞳を敵意にらんらんと輝かせている。
 ジョーカーはパンサーごと少女の肩を引き寄せると、声を大にして応えた。
「あんたの教育とやらが完璧じゃないから悪い男に引っかかったんだろ」
 自分で言うか。と、パンサーは間近に迫った少年の顔を眺めながら思ったが、あえて言うまいと口を閉ざしてブレイドの身体を離す。
 その背後には半身が浮かび上がっている。派手やかな深紅のドレスの裾をまくり上げ、煽情的にステップを踏む―――
「踊れ、カルメン!」
 言いつけに情欲的な女の影は軽やかに舞った。
 さて、怪盗団の面々を見回して戦闘の経験が多い順に並べたとき、意外なことにパンサーは上位に上がる。なにしろ怪盗団の立ち上げに関わった内の一人だ。だからこそ、彼女は戦いにおけるセオリーをよく理解していた。
 シャドウやペルソナたちが扱う攻撃にはある程度の種類が決まっている。それらは幾つかの属性に割り振られ、得手不得手が厳密に定められているのだ。
 そして円のシャドウである赤い竜はたった今炎を以って辺り一帯を焼き尽くした。
 であれば、あれは炎に対して一定以上の耐性を有しているだろうことが推察される。炎はまた、パンサーも得手とするところだった。つまり何もしなければパンサーの攻撃はほとんど通用しないこととなる。
 ではどうすべきか?
 答えはすぐに示された。カルメンと呼ばれた影から不可視の力が湧き立ち、赤い竜を包み込む。
 途端、これまで彼女を守るように揺れていた炎がその鱗を焼き焦がした。
 竜の鱗に宿っていた耐性をパンサーの力が断ち切ったのだ。
「パンサー、素敵だ!」
 ニャーと鳴きながら飛び跳ねて、モナもまたサーベルを振り上げる。すると迅風が巻き上がり、炎を更に激しく燃え盛らせた。
 悲鳴を上げて身悶える巨体に、畳みかけるようにスカルが飛びかかる。
「キャプテン・キッド!」
 片目の男の影が天上から拳を振り下ろすとパレス全体をも揺るがすような剛撃が叩きこまれる。またその竜の足元では、クイーンが己のペルソナにまたがって待ち構えている。
「食らいなさい!」
 喧々たる轟音と共に核熱が放たれる。赤い竜はたたらを踏んで後退った。
 攻撃は確かに功を奏している様子だ。竜は怒りもあらわに尾を振り回しているが、弱ってきているのは目に見えて明らかだった。
 ブレイドはそれを見て喜びはしなかった。
「あ、あ、お母さん……っ」
 思わずと伸ばしかけた手は、しかし今だ肩を抱き続けるジョーカーによって掴まれる。
「よせ」
「でも……!」
 惑う少女の様子に、ジョーカーは強く歯を噛んだ。
 共依存、機能不全家族、児童虐待、毒親……彼女を取り巻く環境や仕打ちを現す言葉は無数に存在している。
 少年とてこれらに対する知識が幾らかはパレスの攻略に役立つだろうと一通り書物に本に目を通したりもしたし、懇意にする医者から知識を授かったりもした。そしてそのいずれもが揃えて語った。一朝一夕に根治できるものではない、と。
 ペルソナに覚醒したからと言って、それで彼女が完全にこれら呪縛から解き放たれたという訳ではないのだと思い知らされた気持ちになって、改めて彼は目の前の少女を哀れに思う。
 何かをしくじったという訳ではないのだろう。きっと、恐らく彼女の母親も。
 ジョーカーはじっと少女の瞳を覗き込んだ。それだけで気持ちが伝わるとも思えないが、それでも何もしない訳にはいかなかった。
 辺りは張りぼてたちが燃え盛る音と剣戟の騒音に満ちている。囁き声を確かに彼女の耳に届かせるために、ジョーカーは額と額が触れるほどに彼女へ顔を寄せた。
「お前の人生はお前が切り開くしかないんだ。いい加減自立しろよ」
 息を呑む音すら聞こえる距離だった。
 ジョーカーは研ぎ澄まされたその五感の内の一つが、甘やかな香りを感じ取ったのを意識する。
 いい匂いがする。既視感を覚えつつ、少年の目は香りの発生源を探し、やがて艶やかな少女の唇に至った。香料の含まれたリップクリームを使っているのだろう。甘さの中に爽やかさを感じる柑橘系の香り……しかしその正体が判然としない。もっと近くで嗅げばわかるかもしれない……ジョーカーは己の顔を傾けて距離を詰めようとした。
「ジョーカー……」
 再びの既視感と衝撃が彼を襲った。
 はっとしてそちらを見やると、フォックスが肩を掴み、こちらもまた息がかかりそうな距離で怒りの籠った目を向けているではないか。
「お前と言うやつは、女とみれば見境なく―――」
「待て、その言い方は語弊がある」
「無い。この間も年上の女と歩いていただろう」
「は? いつの? どれ?」
「複数に心当たりがある時点で言い訳は出来んぞ」
「わかった、武見だ。あれは別に、相談したいことがあったから」
「違う、メイド服を着た黒髪の」
「べっきぃにはちゃんと給料を払ってる!」
「なんだと汚らわしい! 金で女を買っているのか貴様は……! ええい、その手で彼女に触るんじゃない!」
 ジョーカーは強力によってブレイドから引き剥がされた。
「違うって言ってるだろう! べっきぃとはそんな関係じゃない!」
「黙れこの漁色家! ドン・ファン! 色情魔!」
「やめろ! 俺は……」
 言い合いは鋭い鞭撃によって断ち切られた。強かに尻を鞭打たれてジョーカーとフォックスは揃って悲鳴を上げる。
 ヒールを鳴らしたパンサーが汚泥を見るような目で少年たちを見つめていた。
「な、なぜ俺まで……!?」
「パンサー! 誤解だ! 俺はまだ、ど……」
「聞きたくねえっつうの! バカども、さっさと加勢しろっ!」
 ひゅっと再び鞭が振り上げられると、二人の少年は直ちに武器を手に足並みを揃えて走り出した。
 焼け落ちた作り物の倒木を飛び越え競うように駆け抜ける。一直線に向かってくる二人に勘付いた赤い竜が尾を振り下ろすが、掠りさえしなかった。
「蹴散らせ……ゴエモン!」
 呼びかけに、赤と青が混じり合った隈取の男が現れる。その左足が力強く踏み出されると、辺り一帯の炎を覆い尽くしかねないほどの強烈な冷気が竜を襲う。
 ひと際大きな悲鳴を上げて巨体が傾くのを見て、フォックスは隣を走る友人の手を叩いた。
「任せるぞ」
「了解」
 短いやり取りの後、その場を飛び退った彼に代わりジョーカーが更に大きく踏み込んだ。
 地に伏せられた巨大な尾に飛び乗り、背を走りながら拳銃を構える。
 精巧に作られたモデルガンは竜の目にどう映ったのだろうか。首の付け根に辿り着いた少年が引き金を引いたとき、銃口から吐き出されたのはBB弾ではなく7.62×25mmの拳銃弾だった。
『いやあぁっ!』
 悲哀に満ちた声を上げ、頭部に取りついた少年を振り落とさんと竜はその巨体をやたらめったらに暴れさせた。
 ただ巨大な質量を持つというだけでも充分な脅威であるというのに、それが全力で以て腕や足、尾や翼を振り回すのだ。取り付いたジョーカーは元より、足元に位置するパンサーたちも慌ててその場を散った。
 振り回される竜の身体に巻き込まれ、未だ炎がくすぶり続ける張りぼてが彼らを追うようにまき散らされる。
「やっべ! あいつ、自分が傷つくのも構わねーって感じだぞおい!」
 飛びかかってくる炎と残骸を巨大な金づちで叩き落しながらスカルが吠えるのを見止めて、クイーンの手がその背を掴み、彼を後部シートに引きずり上げて疾走する。
「もう! こんなの、どう対処しろってのよ!」
「頭脳担当がそれ言っちゃう?」
「うるさいっ! パンサー、どこ!? 皆無事なの!?」
 もはや視界のほとんどを炎が埋め尽くしていると言ってよかった。振り仰げば火の手はパレスの本体たる神殿にまで及び、美しかった建造物は赤く染め上げられている。
 クイーンの声に応える者は無かった。

 戦いの場から取り残されたブレイドは一人、呆然と揺らめく炎を見つめていた。
 その脳裏にはつい先ほど囁かれたばかりの言葉が幾度も繰り返されている。
「お前の人生はお前が切り開くしかないんだ―――」
 そんなことは分かっている。分かっていてもどうすることもできなかった。だって、私は子供だったし、抵抗する力もなかった……
 思考を断ち切るように衝撃が彼女を襲った。
 目の前に巨大な竜の足が振り下ろされたのだ。
 見上げれば、少女の全身よりもよっぽど大きな口が牙を剥いて彼女を見下ろしている。
……ここにいたのね……』
「お母さん……」
『さあ、観念して、私に全てを返して―――』
 がぱっとその口が開かれるのを見て、少女は震えあがった。
 今度こそ死ぬ。そう思うと、ぞっと全身の毛が逆立った。物理的な肉体を伴ってこの精神世界を訪れている以上、肉体の損傷は現実世界と変わりないのだ。この牙に噛み砕かれれば、間違いなく自分は死に至るだろう。
 確定的な事実を前に、少女は悲鳴を上げることすらできなかった。
「あ、あ……助けて……」
 出来ることと言えば、ただ助けを求めて懇願することだけだ。
 そして彼はそれに応えた。
「承知した」
 瞬きをする間もなく一閃が走り、竜の牙が数本切り落とされる。竜は悲鳴を上げて後退った。
「助けたぞ、次はどうする?」
 見上げた少女の視界に、狐を模した仮面が映る。彼は刀を携え、庇い立ちながら彼女の様子を窺っていた。
「どうするって……どう……?」
「ああ、買い物に出かけるんだったな」
「え、あ、うん。そう……そうだったね……」
「その後は?」
「えっと……」
「どこでもいい。お前が行きたい場所があると言うのならば、どこへでも付き合おう。たとえそれが地獄であろうと―――」
 竜は再び立ち上がり、少年に狙いを定めていた。切り落とされたとはいえ未だ牙は無数に有る。少年の身体などその大きな口に比べれば一口にも満たないだろう。
 ブレイドは声を上げて己の仮面を引き剥がした。
「それは、駄目!」
 不可視の盾が立ちふさがり、竜の牙を跳ね返す。轟音と土煙を立てて竜が倒れ伏してやっと少年は背後を振り返った。その口元には笑みが浮かんでいる。
「ふっ、なんだ、助けは必要無かったな」
「あ……」
「行くぞ、『ブレイド』。背中は任せた」
「私に?」
「お前意外に誰がいると言うんだ」
 言い置いて、少年は刀の柄に手をかけて走り出した。
 再び取り残された少女は、しかし今度は見送るばかりではなく釣られるようにして足を前に出していた。
 先陣を切って飛び出したフォックスの刃は立ち上がらんとする竜の鼻先を捉えて血を噴き出させる。手ごたえはあるが、しかし浅い。
 舌打ちをした少年の身体を叩き落とそうと振り上げられた鉤爪は再び不可視の盾にはじき返される。
! お前は、また私の邪魔を……!』
 怒声にびくっとブレイドの肩が跳ねる。
「お母さん、私は……」
 少女の手には剣があった。切っ先は震え、今にも取り落としてしまいそうではあるが、しかしその手は決して武器を手放そうとはしない。
「殺されたくない……まだ生きていたい……!」
 絞り出された声に呼応するように、少女の背後に女の影が立ち上る。
 ヴェールに包まれたシルエットが腕を掲げると質量を伴った光の塊が打ち出され、竜の顔面を強かに叩いた。
 悲鳴を上げ、おとがいを晒したその首にいくつもの銃弾が撃ち込まれる。発砲は少女たちの右手から行われていた。
 そこには己のペルソナに姿の見えなかった全員を搭載し、息を切らせたクイーンが居る。銃撃は彼女によって拾い上げられた一同が行ったもののようだ。全員どこかしらが焦げ付いているが、行動に支障はなさそうだった。
「はーっ、はーっ、おも……重いっ! 全員ヨハンナから降りてっ!」
「ぐえっ!」
「ぎゃっ!」
「いってぇ!」
 鋭く振り回されたクイーンの足がスカルとモナ、ジョーカーを蹴り落とす。ただ一人後部シートに座したパンサーは優雅に足を組み、ブレイドに向かって片目をつぶった。
「今だよ、やっちゃえ!」
 少女の体はほとんど反射的に動いていた。思考は後からついてやってくる。
 地を蹴って飛び上がり、竜の鼻先に剣を突き立てる。それを足場に立ち、極めて近い距離で少女は己の母親、その心の根底と向き合った。
「お母さん……」
、やめなさい。やめろ……』
「どうしたの、お母さん。私にこんなふうにされるなんて思っても見なかったって感じだね。……私もだよ」
『やめろォっ!!』
「やめない!」
 叫び、ブレイドは拳を握って腕を振り上げた。そこには影が伴っている。ヴェールの向こうに隠れた彼女の半身は実体を持たないかのように影でしかその姿を窺わせない。しかし、確かな重量を従わせた剣を手にしている。
 振り下ろされた腕と共に、竜の鼻筋に切っ先が叩きつけられた。
 甲高い金切り声と共にシャドウは霧散し、少女の体は空中に放り出される―――
 しかしその体は地面に叩きつけられるより前にフォックスの腕に抱きとめられる。
「ナイスキャッチだ、フォックス!」
 ぴょん、とモナが跳ねるその足元で、砕けた花弁が輝いていた。隣に立っていたジョーカーは一瞬だけそれに意識を奪われるが、すぐに鳴り響いた破裂音に顔を向ける。
 そこには頬を抑えたフォックスと、顔を怒りによって赤く染めたブレイドが居る。
「な、なぜだ!?」
「ほんとこりねーな、お前……」
 呆れたスカルが歩み寄り、ブレイドが立ち上がるのを補助してやる。
 つまりはまたフォックスが「重い」とでも漏らしたのだろう。安堵して、ジョーカーは何ともなしに花弁と茎を拾い集める。同じくしゃがみこんだパンサーがそれを手伝った。
「やっぱちょっともったいなかったかもね」
「うん」
 応えつつもう一度ブレイドたちに目を向ける。
 少女は自分が叩いてしまった少年の頬に手を当てて、申し訳なさそうにしていた。
「ごめん、つい……」
「うっ、そう言うのなら、もう少し優しく……いててててっ」
「……思ってたより軽いって、思ってたよりって言った……!」
 細い指先が少年の頬をつねり上げるのを見て、ジョーカーは失笑した。くつくつと喉を鳴らし、拾い集めた宝石類をパンサーの手に押し付ける。
 全身を疲労感が包んでいたし、多量の煙を吸い込んだせいだろう、喉にも違和感がある。それでも足取りは軽やかだった。
 彼の目指す先には蹲った円のシャドウ―――人の姿に戻った彼女が居る。
「宣言通り、あんたの娘は頂いていく」
 シャドウは応えない。ジョーカーは続けた。
「……現実世界でまで頂戴することはできないだろうけど。それでも、彼女はもうあんたの手を離れることにはなるだろう」
 ぴくっとシャドウの手が震える。
 ジョーカーは踵を返した。
「よかったな。これであんたも自由だ」
 コートの裾をはためかせた少年に、シャドウは結局何一つ言い返すことはしなかった。

……
 パレスから帰還した一同の姿は再び家のリビングにあった。
「……戻ってこれたか」
 やれやれと言わんばかりに肩を回す少年の言葉にやっと現実世界への帰還を実感したのだろう。少年たちはほっと息を吐いて全身を弛緩させると、各々手近なソファやカーペットの上に腰を下ろす。
 部屋の中央に置かれたローテーブルの上に置かれた空調のリモコンにの手がのろのろと伸ばされ、スイッチが入れられる。間もなく部屋は快適な空間へと置換され、少年たちはますますだらしのない格好になって脱力した。
「ああ~……これこそ本物の楽園ってやつよ、はー涼しい……」
「やっすい楽園だな、オイ」
 早速毛づくろいに取り掛かったモルガナが床の上に寝転んだ坂本に呆れた目を向ける。また彼の目は、少年たちの足元にも向かった。
「ワガハイはいいけど、お前ら、靴」
「んあ? ……おっ!? やべ、土足っ」
 ばねのように上体を起こした坂本の手が慌てた様子で足を包むスニーカーにかかる。言われてみれば確かに、少年たちは靴を履いたままの格好だった。
 一同はぞろぞろと玄関に靴を置き、再びリビングに集う。誰もそのまま帰ろう、とは言いださなかった。
 それは何も空調の効いた快適な空間に留まりたいというだけの理由ではなかった。
「一応、散らばっちゃったのはほとんど拾い集めたから、改心は成功してると思う」
 言葉と共に高巻は上着のポケットから『それ』を取り出した。
 『それ』はタオル地のハンカチに包まれている。円のパレスから盗み出したお宝……その残骸だ。
 あの世界では光り輝く宝石と貴金属によって作られた薄紅色の花を模した芸術品であったが、さて、現実世界であるここでは何として現れるのだろうか。
 期待に瞳を輝かせた少年たちの前でハンカチが捲られる。
 ……現れたのは、くしゃくしゃになった折り紙で作られた花だった。
 茎と葉の部分は緑、花弁は赤。
 そして……
 花弁に対して大きすぎる葉が一枚。セロハンテープで無理やりに繋がれたそれには、拙い文字で『おかあさんいつもありがとう』と書かれていた。
「あ……っ」
 声を上げたのは他でもないだった。
 彼女にはこれに見覚えがあった。当然だ、文字を書いたのも、紙を折ったのも彼女自身なのだ。
 震える手が古ぼけて皺だらけになった紙の花に伸ばされる。誰もが驚きを以ってそれを眺め、言うべきことを忘れていた。
「これ、カーネーション……子供の頃、母の日に学校で折って、お母さんに送ったの、覚えてる」
 細い指が作り物の花を持ち上げた。
「ここに越して来た時に無くしたはずなのに、どうして……?」
 呆然と宝を見つめる少女に、テーブルの上に飛び乗ったモルガナが言う。
「昔が折ったっていう本物とは違う。それはオマエのハハオヤの中から取り出して来たもの。ハハオヤが心の中にしまっていた、過去の記憶から具現化されたものだ」
「でも、お宝でしょう? こんな、何の価値も無い……」
 いいや、とモルガナはこれを否定した。
「それがパレスのお宝に間違いない。このワガハイが言うんだ、絶対だ」
「だって、どこを探しても見つからなかった。だからきっと、いらなくなって、捨てたんだとばかり」
 の手は震え、まったく信じられないと言わんばかりに目は見開かれている。
 その手を包むように握ったのは喜多川だった。
 喜多川の目は、少女の手の中のみすぼらしい作り物の花に向けられている。それはこの世の至宝を発見したかのように輝いていた。何があろうと澄み続ける光り輝く宝石がそこにあると物語っていた。
「物質として失われようと、思い出として残っていたんだろう。誰にも奪われまいと、己自身にも汚されまいと奥深くに……厳重にしまい込み過ぎて、忘れてしまうほどに」
「そんなの……」
 震えは声に至り始めた。俯いた彼女の首筋や肩には未だ痛々しい痣が浮いている。
 軽々に結論を口にする訳にはいかなかった。
 彼女の母親は、彼女を愛していたのだなどと……
 年若い少年たちには決して母親の、円の心の内など、その目で直接見てきたとしても理解することはできなかった。
 娘が幼いころに差し出した作り物を心の奥底に大事にしまっておいたくせに、どうして彼女に暴力を振るっていたのか……
 やがて推論をまとめた少年が慎重に口を開く。
「そんなに幾つも人の心を見てきたわけじゃないけど、でも、人の心は矛盾してることってのは解る。偉そうに振舞うばかりかと思えば過剰過ぎるくらいに守りを固めていたり、人を奴隷か何かと思っているくせに捨てることだけはしなかったり、傲慢な行いをするくせに傷つけられることを異様に恐れたり……」
 彼が語る人物像に各々心当たりがあるのだろう、怪盗たちは一様に視線を床に落とした。
のお母さんもそうなんだろう。愛情があっても、発作のように訪れる衝動に逆らえなかった」
 沈痛な面持ちをした新島が言を継ぐ。
「愛情があるからこそ、振るう側であるはずの彼女は精神的に消耗していった。そして、人としてごく自然な防衛本能が詭弁を並べ立てる……原因は相手にあるはず、自分が悪いのではない……積み上げられたそれらに押しつぶされて、いつしか本質が失われてしまったのね」
 本質。呟いた拍子にぽたっと音を立てての目から涙が滴り、赤い花弁に落ちた。
 それを見て、新島はきゅっと唇を噛んだ。己が語れることはもう何一つないとして拳を握る。
 後を受け継いだのはの手を取り、今なお微笑みを浮かべる喜多川だった。
「それでも、様々なものに押し潰されてもこれだけは失われなかった。、顔を上げろ。これは現実だ」
「現実?」
 おうむ返しの問いに、喜多川は頷いて見せた。
「そうだ。お前が手酷い扱いを受けていたのと同じく、これは現実として存在している。結局俺たちが何を言おうが、お前の母親が何を思っていようが……お前の目に映るものが全てだ」
 受け取りようによっては突き放した発言とも取れるそれに、しかしは笑みを漏らした。
「正しく、認知の世界ってことか……」
 鼻をすする彼女の瞳からは相変わらず涙がこぼれ続けている。それは悲しみからのものだが、かすかな希望も混じっていた。
「祐介の目には、これはどう映ってる?」
「俺の? そうだな……とても綺麗だと思う。この世にこれ以上のものはあるまい」
「そ、か」
「お前にとっては?」
「私にとって……」
 少女は涙に濡れたまぶたを閉ざし、深く思考する。
 結論を導き出すのに時間はそうかからなかった。
 再びまぶたが上げられたとき、の目は歓びに溢れていた。
「これは最後のチャンスだと、やっと心の底から思える。今ならまだ、って。今ならまだ、やり直せる。時間はかかるだろうけど……」
「では、その終わりまで付き合おう」
「うん」
「良かったな、
「うん……!」
 ありがとう。と、若き怪盗たちに向けられた言葉には心がこもっていた。
 彼らの目に映るという少女はすっかり呪縛から解き放たれている。
 その心の中など解りはしないが、しかし少なくとも彼らが抱く現実に於いてはそうなのだ。
 茫漠たる世界の内、それだけが真実であると言えた。