05:Weather the Storm

……
 はじっとスマートフォンを見つめていた。
 その液晶画面の向こう、ホーム画面にはダウンロードした覚えのないアプリのアイコンが置かれている。
 黒と白の縞で描かれた瞳の意匠―――
 これが『イセカイナビ』であるとは理解していた。昨日喜多川と駅で別れる前に聞き出していた情報と一致しているのだ。
 軽く指先でタップすればアプリは何の問題も無く起動され、名称、場所、キーワードの欄が並び、最下部には検索開始のボタンが表示される。
 もちろん使い方も理解している。
 とはいえ喜多川は使い方こそ簡単に教えてくれたが具体的な行き方を示してはくれなかった。円の心で何を見たのかも。
 それでもの指は迷いなく動いた。淀みなく円の名と住所、そして―――
「キーワード……この家をお母さんがどう思っているのか……ふっ、ふふ……」
 ひとしきり静かに笑った後、少女ははっきりと口にした。
「楽園でしょう。そうだよね、お母さん―――」
 薄ら笑う少女の姿は瞬時にかき消えた。

……
 怪盗団は苦戦を強いられていた。
 というのも、パレスの様相が大きく変化しているのだ。
 神殿を囲む壁の崩落によって構造が変化したという程度なら何の問題もなかっただろうが、美しかった姿は見る影もなく、まるで崩壊した地下水道のように変じてしまっているのだ。
 前回の訪問の際落とされた地下部分が地上に現れたと言うべきか、そもそも全てがすり替わったと言うべきか……いずれにせよ地表では姿を見せなかったシャドウたちまでもが闊歩するようになっている。
 変化は他にもあった。門番を務めていた『ヒーロー』『ロスト・ワン』『クラウン』『スケープ・ゴート』『リトル・ナース』『プリンセス』……のシャドウとも言える彼女たちの姿が見当たらない。
 もっとも遭遇して穏健に話し合えるかもわからない。拒絶の意思の消滅からして敵対することは無いだろうが、不用意な接触は避けるべきだろうというのが今のところの怪盗団の総意だった。
「なんなのあのシャドウの量はぁ……」
 揺らめく扉を発見し、転がるようにして飛び込んで一時の休息を得ることに成功すると、パンサーの口からは泣きごとが漏れてしまう。決意とは全く別に、それほどの量であった。
 ぺたん、と地べたに直接腰を落として膝を抱える隣で、同じく崩れ落ちたスカルが呻く。
「っつーか、なんで構造まで全然変わってんだよ……」
「忘れたのか? ここはパレス、認知世界の具現化だ。にとっての家が楽園から別のものに変化したってことだろうな」
 こたえたのはモナだ。彼は素早くセーフルームの中央に置かれたテーブルに飛び乗り、きょろきょろと部屋の様子を窺う。
 彼にはこの小部屋の様子に見覚えがあった。白い壁紙に藍色のカーテン、部屋の隅に置かれた清潔そうなベッド、三枚スライドの引き戸に参考書の類ばかりが詰め込まれた本棚……
「ここ、の部屋だ」
 え、とモナに視線が集中する。
「なんていうか……シンプルだね」
「あ、これ、私も使ってる……」
 女性陣の感想とは裏腹に、男子一同は所在なさげに佇むか視線をさ迷わせる。
 しかしそれもクイーンの「あら」という軽い驚きを示す声に遮られた。彼女の手には一冊のリングノートが開かれている。
「四月六日、今日は入学式だった……あ、これ、日記……?」
 慌ててノートを閉じる。オレンジ色の表紙には確かに小さく「日記」と記されており、今更ながらにクイーンはバツの悪そうな顔をして勉強机の上にノートを戻した。
 一同の間に沈黙が満ちる。
 見てみたい。だがそれはあまりに人の道を外れている。しかしパレス攻略の足掛かりになるかもしれない―――
「よし、読もう!」
「ダメに決まってんでしょ! 日記だよ!? 女子の!!」
 文字通り牙をむくパンサーにジョーカーは肩をすくめた。
「そうは言っても、この先役に立つかもしれない」
「だからって、こんなプライベートの塊を見ようだなんて……」
「そもそも俺たちは人の心に土足で踏み入っているだろう」
「それとこれとは別なの!」
「パンサー、悪道をもって悪道を処断するのが俺たちのやり方だ。今更何を戸惑っている?」
 もっともらしいことを言っているように思えて、パンサーは唸った。自分では言い負かされてしまう……救援を求めて他の理性的な面々に目を向けると、そこでは二人以外の全員が日記帳を覗き込んでいる姿があった。
「ちょっと!! クイーンまで!!」
「ご、ごめん。でもパンサー、これは日記と言うより……」
 困ったようにノートとパンサーを交互に見るクイーンの傍ら、フォックスがそれを読み上げた。
「四月八日、鶏もも肉百グラム六十六円、レタス九十七円、キュウリ百五円三本入り……」
「家計簿かよ」
 ジョーカーとパンサーは揃って肩を落とす。先ほどのやり取りが馬鹿々々しく思えて、二人はお互いにお互いの肩をぽんぽんと叩き合った。
 日記の内容が見えるようにスカルの肩に乗り上げていたモナが鼻を鳴らす。
「マジで買い物の記録ばっかだな……ジョーカー、お前もこれくらい細かくつけたらどうだ?」
「え……なんで」
 ファミリーレストランで見せられた彼の財布の中身を思い出したのか、パンサーとスカル、クイーンが顔をしかめる。
 十枚以上の一万円札が無防備に収められていたあの光景は一般的な高校生である彼らにはやや刺激が強すぎた。これまでだってパレスで得たお宝を売り払って大金をせしめることもあったが、それは厳重に持ち運び、打ち上げと称して一時に使い果たしていた。それをこの少年はなんの警戒も無くポケットに突っ込んでいたのだ。
 この田舎者め、と毒づくのと別に、未だ日記帳に目を通していたフォックスが声を上げた。
「あ……」
 さっと視線が集まるのを感じて、彼はきまり悪そうに目を逸らす。
「なに?」
 しかし、ジョーカーに問いかけられれば答えない訳にはいかないのだろう。彼は黙って開いていたページを彼らに突き付けた。
『6/18 雨 喜多川くんと少し話す。彼と仲良くするぶんにはお母さんも怒らないだろう。』
 己の名が他者の記録に登場することに面映ゆさを感じているのだろう。おまけに一度や二度ではないことは、そのページに軽く目を通すだけで分かってしまう。
 彼がどういう人物なのか、何を好むのか、何をしていたのか……
 少女の目を通して現れる喜多川という少年は怪盗団の面々からするとやや美化されているように感じられた。当人もそれを感じているからこその気恥ずかしさだろう。
 それが示すところは―――
 パンサーの手が勢いよくフォックスの手から日記帳を取り上げ、手近な引出しを開いてその中に押し込んだ。
「もうおしまい! これ以上はダメ!」
 もうちょっとで面白いことになりそうだったのに、と小声で漏らすジョーカーに鞭が飛ぶ。
「怪盗団の掟はッ!?」
「ぜ、全会一致……」
「私は反対っ! 以上! 休憩終わり! 行くよ!!」
 項垂れるジョーカーの耳を引っ張りながらパンサーは足音高くセーフルームを後にした。
 残された面々は微妙な空気を漂わせつつ、黙ってそれに従う他なかった。

……
 間近を流れる水音に、はぼんやりとしながら耳を澄ませていた。
 足元には冷たい石畳の感覚があり、水気を含んだ冷たい空気が首や腕を撫でている。ここが自分の部屋でないことはわかりきっていた。
 閉ざしていた瞼を上げる。そこにはどこまでも続いていそうな回廊があった。湿った石の壁と床は苔やシダ植物に覆われ、ところどころひび割れて崩壊している。
 ここが母親の心の中? は眉をひそめ、直ちにこれを否定した。
 の目から見た母親は自身に対する行いを考えてもこのように暗く水っぽい光景とは程遠い。派手好きと言う訳ではないが、外面を気にする人だ。たとえ心の中であってももっと煌びやかなものが現れるはず。
 はすぐにここが母親の心の中ではなく、自身の精神世界なのだと勘付いた。
 汚水が流れる崩壊した薄暗い地下水道……なるほど、私の心そのものだ。そう思うと、自嘲的な笑みが浮かぶ。
 しかし、と歩きながらは自問する。
 ナビには母親の名を入力したはずなのに、何故自身の心の中に導かれたのか。それもまたすぐに察せた。それほど自分は母親に依存し、精神的に密接な関係になっていたのだろう、と。
「お母さん……」
 の脳裏にかつての母の姿が蘇る。
 優しくおおらかで、父と共に幼かった少女の手を引いてくれていた姿―――
 人の子である以上当然にも父親は存在する。しかし現在の家に父親の姿はなく、母親が経済的支柱となっている。
 は歯を食いしばって道の先にある薄闇を睨みつけた。
 彼女が十歳の時に夫妻は離婚している。その頃の彼女は向井という名字だったが、これ以降親権を勝ち取った母親の旧姓であるが彼女の名になった。
 離婚の原因は父親の浮気で、その調停は長く続いた。離婚の成立は十歳の時だが、別居は八歳の頃からだった。
 思春期の入り際に被ったこの経験は彼女の人格形成に大きく影響した。歪みというほどでは無いだろうが、しかし影が落とされたことに間違いはないだろう。
 今彼女の前に広がる光景こそがその影のように思えた。
 薄闇に響く自身の足音を聞きながら、の思考はまた過去に飛ぶ。
 父の裏切りに傷ついた円ははじめ、をよくかわいがった。父親が居なくとも不足は全く無いように思えた。
 事実その通りだった。母親は家計を支えるために忙しく働く傍ら娘の面倒をよく見たし、娘もまたよく学業を修めて母親の愛情に応えた。
 母娘の関係が現在のように変容したのはいつのことだったか―――
 その疑問に答えるように暗がりが終わり、天井の亀裂からわずかに光が差し込む広間に差し掛かる。その中央で十一歳ほどの少女が血だまりの中に倒れていた。
 ぎくりと身を固くしたのは、その死体が自分と同じ顔をしていたからだ。すっかり血の気が失せて硬直している肉体はろう人形さながらだが、顔つきは確かに毎日鏡越しに見る自分と同じものである。
「私……?」
 恐る恐ると歩み寄る。身体中に巻かれた包帯は血に染まり、黒く変色してしまっていた。血の出どころはどうやら腹部らしく、切り裂かれたそこからは内臓が腹圧によって押し出されている。そばには血にまみれたナタも転がっていた。
 膝をついて確認する。何度見たってその少女は何年か前のだった。
 そうだ、と手を伸ばしながら思う。ちょうどこれくらいの頃にささいな失敗を咎められ、初めて母に殴られたのだ、と。
「抵抗した?」
 言ったのは血だまりの中の死体だった。
 は驚愕の中、震える声で答えた。
「しようとは、した。でも、私なんかよりよほどお母さんのほうが傷ついているように見えたから、そんな気も失せてしまった……」
 死体はもう何も言わなかった。そもそも先に聞こえた声も幻聴だったのかもしれない。非日常的で凄惨な光景を受け入れるために心の内側からにじみ出たもの……
 はしばらく無言でその場に佇んだ。死体はもう一言も喋らない。
 深く思考する。あの時、は母親のためを思って暴力を受け入れた。殴られたほうよりも殴ったほうが泣きそうな顔をして震えていたから、許すべきだと思ったのだ。
 しかしそれは正しかったのだろうか。
 もしもあの時抵抗と怒りを示していれば、今この状況は生まれなかったのではないだろうか。
 誰に聞いたって彼女のせいだとは答えないだろうが、しかしの胸には後悔の念が生まれつつあった。こんな考え方に至ったのは初めてのことだ。
 はゆっくりと死体に手を伸ばした。何をするつもりもなかったが、しかし触れるや否や死体は崩れ落ち、血だまりの中に沈んでいってしまう。
「あ……」
 追うように伸ばされた手は血だまりの中から一枚の布を引っ張り出した。それは液体の中にあったというのにからりと乾燥している。持ち上げて明かりに晒してみれば向こうが透けて見えるほどの薄さの真っ黒なヴェールだった。
 はそれを手に、その場を後にすることにした。

 彼女の前に続く道のりは退屈で平坦だった。ただ時折、同じ顔をした死体が現れては彼女を驚かせた。
 二番目に現れたのは五・六歳程度の頃のだった。彼女は首輪とハーネスを着け、犬小屋のような物のそばでおもちゃのボールを抱えて倒れていた。口の端には泡が付着しており、がそれを拭ってやると、また崩れ落ちてヴェールを残した。
 その次はナース服を身にまとった己が首をくくってぶら下がっていた。彼女もまた触れると縄ごと崩れ落ち、床に落ちてかき消えた。後にはやはりヴェールが残されていた。
 次に現れた少女は庭師の衣装を身にまとい、枯れかけた池に半ば沈みかけて事切れていた。池の水は血に染まっていた。
 いずれもが己と同じ顔をしていることに衝撃こそ受けたが、その歩みは決して止まらない。
 決然とした輝きがその瞳には宿り、前へ前へと足を進めさせている―――
 喜多川はの母親から歪んだ心を盗み出すと語った。それによって改心を成すのだと。
 にその原理はわからないが、喜多川もまた説明し難いのだろう、曖昧に濁しつつも心配は無いとなだめるように言ってくれた。
 しかし一方で喜多川自身に危険はないのかと問いかけたとき、彼は一瞬だけ言いよどみ、すぐに「無い」と断言した。
 はこれを「有る」のだと受け取った。
 だから心への入り方を聞き出し、不安だから出発の際は教えてくれと嘘までついて頼みこんだ。
 実際には不安などそう感じてはいなかったし、母親が理由もなく苛ついているのは肌で感じとっていたから、精神世界に何らかの変化があったのは事実だろうと受け止めている。
 それに目の前のこの光景だ。
 の足は崩落した天井の瓦礫を踏み越え、天にまで続いていそうな階段に差し掛かった。
 彼女は直感的に理解する。
 ああ、これは私の家の二階へ続く階段だ、と。
 いつも二階に登るのが憂鬱だった。母親は予備校以外の夕方以降の外出を認めなかったし、テレビのバラエティ番組や娯楽映画等の視聴も許さなかったから、彼女が帰宅すると必然的には部屋にこもる以外の選択肢が無い。
 なによりも彼女を憂鬱にさせるのは母親の部屋に呼び出されることだ。そこでは説教と言う名の折檻が待っている。身体に残る痣の多くはそこでつけられた。
 だからこんなに、見た目以上に長く続くのだろう。ゼイゼイと息を切らせながら階段を踏みしめ、はそう当たりをつけた。
 腕には四枚のヴェールが抱えられている。不思議と捨て置くことができずここまで持ち運んでしまったのだが、己と同じ顔の死体たちが変じたものと思うとどうしても捨てられなかった。
 感触を確かめるようになおきつく抱えこむ。前を見据える目が階上の明かりを認め始めると、唐突に精神世界全体を揺るがすような轟音が鳴り響いた。
「うわ……」
 思わずと声を上げる。最上段付近が瓦礫によって埋まっていたからだ。ここまで登って引き返すというのはあまりにも……
 意を決しては瓦礫に取り付いた。よく見れば小さな隙間が誘うように開き、向こうの景色をかすかに覗かせているのだ。やせ細った己の身体ならなんとか潜り抜けられるだろう。
 ヴェールを衣服の中に放り込んで、はその小さな体を穴の中に投じた。

……
「うっ……また……」
 悲鳴に近い声を上げたのはクイーンだった。彼女の前には着飾った格好の少女が座したまま事切れている。
 豪奢なソファに身を預け、だらりと脱力したその口からは一筋の血がこぼれ、胸元のフリルとレースを汚している。
「また死んでる……くそっ、ほんとにこれ大丈夫なんだよな?」
 死体から目をそらしたスカルの問いにモナが答える。
「ああ。どんなに似ててもこれはシャドウだ。本人に害は無いはずだぜ」
「ああもう、チクショウ、だからって気分いいもんじゃねぇよ……」
 げんなりとして頭を振ったスカルに同意するようにモナは尾を振った。その隣では見知った顔の死体を五回も目撃したショックに吐き気を堪えるパンサーの背をジョーカーが宥めるようにさすってやっている。
 果敢にも死体の状況を確認しようと近づくクイーンとそれに付き合うフォックスが、パンサーの耳に届かないように声を落として話し合う。
「……死因はなにかしら」
「ここまでは割腹、服毒、絞首に自傷……バラエティに富んでいるな」
「今回は……う……舌が無い……」
「古風な自殺だ」
「フォックス、あなた平気なの?」
 まさか、と彼は仮面の下の目を細めた。
「だが、歴史に名を残す芸術家たちの中には自ら死を選んだ者は少なくない。興味が無いといえば嘘になる。それに、ここはまだの心の中だろう。なぜあいつの心の中の写し身が死んでいるのか……その理由を知りたいという気持ちも強い」
「それは……パレスの様子が変化しているのと同じ理由だと思う」
 逃れるように立ち上がり、全員に聞こえるようにクイーンは言った。
「元々このシャドウたちはさんの心と家庭を守るために存在していたはず。でも、現実世界でフォックスと話をして、怪盗による改心を約束された……」
 言葉に耳を傾けながらも、フォックスは『プリンセス』の口元の血を拭ってやる。
 血の気の失せた顔と虚ろな瞳はこの部屋―――少女趣味を極めた姿から一変し、長年放置された廃墟のように色褪せ、朽ちた果てた家具たちや壁紙とよく馴染んでいるように思える。退廃的なアートの一種のようだった。
さんにはもうこの子たちは必要なくなったんでしょうね」
 確かにもう自ら心を守る必要はないだろう。ことを成せば本来彼女を守る役目を果たす家庭というものが帰ってくるのだ。
 しかし……
 フォックスの脳裏に息絶えた友人の死に顔が蘇る。苦悶こそ浮かべていなかったが、いずれも安らかとは言い難い虚ろな目をしていた。
 胸中に言葉としてまとまらないなにかが渦巻いている。疑問と不快感や悲しみが混ざりあったそのものの正体を教えたのは、スカルの苦々しげな声だった。
「けどよ、なんでわざわざ死体が残ってんだよ。普通シャドウって、倒したら消えるもんじゃねぇの?」
「あ―――」
 驚きの声を全員が上げる。
 まったくスカルの言う通りであった。これまで敵対してきたシャドウのほとんどは致命傷を与えた時点でその肉体を維持できずに姿を消している。だというのに、のシャドウたちは全員死してなおその身を彼らの前に晒し続けているではないか。
 改めて少年たちの視線が落命した『プリンセス』に集まった。
 何故彼女たちは未だ消えず、の心に残り続けているのか……
 考えたところで埒が明かないということだけは明らかだった。ジョーカーはふむと一つ唸ってから踵を返した。
「もう行こう。俺たちにとって見るべきものがあるとも思えない」
 反対する声は無かった。

……
 全身についた土埃を払いながらは立ち上がった。髪はすっかり乱れ、ここまでの道程で付着した血痕も合わせて戦場でも駆け抜けてきたかのような有様になってしまっていた。彼女自身もそれを自覚しているのだろう、埃を落とすその顔はうんざりとしている。
 ため息を一つ、小休止と辺りを見回せば母親の部屋が近いこともあるのだろう、の精神世界とはまた少し様子が違っている。崩壊の兆しこそ見えるが階下の惨状よりはよっぽどましな状態だった。ひびの入った白い壁と石床、天井を支える円柱には蔦を模した彫刻が刻まれているのが判別できる。
 そういえばこの辺りの壁紙は蔦模様だったなと思いながらまた視線をさ迷わせ、やがて自分の部屋に繋がっているのであろう扉を発見する。
 一瞬の躊躇の後、は扉に近づき静かにそのノブを捻った。
 キィと甲高い音を立てて蝶番が軋む。扉の向こうは廃屋の一室のような有様だった。
 その中からすぐに自分自身の死体を発見し、嘆息をもらす。今までの死体の状態からすればずいぶんきれいなものだ。その身にまとったきらびやかなドレスの胸元が血で汚れていなければ、精巧な人形かなにかと見間違えたかもしれない。
 は慎重に部屋を進み、物言わぬ己の姿へ手を伸ばした。
 それはこれまでと同じように触れるか触れないかの内に崩れ落ちる。後にはやはり、ヴェールが残されていた。
 は何の感慨もなく手に残された布を見つめている。己の死体が変じたものと思うと薄気味悪さくらいは感じてもよさそうなものだが、それすらもわいてこない。
 自分はこんなに無感動な人間だったかと首を傾げるが、しかし思えばそのような片鱗はあった。
 口元が自嘲的に歪む。
 そうでなければ叩かれてじっと耐えたりなどするものか、と。

……
 円のパレスへ繋がる広間の入り口には粉砕された扉の枠だけが虚しく残されていた。
 それをくぐって侵入した先は相変わらずの深紅のカーペットに石造りのテーブルと本……しかしその向こうに並んでいたはずの本棚は倒れ、新たな通路がそこに開かれていた。
「……ハハオヤはいないみたいだな」
「ああ」
 頷いて、ジョーカーが歩を進める。
 広々とした空間には人の気配もシャドウの気配も感じられない。
 とはいえこの不在が罠である可能性も大いにある。慎重に歩を進める必要があるだろう……
 そう思った矢先、ジョーカーの鋭い感覚がかすかな物音を聞き取った。目を向けた先にいたのは、『ヒーロー』が鬼気迫る表情で剣を構え、一直線に自分に飛び込もうとしている姿だった。
 どうやら扉から死角になる位置に潜んでいたらしい。
 思う暇こそあれ、ジョーカーはとっさに腰元に携えていたナイフを取って切っ先をそらした。よく研がれた金属同士が擦れ合う不快な高音が鳴り響く。
「ジョーカー!」
 叫んだのは誰だったか。ジョーカーのすぐ後ろに控えていたスカルが真っ先に二人の間に飛び込んだ。獲物を大きく振りかぶり、落とす―――
 渾身の一撃は轟音を従えてカーペットの下の床を砕いただけだったが、少なくとも『ヒーロー』は舌打ちを一つ、後ろに飛び退って距離を取った。
「止めろ! ワガハイたちはオマエを傷つけるつもりはないんだっ!」
 モナの訴えは届いているのだろうが、『ヒーロー』はこたえない。ただ剣を構え、一同を見据えている。
 泰然と構えるジョーカーとその前に立ち塞がるスカル、武器こそ手にしたものの動けずにいるパンサー、打開策を求めて部屋のあちこちに視線をやるモナとクイーン、そして……
 無言のまま刀の柄に手をやったフォックスに『ヒーロー』の視線は吸い寄せられた。
「お前の仕業か……」
「なんのことだ」
 苛立った声が己に向けられたものと勘付いても、意味するところを受け取りかねて首をかしげる。その仕草がより『ヒーロー』の怒りを煽ったのだろう、彼女は怒りもあらわに声を荒らげた。
「ふざけるな! お前が私を……っ、楽園をめちゃくちゃにしたんだ! このままじゃ私は、私は……」
 震える剣先がフォックスを指し示す。そこには明らかな殺意が込められていた。
 殿を務めていたフォックスは最も扉に近い位置に陣取っている。彼に向かって突き進む『ヒーロー』の前にはパンサーとクイーンが立ち塞がっていたが、元々小柄な彼女が身を低く、地を這うような動きでもって走ると彼女たちの武器では捉えきれない。ましてやパンサーの体は動揺に支配されている。咄嗟に振られた彼女のムチは虚しく宙を叩いただけだった。
「く……! フォックス! 避けて!」
 鋭い指示が食いしばったクイーンの歯の間から飛ぶ。しかしフォックスとしても地を擦るようなこの動きはその長身故に捉え難い。彼は顔をしかめて刀を抜き、己に向けられた害意を払い除けた。
「お前が―――死ねば―――私はきっと―――」
 元通りになれる。
 シャドウは振り上げ、返し、裏刃の合間にそう訴えた。
 それらを鞘や柄で受け、かわしながらフォックスは考える。
 私はと彼女は言う。これは言葉の通り、のことだろう。では元通りにとはなにか。考えるまでもない、母親の支配下に置かれたこれまでの生活のことだろう。は確かに助けを求めたが、その心の中にはやはりまだ迷いや母親への恐れがあったということだろうか。
 それもそうだ、と思う。自分とはたった一年と少し程度の付き合いでしかなく、対すると母親は十七年近くの時を共に過ごしているのだ。
 もちろん、だからと言ってそれで引き下がる気など毛頭ない。フォックスは鋭く鞘から刃を抜き放ち、死角から襲い来る逆袈裟の一撃を受け止め、声を張り上げた。
……っ、お前にはわかっていたはずだろう! 初めからここは楽園などではなかったんだ!」
「黙れッ! お前に何がわかる!」
 二人の間に挟まれた刃がギリギリと悲鳴を上げる。
 しかしこれはにとっての悪手であった。そもそもフォックスは一人ではなく、殿である彼の懐にとびこめば当然彼女の背後には残りの五名が立つことになる。
「ごめんね、さん―――カルメン!」
 仮面に手を当てた瞬間、パンサーの背後にきらびやかで扇情的な衣装を身にまとった半身が浮かび上がる。カルメンと呼ばれた彼女のペルソナはその意志に応えて身をくねらせ、舞い踊った。
 途端にシャドウの足元から眠りを誘うような香気が立ち昇る―――
「く……これは……姑息な真似を……っ」
 眠りに至らせなくとも行動を阻害する効果は現れたようだった。シャドウはたやすくフォックスの腕に弾き飛ばされ、一度カーペットの上を転がってから起き上がる。
「……剣を収めるつもりはなさそうだな」
 ジョーカーの声に応えるようにシャドウは再び武器を構えた。その目に宿った敵意も失われてはいない。
「やるしかねーってことか」
「そのようね」
 スカルとクイーンもまた構える。
 全員が闘志をみなぎらせるそのさまを見て、しかしシャドウは怯えるどころか不敵に笑ってみせたのだった。
「ふっ、ふ、ふ、あはは……いいよ、全力で相手をしよう。ここはまだ私の影響下でもあるんだから―――」
 シャドウは素早く、大きく剣を振り上げた。
 その動きには全員に覚えがある。強烈な鳴動を呼び起こして彼らを地下へ放り込んだときもあのようにして足元を叩いていた。
「散れオマエら!」
 モナの指示に全員がその場を飛び退った。
 間一髪、それぞれの足元に地裂が走り、そこから黒く鋭いものが飛び出して体を擦過していく。
 それは割られたガラス片が巨大化した物のように見える。天井にまで届きそうなこれがもしも突き刺さっていたら、串刺しどころでは済まされなかっただろう。
 ゾッとして、改めてこののシャドウが本気で自分たちを消しにかかっているのだと理解すると、もはや躊躇することはできなかった。
「このぉ……ゾロっ!」
 モナの吠え声に呼応して細剣を構えた丸いシルエットが浮かび上がる。
 そのものが美しい細工の施された剣を一振りするだけでつむじ風が起こり、高く掲げられると強風が吹き荒れて黒ガラスのオベリスクたちは砕け散った。
 それはある意味一種幻想的な光景だった。千々に砕かれたガラス片は輝きながら宙を舞い、乱反射された光は七色で、まるで無数の色の花びらが散っているかのようだ。
 しかし見惚れる間はなかった。降り注ぐガラス片から身を守るように防御姿勢を取ったシャドウの死角を取って、クイーンとフォックスが仕掛ける―――
 自らのペルソナ、バイクを模したその女の姿を傘に突入し、ガラス片を避けて滑り込む。勢いを殺さず駆け抜けざま足元に蹴りを叩き込むと、シャドウの身体はぐらりと傾いだ。
 するとひゅうと空を切る音がして、フォックスがシャドウの背後に着地する。彼はクイーンのように盾にするものが無かったからか全身に小さな傷を負っていた。
「あうっ!」
 しかし悲鳴を上げたのはシャドウであった。
 彼女の腕はパックリと裂け、そこから黒い霧のようなものが吹き出している。すり抜けざまにフォックスが刀で斬りつけたのだ。
「……嫌な感触だな」
 狐面の下で彼は器用に片眉をしかめた。
 苦々しげなその呟きに応えたつもりではないだろうが、自身に付けられた傷を見てシャドウが吼えた。
「ああああぁっ! 痛い! 痛い! 痛い! 痛いよぉっ! 『スケープ・ゴート』はどこ!? こんなの私の役割じゃないっ! 私は、私は―――!」
 痛みに悶える腕が揺れ、剣先が床を幾度も叩いた。
「このままで良かったのに! 変化なんていらない! お母さんがいればそれで良かったのに! 良かったのに……!」
 眦を釣り上げて、シャドウは背後の少年を振り返り見た。
 その瞳には変わらぬ殺意と妄執が込められている。
「お前、お前が……私を変えてしまったんだ……」
 かすれた声は突き出した黒ガラスによって遮られた。
 誰もが警戒して回避のために身を固くしていたが、現れたのはたった一本だけだった。それも先のものよりも細く短かい。
 しかし人一人の命を奪おうとするのには十分と言えた。
「フォックス!!」
 悲鳴を上げたのはパンサーだ。その顔が青ざめているのが仮面越しにでも見て取れた。
 彼女たちの眼前には防御のために刀を掲げた格好のフォックスがある。その彼の左胸に細長いガラスの棘が突き刺さり、貫通して背中から飛び出している。
「うっ……ぐ……」
 ビクッと一度大きく震え、フォックスの口から鮮血が滴り落ちる。
 これを見て飛び出したのはスカルだった。
「っざけんじゃねえぞテメエッ!!」
 振りかぶった拳に重なるように髑髏面のペルソナが現れる。その身にまとった雷撃が今まさに放たんと大きく膨れ上がるが、しかし破裂する前に霧散する―――
「んっ!? だあぁっ!!?」
 ジョーカーがスカルの襟首を掴んで思い切り後ろに引いていた。
 何をするんだ、と抗議の声を上げようとしたスカルの目に、一瞬前まで己の頭があった場所を黒ガラスの針が貫いている光景が映った。スカルは言葉を失って凍りついた。
 対するシャドウはそんな二人の姿など、呆然と立ちすくむ他の怪盗団の面々も目に入っていないかのように高々と剣を掲げ、誇らしげに声を張り上げる。
「お母さん! やったよ! 私やったの! これでいいんでしょう!? 彼の首を持っていけば、私はもういらない子なんかじゃないよねっ!?」
 狂乱という言葉が相応しい姿だった。
「彼が居なくなれば全部以前の通りに戻るよ! だから、だから……私を産んで良かったって言ってくれるよね!」
 声に応えるものはなかった。広間はしんと静まり返り、ただ静寂だけが返される。
 それをどう受け止めたのだろうか、シャドウの顔はみるみるうちに青ざめ、慌てた様子で掲げていた剣を持ち直す。
「わかったよお母さん、すぐに、すぐに彼の首を……」
 フォックスに向き直った彼女の瞳はもはや正常とは思えない色を帯びている。唯一それを目撃できたのはフォックスだけだが、彼の視界は明滅を繰り返して定まらず、目視は不可能だった。
 ただ彼は間近に迫る濃厚な死の気配を感じ取っている。
……俺は、お前を……救ってみせると……誓ったんだ……」
 言葉を拒絶するように剣が振り上げられた。
 怪盗たちは矢も盾もたまらず駆け出したが、ガラスの棘が檻のように床を裂いて立ち塞がった。
 精神世界での死は現実世界での死に直結している。まして彼らは肉の体をもってここに侵入しているのだ。
 瞠目するジョーカーの脳裏に、ふっとかつてのモルガナの言葉が蘇った。
『覚悟はできてるんだろうな?』
 これは人の心を盗むことの危険性、しくじれば殺人を犯すことを示唆した言葉だった。あのときはそう受け止めた。
 しかし今この状況では、仲間を失うことを指摘されている気になってくる。
『覚悟はできてるんだろうな?』
 再び蘇った声に被るように、ジョーカーは己のこめかみ辺りで血管が千切れる音を聞いた。
 そんな覚悟は必要ない。失わなければいいだけの話だ。
 思い、掴んでいたスカルの襟首を放り出すと代わりにモナの首根っこを掴み上げる。
「ニ゛ャッ!?」
「ペルソナ……キンキ!」
 同時に、太平記に語られた四鬼の内の一つを呼び起こす。いかなる武器でもっても傷つけることのかなわないその金色の体は直ちに主人の願いを叶えんと動き出す。
 武器を一振り、豪腕は一瞬で道を阻む黒ガラスの檻を叩き割った。当然、ジョーカーたちにガラス片が降り注ぐ―――
 その中を潜らせるようにジョーカーは掴んでいたモナを全力で放り投げた。
「ぎゃあーーっ!!?」
 悲鳴を上げるが、しかし彼の体に傷はつかなかった。ジョーカーのしようとしていることをいち早く察したクイーンが彼の体を守る技をヨハンナに使わせていたのだ。
 やがてモナの体は狙い通りにシャドウの後頭部にぶつかった。
「ぐぇっ!」
「きゃっ!?」
 存外可愛らしい悲鳴を上げてバランスを崩す。モナは振り落とされまいと短い手足でその後頭部にはっしと捕まり、間近に迫った重症のフォックスに目を向けた。
 つまり、ワガハイにコイツを治療しろってことか。
 意図は察せたが腹は立つ。モナは後で説教してやると心に誓って己のペルソナを呼び出した。
「ほいっとな! しっかりしろ、フォックス!」
 癒やしの光が降り注ぐと、フォックスは一度大きく咳き込んで自分の心臓を貫く黒い針を掴んだ。ぐっとその拳に力が込められると、針はたやすく折れ、砕け散る。
「感謝する―――」
「出世払いでいいぜ」
 言葉が返って来たことに安堵して、モナはいつもの自分を取り戻してふんぞり返った。
「鬱陶しい!」
 そしてシャドウに叩き落される。ヨハンナのラクカジャは未だ有効のようで、すり傷一つ負うことはなかった。
「この……っ、この、この、お前たち……! 早くしないと、お母さんが……彼の首を……渡さないと……! 私は……っ」
 振り上げられた剣が次に狙いを定めたのはモナだった。彼はまだ体制を崩したままだ。最も近くにいるフォックスもまた。
 ジョーカーは駆け出したが、それより早く走るものがあった。赤炎の塊だった。
「させない!」
 一喝がそれを追う。パンサーの背後にはカルメンがおびただしい量の赤炎を従えていた。
「くっ、あっ、いや……っ! あ……」
 ボウッと『ヒーロー』が身につけていた鎧に炎がまとわりつく。彼女は慌てた様子でそれらを外し、床に放り投げた。
 現れたのは洸星高校の女子制服だった。
「はぁ……はぁ……あぁ……あああぁぁっ! 邪魔しないでよおぉっ!!」
「すっ、するに決まってんじゃん! ねぇっ! もう止めなよ! 話を聞いてってば!」
 パンサーの声を拒絶するようにシャドウは首を左右に振る。手には未だ剣が握られ、瞳には憎しみと殺意が宿っている。傷を負い、鎧を剥がされてなお、彼女から戦いの意思を削ぐことはできていないようだった。
「早く……早くしないと……お母さんに……お母さんが……」
 ただ声だけは震えていた。そこには明確な恐怖が感じられる。彼女が母親に怯えていることは明らかで、怪盗団は次の手を打ちあぐねていた。
 そして彼女の恐れる通りのことが起きた。
、まだ片付かないの?」
 ビクッと少女の肩が大きく震え、次いで剣を握る手が小刻みに震え始めた。
「おかあ、さん……」
 かすれた声が母を呼ぶが、その姿はどこにも見当たらない。改めて警戒の体勢を取った怪盗たちの目には、ただただ怯え惑う哀れな少女の姿があるだけだ。
「やっぱりあなたに任せたのは失敗だったわね」
 母親の声は、そんな怯える我が子をさらに追い詰めていく。
「わかっていたことだけど、この程度のこともできないなんて……がっかりさせないでちょうだい、
「ああぁ……ごっ、ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝られても困るわ。あなたの失敗だもの。でも、あなたのその失敗で迷惑を被るのはいつも私よね……」
「やめて、お母さん、やめて……」
 カラン、と音を立てて少女の手から剣が落ちた。
「やっぱり……」
 失望の込められた声に膝から崩れ落ちた少女の顔は蒼白だった。彼女は今やその身体全体を引きつけでも起こしているかのように大きく震えさせている。
 そして母親は娘にとどめを刺した。
「あなたなんて産むんじゃなかったわ」
 冷徹な声は当事者のみならず、聞いた者すべての心を貫いた。ゾッと背筋が粟立ち、震えがくる。
 ある者は怒りに顔を歪め、ある者は恐れに体を震わせた。
 少女は己の頭を抱え、蹲って悲鳴を上げた。
「いやあぁーーーーー……っ!!」
 慟哭に重なるように、何かにヒビが入る大きな音が鳴り響いた。
 音は少女を中心に辺りを取り囲み、やがて視覚にも現れ始める。
「これは……どうなっているの!?」
 クイーンが己の足元にできた巨大なひび割れから逃れるように後退りながら叫ぶ。その腕にパンサーがしがみついた。
「やだっ、やだやだ、これ、このヒビの向こう……っ」
 震える指先が指し示した先には、ひときわ大きな裂け目があった。パンサーが言わんとしているものがそこにある。
 正しく表現すれば、そこには何も無かった。
 あらゆる光を飲み込むようなのっぺりとした闇が広がるばかりで、なにも存在していない。
「モナ、どうなってんだよこれっ!?」
「壊れかけてるんだよっ!!」
「はあぁ!?」
「パレスはそいつの心の有り様だ! 歪んだ心の象徴で、シャドウを倒せば消えてただろっ!?」
「あ、ああ……確かにいつもそうなるよな……」
 しかし、今回俺たちはまだこのシャドウを倒したとは言い難い。お宝に至っては盗むどころか見つけてすらいないではないか。
 一同の視線は蹲って震え、うめき続ける少女に集まった。
「お母さんごめんなさい……ごめんなさい……許して……私……私は……」
 一際大きな音ともに亀裂が広がる。それは少女の肌の上にも現れ始めた。
「……! ! しっかりしろ!」
 フォックスが少女を揺り起こすが、虚ろなその瞳は決して彼を映さない。ただブツブツと小さな声で母親への謝罪の言葉を述べるだけだ。
「ヤバい、ヤバいぞ。どうにかしなくちゃ、は心が砕けそうになってるんだ。このままじゃ……」
「どうなると言うんだ!」
「恐らくだが、そいつは の心の核だ。それが壊れてなくなれば、の心はバラバラになる……つまり、廃人なっちまうってことだよ!」
 衝撃が全員に走った。
 昨今世を騒がす廃人化事件がその脳裏に走ったのだ。心を破壊され、殺された者たちの末路は常に一つだ。生きる欲を失い、やがて死に至る。
「ど……どうすんだよ!? 死んじまうってことじゃねえか! っつーかこのままじゃ俺らもヤベェぞこれ!」
さんの心を……シャドウを落ち着かせる? でも、私たちがなにか言った程度で、あんな……」
 クイーンが悔しげに眉を潜めた。その耳には未だ円の声で唱えられた呪いの言葉がこびりついている。
 どう考えてもこの崩壊はあの言葉が起因しているのだから、これを否定できればきっと崩壊は止まるだろう。それはわかっている、わかっているが、なんと声をかければいいのか彼女にはわからなかった。
 それは隣で震えるパンサーも同じことだった。彼女にはの苦しみを根本から理解することはできない。肉親にその存在を産まれから否定されるなんてことは、想像すらしたことがなかった。
 スカルもジョーカーも同じだった。叱られることや呆れられることはあっても、生命そのものを否定されたことは無い。
 フォックスもまた然り。そもそも彼は両親の記憶すら持たないが、しかし母親が彼を愛していたのであろうことは本物の「サユリ」を知る者であれば誰もが分かっていることだった。
「ごめんなさい……産まれてきてごめんなさい……なんの役にも立てなくて……」
 若者たちは絶望的な気持ちで世界がひび割れる音と少女の詫び言に耳を傾ける他ない。
 そんなことはないと否定してやればいいのか、それとも生きていていいのだと許可してやればいいのかわからなかった。
 言葉はいくらでも浮かんだが、しかし誰もが言えないでいる。それほどの力が呪いには込められていたのだ。
 やがて崩壊が始まる。天井が崩れ落ち、その破片があちこちに降り注ぐ。
「ここで終わりなの……?」
 ポツリ、とパンサーがもらす。
 誰もがそれに頷きかけたが。ただ一人ジョーカーだけがこれを否定した。
「まだだ……まだ、なにかあるはず。少なくとも彼女は俺たちの行動を受け入れたんだ。だから壁は消えた、そうだろう?」
 はっとして、クイーンが顔を上げる。
「フォックス……! 何を言ったの? 彼女を説得したとき、あなたが彼女の心の壁を壊したものがあるはず!」
「何を……? 俺はただ、と友人でいたいと……」
「そんなの皆そうだっつーの! いまさら……こっちはもう友達のつもりだったよ!」
 パンサーの涙声に、フォックスは慌てて記憶を探った。
 呼びかけに応えてあばら家の前に現れた彼女の姿、肌を焼く日差し、驚愕の表情、乱れた呼吸―――
 フォックスは息を呑んで目の前で震える少女の影を見つめた。
「……俺には、お前が必要だ。他の誰でもない、が……」
 言葉にピクリとシャドウの肩が震えた。
 フォックスはその肩にゆっくりと手を置き、宥めるようにさすってやった。
「……覚えているか、初めて二人で出かけた日のことを。別に約束をした訳でもなかった。ただ偶然駅で会って……俺は苛ついていた。あの時の俺に描ける最高の作品を先生に渡すことになって、腐っていた。お前はそれに……盗作に関しては知らなかっただろうが、少なくとも俺が不機嫌であることには気がついていたんだろう」
 とうとうと語る声は不思議とよく響いた。
 そして返される声もまた。
「気がついてたよ。だって喜多川くん、すごく怖い顔をしていた……」
 声は背後から聞こえていた。
 振り返ると、そこにはボロボロになった部屋着を着たが立っていた。
「え、うそ、シャドウ? まだいたの?」
「そんなはずは……役割的には六人で終わりだと思ったのだけど……」
 あっ、と声を上げてモナが尾を立てた。
「シャドウじゃない、本物のだ!」
 全員が驚きをもって彼女を見つめた。
 埃と血にまみれているが、小さな擦り傷以外に目立った外傷は見当たらない。強いて言えば服の裾から痣が覗いているが、それは元々あったものだろう。髪は乱れ、服も一部が破れてしまっている。
 それでも彼女は二本の足で立ち、ゆったりと彼らに歩み寄った。
「……だからこそ一人にしちゃいけないと思った。誰かがそばにいないと、壊れてしまうんじゃないかと」
「そうかもしれんな。……あの時は、ありがとう」
「どういたしまして」
 にっこりと笑って、少女は一同の前に立った。
? マジで? なんで?」
「えっと……」
「そういえばナビのことを話したか」
「オイっ!?」
「あ、違うの、私が聞き出した。何日か前から変なアプリがスマホに入っていて、もしかしたらと思ったから。入るときも教えてくれと予め頼んであって……」
 つまり彼女は自らの意志でここにいるということか。
 その事実に一同はますます目を丸くした。
「それにしても……ふふ、みんな……ふふふふっ、すごい格好……」
「あ、あのねさん、これは別に私の趣味とかじゃ……」
 慌てた様子でクイーンが両手を振った。
「そりゃねぇよ世紀末覇者センパ……」
「ふんっ!」
「い゛っ!」
 クイーンとスカルのじゃれ合いに、は声を上げて笑った。汚れてはいるが、彼女はまるきり健康そのものだった。シャドウの様子とはまるで正反対だ。
 気がつけばいつの間にか崩壊は収まり、辺りは静まり返っている。
「……お母さんの声、私にも聞こえてた」
 一歩また前に出て、はゆっくりと跪く。壊れかけた己の心に目線を合わせた。
「覚えがある。ほんの数ヶ月前に言われたことだから。あの時私の心は確かにこんなふうになっていたんだろうな……」
……」
 気遣わしげな声が狐面の下から発せられるのを聞いて、はくすっと小さく笑った。
「フォックス? ふふふ、私もそう呼んだほうがいいのかな」
 楽しげな声に反してフォックスはムッと唇をへの字に曲げると、なんの迷いもなく己の仮面に触れ、それを取り払った。
「祐介でいい」
「ふふ、ふ……えっ」
 現れた喜多川祐介の顔に驚いたわけではないだろう。しかしは顔を赤くして目を見開いている。
「あ、え、その」
「どうした?」
「いまさら……そんな」
「何がだ?」
「な、名前……」
「……?」
「は! はい……」
「どうしたと言うんだ」
「あ、あの、それは確かに、皆を羨ましいとは思って……だからといってこんな、急に」
「気に入らなかったか」
「そんなことは、ない、です」
「そうか。……
「は……はい……」
「なぜ顔を赤くしている?」
 若干噛み合わない会話を遮ったのはジョーカーだった。
「そういうの後にしてくれる?」
 彼の額には青筋すら浮かんでいた。仮面がなければ彼の眉がつり上がっていたのもわかっただろう。もっとも、あったとしても彼が苛ついているのは明らかだった。
「はい! えっと……うん、その……」
 は改めて壊れかけた己の影に目を向ける。
 それは相変わらず虚ろな目をして、どこともない場所を見つめていた。
「……私の心はバラバラに砕けた。もう、このまま一生お母さんの言いなりになって生きるしかないんだと思っていた」
 の手が伸び、シャドウのひび割れた頬を撫でる。
「でも、こんなふうに壊れてしまわなかったのは、きっと……祐介のおかげだ」
「俺の?」
「諦めるつもりはないと、私でなければ意味は無いと……ううん、私に連絡を取ろうとしてくれたことだけでも嬉しかった。まだ私を見捨てないでいてくれる人がいるんだと思えた」
 そして―――
 言いながら、は全員を見回した。
「祐介の言ったこと、本当だったんだね。縁もゆかりもないのに、私のことを知って、危険も省みずに助けようとしてくれた」
 これにパンサーが応えた。
「だってウチらもう、友達じゃん?」
 は満面の笑みで頷き、心のこもった声を上げる。
「ありがとう……本当に。きみたちがそうであるからこそ、私の心は最後の所で踏みとどまった。何もかもか砕けて消える前に、欠片を残すことができた」
 欠片? と全員が首を傾げる。
 応えてが己の衣服の中に手を入れたそのときだった―――
 部屋全体を強烈な振動が襲った。
 室内の空間そのものを揺さぶっているかのようなそれに全員がバランスを崩して這いつくばってしまう。
「今度はなんだってんだ!?」
 自慢の毛並みを逆立てたモナの声に応じるようにして、落雷のような声が広間を揺るがした。
!! あなたはまた、そんな連中と……!!」
 それは怒り狂った円のものだった。
 再び悲鳴を上げてシャドウが蹲るのを眺めながら、は悲しげに腕を抜いた。その手にはここまでの道中に拾い集めた黒いヴェールがある。
「お母さん……」
「言ったはずよ、そんな連中とつるんでいたらあなたまで駄目になってしまうと」
「でも、お母さん」
「口答えは許さないわ。あなたは私の言う通りにしていればいいの。そうすれば失敗せずにいられるのよ」
「……私は、この人たちと友達でいたい」
「駄目よ!! 友達ならお母さんが選んであげる。こんなろくでもない輩と友達だなんて、あなたのためにならないわ!」
 は黙ってうつむき、唇を噛み締めた。その表情を伺うことができたのはただ一人、彼女自身の影だけだ。
 そこには明確な怒りの感情が浮かんでいた。
「その……人たちが……」
「なんですって?」
 の手は小さく震えていた。シャドウは呆然とそれを見つめ、やがてその手を暖かく包むもう一つの手が現れるのを視界に捉えた。
 それは喜多川の手だ。手袋に包まれた骨ばったシルエットが優しく少女の手を握り、少女もまたその手を力強く握り返した。
 それがこの影が見たものの最後だった。
 は決然として虚空を睨みつけ、声を張り上げた。
「お母さんの言うそのろくでもない人たちは、私がずっとして欲しかったことをしてくれた! お母さんと一緒に生活してきた時間よりもずっと短い間に!!」
 長い間抑えつけられていた感情を爆発させたせいだろう、彼女の瞳は急激に濡れ、膨れ上がって涙が頬を伝い落ちた。
 喜多川ですら、彼女の涙を見るのは初めてだった。今までずっと堪えてきたものを一時に流しだそうとしているかのように、滂沱と溢れてこぼれ落ちている。
 しかし彼が驚いているのは涙を目撃したからではなかった。
 彼女の手の中にあるヴェールが一枚、また一枚と離れ、シャドウのひび割れた身体を塞ぐように包んでいく―――
 他の誰もこの事態に気がついていないのだろう。フォックスは改めて大粒の涙が伝う横顔を見つめた。
「私の料理を食べて美味しいと、私を友達だと、私を変な子じゃないと、私が必要だと……言ってくれた……今また、血を流してまでして、命をかけてまで、私の心を守ろうとしてくれている……」
、あなた……!」
 少女は生まれてこれまで発したことのないような声量で訴えた。
「お母さんなんか嫌い! 大っ嫌い!!」
 感情的な訴えに応えるように巨大な口径から弾丸が発射されたかのような轟音が鳴り響いた。それが広間の最奥、倒れた本棚に隠されていたのであろう通路の奥から響いているのは誰もが勘付いている。
 全員が身構え、そこからやってくるものを待った。
 轟音は幾度も幾度も鳴り響いた。
―――どうしてそんな―――口をきくの―――やっぱりその―――クソガキどもに―――誑かされて―――いるのね―――」
 どぉん、と一際大きく響いたかと思うと、通路の奥から巨大な影が現れる。
 それは怒りに顔を赤く染めた女だった。身の丈は見上げるほど高く、下半身は蛇、背中には竜の翼を備えている。
「そいつらから離れなさい―――お母さんが躾けなおしてあげる―――」
「いらない……」
「言うことを聞きなさい―――人生がめちゃくちゃになってしまってもいいの―――」
「こんなことで躓く人生なんて必要ないっ」
「友達ならお母さんが―――選んであげるわ―――」
 固く握られた少女の拳はぶるぶると震えている。
 それを見て、ジョーカーはふっと口元を和らげて言った。
「ムカついてるんだろ。もっと言ってやれば」
 まったく気楽そうな言い方である。
 しかし、彼にとってはそうなのだ。例え血の繋がった肉親であろうが、立場や年齢が上のものであろうが、間違っていると思えばそれを口に出し、是正する。
 それが彼の―――彼らのやり方だった。
 だからこそこの場に立っている。そして少女もまた立ち上がった。
「友達なら自分で選ぶ! いちいちうるさい、ほっといて!」
 途端、広間を眩い閃光が覆った。一瞬のことだった。そしてその一瞬の間に、のシャドウと五枚のヴェールは消え去っていた。
「う……っ!」
 まばたきを繰り返していたが突然胸を押さえて身体をくの字に折り曲げた。苦悶の表情を浮かべたその額には玉のような汗がびっしりと浮かんでいる。
「うああああっ!?」
 獣のような咆哮を上げた口の端からは涎がこぼれ、髪を振り乱して内側から湧き上がる激痛に身悶える―――
 一同はこの光景に見覚えと身に覚えがあった。
「まさか……」
 誰ともなく漏れた声はには届かない。
 彼女の耳は幻聴に支配されていた。幽かな女の声は己の声とそっくりだと思う。
 それはこのように訴えていた。
『本当は誰の首が欲しかったの?』
 は苦痛に身体を震えさせながらそれに聞き入った。
『愛しいあの人? なんでも命令してくる母親? 自分たちを見捨てて出ていった父親? それとも―――』
 くく、と幻聴は低く喉を鳴らす。何もかもを見透かしているかのような声色だった。
 それも当然だろう。これは幻聴などではなく彼女自身だ。
『ただ健気に耐えるだけの自分自身?』
 は掠れ声で応えた。
「……そうだ。私をぶつお母さんなんて嫌い、私たちを捨ててどこかに行っちゃったお父さんは大っ嫌い……でも……」
 気がつけば彼女の身体は青く輝く炎に巻かれていた。それは激しく燃え盛るが、しかし彼女の身体を傷つけることなく収束し、その目元を覆う仮面を顕にした。
「でも、一番嫌いなのは、それらに嫌だと言えなかった私自身だ!」
 震える手が仮面を掴んだ。
 それはすっかり彼女の顔の一部と化していた。長い間貼り付けていたせいか皮膚と癒着し、簡単には剥がれそうもない。
 ならばと渾身の力でもってわずかな隙間に指先をねじ込む。激痛が走り、指先には生温く濡れた感触に障まれる。血と肉によるものだとは理解していた。それでもは手を離さず、ますます力を込めて仮面を引き剥がさんとする。
 やがて生皮が剥がされるような嫌な音とともに彼女は慟哭を上げた。それは苦痛によるものでもあったし、自由を手にしたことへの喜びからでもあった。
 奇妙なことはまだ起った。
 彼女の顔面から吹き出した血が滴り、黒いヴェールへと変じたのだ。
『素敵……!』
 そしてそのヴェールは嬌声を上げ、浮かび上がる。ゆらゆらと漂っていたかと思えばどこからともなく浮かび出た六枚のヴェールと合わさり、艶めかしい女のシルエットを作り出した。
『さあ踊りましょう……うまく踊れば、褒美をいただけるわ……』
 一際大きな炎が巻き上がり、の身を包んでいた部屋着が燃え落ちる。その下からは身体全体を覆った色鮮やかな衣装が現れた。派手やかな刺繍やコインの用いられた頭飾りはどこか中東の民族衣装を思わせる。
「行こう……」
 掲げられた腕には両刃の西洋剣が握られている。鉄塊と言うほどではないが、小柄な少女の体には明らかに不釣り合いであると言えた。
 対して、その動きに警戒したのだろう、円のシャドウは一歩退いた。わずかに開いたその距離に、彼女を守るように二体のシャドウが湧き上がる。
 それは巨大な曲がりくねる海蛇の姿をとり、同時にへ襲いかかった。
!」
 フォックスが声を上げるが、はにっこりと笑って剣を振るった。
「切り落とせ、サロメ」
 ヴェールに覆われたシルエットが舞うと、直ちに海蛇の首が床に転がった。
 残りの一体も間もなく。これはが自らの手によって切り落としていた。
「く――――――あなた―――」
「お母さん……」
 ゆらり、と一歩前に出た彼女の進路を遮るように、今度は三つの影が現れる。これは髪の長い老人の姿をしていた。複数の腕を持ち、それぞれに斧と盾、棍棒を構えている。
「言うことも聞けないような子供なんて要らないわ……! お前たち、殺してしまいなさい!」
 激昂した女の言葉に、は剣を構えたまま硬直した。
 それを狙って矢のように鋭い雷撃が落とされる。脳天を狙い、文字通り光の速さで迫る攻撃には咄嗟に防御姿勢を取るが、か細い腕と鉄の剣が雷を防げるとは思えない。
 悲鳴だけは上げまいとぐっと歯を噛んだ少女の視界を不可視の盾が遮ったのは一瞬の出来事だった。
 盾は鏡のように雷撃を老人たちのもとへ跳ね返し、後ろに控える円のシャドウ、その髪の一筋を焦がした。
「俺たちを忘れてもらっちゃ困るな」
 得意げに鼻を鳴らしたのはジョーカーである。その背後にはエジプト神話に語られる地母神、生死を巡る女神が幽玄な笑みをたたえて佇んでいた。
 その左右を守るようにパンサーとクイーンが立つ。二人は声を揃えて己のペルソナに呼びかけ、直ちにその力をふるった。
「カルメン!」
「ヨハンナ!」
 叩きつけられた炎熱と核熱にたまらず老人たちは悲鳴を上げるが、致命傷にはまだ至らない様子だ。クイーンの舌打ちに反応するように老人たちは再び斧と棍棒を振り上げる。
 これにモナが飛び跳ねてサーベルを掲げ、吠えた。
「遅いぜ、ペルソナっ!」
 下からすくい上げるような迅風が巻き上がり、いまだ燻っていた炎を再び強く燃え上がらせる。
 たちまち老人たちは苦痛と悲哀に満ちた悲鳴を上げ―――
「うっし、行くぜフォックス!」
「いいだろう。遅れるなよ」
 二人の少年が飛び出し、炎をかいくぐりそれを叩き切った。
 残された一体は剣を担ぎ上げた少女が自分の目の前に迫り、その仮面の奥で瞳がらんらんと輝いているのを見た次の瞬間に絶命した。頭部を失った身体はしばらくガクガクと震えていたが、やがて液体のように溶けて床に落ち、消える。
 動くものが無くなって、部屋はようやく静寂を取り戻した。
 サーベルを鞘に納め、ふんとモナが鼻を鳴らす。
「ハハオヤは奥へ逃げたか」
「そのようだ」
 手袋を直しながらジョーカーがこたえた。彼の目は奥へ続く通路を包む闇をじっと見つめている。
「モナ、お宝の位置は分かる?」
「この奥だな。すぐそこのはずだぜ」
「確実な場所は?」
「そりゃ流石に見なきゃわかんねぇよ。地図みたいなものも無かったし」
「ふむ」
 唸って、ジョーカーはやっとに目を向ける。彼女は床に尻をついて呆然としていた。
さん、大丈夫?」
「う、うん。怪我は無いよ。ただ……あ、あはは、腰が抜けたみたいだ……」
 気遣って目線を合わせたパンサーに笑って答えている言葉は真実らしい。怪我らしい怪我は見当たらないし、そもそも傷一つつけられるような場面は無かった。ジョーカーは誰にでもなくうんうんと頷いて、心の中で己の采配を己で褒め称えた。
 それを見抜いたわけではないだろうが、スカルがつんと肘で彼の背中を突く。
「なに一人でドヤってんだよ。どうすんだ?」
 スカルの言いたいことはつまり、進むか戻るか、ということだろう。
「宝が近くにある以上、場所を確認しておきたい」
 まずジョーカーが述べる。
 するとこれを受けてモナが
「そうだな。それさえわかれば後は予告状を出すだけで済む。ここまで来て二度手間はごめんだぜ」と同意する。
 しかしパンサーが意を唱える。
「ちょっと、さんはどうすんのよ。立てそうな感じじゃないんだけど?」
「あー、そだな。俺も反対。流石に今日は帰ったほうがよくね? 色々説明とかしたほうがいいと思うしよ」
 スカルも反対に乗ると、クイーンが少し困ったように
「けど、私たちはまだかなり余裕があるのよね……ここまで来る道程を考えると、確かにお宝の場所は把握しておきたいわ」と賛成の意思表示をする。
 自然とフォックスに視線が集まった。お前はどうだ? という意の込められたそれに、彼はの傍へ膝をついて
「すまん。俺もの身を優先したい」と述べた。
 意見が出揃ったところで、しまったとジョーカーは頭をかいた。
「三対三か。全会一致ともいかないし、どうするか」
「なに言ってんのお前」
 スカルの視線の先には首を傾げるがいる。
「あ」
 察して、ジョーカーは手をぽんと打った。次はに視線が集まる番だった。
「え?」
「状況もよくわからないかもしれないが、さん、どうする?」
「え、っと……」
 ぽかんとしたまま、少女は全員の顔を見回した。
 ジョーカーたちにとって幸いなことに、彼女は血の巡りは悪くなかった。
「お宝……つまり、お母さんの心を盗むために来ているんだよね。それで、皆はその場所を把握したい。怪盗団による改心には、常に予告状が伴ってきた……」
 ぶつぶつとしばらく何事かを口の中でこね回し、やがては首を縦に振った。
「進んだ方がいいとおもう。私は皆の邪魔をしに来たわけじゃないし、大丈夫、立てるよ」
 と言うものの、立ち上がろうとした少女の膝は震え、すぐに力が抜けて崩れ落ちてしまう。咄嗟にパンサーが支えたが、しかし震えは収まる様子を見せなかった。傷は無くとも体力的な消耗が大きいのだろう。それは誰もが身に覚えのあることだった。
 改めて、ジョーカーは全員の顔を見回す。
「これで四対三か。とは言え……」
「お願い、本当に、邪魔をしたくないんだ。ただでさえ、きみたちを危険な目に遭わせているのだし……」
 ぐっと力を籠め、なおも立ち上がろうとするを抑えたのはフォックスだった。
「では、こうしよう。二手に分かれないか。俺はここでが落ち着くのを待ちたい。お宝がすぐそこにあるのであればそう大した手間ではないだろうし、戦力の分散も問題はないはずだ」
 これにスカルがパチンと指を鳴らして賛成を示した。
「それだ。いいんじゃね? モナ、マジですぐそこなんだろ?」
「うむ。オタカラのニオイがここからでもプンプンしてるぜ」
 ジョーカーは少しだけ考えるような素振りを見せたが、彼もまた賛同した。
 残るは女子二名―――
 パンサーはじっとフォックスの仮面の下の瞳を探るように見つめている。次いでを。パンサーは最も二人に近い場所にいたから、その表情は仮面の下であってもよく窺えた。
「……うん。私もそれならいいよ。フォックス、よろしく!」
 あっさりと反対意見を撤回して立ち上がるパンサーに、クイーンは少しだけ首を傾げる。
「パンサー、いいの? なら、私もここへ―――」
「やだぁ! 私クイーンがいないと心細いぃ~!」
 残るという言葉を、何故か棒読みのパンサーが飛びついて押し戻す。ジョーカーは彼女にだけ見えるように両手の親指を立てた。
「え? でもそれじゃ―――」
「さっ! 行こ行こ! お宝って何かな~? 楽しみ~!」
「あ、ちょっとパンサー、引っ張らないで……」
 奥へ続く通路に引きずられて行くクイーンを追うようにジョーカーが続くと、スカルとモナもそれに倣った。
「じゃ、を頼むぞ。すぐ戻るからなー」
 フォックスが頷いて一同を見送ると、部屋は再び静寂を取り戻す。
 は未だ呆然と通路の奥を見つめたままだったが、やがてがっくりと肩を落としてフォックスへ情けない顔を向けた。
「ご、ごめん……」
 謝罪の言葉に、しかし彼は首を傾げる。
「なぜ謝る? 俺はお前になにかされたか」
「ここへ残らせてる。情けない……」
「それは俺の意思によるものだ。誰かに強制された訳ではないことは、お前も見ていたのだからわかるだろう」
「でも、私が来なければこうはならなかった」
「確かにそうだな」
 否定する姿勢すら見せない彼には苦笑する。まったく容赦のないやつだ、と。
 しかしそれも、彼の瞳が確かな怒りを宿していると気が付いてしまうと消さざるを得なくなる。
「……怒ってる?」
「まあな」
 ゆったりとその場に腰を下ろし、フォックスは再び狐面を取り外す。現れた少年の顔は怒りによってわずかに歪んでいた。
、なぜ来た。イセカイナビのこともそうだ。なぜ黙っていた。俺たちが信用できなかったのか?」
「そういう訳じゃ」
「ではなぜだ?」
 は少しだけ沈黙した。叱られることを恐れているというよりは、言うべきかどうかを迷っている様子だ。
 喜多川はじっと彼女を見つめている。それはまるで、嘘やごまかしを許さないと訴えかけるかのようだった。
 やがて観念したのだろう。もまた仮面を外し、喜多川に向き直る。
「自分のことだから」
「ん?」
「お母さんの心を盗むって、つまりは私の家の問題でしょう。それをきみたちだけにやらせて、当事者である私自身がのんびりと待つなんて……嫌だったんだ」
「それは……」
 喜多川は軽く目を見開き、戸惑ったように言葉を濁す。理解できる理由ではあった。しかし納得はできない。
「だが、一人で来るなど、危険だ」
 叱りつけるような口調に、しかしは我が意を得たりと鼻を鳴らす。
「危険は無いって言った」
「うぐ……」
 思いもよらぬ反撃に言葉をつまらせた少年に、は今度こそ笑みを浮かべた。
「やっぱり危険だったんじゃないか。まあ、だとしてもきみたちがしくじるなんて思ってなかったけど。それでもやっぱり、怪我をするかもしれないと思ったらじっとしていられなかったから、ここに居るんだけど……」
「……そうか。心配させていたんだな」
「お互いさまになっちゃったけどね」
「ふっ、そうだな。お前が無事で良かった」
「喜多川くんもね」
 再び、少年の眉根が寄せられる。あれ、とは首を傾げた。
「もう忘れたか」
「なにを?」
「祐介でいいと言ったろう」
「あ……」
 はっとして、は俯いた。その頬はかすかに赤く染まり、目は伏せられている。
 喜多川は意地悪を仕掛けるようなつもりでその顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「う……」
「呼んでくれないのか」
「あう……」

 トドメと言わんばかりに名を呼ばれると、は屈服する他なかった。
 息を吸い、一度吐いてからまた吸って、は少年の名を読んだ。
「ゆ、祐介……」
 喜多川は目を細めて頷いてみせた。
「ああ、なんだ?」
「なんでもないよ。ああ、もう……どうしてきみはそう……」
「そう怒るな。ふっ、ふふ……」
「笑わないで。こっちはまだ混乱している部分が多い……というか、この服……いつの間に、こんな」
「ああ、この世界の主に警戒されるとこうなる。その者の反逆の決意だとかが反映された姿、だったか」
「……お腹出てるんだけど」
 言われて少年の視線が腹部に下りる。なるほど鮮やかな布地はその部分だけがぱっくりと開き、少女のへそを露わにしている。
 まじまじ眺める視線から隠すようには膝を抱いた。
「あまり見ないで……」
「すまん」
 けれど、と繋げて、喜多川は改めての格好を観察する。
 中東の民族衣装を模したそれは彼女によく似合っているように思える。明るい色合いに金の刺繍。縫い付けられた金属片にはそれぞれ異なった意匠が施されている。
 パンサーもなかなかに派手な格好だったが、はまた趣の違う派手さがあった。
 ふむと一つ唸って、喜多川は指先で己の顎をさすった。
「思えば、はこれまであまり彩度の高いものは身に着けていなかったな」
「そうかな。……服はほとんど、お母さんが決めた物を買ってたから」
「ああ……」
 合点がいった、と喜多川は頷いた。
 の私服はたいてい、淡い色合いの少女らしい物が多かったと記憶している。良く言えば愛らしい、悪く言えば子供っぽい―――あの『プリンセス』の置かれていた部屋の様相は、母親の選んだ衣服の類が反映されたものだったのか、と。
「しかし今そのように顕れたということは、それが本来のお前の趣味なのかもしれないな」
「どうなんだろう。わかんないや」
「では、これが終わったら確かめに行くか」
「服?」
「ああ。荷物持ちくらいはするぞ?」
「一緒に?」
「嫌か?」
「ううん。ただ、なんだかまるで……」
「まるで?」
「……なんでもない」
 また顔を赤く染め、はふいと顔をそらした。
 もちろん、喜多川は彼女が言わんとしていた言葉を察している。彼自身にも自覚があった。言ってから、まるでデートに誘っているようだな、と思ったのだ。
 だから彼は懇願した。
「行くと言ってくれ」と。
 はこたえて言った。
「行く」と、それだけ。
 喜多川の心はそれだけで明るく弾んだ。ここがまだシャドウの跋扈する危険地帯であることを忘れもした。
 とはいえ、未だシャドウの類は姿を見せず、部屋は静かなままだ。通路からも戦闘を行っているような物音も響いてこない。どうやら首尾は上々なようだと思うと、喜多川はあぐらを組んで得物を抱え込むかっこうになる。
 もまた足を投げ出して身体から力を抜いた。震えは収まっていたが、まだ立ち上がるには少しの休憩が必要と思えた。
 二人はしばらくの間沈黙した。
 これは別段珍しいことでもなかった。元来二人は口数の多い方ではなく、生まれ育った環境から観察眼や人の心理を窺う術に長けている。共に過ごす時間が増えるほど沈黙を選択することが多くなったのは自明の理とも言えた。
 なんの問題も無かった。二人にとっては。
 ただ、密かにこの二人の動向を見守っていた少年にとってはそうではなかった。
「……何か言えよ!!」
 大声を出して床を踏みしめたジョーカーの姿に、喜多川とは驚いた様子で硬直するしかない。それは彼が隠れて自分たちの趨勢を覗いていたことにではなく、ただ唐突に大声を出された理由が分からないからだった。
「どうしたんだ、ジョーカー」
 ぽかんとしつつも仮面を戻し、フォックスとして語り掛ける。ジョーカーは己の癖っ毛をかき回して身悶えた。しかしそれも、素早く追いついたパンサーの手によって遮られる。
「落ち着け……っての!」
 小気味の良い音と共に後頭部を叩かれて、ジョーカーは我を取り戻した。
「お宝の位置は把握できた。帰還するぞ」
「お前頭の後ろにスイッチでもついてんの?」
「そのスイッチとやら、どうにか固定できないもんかな。常に今の状態でいてくれればいいんだが」
 モナを肩に乗せたスカルが通路の奥から現れる。彼の手には丸められた大判の用紙があった。
さん、立てるかしら」
 歩み寄って手を差し伸べたのはクイーンだ。は頷いてその手を取り、立ち上がる。
「ちょっとふらつくけど、もう大丈夫……ご迷惑をお掛けして……」
「いいのよ。ペルソナに覚醒した直後は私もそうだったわ」
 一人で立ち上がったフォックスが首を傾げた。
「そうだったか? 派手に『ブチかまして』くれたように思ったんだが―――」
「んん!」
 咳払い一つで少年を黙らせて、クイーンはスカルの手にある用紙を指差す。
「奥は少しここまでと違った様式になっていたけど、地図があったの。戻って計画を立てましょう」