← ↑ →
04:You can lead a horse to water, but you can't make her drink
……
今日落ちるのはこれで二度目か、とジョーカーは独り言ちた。
耳には仲間たちのうめき声と水音。一切の光が差し込まないそこで目には何も映らないが、腿の付け根までが水に浸かっているのが冷たい感覚から把握できた。
「皆、無事?」
クイーンの声だ。
「一応、生きてはいるぜ」
まずスカルが応える。
「私も。うう、冷たい……」
次にパンサーが。
「ワガハイの自慢の毛皮がぁ」
「いてて、モナ、爪を立てるな、じっとしていろ」
モナの嘆く声にフォックスの悲鳴。恐らくは彼がモナを抱え上げているのだろう。
集中して辺りを探れば、ジョーカーの目には全員の姿が確認できる。安堵の息を漏らすのもつかの間、皆はこうもいかないかと彼は己の仮面に手を当てた。
「ちょっと待って……『フラウロス』!」
ジョーカーの呼びかけに応じて現れたのは豹の顔を持った戦士だった。炎を自在に操る悪魔はその手に輝く赤炎を灯すと、全員の姿と周囲の様子を照らし出した―――
「なんだよここ」
スカルの呆然とした声が反響する。腰まで水に浸かった彼らの周囲は苔むした壁に囲まれ、天井を見上げても一筋の明かりも見つけられない。
スカルの疑問の声にクイーンが答えた。彼女の手は苔の隙間からのぞく規則正しく並べられた矩形ブロックをさすっている。
「自然にできた感じじゃないわね」
「井戸の底……みたいな?」
パンサーが戸惑ったように天井を見上げるが、しかし炎の灯りも届かないほど高くにあるのだろう、そこには塗りつぶしたような黒があるばかりだった。
「ううう、寒い、このままじゃ風邪ひいちまう!」
「だから大人しくしていろと……あ、そこ。通路じゃないか?」
予想通りモナを肩に乗せたフォックスが皆の後ろを指し示した。振り返れば確かに、奥へ続く細長い空間が開けていた。
「……行く?」
「しかないだろ」
一行は水をかき分けながら進むこととなる。
道程は容易では無かった。地下水道には地上では姿を見せなかったシャドウが跋扈し、彼らを大いに苦しめた。
それでも水の流れに従って進むうちに足場を発見すれば軽口を叩く余裕も出てくるというもの。
「やり返されたな、フォックス」
「ん?」
「水ぶっかけたんだろ、に」
「ああー……」
腰に下げたファーチャームのようなものを絞りながらフォックスが幾度も首を縦に振る。ジョーカーとのやり取りを聞いていたのだろう、隣で靴に入った水を出そうとひっくり返して振っていたスカルが素足で彼の脛をつついた。
「やめろ」
「うっせ。お前のせいかよ」
「偶然だろう。いや、偶然か? わからん……」
ぶつぶつと己の世界に入り込もうとする彼を引き留めたのはクイーンのはずんだ声だ。
「馬鹿なこと言ってないで、あそこ、見て。光が差し込んでる」
「えっ! どこどこ!?」
湿った髪からどうにか水気を絞ろうとしていたパンサーが大仰にこたえて首を巡らせる。
確かに、クイーンの指が示す先に明かりがあった。それも炎や電気によるものではない、求めてやまなかった太陽の輝きに思える。
「でかしたぞ、クイーン!」
モナの喜びに溢れた声を先頭に、一同は表情を明るくしてそちらへ向かう。
果たして彼らは日の光の中に飛び出し、ようやく人心地つくことができたのである―――
「よかったぁ、もう二度と出られないかと思ったあ」
「こえーこと言うなよ……」
やれやれと各々地べたであったり手近な岩や倒木に腰を下ろしたりする。こうして一息ついてしまうと疲労を意識するのと共に、少女の最後のつぶやきが耳に蘇る。
どうせ誰も……
続く言葉は予測できた。それがどのような心地で吐き出されたのかも。
湿った髪を指先でいじりながら、さてどうしたものかとジョーカーが思案したとき、再びクイーンが声を上げた。
「ねえ、あれ、さっきまでいた神殿よね?」
全員が丘の上を仰ぎ見た。そこにあったのは荘厳な神殿の姿ではなく、見る者を威圧する長大な壁だ。
城壁とでも言うべきか。恐らく神殿があったであろう場所をぐるりと囲んだ石壁には、壁塔や門塔がここからでも窺えた。鋸壁の隙間からちらちらと見える動くものはシャドウだろうか。
確かに周囲を森林に囲まれた小高い丘には見覚えがあるのに、神殿だけが姿形をすっかり変えてしまっている。
「やっぱり……」
呟いたのはモナだ。彼は尾を垂らして一同を振り仰いだ。
「たぶん、さっきまでいた場所のほとんどはのほうのパレスだ。初めに会ったはワガハイを見て「あの時の」と言った。恐らく、昨日見たワガハイの姿を覚えていたのだろう」
「でもモナ、お母さんのほうにも見られたんだよね?」
「うん。でも、だとしたらあのシャドウはもっとワガハイに対して警戒や嫌悪を見せたはずだ」
それに、とクイーンが言を継ぐ。
「神殿の中で、色んなさんの姿があったわよね。『ヒーロー』『ロスト・ワン』『クラウン』『リトル・ナース』『スケープ・ゴート』に『プリンセス』……あれは機能不全家庭における子供の役割をわかりやすく分類したものと一致している。彼女のお母さんがこれを認識しているのなら、そもそもパレスができるような事態にはなっていないでしょうし……私たちが居た場所はのパレスに間違いないと思う」
「けどよ、ナビにはちゃんとのお袋さんの名前を入れたはずだろ」
言って、スカルはジョーカーに確認を促す。見ればナビには確かに「円」の名が入力されていた。
どういうことだと頭を捻る面々にクイーンが答えた。
「重なっているのよ。と円のパレスが」
はじめに私が言った通りにね。
クイーンの言葉に全員が顔をしかめた。発言者であるクイーンですら辿り着いた結論に眉を寄せ、腕を組んで城壁を睨みつけている。
「それが共依存、ってやつ?」
「恐らくは。母娘の精神状態が現れた結果ということじゃないかしら」
「となれば、あの壁はの俺たちに対する拒絶の表れとでも言ったところか」
フォックスの目は堅牢そうな壁を見つめている。拒絶、と改めて言葉にすることで実感を得たのだろう、握りしめられた拳は寒さ以外の要因から微かに震えていた。
それは拒絶したへの怒りか、それとも拒絶させてしまった己への怒りか、あるいはそうさせた母親への怒りか……
いずれにせよ、今は引き返すべきだろう。
そのように判断して、ジョーカーはぐるりと周囲を見回した。風景に見覚えがある。恐らくパレスからの脱出口もすぐ近くにあるだろう。歩き出さんとしたその足元でモナが小さなくしゃみを漏らした。
「っくしゅ、ああもう、全身ずぶぬれだぜ……」
モナを見て、パンサー、クイーン、スカル、フォックスと順に眺める。誰も口にはしなかったが、その体は揃って小さく震えている。ジョーカーもまた冷たい水にすっかり体温を奪われてしまった自覚があった。
ため息を一つ。
「少なくともお宝の場所は把握した。一度引き返そう」
ジョーカーの提案に反対する者はいなかった。
唯一フォックスが名残惜しげに丘の上を見つめていたが、彼もその判断に従った。
撤退した彼らは渋谷セントラル街のファミレスに陣取り、疲労した体をソファーに預けて放心していた。
「戻ったら乾いてたからいいけど、なんかまだ足先冷えてる感じする……」
それは店内に効かされた空調のせいではと思ったが、骨の芯に残る冷たさが疲労を倍増させているのは確かだ。暖かいコーヒーを一口含むだけで、天国にでも来たような心地にすらなった。
一通り注文が揃ったところで、さて、と少年は居住まいを正す。それを見て皆も倣ったのを確認して、彼は語り出した。
「と円のパレスが重なり合った状態なのは確認できた。お宝の位置も。けど、次に行く時はもっと警戒されているだろう。あの壁のこともある」
「ちらっと見ただけでも壁の上にシャドウがウジャウジャいたよね。抜け道とかないかな?」
「それよりもっと簡単な方法がある」
きっぱりと言い切った少年に一同は目を丸くする。ただ脱出してきただけの今の状況でそんな方法を見つける暇があっただろうか?
答えを言い当てたのは意外なことに坂本だった。
「そっか、マダラメやフタバのパレスでやったみたいに、こっちの世界で壁を崩せばいいんだ。な、そうだろ?」
「うん。そういうこと」
にっこりとして頷いて、少年はよくできましたと隣に座った坂本の頭を撫でた。
「よーしよしよしよし」
「え、キモ……つーかなにこのペットみたいな扱い……」
坂本は信じられないものを見るような目で素知らぬ顔を続ける親友の顔を眺めていた。
「あの壁はさんの救い、つまり現状の打破に対する拒絶の表れなのよね。であれば、さんに救援を出してもらえばいいのかしら」
「さん、助けなんて必要ないって、一度も助けを求めたことなんて無いって言ってたよね……」
高巻の瞳には恐らく親友のかつての姿が映っているのだろう。悲しげに揺れる瞳はじっと手元のカップの中を見つめている。
震える長いまつ毛を見つめながら坂本が応えた。
「けどよ、ほんとにそうなのか?」
「え?」
「自分ならどうするかっつー話。俺なら、オヤにブッ叩かれたら、助けを求めたりはしねだろうけど、誰かに愚痴るとか、なんか物に当たるとかしちまうと思うっつーか、実際したことあるっつーか……いや、物に当たんのは良くねえって解ってるけどよ。でも、そういう時ってカッとなって自分じゃコントロールできないもんじゃん? 意地になるっつーかさ」
「意地……」
坂本の言葉に顔を上げたのは喜多川だった。
「以前、は言っていた。俺が何故ここまでしてくれるのかと問いかけたとき、意地でやっているのかも、と。何に対する意地なのかは教えてくれなかったが……」
「それ、もしかして」
「……あのね、祐介。私と杏は昨日、ドームタウンで遊んだ時、さんとIDを交換しているの。それで、解散した後すぐはちょっと会話できたんだけど……モルガナがさんの家でお母さんとの会話を聞いたのは九時ごろよね?」
「ああ、そのはずだぜ」
「私も杏も、その後から全く反応がなくなった。既読すらつかないわ」
「そうか」
「そうか、じゃないっつーの! いい? 私たちのことはお母さんに言われてその通りにした、多分他にもたくさんの人に対しても。でも、一人だけそれを破ったやつがいんの!」
喜多川の眉がぴくっと不快そうに揺れた。
「誰だそれは」
全員が勢いよく手近なものを喜多川の顔に投げつけた。お手拭き、紙ナプキン、ストローや砂糖の空き袋……それらを顔に貼り付けながら、喜多川はやっと理解する。
「俺か」
よくできました、と少年の手が喜多川の顔からお手拭きを回収する。
「昨日あの後からさんと連絡とったりしてる?」
「一応、来てくれた礼を言ったが」
「返事は?」
喜多川は無言で手元のスマートフォンを操作し、全員の前に差し出した。
『今日はありがとう』
『来てくれて嬉しかった』
『弁当も美味かった』
『久しぶりに満腹になった気がする』
これは喜多川が。後に続いて
『どういたしまして』との返信がある。
『作り過ぎたかとも思ったけど』
『むしろ足りなかったかな』
しばらくやり取りは途絶え、一時間ほどの間を置いてから
『ごめんね』とが発言する。
喜多川が謝罪の訳を問う返信を最後に、既読こそついているもののやり取りは途絶えている。
「……私や真と似たような感じだね。ごめんなさいって唐突に言われて、それきり」
「タイミング的にはワガハイがあの家から一度脱出した後くらいだな」
「返信が無いのは私たちも祐介も同じよ。でも、少なくとも彼女は祐介の発言を見てはいるはず。私にはこれが……彼女の最後の反抗に思えてならないの。それこそ、これが彼女の意地なんじゃないかしら」
誰もが息を呑み、スマートフォンの液晶、そこに浮かぶ既読の文字を見つめていた。
成長に伴って訪れる自然な情動として親や大人に逆らった覚えがあるのは全員に共通した経験である。そもそも怪盗団の活動からして理不尽な大人たちへの反抗そのものなのだから、所属している以上全員が反逆者だ。
ここに至った経緯―――苦汁や辛酸を味わった記憶は各々を未だ苦しめていると言っていい。喪失、苦痛、恐怖、恥辱……言いようはいくらでもあった。それはどれだけ時間をかけても、きっと一生記憶に残り続けるのだろう。
けれど幸いなことに、この少年たちは戦う力に覚醒し、居場所を得ることができた。
しかし、そうでない人々―――の抵抗のなんて小さなことか。
たった二文字のシステムメッセージにこめられたものを想うと胸を締め付けられるような気持ちになって、喜多川はスマートフォンを手に取った。
「どうするつもりだ?」
問いかけていながらクラウンパントの奥の瞳は優しげだ。絶対の信頼を感じ取って、喜多川はいつも通りの涼やかな笑みを浮かべた。
「言わせてやればいいのだろう。自身の口から、「助けて」と」
自信ありげに立ち上がると、喜多川は「また後で連絡する」と言い残して立ち去った。
それを見送る皆の目には安堵が浮かんでいる。問題は程なく解決されるだろうという確信がその胸にはあった。道を阻むものはもはや無いと思っていい、と。
高巻などはぐっと一度伸びをしてだらしなくテーブルに顎を乗せたりもした。
しかし―――
「なあ、あいつ金払ってなくね?」
「あ……」
恐らく喜多川自身も忘れているだけなのであろうが、彼らは苦笑を禁じ得なかった。
「いいよ。ここは全部俺が奢る」
「えっ、いいの?」
「皆一任してくれてるけど、メメントスでの稼ぎ結構あるよ」
嘘でしょ、と目を丸くする一同の前に、「ジョーカー」は財布を開いて見せる。
……ファミリーレストランの一角に、小さな悲鳴が響いた。
……
『話したいことがある』
既読は五分ほどでついた。
それを確認して、喜多川は続ける。
『できれば直接会って話したい』
『時間はあるか』
沈黙、やがて短いが返答があった。
『ダメ』
『予定でも?』
『ない』
『では来てくれ』
『こんなことはこれで最後だ』
今度の沈黙は長く続いた。十分ほどかかって、はこたえた。
『わかった』
『どこに行けばいい?』
……
二人は程なくして合流した。
「遅くなってごめん」
喜多川の姿を見つけるや否や小走りに駆け寄るの姿に喜多川はガードレールに腰を預けたまま手を上げる。
乱れた息を整えるのを待って隣を勧めてやると、彼女は少しだけ戸惑ってから腰を下ろした。すると背の低いはつま先がつくだけになってしまう。ぼんやりとそれを一瞥し、転ばなければいいがと思いながら道路越しに自分たちの前に立つあばら家を見上げる。
二人はかつて班目とそれに師事する者たちが暮らしていた住屋の前に佇んでいた。
傾き始めたとはいっても夏の日差しは二人の肌を刺すように熱するが、喜多川はしばらくそうしてトタン板に浮かぶ不規則な錆び模様を眺めていた。
もこれになにかを言うことは無かった。喜多川が突然ぼんやりし始めたり、逆に猛烈に動き始めるのはいつものことだ。大人びた見た目に反した子供のような落ち着きのなさには十分慣れ親しんでいた。
それも今日で終わりとは考えていた。最後だと言ったのは他でもない喜多川なのだ。きっと二度と顔を見たくないとでも言われるのだろう、と。
それでもは落ち着いていた。これもまた彼女にとってはいつものことだからだ。
の母親は始め喜多川のことを知ると、あの巨匠班目一流斎の愛弟子であるということで大いに喜んだ。仲良くしなさいと娘によく念を押した。このように母親が言うのは珍しいことで、もまた喜んで新たな友人と親交を深めることを楽しんだ。
そうやって触れ合うと、この見た目と言動のチグハグな少年にはあっという間に魅了された。
共にいるとき、この喜多川という少年は常にに新鮮な驚きを与えてくれるのだ。まったく興味も無かった日本画の世界がほとんどを占めていたが、彼自身の発想や着眼点もにとって十分面白いものだった。
この時間がずっと続けばいいとは願った。
しかしあの曇天の日―――風呂上がりに通りかかったリビングで母親がテレビを見ていた後姿をはよく覚えていた。
見慣れたニュース番組に見聞きしたことのある名前が大きく取り上げられていた。班目一流斎―――細身の老人が号泣しながらカメラのフラッシュを浴びている。
はそれを驚きでもって見つめ、真っ先に老人の弟子である友人のことを思った。
盗作―――弟子たちから―――虐待の事実も―――贋作の売買―――詐欺―――
言われてみれば確かにと思うことは多々あった。一年以上続く交友関係の中で、喜多川という少年はいつもその手に筆かクロッキー帳を握っていた。溢れて止まらない創作意欲やイメージを一つも零さず彼は描き留めていたというのに、彼が完成させる作品の数は少なすぎた。きっと個展に展示されていた作品の幾つかは彼のものだったのだろう。そう思うと、は悔しくてたまらない気持ちになった。
には絵画の世界のことはよくわからない。芸術一般に対して疎い自信があった。しかし、自分が創り出したものへの評価を他者に奪われるというのはどのような気持ちであろうか。どれほどの損失であろうか。それも見知らぬ他者にではなく、ごく親しい人物に……
彼女はまた、何も知らずにいたことを恥じた。何の助けにもなってやることができなかった、と。
そして、大きな恐れも抱いていた。これで母は喜多川との親交を認めなくなるだろう。
事実その通りになった。の母親は「犯罪者の弟子と一緒にいたら、あなたも何を言われるか……」と言った。
はこれに頷く他なかった。逆らえばまたなにをされるかわからないのだ。
けれど翌日の学校で遠巻きにされている喜多川を見ると、は声をかけずにはいられなかった。彼の姿は傷を作って登校したときの己とまったく同じだったからだ。
誰もが好奇心と同情の目を向けるくせに、ただ遠くから眺め、勝手やたらな憶測を囁き合うばかり。その中心で自分は周囲にも己にも無関心でいるしかない。
もしかしたら喜多川ほどの変わり者であれば本当に無関心でいられたのかもしれない。
それでもは声をかけ、いつも通りに接した。ただの友人として他愛のない話を振り、少しだけ彼の身の心配もした。
には彼の事情に足を踏み入れる気概も気力もありはしなかったが、しかし、並んで歩くくらいはできた。と喜多川の歩幅は大きく違っているから、いつでも彼を待たせる結果にはなったが。
そのようにふるまうことでは自分自身を慰めていた。その自覚もあった。浅ましいと思いすらした。
それでも喜多川が安らかな顔で笑うのを見ると、己の行いが間違っていなかったのだと確信することができた。少なくとも自分は彼を一時休ませることくらいはできているのだと。
だからは、初めて母親の言いつけを破ったのだ。
生活に大きな変化を迎えて食うにも困る様子を見せる彼に食事を与えたのはその一端だった。元々家における食事を一任されていた身だ。母に隠れて彼の分も昼を用意するのは大した作業量ではない。
いずれ母の知る所になるであろうことは分かっていた。その結果どのような扱いを受けるのかも。だからといって断ち切れるほど、の少年への想いは軽くもなかった。
大丈夫、きっと耐えられる……
少女の初めての反抗はあっさりと打ち砕かれた。
円は娘に言った。
「お前なんて産まなければよかった」と。
憎しみのこもった瞳に見つめられて吐き出された言葉は痛みよりも的確にの心をえぐり、粉々に砕き割った。
今この場で喜多川と並んでいるのはその欠片によるものだろう。少なくとも、彼女の中にもう母親に対する反抗心はほとんど残ってはいなかった。
今日この時を終えれば、きっと後には何も残らない。それでいい。母は私のためにたくさんのものを犠牲にしてきたのだから、この後はすべて彼女に返すだけだ。
そのように思い、は回想から現実に戻って隣の少年の顔を仰ぎ見た。
「珍しいな、お前がそんなふうにぼんやりしているのは」
「え、あ……」
見られていたのかと思うと、の顔は一瞬で赤くなった。いつからだと両手が添えられた頬にはまだ新しいガーゼが当てられている。
「暑いか? 気が利かなかくてすまんな、木陰に行くか」
「い、いいよ。大丈夫」
「そうか。じゃあ……何から話したものか、ずっと考えていたんだが、やはりはじめから話すことにした」
「なにを?」
「つまらん話だ。でも、聞いて欲しい」
喜多川の瞳は真剣そのものだった。有無を言わせぬ迫力もある。はこっくりと首を縦に振った。
「あの家……あのあばら家に、一度来てくれたことがあったな。あのときは……ふっ、先生も驚いていたよ。俺が女の子を連れてきた、とな」
「雨宿りのためにちょっと上がらせてもらっただけだけどね」
「それでもだ。お前が帰ったあと、色々言われたよ。付き合っているのかとか、今どき珍しい礼儀正しいお嬢さんじゃないか、とか……」
付き合っているという言葉にはまた顔を赤くして俯くが、喜多川も今度は気が付かなかった。
「それからすぐに、俺は杏に出会った。と言っても、俺が一方的に彼女を見かけて、モデルになって欲しいと声をかけただけだが」
「ああ、そんな話してたね。それで坂本くんたちとも友達になったんだっけ」
「はじめはそんな雰囲気でもなかったがな」
「そうなの?」
「ああ、俺の目的はあくまでも杏だった。彼女にモデルになってさえ貰えればそれでよかった。だというのに、あいつらまでやって来て……先生に盗作の疑いがあると言い出したんだ」
はっと息を呑んで、は喜多川を見上げた。
喜多川は相変わらずあばら家を見つめている。その瞳はどこか寂しげで、の心を強く締め付けた。
知り合ってから、斑目の悪しき行いが発覚してからも、今まで喜多川が師である斑目一流斎の盗作について触れたことはなかった。
お互いにあえて避けてきていた話題をなぜ今このときにしようと言うのか。意図を汲み取れず、は黙って言葉の続きを待った。
「当然、俺は激怒したよ。先生がそんなことをする筈が無いと。笑える話だ。誰よりも俺こそがその事実を間近で見ていたというのに」
「それは……やっぱり、きみの絵も」
「ああ。着想を譲る、という形で何枚かが先生の作品として世に出た。あんな未熟なものでも斑目一流斎の名が付けば評価を受けるのだから、おかしな話だと思うよ」
「喜多川くんの絵がきれいだったのもあるんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「ありがとう。だが、今となってはそれもわからん。あれらには曰くがついてしまった。今後正当な評価を受けることは難しいだろうな」
「そっか……」
「そう残念がらないでくれ。俺はこれからも絵を描き続けるし、画家になる夢を諦めるつもりはない」
決然と言い切った喜多川を見上げる目は眩しいものを見るように細められている。実際に、には喜多川の姿が燦然と輝いているように感じられていた。夢を語り、努力して突き進む彼の姿の美しさこそを描けばいいのにとさえ思えた。
「話がそれたな。それで、そう、あいつらがやってきて……それからしばらくして、先生は記者会見を開くと言い出した。内容は知らされていなかったが、俺には何を言うつもりなのかわかっていた」
「うん」
「何もかもが先生の口から語られて、すべてが一変した。先生は人が変わったようになったよ。……怪盗が先生の歪んだ心を盗み出したんだ」
怪盗、と少女は舌の上で言葉の意味を確かめるように反芻した。
そんな彼女の手に一枚のカードを渡してやる。斑目に突き付けられた予告状の予備だが、はコピーかなにかと思っているのだろう。まじまじとそれを眺めて驚いている。
「これ……っ、噂だと思ってたけど、本当に……? いや、でも、どうやって……」
「どうやって人の心を盗んだのか、か?」
「……うん。だって、そんなことできるわけないじゃないか。心なんて、目にも見えないものを盗むなんて。盗むというのがなにかの暗喩だとしても、長年続けてきた犯罪行為を止めさせるだけならともかく、あんなふうに世間に公表させるなんて……」
「そうだな。だが当時の俺はそんなことより、先生が罪を犯していたからといって、それをわざわざ正してくれようとする奴がいることにこそ驚いたよ」
の手からカードの予備を奪い取り、日に透かすようにかざす。小さな紙切れはわずかに陽光を遮り、二人の足元に小さな影を作り出した。
「縁もゆかりもないどころか、俺を良くも思っていなかっただろうに、それでも、自らの身を危険に晒してまで……」
夏の日差しによって作られた影は濃く、はっきりとしている。それを眺めていたの目がゆっくりと、しかし確かに疑惑に染まるのを、喜多川は楽しげに眺めている。
「俺は救い出された。ずっと逃げ出したいと思っていた場所から自由になれたんだ。名残惜しく思うことも、寂しく感じることもあるが、これで良かった」
喜多川の手がもう一枚のカードをどこからともなく取り出していた。
それにはただ、怪盗団のマークだけが印刷されている。
「、お前はどうする」
「え……」
「『怪盗団』はここに、この予告状にお前の母親の名前を刻むことができる」
「待って、どういう……」
「わからないのか?」
挑発的な言葉に反応するようにの脳は急速に回転した。いくつものキーワードが集まり、渦巻いて道筋を作る。
「……高巻さんと出会って、彼らとも知り合って、その関係は始め良好なものとは言い難かった……やがて斑目先生は人が変わったように……」
じっと足元を睨みつけていた目が喜多川に向けられる。彼は珍しく本当に楽しそうに笑っていた。
「それからきみは……」
「俺は彼らと共にある」
「きみは……!」
は弾かれたように立ち上がり、顔を青ざめさせて喜多川と対峙する。鞄を抱きしめる腕は震え、己が至った結論を信じ切れずにいる様子だ。
「お前の考えていることは正しい」
肯定に少女は愕然とした顔をする。喜多川はそんな彼女を前屈姿勢で下から覗き込んだ。
「、お前の望みを教えてくれ。お前が本当に望むことを」
「の、望み……?」
「そうだ。お前はどうしたい?」
「私は……?」
の目は喜多川の手の中にある無記名の予告状を見つめている。
喜多川の師はあれを受け取って人が変わり、己の罪を洗いざらい打ち明けて罰を受け入れた。では、己の母の名がそこに刻まれたとき、なにが起きるのだろうか。
暴力を振るわなくなる? 束縛が消え、好きな進路を選ぶことができるようになる? 自由な交友関係を手に入れることができる?
そうしたら、また、目の前のこの少年と一緒にいられるのだろうか?
思い、はすぐそばにその張本人が居ることに顔を赤くした。
彼女がこの少年に好意を抱いていることは本人以外のほとんどの者が気が付いている。あるいは少年もまた、薄々勘付いていながら気が付かないふりをしている節があった。
だからと言う訳ではないが、喜多川には己が卑怯な真似をしている自覚があった。が己を律して決して振るわなかった強権、二人の間に横たわる感情を振りかざして意のままに口を割らせようとしている。
目論見はほとんど成功していると言ってよかった。の唇は震えながらなにかを吐き出そうとしている―――
だが、それを遮るものがあった。呪いの言葉だ。
『お前なんて産まなければ……』
ビクッと跳ねるように震えた肩に、喜多川は怪訝な顔をする。少女の顔は悲壮に歪んでいた。
「私……私は……」
小さな震えはやがて全身に伝播し、がくがくと膝を震えさせるにまで至る。強い日差し以外の要因から汗をかき始めた少女の目は眩しい太陽の輝きを受けてなお瞳孔が開き切っていた。
「?」
「やめて!」
乾いた破裂音が鳴り響いた。伸ばされかけた喜多川の手をが勢いよく払ったのだ。
「私は……そんなことを望んじゃいけない……私が……私のせいで……」
変化は唐突で、そして急速だった。の息はすぐに荒々しく、また不規則になってぜいぜいと喘ぐようになる。その額にはびっしりと玉のような汗が浮かび、つっと頬を伝って涙のように顎から滴り落ちた。
「ううう、私は……わたし……」
震えながら何かを訴えようとし、その度に母親の言葉が蘇って彼女を苦しめている。苦しみから逃れようと声を発するが、自制心がそれを抑え込むためにまた母親の声を再生させる。少女はその小さな体の中でずっとそれを繰り返していた。
突然苦しみ始めた彼女に、喜多川はただただ驚いている。
たった一言助けて欲しいと言うことは、彼女にとってそこまでのことなのか?
血の繋がりと言うものの力の強さを改めて思い知らされたような気になって、喜多川は強く歯を噛んだ。
親というものを知らぬ己には彼女の苦しみを理解してやることは出来ないのか。多くの者が当然持つ家族というものを知らない自分では、たった一人の友人を助けてやることもできないのか。やはり自分には人の心を理解することは出来ないのか?
思い悩む少年の脳裏に、ふと師の姿が過った。それは暴君として君臨する姿ではなく、怪盗たちに心を奪われたときのものだった。ただ背を丸めて小さくなり、横たわって「すまない」と呟いた老人の背中―――
あの時、多くの者の心と芸術を踏みにじってきた師を改心させた時、喜多川はやり遂げた満足感と共にほんの少しの後悔も抱いていた。間違ったことをしたとは決して思わないし、決行に際して一瞬たりとも迷うことは無かったが、それでも物心ついたときから自分の面倒を見てくれた人の罪を暴き、贖罪の責に就かせたことは今も小さなしこりとなって胸につかえている。
先生のあんな小さく丸まった背を見たくなかった。彼の行いを憎みつつその威厳を今も求めているのだから、大きな矛盾であると言えるだろう。
少年は苦しみ続ける少女に目を向けた。きっと事を為した時、彼女もまた同じものを抱くのだろう、と。
しかし一方で自分は今笑えているではないかとも思う。それは自他ともに認める喜多川の変人ぶりに呆れたり引いたりしながらも共にいてくれる友人たちのおかげだ。
はじめから喜多川の望みは一つだけだった。この友人に笑っていて欲しい。共にあるとき常にそうであったように、ただ笑って経験を共有して欲しい。現状の苦痛から逃れたとて多くの問題が積み重なっているだろうが、それは今目の前で確かな傷を負う少女を諦める理由には決してなりはしない―――
喜多川は渾身の力を込めての両肩を掴むと、全く遠慮せずに前後に揺さぶり、強引に顔を上げさせた。
「俺はお前とまだ友人でいたい。だが、お前自身が拒むと言うのであれば、当然嫌だが承知しよう。けどな―――」
声にははっきりと怒りや苛立ちが滲んでいた。これまで喜多川がこのように振舞うさまを見たことが無かったからだろう、は目を白黒させて聞き入っている。
「どうしてそれをお前の母親に決められなければならない。俺はお前と友人付き合いをしているのであって、お前の母親とではないんだ」
「き……たがわ、くん……」
「、俺が必要としているのはお前だ。円じゃない。が俺には必要だ」
かくっ、との膝から力が抜けた。
驚きはしたが、熱されたアスファルトに膝がつきそうになるのをすんでのところで両の二の腕を捕まえて防いでやる。膝を突きつけ合うような格好になって、やっとの呼吸は落ち着きを見せ始めた。
「喜多川、くん、に……」
「ああ。いけないか?」
首はかすかに左右に振られた。
「今日は、きみに怒られるんだと……」
「怒っているが?」
「ちがくて……もう、顔も見たくないって、言われるのかと……」
「俺が? 何故だ?」
「皆そうだった。すぐに諦めるか、怒るか、呆れるか……それが当然だと……思って……」
「俺をそんな連中と一緒にしないでくれ」
傲慢な物言いだった。思わず笑ってしまうくらいに。
「あは……喜多川くん、あはは……」
は俯いているからその顔は伺えない。ただ、声の調子からして泣いているわけではないのだろう。
「……嬉しい」
「そうか」
「そんなこと言われたことない」
「そうか」
「お母さんにも……」
「……そうか」
少女は今や正常な呼吸を取り戻していた。
深呼吸の後、胸に当てていた手をゆっくりと喜多川に伸ばす。もとから二人の間に距離など無いに等しかったから、手はすぐに喜多川に触れ、縋るように弱々しく胸元を掴んだ。
「喜多川くんは知ってるんだね。憶測ではなく、私がどんなふうに扱われているのかを」
「ああ」
「どうして……いや、聞くのもおかしな話か。人の心を盗めるのなら、盗み見ることなんてもっと簡単だ」
そこは苦労もしているのだが―――あえて言うまいと口を閉ざす。
「すまない、お前は聞かずにいてくれたというのに」
「でも、今話してくれた」
「……ああ」
下を向く少女の髪が重力に従って垂れ、そのうなじを露にしていることに今更ながらに気が付いて喜多川は息を呑む。そこにはまだかすかに、人の手指によるものと思われる痣が残っていた。
ぞっと背が粟立つのを感じる。喜多川はもちろん、モルガナとて結局は彼女が受けた仕打ちの一端を垣間見たに過ぎないのだとその痣は物語っているようだった。
それでも彼女は顔を上げた。瞳は乾いていたし、汗もすっかり引いている様子である。そのことに喜多川は安堵した。
「私も喜多川くんと友達でいたい」
語調もまたこの夏の日差しのようにからりとしている。決意に満ちた瞳には一種の爽やかさのようなものすらあった。
それは喜ぶべきことだが、しかし喜多川は目を見開いて幾度かの瞬きを繰り返す。拍子抜けしたとその顔は物語っていた。
「そんなことでいいのか」
「え?」
「俺はてっきり……自由になりたいとか、その、酷い扱いを改めてほしいと……言うのかと」
は曖昧に笑って首を傾けた。これといって言うことは無いということらしい。
「いや、そうか。うん……わかった」
腕を掴んでいた手をそのままに立ち上がらせる。急に高くなった視界にか、は立ち眩みを起こしたようにふらついた。
「大丈夫か」
「うん。流石にちょっと暑いね」
痣の残る細い首から乾いた笑いが漏れる。確かに、と喜多川もまた首肯して返した。
「上がっていくかと言いたいところだが、ここはもう俺の家じゃないからな」
喜多川の目はあばら家を捉えている。その瞳には寂寞の念が浮かんでいた。幼年時代を過ごしたかつての我が家を懐かしがっているのだ。しかし戻りたいとは露とも思っていないのだろうことは声の様子から察せられる。
は掴んでいた手を放し、倣うようにあばら家を見上げた。
「お母さんはいつも、家の中こそが楽園で外は悪いことばかりだと言ってる」
「ああ、なるほど……」
合点がいったと頷いてみせる喜多川に首を傾げつつは続けた。
「でも私にとっては……なんだろう。もう分からないや。……喜多川くん」
「なんだ?」
あばら家からに目線を移すと、少女は微笑んで彼を見上げていた。
しかしその笑顔に反し、喜多川に向かって伸ばされる手は小さく震えている。彼はほとんど反射的にその手を取った。
「私を助けてくれる?」
握った手に力がこめられるのを感じ、喜多川は呼吸を忘れそうになった。
悪くない気分だ。全能感がその身をくまなく満たしていくのを感じ、背筋を昇るものがある。
彼は正直にそのことを明かした。
「お前にそう言われると、どんなことでも成し遂げられそうな気がする」
「ふっ、なあにそれ、変なの」
思わずと吹き出して笑う少女の笑顔は無邪気で、ほんの少し前までの日常にあった姿そのものだ。
喜多川は心から安堵して、握った手の形を確かめるように力を込めた。
この暑い日差しの中だ、触れ合う皮膚と皮膚の間には汗の感触があった。しかし不快さは無い。
ふと、が緊張を示すようにごくりと喉を鳴らしてつばを飲み、喜多川を見上げる。
「あの、」
「どうした?」
「その……」
歯切れの悪い言葉の続きを彼は辛抱強く待った。
やがて少女は頬を赤く染めて
「このまま……手を繋いだまま、少し、歩きたい……」と蚊の鳴くような声で告げる。
願いと言うにはささやかなものだった。そんなことでいいのかとすら喜多川には思える。
彼はこれを受け入れた。
「構わない。駅まで送ろう」
「……ありがとう」
二人は並んで、手を取り合ったまま歩きはじめる。
うだるように暑い夏の日差しが肌を叩いたが、その足は決して急ぐことはなかった。
「暑いね。去年もこんなに暑かったっけ」
「どうだろうな。喉元過ぎればと言うくらいだ、忘れているだけで昨年もこんなものだったと思うが」
「でも、子供の頃はもう少し涼しかった気もする」
「それは……確かに。年々夏の暑さが厳しくなっているのかもしれないな」
益体もない会話のキャッチボールは延々と続いた。
手を繋いでいること以外は二人のかつての姿であった。
喜多川は心からこれを喜び、安堵した。またその胸はこの少女を救ってみせるという決意にも満ちている。
それははじめから彼の心にあるものだったが、より強固に、はっきりとした形を取って現れた。
「……」
「どうしたの?」
「いいや、なんでもない……」
「そう? あ、そうだ、気になっていたのだけど、どうやって―――」
とはいえ、彼はそれをあえて表に出そうせず、いつも通りの涼やかな笑みで誤魔化してしまう。
急ぐ必要はもう無かった。