03:Ace in the Hole

 少年たちは心行くまでアミューズメント施設を満喫し、十六時ごろに解散した。
「じゃあ、私はこの駅で降りるから」と立ち上がったを見送る際、鞄からするりとモルガナが降り立ちその後を追う。これこそが今日の主目的である。
 夏の日はまだ高く、長期休暇中ということも手伝って一同は帰宅前に一度アジトに集うこととなった。
「あー……っつぃ……」
「窓開けろ窓、っはー……あー……」
 どろりと溶けだしそうな高巻と坂本が窓辺にだらしなく腰を下ろすのと、アイスコーヒーとジュースを乗せた盆を持った部屋主が階段を上がってくるのはほとんど同時だった。
「ありがとう」
 アイスコーヒーを受け取って喉を潤し、襟元を緩めた新島が言う。
「ふう……後は、モルガナの帰りを待つだけね」
「何時ごろになるだろうか」
 同じくコーヒーで唇を湿らせた喜多川が。
「どうかな。モルガナは電車にも乗れないし、歩きでここまでとなると夜中までかかるかもしれない」
「そっかぁ……ねえ真、どうする?」
 窓辺からのろのろと離れてコーヒーを受け取った高巻が新島に視線を送る。新島は少し考えて
「参考書なんかは持ってきてないし、一時間だけ待たせてもらおうかしら」と答えた。
「あーん、そっか。じゃあ私もそれくらいで帰る……モルガナ、大丈夫かな?」
 坂本が答える。
「大丈夫だろ。追跡と潜入ったってただの民家だし」
「ん……そうなんだけど……」
「……あのね、みんな」
 言葉を濁した高巻の言を新島が継いだ。
「私たちも見たのよ、彼女の身体を」
 男たちはぎょっとして二人を見る。聞きたいことは様々あったが、言葉は慎重に選ぶべきだろう。
 そんな緊張を察したのか、高巻がじとりとした目を向ける。
「言っとくけど、見たのは腕だけだかんね」
「ええ。彼女のカーディガンに水がかかってしまって……袖をまくって、それで少しだけ」
「……どうなっていた?」
 屋根裏の床を這うような低音で問いかけたのは喜多川だ。彼の目は手元のコーヒーに落とされている。手指は微かに震え、コーヒーの水面に細かな波紋を描いていた。
「痣があったわ」
「形に見覚えがあったの。ほら、パレスで鞭使ってるでしょ。あれでブッ叩いた跡と似てた」
「鞭跡って言うんだけど……でも、現実でああいうものが振るわれるとは考えづらいから、多分ベルトかなにかで叩かれたんじゃ……」
「二人とも、ストップ」
 制止を呼びかけられて少女たちはハッと我に返る。その顔は青ざめていた。自分たちが見たものを認めがたいとその表情が物語っている。しかしそれも、喜多川に比べれば小さな変化だろう。
 彼の顔は蒼白で、歯を食いしばってなにかをこらえているようだった。
「祐介、大丈夫か?」
「ああ―――」
 応え、その手のグラスを一度にあおる。逸らされた喉に浮いた喉仏が嚥下に動くのを仲間たちはじっと見つめていた。
「……俺が確認したとき、腕にそんな痣は無かったはずだ」
「それって」
「ああ……その後に……夏休みに入ってから……つけられたんだろう……」
 空になったグラスを両手で持つと体の震えに呼応して氷がカランと鳴く。
 一同は今度こそ言葉を失って、沈黙した。
 しばらく屋根裏を、まだ営業中の喫茶部分でつけられているテレビの音声と風に揺れる風鈴の音、煌々と輝く街灯を太陽と勘違いしたセミたちの微かな鳴き声が満たした。
 誰もがなる少女の身上に思いを馳せている。
 家庭内という閉ざされた空間で、あの子が暴力を振るわれるような大層な理由があるのだろうか?
 赤ん坊のように泣き叫んで騒音をまき散らしたのか。小さな子供のように悪戯を仕掛けて混乱を招いているのか。自分たちに見せた礼儀正しい言動は表向きで一歩家の中に入れば傍若無人な振る舞いをし、その罰として……?
 どれも違うのだろうと彼らは理解している。
 誰もが何かを言おうと、せめてこの雰囲気だけでも取り換えようと考えていたが、言葉は上手く出てこない。こういう時こそあの靴下猫の出番なのだが、彼は今出張中だ。
 救いの手は自然によってもたらされた。窓から爽やかな夏の風が舞い込み、屋根裏に籠った空気と重苦しい雰囲気を吹き飛ばした。
 首筋に浮いた汗が風を受けて冷やされるのを感じ、高巻は弾かれたように立ち上がった。
「私……思い出したの」
 全員の視線を受けて、それでもひるまずに彼女は続けた。
さんの痣を見て志帆のこと思い出した。一番最初の気持ち……私はやっぱり嫌なんだ、誰かが殴られたりして、なのに痛いとも助けてとも言えないなんて……」
 そんなの間違ってる。
 毅然と言い切り、彼女は喜多川の前に立つ。
「祐介、さんのこと、絶対に助けよ。このまま見ないふりなんてできない」
 もしも誰かに高巻杏とはどういう人物かと問いかけられたとき、こういう女性だと答えればいいだろう。誰もがそう思った。
 快活で気風がよく、情熱的。己の意思を言葉にする力を持ち、それを実現するための努力を怠らない。
 そんな彼女の姿勢に鞭入れられたことが幾度あっただろうか。付き合いの長い坂本などはそう思う。
「当たり前だろ。なに言ってんだよ今更」
 感謝の気持ちなどおくびにも出さず、全員の顔を見回す。心は同じ様子だった。
「この場にモルガナがいないのが惜しいな……ともあれ、俺たちの心は一つだ。やるぞ―――」
 「ジョーカー」が汗をかいたグラスを持ち上げる。景気づけの乾杯をしようと言うのだ。皆、グラスを屋根裏部屋の古ぼけた蛍光灯に掲げる……
 カラン、とやや間の抜けた音が響いた。
「あ」
 喜多川が空になったグラスを悲し気な目で見つめている。
「おかわり、いる?」
「……もらえるか」
「うん……」
 しまらねえな、と、階下に降りて行く癖っ毛を見送りながら坂本がぼやいた。


 その頃、モルガナは首尾よくの家に潜入していた。
 彼にとっては容易いミッションだった。ただの後をついて歩き、彼女が家に入ったらその周囲をぐるりと確認して己が入り込めそうな隙間を探すだけ。もちろん、入り口は首尾よく発見することができた。
 庭付き二階建ての一軒家、その二階部分、隣家に面した側面の窓が換気のためだろう、わずかに開けられていたのだ。
 入り込んだ室内をぐるりと見まわして、モルガナはそこが女性の部屋であろうとあたりをつける。
 壁に掛けられたハンガーに女性ものと思わしきジャケットやカーディガンが下げられていたからだ。人間のファッション事情には疎かったが、しかし華やかな色合いは若者向けと思われる。
(となればここは……のほうの部屋か?)
 きょろきょろと更に視線を巡らせる。
 部屋には寝台と本棚、勉強机と姿見がそれぞれ一つきり。廊下に続くのであろうドアの他に大きな三枚スライド式の引き戸が壁の一面に取り付けられている。恐らくはクローゼットだろう。
 モルガナの目は自然と本棚へ吸い寄せられた。
 人間の文化に明るくは無いが、モルガナにとって最も身近な人間である少年の本棚と比べるとかなり様相が違っているように思えた。あれの本棚は雑多でまとまりがなく、娯楽性が高い本や雑誌が多いが……こちらは部屋の主の勤勉さを物語っているようなラインナップだ。
 システム英単語、古典文法基礎、大学受験プラン、様々な科目の基礎問題集にセンター試験過去問研究……横文字のタイトルが刻まれた本も多く見受けられる。モルガナは感嘆の声を漏らした。
「リュージに見習わせたいなこりゃ……いや……」
 くるりと一回転して改めて部屋を見回す。
(あの屋根裏にだってボロいテレビくらいは置いてあったぞ……)
 この部屋にはおよそ年頃の少女らしい娯楽が一つたりとも見当たらない。ならば円の寝室なのかと言われれば……猫であるモルガナの鼻にはのニオイが充満しているのが分かってしまう。
 ここが彼女の部屋なのだと確信して、モルガナの尾は自然と垂れ落ちた。
 なにしろこの部屋で勉強に関わりのない物と言えば本棚の上に置かれている救急箱くらいだ。彼女はこの部屋でどうやって過ごしていたのだろう。
 やるせない気持ちから逃れるようにモルガナは廊下へ続くドアに飛びついた。器用にノブを捻り、するりと廊下へ進み出る。
 途端、階下から食欲を刺激する香りが立ち昇った。誰かが夕飯の支度をしているのだろうことが察せられたが、これは恐らくだ。モルガナは慎重に階段を降りて行った。
 階段を降りて左手すぐがリビングダイニングに繋がっている。その更に奥にはii型キッチンが設えてあって、そこをが慌ただしく行き来していた。
 モルガナは素早く死角へ滑り込み、しばらくの行動を見守ることとした。
 不規則に響く水音や調理器具がぶつかり合う音、の足音と立ち昇る美味しそうな香りにモルガナがうとうととし始めた頃だった。
「ただいま」
 遠くから聞こえた声にモルガナはパチっと目を開いて声の主が現れるのを待った。数秒と待たず、30代後半と思わしきスーツ姿の女性が姿を現した。
「おかえりなさい、お母さん」
 ちょうど出来上がったらしい品々をテーブルの上に並べ、が笑顔で女を迎え入れる。手にしていた鞄を受け取りリビングの隅の棚に丁寧に収めるさまは甲斐甲斐しく、娘と言うよりは女の妻とでも言えそうだった。
 モルガナは目を細めて女の様子を観察した。
 黒髪には幾筋か白髪が混じっているが艶は失われておらず、一部の隙も無く着こなしたスーツにはしっかりと糊が効いている。薄く化粧を施された顔は疲れこそ滲んでいるが、高校生になる娘がいると考えれば若々しいと思えた。
 あれがのハハオヤか。
 ふむと一つ頷いて、モルガナはますます息を潜めた。
「ちょうどできたとこだよ。さ、食べて」
「ええ。いただきます」
「召し上がれ」
 母娘の会話はそこで途切れた。
 リビングにはテレビが置かれているが電源が入れられることも無く静まり返り、ただ規則的に動かされる食器の音だけが響いている。
 沈黙は、やがて母親によって引き裂かれた。
、今日出掛けていたでしょう。どこに行っていたの?」
「あ……友達とドームタウンに行ってたの」
「友達? 誰? まさかまだあの子と関わっているの?」
 ピリッとした緊張感が走ったのがモルガナにも感じられたが、彼の潜む位置から少女の表情はうかがえない。
「違うよ。新島さんって言うの」
「そう。……どこの学校の子?」
「えっと、秀尽学園の……」
「は?」
 え、とモルガナは顔を上げた。威嚇するような声が母親から発せられているとは思えなかったからだ。
 これでは詰問ではないか。
「秀尽学園? あの犯罪教師のいた学校よね?」
「そ……そうだけど、でも、新島さんとは全統模試で知り合ったから……」
「だとしても、よ。あの学園は前科のある子供まで受け入れているそうじゃない。信じられないわ。その子と遊ぶのはやめなさい」
「……はい」
 再びの沈黙。また食器が鳴り響くだけになる。
 モルガナは驚き、目を見開いて少女の背中を見つめていた。
(はい、だって? あんなに楽しそうにマコトたちとはしゃいでいたのに? オヤにもう遊ぶなって言われたら、本当にそれで終わりにしちまうのか? それに前科のある子供って……アイツのことか?)
 不穏な気配を感じてますます身を低くする。
 母親はまた口を開いた。
「他にも誰かいたの?」
「……同じ秀尽の、高巻さん」
「その子はどんな子なの?」
「ハーフの子で、バイリンガルなの」
「ふうん……それだけ?」
「……モデルをしているって」
「まだ高校生でしょう? 仕事をしているということ?」
「そう言ってた」
「学生は勉強をするものでしょう。それにモデルだなんて、ふしだらだわ」
「でも、高巻さんは真剣に―――」

 名を呼ばれ、消え入るような声で「ごめんなさい」と言ったきり少女は黙り込んだ。
「わかっているわよね」
「はい……」
「一緒に行ったのはその二人だけなのね?」
 一瞬だけ間が空いてから、少女は「はい」と肯定した。
 嘘だとモルガナは思う。その場には他に三人の男子が居たではないか、と。
「……、あなたまだあの犯罪者の弟子と連絡を取り合ったりしていないでしょうね?」
 犯罪者の弟子―――
 誰のことだろうか、とモルガナがぱちくりしている間に答えは与えられた。
「喜多川くんはそんな、確かにお師匠様は悪い人だったかもしれないけど―――」
 合点がいって、モルガナはフンと鼻を鳴らす。なるほど、犯罪者の弟子、か。確かにそうだ。
 しかし言い方が気に食わない。もっと言ってやれ、とモルガナが思う目の前に、突然彼女は倒れ込んだ。
!!」
 遅れて母親の叱責の声が飛ぶ。
 少女が怒髪天を衝いた母親に頬を張られて椅子から転げ落ちたのだと理解するのには時間がかかった。
「あなたはまだそんなことを―――」
 伏していた顔が上げられる。モルガナにはその顔がはっきりと視認できた。赤く腫れた頬と、鼻からは出血が認められた。
 母親がその肩に手をかけ、追い打ちと言わんばかりに腕を振り上げるのを見てモルガナはもう我慢ができなかった。
「いい加減にしろ!!」
 声を上げ、振り上げられた腕にしがみつく。もちろんその声は彼女たちには「ニャー」としか聞こえていないだろう。
 か細い悲鳴を上げて振り払われた腕から離れ、空中で一回転してからテーブルの上に着地する。背中の毛を逆立てて威嚇音を立てても、母親の怒りは鎮まる様子を見せないどころか、ますます興奮を煽ったようだった。
「猫……!? どこから入ったの!?」
 母親の腕が今度は棚に置かれていた雑誌を掴んで振り上げられる。ひらりとそれをかわし、テーブルの上のコロッケを一つ失敬してから飛び降りる。脱出経路を探る目が少女とかち合った。
「……逃げて」
 唇の動きだけでそう訴えた少女に頷いて走り出す。母親の足元をすり抜けてリビングを脱し、玄関へ。当然ドアは閉ざされていたが、施錠された音は聞こえなかった。であれば―――
 ぴょいと飛びついてドアノブを叩けば、ドアは易々とモルガナを外の世界へ導いた。
「待ちなさい!!」
 追いすがる声をものともせずに走り抜ける。靴下猫の黒い体はあっという間に夕闇に紛れて人の目には捉えられなくなった。


 時計の針が二十三時を示した頃になってからモルガナは帰還した。
 部屋にはまだ坂本と喜多川が居て、二人はどちらが床で寝るかをカードゲームで決めようとしているところだった。
「ワガハイが苦労してたってのにお泊り会かお前ら!」
 バンバンと窓ガラスを叩いて帰宅を教えながら吠えると、すぐさま屋根裏部屋の主が食事を用意し始める。
「あ、飯ならいらねえぜ」
「えー、開けちゃったよ」
「あーあ、悪いけど入んないぜ。腹いっぱいなんだ」
 床にキャットフードと水が置かれる。モルガナはまず水に飛びついて喉を潤した。
「ニャハー! 生き返るー!」
 満足げに口周りを撫でる横で喜多川が「フォーカード」と言って坂本を打ち倒した。
「っだー! なんで勝てねえんだよ!」
「さあな。……それで、モルガナ。首尾を聞かせてくれ」
「その前に満腹の訳を聞かせろ。外食なんて許さんぞ」
 ニュッとモルガナに顔を寄せた少年の顔は恨みに満ちている。
「ケチくっせえなぁ……がご馳走してくれたんだよ」
「なにっ!?」
「ここ、これ、これ」
  カシカシ、とモルガナの前足が巻かれた首輪を掻いた。そこには小さな紙切れが挟まれている。
「なんだこれ……」
 坂本の手がすいとそれを抜き取る。几帳面に折りたたまれた紙はノートの切れ端のようで、そこにはこのように書かれていた。
『この猫ちゃんの飼い主さんへ
 お腹が空いていたのか、タマネギの入ったコロッケをかじってしまいました。
 ご存じかとは思いますが、猫にタマネギは猛毒です。
 しばらく様子を見て、吐き戻したりはしませんでしたがもしも家に帰ってから
 この子が具合を悪くするようなことがあればこちらにご連絡ください。』
 文末にはの携帯番号が添えられている。
 また追伸として
『勝手なこととは思いましたがコロッケとは別にキャットフードを与えました。
 無断での外食を許してあげて下さい。きっと迷子になってお腹が空いて心細かったんでしょう。』とも。
 モルガナは肉球でぱしぱしとこの手紙を叩いて訴えた。
「見ろ! このの気遣いのできる子っぷりを! お前らも見習え!」
「つーかお前潜入しに行ったんだろうが、なに普通にに飯食わせてもらってんだ」
「それは、成り行きというか……」
「……何を見た?」
 モルガナは珍しいことに躊躇する様子を見せた。チラと喜多川を伺って、いいかと目で訴えすらする。
「……俺のことは気にするな。大丈夫だ。多分……」
「多分て。いいけどよ……にひでーことしてんのはハハオヤで確定だ」
「見たのか?」
 容赦のない少年の追求にモルガナは一拍置いて頷いた。
「目の前で殴られて、鼻血出してた」
 ギョッとして目を見開いたのは坂本だ。女の子の顔を鼻血が出るほど強く叩く……彼には想像もつかなかった。その横では顔をしかめ、唇を噛み締めた喜多川が拳を震わせている。
 モルガナは首をふりふり、己が見たものをつぶさに語ってやった。
「……それで一度はあの家から逃げ出したんだけど、の怪我が気にかかって引き返したんだ。幸い、部屋の場所はわかってたからな」
「それでご飯をもらった、と」
「うむ。美味かった!」
「なんだよお前だけ」
「うっさい! お前らは昼間しっかり食べてただろ。ワガハイは切れ端くらいしかあん時もらえなかったんだぞ!」
 はいはい、と受け流して話題を修正する。
「交友関係すら縛りつける母親、か……」
「なんか、こえーな」
「俺はその母親に弾かれたということか」
「ん……ワガハイが聞けた範囲だとそうなるな」
「でもよ、親に言われたからって友達辞めるか? 俺ならお袋に殴られてもお前らとつるむの辞めないぜ」
 坂本の率直な疑問に呆れた目が向けられる。
「お前が言ったんだろ、家庭内暴力は被害者の心も歪ませるって」
「あ……」
「パレスがにまで存在するのはそういうことだろう」
 喜多川の言にモルガナが大きく頷く。
「なんにせよ、家の場所も分かったし、あとはキーワードか……」
「杏と真にも伝えといた。でも返信こねぇから寝たか風呂だな」
「俺たちだけで考えてみるか」
 男たちは額を突き合わせてスマートフォンに目線を落とした。
「まず……パレスの場所はの家だって考えて間違いねえよな」
 ぴっと人差し指を立てて坂本が言う。二人と一匹は頷いた。
「次にパレスの持ち主……これは円のほうでいいんだよな?」
「場合によってはのほうもオタカラを奪う必要があるかもしれないが……一先ずはそれでいいだろう」
 中指が人差し指に並んで立てられる。
「あとはパレスの形状を示す言葉か……」
 腕を組む喜多川の言葉に、坂本は体を揺らしながらこたえた。
「単純に家とか?」
「単純すぎる」
はあの家で暴力を振るわれてるんだろう。やはりそれに関連しているのでなはいか? 牢獄、とか」
 上げられる無数の言葉を喜多川がクロッキー帳に書き留めていく。それを覗き込みながら、モルガナはごろりと横になった。
「ほどほどにしておけよ。どうせお前らが無い頭絞るよりマコトに頼ったほうが確実だろうし」
 なんだと、と彼らは怒りを露にしたが、モルガナの言うことももっともであるとして早々に横になった。
「ていうかモルガナがこんな早く帰ってくるんなら帰っときゃよかったわ……」
「そうだな……」
 ベッドの上で寝返りをうった少年が唇を尖らせる。
「俺の『城』になにか不満が?」
「ありまくりだわ」
「埃っぽい」
「べっきぃが掃除の手を抜くんだ」
「誰だよっ」
「俺のメイド」
「メイド!? お前、まさか、あの時のっ!?」
「なんの話だ……?」
「うっせーぞお前ら! 寝ろよっ! ワガハイはくたくたなんだよっ!!」
 モルガナが吠えるが、しかし少年たちは日付が変わっても雑談に興じて眠らなかった。


 翌日の昼過ぎに怪盗団はの自宅近くに集合した。
「あれがさんのお家?」
 庭付き一戸二階建ての家を眺めて新島が感嘆の声を上げる。外壁を見るに築年数もまだ浅そうだ。
「もしかしてさんってお金持ち……?」
「普通だと言っていたが」
 普通って何だろうかと少年たちは眉を寄せたが、やがて我を取り戻して各々の手にスマートフォンを構える。
 坂本たちはさっそく昨夜上がった単語を一つ一つ試していくが―――
「一個も当たんねえ……」
 がっくりと肩を落として吐き出された言葉通り、一つとしてイセカイナビは拾い上げなかった。
「んー……モルガナ、さん何かそれっぽいこと言ったりしなかった?」
「すまないアン殿、それらしい言葉には……せめて会話ができれば……」
 しゅんと尾と耳を垂れるモルガナの傍らにしゃがみ込み、高巻はその小さな額を撫でてやる。
「あうぅアンどのぉ……にゃふぅん……」
 モルガナはゴロゴロと喉を鳴らし、尻尾をパタパタと降り始める。
「んっふっふ、ほらおいで~モルガナ~」
 高巻の腕がひょいと猫の身体を抱き上げ、しゃがんだその膝の上に乗せてやる。両手で喉周りをぐしゃぐしゃとかき回してやれば、モルガナはますます心地よさげに目を細め、声を上げた。
「んにゃあ~ん、あうあう、こ、ここが楽園か……」
 途端、そのすぐそばに立っていた少年のスマートフォンが反応する。
『―――ヒットしました』
 モルガナ以外の全員が驚いてそちらに目を向ける。高巻などは驚いた拍子に立ち上がってしまい、膝からモルガナが転げ落ちて悲鳴を上げた。
「え? なんで?」
「ちょっと待って、モルガナ、今なんて―――」
 混乱する一同を置き去りにするように周囲の風景が歪み始める。

『ナビゲーションを開始します』

 平坦な声を残して少年たちは現実の世界から掻き消えた。


……
 瞬き一度の間に、彼らは認知世界へ飛び込んでいた。
 真っ先に感じ取ったのは柔らかな木と水の香りで、次に葉擦れの音と複数の鳥のさえずり……
 驚愕する彼らの目に移ったのは緑豊かな森林の光景だった。
「これは……!?」
 少年たちを取り囲んでいたのは深緑樹と清流、そして花々だった。
 木々の切れ間から陽光がカーテンのように落とされ、淡い色の花々が咲き乱れる足元を照らしている―――
「きれい……」
 飾り気のない素直な感想が高巻―――パンサーの唇から漏れた。誰もそれに異を唱えない。言葉にはせずとも皆同じ気持ちだったのだ。
 認知世界の様相の豊富さにはいつもながら驚かされるとはいえ、今回に至っては別格であった。
「これ……パレスなのか?」
「そ、そのはずだぜ」
「楽園……」
 ポツリと呟かれたクイーンの声にスカルが反応した。
「えっ?」
「モルガナは楽園と言ったのよ。それをナビが拾い上げた……」
の母親にとってあの家は楽園だと言うことか?」
「あるいは、さんにとっても」
 これにフォックスが反論の声を上げる。
「馬鹿な、ありえん!は暴力を振るわれているのだろう!? 他でもない母親に……!」
「落ち着け、フォックス」
 ジョーカーの声にフォックスは縛られたかのように硬直する。彼はすぐに己を取り戻し、恥じ入るように唇を噛み締めた。
「すまない、クイーン。俺としたことが……」
「いいのよ。私も失言だった。憶測でものを言うべきじゃなかったわ」
「この場所のどこかにハハオヤのオタカラがあるはずだ。それでハッキリするさ」
 二本足の感触を確かめるように足踏みをしながらモナが言うと、一同は決意を改めるように頷きあった。
「ねえ―――あれ、見て」
 何かを見つけたらしいパンサーが中空を指し示す。仰ぎ見ると木々の切れ間から小高い丘がのぞき、そこに白い石柱が並んでいるのが窺える。
 一同の足は自然とその建築物らしき方向へ進み、程なくして石灰岩らしき基礎の上に建てられた西洋風の神殿が現れる。
「これがパレスの本体、か?」
「ああ、微かにだがオタカラのニオイがする。それに、あそこを見ろよ」
 今度はモルガナが指差した。その小さな指の示す先には「」と書かれた表札がかかっている。
「ああ、パレスだなって思ったわ、今。でっけえ神殿に表札って……」
「シュール」
 頷き合うジョーカーとスカルはさておき、フォックスが鋭く一同に制止を呼びかけ、その足を止めさせる。
「待て。その表札の柱の影……あれは……シャドウか?」
 入口前に佇むシャドウとなればそれは当然門番だろう。あまり事を荒立てたくは無いが、向こうに察知されればやむなしか――
 ジョーカーは無言の内に、仲間たちへハンドサインを送る。
 戦闘準備。
 怪盗団の面々は各々の得物を手に取って構えた。じりじりと死角から距離を詰める……
「あ……」
 やはり真っ先に感づいたフォックスが声を上げる。
 門前に立ち塞がるのは白銀の鎧を身に纏い、腰には両刃の剣を下げた少女だった。
「シャドウか」
「ジョーカー、あの門番の顔を見ろ。あれはだ」
 声を潜めていたつもりであったが、の名の反応するかのように鎧姿の少女は顔を上げる。
「そこに誰かいるのですか」
 誰何する声には聞き覚えがあった。ジョーカーの位置からは顔を確認はできなかったが、その声は確かにのものだ。
「見つかったか」
「いや、まだだ。こちらがどこにいるのかは分かっていないはずだぜ」
「倒すにしても、あの顔だとちょっとやり辛いなあ……」
 武器を手にきょろきょろとあたりを見回しているシャドウの姿に高巻が困り顔を見せる。彼女の手は腰に取りつけた得物に伸びてこそいるが、触れるかどうか迷っている様子だ。
 クイーンがううん、と唸り声を上げた。
「あれは……さんの母親が認識する彼女、なのかしら」
「……本人の認識する自己かもしれないと?」
 フォックスの言葉に、クイーンは微かに首を縦に振った。
「ただ、そうだとすると……あの武装はちょっと私の知る彼女とは噛み合わないわ。フォックスはどう?」
「違和感はある。子供の頃はスポーツをしていたという話を聞いた覚えはあるが……」
「話は後にしようぜ。ジョーカー、どうする?」
 皆の視線がジョーカーに集まる。少年は少しだけ考えて
「話をしてみよう。合図があるまで待機して。何かあったら助けてくれ」と答える。
 仲間たちが頷くのを見届けて、ジョーカーは堂々と門番の前に進み出た。
「あなたは」
 彼の姿をまじまじ眺めて、門番は驚きの声を上げた。当然であろう。黒づくめの衣装に、顔には仮面。誰が見たってこの緑豊かで美しい光景には不似合いだ。
「見ない顔ですね。この楽園になにをしに来たのです」
 音を立てて剣が鞘から抜き放たれる。切っ先を向けられるが、不思議なことに警戒心は感じられても敵意や害意は感じられなかった。
 ジョーカーは正直に「円に会いに来た」と告げた。
「お母さんに? お客様が来るという話は聞いておりません」
「アポイントメントは取っていない」
「それでは、ここを通す訳には」
「どうしても会って確かめたいことがある」
 切っ先にあえて首筋を晒すように一歩詰め寄ると、門番は慌てて切っ先を下ろす。
 二人はごく近い距離で睨み合ったが、やがて門番のほうが剣を収めて身を引いた。
「わかりました……ご案内します」
「ありがとう。連れもいいか」
「ご同行者がいるのですか。……いいでしょう、その方もこちらへ―――」
 先導しようとこちらへ背を向けていた門番が首だけを巡らせて振り返るが、柱の影からぞろぞろと現れた一団にその瞳はあっという間に困惑に染まる。ジョーカーはどこか楽しげにそれを眺めていた。
 流石に四人と一匹が追加されることに戸惑いを覚えたのだろう。門番は立ち止まって少し考えるような素振りを見せる。
 その目がジョーカー、スカル、パンサー、フォックス、クイーン……そしてモルガナと順に見やると、門番はゆっくりと跪いた。
「猫?」
 手甲越しの手がモルガナの頭に伸びる。
「ワガハイは猫じゃな……うにゃあん」
「やわらかい、暖かい……」
 耳の後ろを撫でられて思わずとモルガナは首を逸らした。その拍子に首に巻かれた黄色いスカーフが顕になると、撫でる手はピタリと止まる。
「あれ」
 門番は首を傾げるとモルガナの手袋をはめているかのように白い前足を取った。
「黄色いスカーフの靴下猫……あの時の……?」
 え? とモルガナは大きな目をますます大きく見開く。
「まさかね」
 しかし門番はすぐに自嘲気味な笑みを浮かべて立ち上がった。名残惜しげな手のひらは、モルガナの狭い額を一撫でして遠ざかる。
「いいでしょう。 怪し……くはありますが、あなたたちが悪人とも思えません。無理に押し通ろうと思えば数の有利でできたはずですからね。さ、こちらへ」
 一同は導かれて神殿へ足を踏み入れた。
  本殿もまた石灰岩によって造られているのだろう。床も壁も円柱も白く、天窓からは柔らかな陽光が降り注いでいる。内部に設けられた庭にはここまでの道程と同じかそれ以上に美しく咲いた花々が見る者の目を慰めんと、誇らしげに花弁を広げていた。
 そこはまさしく楽園を名乗るに相応しい場所であった。だからこそ怪盗団は違和感を感じている。子供に暴力を振るう母親の心と今各々の目に映る光景はどう見たって一致しているとは思えないのだ。
 前を歩く門番もそうだ。豪奢な鎧とピンと伸びた背筋。顔こそ彼らが知るであるが、優等生然とした語調や雰囲気はなんとも言い難い違和感を抱かせる。
 何かがおかしいが、その何かが分からない。
 思い悩む彼らの視界の端に、また一人動く者が現れた。
「誰?」
 問いかけたのはクイーンだった。その鋭い目線の先には庭木に隠れてこちらを窺う小柄な人物の影がある。
 そしてその者もまたと同じ顔をしていた。
 驚く間こそあれ、彼女はさっと庭木に額を押し付けるようにして顔を隠してしまう。
「も、申し訳ありません」
 もごもごと口内で謝罪の言葉を紡ぐ少女はひどく怯えている様子だ。目深にかぶった麦わら帽子に渋い色合いの腹掛けと乗馬ズボンは彼女が庭師なのだと教えている。
「その子に声をかけないで」
 冷ややかな声を上げたのは門番だった。
「それは『ロスト・ワン』です。あらわにさせてはいけない」
 どういうことだとジョーカーが問いかけるが、門番が無言のまま先を行ってしまうと一同は顔を見合わせてその後を追う他なかった。
 次に彼らの前に現れたのは楽しそうな様子ではしゃぎ、廊下を駆け回る子供だった。その顔にはの面影がある。彼女が五、六歳の頃はこんな面立ちだったのだろうとはすぐに推察できた。
 しかしその小さな子供の身体には、犬や猫にするようなハーネスと首輪が取り付けられている。
「こら、廊下を走らない!」
「ごめんなさーい!」
 甲高い笑い声と首輪に取りつけられた鈴の音を響かせながら、子供は廊下の奥へ走り去った。
「今のは?」
「あの子は『クラウン』です。落ち着きが無くて、いつもああなんですよ」
 事も無げに語る門番の足は止まらない。いよいよ違和感を強めながら、一同は神殿の更に奥へと足を踏み入れた。
 すると今度は包帯で顔の半分と体のほとんどを隠した、今より少し幼いが現れる。十歳程度だろうか?
 彼女は敵意を隠そうともせずにジョーカーたちを睨みつけているが、しかし何よりも目を引いたのは彼女の周囲がまるで台風が過ぎ去ったかのように荒らされていることだった。
 柱は倒れ、壁にはひびが入り、窓ガラスは粉砕され、カーテンは引き裂かれて残骸が床に散らばっている。本が収められていたのであろう棚は引き倒されて枠を残すばかりで、ご丁寧に床に散らばった本もそのほとんどが破られていた。
「『ヒーロー』、そいつらは誰」
 手にしていた鉈を突きつけて問いかける。その声は潰されたようにしゃがれていた。
「お客様よ」
 『ヒーロー』と呼ばれた門番の声はまた冷ややかなものだった。
「客? そんな話は聞いてない」
「やめなさい」
「うるさい! 優等生みたいな顔をしやがって。出来損ないのくせに―――」
 出来損ないという言葉にだろう、『ヒーロー』は息を呑んで身を固くする。
 それを見て好機と取ったのか、鉈を抱えた少女は床を蹴って得物を振り上げた。
「危ねぇ!」
 スカルの声に全員がその場を飛び退ったが、振り下ろされた鉈は床を砕き、破片と衝撃が襲い掛かった。
 軽やかに着地したもののジョーカーはうめき声を上げる。飛び散った床の破片がその頬を切り裂いたのだ。
「何を……!」
 咄嗟にクイーンが戦闘態勢を取るが、反撃に出る前にまた次のが現れた。
「待って、まずは話をしましょう」
 これには主に男子たちがより驚きを強くあらわにした。
 攻撃者と皆の間に立ちふさがったが薄桃色で丈の短いナース服を身にまとっていたからだ。
「ナース服!」
 思わずと声を上げたジョーカーにパンサーとクイーンの冷ややかな視線が突き刺さる。彼は沈黙した。
「『ヒーロー』、この人たちはお客様なのよね?」
「あ、ああ、うん……どうしてもお母さんに会いたいと……」
「少なくともこの人たちはお母さんに用事があるのは間違いないんだね」
 門番の首が縦に振られる。それを見て一つ頷いて、ナース服の少女はこちらを睨みつける少女に向き直った。
「お客様なのよ。その用事がどんなものであれ、勝手な真似をしたらお母さんに叱られるわ」
 言葉に少女の肩が震え、ゆっくりと鉈が下ろされる。
「いい子ね『スケープ・ゴート』。大丈夫、このことは黙っていてあげるから、あなたは部屋に戻りなさい」
「わかっ、た」
 こくんと頷いて、あっさりと『スケープ・ゴート』は廊下の奥へ姿を消した。残された『ヒーロー』と怪盗たちは呆然とその背中と破壊された床を眺めるしかない。
「ごめんなさい。あの子は自分の役割を全うしているだけなの」
 深々と頭を下げるナース服の少女にパンサーが問いかける。
「役割?」
「私たちにはそれぞれに割り当てられた役目があって……」
「『リトル・ナース』。お客様に妙なことを話すんじゃない。それこそ、お前の役割じゃないでしょう」
 割り込んだ『ヒーロー』に『リトル・ナース』はそれもそうかと口を閉ざす。
 ごめんなさいと訴えた目がジョーカーの頬にできた傷口を見つけると、きゅっと眉が悲しみに歪んだ。
「あ……痛かったでしょう。すぐに手当を」
「え? あ、ほんとだ。ジョーカー、血が出てる!」
 慌てて駆け寄り、ペルソナを呼び出そうとするパンサーをジョーカーは手で制する。そう大したものじゃない、と。
「でも結構深そうだよ?」
「傷薬なら俺が持っているが」
 右にパンサー、左にフォックス。ちょうどジョーカーの背後にはモルガナが立っていた。とんがった耳のあるものに囲まれたな、とジョーカーは頭をかきながら思う。その正面に『リトル・ナース』が立ったことに彼は少しだけ安堵した。オセロのように自分もとんがった耳をつけなければならないところだった、と。
 与太ごとを考えて痛みを紛らわせるが、ひたりと『リトル・ナース』の手が頬に添えられるとたちまち霧散してしまう。
「ああ、痛そう……」
 間近に迫った少女の顔は悲しみに歪んでいる。その瞳いっぱいに映る自分の仮面と見つめ合っていると、ふいに甘くさわやかな香りが鼻孔を刺激した。
 いい匂いがする――― 香りの発生源を辿るうち、怪盗は艶やかな少女の唇に目を奪われた。香料の含まれるリップクリームを使っているのだろうか。夏みかん、八朔、ゆず……嗅いだことがある香りのはずなのにその正体が分からない。もっと近くで嗅げば判別できるのではないかと、ジョーカーは己の顔を傾けて距離を詰めようとした。
「ジョーカー」
 地の底を這うような低音に呼びかけられて少年は我に返った。左を見るとフォックスが怒りを湛えた目で彼を睨みつけているではないか。その目はまた、「狙ったりしない」と言ったのではなかったかと訴えてもいる。
「はい、終わり」
 朗らかな『リトル・ナース』の声が響いて、二人は緊張を解いた。くすっとクイーンとパンサーが笑ったのは、ジョーカーの頬にひよこ柄の絆創膏が貼られていたからだ。
 役目は果たしたとして、『リトル・ナース』は軽やかな足取りで廊下の奥へ歩き去った。
 最後尾を歩くクイーンが少しだけ考えるような素振りでもってその背を見つめていたが、やがて彼女も再び進み始めた『ヒーロー』の後を追った。
 彼らの足は上へ向かう長い階段に差し掛かった。幅は狭く、左右は壁に挟まれている。灯りの類が設置されている様子は見えないが、不思議と足元は明るく照らし出され、上ることに困難は無かった。
「お母さんの部屋はこの上です」
 『ヒーロー』の言葉に従ってどれほど上っただろうか。息が上がり、膝が震え始めてやっと彼らは平らな床の上に足をつけることができた。
「っだー! 膝っ、死ぬっ」
「何段あった……?」
「わからん」
「七千五百八十六段」
「数えたのかよっ!?」
 わあわあと乱れた息の中言い合う彼らを他所に、クイーンの目は階段先の廊下をよく観察していた。
 奥へ続く一本道だが、すぐ先の左手にドアがある。そのドアに目を引かれたのは、それが周囲とは全くかけ離れた日本における西洋風建築様式のものだったからだ。
 クイーンは少し休憩するかと皆に問いかける『ヒーロー』の後ろをそっと通り、無言でドアノブに手をかけた。
「そこは、お母さんの部屋じゃ」
 ない、と制止を呼び掛ける『ヒーロー』の声はドアノブが捻られる音にかき消される。
 果たしてクイーンの想像通り、そこには最後のが飾られていた。
 暖かな光が差し込む室内は一言で表せば「お姫様の部屋」だ。
 桃色の壁紙。床には白を基調とした繊細な柄が織り込まれたカーペット。猫足のクラシカルなデザインのドレッサーに姿見。白く塗装されたアイアンベッドには花をあしらった天蓋がかけられ、シーツは愛らしい小花模様を描いている。窓際にはこれもまた白いキャビネットが置かれ、その天板の上には生花を活けた花瓶もあった。部屋の最奥にはソファがある。
「わっ、なにこの部屋かわいい」
 クイーンの横から部屋を覗き込んだパンサーが弾んだ声で感想を述べる。その目はベッド、ドレッサー、姿見、カーペットを辿り、ソファへ辿り着く。
 そこにが腰を下ろしていた。彼女は幾重にも重ねられたフリルとレースで着飾り、顔には化粧を施している。
 奇妙だったのは、突然の侵入者にも驚いた様子を見せるどころか微動だにせず、ただ唇を引き結んで、時折瞬きをする以外の動きを見せない事だった。
「その、驚かせてごめんなさい」
 クイーンの声にも反応はない。ぞろぞろと後を追って同じように部屋を覗き込んだ男たちが内装に顔をしかめても、は何の反応も示さない。
「声をかけても無意味ですよ」
 言ったのは『ヒーロー』だった。
「『プリンセス』を動かせるのはお母さんだけですから」
「どういうことだ?」とフォックスが問いかければ、彼女は淡々と答える。
「そのままの意味です。お母さんが「立て」と言わない限り彼女は立ち上がりませんし、逆にお母さんが「そこの窓から飛び降りろ」と言えば躊躇なく飛び降りるでしょう」
「そんな、酷い」
 沈痛な面持ちでパンサーが抗議するのにも『ヒーロー』は淡々と応えた。
「ひどい? なぜ? 『プリンセス』は最もお母さんに愛されているし、そもそも彼女に自我はない」
 一同はもはや言葉も無く、しんと静まり返った。
 自我が無いとはどういうことだろう。
 唯一それを問おうとしたジョーカーを手で制したのはクイーンだ。
「そう。とにかく、間違えてしまってごめんなさい。お母様のお部屋に案内してもらえるかしら?」
 同意してドアを閉ざす『ヒーロー』を横目に、クイーンは意味ありげに全員に目配せをした。「後で話をしましょう」と。その瞳には確信が湛えられていた。

 廊下を一度だけ左へ折れるとすぐにひと際大きく豪華な扉が彼らの前に現れた。
 『ヒーロー』曰く、ここが彼女たちの母親の部屋とのこと。
「お母さん、お客さんが来てるよ」
 ノックと共にそう呼びかけた『ヒーロー』が緊張しているのは誰の目にも明らかだった。これまでも伸ばされていた背筋がますますピンと張られ、肩も若干上がっている。声もまたわずかに上ずっていた。
「お客様? そんな予定は無かったはずだけれど」
 扉の向こうから返された声はどこかに似て、血の繋がりを意識させる。モルガナが全員に向けて頷いてみせた。の母親の声に間違いない、と。
「どんなご用件か聞いてるの?」
「どうしても、お母さんに確かめたいことがある、と……」
「確かめたいこと?」
 声には言いようのない圧力がある。これは『ヒーロー』のみならず怪盗たちをも威圧した。
 肌をじりじりと焦がすような緊張が場を支配する。
 正面から乗り込むのはやはり無謀だったか。煙幕を張って逃げるのも手かもしれない。少なくともここまでの道のりは把握できたのだし―――
 ジョーカーがそのように企て、手を懐に差し込む。指先に目当ての物が触れたその時だった、扉の向こうから穏やかな声が返された。
「いいわ。お通しして」
「はい」
 少女の手は素早くドアを開く。現れたのは大広間だった。
 床には深紅のカーペットが敷き詰められ、中央に置かれた石造りの大きなテーブルの上には分厚い本が山積みになって置かれている。天井を見上げれば豪奢なシャンデリアが下がり、壁はいずれも背の高い本棚で覆い尽くされて窺えない。
 華美と厳格、そして隠匿。それがジョーカーが抱いたこの部屋への印象だった。
 そして部屋の主は、その印象を擬人化したような姿をしている。
 真っ赤なマーメイドラインのドレス、高い位置でまとめられた黒髪、顔にかけられたメガネはフォックスタイプで、いかにも「デキる女」を演出している。
円か?」
 率直に問いかけると、女の片眉が神経質そうに上げられた。
、お客様というのはこの子たちのこと?」
「は―――はい」
「そう。予定も伺わずに突然訪問するなんて、どういう教育を受けているのかしら」
「お、お母さん……」
「黙っていなさい、
 短いやり取りに、『ヒーロー』は顔を青ざめさせて小さく震える。誰が見たって彼女は怯え、委縮していた。
 その姿に怪盗たちは各々の家庭における親や保護者とのやり取りを思い返した。自分たちの母親は、父親は、姉は、師匠はどうだっただろうか。このような扱いに心当たりのある者もいる。しかし彼らが思い描く一般的な家庭の姿からはやはり逸脱しているように思えた。
 すると彼らの心中には怒りや苛立ち、不快感が芽生える。それは思春期、反抗期、自立心の芽生えと言うこともできた。親というものへの反抗心だ、と。
 しかし彼らの胸中にある感情がそれらに因るものでないことは明らかだった。
 少なくとも彼らはという少女が―――例えシャドウであったとて―――怯えている姿とその原因に寛容になることはできなかった。
 彼らとはたった一度、友人の友人と言う立場で時間を共にしただけの関係と言うこともできた。
 だが、そもそも彼らの志は顔も名前も知らない誰かの苦しみを悪辣な手でもって拭うことによって果たされている。
 怒りや使命感を覚えるのは何も不自然なことではなかった。彼らにとっては当然のことだった。
「それで、あなた達―――」
 ジョーカーたちがそうしたように、女もまた彼らの天辺からつま先までをまじろぎもせず観察する。
 その目には侮蔑の色が浮かんでいる。
「見た所まだ高校生のようだけど、こちらの予定も確認せずに押しかけるなんて、何を考えているの?」
 これに応える者はいなかった。女もまた、返る言葉があるとは思っていなかったのだろう、鼻を鳴らして先頭に立つジョーカーをねめつける。
「それに、その格好はなに? それが人と会うのに相応しい姿と思っているのかしら?」
 これにちぇっと唇を尖らせて応えたのはスカルだ。
「これが俺たちのスタイルなんだよ。ていうか、あんただって似たようなもんだろ」
「一緒にしないでちょうだい。そんな薄汚い格好……、こちらへいらっしゃい。そんな連中と一緒にいたら、あなたにまで悪い影響が出てしまうわ」
 え、と『ヒーロー』が顔を上げる。その瞳にはかすかな喜びが垣間見えた。恐らく、女の言葉を心配として受け止めたのだろう。
 弾かれたように歩き出した少女の腕を掴んだ者がいる。
「行くな」
 フォックスは驚きに見開かれたの瞳をじっと見つめて言った。
 どうして、と声には出さずに問いかける彼女に答える前に、ジョーカーがと母親の間を遮るように腕を伸ばした。
を誑かしに来たとでも言うの?」
 苛立たしげな問いに、ジョーカーは挑発するように小首を傾げて答えてやった。
「俺たちはお前のお宝を頂戴しに来たんだ」と。
「なんですって?」
 女の顔が困惑と怒りに染まるのと、最後尾でずっと鼻を鳴らしていたモナが声を張り上げるのは同時だった。
「オタカラはこのすぐ近くにあるぞ、ジョーカー!」
 ジョーカーは直ちに手にしていたままだったお手製の煙幕を床に叩きつけた。
 部屋全体を包み込むほどの煙が辺りを覆い、一同は身を翻してたった今入って来たばかりの扉へ走る。
「待ちなさい! この―――」
 制止を呼びかける声が背後からかかるが、当然誰も立ち止まることはない。
 煙をかき分けるようにして部屋の外へ飛び出し、全員の姿を確認するとジョーカーはすぐに扉を閉ざす。それを見て、クイーンがドアノブを拳で叩き落した。少なくともこれであの母親は閉じ込められたことになる。一同はほっと息を吐いた。
「あ、あ、あなたたち……っ」
「え?」
 震える声に目を向けると、そこにはフォックスに抱えられた『ヒーロー』が真っ青な顔でこちらを指差している。
 ジョーカーはフォックス以外の全員の頭の上に「!?」という感嘆符が浮かんだ幻覚を見た。
「ちょ、なんでいるんだよ!?」
「すまん、つい、思わず。掴んでいたし、と同じ顔で……」
「連れてきちゃったのね」
 クイーンのため息にフォックスは首肯を返す。
「気持ちは分かるけど……」とパンサー。
 だからと言ってそれはどうなのかと『ヒーロー』の腰に回されたフォックスの腕を見る。いかがわしい意図が無いことはフォックスの性格上、また自身の経験から知っていても同性としていい気分はしない。その上、『ヒーロー』の目は明らかな敵意をもって一同を睨みつけているのだ。
「お母さんになんてことを……騙したの!?」
「嘘は言ってない」
 しれっと言ってのけたジョーカーに『ヒーロー』の眦はますます吊り上がり、手が剣の柄に伸びる。
「許さない、こんなことをして……絶対に……!」
「待って! 私たちはキミを襲うつもりはないの!」
「狙いはお母さんってこと!?」
 制止を呼びかける声は逆効果だったようで、いよいよ彼女はフォックスの腕を振り払って立ち上がり、剣を抜き放つ。
 一触即発の空気にスカルが悲鳴を上げた。
「だぁもーっ、なんで連れてきたんだよっ!?」
「見捨てておけば碌なことにならんだろうと判断した」
「だから、ここにいるのは本人じゃなくてシャドウだっつーの! って、わかってて連れてきたのか……」
「なにをごちゃごちゃと……!」
 空気を切り裂く音と共に金属がたわむ不快な高音が微かに鳴り響く。
「うおっ!?」
 初撃を飛び退って回避したフォックスの喉を狙い返し刃が振り抜かれる。これも辛うじて回避するが、廊下はそう広くない。
「避けるな。受けろ」
「無茶な注文を……!」
 冷静なジョーカーの声に安心しつつフォックスは応えた。腰に佩いた刀を鞘ごと持ち上げ、鍔でもって打ち下ろしを受け止めてみせたのだ。
 おお、と歓声が上がったことにこそ少女は顔を歪め、歯噛みする。
 こんな彼女の表情は初めて見る、とフォックスは場違いな感想を抱いた。
 怒りで紅潮した頬に憎しみを宿した瞳、渾身の力でもって剣を掴む腕には筋が浮かんでいる。華奢で痩せた身体つきだと思っていたが、こうしてみると少しは鍛えているのだろうことが窺える。
 このように考えごとに耽ることができたのはフォックスに身長というアドバンテージがあるからだ。まして彼の背後には仲間たちが控えている。万が一があったとてフォローが入るだろう。
 そう思うと、フォックスは彼女の説得に取り掛かる。
「落ち着いてくれ。俺たちはお前の考えているような事をしに来たわけじゃない」
「さっき盗みに来たと言ったじゃないか!」
「それは違う。正確にはお宝を頂戴しに、と」
「細かいな!」
「いずれにせよ、俺たちは―――」
 目論見は轟音によって遮られた。
 鍔迫り合いに込められた力が緩められ、『ヒーロー』は震えながら背後……閉じた状態で固定された扉を見つめる。
 音は扉の向こうから何か巨大な物体が叩きつけられている様子だった。ドォンと轟音が響くたび、分厚いはずの木板が大きく震える。
「おいおい、ヤベーんじゃねーの、これ」
 スカルの言葉の後半は誰の耳にも届かなかった。
 ひと際激しい音と共に扉が粉砕され、煙幕の名残と衝撃がその場にいた全員を壁に叩きつけたのだ。
「ニ゛ャッ!!」
 短く甲高い悲鳴を上げたモナを素早く拾い上げたジョーカーが声を張り上げる。
「逃げるぞ!!」
 誰も否とは言わなかった。今や全員が目視していた。扉の残骸の向こうで拳を振り上げる竜の翼を備えた巨大な女―――その下半身は蛇のようにとぐろを巻いて、鱗に覆われている。
「こォの―――くそがき―――どもォ―――」
 声は喉に物を詰まらせたような嗄れ声で、振り下ろされた拳は易々と壁を突き破った。
 また強烈なのが出たなと呟いて、ジョーカーは先頭を走る。
 廊下を右に曲がり、階段に飛び込もうとした彼の頭上を飛び越えて閃光が走り、破裂した。
「逃げ道を潰された! ヤバいぞ、どうする―――?」
 肩にしがみついたモナの言葉にジョーカーは素早く周囲を見回した。目の前の階段は崩壊した天井の瓦礫によって埋まってしまっている。すぐ背後にはパンサー、その後ろにクイーンとスカル、最後尾にまた『ヒーロー』を抱え上げたフォックス。そしてそのすぐ後ろ、曲がり角から顔と腕を覗かせた半竜半人の怪物。
 ジョーカーの判断は素早く、そして結果から見れば正しかった。
 彼は鋭く「来い」とだけ告げて窓枠に足をかけ、宙へとその身を踊り出させた。
「ニャーッ!?」
 モナの悲鳴をうるさいと感じる間も無く浮遊感は途絶え、彼の足はすぐに振動と痺れを感じて着地する。思った通りだと唇を歪める彼の背中にパンサーの尻が衝突するのは同時だった。
 次いでスカルとクイーンが少し離れた所に。フォックスと『ヒーロー』はまた更に離れた所へ着地する。
「全員……無事……か……」
「みたい……だな……」
 柔らかな尻肉に押し潰されながら確認する声を上げる。パンサーは慌てて立ち上がった。
「ごめんジョーカー、モナ! 大丈夫!?」
「パンサーの尻に敷かれるのなら望むところだぜ……」
「我々の業界ではご褒美です……」
 よろよろと立ち上がりながらそれでも軽口を叩く姿に、パンサーは呆れたらいいのか笑ったらいいのか解らなかった。
「それセクハラ」
 折衷案として笑いながらツッコミを入れるパンサーの後ろで、スカルとクイーンが飛び出して来たばかりの窓を見上げている。
「追って来ねぇみたいだな」
「ええ。それにしてもあれだけ階段を登ったはずなのに、まさかこんな高さだなんて……」
 周囲を見回す彼女の目には神殿の壁と柔らかな草に覆われた石灰岩の基礎があった。上を見ればほんの五、六メートル程度の高さに窓がある。とても七千段以上の階段を必要とする高さと距離とは思えない。
「これも認知の歪み、と言うことかしら……」
 衝撃から逃れ、結論を得ようとその明晰な頭脳が動き出す。しかしそんな彼女の思考を遮るように、破裂音とフォックスのうめき声が響いた。
「痛いじゃないか!」
「こ、こ、この……!」
 何事かと見れば、仰向けに倒れたフォックスの上に『ヒーロー』が馬乗りになって顔を赤くしている。照れているわけではなく、引き続き彼女は怒りを覚えている様子だった。
 対するフォックスは頬を抑えて呆然としている。
「なぜ俺は引っ叩かれたんだ……!?」
「お、重いのは鎧のせいです! 訂正なさい!」
 ああ、と誰にともなくため息が漏れる。
 恐らく、『ヒーロー』を抱えたまま飛び降りたフォックスが彼女の下になって着地し、思わず「重い」と訴える。それを聞いた『ヒーロー』が平手打ちを放った、とでも言ったところだろうか。
 得心して、ジョーカーは肩を落とした。フォックス、お前っていつもそうだよな、と。
 さて、少女は立ち上がって再び一同に指を突き付けた。
「あなたたちは一体なんなの!? 突然やってきて、楽園を乱して、お宝を頂戴するとかなんとか、まるで噂の怪盗団みたいなことを言って!」
「みたいもなにも俺たちこそがその怪盗団なんだけどな」
「へっ!?」
 スカルの言葉に目を丸くして硬直するさまは確かに皆の知るの姿だった。
円の歪んだ心を頂戴しに来た」
「歪んだ、心……じゃあ、噂は本当なの……」
「目の前にしても信じられないか?」
 挑発的なジョーカーの言葉に『ヒーロー』はますます困惑を強める。
「……俺たちはお前を救いに来たんだ」
 言ったのは立ち上がって『ヒーロー』の背後に佇むフォックスだった。
 その手がゆっくりと伸ばされ、振り返ったの顔に触れる。何かを確かめるように頬を撫でる指に、少女は瞬きを繰り返した。
 やがて彼女は気弱そうな笑みを浮かべて首を傾げる。
「何を言っているの?」
 その言葉の意味するところを正確に読み取ることができたのはフォックス―――「喜多川祐介」だけだった。
 彼女がこのような表情を見せるのは何かを拒絶したいときだと彼は知っている。しかし何故彼女は救いの手を拒絶しようとしているのか……
 その理由も、「喜多川祐介」には嫌というほど理解できる。
 縁もゆかりもないどこかの誰かが助けてくれるなんて想像すらもできないのだ。窮地を救ってくれるヒーローはあくまでもテレビや映画、漫画の中の存在で、決して現実には存在しない。手の届かないブドウは酸っぱいに違いないと自分に言い聞かせ続けて、いつしかブドウそのものを拒絶するようになってしまった。
 かつてジョーカーたちの救いの手を一度は振り払った己の姿をまざまざと見せつけられて、フォックスはまた打ちのめされる。いつか思った通り、彼女はまさしく自分なのだ、と。
 目をそらしそうになった彼の視界にジョーカーの姿が映る。
 彼は泰然としていた。揺るぎのない自信と信念がその瞳に燃えているのが離れていても見て取れる。
 この瞳に見つめられているとき、喜多川は背筋を伸ばしてはいなくてはと思う。緊張するのではなく、間違った事をしたくないと思わされるのだ。
 単純な動機だ。彼にだけはカッコ悪い所を見られたくない―――
 ちっぽけなプライドである。しかしそれは、全ての原動力となった。
「お前を助けたい、と言ったんだ」
 現れたのは端的な言葉だった。飾る必要は無いと言わんばかりの堂々とした声である。
 だが、返されたのは冷笑だった。
「助ける? なにから? 私は何も困ってない。強いて言えばあなたたちに困らされているけど……」
「ではこれは?」
 言って、フォックスは頬に添えていた手を勢いよく引いた。ビッと何かが剥がされるような音がする。 見せつけるように振られたフォックスの手にはつい今しがたの頬からはがされたガーゼが。そして顕になった彼女の頬には痛々しい青あざがある。
 今や誰もがその傷に目を向けていた。なにも言うまいと口を閉ざし、目を逸らしていたものに。
「助けが必要無いと言うのであれば、この傷が誰によってもたらされたものか言えるはずだ」
 容赦のない言葉に少女の顔から笑みが消えた。
「……必要ない」
「言うまでもないと?」
「違う」
 いけない、と漏らしたのはじっと二人のやり取りを見つめていたクイーンで、その声を受けて俊敏に動いたのはモナだ。彼は素早くフォックスの腕に取りつき、勢いよくその身をから引き剥がす―――
「必要ないのはあなたたち」
 ゾッとするほど冷ややかな声だった。これを発しているのが彼女であると思えないほどの。
 彼女の手はいつの間にか剣を握り、裏刃でもってほんの一瞬前までフォックスの身体があった空間を切り裂いていた。
、なぜだ!」
「助けてなんて言ってない! 私は一度だって、誰かに助けを求めたことは無い! そんなもの必要ないッ!!」
 地面に向けて少女の華奢な腕が振り下ろされる。握られた両刃剣の切っ先が地面を穿つと、それは激しい振動を生み出した。一瞬のものではなく長く続く、まるで地震のようだった。
「嘘でしょ、なにこれ……!?」
 鳴動にパンサーがふらつきながら悲鳴を上げる。彼女が驚いていたのはこの振動にだけではなく、誰もが膝をつくような状況の中でが微動だにせず立ち尽くしていたからだ。
 もっとも彼女がこの揺れを生み出しているのであれば不思議なことは何一つない。ここは精神世界なのだ。なにが起きてもおかしくはない。
 やがて足元にひびが入り、ぽっかりと開いた穴が彼らを飲み込んだとしても。
「助けなんて必要ない。どうせ誰も……」
 奈落に飲み込まれる直前、少年たちは確かにそんな声を耳にした。