← ↑ →
29:You Did Your Part of It
……
皮一枚で繋がっているだけの到底生きているとは言えない状態の少年は、息も絶え絶えのなか幻覚を見ていた。
幻覚のくせに質量のあるそれは銀の髪を腰より長く伸ばした金の瞳の少女の姿で、眉を釣り上げて彼を見下ろしている。
「立ちなさい」
冷厳とした言いつけに、彼は辛うじて首をほんのわずかに動かした。それはもちろん、左右にだ。
なにしろ胸から下の感覚がない。すでに痛みさえなく、自分がすっかり軽くなってしまった気さえする。
そんな状態にもかかわらず、少女はますます眦をつり上げ、激しく昂してそんな彼を叱りつけた。
「私のトリックスターが、こんなところで敗れることは許しません!」
無茶苦茶だ、と彼は思った。どんな英雄だって肉体を二つに別けられては立ち上がれまい。
しかし彼女はそんな世の理を無視してさらに詰め寄った。
「さっさと立ちなさい愚か者! グズグズしている暇があなたにあると思っているのですか!?」
なんということか、エナメル素材の丸いトゥがサッカーボールにするように振り抜かれ、薄れつつあった彼の意識を痛みとともに無理矢理に覚醒させた。
同時にぼやけていた肉体の感覚までもが取り戻されて、少年は恥も見栄もかなぐり捨てて絶叫する。そのせいで喉が裂けたのか、もとより傷だらけだったのか、血が霧のように撒き散らされた。
それを目にしておきながら少女はさらに不穏なことを言い始める。
「こんなものなのですか……あれほど綿密に育成メニューを組み上げ、二つに裂かれてなお成し遂げさせたというのに……もう一度最初から鍛え直さねばならないの……?」
勘弁してくれよ、という台詞は、悲痛なうめき声として発されるばかりだ。
なるほど、どうやら彼女にとってこの程度はかすり傷にカウントされてしまうらしいとやっと理解して、少年は天を睨みつけた。
だから彼女は、己が再び捕らえられてなお大して焦った様子も見せず、泰然として冗談まで飛ばしてくれたのか―――
懐かしくもあった。二つに裂かれていたころの彼女のうちの半分は、よくこうして蹴りを入れ、怒鳴りつけては更生とかいうものをこちらに迫ってきていた。
諦観めいてそう思う彼の視界に、ふと少女とは別の影が落ちた。
「……?」
目を凝らすと、それはいつぞや見た姿している。
栗色の短い髪、細い手足、背からは虫の羽……妖精族の一種だと彼はすぐに思い出した。
妖精は彼の傷を確かめるなりキャッと短く悲鳴を上げて目をつむり、大きく顔を逸してしまう。
けれど決して逃げ出すことはせず、こわごわと両手を差し出しては傷に掲げる。
(あ……)
助かった、と彼は直感によって確信する。
小さな手から弱々しい癒やしの力が注がれているのだと理解して、ほっと安堵の息をつきもした。
やがて二つになりかけていたものが一つに戻ると、彼はゆっくりと身体を起こし、痺れて冷たくなった手指の感触を確かめようと拳を握る。
そんな彼の周りを、ピクシーは心配そうに飛び回った。
釣られて視線をあちこちに向けるが、先の幻覚の少女の姿は見当たらない。どうやら真実あれは幻だったらしい―――それにしては蹴られた側頭部がまだ痛む気がする―――。
いないのならば仕方がない。彼は飛び回るピクシーに優しく声をかけた。
「……大丈夫。痛みはあるけど、死ぬほどじゃない」
もちろんこれはただの見栄だ。実際には今もまだのたうち回りたいほどの痛みがある。自身のペルソナを呼び出して傷を完全に塞げるほどの余力さえもはや残ってはいない。
だとしても彼には嘘をつくだけの理由があった。
彼が無事と知って顔をほころばせる妖精の姿が、どうしてか知り合いの一人に重なって見えたのだ。年格好はとてもとても、似ても似つかないというのに。
そんな思いと痛みを堪えて、少年は震える膝を掴んでさらに身を起こそうと足掻いた。こうしている間も周囲には悲鳴が響き渡り、耳元からはナビの悲鳴じみた声が届いている。
早く立ち上がって、あいつらのもとに駆けつけてやらなければ。
思い通りに動かない身体に歯噛みする彼を、後ろから支えるものがあった。
真っ赤な絹の衣装に身を包んだ、こちらもまた妖精の一種だ。そのたおやかな手指はしかし力強く手を取り、ぐいと彼を引き上げる。
「あ、ありがとう……ございます……」
敬語で返してしまったのは、やはりまた知り合いの一人を思い起こしたからだった。
既視感を振り払いつつどうにかして二本の脚で直立して、彼はやっと人心地つく。当然まだ痛みはあったが、それは己がなんであるかを思い返すとたちどころに―――消えはしないが、無視して笑い飛ばすことくらいはできた。
そうなってようやく、ジョーカーは奇妙なことに気がつきはじめる。
自らを助けてくれたシャドウのどちらもが、欠損している部位があるか、あるいは奇妙に歪んでいる。パレスやメメントスで見かけたものと比べれば、どうにかして形を保っているという風体でしかない。
―――そうとも、シャドウだ。
この異界は確かに、ほんの一部限られた場所こそメメントス―――大衆の無意識の集合体と繋がっていたが、やはり根本的に認知世界とはかけ離れている。ペルソナこそ使えるが、シャドウは存在し得ない場所のはずだ。
それがどうして……?
わずかに首を傾げた彼の耳に切羽詰まった悲鳴が届いた。
首を巡らせて声の出どころを確かめると、成人より一回りも二回りも大きな赤ん坊が制服姿の少女に覆い被さっている姿が捉えられる。
そこにきてようやくジョーカーは落下の最中に拳銃を取り落としてそのままだということに気がついた。咄嗟に懐に差し入れた手は虚しく空気だけを掴んでいた。
ならば、と代わりに腰元の短剣を抜き放ち、痛みを堪えて走り出す。
巨体にぶつかる直前に地を蹴って跳躍し、頭頂部に体重を乗せて刃先を深く突き刺してやる。するとそれは水風船のように弾けて、液体と表面だけを残して消える。
異形が撒布した体液を頭からまともに浴びたからか、はたまた入れ代わりに黒衣の少年がすぐそばに転がったからか、襲われていた少女は目を見開いたままぼう然として震え、身動きも取れない様子だ。
助かったのだとは直感的に理解できているのだろう。瞳には安堵が垣間見える。
しかしその奥にある畏怖はどうやら、ジョーカーにも向けられているらしい。
それはそうだ。妖怪めいたものに突然襲われ、それが弾けたと思ったら、刃物を手にしたコスプレまがいの格好をした仮面の男が現れたのだから、誰だってそうなるだろう。ましてやそいつは血まみれだ。
納得するとともに苦笑してジョーカーは立ち上がった。傷はまたひどく痛んだが、助けを求めるような声はまだあちこちから響いている。いつまでもうずくまってはいられなかった。
とにかく急がなければと立ち去ろうとする彼を止めたのはか細い声だった。
「あっ……あのっ……」
首だけでふり返ると、少女がよろめきながら立ち上がり、なにかを彼に差し出そうとしている。
不思議に思いつつ足を止め、よく目を凝らすと、その手には無地のタオルハンカチが握られていた。
「こ、これ……あの、きみ、血が……」
少女は受け取るそぶりを見せない少年に焦れたようにぐっと手を前に突き出し、まだ丸みの残る顎のあたりにしずくを作る血を拭いとった。
今度は彼がぼう然とする番だった。
それを許諾と受け取ったのだろう、少女はつま先立ちになってまた手を動かし、仮面を避けて耳元と額を拭い、そこで手を止めた。
やがて彼女は強く恥じらうような表情をつくって俯くと消え入りそうな声で、
「きみは、あの、あれ……怪盗団のひと、ですよね……? こんなことしかできなくて、ごめんなさい」と申し訳なさそうに告げる。
ジョーカーにはそんなことを言われる義理も、また彼女がそのように伝えなければならない義務もないはずだと思う。
何故なら彼女はたった今、立ち上がって傷だらけの少年の血を拭ってみせた。おそらくそれはまったく理解できないだろう状況のうちにできる、この少女の最大限の行いだ。
ただ怯えて嵐が過ぎ去るのを待つだけでもいいのに、わざわざ震えながら立ち上がり、
「助けてくれて、ありがとう」と謝意を告げもする。
ジョーカーにはそれで充分だった。
かの神は大衆を指して縋るだけだと言ったが、そもそもこの少年と仲間たちはそんなもの歯牙にすら掛けていない。それによってかつて痛い目を見せられたのだからなおのこと。ちょっとの関心くらいはあるが、それで行動如何に影響はない。
彼らにとっての報酬は感謝や憧憬といった類のものではなく、ただ、誰かを立ち上がらせることができたという事実だ。
そしてその行動の根底にあるものが、誰しもに当然として、大小の差はあれど宿っている『善良さ』だと彼は知っている。
もちろん、時と場合によってはそればかりではなく、いささか汚いものが交じることもあるが―――無欲からなる善性はこの少年が求めるところとは少し違っているから、それはそれで、打算のもと行われる偽善も充分彼の好みには合致する。
この少女はどちらだろう。
興味深く見つめる瞳に戸惑ったように腕とタオルハンカチは遠ざかった。
そしてジョーカーは目撃する。彼女の背後に、靄のようなものが湧き立っている。
それは蒼い炎とともに現れ、しかしはっきりとした形を得ることは叶わず、かといって消えることもなくその場に佇んだまま。
彼は豁然として悟ると、うごめく影に声をかけた。
「行くぞ、ついてこい」
それらはか細く、しかしはっきりと「いいよ、手伝ってあげる」と応えた。
そのようにして、内から外から、次々にシャドウ―――人々の普遍的無意識の中にある共通した神話にうたわれる存在が、しかし人々の意識によって確かな意志とともに大挙する。
フォックスは、はじめそれを新手の異形の一種かと斬り掛かりそうになる。
しかし寸前それが見覚えのある……額の中に収まった両の目と鼻梁、そして口唇の集まりであることに気がついて手を止めた。
「そんな、まさか……」
まばたきをするうちに描かれたものは墨として溶け落ち、また形を取り戻そうと足掻いては溶けるを繰り返した。
「フォックス! 後ろ!」
鋭い声にハッと息を呑んでふり返ると、無数の腕が彼に向けて伸ばされているところだった。
隙間からの姿が覗けたが、まだ少し距離があって、咄嗟に柄に伸ばしたフォックスの手は早々と抑え込まれてしまった。
大きく開けられた口の中には乳歯が並んでいる。
不味いなと歯を噛んだフォックスの視界の外で、四つの額のうち口唇が描かれたものが異形の丸い頭の天辺に齧りついた。
「えっ……」
驚嘆の声を漏らすのと、飛びついたがフォックスとシャドウもろとも蹴り飛ばすのは同時だった。
「あっ、ごめ……ごめん! わざとじゃ!」
言い募りながらもの手は粛々と離れた異形の頭を砕いた。そこに躊躇が感じられないどころか隠しようのない憤怒が垣間見えるのは過去の経験ゆえか。
いずれにせよ弾けてガワだけを残した異形のそばで、フォックスは慌てて身を起こし周囲を見回した。
すぐに彼は額の塊を見つけ出し、安堵の息をつく。
ついてから、何故安堵してしまったのかと舌先を噛み、また別に安堵したっていいじゃないかと複雑な面持ちを浮かべる。
「なにその百面相……あ、こっちにもいるんだね」
「え……?」
「襲いかかってこないタイプの怪物」
フォックスはまばたきをくり返してと額を交互に見やった。
「お……おそらくだが、それは……シャドウだ。たぶんだが」
「シャドウ? それってパレスやメメントスに出るやつじゃないの?」
どうしてと言われても、フォックスにだってわからない。
ただ―――
同じころ、二人とは離れた場所で、スカルはポンと手を打っている。彼はほんの十分か二十分前に言われたことを思い返しているところだった。
―――俺たちのペルソナも、元はシャドウだ。それが『いろいろなんか』あって、それで、反逆の意志によって≪力≫として現れるようになった。ジョーカーはそう言った。
この場合の『いろいろなんか』はおそらく、これもやはり数十分か一時間ほど前に通ったメメントスもどきが開通したのと同じ理屈だろう。
鞄に石を詰めて欲しいと乞われて人々は―――全てではないが、それなり以上の数の人がその通りにした。
問題はそれが反逆の意志ではないところにあった。
人々の感情のうちおそらく多くは同情や好奇心、ちょっとした興味や興奮で占められていたはずだ。本気で受け止めた者などは数えられる程度でしかない。
だから、ほとんどが不格好で不完全な、シャドウもどきで、ペルソナもどきでしかない。
「けどまあ、それで十分っつーか……」
所在なさげに佇んで頭を掻くスカルの目の前で、小型の『もどき』が寄り集まって、赤ん坊と焼豚と、キリンのようなものとに群がっている。
やがてそれぞれが決まり手の浴びせ倒しで寝そべると、今度は四方八方から熱いものや冷たいもの、眩しいものや目には映らないものが投げつけられる。
なんだか陵辱的で名状しがたい状況だ。
スカルはただ脱力して、
「数のチカラってやべーな……」と呆れ半分、感心半分でつぶやくくらいしかすることがなかった。
「―――つまり、私が言ったことのせい……?」
似たような結論に至ったフォックスが教えてやったことに、はちょっと興奮した様子を見せていた。
対するフォックスは少しばかりへそを曲げている。自分たちが一年もかけて成したことより、この少女の涙ながらの訴えのほうが衆生に響いたのかと思うと、それは当然面白くない。
「だけど、そうだとしても、それは」
はそんな彼の気持ちになど欠片も気が付かないまま、瞳を煌めかせている。
「それはきっと下地があったからだ」
なんのことだと首を傾げたフォックスに、はやはり興奮気味に、その裾を掴んで揺らしながら告げた。
「怪盗団だよ! 君たちの功績があったから、私の言葉を、全部にしろ半分にしろ、信じてその通りにしてくれる人が現れたんだ!」
「それは―――それは、そう……そうなのか……?」
「どうして君が半信半疑なのさ」
「すまん」
は気勢を削がれたとそっぽを向いてしまう。
その間に、フォックスはまだそばで佇む四つの額に目を向けた。
―――そうなのか? こいつも、『だから』現れたのか?
「そう……なんですか、せん―――」
せい、と言おうとする直前、遮るように絹を裂くような悲鳴が届いた。
すると額縁はそちらへ一目散に飛んでいってしまう。
「あっ! 待って、待ってください! せん―――」
再び、今度は地鳴りめいた音と揺れが遮った。
「うわっ」
驚いたに腕を引かれるまま道端に身を寄せたフォックスの目と鼻の先を、大小様々で、形も色もなにもかもが不揃いで不格好で、不完全な『もどき』たちが剣やら槍やら、葉っぱやら楽器やら玉箸やらを掲げて鬨の声を上げながら通り過ぎていく―――
あとにはぼう然とする二人ばかりが残された。
「……なんていうか……」
思わずとフォックスの細いが見た目よりたくましい腕にしがみついていたは、ハッとしてそろそろと距離をおきながら、それでもまだ呆けたまま、まばたきをくり返している。
その言葉の続きを察して、フォックスは深く頷いた。
記憶に焼き付いた姿より不揃いで、不格好で、不完全なあれらはどこか滑稽で、まるで統一感もなく、不協和音めいたものを眼に強く与えるような存在だった。
だというのに、フォックスの胸にはこみ上げるものがある。
彼は感嘆とともに言った。
「……まるで百鬼夜行絵巻だったな……」
「うん……無機物っぽいものもたくさん混じってるから、わりと新しいほうのだね……」
「ああ……」
まだ力ないままの彼らの前を、再び別の、先より小規模な集団が通りかかる。その先頭は見たことのない、頭にシルクハットを乗せた少女だ。これはほとんど完ぺきなヒトの姿を保っている―――
フォックスは咄嗟に懐から画帳とペンとを取り出していた。
「……今? 本気で?」
幸いにして、冷たい声と視線に罪悪感を掻き立てられて手は止まる。
「わ……解っている、描いている場合じゃない……だが、しかし、ああ! あんな光景に幾度も遭遇できるはずが……!」
苦悶する姿に肩をすくめて、は手に下げるだけになっていた金砕棒をそこに担ぎ上げた。
「足が止まると手が動き出す」
「……足が動けば」
「手は動かない。行こう」
ペンを握る手を優しく叩かれて、フォックスは激しく歯を軋ませた。
「おのれ……! なにが神だ! 今すぐ成敗してくれる!」
「いいね! 頼もしいよ、フォックス!」
噛み合わないなりに歩調を合わせて、二人は手近な車や庇を足継ぎに跳び上がっていった。
そして、ジョーカーが宣言する。これが答えだ、と。
同時に新たな影が現れて、少女たちを押し込めていた網を切り裂いた。
中に閉じ込められていた彼女たちは呼吸が取り戻されたことを察して、大きく息をついてその場に崩れ落ちる。いずれも意識は保っているようだった。
「くっ、苦しかったけど、あんなか……めっちゃいいにおいしてた! 女子特有のアレが! コレで!?」
うわ言めいたナビの言に、ノワールは呼吸を落ち着けようと深呼吸をくり返しながら応えてやる。
「ナビもいい匂いだよ?」
「そっ、そうっ? うへへっ、えへへっ」
「なんの話よ……てか、なにこの……なに?」
気の抜ける二人のやり取りに呆れ果てた様子のパンサーが見上げた先には、月明かりに輝く髪を揺らす大きなシルエットが佇んでいる。
それは左手に身丈ほどもある刃を構え、右には機関銃や大口径の対物狙撃銃に、ミサイルポッドらしきものまで備えた鋼鉄の女戦士だ。その重武装ぶりとあちこちに付いた棘は見る者を萎縮させる。
この場合は少女たちのうちの一人を大いに動揺させた。
「ひっ!? おねっ、お、おっ、おねっ……お姉ちゃっ……!?」
ごめんなさい、と何故か縮こまるクイーンを尻目に、モナは肉球を叩いて彼女たちの傷―――いずれもかすり傷程度だ―――を消してやった。
「あんがと、モナ」
礼を言って立ち上がったパンサーはゆったりとした足どりでモナに並び、こわごわとその足元を覗き込んだ。
「うわ―――なにこれすっごい。どんだけいんの?」
網の中にもジョーカーとモナの声は届いていたから状況は把握していたつもりだが、眼下の光景は彼女の想像以上だった。
どことなく見覚えのあるシルエットがあちこちで群れをつくり、縦横無尽に暴れ回っては異形らを叩き伏せている。
「えっと……いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくま……あっ……」
「どうしたの?」
「オーバフローしちゃった……わたしの記憶格納域の上限突破するだけの数がおりゅ」
「まあ」
「そ、それ大丈夫なの?」
無言で佇む鋼鉄の女にまだいくらか怯えたままクイーンが問いかけた。
ナビはなんてことないと首を緩く振ると、手をひらひらと振ってパンサーの隣に並んだ。
「ん。影響ないよう値つけてるからそれはへーき。でもこれ、下手なハードじゃ処理落ちするなー」
「ペルソナとして使いこなせているってほどじゃねえが……こいつぁ壮観だぜ」
モナはまた、どこか満足げだ。その発生を思えばこれは当然の態度でもあった。
「国内だけとしても、えっと、一億ちょい分の、百万? もうちょい? 多いほう?」
充分じゃね、とナビはやはり気楽な調子で答えた。
ちらと見上げた先に浮かぶ巨大な金の神は、歯を見せて唸っている。
「さて、これで五分五分だな。どうする?」
ジョーカーのそばにはいつの間に合流したのか、ややくたびれた風情のスカルの姿があって、ふらつく彼に肩を貸してやっている。
神は唸って答えた。
「気まぐれや偶然に任せられるほど太平楽にはなれぬ」
負け惜しみともとれるが、しかし怪盗たちはこれを否定はしなかった。
「そうなんだよね。今回はたまたま、そういう気になったってだけかもしれないし」
「まあなぁ……毎回こうなるかっつったら、いやー、厳しいわ」
スカルとパンサーはそれぞれ腕を組んで頷きあっている。
そもそもまず大前提として、去年の末にあった電波ジャック―――通称双葉砲からまださほど時間が置かれていないという、時期的な要因がある。
これがさらに時間を経たらどうなることか。例えば、今年の夏休みあたりとか。
人々は怪盗団の存在を、忙しい日々にかまけて記憶に埋めつつある。今はまだ、夢中になっていた者たちであれば口頭に上げてくれるだろうが、それも時が経てばわからない。
人々の記憶から完全に怪盗団が消えたとして、果たして今回のように『鞄に石を詰めて』くれるだろうか? それとも怪盗団は人々の記憶に永遠に残るようなことをしでかして、常にこのような結果へ繋がるようになるのか?
「それが分かるのは今ではないだろうな。数十年か、あるいはもっと先のことだ」
言ったのはやっとジョーカーたちの側に登ってきたフォックスだった。そばにはがいて、彼女はいささかくたびれた様子だ。
なにがあったのやらと目を細めるも追求はせず、ジョーカーは仲間が全員揃ったことに満足げに息をついて天を仰いだ。
「アンタの意見に反論はしない。俺たちが気まぐれなものだって点には賛同してやってもいい。けどその点だけを理由に今すぐどうこうされるのは気に食わないな」
そうだろ、と目を配ると、彼の足元で溶けかかっていた雪だるまたちは慌てて形を取り戻して跳ね回った。
「こいつら聞いてねぇよ。船漕いでやがった」
役に立つのか、と胡乱な目つきを向けるスカルに彼らは憤慨した様子で地団駄を―――いずれの個体にも足は無いが―――踏む。
「なんか勝手についてきただけだしなぁ……まあいいや」
なんだか締まらないなと頭を掻きながら、ジョーカーは真紅のグローブに包まれた指を神なるものに突きつけた。
「とにかく、あー……やるか」
それを号砲と受け取って、やはりと言うべきか、猪のごとくが駆け出した。
「君たちには悪いけど、私にはやっぱりどれもどうでもいい―――」
蒼い炎とともに現れた大百足を足場のように伸ばし、その上を駆けながら彼女は言う。
「いいから、さっさと紬を返して!」
左腕に飛びつき、さらに駆け上がった彼女の傍らには片腕だけが異様に膨れたその半身が伴われている。
手弱女が放ったデンプシーロールからの右フックは体格の差からカウンターが刺さることもなく顎に叩き込まれた。
その素早さと鋭さに、しかし仲間は感心はできない。彼女の言い分も理解はできるが、最後くらい足並み揃えてくれたっていいだろうに。
―――そうとも、最後だ。出し惜しみはしなくていい。
続いて飛び出したクイーンは己自身によるものではなく、借り物のもう一つを従えていた。長い腕を垂らした大まかにヒトの形をしたものだ。
「任せるわ―――オオタカヒコ!」
名を呼んでやると、鉱物的な黒い肌の巨人はそれでもまだ身丈に差のあるものに踊りかかった。
振り回された柔軟な腕が金の装飾を掴んで引き剥がすと、息つく隙もなく超高温のエネルギー塊がぶつけられた。クイーンのそばにすでに巨人の姿はなく、彼女が元より有する半身がその輝く腕を掲げている。
焼き切られた皮膚の下からは黒い靄のようなものが吹き上がった。これは血液のようなものであるらしく、漏れ出ると同時に傷口を塞ぎ、直ちに皮膚を元通りに治してしまう。
自動回復の正体はこれか、と再び浮かび上がったナビが漏らした。
また同時に攻撃の予兆を読み取って声を張り上げる。
『でかいのくるぞ!』
淀みなく動いた手指が仲間たちの眼に攻撃の軌道予測を浮かび上がらせる。真横に一閃する黄色い線はクイーンとを主に、二人を追うスカルとフォックスも捉えようとしている様子だ。
一拍の後剛腕が振り抜かれた。
『くるって言ったのに』
不満げな声を受けて、今回こそはうまく攻撃を回避したは背後をふり返った。弾き飛ばされた面々が壁面や床の上に叩きつけられている―――
とはいえそれは走り回る猫がすぐに立ち上がらせてやったから、問題にもならないだろうとは再び視線を前に戻した。
すると、引き戻そうとされる腕に、ベチャッと貼り付くものがあった。
それはほとんど溶けかけた雪だるまたちで、ヒホヒホ鳴きながら冷気を撒き散らしている。
それに呼ばれたように似たようなものが寄ってきては飛びつき、また貼り付いては珍妙な鳴き声を上げ局所的な雪を降らせはじめる。
凍りついた金の具足がまた一部弾け飛んだのはいつの間にか頭一つ高いビルの上に陣取ったノワールによるものだった。
彼女は己の半身に寄り添いながら、攻撃の成否にではなく、遥か地表と今この目の前で跳ね回るシャドウもどきたちに目をやっては不安そうに眉尻を下げている。
「……これ、大丈夫かな? シャドウの持ち主の方たちに影響は……あっ」
ノワールの視線の先、ぽこぽこと効果があるのか疑わしい体当たりをくり返していた小さな影が、鼻息に吹き飛ばされてきりもみになって吹き飛んでいった。
手ごろな建物の窓ガラスをぶち破って止まったそれに「やっべ」と漏らしつつ、スカルはゆるく首を左右に振った。
「あってもちょっとくらいだろ。俺ら本体じゃなくてペルソナ殴られて血とか出たことあったか?」
言外に「ないだろう」と籠めて、スカルは幾度目かもわからない猛攻を仕掛けに飛びかかる。
彼は状況を楽観視しているらしい。それはいつものことでもあった。
そうなると、理性的な面でのしわ寄せがクイーンにくる。彼女は頭の上に積もった土ぼこりを払い落としながら吐息を漏らした。
「まあ、そうよね。せいぜい筋肉痛くらいじゃない? 石なんて鞄につめてたら、それくらいにはなるでしょ」
どことなく投げやりになっているのはどこを向いても彼女の視界のいずこかに目を逸らしたくなる血のつながった相手の姿があって、それは『もどき』たちと同じく言葉はないが、どうもシカトを決め込もうとする彼女になにか言いたげにしている。
同じ建物の上で一人っ子のパンサーはきょうだいっていいなぁ、と他人事にもらした。
この際鞭で足元を叩くのはもののついでだ。命令されたわけでもないのに、おおむね男の形を保つ『もどき』らがなに故か嬉しそうに飛び出していくことも。その場に留まったままの何体かがなにか気持ちの悪い期待の籠った眼差しを向けてくることも。
「気色悪いっての! アンタらもさっさと行けッ!」
高いヒールの踵や鋭いつま先で蹴りつけてやると、それらはキャインと―――どことなく嬉しそうに―――鳴いて駆けだしていった。
どこかで誰かが「さすがパンサーだ」と称賛めいたこと口にした気もするが―――
「だからっ! 私にオトコを叩いてヨロコブ趣味はないんだって!」
じゃあオンナ相手ならあるのか、とまぜっ返す声には「うるさい!」とぴしゃりと返して、パンサーは再び鞭を振り上げた。
現れた紫色の輝く虫たちは、果敢かつ無防備に巨体へ立ち向かう『もどき』たちにそれぞれ貼り付くと、目に見えない盾を構えて攻撃のことごとくを弾き返した。
また、天のどこからか古びたロープが垂らされると、そこに自らボロ布が絡みつき、やがてはヒトの形を大まかにとってぶら下がる。
怨み骨髄と言わんばかりにそれらはうめき声を一斉に上げた。
死霊のような低音は地を這い、毒の霧のように満ちて足元で群がる異形たちを狩り尽くす。
天上では荒れ狂う炎が渦巻いては黄金を剥がされた巨神の肌を焼き焦がしていた。
『効いてる、けど……ちまちまやっても効果薄いな。塞がるのに時間かかるような―――デカいの一発、決めてやれ!』
そういうことなら、とまず動いたのはスカルだ。
向こう見ずに懐に飛び込んだ彼をまるで羽虫を潰そうとするように両の手のひらが迎え撃つ。
それを、続いたクイーンが左、右をノワールがそれぞれ受け止めて防いだ。
雷光まとった得物を振りかざした彼を自らでは止められないと悟った巨神は、次いで腕からたなびく煙の影から分け身をかからせた。
四方八方から押し寄せる肉布団にスカルと彼のペルソナはもろとも包まれて稲光は消え失せる。
―――何故、とそれを見下ろす大きな眼が訴える。
それはまた、手のひらをせき止めていた少女たちを押し潰し、ぶ厚い唇を開いて声を発する。
「何故そうまでする。融合に痛みは無いぞ。恐怖もすぐに消え失せる」
カッと見開かれた眼がパンサーと、彼女を守るように立ち塞がるモナに向けられると、その足元からは質量を伴った光が伸び上がり、またたく間に二人を包んで視界から消し去った。
「少しばかり心を安らかにするだけのこと。何故それをこうまで拒絶する?」
現れた場所から一歩も動かないまま成り行きを見守っていた―――結局モナは彼を治療しに駆け寄ってはくれなかった―――ジョーカーは、わずかに首を振って答えた。
「まだそこまで行き詰まっちゃいないから」
必要なことではあるのかもしれない。極わずかな対価によって人々がおしなべて善良になるとなれば、ここまで必死に拒絶するほどのことでもないだろう。
「だけどそれは『今』じゃない。それに……」
パチン、とジョーカーは指を弾いて鳴らした。
するとうごめく肉の塊と化していた赤ん坊の群れに、巨神の死角―――脇の下からスカートの裾を翻し、傷だらけのローファーで飛び上がったが半身の拳を叩き込んだ。
弾け飛んだ肉の中から半ば叩き出されるような勢いでスカルが現れる。
「口ン中ッ、入ったぁ! なんだこりゃあ!!」
ドロとゲロと賞味期限切れの牛乳の味がする、と喚きながら、彼は巨大な胸元、心臓があるだろう場所目掛けて渾身の一撃を叩き込んだ。
空気中に過大電流が通り、目を焼くほどの輝きと金の融点の五倍はある熱を撒き散らした。
溶け落ちる黄金は落下とともに冷やされ、地上に落ちるころには再び固まって金塊となった。その辺りで歓喜の悲鳴が轟く程度には、足元は落ち着いているのだろう。
しかし上はまだそうはいかず、電撃を伴った心臓打ちを受けてなお顔色一つ変えないままの神が左腕を振りかざす。ナビが視覚上に表示した軌道上には間違いなくスカルとが含まれていた。
『そこだ! やれ!』
拳を握って脚をバタつかせたナビの声に、左腕に貼り付いていたクイーンが頷いてみせる。
パッと夜空に瞬いた青白い光は衝撃となって肌を穿ち、大量の靄を吹き出させて攻撃の軌道を逸らした。
しかしそれも読まれていたのか、派手な左の動きの裏で硬く握られていた右の拳が動いた。
頭部どころかボディですらなく、全身を丸ごと打ち上げるアッパーカットがスカルとに突き刺さっていた。
高々と天を舞う二人からは悲鳴も上がらない。
『ヨシッ!』
だというのに、ナビは嬉しそうにモニターに指を突きつけた。
右を担当していたノワールはそれが見えているのか、応じるよう笑顔を見せる。
彼女の頭に乗せられているはずのハットは先の衝撃でどこかへ飛んでいき、どこにも見当たらない。探して見つかるものかしらと不安がる彼女の背後に、ビビッドカラーに包まれた女が現れた。
その手が優雅にひと振りされると、目に見えない力が働いて掲げられた腕をその場に固着させてしまう。
「お待たせしました。どうぞ、お好きになさって」
「もう済んだ」
「まあ」
黒いマスクの下の眼を丸くしたノワールのそばに、フォックスが手を付けている。ノワールは少し迷って、彼の肩に尻を乗せた。
「……」
誓って彼は沈黙を守り、胸に浮かんだ言葉を決して、終生に至っても口にしなかった。
さておき固定された腕から離れようと強く蹴り、手近なビルボードの上に脚を着けると、ノワールが離れたことで固定する力が失せたのか二人の背後から苦痛に満ちた低いうめき声が響き渡った。
それを打ち消すようにフォックスは刀のこじりでもってビルボードを支える支柱を叩いて鳴らした。
途端真っすぐに伸ばされた腕に一本の線が入り、ゆっくりと滑り落ちていく―――
「よし……『やってやれないことはない』な。フッ、なんだ、案外簡単ではないか」
満足げに独り言ちる後ろで、両断された右腕は握られたままの拳を下にして地に落ちる。しかしそれも、なにかにぶつかる前に花火のように弾けて形を失うと靄と化して一つにまとまった。
切断面から覗く内側に骨らしき芯は窺えない。あるいはあるのかもしれないが、吹き出す黒い気体が断面を覆い隠してしまっている。
『自画自賛、おつ。ほれ、続け続け〜』
ナビの言い様にフォックスは顔をしかめたが、ノワールがなだめにかかると言い返すこともできない。
それに、フォックスが『やってやれないことはない』のであれば、かつて目撃した光景を作り出した張本人―――蛇―――であればもっと容易なことだろう。
打ち上げられてからここまで自由落下を満喫していたスカルは、冷たい横風に目を細めながらよろめく巨神の肩口を指し示していた。
「ブッた切っちまえ! ついでに、着地すんの手伝ってくれたり―――」
しない?
と横目に白蛇を窺う間に、隆々とした肩に斬撃がめり込んでいる。
しかしこれは両断にまでは至らなかった。狙った場所が悪かったのか、はたまた建物と建物の間に網を作って少年をすくい上げてやることに意識を割かれたからか。
いずれにせよ少しして腕は切り落とされる。
「や〜っぱスカルはダメだな! 詰めが甘ぇんだよ、ツメがよ!」
ふんぞり返って言ったのはモナだが、切り落としたのは彼よりずっと大きい年老いた猫だ。若輩者と並んだ老猫の目はしかし、し損なった蛇を嘲るように細められている。
このころになってやっとジョーカーの傷は完全に塞がれる。『もどき』を足場に―――彼女が望んだわけではないが―――してやってきたパンサーが、頭の天辺からつま先まで、よく生きてられんね? と呆れながら治癒してやっていた。
そして―――
切り落とされた腕から転び出た靄のうち、左腕だったほうのそばに、轟音鳴り響かせてが着地する。
頼りなさげなだけの脚を包む厚手のタイツは破れて穴が空き、その下の素肌は擦り傷だらけになっている。
もしかしたら、叩き上げられた一撃と、今の着地で、骨の一本は折れているか、粉砕されているかもしれない。
よろよろと立ち上がった彼女の目に、球状の靄が映った。
「この、よくも―――!」
直ちに拳が構えられる。それは間違いなく憤怒といらだちに彩られた必殺の意志が籠められている。
「ちょいまち! すと〜っぷ!! ! アンタが率先してヤッちゃおうとしてどーすんのよ!?」
「ウッ……た、たくさんいるんだから、一体くらい……」
靄は悲鳴を上げて後退り、彼女を罵った。
『悪鬼! 悪魔! 悪党!』
それはよく彼女の感情を逆なでする。
「こんな目に合わされて怒らないわけがないだろう!! もう我慢できない! 一体だけでも叩き潰す!」
悲鳴と破砕音―――
しかし辛うじて靄はまだ無事でいる。
『あー……おイナリ、止めてさしあげろ』
「好きにさせてやってもいいのでは?」
『いかんでしょ』
「いかんか。そうか。承った」
しばしの後、パン、と破裂音が響いてに正気を取り戻させた。
「思ってた以上に馴染んでるな、彼女」
「そりゃね。結局ウチら似たもの同士じゃん?」
向こう見ずのお節介焼きだ、と笑ってパンサーは傷を塞いだばかりのジョーカーの背を叩いた。
「あいて」
「もう痛くないでしょ。ほら、名誉返上するチャンスだよ」
「……名誉は挽回するものだろ」
返上は汚名、と苦々しく返されて、パンサーはわざとらしく小首を傾げてみせた。
「……えへっ」
ついでにいかにも媚びた笑みと仕草をしてみせる。そんなものがこの少年に通用していたら今日までの苦労はないと知りながら。
少年はただ笑って、
「バカだな」とこの上なく楽しげに彼女を罵った。
それから、ジョーカーと彼が率いる≪軍勢≫は残りを五つに叩き割った。記すほどのこともなにもなかった。
正気に戻ってなおしつこく「一つだけでいいから」と迫るにクイーンが制裁を加える横で、他の怪盗たちはぐるりと球状に戻った靄を取り囲み、『交渉』に入っていた。
「こちらの要求は一つだ。立花紬の『心』を返してもらう―――」
「あ、ついでに今の戦いで壊しちゃった物とか全部直したりできない? コレ現実にも影響あるんだよね?」
「……俺たちの要求は二つ―――」
「俺らが斃しちまった連中とそっちがヤッちまった奴らもだよ。オラ、やれんだろ」
「三つ―――」
「待て。これまで異界に連れ込まれた人々もだ。神ならばそれくらいやってもらおう」
「四―――」
「もちろん、も本来在るべきところに返すんだ。これは簡単だろ?」
「五―――」
「うーん、汚れたり破れたりしたお洋服もどうにかできたりしないかな?」
「六―――」
「あっ、じゃあじゃあついでに」
「ちょっと黙ってて」
「なんでわたしばっかり!」
喚いてナビは腕を振り回したが、ジョーカーはチラと見もせず手の中の銃を構え直した。
「さて、さすがに『まだ』とは言わない。六つで十分だ」
球体たちは寄り集まって半ば一つになりかけながらヒソヒソと声を交わしあった。
『できるか―――』
『無理であろ―――』
『しかし―――』
『いや―――』
『だけど―――』
『やれば―――』
『ええい―――おまえたちときたら―――!』
そのうち、一つが声を張り上げた。
どうやらそれは今回の件で『復活』を果たした個体であるらしい。残りの六つは身を寄せ合ってまたヒソヒソやりだした。
『短気―――』『イラチ―――』『せっかち―――』『声が大きい―――』『粗忽者―――』『馬鹿―――』
……怪盗たちは誰にともなくスカルに視線を向けていた。
「なんで俺見られてんの。すげームカつくからやめろコラ」
罵倒の幾つが当てはまるからだとはさすがに誰も言わずに済ませたが、しかし球体のほうはそうもいかない。七つ目は怒り心頭と膨らんで残りになにか―――ヒトには理解できないなにかを仕掛けはじめた。
口論はますます激しく、暴力を伴って発展しているらしい。
しかしそれも、一発の銃声にピタリと止まる。
「あまりまとまらないようなら、、好きにしていいわよ」
「わかった」
未だ納得した様子を見せないの足元から蒼い炎がふき上がる。擦りむいた膝ににじむ血が沸騰していないのが不思議なほどの怒りがまだそこにはあった。
やがてため息のようなものがもらされると、七つ目は視線を合わせるようにわずかに浮き上がった。
『よかろう。そちらの言い分にも一理ある。人はいつの世もそのようにして欺瞞とともに生きてきた』
どうやら、これは球体たちの頭目にあたる存在らしい。他六つはぶうたれなからも異論を挟むことはなく、ふてくされたようにその場で回転している。
『我々には無限の時間がある。此度の伯仲に免じ、今しばらく見守ろう』
「そんなのどうでもいいよ。紬を返して」
心底興味も関心もないと言わんばかりの態度だ。隣のクイーンもさすがに同情めいたものを靄に向けた。
とはいえ要求は呑んでもらわねばならない。
ジョーカーは真紅のグローブに包まれた指先で、靄を己のほうに招いてみせた。
まだ口惜しそうな、名残りをたっぷりと感じさせる呼気が球体たちからもれる。結局、そうした音の発生源がどこにあるのかは、ナビにも判別つくことはなかった。
『今回は引き下がろう』
『仕方がない』
『今しばらくは』
『見守ろう』
『まだ待てる』
『今しばらく……』
ふと、パンサーが不思議そうに碧の瞳を瞬かせた。そのしなやかな手指は己の髪に添えられ、もつれた毛先を手櫛で整えている。
彼女は言った。
「それっていつまで?」
七つ目が答えた。
『五十六億七千万年後』
「ウチら全員、とっくに死んでんじゃん!」
パンサーが素っ頓狂な声上げるのと同時にそれは光の塊に変じ、導かれるようにジョーカーの仮面に吸い込まれる。
残りの六つは、「あーあ」と諦観の籠もったため息のようなものをついて、霞となって消えていった。
異界も同じく靄と化し、その場にいる資格を有しないものは全て、元の通りに弾き出された。