30:One For My Baby

……

………

 肌寒さと身体が揺れる感覚に吸い寄せられるようにして少年は覚醒した。
 ほの蒼い輝きを放つ行燈が四方に置かれたそこは、薄闇に包まれたどこかの座敷の中のようだ。耳にはかすかな水音がある。揺れる感覚もあわせて鑑みるに、どうやら屋形船かなにかの上にいるらしい。
 畳敷きの部屋の中央で、彼はあぐらをかいて座している。いつの間にかうたた寝をしてしまっていたのか、まぶたはなかなか上がってくれなかった。
 眠い目をこすりながら顔を上げると、行燈の灯りに照らされて鈍く輝く文机に、見覚えのある顔が肘をつけているではないか。
 その容貌の異様さにも慣れたつもりでいたはずであったが、状況と一月と半分の時の流れが彼を驚かせた。
 目をむいた彼とは正反対に、白髪頭を撫でつけた老紳士は愉快そうに目を細める。
「いやはや、此度のご活躍もまた見事なものでございました」
 その声が妙に高い老人のものであることに密かに安堵しつつ、彼は首を緩く左右に振った。
「俺は大したことはしていない」
「ご謙遜を。フフフ……」
 老人は肩を震わせる。
 謙遜などではなく心底からの言葉だったのだが―――まあいいか、と少年は意思疎通を諦めて本題に取り掛かった。そのためにここへやって来たのだ。
「俺が持つ仮面の一つを他社に譲り渡すことは可能か?」
 率直な問いに、老人は鷹揚に頷いた。
「可能ではありますな」
「ならやってくれ」
「フフ、ご決断の速さも貴方の力の一つでございましょうが、話は最後まで聞くものです」
 わずかに身を乗り出した少年を微笑ましく思ったのか、それともその性急さを嘲るつもりなのか、老人は喉を低く鳴らしている。
 どちらにせよ不快感を抱く類のものではない。嗜める意図を察して少年は居住まいを正し、恥入るように頭を掻いた。
「……なにかあるのか?」
「あちらのトリックスターに貴方の中の≪力≫を譲り渡すには、少々込み入った手順が必要になりますな」
「どんな?」
 連続する疑問符に、ふーむと唸って、老人は痩せた指先で文机を叩いた。
「本来ならば、そう難しいものでもございません。必要なのは、貴方と彼女を結ぶ縁です」
 縁。と噛みしめるようにしてくり返した少年は、きゅっと眉を寄せて難しい顔を作った。
 確かに難しい話じゃない。人となりもほとんど知らない、名前しか情報のない相手ではあるが、こと彼女に関してはそれで充分に思える。
 ただしそれは、会話ができる状況ではなければならないだろう。
「今の状態じゃ駄目ってことか」
 渋い反応を返すのにはわけがある。何故なら彼女は意識不明の面会謝絶で、この少年は現在執行猶予なしの実刑をくらっている。会話以前に顔を合わせる段階からして難題だろう。
「……じゃあ……」
 無理なのか、とこぼれそうになる諦めの言葉を、今度こそ老人はせせら笑った。
「貴方らしくもありませんな。その言葉を口にするには時期尚早というもの」
 怪訝そうにする少年の胸元を指して老人は言う。
「貴方はなにかをお持ちのようだ。彼女と貴方を繋ぐ、そう、『宝』を―――」
「宝……?」
「お持ちでしょう。ほら、それそこに」
 示された懐を少年は慌てて探った。宝と言われるような御大層なものなんて、なにか持っていただろうかと。
 するとコツッと指先に硬い物が触れる感触があった。
 手のひらに収まる程度の大きさの木箱だ。封をしているのは両面使いの彩竹ひもで、鮮やかな緑と黄色が蝶々結びにされている。
 それは取り出されるなり手も触れていないのに解けて箱の中身を明らかにする。
 小箱からこぼれ落ちたのはなんてことのない子どもの宝物だった。
 プラスチック製のちゃちなアクセサリーや鏡、野花の押し花、汚れたぬいぐるみのキーホルダーに、虫の抜け殻や空になった巣……
 おそらくこれらは彼女に―――彼女らにとって、同じ重さの黄金より価値のあるものなのだろう。
 そう思うなり慌てて両手ですくい上げる。
 それを見て老人はパチンと指を鳴らした。
 すると彼の手の中のものは溶けて一つになり、飛び立って淡い燐光を放つ蝶に変じた。
 ゆらゆらと漂う姿は鬼火か人魂のようだ。
 蝶という形をとったため余計にそう思わせるているのだろう。古来より蝶という生き物は魂が変じたものであると伝えられていることは少年も聞きかじって知っていた。
 華やかな見た目と舞うように飛ぶ姿は美しさと繁栄にも結び付けられると同時に、花と花とを移り回る様は浮気な態度としても捉えられる。
 それは己には関係のないことだとして、少年は手を伸ばした。
 容易く手のひらの中に捕らえられたそれは霊魂であると同時に、生命と復活の象徴でもある。
 老人は満足げに頷いたが、やがていくらか残念そうに眉尻を下げた。
「よろしい。さて、こうなると貴方はもはや、私どもの客人ではございません」
 心底から心惜しそうな声に、彼はゆっくりと立ち上がった。
「誠に残念ですが、ここでお別れでございます」
 ガタンと音を立てて船体が一度だけ揺れ、静かに背後の戸が開かれる。そちらへ目を向けると、黒く沈んだ水面の中に桟橋が浮かび上がっていた。
 少年は頷いて踵を返すと、別れの言葉どころか謝辞さえ告げずに舟を降りた。
 その不遜な態度こそを面白がるように老人は怪しく笑った。
「貴方は最高の客人でした……おや、これはもう以前にもお伝えしましたかな」
 とぼけた態度も数歩離れればもう届かない。
 この邂逅はまったくあり得ない、異例中の異例なのだから、別れの挨拶も称賛の言葉も不要だった。
 橋から苔むした地面に足をつけるまで歩いてやっと、少年は老人以外の人影を見つけて息をついた。
「君は……」
 見覚えのある姿だ。枝のように痩せ衰えた手足に痩けた頬、中空を見つめる虚ろな瞳、ぽかんと開けられたままの口の端からは涎が垂れている。
 心を抜き取られた立花紬が、船着き場に積まれた荷物の一部のように、腐りかけた木箱の上に座していた。
 ちらと背後を見ると、舟はまだそこにあって、次の客を待ちわびている様子だ。開け放たれたままの戸の影から、見たことのない銀髪の、女とも男ともつかない人物がこちらを不安げに見つめている。
 あまり待たせるとかわいそうだと思って、少年はその手の中に包み込んでいた蝶を放ってやった。
 ゆらゆらと頼りなく羽ばたくものは、はじめ己の行く先を決めかねているように見当違いの方向に向かう。
 手を出してやるべきかと思うが、しかしこれで駄目なら、きっと彼女の旅路はもとよりそういうものだったのだろうとも思う。
 自分が手を貸してやって然るべき相手とも思えなかった。
 さりとて立ち去るまではせず、青錆の浮いた擬宝珠が取り付けられた桟橋の親柱に寄りかかる。
 やがて少女は彼の思った通り、枯れ枝のように細い腕を持ち上げ、震えながら蝶を手招いた。
 痩せた手は強く、こんなところで終わってたまるかと訴えている。
 果たして蝶はそれに応え、手のひらの中に収まると静かに羽を休めて溶け落ちていった。
 変化はすぐに訪れなかった。
 ここまできて失敗したなどというオチはないだろうと高をくくっていた少年がさすがに腰を浮かしかけると、やっとうつろな目に光が灯りはじめた。
 次いでふっと吐息が漏らされると、火が点いたように頬に赤みがさし始める。
 安堵のあまり脱力してずり落ちる彼のそばを細い脚が踏みしめて通り過ぎていく―――
 無視を決め込んでいるというわけではないだろう。少年は自身の経験を顧みて思う。
 自分だってあの牢獄を訪れるとき、誰かとすれ違ったりはしなかった。あるいはしていたとして今日までそのような記憶はないではないか、と。
 少女の脚が桟橋から移ると舟は直ちに岸を離れた。
 少年が背筋を伸ばして水辺にくまなく目をやっても、灯りの類は一つたりとも見つけることは叶わない。いわんや水上には、境目さえ判別難しい暗色が横たわるばかりだ。
 ひどく絶望的な道行に思える。
 この少年はいつだか彼女を評して『己と同じもの』であるとしたことがある。
 真実そうだとして、他者の無謀に思える旅立ちを目の当たりにする気分というものは、あまり良いとは呼べないものだった。
 先輩風吹かせてなにかアドバイスの一つでもしてやるべきだったか。例えば、SP回復アイテムは可能な限り回収して、惜しみなく使ったほうがいい、とか……
 考えながら少年は擬宝珠からそっと離れた。
 彼女の旅立ちから先がどうなろうと、それはもう彼の手を離れたところの物語だ。なにより―――
「俺よりはよっぽどマシなスタートだな。……そうだろ?」
 ふり返って視線を下げると、二つの小さな影のうち片方が苦笑する姿が映る。
「そうですね。私は二つに裂かれ……」
 少女の金に光る瞳がチラ、と傍らへやられる。
 そこに立っているのは二本の脚で立つ猫のような、しかし猫ではないと主張する生き物だ。
「ワガハイは自分の記憶を失って、そんで、オマエは牢獄ときた」
 最悪のスタートだったぜ、とかぶりを振る黒猫に合わせて、少女もまた重くため息をついた。
「今後もあの場所に囚われることがない、と言い切れないのが悲しいところですね」
「オマエ、なーんか持ってるもんなぁ」
「ほっとけ」
 少年は鼻を鳴らして足を前に踏み出した。こちらは水上と違って、道を照らし出すほのかな灯りが見て取れる。
 彼は満足げに目を細めて言った。
「さ、ルブランに帰るか」
「いえ、現実のあなたはまだ牢の中です」
「……そうだった」
 がっくりと肩を落としてうなだれる彼の左右を、少女と猫が挟んで歩き出す。
「ニャハハ! まっ、もうしばらくだけ辛抱しろよ!」
 猫は、二足歩行をしながら腹を抱えて、嬉しそうに尾を振っている。
「もうしばらく、ね。外に出るにはまだまだかかりそうだけど」
「そうでもねぇよ。あっという間だ」
「あー?」
 首を傾げた彼に少女は艶然として喉を鳴らした。その金の瞳は、じっと少年に定められて決して逸れない。
「あなたが、あなたの旅路で得たもの―――黄金よりも価値のある、真なる絆……その答えがあなたを待っています。さあ、参りましょう」
 迂遠な表現はいつものことだ。少年は頭をかいて曖昧に頷くと、また前へ足を運んだ。
「よくわからないけど……お前も一緒なのか?」
「あなたがお嫌でさえなければ。私の役目はあなたのそばにあり、その行く末を見守ることです、トリックスター」
 ぶ厚い本を片手に下げた少女は、不安がる様子はかけらも見せず、ただピッタリと少年に寄り添っている。
 それがなにを意味するのか、解らないほど鈍感にもなりきれなかった少年は、やはり曖昧に、しかし確かに彼女に応えてやる。
「じゃ、行こうか」
「はいっ! ふふっ、やった……!」
 小さく拳を握る様に、少年もまた笑みを浮かべる。
 二人の数歩先を行っていた猫はその場で空中三回転を披露すると、車に変じてエンジンを唸らせはじめた。
「ほら乗れよ! 飛ばしてこうぜ、ジョーカー!」
 少年は、仮面の下の瞳を妖しく紅く輝かせて、生暖かいシートの上に乗り込んだ。助手席には当然のような顔をした少女が座る。
 行く先はまだいくらか暗いが、見通しは悪くない。道を照らす明かりも揃っている。
 アクセルをベタ踏みしない理由はどこにもなかった。

「ところでラヴェンツァ、さっき俺の頭を蹴らなかったか」
「……なんのことでしょう?」

……
 ———結局すべては夢ということになった。
 いつものごとく、衆生はなにかとんでもない大戦があったことなど知る由もなく、ただ……ちょっと奇妙な白昼夢か、あるいは悪夢に類するものを見てからこちら、筋肉痛がひどいと多くの者が訴えたりはした。
 大勢にある影響などその程度だ。

 の身上に関しては、さて。いささか奇妙なことになっている。
 戦いの後、目覚めた彼らは翌朝の時間に居て、それぞれの寝台の上に身を横たえていた。
 慌てて連絡を取り合うと、皆々同じ状況にあるらしい。彼らは一先ず胸をなで下ろしてそれぞれの日常を遂行すべく制服に袖を通し、学び舎へ向かった。
 真っ先にその奇妙さを感じ取ったのは当然というべきか、喜多川少年だった。
 まず、同じ教室に現れるはずのが一向に現れず、またこのクラスを担当する教師も、普段より二十分も遅れてやっと顔を出し、連絡事項は後で伝えるとだけ言い残してすぐに立ち去った。
 なにがあったのかと詮索する声は入れ替わりに一般教養を担当する教員が現れたことで霧散したが、喜多川にはおおよその見当がついていた。きっとに関することだろうと。
 果たしてその予感は的中した。
 普段なら授業中に手も触れずに済ませるはずのスマートフォンが震え、メッセージの着信を告げる。机の中でそれを確かめて、喜多川は目を見張った。
 怪盗団の面々が揃うグループチャットに投げ込まれた文言は以下のようなものだった。
『今新幹線の中』
 次いで画像が放り込まれる。真っ白な雪に覆われた富士山が雲間から落ちる天使の梯子のむこうで輝いている―――
 いい写真だと、喜多川は思ったままをそのまま告げてやった。
 それを叱りつける高巻や新島に、なにがあったんだと問う坂本が続いた。
『なんか、すぐ家に帰れって……』
 自身もまだ混乱の中にあるらしい。皆と連絡を取り合った直後、まだ寝ぼけたところに両親から着信が入り、今どこにいるのかだとか、システム上の混乱があったらしいだとか、とにかく一度戻ってこいと厳命されたのだとか……
 とにかく、この『転校』自体が間違ったものだったということになっていると彼女は告げた。
 それで、その間の出席日数や単位の問題、そもそもの責任の所在を話し合うためにも、まずは本人がいなければ話にならないと、帰ってこいと要請されたのだという。
『つまりなんだ? はふたつの学校に籍をおいてることになってるんだな?』
『そういうことだね』
 なにそれどーなんだよ、と坂本が不安がる。
『普通はどちらか除籍しなくちゃいけないよね。やっぱり、元の学校に戻るのかな?』
 奥村の問いかけに返答がある間、喜多川は妙に緊張して身体を強張らせていた。
 もちろん彼としても、元の通りに収まってくれたほうがいいに決まっている。この『転校』自体があの子にとっては不本意なものだったのだから。
 なによりそれでやっと彼女は家に帰ることができる。ずっと心細かっただろう異国の地から、安心できる我が家に戻って、家族とともに過ごせるようになる―――
 はすぐに返信を寄越した。
『そうですね。元の学校に戻ります。それが本来行くべきところだったんだから』
 喜多川は素直に安堵することができたことにこそホッと息をついた。
『寂しくなるな』
 それは偽るところのない彼の本音だった。
『おイナリは特にそうかもな。わたしもさびしい。こっち通えばいいのにÓ_o』
『駄目に決まってるでしょ……でも、本当に寂しくなるわ』
 別れの挨拶さえ直接交わせなかったことを高巻などは大仰に残念がった。賑やかにするのが好きな彼女のことだから、なにかを催そうと画策していたのかもしれない。
 喜多川は教師の目を盗みつつさらに言を寄せた。
『気軽にとはいえないが、それでもいつでも会える』
 怪盗たちは同意した。
 彼の言う通り、休みさえ合えば『全員』ですぐに顔を合わせることもできる、と。

 地元に帰ったの処遇はそう悪いことにもならなかった。
 前述の出席日数や単位の問題は教科課程の差もあってなかなかに面倒なことにはなっていたが、それは結局管理システム上の問題であり、彼女自身の過失ではないとしてお咎めや補講等が課されることなく調整された。
 こればかりは、も深く、神や仏や、あるいは名状しがたいなにかに感謝の念を捧げた。
 そして三日と経たず彼女の、洸星高校におかれた籍は削除された。
 また同時に、意識不明で人工呼吸器に繋がれていた立花紬が目覚めたという報も舞い込んでくる。こちらに関しては皆、成功を確信していたから大げさな喜びを表現する必要もなかった。
 ただ安堵はする。また一つ懸念が消えたな、と。
 一方で喜多川はなんとも言えない感覚で教室を見回す羽目になる。
 クラスメイトが、短い間とはいえ机を並べて学んだ友人が居なくなったというのに、誰もそのことに疑問を抱かないでいる―――その席に本来座す少女は目覚めたもののまだ病院で、そういえば彼女が転校したときも、それを不審に思う者は一人として―――喜多川自身も含めて―――現れなかった。
 それも『夢ということになった』せいだろうか?
 判然としないことはまだ多くある。
 六つの要求のうち四つ―――立花紬の返還、現実への物質的な影響の遡行、の身上に今回の戦いで駄目にした衣服の保証。これらは叶えられたが、残りの二つ……怪盗団が対峙した神格たちの無事と、異界に迷い込んで戻らなくなった人々の行方は謎のままだ。
 思い返すだけで震えがくるような光景をまぶたの裏に思い浮かべて、朝のホームルームの間中、喜多川少年は吐き気を堪えるのに必死になっていた。
 それも、少し長めの中休みになると治まってくる。
 それが薄情さ故のことか、単なる防衛機能によるものかは彼には判別つけ難かった。
 念願叶っては家に帰れたが、彼女はどうしているんだろう。不安に思っていたりしないだろうか。
 そんなふうに考えていると、また授業中にスマートフォンが震えてメッセージの着信を教えた。
 それはグループチャットにではなく、喜多川個人に宛てられたものだった。
『今日会える?』
 たった六文字に籠められた意図を察し切れずに目を白黒とさせるも、彼はすぐに返信した。
『もちろん』と。
 どこに行けばいいのかと返した彼に彼女は少しの間を置いて、
『それじゃあ放課後。ルブランに』と寄越した。

 終業のチャイムが鳴るなり早足になって教室を出た喜多川は、すっかり通い慣れた道を辿って喫茶店のドアをくぐった。
 軽やかなドアベルの音とともに現れた彼を、新聞に目を落としたままの惣治郎が出迎える。いかにも客と思われていないその態度に不満はないが、まるで彼が入ってくるのが解っていたかのようだ。
 惣治郎の前にはカウンターテーブルを挟んでが腰を下ろしているから、彼女がこの来訪を予め告げておいてくれたのだろう。
 納得して踏み入って、しかし喜多川は首を傾げた。
 店内にはいつものごとく、待ちわびた様子の以外に客の姿は見られない。
 それはいつものことだ。どうしてこれで身上を潰さずに済んでいるのかという常々からある疑問は、このとき湧き上がった新たな疑問に塗りつぶされた。
「ん……? 俺だけか? 皆は?」
 の隣、カウンターチェアに浅く腰掛けた喜多川に、彼女は少しだけ照れた様子で髪をいじった。
「皆にはこれから声をかけるつもりだよ。いちばん最初は、やっぱり君かなと思ってね」
 なにが、とさらに問いを重ねようとする口を遮って手を出したのは苦笑する惣治郎だった。壮年の男のいくらか痩せた手は、真っすぐに正面―――カウンター席の背後、ソファ席のすぐそばの壁を指し示している。
 導かれるようにふり返った少年の目に入ったのはシンプルな木製の額縁だった。大きさはF三〇か。描かれているのは油彩の博物画だが、どれだけ記憶をさらっても画面を占める植物に見覚えはなく、よくよく目を凝らせば八重に重なる花弁と葉の上や影には小さな虫がひっそりと描き込まれていた。
 虫たちは目に留まると活発に動きはじめる―――ように見える。それはいずれもが荒っぽいが動的に描画されているからだろう。
「本当はもっと詰めるべきなんだろうけど、今は……」
 恥じ入って目を伏せつつは言った。
「これが今の私」と、絵を指し示して。
 アラ・プリマだと喜多川はすぐに理解する。油彩画のあらゆる技巧を押しやって感情のまま、まだ稚拙な彼女の豊かな感性を筆先に乗せたものだと。
 彼はさらに描かれた自然のものに籠められた真の姿を噛み分けて微笑んだ。
 それぞれ花弁の色と形の違う未知の本草……それは八つあって、束ねられるわけでも絡み合うでもなく、しかし隣り合って互いをよく見栄えさせている。蟻や蜂があるのは単純に彼女の趣味だろう。あるいは先に見た≪軍勢≫の暗喩か―――
 確信をもって喜多川は語りかけた。
「なるほど。これは俺たちか」
 は愁眉を開いてまた髪を触った。
「うん、そんな感じ。やっぱり本人には解るものなのかな?」
 これに喜多川はうーんと唸る。
 即興性の高い筆致は荒く、細部までよく描き込まれてこそいるが、存在しない植生だけに曖昧で薄ぼんやりとした印象は拭えない。
 これではただの『きれいなだけ』の絵だ。喜多川は己の所感を馬鹿正直に告げた。
「そうだろうな。これでは余人には……君が籠めてくれた想いの欠片さえ伝わるまい」
「手厳しいなぁ」
 そう言いつつもは笑み崩れる。この少年から与えられる批評が嬉しくてたまらないとでも言いたげな様子だ。
 喜多川は苦笑して、また絵のほうに目を向けた。まだまだ稚拙と言っていいはずの絵を前に、しかし彼の背すじは自然と伸びる。それには、胸を張って堂々としていなければならないという気にさせるようなものが籠められているからだ。
「俺の個人的な感想を述べていいのなら……誇らしいよ。君には、俺たちがこう見えているんだな」
 少しばかり照れくさそうに吐き出されたこの言葉を、は否定も肯定もしなかった。彼女には喜多川の眼に己の作品がどう映っているのか、それこそ解らないからだ。
 ふと、コーヒーの香りが鼻先をくすぐった。気を利かせてくれたのだろう、惣治郎がカウンターの上にカップを二つ出してくれている。
「あ、すみません。えっと……」
「ん? ああ、気にすんなよ。俺にゃよくわかんねぇが……嬢ちゃん、家に帰れたんだろ。こいつは餞別だ」
 目を細める壮年の男に、は深々と頭を下げた。
 喜多川のほうはちょっと渋い顔をしている。
 ―――じゃあ俺のほうはおごりじゃないのか。はて、財布の中身はどうだったっけ……?
 不安のにじむ面をじっくり眺めて、惣治郎は「出世払い」と笑いを噛み殺しながら言ってやった。
「今日ね」
 はカップに指先を当てて温めながら言う。
「今日は寮に置いた荷物を取りに来たんだ」
「手伝おうか?」
「ありがとう。でも大丈夫、それはもう済んだ。もともと大した量じゃなかったからね」
「そうか」
「うん。でね、さっき紬のお見舞いにも行ってきたよ」
 舌先に乗った苦味が増したかのように喜多川はわずかに眉をひそめる。成功はもちろんしていると確信しているが、不安が完全に払拭されたわけではなかった。
 どうだった、とかすかな躊躇とともに問いかけると、は彼を安心させるように満面の笑みを浮かべた。
「少しだけど話もできたよ。なにがあったのかはあんまり憶えてなかったみたいだけど、君のことを……あいや、君たちのことを話したら、ありがとうって」
 でもこんなのは、君なら直接聞けることかと彼女は述べる。クラスメイトだもんね、とどことなく羨ましげに。
「そうだな。調子は、どんな具合だ?」
「かなり衰弱してるけど、回復も早いからすぐ歩けるようになるだろうって。なにもなければ来月には登校再開できるよって」
「そうか」
 今度こそ喜多川もまた顔を綻ばせる。
 すると見計らったかのように、二人のスマートフォンが通知に震えた。
 なんだと見れば、共通のチャットに坂本のメッセージが投げ込まれている。
 そこには画像が添付されていた。
『なんか見覚えあるのがついてくるんですけど』
 じっとカメラを見上げるつぶらな赤い瞳と雪のように真っ白な鱗は、なるほど確かに、二人にとって見覚えのある姿だ。
『生きてたんかワレ!』
 素早く反応した双葉はさておき、次いでほどなく、奥村からも画像が投げ込まれる。
『こっちもいたよ』
 そこにはふてくされた表情のモルガナと、それを見下す一回りも二回りも大きな、茶色を基調とした黒の虎模様と鍵しっぽの大猫―――
 双葉は再び、『生きてたんかワレぇ!!』と喚いた。
 すると今度は新島が告げる。
『じゃあこれも幻覚やなんかじゃなさそうね』と。
 当然そこには画像があって、抜けるような晴天の空にぼんやりと浮かぶ大まかにヒトの形をした黒い影が中央に捉えられている。
 高巻に至っては無言で画像だけを送付する始末だ。
 窓に貼り付いた紫色に輝く小さな甲虫。
 そういえば、あの本物のほうの絵巻物は目覚めるとともに消失していたから、こちらもやはり要求が叶えられたということなのだろう。
 そうなると、あとは―――

……

「それで、あの子は帰ったんだな」
 少年の帰還を祝う宴はとっくに終わり、皆々それぞれ予定や明日の支度があると散っていったルブランの店内に、主賓ともう一人の少年と、それから猫が一匹、まだ残っていた。
 椅子に浅く腰を下ろす喜多川の正面、カウンターのむこうでは、主賓であるはずの少年が洗い物に勤しんでいる。猫は、カウンターチェアの一つを陣取って船を漕ぎはじめてからこちら、小さな寝息以外を聞かせてくれない。
 喜多川は頷いて、それから、背後に飾られたままの彼女の置土産をふり返った。
 鮮やかでありながらまだ稚拙さを残す筆致はよく本人を表している。まだそこに居ると言われれば納得できるほど、彼女を感じられる出来栄えだった。
 午前二時四五分とまではいかないが、日はとっくに落ちている。店主は片付けを主賓に投げて愛娘と家に帰ったばかりだ。
「さびしいのか」
 揶揄するような声に喜多川はムッとしてまたカウンターに向き直る。
 帰還をずっと願っていたはずの相手だというのに、こうなると憎らしく思えるのは人の性か。はたまたこの少年の性質故か……
 実際目の当たりにした度の入っていない眼鏡の下の、この上なく愉快そうに細められている瞳は、喜多川に意地を張らせるには充分だろう。
「さあな。俺がどう思おうと、彼女は家に帰った。それが一番だ」
「ごもっとも。それに、今年一年我慢すればいいだけの話だ」
 彼女は帰る前に、一つの決意を喜多川に告げていった。
 ―――大学はこっちに進学しようとおもう。
 いつかした会話の中で『志望の大学は?』と問うたときは、情けなさの極みのような返答しかなかったというのに、目覚ましい進歩だ。驚きと喜びをない混ぜにした喜多川に、彼女は『たった今そうしようと決めた』のだと重ねて告げた。
 その真意や隠された意図を汲み取ることこそ出来ないままの喜多川は、だから本当にそこまでさびしいというようなことはないと力強く訴える。
 その明らかな強がりに、いよいよ慈しむような眼差しが向けられはじめる。
 それにまたへそを曲げて、それでも立ち上がろうという気配のない喜多川の様子に、少年はエプロンで手を拭いながら笑いかけた。
「ベラベラ喋るのは男らしくないって?」
「そういうことに拘ったつもりはない」
「よく言うよ。まあ、でも……」
 よくやった。
 様々なことを指して述べられた言葉に、単純なもので喜多川の背すじはピンと伸ばされる。なんとなればこの少年に賞賛されるということは、人をよい気分にさせるものだからだ。
 よい気分にさせて、そして調子に乗らせる効果がある。
「褒めるつもりなら一杯奢ってくれ。あの子と……」
 喜多川は空のカウンターを指先で二度、トントンと催促のために叩いてやった。
「俺にもまた帰る気力を取り戻させるために」
 少年は笑顔でサイフォンに手を伸ばしながら、
「出世払いな」と無情にも告げてやった。


 今日は本当に荷物をまとめて送るために来たんだと、君にこの絵を見てもらいたかっただけなんだと言って、はコーヒーを飲み干すとすぐに立ち上がってしまった。
 名残惜しく思った喜多川が、
「駅まで送ろうか」と進言しても、そっけなく「いいよ。気持ちだけで充分さ」と返すばかりだった。それは交通費を慮ってのことだったのだが―――
 なんにせよ、彼女は素早く、そして簡潔にして帰っていった。
「じゃあな、
 また会おう、と日取りも決めずに再会の約束をすると、晴れ晴れとした様子で手を振って、
「うん! またね!」と憂いのない足取りで行ってしまった。

 そんなような感じで、怪盗団はまた世界的な規模の危機を跳ね除け、人類がその支配をより盤石なるものとせしめてみせた。
 唯一にして絶対の独裁者として地上を蹂躙するこれらに対し、五六億七〇〇〇万年の後、本当にまたあの球体らが現れるのかは、今のところわからない。
 その間になにかできることがあるのかも分からないし、あったとしてそれが正しいかどうかを判別する基準さえもが今のところ曖昧だ。
 とりあえず『ゴミはキチンと分別してゴミ箱に』入れればいいのかもしれないが、それが道徳なる観念に通じるのかどうかも、結局のところ誰にも解らない。美観という点から見れば、いいことではある。
 解るのはただ、漂泊の末やっと家路についた少女の胸に、気の早いことにすでに次の旅立ちの決意が固められているということだけだった。