24:The Road to Hell

 カラン、と音を立てて少女の顔から仮面が剥がれ落ちた。
 それと同時に姿を隠していた六つの不定形の存在が現れる。瓦礫の下や血溜まり、粘液の中に立つ泡や鉄骨の影、あるいは土砂の隙間から。
 彼らはかすれた笑声を響かせながら球体をつくり、小刻みに縦に震えていた。
「なんだ、これは……」
 フォックスは膝から崩れ落ちた少女を―――自分が切り捨てたにもかかわらず―――支えてやりながら、呆然として黒いもやの塊を見回していた。他にできることもない。
 彼、あるいは物言わぬ彼女を軸にもやの塊はゆっくりと旋回し始めた。
『思ったより掛かった』
『時間が掛かった』
『手間もな』
『それだけの甲斐はある』
『でなけりゃやっとられん』
『そうだそうだ』
 言葉は彼らに向けられているというより、内々の世間話のような風情だ。
 それがひどく腹に据えかねたのか、フォックスは声を荒らげて誰何する。
「貴様らはなんなんだと訊いているッ!」
 怒鳴り声に球体たちはしんと静まり返って動きを止めた。それがまた小馬鹿にしているように思えて、彼はますます腹を立てた。
 しかしやがて、彼らは哀れみとともにこの少年の問いに応える。
『我々はかつてあったもの』
『今もまだある』
『辛うじて』
 これらの語りはゆっくりとしていて、また内容はたいへんに迂遠なものだったが、フォックスは辛抱強く話に耳を傾けた。
 彼らの主張は以下のようなものだった。
 かねてよりの推察通り、現代の世に広く≪神≫の存在を広く知らしめること―――しかし予想に反し、これは過程に過ぎないのだという。
「過程だと? ならば貴様たちはどこへ向かっていると言うんだ」
『古より私たちの進む道には常にヒトの子の姿があった』
『道を分かつようになった後も、折に触れて我々はお前たちと触れ合った』
『しかし近今、人はすっかりわしらを忘れてしまいおった』
『吾らを疎かにすることで、掛け替えのないものさえも手放しつつある』
 フォックスは苛立ちを堪えつつ問いを重ねた。
「それは一体なんだ? これほどまでの手間と彼女たちに犠牲を強いて得られるものとは、よほど価値のあるものなんだろうな」
 皮肉混じりの文言に、球体は重々しく『然り』と応えた。
『それはわしらじゃ』
『伝統的な信条』
『お前たちが道徳や倫理と呼ぶもの』
『思いやりや慈悲ともいうかも』
『その根拠』
『それが私たち』
 言は彼の怒りをより強く煽ったが、それでもなおそれを堪えて彼は沈黙を保った。
 球体はなおも語る。
 長く続いた人の世から神の存在は疎かにされ、道徳の根拠は忘れ去られた。結果本来七つであったこの神々は一柱を失う羽目になった。その再建のために必要な≪力≫を集めさせ、贄として昇華させることで、失われた一部を復活させるのだという。
 それこそが即ち、根拠たるものの復権であると。
 これらはさらにそのための技法をこと細かに語ってくれたが、フォックスには価値の見出だせない与太話に過ぎず、右から左へ流れていった。
 人身御供の儀式の際、『あちら』と『こちら』が一瞬混じり合うのだとか、その瞬間を狙って橋頭堡を築くのだとか……
 重要なことではあった。
 しかし彼はもっと深く、興味を引かれるものに意識を奪われていた。
 それはほんの数日前、腕の中の少女と交わした色気のない会話に起因する。
 記憶を胸に返すとそれと強く結び付けられた匂いが呼び覚まされる。幻臭はコーヒーの芳しい香りをしていた。
『違和感があるんだ』
 記憶の中の彼女は言った。
 その手に握られた絵筆と、それがつくり上げたものをしげしげと眺めて、その時彼はわずかに首を傾けた。長い前髪が視界に入り、指先で払う必要があった。
『……そうか? 以前も言ったが、君の眼は確かだ。出来は完璧と言って差し支えない』
『ああ、いや、これのことじゃなくて……』
 焦れったそうにつま先を揺らして、彼女は筆を傍らの机の上に置いた。そこには他にも先客がいて、筆の他にパレットや鉄皿で埋め尽くされていた。
 向き直って彼女は言う。
『以前、あの天狗が言っていたよね。彼らはどちらかと言えば私たちに同情的……みたいなことをさ』
『それは選択的な慈悲であるとも言っていただろう』
 呻りつつ応えた彼に頷いて、彼女はさらに言い重ねる。
『まあね。だけどさ、慈悲であることに変わりはないわけだ。不完全ではあっても……』
『ふむ……それはたしかに、そうかもしれんな』
 彼は一先ず納得する姿勢をみせた。無闇に否定せず、話の結論を待とうと。
『あれからずっと考えてる。正しい慈悲ってのはなんなのかってことを』
 その発言はまるで一端の宗教家か哲学者だ。倫理の授業にも近いものがあるかもしれない。
『君は神さまっていると思う?』
 問い掛けはやはりその類のものだった。
 彼は呻いて、腕を組んだ。
『難しい問いだな。ううむ、まったくいないとは思わないが、しかしいると確信をもって言えるほどではない……とでも言えばいいか……』
『曖昧だね。まあでも、みんな……私もそんなものだけど』
 だけどね、と区切って、彼女は人差し指を立てて空に円を描いた。そこに神なる存在がいるのかは疑わしいが、そうなら面白いなと彼は思う。その程度の宗教観だった。
『正しい慈悲とか、善意とか、もしくは正義? そういった道徳的なものを行おうとする意識の底には神さまがいるんじゃないかと思う』
 ピンときて、彼は手を打つ。
『お天道様が見ているぞ、か』
『具体的な信仰を持っていなくても、誰か―――あるいはナニかに見られているかもと思うと、行動はその眼の性質にある程度左右されると思うんだ。Big Brother is watching you でもいいかも』
『それでは監視されて―――ああ、いや、そういうことか』
『ちょっと悪意に満ちている気もするけど』
『つまり、善き行いは神の眼によって生まれると? それは賛同しかねる』
 きっぱりとした否定に、彼女は何故だか嬉しそうに笑った。
『そも道徳なんてものは各々が己の中に理屈をつけて打ち立てるものであって、神などといった外的要因を頼るものではないだろう』
 続けた言葉にもやはり、ますます顔を綻ばせる。
『わお、君ってやっぱり嫌なやつだね』
 しかし出てきたのは賞賛などではなく、なんとも嫌味な言葉だった。
 当然彼はへそを曲げてふてくされる。
『唐突に罵倒するのはやめないか』
『素直な感想さ。そうだね、じゃあ言い方を変えよう。君は強い人なんだね』
『……褒めているんだよな?』
『疑心を植え付けてしまったことは謝るよ。ごめんね。褒めてる』
『フッ、それほどでもないさ』
『けどその強さは高慢さの裏返しだ。でなけりゃただの向こう見ず―――』
『やっぱり罵倒じゃないか!』
『まあまあ』
『フン』
 落としてから上げ、また落とされて、彼はすっかり拗ねてしまった。ツンと逸したその横顔には涼やかな笑い声がぶつけられる。
『ふっふ……君みたいに強い人は、自分の中に信念みたいなものを宿しているんだと思う。絶対に揺らがない、自分自身ってやつだ』
 それこそそんなものは誰にでもあるものなんじゃないのかと言い返そうとして、彼は沈黙した。
 そうではないことを彼はその目で見て知っていたからだ。それが一朝一夕に変化するようなものでないことも―――
 物憂げな吐息を漏らした薄い唇を不思議そうに眺めながら、彼女は手に蓄積した疲労を追い払うように揉みしだいた。
『だから君は―――君たちはあの空間……異界の中でも我を失わずにいられたんじゃないかとおもう。私が平気だったのは付属品のおかげだろうけどね』
『そうでなければ身動きもかなわんというのであれば、あって当然のもてなしだろう』
 憤慨した様子で鼻を鳴らした彼を、彼女は否定も肯定もしなかった。ただ曖昧に笑っては、もの言いたげにまばたきをくり返している。
 またぞろ妙な言葉をぶつけられては堪らないと、彼は続きを促した。
『それで? 結局なにが言いたいんだ?』
『ああ、そうだった……ごめんね、君と話していると楽しくて、すぐ逸れちゃうや』
『それはこちらもだが』
『え? そう? そうなんだ。えへ……』
『ん?』
『なんでもない。えーと、そう……だからね』
 少し難しい顔をして口内で言葉を練り、彼女は静かな落ち着いた声で練り上げたものを吐き出した。
『確かに……強制されたわけではないし、具体的な言葉によって動かされるわけではない。だけど、それがあると正しくあろうとする。それだけ見れば、すごくいいこと……だよね?』
『そうだな。俺たちは特にとやかく口出しできる立場にない』
 何故なら怪盗団は過程に拘る集団ではない。“フォックス”はその美的観点に意義を求めてこそいるが、最終的に救われる者がいるのであれば、その道程になにが転がろうと―――掟に従っている限りは―――瑣末な問題だとも考えている。
 いわんや怪盗団の頭目に至っては、本物の悪事に手を染めようとその意を果たそうとするだろう。それこそが目に見ることの叶わない、形のない正義の砦だ。
『うんうん。そこはちょっと異を唱えたいところだけど、今はいいや。翻って考えるに、あの天狗の言っていたことが真実として、彼らは私たちヒトのために行おうとしているのだということになる。その過程はともかくね』
『……やつらが俺たちと同じだと言いたいのか?』
『まさか―――いや、そうなのかな。君たちのスタンスを正確に理解できているとは言い難いから、どうなのか解らないと言うべきかな』
 不愉快そうに口をへの字に歪めた彼に苦笑しつつ、繕う気があるのかないのか、彼女はさらに言を重ねた。
『この善意……そう呼ぶのが正しいかは不明だけど……これがね、一方的であることは間違いないんだよ』
『それは、そうだな。そも俺たちは連中と意思疎通する手段を持たない』
 俺たちはどうだろうかと考えに耽る傍ら、彼女は手をひらひらと蝶のように揺らして述べる。
『一方的に押し付けられる正しさは、本当にそれが正しいのだとしても、受け取ったものを畜群的な存在におとしめるんじゃないかとおもう』
 彼は思考を止め、まばたきを二度して彼女をまじまじと見つめた。
 じっと見上げてくる黒々とした瞳には確固たるものが宿っているように感じられた。それは己の行動をよく見極めようとする修行僧めいた頑なな光だ。
 彼と、彼女の幼馴染は、それが磨けばダイヤモンドのように輝くのだということを知っている。
 彼女は言った。
『あれに関してはわかり合うつもりなんてないけど……だけど、君たちのような存在に対しては、受け取る私もよく理解する必要がある。なぜ君たちが存在するのか、活動するのか、その意図や意義を理解して、そしてきちんと返すべきだって』
 少しためらって、彼女は噛みしめるように幼馴染の名を舌に乗せる。
『紬が、鞄に石でも詰めて、君たちに加勢したいって考えたみたいに……たとえそれが、悪いことなんだとしても、必要ならそうしたいと自分自身で決めるために』
 莞然として、彼は目を細めて胸を感服でいっぱいにした。単純に嬉しくもあった。
 背すじを伸ばした彼女の姿が美しくも思える。
 彼は率直にそれを口にした。
『君は美しい』
『ふはあぁっ!? なな、なんっ……なぬを言って……真面目な話をしているんだよ!』
『俺も至って真面目だが』
『じゃあなんで急にうっ……うつ……しぃ……とか……そんなの言われたことない……』
『それは君の周りの者の目が節穴だったというだねだな。ついさっきまでの俺も。うん……』
『わーっ! もーっ! 真面目にやって! 出来映えに紬の命が掛かっているんだよ!』
『そうだった。こちらが片付いてからにしよう』
『くっ……先延ばしただけか……!』
 愉快な記憶はそこで唐突に途切れた。
 いつの間にか、影の中から黒い腕と、真紅のグローブに包まれた手が伸びて、フォックスの肩と腕を馴れ馴れしくさすっていたからだった。
 フォックスは腕を払い、肘を立ててそれを追い払った。すると背後の影の中から高らかな笑い声が響いてくる―――
「ふ、ふ、アハハ―――もういいぞ―――フォックス―――」
 ずるりと影の中から身を乗り出したのは彼らの≪切り札≫だ。
 彼はその腕に一人の少女を抱えている。枝のように痩せ細った四肢に血の気の失せた蒼い顔……立花紬を腕に抱いたジョーカーは、仮面の下の瞳を爛々と赤く輝かせてほくそ笑んでいた。
 唐突な登場に、しかし球体らは驚いた様子を見せなかった。
『貴様か』
『今さら現れたところで』
『もはや手遅れ』
『ことは済んだ』
『ことは成った』
『我らの宿願、叶ったり』
 もちろんジョーカーも、泰然とした姿勢を崩さない。
「それはどうかな」
 これを球体らは虚勢として受け止めた。嘲笑響かせ、ゆっくりとジョーカーと傍らのフォックスを中心に旋回する―――
 しかしそれも、時が経つに連れて落ち着きを失っていく。
『なぜ―――』
『たしかに六つ揃っておる』
『なにゆえ動き出さぬ』
 声にははじめて焦りと戸惑いのようなものが滲んでいた。
 堪えきれないと笑い声を漏らしたのはジョーカーではなかった。
 崩れたビルの上に、瓦礫の影に、枠だけが残された窓辺に、折れた交通標識に腰掛け、あるいは寄りかかり、立っては取り囲む姿がある。
 その手や口には、四枚の絵巻物がかざされていた。
「こいつ持ってりゃ、俺らでもコイツの≪力≫、使えんのな」
 崩壊したビルの上で楽しげにそう言ったスカルの背後に白蛇が現れる。蛇はチロチロと舌先で空を舐めると、尾の先でスカルの髪に積もった土埃を払ってそこに身を横たえた。
「ちょーっと扱い難しいけどね」
 パンサーの姿は直角にへし折れた交通標識の上にある。長い脚を優雅に組んだ彼女の周りには紫色に輝く虫たちが飛び回り、時おり彼女の金の髪を一筋持ち上げては誇らしげに羽音を響かせていた。
「でも新鮮よね。複数のペルソナを使うなんて……ふふっ、リーダーがいつも楽しそうにしているのもわかるわ」
 窓枠に脚をかけて見下ろしているのはクイーンだ。彼女には大きな影が落ちている。崩れかけたビルをさらに押し潰しかねない巨体に鞭のようにしなる長い腕―――しかしそれは今、己の主人を守るかのようにクイーンの前に垂らされている。
「まッ、悪くはねーな。気分も、使い心地もな」
 モナはぬるりと瓦礫の影から進み出る。そばにはノワールと、大型犬ほどの大きさの猫が控えていた。しかし先の割れた短い尾は、いささかばかりに気分を害したように地を強く叩いている。
『なぜ―――なぜここにある?』
『なぜそなたらが持っておる?』
『それはあるべきところにあるはず』
『あるぞ。今もある』
『どうして出てこない?』
『どうして動かない?』
 驚嘆にフォックスは答えた。
「貴様たちが見ているものは、俺と彼女で拵えた贋作だ。彼女が本来有しているものと、たった今呑まされたもの以外は、寸分違わず精巧に写し盗らせてもらった」
 つまり、本物は……これまで斃し、増髪の面に喰われてきた神々の≪力≫は、間違いようもなく怪盗たちが手にしているほうだということだ。
 なんということはない。ジョーカーはパンサーの要請に応えての内からその≪力≫を抜き取った。ただしそれはその場その時ではなく、つい昨日のことであるというだけだ。
 そして彼らはその≪力≫を用いて、あたかもまだ彼女の心の中にそれがあるようにひと立ち回りを演じてみせた。
 もちろんその統括は、天からの視点を有するナビが行った。
『いいなー……わたしもマップ兵器ほすぃ……』
 けれど彼女は、ふてくされている。
 フォックスとノワールがこれらを任されなかったのは数の問題以前に、二人には役割があったからだ。最後の一つを増髪が吸収し終えたとき、増髪を切り捨てるという役目が。二人がこれに選出されたのは得物の性質からだ。叩く殴るよりは切り裂くほうが、見た目からして『死』は演出しやすい。
『しかし、しかし―――』
『そこにあるのは四つであろう』
『残りの二つはどうした』
『そこな娘の内より生じたもの』
『たった今誅したものは』
『なにゆえ出てこない!?』
 怒りと嘆きの咆哮に、ジョーカーは立花を抱えたまままた高らかに、勝ち誇って背を反らし、笑い声を響かせる。
 間近でそれを耳にするフォックスは高慢なその振る舞いにやれやれと軽く首を振り、腕の中のもう一人よ少女を、あまり丁重とはいえない動作で立たせてやった。
「―――、もういいぞ」
 言うなりきちんと自分の脚で直立した彼女は、口の中に溜めていた濃い赤の液体と、制服の下に仕込んでいた、こちらも赤く粘ついた液体と固形物に満ちたビニール袋を引っ張り出して地面に放り投げた。
「ぺっぺっ! うへぇ……甘じょっぱすっぱい! これ、一体なにで作ったの?」
「チョコとトマトケチャップと中濃ソース。内臓は豚モツとレバーだ」
「あ〜……食べ物を粗末にしてしまった……」
「うむ……」
 二人は重々しく頷きあった。
 手足をはじめ、衣服のそこかしこに付着した赤い液体を忌々しげに眺めて、はもう一度口内の吐き気とともにそれを吐き捨てた。
 それらを眺めて、球体らは声もなく激しく左右に震えている。
『なぜ死なぬ!』
『なぜ!』
『どうして!』
『謀ったな!』
『わたしたちを嵌めおった!』
『なんたること!』
 口々に怒りを吐く球体をジョーカーはせせら笑った。
「さて、一応言っておくべきかな。―――≪切り札≫は俺たちが頂いていく!」
 同時に、彼のつま先がずっと地面の上で転がるままにされていた増髪の面を蹴り上げる。顔の高さまでやってきたそれに片手を差し伸べると、どうやったというのか、仮面が再び地に落ちるころにはその手に一幅の巻物が握られている。
!」
 彼はそれをすばやくにむけて放った。
 受け取った血糊塗れの手は直ちにそれを広げ、無数の手を勇ましく広げた年老いた蟲の姿を明らかにする。
 は小さく息を吐き、大きく吸って老虫の名を呼んだ。
「アカキノカミ!」
 応えて蒼い炎とともに、巨大な百足が再び立ち上がった。
 ただし今度は、明確な怒りを球体のほうへ向けている。
『謀ったのはそちらじゃ! かように残酷な真似を力なき幼子に強いるとは、こっ、この……恥知らずどもめ!』
 名を呼ばれたことでこの大百足はこれまでが受けてきた仕打ちをすっかり理解してしまったらしい。力を蓄えているとは聞かされていたが、それが己との決戦と同じものを経てだとは、思ってもみなかったようだ。
 チラとも考えられなかったところを鑑みると、その時点で老衰していた身になんらかの介入があったのかもしれない。
 そのことに激昂した虫は、横凪に払われた少女の腕の軌跡を追うように無数の腕を振り回した。その一つ一つによく研がれた大太刀が握られている。
 球を保つ靄は百の斬撃に切り払われ、霞のごとく追い払われて散り散りになった。
 どこで感じているというのか痛覚があるらしく、悲痛な声を上げて辺りを漂っている。
 それを振動として感じ取った大百足は満足げに身をくねらすと、静かに絵巻物の中に戻った。
 場には、立花を抱えたジョーカーを筆頭に、怪盗たちが集っている。
 素顔を晒したままのもその一員として、怒りを顕に再び集まりつつある彼らを睨みつけている。
「よくも……」
 その喉から低い唸り声が漏れる。黒い靄は怯えたように再び散らばった。
「よくも紬を奪ったな。私の大切なものを、踏みにじってくれたな―――」
『それは、それは必要なことであった』
 慌てた様子で彼らは言い募った。
『そうじゃ、そうじゃ。必要だったのじゃ』
『すべては、お前たちのため』
『古き習わしを思い返させるため』
『道徳的な振る舞いを取り戻させるため』
『正しいヒトの姿を持ち直させるため』
 轟音が彼らの言い分を遮り、辺りに砕かれたコンクリートの破片が雨あられと降り注いだ。
「そんなものは、誰かに執り成してもらうようものじゃない! こっちで解決しなきゃならない問題だ!」
 怒り心頭に発したの半身が、その膨れた腕でそばにあった三メートルほどの柱を掴み上げ、力任せに放り投げていた。
『ひいぃっ!』
『あなおそろしや』
『鬼じゃ、悪鬼がおる』
 ひいひいと情けない声を上げ、靄は逃れようと流れるが、風の動きがそれを遮った。
「まさか逃げられるたァ思ってねぇよな?」
 蒼い瞳を爛々と輝かせた黒猫が風を繰り、彼らを押し留めている。
 包囲網はジリジリと狭まりつつあった。
 怪盗たちは今や円状に並び、大股で彼らに迫りつつある。
 追い詰められる靄は範囲が縮まると再び濃く、球形を取り戻す。おしくらまんじゅうでもしようというのか、押し合いへし合い、ぎゅうぎゅうになって泣き声を上げていた。
 もはやジョーカーの号令を待つのみだ。それだけで彼らは今度こそ消滅させられるだろう。
 それを残酷なことと見るかは人による。仕掛けられた戦に対する正当な報復とするか、過剰防衛と定めるか―――
 いずれにせよ、ジョーカーの瞳には冷酷な色がある。それは単に、種としての生存を掛けた誰も知らない戦いをさっさと切り上げようとする、勝者の当然の仕打ちだった。
 擦り合わされた指がパチンと心地のよい音を奏でる。
 同時に靄は言った。
『まだ一つ、ある』
 四方八方から叩き込まれた力の奔流の中、彼らはぎゅっと一つにまとまると、次の瞬間弾けて幾筋かの細い水の流れとなり、宙を泳いでジョーカーに―――その腕の中の少女にまとわりついた。
 油断や慢心がまったく無かったわけではないが、少なくともジョーカーは逃れた靄を視認し、迎撃に動いていた。十分間に合う距離と速さだった。
 予定外だったのは、意識を手放しているはずの少女が―――立花紬が、カッと目を見開いて彼の首に手をかけたことだった。
 枯れ枝のように細いはずの腕の剛力凄まじく、気がつけばジョーカーの足が地を離れている。
 苦悶の声を揚げた彼に、驚嘆の視線が向けられる。
「紬!? なんで―――!?」
 誰もが頭目の危機を目に力をふるおうとしたが、寸前響いた泣き出しそうなの声と、『よせ』と訴える彼本人の雄弁な瞳に遮られてしまう。
 彼の目には立花の表情が映っている。
 見開いた目は血走り、顔中に脂汗が浮かんでいる。食いしばった口の端には泡が垂れていた。
 喉笛を掴む手にますます力が籠もると、小さな鼻の穴からは血が滴り始める。
「紬! なにしてんの、やめて! その人は紬を助けようとしてくれたんだよ!」
 痩せた背中にが飛びついた。
 すると張り詰めた糸が緩むように力が抜け、ジョーカーは手から滑り落ちて地に崩れ落ちる。激しく咳き込む音が辺りに響き渡った。
 どうにか彼は無事だと安堵できたのもつかの間、もまた、細いはずの立花の腕に打たれて地に倒れ伏してしまう。
 もはや事態は見守っていられる状態ではないと誰もが背を押されたように走り出したが、足元に広がった靄に絡め取られて彼らは揃って転倒させられる。
 天からはナビの焦りに満ちた声が届いた。
『そいつらだ! そいつらがタチバナになんかしてる! なんか―――なにこれ、うそうそ、やめろ! そんなことしたら―――とめて! ジョーカー!』
 懇願に彼は震える足でどうにか立ち上がった。ヒリヒリと痛む喉を押さえ、かすれた声で最も長い付き合いである己の半身を呼び起こしもした。
「アルセーヌ、彼女を―――」
 被せるようにやはりかすれた声がその半身を呼び寄せる。
「ヤマト―――」
 現れたのはアルセーヌとはまったく正反対の雰囲気を湛えた美丈夫だった。あるいは、たおやかな貴婦人の如きものだった。
 それは人の形をしていて、身の半分を黒い御衣と鎧具足に包み、もう半分を裳裾も長い婦人の衣装で包んでいる。髪は長く、これも半分を瓠花の形に、もう半分をそのまま垂らした、男とも女ともつかない影だった。
 そしてその影は機敏だった。
 身のこなしの軽さは対等だろう。アルセーヌとヤマトは正面切ってぶつかり合い、何度か刃を交えてみせる。
 経験の差という意味では、当然、アルセーヌが上だろう。その本体も含めて。
 なによりヤマトは相手を目の前しながら気もそぞろで、幾度も後ろをふり返っては己のもう半分を恐ろしげな目で確かめている。
 その立花はだらりと両腕を垂らし、膝をついて天を仰ぎながらガクガクと体中を震わせていた。おこりにでもかかったかと思いたくなるような尋常ではない様子だ。
 まとわりつく靄を蹴り飛ばしたスカルがその背に飛びつき、僅かな逡巡の後、舌を噛まないようにと泡を吹く口に手を突っ込んだ。
 すると既のところ、親指の付け根をきれいに並んだ前歯が強く噛み締める。
「いぃっ、てぇ! ナビ! どーなってんだよォ!?」
『待って、待って、待ってってば! こっちもせいいっぱい押し止めてるよ!』
「だからなにをだっつってんだよ!!」
 怒声に怒声が返された。
『シャドウが―――タチバナのペルソナが、引っこ抜かれちゃう!』
 弾かれたようには立ち上がり、足元を漂う靄を叩き潰した。しかしそれも、薄れて広がったうちのほんの一部だ。悲鳴こそ上がっても、致命打にはなり得ない。
 ならばと全員が一斉に広く撃ち抜こうとすると、靄はまだらになって逃れ、急所らしき部位を攻撃から外してみせる。
 それでも攻撃をする意味はあるはずだった。水面下の綱引きが終わるのが先か、彼らが靄を引き剥がすのが先か。はたまた画期的なひらめきが訪れるか。
 希望的観測に縋った戦いは泥仕合めいていた。しかしその攻防もやがて、濁った悲鳴に終止符を打たれる。
 それは少女の喉から出たものとは到底思えないようなものだった。
 なにより彼らを戦慄させたのは、スカルの手に強く噛みつき、白目をむいて泡と血を吹き出しながら痙攣する様に大小の差はあれど一様に見覚えがあることだった。
「いやぁ……!」
 引きつった悲鳴が顔を真っ青にしたノワールの喉からこぼれ落ちる。寸前まで苛烈な攻防を繰り広げていたはずの手足も瞳も、唇も震え、立っているのも覚束ないような有り様だ。
 立花紬の苦しみ悶える様相は、廃人化の兆候そのものだった。
 背すじが粟立つ感覚に青褪めた彼らの全身を余すことなく衝撃が叩いた。
 振動は彼らから意識を刈り取り、視界を明滅させる。
 彼らがその空間で最後に目撃したのは、ヤマトが足元から絵の具のように溶け落ちる姿だった。

 電灯のスイッチを切ったときのように意識は途絶え、一瞬か、あるいは数時間の後にスイッチが入れられる。
 耳には雑踏が押し寄せ、目には賑やかしい街と人のなみ―――
 現実の世界に戻ってきたんだと理解するには十分な材料が、少年たちの目の前には揃っていた。
「え、え? なんで? なにがあったの?」
 上ずった声を上げて周囲をキョロキョロと見回す高巻の顔に仮面はなく、握られていたはずの鞭も消え失せている。通りかかる人々は彼女のそんな様子に怪訝そうな視線を向けたが、それも歩が進むとともに興味が失せて逸れていった。
 奇妙な気だるさとうぶ毛が静電気を帯びているような感覚こそあれ、彼らは五体満足で渋谷駅、スクランブル交差点の前に並んでいた。
 見上げた街頭テレビの隅に表示されている時刻は二十時を過ぎたところだ。
「どうなっている。俺たちはなにも……待て、あいつは?」
 喜多川もまた辺りに視線を這わせた。
 そこに映るのは見知らぬ人の姿ばかりで、癖のある黒髪の少年は見当たらない。
「侵入地点に戻された……? いいえ、待って、祐介あなた、かなり血糊を被っていたはずよね」
 動揺を抑え込もうとしているのか、新島の声は低く掠れている。
 その目に映る喜多川の姿はたしかに、傷も汚れも見当たらない。ふり返った彼の背後に立つ高巻にも、誰の身にもだ。
 いわんやに至っては、前面をベッタリと汚していたものがすべて消えてしまっている。
 まさか今の今まで皆揃って夢でも見ていたのか。
 そう思いかけたが、血の気を失ったの表情があれは現実だったのだと教えていた。
「紬……そんな、そんな……」
 震える彼女の視線の先に、人だかりができている。
 中央にあるものを囲み、いくらか距離を置いて、見知らぬ人々が囁き交わしてはスマートフォンを掲げていた。
 誰かが言った。
「ねえ、ヤバいんじゃないのコレ?」
「え、え……? 死んでんの……?」
 弾かれたように駆け出したより先に、果敢な一人が人だかりの中心……倒れ伏した立花紬に声をかけた。
「あのーっ? 聞こえますかー?」
 医療関係者なのかもしれない。伸ばされた手はいたずらに触れたり揺さぶるような真似はせず、呼吸や意識の有無を確かめるように顔の前にかざされている。
「紬ッ!」
 人垣をかき分け、息を乱してたどり着いたは汚れるのも構わず立花のそばに膝をついた。
 その瞳は開かれてこそいたが、虚空を見つめ、決して彼女を見つめ返すことはない。
 おそるおそると触れた手のわずかな揺れに、かすかに開いた口の端からたら、と涎がこぼれ落ちた。覗く舌先にも力はなく、口腔内に収まってこそいるが、逆さにすれば垂れ落ちてきそうなほど力が失せている。
「なんで……どうして……!?」
 顔面蒼白になって震える彼女の姿に、見知らぬ人物は知り合いと判じたのだろう。落ち着くように懸命に促しては、揺さぶろうとする腕をせき止めてくれた。
「やられた……」
 人垣からは少し距離をおいたまま双葉は爪を噛んで顔中をしかめている。
「タチバナのペルソナ……≪心≫がもっていかれちゃった……!」
 どこか遠くからサイレンが響いている。どうやら、見物人の誰かが救急か警察に連絡をしてくれたらしい。
 向けられた無数のスマートフォンのカメラレンズは、救急隊員が担架に立花を乗せるまでと、乗せてからの一部始終をつぶさに捉え続けていた。