21:Nevertheless

 膝を突きこそすれ、は意識を保っていた。
「足が……お腹が空いているわけでもないのに、足に力が入らない……」
 疲労困憊といった様子でうずくまる彼女を囲む怪盗たちは、彼女の健闘を讃えつつも生ぬるい笑みを浮かべる。
 いずれも彼女の言と経験に覚えがあったからだ。
「だいたいみんなそうなる」
「ナビとか二週間くらい寝てたよね。アンタあれご飯どうしてたの?」
「ふっと目覚める瞬間があってな。枕元をみるとなんとごはんが!」
「マスター……甘やかしが過ぎるぜ……」
 やれやれと丸い頭を振り、モナはついでにと周囲をぐるりと見回した。
 場所に変わりはないが、辺りははっきりと変化している。
 まずなにより、降り注ぐ光の色が変わっている。暮れかかって赤く染まっていた空は今や雲ひとつない快晴にすり替わっていた。
 地面や木々に貼り付いていたネバネバもすべてが消えたわけではないがだいぶ数を減らし、降るものの色の変化からか黒く沈んでいた葉は色鮮やかな緑だ。
 おそらく、とモナは納得してみせる。
 清らかで静かな、しかしどこかうら寂しげなこの姿こそが彼女の本来の心の有様なのだろう。
 しかしそれはそれで問題がある。
 ここをパレスモドキとしていた根源と心は切り離され、はペルソナを顕現させた。
 となればパレスが存在し続ける理由はない。ここは崩壊して然るべき場所だ。
 怪盗たちは顔を見合わせてはてと首を傾げあった。
「今のところ壊れたり爆発したりはしなさそうだよね」
「モドキだからじゃねぇの?」
「そのモドキたる元凶はあの通りだが」
 フォックスが示した先には、しなびて平らになった巨大エリンギの姿がある。ピクリともしないところを見るに、もはや起き上がってくることはないだろう。
「仮面は外れたけど、それだけじゃ駄目ってことかしら」
「あっ、じゃあ、オタカラは?」
 黙って皆の話に耳を傾けていたジョーカーは、パチンと指を鳴らすと折っていた膝を伸ばして立ち上がった。
「それだ、探すぞ」
 彼が高揚しているのは目に見えて明らかだったが、それをわざわざ口にして指摘してやる親切さは皆持ち合わせていなかった。
 ただだけはどこか遠い目をして、
「私の心が踏み荒らされている気がする」と文句をつけた。
 ジョーカーは応えず、モナを担ぎ上げると率先して石段を駆け下りていった。
 彼が向かおうとしている先は皆言われずとも分かっている。ここが一般的な神社の姿をとる場所であり、御神体だろう巨石から自身しか出てこなかった時点で次に宝がありそうな場所は限られる。
「でもさ、そもそもに歪んだ欲望があるかって話だよね。あるの?」
「えっ……うーん、そうだな……あっ、アイスクリーム食べ放題……?」
「なさそうだね」
「腹減ったわ……」
 下る途中でもう、モナはその鼻で在り処をつきとめていた。
「オタカラのニオイがする。さっきはしなかったのに……このネバネバしたのが取れたからか?」
 ジョーカーの片腕にぶら下げられたままの彼が示したのは境内に四つある社殿のうちの一つだ。
「推察だけど」
 その御扉を閉ざす海老錠を矯めつ眇めつ、ジョーカーは誰に聞かせるつもりもなさそうな様子で語り出した。
とあの仮面を繋げるモノこそ今やっつけた、がな。けど監視自体は解けてない……ほかにうまい言葉が見つからないからこう言うけど、あながち間違ってもいないはずだ。これが解けてないんだろう。誰かヘアピンくれないか。なるだけ細くて小さいやつ……ん、ありがとう。ああ、それで……」
 パンサーが髪から抜いたヘアピンを歪めて工作するジョーカーに、は胡乱な目つきを向けている。
 いかにも泥棒めいたその―――慣れた手つきに思うところがあるようだ。
「壊していいよ? その扉」
 さりとて彼女の発想も充分物騒なものだった。
「監視は続いてるかもって言ったばかりだろ。あまり派手なことはしたくない」
 呼気とともに吐き出された言葉は掠れている。どうやら手元の作業に意識のほとんどを持っていかれている様子だ。
 クイーンは回廊の縁に腰を下ろして腕を組み、作業のではなく不明瞭な発言の続きを促した。
「それが、オタカラってこと?」
「あるいは……んん……オタカラと同じ場所に……こうじゃないか……あーもう、腕が鈍ってる」
「……終わるまで待つわね」
 生返事を返して、ジョーカーは今度こそ開錠に集中し始めた。
 よくあるダイヤル錠やタンブラー錠とは勝手が違うのだろう。複雑な構造ではなさそうだが、それがかえって手こずる原因になっているらしい。
 モナはスカルを引き連れて他に入れそうな場所がないかと社殿周りを見に離れていった。
 待機を言い渡された面々は、各々汚れの少ない場所を見繕って寛ぐこととする。
 さっそくとはクイーンの隣に寝転がった。そこを選んだのは建物の周りをぐるりと囲む廊下、目に見える範囲でそこが一番難を逃れていたからだったが、クイーンはどことなく嬉しそうな様子で目元を緩ませる。
「ちょっと、汚れるでしょ。ああもう、ほら」
 けれどその手は年長者らしくの頭を掴まえると、己の膝の上に導いてくる。
 赤ちゃん扱いから妹程度には格上げされたようだとみては笑うが、彼女の髪についた焦げ跡を見つけてしまったクイーンはすぐに表情を曇らせる。
 それはパンサーも同じことだ。彼女はが尻の下に敷いたコートの燃え残りを見つめて悲しげにまつげを震わせた。
「ていうか……さっきごめんね、燃やしちゃって。弁償するから……」
「え? パンサーのせいじゃないよ。熱かったけど火傷はしてない。それに弁償と言ってもこれ、結構するよ?」
「おいくらなの?」
 興味深そうに疑問符を浮かべたノワールに、は指を立てて答えた。
「あら、まあ」
「欲しかった靴が二足買えちゃう……」
「あー、だからおイナリは持ってねんだな」
「ほっとけ」
 揶揄するナビの言に、フォックスは拗ねたように口を尖らせる。
 は膝枕の姿勢のまま通学用コートのお値段に尻込みする一同を目だけで見回した。
「……私、ペルソナを……自分の≪力≫を手に入れたんだよね」
 感嘆の息とともに吐き出された言葉に、フォックスは然りと首を縦に振った。
「ああ、そうだな。君は≪力≫を得た。それは、誰かに与えられたものでも、押し付けられたものでもない、君自身のものだ」
 返された言葉にこそ彼女は感慨深げにまぶたを閉ざした。
 その裏になにが映っているのかは誰にも解らない。喜びか、疲労感か、それとも後悔や恐れか―――
 再び目を見開いたとき、彼女は身体を起こして強く主張する。
「服が変わらないんだけど?」
 回廊を支える柱に背を預けていたナビがずるりと地面の上に滑り落ちた。他の面々も、脱力感を覚えて顔を伏せてしまっている。
 唯一平静なままのフォックスは感心したように彼女の姿―――見慣れた洸星高校の制服姿を観察し、再び然りと頷いてみせた。
「たしかに元のままだな。それが君の反逆の意志の現れか?」
「反逆……? いや、そういうのではないと思うけど」
「ではその制服になにか思い入れが?」
「全然。まだひと月とちょっとしか着てないものに思い入れもなにも」
「ふむ……つまり本当に見たままなにも変化していないというわけか」
「だからそう言って……あっ、君、もしかしてこの格好が私のコスチュームだと思っていたのか」
「違うのか?」
「違うよ」
「違うのか……」
「なんでちょっと残念そうなの?」
「どうせならセーラー服のほうがロマンはより高まったかもな」
 最後の発言はジョーカーのものだ。彼は勝ち誇った顔で開錠し終えた海老錠を掲げていた。
 フォックスは深く、彼に頷いてみせる。
「ロマンというべきか、一種のファンタジーと表すべきか。彼女の今の様相は……上手く言い表せられないが、グッとくるものがある」
「わかるぅ」
「わからなくはないけどちょっと黙ってろふたりとも。ツッコミがふたりとも不在のときにボケるなよ」
「ボケたつもりはないが」
「あれ? あいつらどこ行ったんだ?」
「あーもう手がつけられないよ」
 手足をバタつかせながら起き上がると、ナビは半身の力を用いて調査と哨戒を兼ねた散歩に出ていった一人と一匹を呼び戻した。
 もともとさほど大きな建物でもない。スカルとモナは直ちに出ていったときとは反対側の角から顔を覗かせる。
「ンだよ急かしやがって。ジョーカーが爆発でもしたのかよ?」
「残念ながら他に入り口らしき場所は見当たらなかったぜ。床下からならどうかも分からんが」
 急ぐでもなくのんびり歩いて戻る二人に、ジョーカーは誇らしげに外した錠を見せつけた。
「開いてんじゃねーか。なんで俺ら急かされたの? てかこの空気なに? 女子の顔コエーんだけど」
 見れば、パンサーを筆頭に、クイーンもノワールも、仮面の下で目を細めては口をへの字に歪めている。例外としてナビは明後日のほうを見つめて素知らぬ顔を、はブレザーに付いた泥や菌糸を払い落とそうと躍起になっている。
 漂う空気こそ剣呑ではないが、呆れ返った様子は見て取れる。
 モナはやれやれと首と尾をふりふり、ジョーカーの足元へ歩み寄った。
「どうせまたしょーもねぇこと言ったかしたんだろ、オマエら」
 『ら』と言い表されたことに極めて不可解な面持ちを浮かべるフォックスはさておき、ジョーカーは答えずに錠を放り投げた手をひらひらと振って御扉の前へ脚を置いた。
 ふり返って仲間たちを見回して、彼は先に自らが中断させた話を再開させる。
「さて、監視と言ったけど、俺の想定ではこれは正確な表現じゃない」
「でも他に言葉が見つからない、だよね?」
 ノワールの相槌に、ジョーカーは嬉しそうに頷いた。
「そう。だからちょっとややこしい話になるんだけど……まず、はプロキシなんだと思う」
「なんだっけそれ……ロシア料理にそんなんあったよね」
「バッカ、そりゃピロシキだよ。ハンマー投げの選手だろ」
「それはムロフシ選手だな。実に美しい肉体美の持ち主だが、違うだろう。洸星にいる女流プロの」
「……東郷一二三さん? それはプロ棋士じゃないかな。あっ、でも惜しいね、ふふふっ。えーっと、じゃあね、本店が重要文化財にも指定されている……」
「はいはい、わかった! ミツコシ! えーと、次……京都土産のド定番!」
「ヤツハシ」
「正か―――」
「いやもういいわ! 途中から明らかに遊んでるやついるじゃねーか!」
「春、、あなたたちねぇ……」
 ごめんなさい、と素直に頭を下げる二名他、一通りのモノボケを並べた仲間たちにモナとクイーンはぐったりとして肩を落とした。付き合いきれないとも思うし、こんなやり取りもジョーカーがいればこそとも思う―――
 益体もないやり取りをよそに、ナビはやれやれと肩をすくめ、おそらくクイーンですらも正確なところは把握できていまいと補足のために口を開いた。
「ジョーカーがいってるプロキシは、カードゲームなんかでいうプロキシのことだろ。高価すぎて手に入らないような貴重なカードの代わりをさせるために、雑魚カードに名前書いた紙貼ったりするやつ」
「うん。その紙が、の顔に貼り付いていた仮面だ」
 つまり、と言ってジョーカーはを指し示した。極めて個性的な集団の中、ありふれたブレザー姿の彼女はかえって目立つし、異物感がある。
 それは彼女が異邦人であることの証のようだった。
「つまり私は誰かの代わり?」
「そういうことになるな」
 ジョーカーは猫のように目を細めた。
 本物の猫のほうは、相棒の口笛でも鳴らしそうな態度に尾の先で地面を叩いている。
「本命はの幼馴染か?」
「もしくは俺だ」
 だけど、と区切って彼は尊大に述べる。
「俺は従わない。たぶん、彼女の幼馴染もそうだと判断されたんだろう」
「だから私ということか。なるほど、よくわかったよ」
 苦々しく吐き出したに気遣わしげな視線が集中したが、顔を上げた彼女の瞳に宿っていたのは憤怒の色だった。わずかな後悔こそ滲んでいるように窺えるが、自責や自罰的な感情は見当たらない。
 ジョーカーはまた愉快そうに笑みを深めると、頷いて続けた。
「君なら抵抗しない、あるいは、抵抗したとしても制圧できる見込みがあったんだろう。おそらく、今もあちらさんはそのつもりだ。けど、そうするためには君の……君や俺たちの動向を把握して、操作する必要がある」
 心当たりがあるだろうと目で訴えられて、あっとパンサーは声を上げた。
「あれ! ほら、デッカイ赤ちゃんみたいなやつ!」
「ああ……思い返せば、そうか。猫又もジョーカーを捕らえていた集合体も、とどめを刺したのはやつだったな……」
 ジョーカーは二人が語るそのものを目撃したことはないが、しかし読みが当たっていたかと首を縦に振った。
「それが外から作用するものなんだろう。さっき倒したのは、見た通りナカ―――心を監視すると同時に、なにかしらの役目を担っていたもののはず」
「……に神格を吸収させる機能があったんじゃないかしら。それと本来ないはずの≪力≫を持たせて定着させるための……」
「そういうことだろうな」
 クイーンの言を確定付けさせるように、ジョーカーはやっと閉ざされたままの御扉に手をかけた。
 木製の両開きの戸は重く、支える蝶番が錆びているのだろう。彼は少し苦労してそれを押し開ける。ギイと耳障りな音が響き、開け放たれた神殿の奥からは埃と菌糸の臭いが漂った。
「見ろ―――」
 顎をしゃくって促した先、内部は長年放置されていたかのように埃が積もり、淀んだ空気で満ちている。
 高い位置に採光用の小さな格子窓があって、そこから射し込む陽光が辛うじて内部の様子を教えてくれていた。
 板張りの床に壁、天井を渡る梁のいずれもが頑丈な造りをしている。その証明に、汚れてこそいるが壊れていたり腐っていたりはしないようだ。
 最奥は床の間のようになっていて、そこに祭壇らしきものが誂えられている。五色の旗に三方の上に置かれた神饌、鏡と勾玉、そして剣……
 不思議なことに備えられた神饌のいずれも榊も、瑞々しいままだ。
「あ、オタカラ」
 フンフンと鼻を鳴らしていたモナが祭壇の前まで歩み寄ってそうつぶやいた。彼の目には、鏡の前に置かれた小さな木箱が映っている。
 彼について奥まで踏み込んでいたは、同じ物を見つめながら眉をひそめた。
「うわ、本当にあるんだ。オタカラって、歪んだ欲望の根源とか、そういうものでしょ? 私の? 歪んでるの……?」
「どうだろうな。普通の、いや普通って言い方もどうかと思うけどよ、パレスならそうなんだが……オマエの場合はちょっと違うからな。単に予告状によって『盗まれたくない』と意識させられたものが具現化しただけかもしれん」
 歪んでいないとも言い切れないが。
 意地悪くそう付け足したモナに、はますます顔をしかめた。
 そこに、後ろから真紅のグローブを嵌めた手が伸びる。
「貰っていこう」
「ええっ」
 手のひらサイズの木箱を取り上げ、懐に収めたのはもちろんジョーカーだ。
「なにかの役に立つかもしれない」
 したり顔を浮かべる彼には不服そうにこそするが、取り返そうとまではしなかった。
 怪盗団がオタカラをどう扱うかくらいは彼女も聞き及んでいる。現実に持ち出したとき、それが某かの物品になり変わることも、それを売り払ってささやかな報酬としていたことも―――
「お金になるとは思えないけど」
 諦観の境地で吐き出された台詞に、ジョーカーは肩をすくめた。
「金銀ばかりが宝じゃないさ」
 じゃあ持っていかないで欲しいとは、も口に出さなかった。
 そんなやり取りをする傍ら、フォックスは祭壇の更に奥を見つめて唸り声に近いものを漏らしている。
 その視線の先、光もほとんど届かない壁には、五幅の掛け軸が隠すように飾られていた。
 描かれているのはいずれも見覚えのある姿だ。右から白い蛇、尾が二又に裂けた猫、おおむね人の形をした巨人と、紫色に輝く虫の集合体、そして左腕だけが異様に膨れ上がった片脚の女―――
 脇から顔を覗かせたスカルは、同じものを目にして上ずった声を上げた。
「げっ、今まで斃してきた連中じゃねぇか。こんなとこにいたのかよ」
 これに他の面々も反応し、なんだなんだと集まりはじめる。
 の精神世界であるここに、これまで彼女が吸収してきた神格の姿があることはそこまで不自然なことでもない。つい今しがたそのような話もしたばかりだ。
 けれど一つに関しては、明確に並べられるべきではないと言える。
「あれ、サオトメのもあるんだね」
 左端に掛けられた図柄は間違いなくのもう一つの顔を示している。
 それは、彼女が彼女自身の意思でもって顕現させたものだ。決して外から吸収したものではない。こうして等間隔に並べられていても、違和感や異物感は拭えなかった。
「ふーん……?」
 ジョーカーは顎をさすって思索にふける。
 サオトメ―――のペルソナがここに飾られることに問題があるわけではない。彼女の心の中にその姿がなんらかの形で現れること自体は不思議でもなんでもない。
 では違和感の正体はといえば、これは検討がついている。彼女のペルソナまでもが他の、神格たちと並べられていることと、その更に左隣に同じものがもう一つ収まりそうなスペースが空いていることだ。
 それは即ち、この場を用意した者にとって彼女の覚醒は織り込み済みだったということになるのではないか―――
 眉をひそめる彼にパンサーが遠慮がちに声をかける。
「……ねえ、これ、ジョーカーのほうで引き取れないの?」
 ちょっと突飛な提案だった。された張本人であるジョーカーのみならず、耳を傾けていた全員が驚きとともに二人を見比べる。
「引き取るってなぁ、パンサーお前……」
 いくらジョーカーでもそれは無理だろう、とたしなめるスカルの横で、彼は平然と先の問いに答えた。
「たぶんできるよ」
「できんのかよ!」
「打てば響くスカルのツッコミ。もっとして」
「うっせぇわ!」
 強く足を踏み鳴らして喚くスカルはさておき、パンサーはそれならばと熱心な眼差しを彼に差し向ける。
「ならさ、できるんならさ、やっぱり……無いほうがいいんだよね? だって……」
 碧の瞳が一瞬だけに向けられる。
 彼女が懸念しているのはに課せられた『試練』なるものだ。等間隔に並べられた図画ともう一つの空間は強いられたそれを強く連想させる―――
 一方で、張本人であるは間の抜けた表情を晒している。
「今のところ体調に変化もないし、私は別にこのままでも構わないけど。サオトメは力になれると思うけど、殴る以外のことはたぶんできないよ?」
「ちょ……もう、、アンタってコはね……!」
「な、なんで怒ってるの?」
「むしろなんで怒られないとおもうんだよ」
「まったくだ。、そこに正座しろ」
 四方八方から非難の視線と声を浴びせかけられて、は壁際にまで後退った。
 蒼褪める彼女をじわじわと追い詰める仲間たちの背を眺めて、ジョーカーはふっと口元を緩ませた。
「たしかにこれは、『使える』かもな」
「ジョーカーまで!」
 ふり返って声を張り上げたパンサーの顔は怒りによって仮面と同じくらい赤く染まっている。
 他人のためにそこまでの怒りを覚えられるところが彼女の美点だ。しかし過ぎるばかりに炎気をまといつつあるのは頂けない。
 焦がされる前にとジョーカーは素早く口を開いた。
「落ち着け、パンサー。皆も聞いてくれ。特にフォックス、お前だ―――」
 名指しにフォックスはへのお説教を中断させてふり返った。はそれを救いと思ったようだが、代打として前に出たクイーンとノワールに両脇を固められてますます顔を蒼白にさせる。
 ジョーカーはこれを―――声は届いているだろうと―――放置して、思いついたばかりの作戦を伝え始めた。

 大した時間はかからなかった。どちらかと言えば向こう見ずなへのお説教に多くの時間を裂いて、彼らは侵入地点付近に戻っていた。
「あんなに怒らなくても……」
「オマエちっとも反省してねーな?」
 肩を落として項垂れるから零れた言に、幾度目かも分からない鋭い視線が突き刺さる。
 はどことなくうんざりした様子で両手を振り回した。
「作戦もちゃんと頭に入ってるよ。納得もしてる。ただ怒られたことが不服なだけで―――」
「そうか。言葉で解らぬというのであればこの腕を振るうのもやむなしというもの」
「ぼ、暴力反対!」
 どういうわけか頭頂部を守ろうと必死になる様は滑稽だった。
 ジョーカーは失笑をこらえ切れずに身体をくの字に折って傍らの大木に手をつける。笑声は木立の合間を抜けて広く響き渡った。
 笑いすぎだとスカルがわき腹を小突いてやっと、彼は背筋を伸ばした。
「ふー……ああ、やっぱりお前らといると退屈しなくていいな」
 帰りたくなくなるよ。
 努めて小さな声で語尾に添えられたものに、怪盗たちは揃って表情を曇らせる。
 永遠の別れというわけでも、次の約束ももうあるが、現実で再び顔を合わせられるのは少し先のことになる。
 一抹の寂しさを振り払うように彼は再び笑ってみせた。
「じゃあ、ここで解散。俺は帰る……っと」
 大木の幹の向こうに消えようとするコートの裾を、思わずといった様子でナビが掴んでいた。彼女自身も本当に意図していなかった様子で、ゴーグルの下の眼を瞬かせて己の手と彼の背とを見比べている。
「ごめ……だってなんか、あっさりいっちゃおうとするから……」
 狼狽しながら放される手を見送る瞳にはともすれば彼のほうがその小さな手を拾い上げそうな感慨深いものがあった。
 喉がなにかを嚥下する動きは首元を覆うインナーに隠されて誰にも覗けない。彼はすぐにまた笑みを湛えてみせた。
「またすぐ会える。……たぶん会えないほうがいいんだろうけど」
 もちろんその強がりは仲間たちの目や耳以外のところで察知されてしまっている。
 同時に誰もがそれを見ないふりすることができた。
「かもな」
 スカルはいい加減長い付き合いになる友人の見栄に付き合ってやろうと肩をすくめた。
 実際に彼の言う通りでもある。ジョーカーがやってくるということは、怪盗団の存在を求める誰かが居るということだ。改心という手段を必要とする誰か―――そんなものは無いほうがいいに決まっていた。
 しかしこの場に集う面々が求めているのは≪ジョーカー≫ではなく、ただの友人―――あるいはそれ以上の存在―――であるところの一人の少年だ。
 部外者にあたるでさえもが皆の想いを感じ取って沈痛な面持ちをつくっている。
 こんな状況じゃなくたって、友だちがどこか気軽に会えない場所に行ってしまうというのは寂しいものだと彼女はよく知っていた。
 とはいえ状況が絶望的なものでないことは、彼らの手元に≪切り札≫があるからこそ明々白々だ。
「……でも、コレがなくてもホントにすぐ会えちゃうかもよ?」
 わざとらしいほど明るい声を上げたパンサーに、ジョーカーはほっとしつつも首を傾げた。
「どういう意味?」
「まだヒミツ!」
「なんだよ。気になる」
「ダメ! 教えない!」
「えー……」
 素っ気なく突っぱねられて彼は頭をかいた。
「ちぇっ……もういいよ。じゃあな」
 ツンとそっぽを向いて、今度こそと彼は大木の影に身を滑り込ませる―――
「あ、そうだ。
 と思いきや、顔と手だけをひょっこり出して、彼はを指し示している。
 まだなにかあるのかと首を傾げ、お説教ならいらないぞと身構える彼女に彼は器用に片目をつむってみせた。
「やっぱり仮面の下もかわいかったな」
「うわあ、五分……」
「なにそれ? ……アハハ、じゃ、またな!」
 虫を追い払うような手振りに押し出されるようにしてジョーカーは影の中に潜り込んでいった。
 後には呆れかえったため息と疲労感が残される。
「まったくもう……、騙されちゃ駄目よ?」
「わかってます。ご心配なく」
 肩をすくめて両手を上げる様子を見るにどうやら本当にその心配はなさそうだと安堵の息をついたのはクイーンだけではなかったが、のほうはそれに気が付かなかった。そのほうがいいだろう。
 そもそも彼女はフォックスのほうを幾度も盗み見ては居心地悪そうに身体を揺すっている。
「……なんだ?」
「な、なんでもない……」
「なんでもなくはなさそうだが―――」
 指先をこすり合わせる様を指してそうと指摘しようとするが、先んじてモナが伸びをしつつ一同に向けて声をかけた。
「ワガハイたちも戻ろうぜ。もう時間も時間だ」
 言われて、少年たちは手元のスマートフォンや時計に目を落とす。電話やカメラとしての機能こそこの場では働かなくとも、時間くらいは教えてくれる。
 時刻は二十時を回ったところだ。
 そりゃ腹も減るはずだと彼らは慌ててそこを飛び出していった。

 現実世界に戻って後、モルガナは少し遅めの夕飯を簡単に済ませるとに随行して女子寮のそばまでやってきていた。
 仮面を剥がしたことで干渉は弱まっているはずだが、やはり寮に戻るとなれば警戒が必要だろうとしてのことだ。流石に女性陣も寮にお泊りとはいかないし、いわんや男子が入ろうものなら大目玉では済まされないだろう。
 こういう時ばかりは猫の身も役に立つものだと、なんとなく習慣で道中の護衛を務めた喜多川は思う。
 彼の視線の先、女子寮を囲む塀の上に登ったモルガナはを見下ろしながら問いかけた。
「オマエの部屋どこだ?」
「あそこだよ。二階の、右から三番目」
 指差された場所を目視して、モルガナは頷いた。
「了解。ワガハイはベランダから入るからよ、中入ったら開けてくれ」
「わかった」
 頼むぜと言い残してモルガナはひらりと塀を飛び降り、足音もなく暗がりの中に姿を消した。
 それを見て、喜多川もまた踵を返す。
「では俺はここまでだな」
 おやすみと、早く寝ろよと言い置こうとする彼を、しかしの手がその上着の裾を掴まえて妨げていた。
 まるで先にナビがしたことのようだが、あの小さな女の子と違って、のほうはずいぶんと手に力が篭っているようだった。
 しわになる―――
 文句を付けようとするのも、流石に躊躇われた。
「ゆ、ゆ、祐介」
 なにしろ見上げてくる瞳は必死さに溢れている。喜多川はすぐに『なんでもなくはなさそう』だと判じて応じた。
「どうした」
「あの……その……」
 彼が立ち止まったことに安堵したのか、掴む手から力が抜け落ちる。重力に従って元の位置に落ちる裾を見送りながら、は慎重に言葉を発した。
「さっき、あのとき……嫌いって言っちゃったけど、あれは勢いというか……その……」
「そうか。よかった」
 別にそんな気にしていない。喜多川はそう返そうとしたが、自分の口から漏れた吐息が思いのほか不安や緊張に満ちていたことに気が付いて言葉を止める。
 なんだけっこう傷ついていたんじゃないか。そういえば引っぱたかれた頬も、治療されたはずだがいやに痛む気もしてくる―――
 嫌味の一つでもぶつけてやろうかと底意地悪く思う少年の思惑になどまるで気が付かず、は俯いたままたどたどしく続けた。
「実際には全然そんなことなくて、むしろ、あの」
 一先ずは彼女の言い分にも耳を傾けるべきだろうとして彼は口を閉ざしている。それはにとって幸いでもあったし、余計なことでもあった。
「……す、……好きだよ」
 口にしてからはやっと我に返って息を殺した。
 そんなことを言うつもりはなかった。表面的にはたいてい超然としている相手がもしかしたら傷ついているかもしれないと、咄嗟に口をついて出た言葉であってもきちんと撤回をしなければと考えてどうにか取り繕おうとしただけなのに―――
 撤回しようと上げられた顔を見て、喜多川はぷっと吹き出した。
 晒された彼女の表情が情けないと評してよいものだったからだ。目に涙を浮かべた困り顔に、赤と青がまだらになって浮かんでいる。
 喜多川は肩を震わせながら、改めて己が「嫌いだ」と言われたことに無意識に近い部分で落胆と失望を抱いていたと自覚する。
 この女の子からそのように言われてしまうと、自分は当然として傷つくのだ、と。
 もちろん、反対の言葉をぶつけられれば嬉しいに決まっている。
 彼はそのことを率直に告げた。
「ありがとう。君にそう言われるのは、存外に嬉しいものだな」
 は顔を上げたことを、好きだという言葉を口にする以上に後悔した。
 なにしろ目の前に、普段なら鋭い印象を与える目元を優しげに緩ませる憎からず思う相手の顔がある。
 たたらを踏んで後退るに充分だった。
「あっ、あっ、いやでも、好きっていってもそういうのではなくて、友だちとして。友だちして!」
「二回も言うな、分かってる。俺も君を好いているさ、友人としてな」
 なんの段差も突起もない場所では尻もちをついた。
 今度は喜多川のほうが慌てて手を差し伸べるが、彼女はそれを固辞して一人で立ち上がった。
「だい、だいじょうぶ……」
「いい音させていたが」
「そんなやわじゃない」
「それもそうだな」
 納得されてしまったことに憮然として、は再び俯いた。
 状況に不満はない。これ以上など望むべくもないし、そんな浮かれた真似をしていい場合でもない。
 わかってる。と彼女はいつも通りに飲み込んでみせる。
 疑問もあった。ただの吊り橋効果じゃないの? という。
 呼吸を整えて顔を上げると、は己と喜多川に向けて言う。
「全然解ってないよ」
「……そうなのか?」
「ああ。でもそれでいいんだと思う。そんな場合じゃないからね」
 スカートに付いたしわや埃を払って、今度こそは背筋を伸ばした。
 清らかで静かな、しかしどこかうら寂しげな姿はつい先ほどまで居た場所を連想させる。それは彼の姿勢も正させた。
「そうか。そうだな」
 なにに対する理解かは喜多川には解らなかったが、そう答えるべきだろうと彼は己を納得させている。あまり踏み込まないほうがきっと彼女にも自分自身にも良いだろうと。
 ただ解るのは、そう急いで帰る必要はないということだった。モルガナのためには急ぐべきだろうが……あれにはフカフカの毛皮がある。少しくらいこの氷点下近い気温の中待ちぼうけを喰らわせたところでくしゃみをする程度で済むだろう。
 もそのように考えているのか、もどかしげにつま先でアスファルトを叩いて立ち止まっている。そこにはそばの街灯から落ちる濃い影があった。
「うん……でも……」
「ああ」
 二人の間を寒風が通り抜ける。骨の芯まで凍えるような冷たさは活動体温を保つ機能のために、かえって二人の体温を上昇させた。
 の頬が赤らんでいるのはそんな理由だろう。
「好きだよ。君の変なところもひっくるめてね」
「お互い様だろ」
「失礼だな」
「お前が言うか」
 二人は顔を見合わせて笑い合った。
 高らかなその声はよく響いて、寮のほうから幾人かの影が二人の姿を目撃していたが、喜多川はもとよりもそれを意識こそすれ気にすることはないと受け流した。
 むしろ好都合かもしれない―――
 二心あるなどとはおくびにも出さず、は笑い続けた。
 しかしそれも、ふとあることに気が付いてしまうまでだった。
「あ―――」
「どうした?」
「いやぁ……あとさ、殴っちゃって悪かったなーって……」
「それはもう少し早く謝ってほしかった」
「はい。ごめんなさい」
「許そう。……次はないぞ」
 脅しつけこそすれ、喜多川の顔は笑っている。手はまた、の肩を優しく叩きもした。
「さて、今日は早く休め。明日から忙しくなるぞ」
 モルガナもそろそろ『おかんむり』だろう―――
 今度こそ踵を返した彼に、は素直に頷いてみせた。
「うん。頑張ろうね」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ」
 別れて後、自室にたどり着いた喜多川のもとには寒さで膨らんで怒り心頭といった様子のモルガナの画像が送付された。