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20:Crystal Clear on the Decks
道とも言えぬ道をどれほど登ったことだろうか。気軽なトレッキングはいつしか山登りと化し、ついにはトレイルランニングへと変化した。
というのも、画帳は攻略の役に立つものでもなさそうだと元に戻して歩みを再開させてすぐ、マイコニド・マタンゴ・マシュラが群れをなして襲いかかってきたのだ。
はね飛ばしたときから判っていたことだが、このキノコ人間たち自体は大した脅威ではなかった。いずれの個体も軽く殴ってやるだけで崩れて落ちるのだから、驚異とも呼べない。
しかしその数は凶悪だった。
辺りを覆うネバネバが根源らしく、十体ほどをまとめて吹き飛ばしたところで瞬き一度の間に二十体はおかわりがくる。
気がつけば木々の切れ間に、茂みの向こうにひしめき合い、波のように迫るその数は、ナビの計測可能最大数にも迫っていた。
こりゃたまらんと尾を巻いて逃げるように進めば、そこにも大群が待ち受けている。
おまけに足元はよく滑り、太い木の根が悪路を見事に作り上げている有様だ。
そこをただ走るだけで済んでいるのは先頭を走るジョーカーのおかげだろう。
彼が指を鳴らすだけでその背後に巨大な蝿の姿を取った大悪魔が現れ、またたく間にキノコ人間たちを闇の中に引きずり込んでいった。
―――なるほど、これが≪切り札≫か。噂に違わぬ実力だ。
背中に目でも付いているのか、感嘆する増髪の視線に気がついているかのようにジョーカーはふっと口元を緩ませた。
その手が仮面に触れると蝿の王は直ちに退き、銀色に輝く神の使徒にその場を譲り渡した。
「いけッ!」
鋭い号令に従い、神の代理人は手にした剣を前にかざし飛び出していく。
乱雑に切り刻まれたシャドウたちは欠片となって足元に散らばり、すぐさま溶けて消え失せた。
なるほど、と増髪は再び得心してつばを飲み込んだ。
これが皆の言う、『自分に似た』力か―――
いいや、とここに至って増髪は深く理解する。『彼』が私に似ているのではなく、『私』に与えられた力が彼の模倣なのだと。
またその背を駆け登るものもがあった。
―――この力なら……これだけ強ければ、紬を助け出してくれるに違いない。
確信とともに抱いた希望は彼女の脚に力を与え、強く地を踏み前へ進ませた。
キノコ人間の群れは怪盗たちが参道に至るまで続いた。
不思議なことにこのシャドウらは怪盗たちの足が山頂付近に差し掛かると、波が引くように数を減らし、追跡を諦めて土の中に潜っていった。
罠かとも思えたが、しかし人の手の入った石階段と石畳が見えてくると納得もする。
山頂付近は広く楕円を描いて開けていた。ここまでの道のりからも察せられていたことだが、切り取られた絵画のように浮かぶ空は赤く夕暮れに染まっていた。
ここもか、という思いがジョーカーを除いた全員の胸に湧く。
いい加減うんざりだと言わんばかりの彼らの様子に不思議そうにしつつ、ジョーカーは辺りを見回した。
真っ直ぐに奥へ伸びた石畳を挟む地面の上には朽ちかけた枯れ葉が八重に折り重なってほとんど土が見られない。一部は山肌がむき出しになっているようで、腐葉土の奥からチャートらしき平行の層が見える。
そのように足元に積もった葉を見るに、これまでずっとあった木々はどうやら冷温帯に見られる落葉広葉樹の類らしい。葉に混ざって、朽ちかけた小さな木の実……ドングリかシイの実らしき果実が転がっている。
自然物以外にも目につくものは多い。
赤々と照らし出される空間には、この国ではどこにでもありそうな神社がそのまま形成されている。参道から続く拝殿に手水舎、それらの奥に見える本殿と、初めて来る場所でも既視感を覚えるような配置だ。
これはが信心深い性質であることを表しているのか、はたまた意識もしないほど深くにこうした光景が根付いていることの証明なのか……
ジョーカーには解らない。もしかしたら、この場の誰にも、増髪以外には誰も解らないのかもしれない。
その彼女ははじめにここへ踏み入ったときと似た様子で空を睨みつけている。
「どうした?」
ジョーカーの問いかけに、増髪は首を僅かに傾けた。
「いや……ただ、ここも夕方なんだなと思って。私の心なのに、まるで異界みたいだ」
「というと?」
「ああ、そうか。君は知らないんだね。異界の空もこういう調子なんだよ。あそこはずっと夕暮れのままなんだ」
「ふーん、トワイライトゾーンってことか。怪奇大作戦でもいいかな」
「なにそれ?」
気にしないでと会話を打ち切って、少年は参道の先へ目を向ける。
モドキではないパセスであれば本殿あたりにオタカラがありそうなものだが、ここはパレスそのものではなく、パレスモドキだ。
そして目当てはオタカラではなく、このネバネバの大元―――
よくある神社の様相を異常たらしめる根源は、さてどこにあるのやら。
などと悩むそぶりをしてみるものの、探すまでもない。彼は己の周囲にあるものから目を逸らそうと必死だった。
ここまで追ってきた根は今や根詰まりを起こした鉢のそれだ。土の地面はさほどでもないが、石畳や建築物は形しか判らないほどびっしりと覆われている。
怪盗たちは先にここを神社らしいと判別したが、それもシルエットや配置から辛うじて察した程度だ。実は拝殿と本殿が入れ替わっているといわれれば、納得してしまうかもしれない。
そしてその根の大半は、これまで来た道から広場の奥へ繋がっている。
「ふう……行くぞ。歩きづらいったらないな、こりゃ」
未だにフォックスの背に貼り付いていたモナを剥がし、肩に担ぎ上げてからジョーカーは奥へ進んだ。
拝殿の脇を通り、本殿の裏へ回ると、さらに上へ続く石階段が目に入る。
これまで登ってきた道のほとんどは道と呼ぶのも戸惑われる有様だっただけに、怪盗たちの間はどことなく安堵した雰囲気で満たされる。
ただしそれも、根に覆われている。
「もうヤダ……ほんと服変わってて良かった……」
いかにもげんなりとした様子でパンサーが漏らすが、誰もこれを咎めることはなかった。
足元もそうだが、例のキノコ人間たちは接近を許すと胞子めいた粉状のなにかを撒き散らしてくる。うっかりそれが髪や服、仮面に触れると、そこからキノコがニョキニョキと生えてくるのだ。
ナビが言うには丸一日も付着させていれば定着し、いずれはキノコ人間の仲間入りという危険性があるらしい。そこまで長居するつもりもないし、叩いて払い落とせば十分でもあるそうだが……気持ちは晴れない。
そしてどういうわけか、この事実にナビは自慢げにしている。
「やーっぱりマシュラだったな!」
「いやマイコニドだろって」
「マイコニドは別に他種族を乗っ取ったり寄生したりしないだろ。そもそもジョーカーのいうマイコニドはどこ産だよ」
「生産者表示必須かよ」
「マタンゴは食べるとアウトなタイプだろ。そしたらもうあれはマシュラだよ」
「マシュラだって別に胞子を浴びせたりしなくなかったか? 毒液とかそんなんだった記憶が」
「それにマタンゴは食べなくても寄生できるらしい描写があるよ? やっぱりマタンゴが一番近いと思うの―――」
キノコ人間の名称談義はさておき、石段を登ること三百段。ぬめりこそすれ気をつけさえしていれば難なく踏破した彼らの前に、再び開けた空間が現れる。
こちらも空は茜色に染まり、周囲を木立に囲まれているが、中央には奇妙なものがあった。
「ンだよこれ……」
薄気味悪さを隠しもせずスカルが吐き捨てる。
天をつくようななにかが鎮座しているのは解るのだが、それはこれまで以上に根―――菌糸に覆われて菌床と化し、もはや正体が判別不可能なほどになってしまっていた。
解るのはただそれが根の中心だということだけだ。白い根のようなものはそこから放射線状に、隙間なく伸びている。
「これが核ということでよさそうね」
踏み出して断言したクイーンはすでに臨戦態勢だ。半身を従え、油断なくあたりに視線を走らせている。
「そうだな。間違いないと思うぜ。見た目からしてそうだが……パレスに不似合いなイキモノのニオイがしやがる。ナビ、頼む」
「了解。スキャン開始するよ」
ジョーカーの肩に腰掛けたモナに促され、ナビは半身とともに空中に浮き上がる。
『十中八九動くだろうから、警戒よろ』
「承知した」
「ま、動こうがなんだろうが、アレを斃せばいいんでしょ? 焼き払っちゃおうよ」
フォックスの金打にか、はたまたパンサーの火気に反応したのか、十の八九の予想通り菌糸の塊が蠕動しはじめる。
生理的嫌悪を催すようなその動きに若者たちは仮面の下を引きつらせ、併せて響いたうめき声に似た音も、彼らの嫌悪感を加速させた。
『お……お……おお……おっ、お……』
低くくぐもった音は、老人の声のようにも思えた。
しかしキノコ人間にしてもそうだったが、口や喉といった発声器官らしきものは見当たらない。そもそも菌の塊だ。しゃべるはずがないではないか。
ただし、マイコニドにしても、マタンゴにしても、マシュラにしても……想像上のキノコの怪物たちは、たいてい一定以上の知能を有している。
地鳴りとともに『たち上がった』それは、見上げるほど巨大な、純白の……エリンギ茸だった。
一応、手足らしき突起が複数伸びてはいるが、それも先端が笠のように開いている。事態に反してその見た目はなんともいえず、コミカルな印象を怪盗たちに与えた。
「まあっ、これはまさか……」
ノワールは、瞳を輝かせて感動しているような素振りさえみせる。
「すごい。こんなに大きくて立派な……」
「え、なに? ノワールどうしたの?」
巨大エリンギを熱っぽく見つめる美少女という刺激的な絵面はさておき、構えを維持しつつクイーンはノワールを急かした。
なにか情報があるのなら早めに言って、と。
「あっ、ごめんね。あのね、見た目がアワビタケっていうキノコに似ているの。白霊茸とも言われていて……食用なんだけど、日本ではあまり流通していない珍しいキノコなんだよ」
「美味いのか!?」
「食いつくよなぁオマエは……」
「お味は淡白だよ。でも香りと食感がよくてね」
「答えなくていーから!」
「そもそも食べられないと思うし食べないでほしい。私の心に生えたものだよ」
与太話をしている間に、巨大なキノコの怪物はさらに丈を増し、少年らの頭上に影を落とすまでになる。
「とりあえず……暫定、こいつの名前は白霊で」
「お、ボスっぽい」
仰々しい名前が与えられたものの、彼らはこれを脅威と捉えていなかった。
なにしろキノコ人間たちの親玉だ。あの脆さを考えれば、数で押してくる雑魚と比べればこちらのほうがよほど容易な相手と思えた。
実際に小手調べと放られたパンサーの火球は躱すことさえできず巨体の腹……らしき部分にぶち当たり、その純白の柄を燃え上がらせた。
『お、お、お……』
苦悶とも法悦ともつかないうめき声を上げて、白霊はよたよたと躰を振る。
反撃さえしてこない。やっぱり楽勝じゃん。
そう思ったのはなにもパンサーだけではなかった。
ジョーカーをはじめ、怪盗団の面々は一人を除いた他全員がどこか安堵した様子をみせた。
こうなれば、一気呵成に仕掛けて済ませようと取り囲むように動き、走り出す。
増髪は、さてどうしようかなと周囲を見回している。
先に侵入した異界では車止めの円柱を引っこ抜いて武器代わりにしていたが、混乱のさなかに手放してそのままだ。パレスモドキにも慌ただしく飛び込んだから、事前準備もなにもなく無手のまま、道中にも彼女が振り回せるようなものは見当たらなかった。
素手でこの巨大キノコに触るのはちょっと遠慮したいというのが彼女の本音だった。
彼女が迷っているうちに包囲は完成する。
「さっさと終わらせて帰るか。無断外出がバレたら折檻どころじゃ済まされない。……冗談抜きで」
やたらと切実に訴えたジョーカーの手には短剣が握られている。それで切り刻むには敵は巨大すぎるが、無手よりはマシだろう。彼もまた、素手ではあんまり触りたくないなと考えていた。
この距離を維持してキノコのソテーといこう。食べたくもないけど。
あたりにはキノコが焼ける香りが漂いつつあった。
「やべー……腹減るわこのニオイ。なんか食ってくりゃよかった」
「ああ、甘く芳醇な香りの中に隠れたなんとも言えない……いや待て、なんだこれは。こげ臭い」
「そりゃ燃やしたからな」
パンサーが、とスカルは揶揄するように笑うが、フォックスはそうじゃないと首を振った。
彼の鼻をついたのはキノコの甘い香りの影に隠された不快臭だ。すっぱいような、こげ臭いような……
火事現場のニオイに似ていると思い当たるのと、ノワールの短い悲鳴が響くのは同時だった。
「どうして……!?」
困惑に満ちた彼女の手は増神のコートを強く引っ張っている。
ぎょっとして目をやった一同は、ノワールが増髪を脱がしにかかっていることにも、そのコートが火に巻かれていることにもさらに目を丸くする。
その目は次いでパンサーに向けられるが、彼女は激しく首を左右に振るばかりだ。
確かに火は放ったが、それが増髪に触れ、あまつさえ火だるまにしかけるような扱いはしていない。
それは他の面々も分かり切っている。今さら彼女が火の扱いをしくじるはずがない―――
じゃあなんだ、と考えたとき、視線はさらに白霊に向かう。柄にはまだ小さな炎がくすぶっていた。
「まさか……冗談でしょ? ナビ、どうなってるの?」
『冗談ではない。……冗談抜きでいうぞ、あれ、増髪と繋がってる』
「いやそれは知ってっけど。だから来たんだろ俺ら」
『だから冗談いってるばあいじゃ……あ、素か。だからな、つまりな……』
今我々の目の前にある菌糸とその子実体は、増髪の精神的な内面世界のみならず、肉体的な現象界にまで根を張り巡らせている。
それこそ、世界最大の生物とされるオニナラタケのように、この場全体どころかこの山、の心を表す空間全てがこれの肉体そのものだ。
「つまり? つまりなに? こいつを斃そうと思ったら―――」
「このパレスモドキを破壊する他ない、ということか」
フォックスの口から出た結論に、ナビははっきりと『イエス』と応えた。
「はぁ!? ンだよそれ! そんなん……どうやんだよ!」
「俺が知るか!」
噛み付いたスカルに怒鳴り返すフォックスもまた明確に苛ついている。その視線の先には増髪がいて、彼女の艶のある黒髪の幾筋かは燃え落ちてしまっていた。
ジョーカーは手の中の短剣を弄びながらふむと一度唸ると、増髪に声をかける。
「ちょっと試すか……、我慢できるか」
「……分からないから試してみて」
「その思い切りの良さはどうなんだ?」
首を傾げつつも、彼の口元には不敵な笑みが浮かんでいる。どうやら増神の挑戦的な態度を気に入ったらしい。
ジョーカーは短剣を構え直すと、姿勢を低くして白霊の落とす影の下に潜り込んだ。
焦ったのは二人のやり取りを見守っていたノワールだ。
「ちょっと待って……待ちなさいっ! ジョーカー!」
しかし懸命な訴えは聞き流される。
もちろん、白霊にも貸す耳など存在しない。形状を見るにそもそも聴覚情報を得ているかさえもが疑問だ。いったいなにによって認知を行っているのか、踏み込んたジョーカーの頭上に柄から伸びた無数の触手が襲いかかった。
触手といっても元から備わっているものではなく、巨体を形成する菌糸がさらに成長して蔓を伸ばしているようだ。その動きは線虫やミミズの蠕動によく似ていた。
ジョーカーはこみ上げる嫌悪感を呑み下しながら己の仮面をひと撫で、蒼い炎と引きちぎられた鎖の断片を撒き散らしながら己の半身を呼び寄せる。
現れたのは男女どちらの特徴も兼ね備えた合一神だ。そのうちの馬手がかざされると、パッと眩い閃光がほとばしった。
光が一同の目に届くころにはすでに、叩きつけられたエネルギーの塊は触手を焼き切り、柄の一部を抉っている。
「バッ……ジョーカー! やり過ぎだ!」
肩にしがみついて事態を神妙に見守っていたモナもこれには怒声を上げた。しかしジョーカーは涼しい顔のまま彼を摘み上げると、小さな身体を増髪に向かって放り投げるという暴挙に出る。
モナはジョーカーの狙い通り、増髪の目の前に着地した。
彼女は真っ青になったノワールのそばで腕と腹を押さえて身体をくの字に折り、歯を食いしばって震えている。
「……やっぱやり過ぎだろ! 大丈夫か!?」
「だっ……だいじょうぶ……! 死ぬほど痛いけど、本当に死ぬほどじゃない……」
「アホなこと言ってんじゃねーよ!」
滴った血液が折れた身体の下から流れ出る。すぐさまモナが取り付いて、傷はまたたく間に塞がれた。
傍ら、ノワールは立ち上がってきつくジョーカーを睨みつけている。そこに恋慕の情はなく―――あるからこそ、見過ごせないと強い怒りの感情を籠めてノワールは声を張り上げた。
「ジョーカー! そこに正座しなさい!」
「ええ、後でじゃ駄目か?」
「今すぐですっ! 女の子のカラダに傷をつけるなんて―――!」
ジョーカーは特別反論もしなかったが、近寄って正座もしなかった。
なにしろ白霊はいよいよ『脚』らしきものを生やして、彼らに迫ろうとしている。
「ノワール、後にしてくれ。これが済んだ後なら、一晩中でも付き合ってやる」
スカルとフォックスは、互いに互いを盗み見あってほんのわずかに肩をすくめた。
彼らとしても、必要なことだろうがスタンドプレイで増髪に負担を強いた頭領に言いたいことの一つもある。それこそその一晩中にお付き合いしてやりたいくらいには。
しかし―――
「……わかりました。一晩中、だね?」
「ん? うん。うん……?」
触らぬ神にたたりなし。
こちらの神にしても、触れればその影響は増髪にまで及ぶことがはっきりした。
ジョーカーはグローブを直しながら仲間たちを一瞥し、短剣を腰元に戻してから再び飛び出した。
「クイーン、ナビ、なにか手を考えろ。俺が足止めする。他の連中は俺の援護との護衛だ」
飛ばされた指示に従って、少年たちは展開する。
焼き切られた触手は再び成長して旋回するジョーカーの頭上に迫るが、すぐに捕らえられるような失態を彼が犯すはずもない。ひとまずと与えられた肉体強化効果のあるスキルもそれに一役買っている。
しばらくほっといても平気だろう。どうせジョーカーのことだ、一人ででもなんとかする。
半ば投げやりに思いつつ、クイーンは無意識のうちに爪を噛んでしまう。
「手を考えろだなんて、気楽に言ってくれちゃって……」
『攻撃しないで斃す方法なんてあるか?』
増髪のそばに身を置いた頭脳派トップツーは顔を見合わせてうーんと唸った。
このパレスモドキ全体が敵そのものであるというのなら、モドキを破壊すればいい。しかしそもそもここがパレスとして顕在し、固定化されているのはその敵の仕業だ。
そしてそれは、そのものでもある。
あるいは予告状を受け取らせた以上、モドキとはいえオタカラも具現化しているはずだ。それを奪取できれば―――?
それも不可能ではないが難しい。モナはここに至るまでオタカラのニオイを嗅ぎ取らなかった。つまりこことは別の離れた場所にあるか、あるいは巧妙に隠されているかしているのだろう。
それを今、このひっ迫した状況下で探し出すのは……
『どんな手にしろ、とにかく増髪の仮面を引き剥がせばいいんだけど……わたしらそもそも、そのために来てるんだよなぁ』
あーもう、とナビは利き手でキーボードを叩きながらもう一方の手で長い髪をかき乱した。
彼女の眼はもうとっくに白霊の弱点と対処法を捉えている。
―――あとはとにかく、どんな形であれとの繋がりを断ち切るだけでいい。
そう訴える彼女に、増髪はむくりと身体を起こして応えた。
「そうか、わかった」
『……もういい加減つっこむけどな! おまえそれ絶対わかってないだろ!?』
「いや、わかってるよ。本当に」
言って増髪は大きく息をついた。肺腑の中にあったものをすべて絞り出し、新しい空気をいっぱいに取り込む。
それは一種の儀式だった。覚悟を決めるために必要な一連の動作だ。
嫌な予感を覚えて、クイーンは後退る。
「増髪? ちょっと……ねえ、やめてよ?」
「……剥がせばいいんだよね?」
『ばかっ! やめろグロいことになる! いっとくがわたしらの仮面とは全然違うんだから―――』
「ていうか本気でやめて! 嫌よ、怖い!」
青ざめる二人を無視して、増髪は震える指を己の顔面を覆うものにかけた。
「うっ、く、く……ぬ……!」
『やめろってばぁ! みんな! おぶへるぴんぐす!』
「なにそのEngrish」
呆れた調子で返したが、パンサーもまた血を滴らせる増髪の姿を目に入れるなり青ざめる。
「増髪! ダメ!」
一足で駆け寄った彼女は増髪の両手を押さえ、無理矢理にその手を仮面から引き離した。
「どうして……君たちだって一度、仮面を剥がしたんだろう?」
「そうだけど、それは、アンタのとは違うの!」
「違う―――?」
仮面越しのパンサーの碧の瞳が潤んでいるのを見ては、増髪も強硬にはなれない。脱力して腕を下ろすと、タイミングよくフォックスが二人の傍らに着地した。
どうやら白霊の触手を掻い潜ってこちらへ合流したらしい。見れば彼がいた位置には代わりにモナが入り、はしこく駆け回っては白霊の触手を翻弄している。
やり取りも耳に入れていたらしい彼は己の仮面を指先で一度叩いて、小休止がてらに語った。
「確かに俺たちの仮面も、かつては他者に押し付けられたものだったが……」
暴力沙汰を起こした不良だとか、お高く止まった尻軽女だとか、高名な日本画家の弟子に、品行方正なイイ子ちゃん、母を死に追いやった悪童と、父の野心を満たすための高級なお人形。そして前科持ちの悪党―――
バラエティに富んだ仮面は確かに、かつて彼らの顔に、全身に押し付けられ、いつしか彼ら自身もそれこそが自分自身なのだと思い込み、思い込もうとしていた一部だ。
全くのそら言であるものもあったし、ある程度は真実を言い当てているものもあった。
実際に坂本は暴力を振るったし、かつての高巻の頑なな態度はそうと誤解されても仕方のない面もある。喜多川や新島にしても、決して間違った情報ではいない。双葉に関しては全くの虚実だが、奥村のものは、今となってはもはや真実を知ることは不可能だ。
彼の場合は……前科持ちも、悪党も、ある意味ではその通りだった。前科は今まさに覆せるかどうかの瀬戸際だが、それを差し引いても、彼は間違いなく悪党だ。
翻ってはどうか。
彼女の仮面もまた、確かに他者に押し付けられたものだが、それは決して彼女の一部などではない。そもそも彼らの仮面というものは内包的な概念の話、あるいは個性のことであって、こうして暴れまわり、根を伸ばして浸食をしたりはしない。
かつてあり今もあり続ける仮面は自らを蝕むこともあったが、のものは明確に異質であると断言できた。
「真実であろうがなかろうが、誤魔化しようもなくあれらは自らの一部として機能していた部分だった。だが君は違う。その仮面も≪力≫も、君自身のものではなく、その存在とはまったく別個に在るものだ」
それ故、剥がせばろくなことにはなるまいとフォックスは厳しく言いつける。
しかし増髪はそれで納得はしなかった。
「だけど他にどうする? 君たちはアレを攻撃したくない、私が力づくで仮面を剥ぐのも駄目なら、他にどんな手があるというの?」
それは、と誰もが口を噤んだ。反論は今のところ見つかっていない。
ただ分かっているのは、誰も増髪を傷つけたくないという心情だけだ。
「とにかく、君は下がっていろ」
しかしこの事実上の戦力外通告に、増髪は仮面の下で眉をひそめる。
フォックスにそんなつもりはなかろうが、これは彼女のプライドをいたく傷つけた。
先にしたジョーカーとの会話も胸に過る。
彼は予告状に綴られた『小善』という単語を難しく考える必要はないと説いたが、彼女にはそれが―――いやさもっと以前、予告状を受け取ったときから小骨のように引っかかり続けている。
小善というものはすなわち、人間の持つ慈悲のことだ。
無常であり、不完全な優しさはたやすく人を傷つける。それ故、慈悲の心を発揮しようとするとき、心せねばならない。己はその慈悲を貫き、やり遂げることができるのかと。またその慈悲は、本当に相手のためになるものなのか―――
そうはいっても、多くの場合慈悲が必要なとき、時間や空間、資源や資金に余裕があることは少ない。
ましてや彼女には選択肢すら与えられていなかった。
―――だから、『私』はあそこで立ち止まることしかできなかった。
増髪はふとそんなふうに思う。同時に己の顔を覆い隠すものを押し付けられた一幕を胸に返して、はじめて明確な憤りを覚える。
その権利があると教えた少年にもそれは向けられていた。
「下がってろってなに」
冷ややかな声を最も間近で浴びせられたパンサーは、驚きと焦りを湛えて彼女を見やる。しかしその表情は、仮面がある以上どうしたって目にすることは叶わない。
ふり返ったフォックスも怪訝そうにしている。クイーンやナビも、ひりつくような緊張感に目を瞬かせていた。
「私、別に、赤ちゃん扱いも、姫プレイもしたいなんて言ってないよ」
「なに……?」
「私が『小善』なら君たちはなんなんだ。私は……私だって……」
くぐもった声は鳴動に遮られた。
ジョーカーたちに翻弄されていた白霊がいよいよその動きに苛立ったのか、はたまた本来の主であるところの増髪の精神状態の変化によるものか、巨体を震わせ柄からさらなる触手を生やして天を覆っていた。
大粒の雨のように降り注ぐそれらに対し、怪盗たちは無防備だ。反撃すれば増髪にも害が及ぶと理解しているから、彼らは回避することしかできない。
それが増髪にはたまらない。
彼らが己のためにそうしてくれていると―――この時ばかりではなく、かねてからずっと、このようにしてくれている様を目の当たりにするたび、思い出したくもないのに幼馴染の最後に見た姿が想起させられるからだ。
「私だって―――」
震える唇がなにかを言わんとするのを防ごうとしているかのように、絡み合う触手が彼女に迫っていた。
「危ない!」
叫んだのはパンサーだったのか、クイーンだったのか、それともナビかもしれない。いずれにせよ女の声が危機を知らせる。
察知したフォックスは半ばタックルするような形で彼女をそこから救い出した。
「うっ……大丈夫か、増髪―――」
しかしそれも完璧にとはいかず、彼は血を滴らせている。どうやら砕かれた地面が飛礫となり、彼の頭部のどこかに傷をつけたらしい。仮面と髪で、それがどこかはすぐには分からなかった。
腕の中に重い荷物のように抱えられた増髪は、幾度かまばたきをくり返した後、唐突に腕を振り抜いた。
破裂音が鳴り響き、フォックスは哀れにも地に転がる。
「……なん、なぜだ!? おい! なぜ今殴った!?」
フォックスの行動はほとんどは完璧だった。速度も、入射角も、計算されていたかのようにぴったりで、勢いはあっても増髪は少しも苦しくなかった。
だからこそ、彼女はそれが気に食わない。
「うるさい! 君なんてだいっ嫌いだ! 自分の都合ばかり押し付けて、そういうことばかりする!」
目を白黒させながらも、フォックスはすぐに彼女のいう『そういうこと』が、たった今庇ったようなこと……例えば、『話し合い』のために追いかけたり、追い詰めたり、待ち伏せしたり、送り届けたり。その結果妙な噂を立てられ、それを気にするなと言い切ったり。
フォックスに言わせれば、それらはすべて彼女のためにしたことだ。徹頭徹尾、彼は利他のために行動していた。
責められる謂れはないはずだが、しかし納得できなくもない。彼はまた、その口でこうも言った。
『俺はどうなる?』と。
それは彼女からも言えた言葉だ。
けれど―――
「今か!? 今それを言うのか!?」
もっと他に然るべきタイミングはあったはずだろうと打たれた頬を押さえる彼に、増髪はさらに拳を握りしめて訴えた。
「前々から思ってたんだ! 君たち変だ、おかしい!」
それはどうやら、フォックスだけに限った話ではないらしい。
「なんで逃げない? なんで庇う? 友だちだから? それは間違ってないよ、でも、いくらなんでも限度ってものがあるだろう! 二、三年も捕まってるなんて、拒絶すべきだ!」
俺もか、とジョーカーは白霊の巨体を挟んだ向こう側で笑った。
そこからでも充分、彼女の血を吐くような叫び声は届いていた。
「普通は逃げるんだよ! 逃げなきゃ駄目なんだよ!」
その白霊は彼女の感情の発露に呼応するように身悶えている。ジョーカーたちを追っていた触手も今や、ほとんどが彼女のもとへ向かっていた。
つまり、とジョーカーはほくそ笑む。
あの子のああした叫びは、こいつにとって都合の悪いことなんだろう。
彼は踵を返して身体を彼女のほうに向けると、底意地悪く問いかけた。
「つまり君は逃げなかった?」
思った通り、増髪の肩が大きく震えると白霊の動きは明確に鈍った。
「そうだよ……私は逃げられなかった。恐怖に脚を絡め取られて……あのとき私が逃げていたら、正しい判断をできていたら……そしたら、そしたら紬はきっと助かった」
「でも現実にはそうはならなかった―――」
再び増髪の肩が震え、白霊は苦痛に襲われでもしているかのように震える。
彼がなにをしようとしているのか、仲間たちはもうすでに察している。
精神に結びついたものを物理的手段で引き剥がそうとしたのが間違いだった。心に結びついたものを剥がすのなら、心にやらせるのがいいに決まっている。
……だからといって。
「おまけに君はこんなことになっている。骨折り損もいいところだな」
いくつかの血管が切れるような音が響いた。
「ジョーカー! アンタね、言い方ってもんがあんでしょ!?」
「最低……! もう少し人を思いやったらどうなの!?」
「そっ、そーだそーだ! 無神経なんだよおまえは!」
「ちょっとフォローできません。ごめんね?」
「あれ?」
意図は伝わっているよね? とジョーカーは初めて不安げに仲間たちを見回したが、返されるのは白けた空気と白霊のうめき声めいた音だけだった。
もちろん、彼女たちは理解している。その上でもっと賢く、優しくもできるはずだと確信もしていた。
「ええ……スカル、お前もか?」
「やろうとしてることは解るよ? 解るけどさぁ、なあ?」
「ワガハイに振るな。付き合いきれねぇよ」
ついと顔を逸らしたモナの視線の先にはまだ頬を押さえてふてくされたフォックスがいる。当然彼も、冷ややかな眼差しをジョーカーに差し出していた。
いよいよ四面楚歌かと冷や汗をかく彼に光明を与えたのは増髪だった。
「君のいう通りだ」
肯定の言葉にしたり顔が浮かぶ。
しかし敵は彼を調子づかせたままではいさせてくれなかった。
「うわあっ!?」
素っ頓狂な声を上げた彼は一瞬で変わった視界と全身を覆う嫌な感触に思い切り顔をしかめる。
目に映るのは霞んだ稜線と夕暮れ時の空―――つい今しがたまで踏んでいたはずの土は遥か下方、仲間たちは彼を見上げて目を見開いている。
どうやら足元から子実体が急激に成長、ジョーカーを巻き込んで聳立したらしい。
これ以上彼に余計なことを言わせまいということか。なんにせよ、全身を包み込む菌糸の感触に彼は蒼褪める。なにしろ両腕も両脚も、胸から下はすっかりキノコの一部と化している。
おまけに―――
「あああ! 入ってくる! なんか入ってきてる!」
「どこにだ!?」
「言わせるな!!」
「え? どこ? ……え? まさか―――」
皆まで言わせず、続いてクイーンが空に突き上げられる。ドップラー効果を伴った悲鳴はこの上なく切実に耳に響いた。
ほとんど反射的にだろう、パンサーは半身を呼び起こしてその手に火球を作り出す。
「クイーン! ジョーカー! 今助け……って、ああッ! もう!!」
しかしそれを撃ち出すこともできず、握られた拳とともに炎は彼女自身によってかき消されてしまう。
実際のところ彼らを取り込んだ菌糸は特定の部位にではなく、その全身、皮膚にじわじわと侵蝕をはじめている。目に見えないほど微細な糸が服にもぐりこみ、皮膚の下に入り込もうと蠢く感触はむず痒いような痛みをもたらしていた。
『やばいやばいやばいッ! すっげー勢いでHP削られてる! 死ぬ死ぬ死んじゃう!!』
焦りを隠しもせずナビが叫ぶが、じゃあ、と言って攻撃できるのならとっくにやっている。
死ぬほど痛いが死にはしないという増髪の言を信じてやるべきか。しかし―――
ジョーカーが増髪を攻撃できたのは、この場で唯一彼女のことを伝聞でしか知らないからだ。たとえそうでなかったとしても、彼なら遠慮杓子なくやっただろう。
まったく無関係の場所にいればいざ知らず、現実目の前に肉を持つ人物がいて、必要だからとそれに傷をつけようとする行為を許容できる者は多くない。
それでもやらなければならないとなれば、怪盗たちはやるだろう。誰かにやらせるくらいなら自分がさっさとやってしまったほうがいい。ただそれにはほんの数秒でも覚悟を決めるための時間が必要だった。
そして増髪はこれを待たなかった。
「これがあるからいけないんだろ!?」
その手は再び、顔を覆い隠すものにかかっている。
「待て―――増髪―――」
間近に立っていたフォックスが制止を呼びかけたが、遅かった。
メキメキという骨から皮膚が剥がれる音とともに鮮血が滝のように流れ落ちる。
目に入った光景に恥ずかしげもなく悲鳴を上げたのはフォックスだけではなかった。パンサーやナビもまた目撃したものに対して絶叫に近いものを上げた。
それも巨体の咆哮に比べれば囁き声と同じだ。
仮面とそれに貼り付いたままの皮膚と肉がの手から落ちるのと同時に、白霊は喚き叫んでいた。鼓膜どころか全身を痛めつけるような振動だった。
その音のせいか、顔中の皮膚を肉ごと剥がす痛みに耐えかねたのか、あるいは両方か、の身体がゆっくりと頽れる。
まったく同じタイミングで白霊も巨体を傾かせるが、その大きさ故に地に倒れるのには時間がかかった。
なんならジョーカーとクイーンが解放されて地面の上に戻るほうが早かった。
「いてて……クソ、皮膚がヒリヒリする……」
「挑発すっからだよ」
「結果オーライだ。見ろ―――」
差し出されたスカルの手を掴み、立ち上がってジョーカーは顎をしゃくってみせた。
そこには地に倒れ伏して巨体を捩る白霊がいる。その外被膜は地から完全に切り離されていた。
そしてそれが元居た場所には、苔むした物言わぬ巨石が鎮座ましましている。
「なんだありゃ、岩?」
「磐座だよ」
「あー……なんだっけそれ?」
ジョーカーは握ったままのスカルの手を激しく振り払った。
「キーワードだ。もう忘れたのか?」
「あー、あー、おぼえてるおぼえてる。イワクラな。……クラってなに? 岩じゃん」
「もーこのおバカさん、どうしてやろう」
スカルの肩や腰を軽く叩いて、ジョーカーはどうすることもなく他の面々に目を配る。
クイーンのところにはノワールとパンサーがいてくれている。あの様子では、怪我があったとしてもすぐに治療してくれるだろう。
もう一方、にはモナが貼り付いている。遠目にも悲惨なことになっていることが窺えたが、こちらもあの様子では問題なさそうだ。
ほっと安堵の息をつくのも束の間、またもやジョーカーたちの頭上に影が落ちた。
「おっと……」
「しつっけぇなオイ」
見上げた二人はうんざりしたようにため息をつく。横たわった白霊の肉体から、またぞろ諦め悪く触手が大量に吐き出されていた。
「これもう叩いていいやつか? それともまだダメ?」
「さあな。どっちにせよ『彼女たち』に任せよう」
口角を釣り上げたジョーカーは、再び磐座に目を戻している。
巨石の上にはいつの間に現れたのか、一人の手弱女が腰掛けていた。
女は笠を被り、顔は窺えない。ちらりと見える顎は細く、首も腰も、一本きりの脚もちょっと心配になるくらいに細くか弱そうにみえる。
『ばっかみたい』
声もまた鈴を転がしたように愛らしい。それは手弱女と呼ぶのに相応しい存在だった。
だというのに―――
『ほんとばっかみたい。アンタも思ってたの? トモダチ見捨てて逃げるなんてサイテーとか?』
その発現は刺々しく、膝の上に置かれた右手はほっそりとしていて彫刻のようだが、もう一方は醜く膨れ上がっている。
『そのせいであんなことになったのよ。あのコはウツクシイ自己犠牲精神発揮したのに、アンタが一歩もあそこを動かなかったから』
「……ああ……」
その言葉が己に向けられているものだと承知しているのだろう。はゾンビのようにのろのろと立ち上がった。
「そうだ。その通りだ。私が紬を見捨ててさっさと逃げていたら、あの子も逃げる余裕を得られていたかもしれない」
『わかってるんじゃん。それで? じゃあこっからどうすんの?』
モナはなにかを察して彼女の足元を退いた。傷はすべて消し終えていたから、彼がそこに留まる理由はない。
フォックスもまた、助け起こすために出していた手を引いた。そんなことをする必要はもはやないと彼は知っていたからだ。
顔を上げたは背筋を伸ばし、皮膚の再生を確かめるように己の頬を揉みほぐすと、彼女とその幼馴染にしか解らないことを言う。
「鞄に石を詰めるよ」
笑ったのは手弱女だけだった。鈴を転がしたような愛らしい声―――
しかし彼女が振り上げた弓手は並みの男など棒切れでしかないと言わんばかりに膨れ、隆起している。
巨石から飛び降りた手弱女は一本きりの脚で地を蹴ると、またたく間に白霊に肉薄してその『足』を掴んだ。
次の瞬間、蠢く巨体は宙に浮かび上がっていた。
「えっ……」
驚嘆の声を漏らしたのは誰だったのか、ほとんど直角まで振り上げられた巨大キノコは、また次の瞬間、激しく地面に叩きつけられている。
そしてその激しい衝撃と地鳴りは一度では済まされなかった。
白霊は、まるで赤ん坊に振り回されるぬいぐるみかなにかのように、幾度も幾度も地面に叩きつけられる。笠が折れ、柄には切れ目が入り、髪のように伸びていた触手のほとんどは千切れ飛んだ。
「そ……そーぜつ……」
「なんかすげーの出たな……」
「超パワータイプだな。そうだろうとは思ってたけどよ」
「頑張れよ、フォックス」
「俺が? なにを?」
巻き込まれてはたまらないと木立の中に避難していた少年たちは、無残な姿になっていく白霊を眺めてひそひそと囁き交わした。
やがてか手弱女か、両方かが満足したのだろう、ピクリともしなくなったキノコの残骸が放り捨てられる。
炒め物にしたってこうはなるまい。萎びてぐずぐずになった巨大キノコを踏みつけ、手弱女はをふり返った。
『スッキリしたでしょ?』
「うん……爽快だったよ。ありがとう」
『お礼なんて―――わたしはあなたなんだから』
「それも、そうか。わかった。よろしくね、サオトメ」
手弱女は嬉しそうに口元を緩ませると、その身を蒼く輝く光の粒に変えてもう半分のもとへ戻った。
あとには沈黙だけが残される。
それもが再び倒れ伏すと、慌てて飛び出した怪盗たちの賑やかしさに食い尽くされた。