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18:Pick Yourself Up
彼女のいうところの『ごめん』と『許して』には様々な意味が籠められている。
間違いようもなく真摯な心地で吐き出されたそれは、しかし経験不足で理解の至らない増髪以外の者を青褪めさせた。
「え? なに? パンサー? みんな―――?」
狼狽するばかりの彼女の黒髪が、風もないのにふわりと揺れる。不可解な空気の動きの元を辿ろうとしたその目に映ったのは、同じく金糸の髪を陽炎のように揺らめかせている姿だった。
その背後に立つ女は耳にうるさいほどの高笑いを響かせ、獄炎をまるで己に忠実な下僕がなにかのように従えている。
「あっ……」
増髪はすぐに理解した。パンサーはやけになったわけでも、自分を犠牲にしようだなどとは微塵も考えてはいないのだと。
解りきっていることだった。仲間たちと比べたとき、パンサーは決して賢いほうではないが、反面他者への共感や感受性は強く、意思ははっきりとしている。
例えば彼女がうっかり大きな怪我などしてみせたら、普段はいい加減な扱いしかできない男子二名はひどく落ち込むことだろう。
いやさ普段もそれなりに丁重な扱いをされて、気を遣われていることも重々承知しているが、パンサーから言わせればどれも的はずれだ。すっごくありがたいとは思ってるけどそういうんじゃないんだよね、とは、言わずに済ませている彼女の本音の一つだった。
さておきパンサーは『そういうこと』だと理解している。
自分一人が被害を被るような真似をしてはならない。これは経験則からくる確信だった。やるほうも、やられるほうも、たまったものじゃない。
そういうわけで、危機的この状況において彼女が取れる唯一にして最大の解決策は一つだった。
手始めとして腕を伸ばし、手近な増髪の胸ぐらを掴むとそのまま地面に向けて放り投げる。
突然の行動に増髪は目を白黒とさせるが、それはなにも驚きによるばかりではないようだ。
彼女のすぐ間近、頭上からは目が眩むほどの眩い輝きと、肌を焼き焦がしそうなほどの熱―――実際、分厚いコートの表面からチリチリという音と煙が上がっている―――が降り注いでいる。
増髪は仰天しつつも頭髪を保護しようとフードを引き上げた。
間一髪だった。なおも膨れ上がった焦熱はパンサーの号令に従い、またたく間に彼女の前方、刈り取るものが迫る小路に燃え広がった。
膨張した空気が爆風さながらの嵐を呼び、仲間たちは足元の玉砂利とともに後方へ吹き飛ばされる。
―――ああ、だから『ごめん』で『まさか』の『やめろ』か。なるほど、わかった。
鼓膜を痛めつける爆音と熱に目を回しながら、増髪は深く納得していた。
つまりこれは捨て身―――パンサーのではなく仲間たち―――の一撃というわけだ。苛烈な彼女の意思を汲み取って増髪は立ち上がった。
激しい閃光と熱、衝撃にやられたのは吊り布たちも同じで、ブスブスと煙を上げ、目を回してフラフラと揺れている。
迫る死神もまだ健在だ。ただし衝撃にか、それはいくらか後方へ吹き飛ばされていた。
よろめきながら身を起こした増髪の前にはまだ辛うじて繋がっている鎖がある。彼女は吹き飛ばされたときにここまで転がってきていた。他の面々にしても近い位置で転がっているが、最も近くは彼女だろう。
ならばと怪盗たちは鎖に背を向け、迫るものへ顔を向けた。そちらは任せるということだろう。
増髪の手元に武器のつもりで持ち運んでいた円柱は見当たらないが、ここまで来て武器を探す必要もない。
増髪は飛びつくように駆け、細い煙をたなびかせるボロ切れたちの足元をすり抜けると鎖を素手で掴んだ。
これによって囚われているらしい少年のことなど彼女は知らないが、彼が皆の信頼と信用、そして大きな好意を受けるに値する人物なのだとは承知している。
噂にしか聞いていなかった『心の怪盗団』。その頭目にして最大の≪切り札≫―――
(紬……!)
消えてしまった幼馴染の顔が少女の脳裏を過った。
『彼』なら。皆があれほどの信を置くひとなら。きっと彼女を見つけ、助け出してくれる。
震える手は縋るものを求めるように鎖を掴み、渾身の力でもって引きちぎった。
その音を耳にするなりモナは尖った耳を震わせてその場で飛び上がり、空中で三回転して車に変身する。
「乗れ!」
鋭い呼びかけに客員以外の怪盗たちはすぐさま駆け寄り、全員が着座するのも待たずエンジンには火が入った。
逃走のための道は開けていた。あれだけ視界を塞ぎ、飽きさせていた竹林はものの見事に焼け野原と化して、今も炎に舐められては倒れ伏し、車体が進めるだけの広さをくれている。
――やばい――怒られる――あちち――どうする――知らない――逃がすな――熱い――もういいよ――だめ――逃げよう――だめ――殺せ――無理――やだ――熱い――
ささやき声は車内に入ってもなお各々の耳元からする。
クイーンはハンドルを切ると吊り布をたちを弾き飛ばしながら増髪のほうへ車体を寄せた。
「増髪! 早くこい!」
吠えるように言って腕を伸ばしたのはフォックスだった。ドアのへりに手を掛けた彼は「来い」などと言ったくせに、反射的に出された彼女の手を引っつかむと半ば振り回しながら車中に引きずり上げた。
「いたた……肩が抜けるかと思った……」
「すまん。置いていかれるよりはましと思ってくれ」
「そうする」
不満げな声に、揺れる車内でどうにか座席にしがみつく仲間たちは苦笑する。痛いのは嫌だが、この状況で置き去りよりはいいと皆思っていた。
玉砂利の上を進む車内はひどく揺れる。走行中にも関わらず開きっぱなしのドアを閉ざそうと増髪はどうにか膝をにじって腕を伸ばした。
それと同時におぞましい悲鳴が全員の耳元で鳴り響く。
恐怖に駆られたクイーンが一瞬ハンドルを離しかけるが、すぐに正体を察して叫び声を飲み下した。
バックミラーに映る地面には、紫色をしたカメムシに似た生き物が撒き散らされている。悲鳴は彼らのものなのだろう。
――痛い――なんで――ちゃんと従った――足りないから――知らない――やっぱり――閉じ込めてたのに――解かれちゃったけど――いたい――ぼくたち穴埋め?――あいつら――
モルガナカーは停まらず、そのまま燃え落ちて砕けた竹炭の上に乗り上げる。中にはまだ生焼けのものもあってタイヤを痛めつけたが、うめき声を上げても彼は決して停まらなかった。
バックミラーにはまた、両腕を失った浮遊する赤ん坊のようなものも映っている。どこから現れたのかは知れないが、それは背に負った腕のいくつかを伸ばし、吊り布を天と繋ぐ縄を次々に引きちぎっていた。
耳元の悲鳴とささやき声はそのたびに勢いを増し、ついには憎悪を匂わせ始める。
――許さない――ひどい裏切りだ――いたい――言うこときいたのに――許すな――どうでもいい――知らない――この恨み決して――
それもいよいよ最後の一体が地に叩きつけられるとピタリと止み、少年たちの耳にはモルガナカーのエンジン音と走行音、竹が弾ける音ばかりになる。
嫌な予感にクイーンはアクセルを踏み込んだ。この静寂が意味することが『死』であるのなら、その後に起こるだろう現象は容易に想像つく。
モルガナカーは炭化した竹林の残骸を踏み潰しながら懸命に進んだが、後方から追うものから『彼女』は逃れられなかった。
青白く輝く光の粒子は車体も窓も無視してまっすぐに飛び込んでくると、身構えていた増髪の仮面に呑み込まれて消え失せる。
一瞬のことに誰もが驚愕に目を見開く先で、増髪は床に転がり落ちた。そのまま彼女が起き上がってこなかったのは吸収に際してなにかがあったというより、倒れた際に頭をぶつけたせいだろう。
車中は、いよいよ沈黙に閉ざされる。辛うじて我を取り戻したノワールが助け起こして座席に横たわらせてやらなければ、増髪はそのまま足拭きのマットのように転がされたままだったかもしれない。
刈り取るものの姿は見えない。どうやらかなりの距離を稼げたか、諦めたかしてくれたらしい。
身の安全の確保も、目的も達せたが、してやられた。
誰もがそんな心地で、起き上がれずに呻いている増髪を見つめるしかなかった。
やがて炎の及ばなかった、竹林に塞がれた狭い小径に差し掛かると、車での進行は不可能として徒に移る。
増髪はスカルの背に負われ、まだ意識を取り戻さない。……病院連れてったほうがいいんじゃないの? と彼らはしばし歩きながら囁き合った。
それも有耶無耶のうちに流れて、いつしか辺りは静かになる。
「あいつ……あれ、あのデカい赤ちゃんみたいなの―――」
数歩の無言も耐えられなかったのか、パンサーは静かに切り出した。
彼女が言っているのは先に吊り布たちのことごとくを地に落とした異形のことだ。間違いようもなく彼女はあれに見覚えがあった。
「あの猫の神サマ、あのコを……」
しかし具体的な単語がパンサーの口から出ることはなかった。思うところがあるのだろう、眉をひそめて拳を震わせている。
それは彼女のいう現場に居合わせていた者たちに共通した感情だった。
「そうだな―――あの憎たらしい猫又めを貫いたものとそっくり同じだった。だが、あれは俺とモナとで斬り捨てたはずだ」
忌々しげに吐き捨てたフォックスは、足元で激しく尾を振り回すモナに目を向ける。猫は頷くように小さな頭を揺らして応えた。
「ありゃ間違いなく死んでたぜ。今回出てきたやつはたぶん、同種の別個体じゃねぇかな」
「あんなのが何匹もいんのかよ」
うへー、と舌を出したスカルの背後、殿を務めるクイーンの目は未だ目覚めない増髪を捉えている。
焦げて穴の空いたジャケットを肩に掛け、彼女はふむと唸った。
「あの布……虫? なんて言ったらいいのかな、カメムシみたいな……あれ、気になることを言っていたわよね。言ってたっていうか、囁いてたというか……ああ、もう」
「ダイジョーブ、わかる。従った、言うこときいた、閉じ込めてたって言ってたな。他にも気になる単語がいくつかあったけど……とにかく、連中は自発的にじゃなくて、誰かに依頼か強要されて『アイツ』を捕まえてた。でもしくじったから、補填ついでに処分された」
「あるいは初めから、そのつもりだった―――」
クイーンの目はまだ増髪を見つめている。
「どちらにしても、あの虫さんたちには知らされていなかったみたいだったね。あれがあの赤ちゃんみたいなものの現場判断って可能性もあるけど、この際そこは重要じゃない、かな」
いずれにせよあの吊り布たちは切り捨てられた。比喩としても現実としても。
そもふり返って考えたとき、あれらは子どもたちを阻止こそしようとしたが、そこにあったのは戸惑いばかりで明確な敵意や害意は感じられなかった。
「あれじゃあ敵と言い切ることもできないわ。こちらが判別するより先に消されてしまうなんて―――」
いい気分はしない。
不快感とともにそう吐き出したノワールに一同は頷いて足を早めた。そこには嫌な記憶から遠ざかろうという意図と、増髪を早く横にさせてやろうという意思が混じり合っている。
そのように進むうち、ふとスカルが誰にともなく問いかけた。
「みもろの主ってのはなんなん?」
「は?」
「や、だから。言ってたじゃん。みもろのヌシに知らせなきゃみたいなこと。おぼえてねーの?」
目を丸くしたフォックスに呆れてみせる彼こそを一同は見つめていた。
―――スカルがそんな細かいことをきちんと記憶しているだなんて!
そのような皆の意思を汲み取ったスカルは、フォックスのすねを強めに蹴りつけた。
蹴られたすねを抱えて片足で器用に跳ねつつ、フォックスは先の疑問に答えてやる。
「音だけではなんとも言えないが、みもろはおそらく三諸ではないかと思う。これは、神聖な場所……今風に言えばパワースポットのようなものを指す言葉と思ってくれればいい。よくはないが、そのほうが理解しやすいだろ」
「すいませんねぇ合わせてもらっちまって」
「ああ、感謝してくれ。いてっ!?」
再び蹴りをくらってフォックスは飛び上がった。
二度目となると流石に流せないとフォックスもまた打って出たが、スカルの背に増髪が項垂れているのを見るとどうしても手―――足は出し辛い。
代わりにと鞘の先でスカルの腹を打つことで手打ちにしたらしい。スカルは痛えと呻いたが、顔は笑っていた。
男子二人のじゃれあいに冷たい視線をくれてやりつつ、パンサーは肩をすくめる。
「ほんと子どもっぽいんだから……で? そこのヌシってことは、やっぱ神サマなの?」
「ん? うん……いや、どうだろうな。神の他にも精霊や自然そのものを指す場合も……」
「じゃつまり、具体的にコレっていう個人名じゃないんだ?」
「……そう思ってくれていい。強いて特定の個を指すとすれば、その名の通り、数多ある精霊たちを束ねる主とでもいったところか」
「精霊~? なんか神サマから遠ざかった感ない?」
「そうでもないぞ」
首を傾げたパンサーの疑問符に、先導していたナビがふり返る。
「たぶんパンサーが言ってるのはスピリットやエレメンタルのこと。で、おイナリが言ってるのは日本のふるい神だな」
フォックスはすぐに頷いてみせた。
「ふぅん……? じゃ、やっぱり神サマなんだ。ほんとになんでそんなのがこの子にワケわかんないことさせるんだろ……」
パンサーの疑問は尽きない。それは他の面々にしても同じことだが、あえて今口にしようとは思わなかった。
相変わらず道を進むことによる消耗もある。最も消耗しているはずのパンサーのおしゃべりが止まらないのは一種の空元気か、ランナーズハイに似た状態に陥っているのかもしれない。
「ところでさ、あれ、鎖。壊したら別にあそこから彼がファーって出てきたりしないんだね」
たっぷりローストされた恨みを忘れられるほどではないが、馬鹿話を無視するような仲でもない。スカルは背中の重みを忘れてこれに乗ってやった。
「いや出てこられても困るわ。どんな顔したらいんだよ」
乾いた笑いに、仲間たちも釣られるように続いた。
「想像するだにあまり美しくはないな……」
「というか、そうだったら置いてきちゃったことになるよね?」
「そんで目の前にアレだろ。草。うける」
「笑えないわよ……」
呆れつつもクイーンはそんな状況を想像したのだろう。口元には小さな笑みがあった。
その足元のモナはまた、どことなく皮肉げな笑い声を響かせる。
「なんにしたって、あれでアイツも自由になったはずだ。今日明日にでもラヴェンツァ殿から接触がある。わからないこともそこで聞かせて貰えればいいんだがな……」
それまでは様子見しかない。
そうと述べたモナに、一同は再び重く沈んでしまう。
増髪の周辺にはまだ不安要素が転がったままだ。学校に行かせるわけにも、寮に帰すわけにもいかない。
いわんや遠く離れた家になど……
今日明日接触があったとしても、現実にリーダーが帰還するにはまだ一月ほどはかかるだろう。その間も本来帰るべき家から離れて望まぬ宿に逗留させられるというのはどんな心地だろうと、子どもたちはの境遇を悲しく思う。なんとか力になってやりたいが、自分たちにこれ以上なにができるだろうかと。
『彼』なら、状況を一変させる打開策をぶち上げてくれるだろうか?
期待と不安に揺れる中、フォックスは増髪に目を向ける。
この一団の中、その寂しさや心細さを最も近い形で理解できるのは彼だ。ひとりぼっちの寂しさは知っていても、他の面々にはちゃんと帰る『家』がある。
もちろん彼にだって帰る先はあるが、それは決して己の家ではなく、故郷もまたすでに手の届かないところへいってしまった―――
彼にとっての故郷はまだあのあばら家だ。
いつまでも未練たらしいと思わないでもないが、また同時に郷愁は誰にも共通する感情だとも思う。正しい正しくないは別として、否定できる者のほうが少数派だ。
そのように開き直った少年は、口を閉ざしたまま視線を外して前へ向き直った。
この先なにが待ち受けていようとも、この子が家路につけるよう力を尽くそう。
それが虚しい自己投影であることくらいは承知の上だ。異界から現象界に戻る最中、喜多川はほんの少しだけ自分自身を忌々しく思った。
唯一幸いなことにはこちらに戻ってくるなり意識を取り戻し、坂本の背からアスファルトの上に降り立った。
不覚を詫びる彼女を坂本はなんてことないと笑い飛ばし、さっさと帰ろうと促しもする。
重い足を引きずる彼女の中には今や四つの神格が宿っている。それ自体に重さはないが、心には伸し掛かるものがあった。
件の少年の解放には成功したようだが、現実にはまだ一月ほど掛かるらしい。
その間どうしよう。学校や寮で突然異界に迷い込む可能性は消えていないのだから、通うのも籠もるのも戸惑われる―――
意見を求めようと顔を上げたの目に、奇妙なものが映り込んだ。
彼女以外の全員が、モルガナでさえも呆けた様子で立ち止まり、どこか虚空を見つめている。
まさかまた気付かぬうち異界に入り込んだかと戦慄するのもつかの間、彼らはすぐハッとして我に返った。
そして、各々程度は違えどなにかにひどく納得した様子を見せる。
「っあ〜……! コレかぁ〜……」
「たまにボーッとしていたのはこういうわけだったのね……」
苦々しく笑い合う彼らについていけず、は首を傾げた。
「え? なになに?」
「えっと、今ちょっとね、別の場所に行ってたというか……なんて説明したらいいのかな?」
困り顔を浮かべる奥村の傍ら、双葉は力なく首を振った。
「すまん、うまく説明できない。まあ、たぶん、そのうちわかるから気にすんな。それより……」
「ああ」
チラと視線を寄越した双葉に頷いて返し、喜多川はに手を差し伸べる。
そこには一枚のポストカードが握られていた。
「、これを」
「なにこれ?」
事態を把握できず戸惑うばかりの彼女の手に、目に突き刺さる赤と黒の強烈な対照が譲り渡された。厚みのある紙面の中央には意匠化されたトップハットと仮面が印されている。
喜多川は、どことなく不満げな様子で言った。
「俺たちからお前宛ての予告状だ」
「へっ?」
は目を丸くしてカードをひっくり返した。
そこには一文字一文字違った書体で以下のように綴られている。
『小善の大罪人 殿 君に自覚はないだろうが、君の行いによって幾人(人でないものも含む)かが犠牲になった。その報いとして、今宵あなたの心を頂戴しに参上する。慈悲とは非情なものであることを心せよ。』
またミミズののたくったような字体で末尾に小さく付け加えられた一文もあった。
『追伸 直接会えるのを楽しみにしてるよ!』
最後の部分を苦労して読み取り、は目をむいたまま顔を上げた。
予告状のことくらいは彼女も把握している。『心の怪盗団』は常に、ターゲットにこのようなものを送付しては≪改心≫を行ってきたのだと。
けれどこれは、どうしたことだろう。
にはこんなものを渡される心当たりがまったくなかった。文面にこそ納得できる部分もあるが、しかし何故突然、今?
疑問でいっぱいになっている瞳に苦笑して、坂本は両手をひらひらと振った。
「あー、その、ウチらのリーダーから。にって今……渡されて。いやこれほんと説明しづれーな!」
怪盗たちはまったくだと頷き合う。
は、まじまじと予告状を眺めて、それからいつものように言ってのけた。
「わかった。私はなにをしたらいい?」
ほんとに解ってる? とは、辛うじて誰の口からも出ることはなかった。
少年たちはため息をつきつき、自分たちが今しがた見聞きしたことを説明してやろうと努め始めた。
……
延々続く長話にも飽きてきたころ、彼はふと思いついて手首を捕らえる枷を思い切り引っ張った。
冷たい感触をずっと与え続けてきたそれはたやすく壁から剥がれ、彼は勢い余って身体を大きく傾がせた。
すると、身体に巻かれていた鎖も錠も、勢いと体重を受け止めきれずちぎれ、壁から剥がれて崩れ落ちる。脚を固定する枷も、彼が床に倒れ伏すときにはすっかり役目を果たせなくなっていた。
長く同じ姿勢を強いられていたせいかその身体にはあちこち軋むような感覚がある。それでもゆっくりと上体を起こすころには、彼は明確に理解していた。
―――俺は自由だ。
口元にはいかにも悪党めいた笑みが浮かび、目元は仮面に覆われている。
「やっと役目を果たしてくれたようですね」
立ち上がった彼を見上げているのは薄闇の中にあってもほのかに輝く銀の髪をした少女だった。
彼はこたえて言った。
「ようやく、俺の出番ってことか」
今や横縞の薄汚れた囚人服ではなく、闇の中に溶けるような黒の衣装に身を包んだ少年は、低く喉を鳴らして笑いはじめた。
「ずいぶん待たされたんだ、遠慮はしなくていいんだろ?」
「もちろんです。どうぞお気の済むように―――」
かすかに微笑む少女を見つめる瞳には、今や眠気や呆けた様子は微塵も窺えない。あるのはただ確固たる意志の力と『いいようにされた』ことへの強い怒りの感情だ。
狭く湿気た牢に少年と、蒼い炎をまとってその背後に立ち上がった影の高笑いが警鐘のごとく響き渡った。
何事かと駆けつけたむこうの存在は、次の瞬間扉ごと吹っ飛ばされて壁に叩きつけられていた。
踏み出した牢の外もまた冷たい石壁が続いている。ただし足元は木板で、戸を中心に五つの通路がずっと先まで伸びている。ポツポツと灯された壁掛けの燭台以外に明かりはない。辺りは牢の中とさほど変わらぬ薄闇のままだ。
彼は真紅のグローブを直しつつ口角を釣り上げた。
通路のあちこちからは警報らしき鐘の音と無数の足音が届いている。
「ショータイムだ! 派手にやらせてもらう!」
後ろに続く少女は、この上なく楽しそうに笑った。今のところ他に観衆はいないから、この発言を己に向けたものと受け取ったのだろう。
「くれぐれもご無理はなさいませんように。道案内は私にお任せくださ―――きゃっ!?」
小さく短い、可愛らしい悲鳴を上げた少女は、言葉の途中で少年の腕に抱え上げられていた。
「しっかり掴まってろ」
「はっ、……はいっ!」
別に抱っこして運んでもらわなくたって、自分にはちゃんと遅れず付いていく手立てはある―――
少女は口をつぐんでコートの襟元をはっしと掴むんだ。すると少年は再び、今度は優しく笑ってみせると彼女が指さした通路の一つを選んで走り出した。
進行方向には仄かな明かりに照らし出されたいびつなシルエットが見える。正体も数もわからないが、しかし彼は決して速度を緩めず、ただ背後に付き従う己自身に命じた。
「アルセーヌ! いけ!」
応じて紳士めいた格好の半身は翼を羽ばたかせ、影の中を渡って飛び込んだ。
悲鳴が上がり、得体の知れない異形たちはもんどり打って床に転がる。追いついた少年はそれらを踏みつけ、少女を強く腕に抱き込んで小山となった異形らを跳び超えた。
「ラヴェンツァ、次は?」
「右に行って。扉の先に階段があります」
「わかった―――」
小さく顎を引いた少年はさらに速度を上げ薄暗く長い廊下をひた走った。
道中には見たこともない怪物……シャドウではないと少女は明言した。それらが襲いかかってきたが、いずれもが彼に擦り傷の一つとして負わせることはかなわなかった。
そうなると、少年にはますます苛立ちが募っていく。
この程度の相手に長らく捕らえられていたなんて、なんていう不覚だ、手落ちだ、恥ずかしい―――
走りながら彼は腕の中の少女に問いかけた。
「あいつらは、俺がこうなってたことを知ってるんだよな?」
「えっ? ええ、もちろん。皆、あなたを救出するためによく戦って下さいました」
「そう」
短く応えて、彼はきつく目をつむった。
彼らのことを格下だなどと思ったことは一度とてないが、だからといって失敗を知られるのは……
こみ上げるものを誤魔化すように、少年は足元にわき立った靄を蹴り飛ばした。
……
気が付けば彼らは見知らぬ―――しかしどこかで見たことのある場所に座していた。半円状に配置された豪奢なアームレスチェアの上、たった今うたた寝から、全員が同時に目覚めたかのように起き上がる。
「ここは―――」
声を上げたのはスカルだった。彼は仮面を付け、ライダースーツに似た黒い装束を身にまとっている。
「ちょっ、ここ、あれっ!?」
続いてパンサーが立ち上がる。彼女もまた仮面を付け、真っ赤なラバースーツで全身を覆っている。
周囲を見渡した彼女の視界には、椅子に座して呆然とする仲間たちの姿がある。誰も彼もが、少しばかり懐かしい怪盗としての衣装と姿をとっていた。
周囲は円形の牢獄だ。いくつもの鉄格子が等間隔に並んでいるが、しかしいずれもがその戸を開け放たれている。
「どういうことだ……? 俺たちはつい先ほどまで、普通に歩いて……」
同じく牢獄内を見回していたフォックスは、ふと気がついて息を呑んだ。
「……は? いないのか?」
全員が彼女の不在を察して立ち上がる。
なにかの罠に嵌められたのか。どこかでしくじったかなにかして、あの子か我々が隔離されてしまったとでもいうのか―――
不安に駆られ、全員が立ち上がった。
しかしさて、探そうとなる前にモルガナが彼らを押し留めた。
「落ち着けよ、オマエら。ここは危険な場所なんかじゃねえし、だってどうにかなったってわけじゃねぇよ」
そう告げた彼の姿に、子どもたちは再び息を呑んだ。
「モナっ、おまえ、その姿……!」
「ああ、ここならな、さすがにな。ワガハイはこっちのほうが自然ってことさ」
腰に手を当ててふんぞり返った猫は、二本の脚で立っている。身長は一メートルもなさそうで、二頭身。化け猫だとか猫モドキだとか言われたかつての姿を彼は取り戻していた。
「ここならって、ここは……ああ、そうだ、思い出したわ。メメントスの最深部にあった扉のむこう―――」
「そう。以前、例の偽神に『アイツ』と我が主が捕らえられていた場所さ」
「それは、解ったけど……けどモナちゃん、あの子は? ちゃんはどこに? どうなってるの?」
「ちょっと落ち着けよノワール……どうもなっちゃいねぇよ、もワガハイたちも」
長い尾をひと振り、モルガナは短い手で一同に着座を促した。
「たぶん……ワガハイたちをここへ寄越したのはラヴェンツァ殿だ。あるいは、主が気を利かせてくださったのかもしれないが……どちらにしても、すぐにわかるさ」
自信有りげな彼の態度に、若者たちは渋々と腰を下ろした。
すると彼の発言を肯定するかのようにどこか遠くでドアの開く音がする。それはひどく重く、錆びついているらしい。きしんだ音は長く続いた。
彼らの正面には二つの牢に挟まれた通路が一つだけある。
彼らは二度そこを通ったことがあった。一度目は入るとき、二度目は出ていくときだ。
扉が閉まる音がする。続けて、コツコツという軽やかな靴音が響いた。一定のリズムを保つ足音には皆聞き覚えがある。
やがて想像通りの人物が姿を表すと、彼らは一様に腰を浮かせて複雑な表情をみせた。
驚きと喜び、小さな怒りと苛立ちに、申しわけなさ―――
様々な感情を湛えて揺れる十四の瞳を見回して、彼は言った。
「待たせたか? 俺がいなくてさみしかっただろ」
尊大で自意識過剰気味な台詞が一種の照れ隠しや強がりだとなんてことは、優れた審美眼有するフォックスにはすぐに見抜かれる。彼は目を細めてやれやれと首を振った。
「ああ、待ったとも。君というやつは本当に……遅いんだよ、馬鹿野郎」
わざとらしく俗っぽい言い回しに少年はただ笑みを返して進み出ると、次にスカルへ手を差し伸べる。
「なんだ竜司―――泣くほど俺が恋しかったのか」
ニヤッと笑う姿こそ、誰がどう見ても待ち望んだ姿だ。
スカルは己の目元を片手で覆ってはごまかそうと努めた。
「……泣いてねーし……」
実際のところ、泣くというほどではなかった。確かに目頭が熱く、鼻の奥にはツンとした痛みこそあるが、まだ泣くという段階ではないだろう。辛うじて。まだ。
ギリギリのところだろうと指摘してやるのはかわいそうだと思ったのか、少年は小さく喉を鳴らして残りの仲間たちに顔を向けた。
「みんなも、久しぶ―――うぼぁッ!?」
奇声を上げた彼の腹に、クイーンの拳が突き刺さっていた。
くの字に折れた背には直ちにパンサーの鞭が浴びせられる。
「いっ……てぇ!! なんで!?」
「なんでじゃないわよ!! このバカッ!!」
「よくものこのこと顔を見せられたものね……!!」
女子二人に詰め寄られて、少年は青ざめながらもう一度「なんでぇ!?」と悲鳴を上げた。
そこに、天使のように穏やかで慈愛に満ちた表情のノワールが手を差し伸べる。
彼女ははにかみつつ言った。
「あの……私も、いいかな……?」
マスクからのぞく目尻に涙が滲んでいるのを見てしまった少年は、歯を食いしばって左の頬を差し出した。
「おうおう愛されてんな、さーすが魔性の男」
破裂音を背景にナビが肩をすくめ、モナがため息とともに愛の痕跡を治してやって、それで再会の儀は一先ずの終端を見せた。再開は、彼の態度次第だろう。
さて、モナは銀髪の少女の前に跪くと、仕切り直しと恭しく申し上げる。
「―――ラヴェンツァ殿、ご無事でなによりです」
「あなたも。お疲れ様でした、モルガナ」
忠実な黒猫の姿に、ラヴェンツァは薄っすらと顔を綻ばせる。
「みなさまのご助力にも御礼申し上げます。おかげさまで私のトリックスターを取り戻すことが叶いました」
「ん?」
「はい?」
「誰の?」
「『私の』トリックスターです」
牢獄には粘ついた沈黙が満ち満ちる。
少女たちは意味ありげに見つめ合い―――やがて今はよしておこうと互いに目を逸らした。
胸を撫で下ろしたスカルとフォックスをよそに、空間を満たす粘り気の根源である少年は晴れ晴れとした調子で一同に語りかけた。
「あまりゆっくりしている時間はない、手短に済ませよう。そっちで起きてることはだいたい把握してる。まずは例の―――なんて名前だっけ?」
「……だ。」
「ね、いい名前だ。彼女のほうの問題から取りかかろう」
「ちょっ、ちょっと待ってよ。なんかもう、いろいろ、ついてけないんだけど。なんでキミ、ここに……ううん、ウチらも、なんでここにいるの? それに、それに……」
多すぎるほどの疑問を抑えきれないとまくし立てるパンサーであったが、スカルが手を振って制止を呼びかけると我に返って大人しくなる。時間はない、とも彼は言っていたのだ。
「……ずっとはいられないってこと……?」
この上なく寂しげにつぶやかれたことに、少年は頭をかいた。癖のある黒髪は彼のトレードマークの一つだ。
「牢からは抜け出せたけど、俺はまだ追われる身だ。たぶんもうすぐ、連中が押し寄せてくる」
「みんなでそいつら倒すんじゃダメなの?」
「根本的な解決にはならない。落ち着くには、大元を叩かないと」
宥めるように優しく言い切られてしまうと、パンサーは今度こそ沈黙する他ない。
悔しそうではあるが彼の言うことももっともだと納得もしているのだろう。なにより、新しい友人の身上にも関わることだ、浮かれている時間こそ無いのだとパンサーは気を引き締め直した。
少年は密かに息をつくと、横で動向を見守っていたフォックスを手招いた。
「なんだ?」
「これを、頼む」
翻した手の指先には、見飽きるほど見慣れたポストカードが握られている。フォックスは言わんとするところを察して深く頷いた。
「にか」
「ああ」
「予告状って、にパレスが? 彼女にそんなものがあるとは思えないけど?」
顎先に手をやって唸ったクイーンに、少年は肩をすくめる。その視線はラヴェンツァに向けられていた。
「おっしゃるとおり、彼女にパレスは存在しません。みなさまにしていただきたいのは、彼女の中に作られたものの奪取です」
「作られたもの―――?」
首を傾げたのはノワールだった。肘掛けのない椅子に優雅に腰掛けた彼女に応じて、ラヴェンツァは半円を描いて配置された椅子たちのちょうど中央にまで歩み出る。
「現象としての形なら、みなさまももうご覧になっているはずです」
「仮面のことか?」
問いかけたナビは椅子の上で膝を抱えている。少年のほうはそれを躾がなっていないと咎めたそうにしていたが、結局口を閉ざしてラヴェンツァに譲った。
「そうです。あれは彼女に植え付けられたものの端。本体は彼女の内側……精神に根を張っています」
「それって例えば、きのこみたいにってことかな?」
「ああ……木や草より、その表現のほうが近いですね」
そこはどうでもいいと促されて、ラヴェンツァは言を重ねる。
「根は深く、複雑に絡み合って迷宮を作り上げています。どのような状態か、どれほどの広さかまでは把握できていませんが……メメントスほどのものではないでしょう。イセカイナビで彼女の名と居場所を入力すれば、侵入も可能です」
ラヴェンツァは断然と言い切ったが、怪盗たちはまだ承知しきれないと互いを見交わしている。
のパレス―――の・ようなものに踏み込むことについては異論はない。彼女を解放しようという試みについても。
ただそのためには必要不可欠なことがあって、彼らはまだそれを得ていない。
戸惑い満ちる牢獄の空気をたっぷり吸って、少年はまだ凝り固まっている身体を解そうと腕や脚を回した。
膝の屈伸を繰り返しながら彼は言う。
「キーワードが要るんじゃないかってことだろ? 安心しろ。それももう判ってる」
至れり尽くせりだろうと片目をつむってみせるが、返されたのは知っているのならさっさとしろとでも言いたげな白い眼だけだった。
少年は真紅のグローブを直しながら、賞賛や労りの言葉がなかったことに唇を尖らせながら告げた。
「そんな難しく考える必要はない。敵がなんなのかわかってるんだから、キーワードは―――……