16:I Don't Mind Being All Alone (When I'm Alone With You)

 ひび割れたアスファルトの下から覗く土には焦げ跡が残り、そばにあったはずの陳列窓のガラスもまた粉々に砕かれている。そこでポーズを取っていたマネキンは店内に吹き飛ばされて手足がもげてしまっていた。
 いわんやそこも惨状と呼ぶに相応しい有様で、ガラスや土埃にまみれた服が床に転がってしまっている。元は成人女性向けのショップだったと教えてやったところで誰も信じないだろう。
 その店が面している通りも、ガードレールや道路標識、果ては電信柱から信号まで、路上に立つものはその殆どがひしゃげ、へし曲がり、折れては無残な姿と成り果てていた。
 同じくたち並ぶビルはショップ同様、どこもガラスが砕け、酷いところは壁に大きな亀裂が入り、倒壊寸前だ。一部は明確に傾いている。
 まるで大型の爆弾でも投下されたかのようなその様は先から降り落ち続ける粉塵も相まって、ポストアポカリプス的な情景を作り上げている。
 それはそれで、一つの芸術かもしれないとフォックスはともすれば痛みによって途切れそうになる意識の中で思う。
 滅び去った文明の残滓、かつてそこにいたヒトの生活や物語を連想させる、儚い一瞬の退廃的な夢……
 ポエミーなその思考にツッコミを入れてやることができる者も、そもそも彼がそんなばかばかしいことを考えていると気がつける者も、その場には誰もいなかった。
 空はもはや見慣れた茜色をしている。
 その下、荒れ果てた公道の中央に一人の少女が佇んでいる。紺色のコートに黒いタイツと、傷だらけのローファーは、もはや彼女のトレードマークとなりつつある。
 彼女の前には胴と首が切断された巨大生物が一体、息絶えて転がっている。
 フォックスは痛む身体に鞭打ってなんとか立ち上がると、握りしめていたものに今さら気がついて肩を落とした。
 なんということはない、どこにでも売っていそうな毛糸の手袋だ。指先の質感と色が違うのは、これがスマートフォンのタッチスクリーン機能に対応した品であることの証明だった。
 ―――ほんの三十分前、彼らはいつも通り帰宅の徒につこうと校舎を出たばかりだった。時刻は五時を過ぎていたはずだ。
 日の落ちた道を二人はすっかり安心して歩っていた。本来夜道には不安がつきまとうものだが、だったとしても異界に比べれば余程安全だ。彼らにとっては当然の態度ではあった。
 特に喜多川には、一種油断とも言える確信が刻まれている。
 彼の知る異世界なるものは必ずなんらかの法則に従ってこの現象界と切り離されているからだ。パレスにしてもメメントスにしても、イセカイナビなるツールを使用しなければ進入は不可能だった。
 それ故、異界に関してもそうだろうと彼とその仲間たちは考えていた。あの世界は特定の条件下でのみ進入が可能で、条件さえ満たさなければ概ね安全だろう、と。
 ただしパレスとメメントスに関して言えば、一度だけその法則が覆されたことがある。
 大衆のパレスであるメメントスはほんの一月前、人々の心に宿る一つの欲望をかの偽神がかき集め、現象界に反映させた結果、境界を越えて現実の世界に浸食するほど膨張した。
 それが去年のクリスマス・イブにあったことだ。
 これに類する現象が目に見えないところで起きたのか、このとき人は歩いていたはずの夜道から、まるで巻き戻されたかのように夕暮れの世界に迷い込んでいた。
 二人が感知できる範囲に前兆らしきものはなかった。ただいつもの通り、楽しくおしゃべりをして足を運んでいただけだ。
 だというのに彼らの前には茜色の空と、こうなる前からちらほらと見えていた通行人たちの姿がそのままあった。
 見回した限りでは五人の男女が彼らの移動に巻き込まれたのか、立ち止まったりしゃがみこんだりしていた。いずれもが呆けた様子で、この異変に気がついていない様子だ。
 これほどまでの人数が意図せず移動することも、なにより日が落ちて夜の時間帯に移動が起きたこともこれまではなかった。当然二人は驚愕し、事態の把握と対処に努めようと人々を集め、脱出を図った。
 しかしアプリを起動しようとした直前、地響きとともに異形が現れる。
 二人はそれに構わず退出しようとしたが、そうするわけにはいかない理由が目に飛び込んでしまった。
 大まかに人の姿をした黒い巨体が、手と思わしき部分に一人の少女をぶら下げていた。
 フォックスは増髪に五人の男女を託すと直ちに駆け出して黒い巨人に斬りかかった。その間に増髪は一度男女を連れて脱出する。
 人影が一斉に消えたことを視界の端で確かめると、フォックスは遠慮杓子なく力を奮った。巨体の手足を氷結させ、少女を掴む手を一刀のもとに切り離しがてら彼女を引っ掴み、そのまま巨人の背後へ駆け抜ける。
 巨人は獲物を奪われた怒りか、はたまた痛み―――痛覚があるかは甚だ疑問だが―――からか、その身が裂けるのも構わず身体を暴れさせて拘束を振り払った。
 追いつかれる前にアプリを起動して脱出といきたいが、肩に担いだ少女と武器とで両手はふさがってしまっている。
 どうにか距離を稼いで一度どちらかを置く時間を得たいところだと思っていると、幸か不幸か、ちょうど増髪が彼の進行方向に現れた。連れていた人々を外の世界に戻して再び戻ってきたのだ。
 彼女は瞬時に状況を悟ると、腕を伸ばして声を張り上げた。
「フォックス! その子と安全な場所へ!」
 果たしてそんな場所があればいいがと思いつつ、フォックスは伸ばされた彼女の腕に己の武器を投げ渡して、そのままそばの小路へ身を滑り込ませた。
 背後では増髪が受け取った刀を抜き放ち、その刃先を乱暴に巨人の腹に叩きつけている。
 地面の上に敷いたジャケットの上に少女を寝かせてやりながら、フォックスは「それはそういう使い方をするものじゃない」と指摘してやるべきかを迷ったが、結局彼はそのまま立ち上がって小路を飛び出した。
 投げ返された刀を受け取り、今度こそと巨人の懐に飛び込んで抜き放つ―――
 巨人の全高はおおよそ五メートルはあろうか、小さな平屋建て住宅よりも大きく、二本の腕と脚はいずれも身丈に相応しく太くたくましい。
 ただし頭は小さく、後頭部が奇妙に出っ張っている。腕は地につくほど長い割に脚は短く、スカート状に広がっていて指が無い。
 文字通り『大まかに』人の形をしているだけだ。もっと言えば長い腕は無数の関節を備えているのか振り回されれば鞭のようにしなっては地を抉り、フォックスの踏み込みを防いでいる。
 増髪は腕を躱しつつ、武器になりそうな物を探してあちこちに視線をやった。
 ―――たぶんあの腕は背骨のように椎骨が組み合わさって形成されているのだろう。人間の背骨よりはるかに高い柔軟性をみせているのはおそらく、骨と骨をつなぐ円板が大きいか、あるいはもっと別の、未知の組成によって繋ぎ合わされているか……
 いずれにせよ長々相手をしてやる必要はない。戦闘は極力避けろと厳命された身だ。さっさと身動きを封じて撤退してしまおう。
 フォックスも同じことを考えていたのか、執拗に足元を狙う腕から大きく飛び退いて逃れ、増髪に視線を送った。
 腕こそ振り回されると厄介ではあるが全体の動きそのものは愚鈍だ。その上片腕はすでに斬り落としている。
 であれば挟撃が有効だろうと訴える彼の眼に、増髪は顎を引いて応えた。
 彼女は路肩に停められていた40ccのポケットバイクを引っ掴み、直ちにこれを巨体の頭めがけて投擲した。
 目当ての場所には当たらなかったが、横っ腹を襲った衝撃に巨人のターゲットは増髪へ移る。
 地響きを鳴らす歩みは遅いが、腕はまたたく間に彼女の胴を捉え、激しく打ち据えようと風切り音とともに襲いかかった。
 増髪は力強く地を蹴り、跳んでこれを回避する。しかし横に振り抜かれた腕はそばの陳列窓を粉砕し、返す勢いで再び、今度は袈裟がけに振り下ろされた。
 彼女の身体はまだ空中にあった。慣性を断ち切るものは手の届く範囲に見つからず、腕を揃えて立て、身体を丸めて防御姿勢を取る他取れる手立てはなかった。
 これはちょっと―――だいぶ―――痛い。
 そんなことを思う彼女の足元にフォックスが刃を縦に構え、峰に腕を押し当てながら滑り込む。鋭い刃先は飛び込んでくる巨人の腕と見事にぶつかり、激しい音を奏でながらそれを断ち切った。
 巨人はやはり苦痛を感じるのか、激しく身悶えてうそぶき、その巨体を暴れさせる。
 フォックスと増髪は互いに目をやると、頷き合ってその場を駆け出した。目指す先は先ほど飛び込んだ小路だ。巨人が両の腕を失った今、狭い路の先ならば手出しは不可能だ。
 先に増髪を飛び込ませ、その背にフォックスが続く。増髪の手にはすでにスマートフォンが握られ、『イセカイナビ・改』が退出のボタンを点滅させていた。
 あとは少女のもとへたどり着くだけだ。
 しかし直前になって、フォックスは背を激しく強打されて前のめりになって倒れてしまう。狭い路を距離を置かず走っていたから、当然転倒には増髪も巻き込まれ、手からスマートフォンが転げ落ちる。
「こんなときに転ぶなんて、君も案外―――」
 間抜けだね、と憎まれ口を叩こうとした唇は、しかしそれ以上の冗談を紡ぐことができなかった。
 うつ伏せに倒れた姿勢から上に覆いかぶさる狐面を振り仰ごうと上体をひねり、そこで彼女は硬直した。
「なん―――だ、ありゃ……」
 見上げた建物と建物の隙間にはあるはずの茜色の空が存在していなかった。
 代わりに、つい今しがた両腕を切り落とした個体などより余程巨大な、十メートルはあろうかという巨人が腕を垂らしてこちらを見下ろしている。
 増髪は慌てて上体を起こし、フォックスの肩を掴んだ。その背には垂らされた腕によってもたらされたのだろう大きな傷がつけられている。
「フォックス! しっかりするんだ!」
 増髪が青ざめるのには理由があった。脱出のために必要なスマートフォンを取り落としたこともあるが、なによりここでの負傷はもとの場所に戻っても治ったりしないからだ。
 そして、二人には治癒の手立てが無い。
 ならば誰かに救援を求め到着を待てばいいかと言えばそれも新たな―――おそらく先の個体など比べ物にならない巨体の出現により難しいだろう。
 増髪は仮面の下で歯を噛み鳴らすと、フォックスの耳に囁きかけた。
「真先輩たちに連絡を頼む。時間を稼ぐよ」
 フォックスもまた不覚による屈辱を噛み締めているのだろう。渋い顔をしつつも頷いて返した。
 しかし二人が動くより早く、再び頭上から伸ばされた巨人の腕が迎撃体勢を取った二人の脇を通り過ぎた。のたうつ蛇のようなそれは未だ呆けるばかりの名前も知らない少女の脚を掴むと、またたく間に宙へ引きずり上げる。
 フォックスは咄嗟に腕を伸ばしてぶら下がる少女の手を掴んだが、その身体がさらに上へ引っ張られると見た目にも華奢な肩が彼の重さにか、きしんだ音を立てて捻じれてしまう。
 まずいと思って力を抜いた瞬間、少女の手は脱皮でもしたかのようにずるりと一皮剥けた。ぎょっとして手の中を見れば、なんということはない。彼の手の中にはどこにでも売っていそうな毛糸の手袋が残されていた。
 その光景を横目に増髪は壁と壁を足つぎに蹴り、ましらのように跳び上がる。
 コンクリート壁を蹴り砕かん勢いで屋上に抜け出た彼女を、巨人の粘つくような視線が出迎えた。
 それは大きく上体を折り、這うような姿勢を取っていた。片腕に名も知らぬ少女を、もう片方の腕で転ばぬよう自身を支えている。それだけ身を縮めていても五階建てのビルの屋上はほとんどその巨躯に埋め尽くされてしまっていた。
 顔はやはりよく見かける大きさのものより一回りも二回りも大きい。口はちょうど、引きずり上げられた少女をひと呑みにできそうな大きさだ。
「ヤトノカミ!」
 屋上を囲む転落防止用だろう柵の忍び返しの上へ乗り上げ、同時に虚空へ向けて呼びかける。応えて小さな白蛇が背後に浮かび上がった。
 続けて巨人の腕を切り落とすよう命ずるより早く、巨人の口が見せつけるかのように大きく開かれた。
 ふりこのように揺らされた少女の身が口の中に放り込まれるのを見て、増髪は肩に狙いを逸して一刀をお見舞いした。
 衝撃に傾いだ身体が横ざまに倒れ、口からは少女が転がり落ちる。その身がよだれらしき液体でべたついているのは些細なことだろう。
 なにより増髪の全身はずしりとした疲労感に襲われている。このビルの非常階段をダッシュで駆け上がってきたかのような、下半身にくる疲れだ。
 それが≪力≫の行使に伴う代償だとは深く理解している。怪盗たちはこれに関してもあれこれと議論し、消費に対して彼女の地力―――HPだとかMPだとかSPだとかAPだとか呼ばれるものが少ないからだろうと結論付けている。地道なレベルアップが成功の秘訣とは、ナビの言葉だ。
 さておき増髪は疲労に震える身体を無理矢理動かして駆け出すと、吐き出された少女を抱きかかえた。
 とにかく今はこの子を抱えてフォックスと合流し、どうにか逃げ果せなければ―――
 こみ上げる焦燥感に叫び出しそうになるのをどうにか堪えて、増髪は三度コンクリートを砕かんばかりの勢いで床を蹴った。
 その背に声がかかる。
『ニエ……』
 低く嗄れ、まるで喉を締められているかのように苦しげな声だった。ふりむいた増髪の目に映ったのは、痛みに身悶え、目にいっぱいの涙を湛えた巨人の顔だった。
「えっ……」
 思わずと驚愕の声を漏らした彼女の脚に、巨人の腕が絡みつく。
『ニエ』
 次の瞬間、彼女はつい今しがた踏み砕いたばかりのコンクリート床の上に叩きつけられていた。
 腕に抱えていた少女は咄嗟に手放したおかげか、柵の手前で力なく横たわっている。そのことに安堵の息をつきたくとも、肺腑を強打したせいか呼吸もままならない。
 気がつけば増髪は、少女がされていたように宙吊りにされていた。
『ニエ……食う……わらし……もっと大きく……』
 不明瞭な言葉とともに、口が大きく開け広げられる。
 ウツボだ、と増髪は思った。びっしりと並んだ鋭い歯の奥に、さらに尖った歯を備えた口腔らしきものが見えた。
「―――ヤトノカミ、もう一度!」
 もはやろくな力も残ってはいなかったが、このときばかりはそれで充分だった。
 再び現れた白い蛇は気泡音を立てながら、巨人の喉奥目がけてペッと何某かを吐き出した。するとそこから、生臭い吐息以外のツンと鼻につくような異臭が立ちのぼる―――
 ヒトならば一滴が体内に入るだけで身体中の血液が凝固するような毒液だ。たまらず巨人は増髪を放り出し、喉を押さえて絶叫を響かせた。
 今しかないとますます重くなった身体を引きずり少女のもとへ駆け寄り、担ぎ上げてフェンスを蹴り壊す。
 飛び降りるには若干の躊躇があったが、通りにフォックスの姿を見つけて増髪は足を踏み出した。彼のそばには両腕を失った小柄な巨人の死体も転がっている。彼が片付けてくれたのだろう。
 たぶん、こちらもなんとかしてくれる。最悪受け身さえ取れればそのうち連絡を受けた誰かが来て回復してくれるだろうし……
 浅はかな目論見は妨げられる。
 悶絶して暴れる巨躯が少女たちのそばの床を砕いて先に下へ転がり落ちた。
 バランスを失した増髪の腕から少女が離れ、代わりに縋るものを求めた巨人の腕が彼女を掴んだ。
「あっ―――」
 声を上げる暇こそあれ、まばたき一度の間に彼らは地上に叩きつけられていた。
 ―――フォックスは、舞い上がった粉塵と砕かれたアスファルトの破片に痛めつけられながらもその場に立つことができていた。
 それもなんとか、という具合いだ。こみ上げる吐き気を堪えようと強く舌先を噛んだが、それでも胃は勝手に痙攣し、喉は開閉を繰り返している。
 まぶたの裏には悲鳴さえ上げずに地に叩きつけられた名前も知らない少女の姿が目に焼き付いていた。
 けれど悲嘆に暮れている暇はなかった。ヒトと違って余程強靭らしい巨体はなおも腕や脚を暴れさせ、もがきながらも立ち上がろうとビルの壁やアスファルトを叩いている。
 フォックスは土埃が目に入るのも構わず見開き、タイミングを推し測った。振り回される腕がビルなり地面なりに触れる瞬間―――
「いい加減にしろッ!」
 怒声とともに立ち上がった彼の半身は巨人の腕を瞬時に凍りつかせ、ビルの壁面に貼り付けた。
 続けてもう片方の腕と両脚、跳ね回る腰……巨人はさながらこびとの国へ流れ着いた冒険者のように磔にされる。
 ―――相当な消耗が上であったとみえる。
 確信をもって息をついた彼の目の前で、暴れる力は徐々に弱まりつつあった。
 フォックスは安堵とそれ以上の失望感に自らの脚から力が抜けていくのを感じていた。手にした刀を支えにするも、結局はその場に膝をついてしまう。
 ―――なんてことだ。最悪だ。どうしてこんなことになったんだ。
 吐き気と戦いながら思い悩む彼の隣に、いつの間に降りてきていたのか増髪が立ち竦んでいた。
「増髪……」
「先に謝っておくよ。ごめん」
 断然とした口調で言って、増髪はもはやビクビクと痙攣するばかりの巨人に歩を進めた。後を追って大きな猫が現れる。
 フォックスはハッと息を呑んだ。この巨人が人の言葉らしきものを発していた声は彼の耳にも届いていた。
「よせ! お前の身にもなにが起きるか―――」
 解らないと続くはずの言葉を轟音が遮った。
 ……かくして、ここに黙示録の後の世界のような光景と胴と首を切り離された巨人の死体が出来上がる。
 立ち上がったフォックスは、怒りとも悲しみともつかない感情を籠めて増髪へ歩み寄った。
 労りの言葉が先か説教が先か。結論が出る前に『そうでなければいい』と願っていたことが起きてしまう。
 物言わぬ肉塊と化した巨人が端から光に変じ、逃れる間もなく増髪の仮面に吸い寄せられ、吸収される。
 増髪は二、三歩たたらを踏むと、その場に崩れ落ちた。
 無防備な頭はアスファルトの上に落ちる直前フォックスの手にすくい上げられた。仮面の下からはここしばらくは見ずに済んでいた鼻血が滴っている。
「増髪! 大丈夫か!?」
「一応は……」
 受け答えできるだけでも僥倖というものだろう。ついでにとフォックスは頭に手を触れさせたが、発熱や発汗はみられない。
 肩を貸してやりながら、彼はいくらか強引に増髪を立たせてやった。
「もうすぐ竜司たちが来てくれるだろうが、ここはまずい。少し移動しよう……」
 視線は避けようとしてもどうしても巨人の手前に吸い寄せられてしまう。そこにあるもの……増髪は首を横に振って彼の腕を押し返し、その場にくずおれた。
「駄目だ。もう無理だ……」
「しっかりしろ。気が狂いたくなる気持ちもわかるが、そんな場合じゃない」
 叱咤の言葉は耳を素通りしたかのように届いていない様子だった。
「私が……私は、まだ皆に言っていないことが……」
「は―――」
 この上まだ秘密があったのかと呆れ半分、驚き半分に目を見開いたフォックスの前で、増髪は奇妙なほど平坦な様子で語った。
「あの連中が私に言ったんだ。あのときは意味が解らなかったけど今は……いいや、もうずっと前に、君たちと出会う前には解ってた。もうこんなふうに巻き込まれる人は出ないって意味だったんだ、きっとそうだ……」
「なにを言っているんだ?」
 声をよく聞こうとしゃがんで視線を合わせたフォックスに顔を向け、増髪は明瞭な発音で告げる。
「この異界を消す方法の話」
 これには流石のフォックスも息を呑み、驚きも露わに身を乗り出した。
「なぜ黙っていた―――いや、それは一体どんな方法だ?」
「簡単だよ」
 焦りさえ滲ませた彼の手を増髪が掴み、恐ろしいほどの力でもって引っ張った。
 なにをするのか、されるのか。身を強張らせた彼の指先が導かれたのは彼女の胸のふくらみの上だった。
 こんなときになにをと思ったのはフォックスだけだ。彼は指先に触れるやわらかな肉の感触に顔を赤らめたが、しかし増髪が触れさせようとしているのはその下……
 未だ激しく脈打ち、焦りや恐怖を懸命に押し殺そうとする彼女の心臓だった。
「私が死ねば、ここと現実は切り離される」
「は……? なんだって? 今なんと?」
 聞き取れたが意味がわからないと返すも、増髪は熱に浮かされでもしているかのように喪心してしまっている。
 続く言葉はうわ言に近かった。
「自殺では駄目なんだと。私以外の『誰か』がやらなけりゃ意味がないんだと。だから、君たちが『解決』と言ったとき、私を殺す気なのかと思ったんだ」
「増髪、落ち着け」
「そうしたほうがいいのかなと思ったこともあるよ。でもそうしたら紬は……違う、これも言い訳だ。怖かったから黙ってたんだ。いつかまたこんなふうになるって解ってたのに……」
「落ち着けと言っている」
 肩を掴んで顔を上げさせるも、仮面の下から覗く瞳はフォックスを捉えてはいなかった。
「君にこんなことを頼むのは心苦しいけど、もう無理だ……また助けられなかった……」
「立花さんのことはどうする」
「紬がああなったのだって私のせいなんだ。だからこれはきっと、償いにもなるはずだ」
 これは駄目だ。話にならない。
 フォックスは早々に対話を諦め、掴まれて胸元に置かれたままの手を引き抜いた。
 そして、寝言めいたものを漏らし続ける彼女の眼前で大きく手を打ち鳴らす―――正気に戻すのならこれが一番だな―――。
 増髪は肩を強張らせて動きと言葉を止めると、やっと光を取り戻した瞳で彼を見上げた。
「あのな」
 低く唸るような調子で彼は言った。
「少し落ち着いて、常識的に物事を考えろ。まず、これは以前も話し合ったが、君を誑かした連中は君を欺いている可能性が高い。よって君が死したとて事態が解決に向かう見込みは低いだろう。仮にその連中が真実を口にしていたとしてもだ、君を手に掛けた場合俺はどうなる? 事が明るみに出れば以後まともな生活はできまい。誰にも知られなかったとしてもおそらく一生もののトラウマだ。到底立ち直れるとは思えない―――」
「わ、わかった。わかったよ。もういい」
 長広舌を遮って項垂れた増髪に、フォックスはなおも厳しく言い放った。
「自己憐憫に浸りたくなる気持ちは痛いほど解るが、冗談抜きでそんな場合じゃない」
 なにしろ二人揃って満身創痍な上、そもそもの事の起こりからしてイレギュラーが重なっている。原則と見なしていた夕暮れ時以外の発現に、それに伴う大人数での移動……
 フォックスは自らもまた落ち着かせるように深く息をつくと、こぶしを作って優しく増髪の肩を叩いた。
「……とにかく一度出て、竜司たちを迎えに行ってくれるか? この近くの交差点で合流しよう」
「う、うん……」
 のろのろと立ち上がった彼女にスマートフォンを手渡してやりながら、フォックスは再び厳しく言いつけた。
「君は思慮が浅い」
「うぐ」
 長い脚を投げ出した彼は傍らにあるものから大きく目を逸らしている。彼はまた言葉を呑み込んで彼女を促した。早く行け、と。

……
 夜の七時を回ったころになって押しかけた若者たちが屋根裏部屋を貸してくれと求めたことに、惣治郎は怪訝そうな表情を浮かべこそすれこれを快諾した。
 連絡を受けて先に上がり込んでいた双葉は、が階段から顔を覗かせるなり飛びついてその黒髪をかき乱した。
 同じく待機していたモルガナが言うには、それが彼女なりの労りと心配の表現らしい。
 さて、疲労と空腹をおした二人が説明した事の次第を受けて女王陛下は言った。
「もう隠し事はないのね?」と。
 その背後では彫刻の如き完成された美貌と金の髪が眩しい少女が控え、『おもちゃ』の鞭をひけらかしている。
 震え上がっては「天地神明に誓ってありません」と平伏した―――
 執り成した坂本が上げさせてやったの顔を見て溜飲を下げた新島は、事態が想像しているよりひっ迫していることが判明した今もはや悠長に週末を待ってはいられないだろうと結論付けた。
「明日にでもなんとか時間を作るわ。春も、それでいい?」
「もちろん。皆もいいよね?」
 反対する者は出なかった。
 屋根裏部屋には重苦しい雰囲気が満ちている。
 元より分かっていたことだが、一連の異変に人の命がかかっていることがより明確になった以上、誰もちょっとしたおふざけなど口にはできない。
 そしてその命の中には、自分たちのものも含まれている……
 筆頭はとして間違いないだろう。彼女自身に狙われる理由があって、その上ここまで蓄積された経験によって自ら進んで危機に首を突っ込みかねない。
 それも、これまでは時間にさえ気をつけていれば回避できていた。
 しかしここに来てその制限さえもが失われたとなると―――
「……こんな事を推奨したくはないんだけど……?」
「ひゃい」
 自責の念らしきものに沈む彼女の返答は舌がもつれていた。新島はかすかに首を傾げつつ申しつける。
「明日、学校サボってくれる?」
 特別誰も驚いたりはしなかった。彼女がという意外性こそあれ、皆どうやって明日の放課後までを凌ぐかを図っていたのだ。
 はすぐにイエスとは言わなかった。おそらく出席日数が内申がという切実な問題とこれ以上の被害を出すまいという心が戦っているのだろう。
 出るかも分からない損害を恐れて学業を投げ出すなどと、高校三年になるという時期を慮ればありえないことだ。しかしまた、人の命が失われるかもしれないとなったとき、たとえそれが不確実であったとして見過ごすのもまた、人としてありえない。
 そもそも同じ秤に乗せるのはいかがなものかと双葉あたりは考えているが、葛藤は新島の一言で解消される。
「勉強なら私が見るから心配しないで」
 大丈夫よ、と微笑みかけられてしまうと逆らう気も失せてしまう。は二度首を縦に振った。
 するとこのやり取りを見ていた坂本が勢いよく立ち上がる。
「じゃあ俺も―――!」
「座りなさい」
「はい」
 即座に着席させられた彼の横で、高巻と喜多川も浮かしかけていた腰を静かに下ろした。
 そもそもサボりと言っても退屈な学校生活からの遁走ではなく切実な退避だ。真面目な勉強会付きの。たとえ新島が許可を出したところで、彼らが望むような有閑は満喫できることはないだろう。
 代わりに双葉が立ち上がり、その膝に座っていたモルガナが転がり落ちる。
「んじゃ、今日はここ泊ってけば? 寮のほうに戻るのもこわいだろ?」
 ここならば、モルガナもわたしもいる。そう言外に述べられて、は遠慮がちにしながらもはっきりと首を縦に振った。
「そう……だね。わかった。そうさせてもらおうかな」
「大丈夫なの? 怒られたりしない?」
 不安げに長いまつげを震わせる高巻の言に、は眉をひそめて口ごもる。
 それはまあ、怒られるんじゃないかな。無断外泊になるわけだし……でもこの際、それくらいの叱責は甘んじて受け入れてもいいだろう。
 あまり歓迎したくはないが、わけを明かしたところで別の意味で追い出されてしまうだけだ。
「適当に言い繕っておこう」
 悲壮な覚悟を決めつつあるを気の毒に思ったのか、喜多川が口を挟んだ。
「念のため聞いとくけど、なんて言うつもりなワケ?」
「……転んで頭を打って入院した?」
「いくらでもそれはねぇわ」
「あれ竜司いま私『でも』って」
「うん、私が連絡しておくね?」
「えー……」
 不満げな喜多川のうめき声を双葉の嘲笑が遮った。
「ていうか、おイナリがしたらまたヘンな誤解招くだろ。ふつーにしてろ。ふつーに」
「む……そうか。仕方があるまい」
 結局、寮への連絡は奥村が親族を装ってすることと相成った。遠縁ではあるが親しい間柄にあった人物の急逝に駆けつけ、翌日の学校はその葬儀に費やされるとも。よくある言い訳ではあるがむこうはさほど勘ぐりもせず、存在しない家族へ気遣いの言葉まで返してくれた。
 いささかの申し訳なさが無いわけではないが、これで今日明日はよしとなった。
 怪盗たちはしばらく解らないことに対する推論を重ねたが、例の異界に関してはモルガナでさえも知恵の及ばない部分が多い。
 いずれにせよ、今は確定した情報を追おうと定め、翌日の放課後に集合する場所を決め、彼らはすぐに解散した。
 双葉は義父でありこのルブランの店主でもある惣治郎にの事情を軽く―――「怪盗団絡みのあれやこれやがあってな」―――説明してやり、再び、惣治郎は快諾―――「よくわからんが、まあ、好きにしな。なんなら家のほうでもいいんだぞ?」―――してくれた。
 佐倉家のほうへ、という申し出は丁重に断って、は深々と惣治郎に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけします」
「あーあー、気にしなくていいよ。全部じゃねぇが、少しは話も聞いちゃいる。毛布だなんだ持ってきてやるから、先に風呂にでも行ってな」
 顎をしゃくって示した先には、ドアの向こうで待つ怪盗団女子勢の姿があった。
「……なんで皆まで?」
「なんかたまに入りたくなるんだよね。ほら、家のお風呂じゃ思いっきり脚は伸ばせないじゃん?」
 連れ立って向かった銭湯の脱衣所に、人の姿はあまり多くない。平日のこの時間ならばもう少し混雑していてもよさそうなものだが、ルブランにあまり客が入らないのと似た理由だろうか。
 チラホラと見える利用客の多くは彼女たちより年上で、親しげに会話などしているところを見るに地域の住民のようだ。
 若い女性もいるにはいるが、仕事帰りかはたまた住み屋の風呂が壊れでもしたのか、おしなべて疲れた表情をしている。
 そういう意味では彼女たちは目立つ存在だった。新島は低く声を抑えて告げる。
「あとはまあ……念の為ね。万が一にでも入浴中に異界行きなんてことになったら困るでしょ」
 想像には震え上がった。全裸で行き来とは、怪物たちが現れなかったとしてもゾッとする状況だ。
「あ、だからあいつら追い出したんか」
 双葉がぽんと手を打った。彼女は自宅の風呂があるというのに、わざわざ小遣いをせびってやってきている。
「追い出したなんて言い方しちゃダメだよ。二人にはちゃんが泊まるのに必要な物を運んでもらっているだけでしょう?」
 屋根裏部屋にはベッドマットこそ残されているものの、毛布やら枕やらは部屋主の不在によって回収……洗濯とクリーニングに出されて大事にしまわれている。男子一同(猫含む)がこの場にいないのは当然にしても、壁を隔てた男湯にさえいないのはそれらの回収と運搬のためだ。
 諌める奥村から逃れるように浴場に飛び込んでいった双葉を高巻が、その高巻を新島が追いかけていった。
「ちょっと! 走ったら危ないでしょ!」
「あなたもよ杏! もうっ!」
 残されたは曖昧な笑みを浮かべて三人を見送り、未だ残り続ける奥村に頭を垂れた。
「気をつかわせてしまっていますよね」
「あら、バレちゃった?」
「さすがに、わかります」
 悪びれもせず笑って、奥村はコインロッカーの鍵を手首に巻いた。
「じゃあ、お背中流させてね?」
「そ、それはちょっと……」
「だーめ。ほら、身体が冷えちゃう。早く温まろう?」
 手を引かれたわけでも、背を押されたわけでもないが、は頷いて後に続いた。
 彼女たちがしようとしているのは単純な気晴らしだ。当事者たちの口から聞かされただけでも大きな衝撃を受けた出来事を、いっとき和らげ、忘れさせるための空騒ぎでしかない。
 気にするなという意味ではない。大したことないと笑える結果ではなかったのだから、気は引き締めて然るべきだ。
 さりとてそればかりでは、はとても保たないだろう。
 まるで赤ん坊にでもなった気分だとは思う。優しく背を洗う手とスポンジも、疲労回復、あるいは特定の部位から肉を落とすためのマッサージ指南も、他愛もないおしゃべりも、なにもかもが己を甘やかすために用意されている。
 その中で己は泣いて手足をバタつかせるだけでいい。オムツの始末もミルクの用意も、周りの者がすることだ。
 それに甘んずるべきかと問えば、おそらくこれはイエスだろう。赤ん坊が自らオムツを丸めて捨てるのも、湯を沸かしてミルクを用意するのも、危なっかしくてとても任せられない。怪盗団から見たは、確かに赤ん坊と同じような存在だった。
 下手に動いてさらなる事態の悪化を招くくらいなら甘えるべきだとは痛感している。
 その一方で、すべきこともできることもあるはずだと、人格の根底に芽吹く善良さが訴えていた。

……
 屋根裏部屋には二人の少年と、一匹の猫の姿がある。
 簡単なベッドメイクを終えてあとは帰るだけだが、湯上がりの少女たちを一目拝する僥倖に預かるため、あるいは一言おつかれと挨拶するために居残っている。
 けれどそれは表向きのことで、喜多川は単純に疲労のために少しの休憩を欲しているからでもあった。
 彼は先ほどからソファに深く座して、長い脚を投げ出したままウトウトと船を漕いでしまっている。
「オラ祐介、寝んなよ」
「う……わかってる。わかっているんだが……」
 流石に今日は、とさらに沈み込む喜多川を見て、モルガナと坂本は顔を見合わせた。
 モルガナに関しては元よりこの部屋の住民なのだから、退出する理由がない。夜間の見張り番は彼の役目でもあった。
 では坂本はといえば、彼もやはり、先の理由は表向きでしかない。
「大丈夫かよ?」
 示すように声は慮りにあふれている。
 喜多川はのろのろと顔を上げると、悔しそうに唇を噛んだ。
「お前に気遣われるとはな」
「さすがにこのパターンじゃ気ィくらいつかうわ。マジで潰れかねねーだろ」
「馬鹿にするなよ。この俺が……」
「ヘコんでるくせによく言うぜ」
「ぐ……」
 猫にまで心配そうな視線を送られてしまっては、喜多川も黙る他ない。
 テレビの電源さえ落とされた部屋には沈黙と埃ばかりが落ちている。階下も今は―――いつも―――客はなく、テレビも消されているのだろう。水音さえ響いてはこない。
 ただ外の飲み屋街から時折、酔漢のわめき声とそれに呼応した犬の鳴き声、それからかすかな猫の声……モルガナはしきりに耳を動かしては、不機嫌そうに尾を振っている。
 やがて喜多川も覚悟を決めたのか、大きなため息をついてポツポツと語り始めた。
「己の不甲斐なさに吐き気がする」
「ユースケらしいな」
 被害をもたらした怪物やその背後に控える存在にではなく、真っ先に己自身の不出来に怒りを覚える。それは自罰や自虐ではなく、常に己を律しようとする克己心から生まれるものだ。
 喜多川少年の中に打ち立てられた揺るぎないものがそうさせているのだろう。
 そしてそれは、この猫をひどく感心させる。コイツは変人だが、ただそれだけで済む底の浅いヤツじゃない、と。
 けれどそうである前に彼もまた、まだ十七歳になったばかりの若者で精神の成熟にはまだずっと時間がかかる。その底が抜け、無しになるにはもう十余年は要るだろう。
 若者はいかにも消沈した面持ちで首をゆるく振り、猫の発言を否定する。
「だがそれ以上に……事が警察にでも露見したらどうしようと、殺人―――手にはかけていないが、どう説明したって信じてはもらえまい。死体が見つかることはないだろうが、だけどあの子の家族は帰宅の遅さにいずれ警察に相談する。そうしたら……消える直前近くにいた俺は少なからず疑われる……」
 坂本とモルガナは黙って彼の言葉の続きを待った。少なからずそれは彼らの心配事でもあったからだ。
 続く言葉は二人の想像通りだった。
「なによりこんな保身的なことばかりが思い浮かぶ己が一番許せん……! 竜司、俺を殴ってくれ!」
「あいよっと」
 立ち上がって吠えた喜多川のみぞおちに、坂本の情け容赦のない拳が突き刺さった。
 喜多川は立ち上がりざまの勢いも合わさって身体をくの字どころなか直角に曲げ、坂本にもたれかかってはずるずると床に崩れ落ちた。
 呆れ返ったモルガナが窓の外の同族の鳴き声ににらみを効かせている間、部屋には喜多川がむせこむ音が響き渡った。
 やがて呼吸も整ってくる。彼は立ち上がり、きつく坂本を睨みつけた。
「痛いじゃないか! なにをする!」
「おめーが殴れったんだろ」
「ワガハイも聞いてたぞ」
 間違いようのない現実を突きつけられて、再び、喜多川はへなへなと、今度はソファの上に崩れ落ちる。
 それで不思議なことに、彼のさまざまなものに対する恐怖からくる震えは収まっていた。
 すると今度は悲しみが顔を覗かせる。始末に負えないと自らを罵りつつ、喜多川はまた心の内を明らかにする。
「……の手前、堪えたが……正直泣きそうだ」
 坂本とモルガナは器用に片眉だけをひそめてうーんと唸った。オトコの涙なんて見苦しいもの、あんまり見たくはない。
 気遣い半分、逃避半分で坂本は提案する。
「俺ら下に行ってようか?」
「その気遣いはやめろ」
「なんなんだよオマエは」
 直ちに首を横に振った喜多川の扱いにくいことといったらない。モルガナは大仰なしぐさでため息を吐き散らかし、己の寝屋に潜り込んだ。
 フカフカのクッションに毛布、天蓋代わりのタオルケット。おそらく彼の寝床はこの場の誰より豪華だろう。
 かといってそこに寝たいかと問われれば、ソファのほうがマシだと二人の二本足は答える。
 喜多川などは腕を枕に座面に横たわりまでする。
「あとは、そう……本気で疲れたからここから寮まで歩くのがしんどい……」
 双葉が言うところのHPもMPもSPもAPも、喜多川だってほとんどすっからかんになっていた。駆けつけた新島が傷こそ塞いでくれたが、全快とまではいっていないし、精神力的なポイントは減ったままだ。
 せめて少し、ここで眠りたいというのが偽りない彼の本音だった。
 愚痴や弱音を吐くことの少ない彼にしても、どうやらほとほと参っているらしい。
 坂本は財布から硬貨を抜き出して親指に乗せ、ピンと弾いて喜多川の額に貼り付けた。
「いて」
「貸しだかんな。返せよ」
「いつもありがとう、竜司」
「たかられてんなぁ……」
「うっせ」
 実際のところ、坂本から喜多川へのこういった小さな貸しはちょくちょく、そこそこ、結構ある。一回の金額は大きくはないが、塵も積もればなんとやらだ。総額としては無視できない額になりつつある。
 ―――が、これもまた実際のところ、喜多川はコンクール等で得た賞金で地道な返済を続けているから、実額はさほどでもない。
 それを自転車操業と見るかイーブンな関係と見るかは人による。
 モルガナはただ、めんどくせー友情だなと思うだけだ。互いに互いを見下しつつ、対等だとも思いつつ、格上だとも思っている。そんなところか。
 ……『アイツ』がいたら、なんて言うだろう。まあせいぜい、二人だけで仲良くするなだとか、俺のほうが金以外に羞恥心とか色んな犠牲払ってるだとか、俺のほうが付き合い長いんだとか……またさらにわけの分からんめんどくせーものを振り回して暴れるだけに違いない。
 世界さえもその手中に収めたモルガナのトリックスターは、恐ろしいほど貪欲な男だ。
 そんなようなことを考えている間に、少年たちの間では話がまとまったらしい。部屋の中央に出しっぱなしにされていたテーブルから立ち上がり、坂本は立てた親指を下げて階下を指し示した。
「んじゃ帰っか? カップラーメンくらいならついでにもう一貸ししてやんぞ」
 しかし、喜多川はまたも首をゆるく振る。
「この上ない最上の申し出だが、俺はもう少し残っていく。彼女たちに任せはしたが、やはりが心配だ」
 坂本は軽く目を見開いて、ゆっくりとまばたきをくり返した。
「おー……なに? 惚れた?」
 疑問符にはちょっと下世話な好奇心が貼り付いている。
 喜多川は煩わしげに手を振り、それを追い払った。
「あの膂力には惚れていると言っても過言ではないな。お前や俺にも引けをとらんぞあいつは」
「ああそれはわかる。なんか俺、にチンパンジー感じるわ」
 三度屋根裏部屋に沈黙が満ちた。酔漢、犬、猫、車、バイク、水音。
 自信さえ窺わせる坂本に対して、モルガナと喜多川は直角近くまで首をひねっている。
 やがて―――
「……あっ!? シンパシーか!?」
 膝を打った喜多川に、モルガナは目玉を落としそうなほど目を見開いて飛び上がった。
「あーっ! なるほど!?」
「お、それそれ。俺って共感力高いからさぁ」
 それ故には性別を超えた友情と愛着を感じると訴える坂本だが、喜多川は納得できない。苛立たしげに床を踏み鳴らし、勢いよく身体を起こしては彼に詰め寄った。
「なにが共感力だ! あれでもは女子だぞ! それをチンパンジー呼ばわりとは何ごとだ!」
「いやあユースケ、オマエも結構ひでーこと言ってるぜ。あれでもて。オマエらまとめて屋根裏のチリだぞ」
「ンだとコラ……じゃあおめーはモップな! あそこに立ててあるやつ!」
「待て竜司、それでは俺たちはまとめてモルガナに掃除されてしまうのでは?」
 喧々諤々。猫と少年たちは終わりの見えない議論に時間を費やした。
 個人の規模で見れば、それもまた、おそらくきっと、無為な時間ではないだろう。

 まだしっとりとした髪を揺らして荷物を取りに戻った女子たちの護衛として徴集され、坂本はルブランを去っていった。
 屋根裏部屋には喜多川とだけが残される。モルガナは外でうるさい同族たちと話をつけてくると言って飛び出していった。
 念の為にと訴える坂本や喜多川に倣ってもジャージを持ち歩いているからか、彼女は寝巻き代わりにそれを身にまとい、借りたタオルで首元を覆っている。
「帰らないの?」
 なんの気もなしにそう問いかけた瞳には、警戒心の影さえ見えない。喜多川はやっぱり少しこの迂闊な少女のことが心配になった。
 とはいえ今その心配の種を植えているのが己自身だと自覚しているからか、喜多川は手短に済ませようと話を切り出した。
「大丈夫か?」
 気遣わしげな言葉と声、そして視線に、は笑み崩れた。
「君たちは本当に、過保護だね」
「……悪かったな」
「怒ってないよ」
 喜多川はわずかばかり気分を害して視線を窓の外に投げた。猫の声は聞こえない。ただ古ぼけた白熱灯の電球が夜闇を裂いて瞬いているばかりだ。
 その耳に、のやわらかな笑い声が触れる。
「考えたんだ。皆私を気遣ってくれる。君も。だけど、あの場にいたのは私だけじゃない。君もいたんだ。なら、君も相応に気遣われるべきじゃないのかってね」
 だから坂本はここに残っていたんだろうと指摘されて、喜多川は舌を巻いた。
 彼女への配慮が勘付かれることは想定内だったが、よもやこちらにまで意識が及ぶとは……
 感服の念を湛えた瞳に見つめ返されて、は恥じ入るように僅かに俯いた。
「さっきはごめん。君だってあの……あのときのことを気にしているはずなのに、自分のことばかり考えて君にひどいことを」
「……そう思うか?」
「違わないだろう? ひどい顔だよ。疲労困憊って感じだ」
「お前ほどじゃない」
 事実の顔色は湯上がりだというのに優れない。窓から射し込む月光は彼女を蒼白く照らし、まるで今まさに大理石から彫り出された彫像のようだ。瑞々しい肌の下を通る静脈の色が浮かび上がったかのような一種不気味な色は、彼女を非人間的に見せている。
 喜多川にとってそれがただ美しいというばかりでないのは、その内側に芽吹くやわらかなものを知っているからだ。決して曖昧ではない確かなものは、彼の内にある芯材によく似ている。
 果たして彼女は顔を上げて彼と正面から向き合った。
「残ってくれて良かった。謝る……のも違うんだけど、なにか一言……言わなきゃなって思っていて。それがなにかはわかってないんだけど」 
 懸命に言葉を紡ごうとする彼女を眺めていると、喜多川は不思議と疲れを忘れてしまう。背すじが伸びて、胸を張るようになる。
 彼は自信を湛えて拙い言葉を遮った。
「いい。無理になにかを言う必要はない」
「でも祐介は」
「いいんだ」
 首を左右に振って、喜多川は目を細めた。確信と自尊に満ちた笑みは奥底に傲慢さを窺わせるが、彼に相応しい振る舞いでもあった。
 確固たるとして彼は告げる。
「今は気にならない」
 重大な失敗も多大な損失も、これらに対する恐怖もなにもかもが―――どうでもいいという意味ではなく、受け止めきれるという自信が彼からは溢れていた。
 は胸元においた手を握り込み、泰然とした様子を訝しがりつつ問う。
「どうしてそう思える?」
 疲れているんだろう。ショックを受けただろうに。それは到底、一人で受け止めきれるものではないはずだ。はそのことを経験則として理解している。
 喜多川は彼女の胸の前の拳に、己の拳を軽くぶつけてみせた。
 するとそこから、彼女の身体全体に熱が伝播する。青褪めた彫像はまたたく間に人間になり、湯上がりらしい姿を取り戻した。
がいるからな。一人じゃないなら平気だ。お前もそうだろう」
 単純な話だった。一人で抱えるには難しい重荷も、二人―――同じ光景を目の当たりにし、経験した二人ならば、それなりになんとかなるかもしれない。
 これは今日の出来事にだけでなく、がこれまで目にしてきたいくつかの犠牲にも言及している。
 喜多川は要求していた。荷物を明け渡せと。
 もちろん、被害者からすればとんでもない話だ。その死がたった一人の少女の慰めとして利用されるなど、冒涜以外のなにものでもない。
 しかし喜多川にはそうしなければならない理由がある。
 そもそも彼女は自らの意志によって戦おうと決意したわけではない。状況に従い、やむなく戦いを選んだに過ぎないのだ。
 考えようによっては、彼女を戦いの場へ誘ったのは怪盗団であり、喜多川や高巻の言葉によるところが大きいともいえる。彼女に敬服と恭順を与え、事態の解決のために必要だからと非日常のさらに深くへ引き込んだ。
 ―――何故そのことを都合よく忘れていた? お前は本当に、気の回らぬ男よ―――
 喜多川は己を罵りながら、しかしそれを決して表には出さず続けた。
「そもそもお前は被害者なんだ。なにを落ち込むことがある。この理不尽な状況において、憤る権利を行使せずどうする」
 これには鳩が豆鉄砲をくらったような顔になる。
「なんだその間抜け面は」
「いや、その……怒るっていう発想はなかったなと」
「なんだそれは」
 呆れ果てた喜多川が肩を落とすのにも構わず、はしきりに頷いてみせた。
「そうか、怒ってよかったのか。うん、そうか……わかった。うん。そっかー……」
「ええ……本気で思ってもみなかったのか?」
「うん。いや、言われてみればそれもそうかって思えるんだけどね。思い込みって怖いね」
 せっかく伸びた背すじが再び丸まりそうになるのを懸命に堪えながら、喜多川は苦笑する。
 まあいい。気は済んだし、彼女にも何某かの刺激を与えられたらしい。
 目的は果たしたと離れた彼に、もまたはっとして先ほど触れた手を押さえた。まだそこに宿るじんわりとした熱に戸惑いながらも、彼女は喜多川を見送ろうと彼の後を追った。
「ゆ、祐介―――」
「ん?」
「頑張ろうね」
 喜多川はふっと鼻を鳴らして口元を緩ませた。それはなんの仮面もまとわない、彼の自然人としての姿だ。
「もちろんだ。……おやすみ」
「う、うん。おやすみ」
 声をかけて来たくせに俯いてしまった少女を不思議に思いながら喜多川は階下へ消えていった。
 しばらくの後、ドアベルが鳴り響いて彼の退出を知らせると、それでやっとは呼吸を取り戻した。
 ヨロヨロと覚束ない足取りで粗末なベッドに向かい、ろくな受け身も取らずに倒れ込む。
「うう、なにこれ……紬、助けて……」
 蹲って毛布に突っ伏したところで、幼馴染は決して助けに現れてはくれない。それはそうだ。彼女の幼馴染はまだ奪われたままだ。
 そういった意味でも、彼女の奪還は急がねばならない。
 改めて胸に刻みこんだは、モルガナがとっくに帰ってきていることにしばらくの間気が付きもしなかった。