15:That's How it Goes

 五つ。
 それはが転校してきてから描き上げた絵の数だ。
 キャンバスの大きさを考えれば早くはないだろう。製作課題として指定されたもの以外は四号から十号に収まっている。
 同様に課題として模写やモチーフの指定がなければ、彼女の描くものは小動物や虫、は虫類がほとんどだった。蝶からはじまり、クワガタとカブト、その幼虫、スズメやセキレイ、ヤモリやカナヘビ、ギリシャリクガメ……
 あまりの年ごろの女子が好むものではないように思えるが、彼女はたいてい楽しげだった。
 それに多くの場合、それらは優しい色彩の草花と一緒だったから、主眼が昆虫や芋虫に置かれていてもどこかメルヘンチックな雰囲気を見る者に与えていた。
 とはいえ―――
 やはり絵画としては一味足りないと喜多川は断言する。挿絵の域を出ていない、と。
 もちろんそれは挿絵が絵画に劣るという意味ではない。図鑑や絵本の挿絵もまた一つの芸術だ。喜多川には幼いころ熊田千佳慕の著書をすり切れるまで眺めた記憶だってある。
 その巨匠と比べてしまうとどうにも……それはまだ学生なのだから当然なのかもしれないが……
 というようなことを、放課後の美術室で二人は延々囁き交わしていた。
 までここにいるのは夕方の移動が危険なためで、では日が落ちるまで待てばいいとなればそれはそれで、女子一人に夜道を歩かせるわけにはいかないと喜多川も帰れなくなる。
 そういうわけで放課後の時間、は喜多川に促されるがままここで時間潰しがてら制作に励んでいるというわけだ。もちろん、教師の許可ももらっている。
「なにかアドバイスある?」
 窓際に並べたキャンバスの前で声を落として問いかけると、喜多川は厳然と首を左右に振った。
「ない」
「そうか……」
「君は画家になるのか?」
「それは……いや、うーん、紬はなりたいって言ってたけど」
「お前の話をしているんだろ」
 呆れたような声と視線を返されて、はがっくりと肩を落として項垂れてしまった。
 厳しく接されていることこそが彼の親しみの証明と思えば誇らしくもなれるだろうが、いくらか揶揄するような含みも感じられる。
 結局、は正直に己の青写真を晒した。
「そういうのは決まってないな」
「志望の大学は?」
「それも、あー……一応地元にいたときの進路指導では、あっちの大学書いて提出したけど……」
 それも特に理由があってのことではないという情けなさの極みのような返答に、喜多川は嘲りに鼻を鳴らした。
「のんきなものだな」
「紬みたいなこと言うのやめてよ」
 恨みのこもったの様子に彼は口元さえ緩ませてしばらく止めていた手を動かしはじめた。
 こちらの様子をチラチラと物珍しげに覗っていた女生徒たちなどは、それを見て小声でなにかを言い交わし合っている。
 は、肩を落として窓の外に視線を投げた。校庭では運動部らしき生徒たちが夕日に照らされながらトラックを周回しているところだった。
 ―――どうせそんな事実はないんだから開き直ればいいと言われてこちら、そのように努めてきたが、やはりどうにも居心地が悪い。せめて訊いてくれればはっきりと声を大に「違いまーす!!」と宣言もできるのに。
 忌々しい噂の片割れである少年を睨みつけたところで、集中し始めた彼には声さえ届かない。
 こうなると物理的な接触さえも無視されることがあると聞いたときは戦慄したものだ。
 ―――じゃあトイレ行きたくなったらどうなるの?
 さしもの彼もそのときは立ち上がるだろうが、その瞬間には立ち会いたくないなとは強く願った。
 そんな彼女のキャンバスに描かれているのはイチジクとカミキリムシだ。青く大きく茂る葉の中に丸々とした実が鈴なりにぶら下がり、そのそばの枝でカミキリムシが憩っている。
 なにか深い意味があるわけではなかった。ただ漠然といつか見た光景とモチーフそれぞれの記憶とを結びつけ、並び替えていずれもがよく見えるように再配置したというだけだ。
 そういう意味では喜多川の図鑑の挿絵という評価は的を射ている。
 ここには好嫌も、政治的思想や宗教的意義もない。
 芸術とはそればかりではないが―――
 は、腕を組んでううむと唸った。
 その頭に浮かんだのは幼馴染の姿だ。
 彼女もまた同じモチーフを好んでいた……というより彼女に影響されて、は虫や小動物を好んで描くようになったのだ。
 しかし立花紬の作品には不思議な暖かみがあった。それはモチーフの体温や質感を感じさせるという意味だけでなく、心に訴えかける曖昧ななにかだ。
 幼馴染のひいき目ということはないだろう。立花は少なからずいくつかの賞を貰っている。
 黙々と制作に打ち込み続ける少年の隣で、は手を止めてしばし思索に耽った。
 そのうちに美術室の中にあった人影は時とともに一人二人と減っていき、電灯の明かりが必要になるころには残っているのは二人だけになっていた。
 完全下校時刻のチャイムが鳴るのと同時に教室を出た彼らは、鍵を職員室に返してやっと校舎を辞した。
 先述の通り夕暮れ時を警戒しての選択だが、彼らはまた新島にこう厳命されていた。
 もしも異界に迷い込むことがあっても戦闘は避け、すぐに帰還しろ、と。
 これ自体は前々から命ぜられていたことだったが、今回はさらなる意味が籠められている。
 これ以上、神らしき存在を吸収しないためだ。
 今のところの体調に変化はないが、今後どうなるかは分からない。なによりそれこそが敵の狙いである可能性は大いにある。
 ―――いい? 絶対に無理はしないで。怪我もしないで。あなたたち二人だけじゃ、回復だってままならないんだから―――
「新島さんってさ」
 校門を出たところで、は言った。
「けっこう過保護だよね」
 喜多川はこみ上げる笑いを噛み殺すのに大変な苦労を要した。
 似たようなことは常々彼も考えてはいたし、仲間たちもひしひし感じていることだろう。平時となれば勉学や生活態度を、戦闘に際しては逐一弱点がどうの早く回復しろだのと……若干の疎ましささえ覚えるほどに細やかに配慮を行き渡らせてくれている。
 もちろんそれは悪い意味ではないが―――
「……説明しづらい感情だな。頼り切っているからこそ、俺たちは鬱陶しいだの世話焼き過ぎるだのと好き勝手に言えるわけだ」
「みんなのお姉ちゃん、もしくはお母さん」
「そういうものか?」
 俺にはどちらもいないから解らない、と返されて、はうーむと唸った。
「じゃあハマってるゲームの不満点を挙げ連ねるって感じかな……」
「あー、あー……」
 解るような、解らないような。喜多川は曖昧に頷いた。
「私が君のことをちょっとウザいと思っているようなものだね」
「ちょっと待て、聞き捨てならんぞ。そんなことを思っていたのか?」
「君だって私に不満くらいあるだろう?」
 街頭の明かりの下を歩きながら、は挑発的な笑みを浮かべた。
 喜多川はしばしの間沈黙したが、やがて
「無いとは言わないが」と不満げに答えた。
「ほらね」
 なにが楽しいというのか、は得意満面だ。
 それが喜多川には面白くない。
「君は―――少し迂闊なところが多い」
「それはまあ、認めるよ」
 絶賛矯正中だと返されるが、喜多川はそれで満足はしなかった。
「それだけじゃない。君は思慮が浅い。もっとよく考えて動くべきだ。例えば君と俺たちが二度目に会ったとき、君は自分以外の誰かの危機を想像して駆け出していたな」
 喜多川が言っているのは彼と坂本、そして双葉で異界に赴き、計測機器を設置した日のことだ。
 彼らはそのとき肥えたキリンのような異形と対峙し、見事これを討ち倒している。そしてその直後、同じ異形が離れた地点に現れた。これは喜多川たちを狙ったものではなかったが、しかし先に響いた異形の威嚇を聞き取ったはこちらの個体に単身襲撃を仕掛けた。
 そうしたのは誰かが襲われているのではないかと案じたからだ。彼女自身もそう証言している。
 それ自体はたいへん立派な行いだし、もしも本当に迷い込んだ誰かが襲われていたならば、駆けつけなければどうなっていたかも分からない。
 なにより彼女の行いには喜多川と高巻が示した怪盗団の本懐―――どこかの誰かになにかをする勇気を与える、その想いが強い影響を齎していた。
「だが、一歩間違えばどうなっていたことか。俺たちがいたから良かったものの……そうだ、あのときだけじゃない、谷津なる神に襲われたときも、あの猫又のときだってそうだ。だいたいお前はな……」
「わかった! もういい! 君こそ私のお兄ちゃんかお父さんみたいだな」
「どうだ参ったか」
「なにが!?」
 勝ち誇る喜多川から二三歩離れて、はぶるぶると頭を振った。益体のないお喋りのつもりが、どうやら跳んだヤブヘビだったようだ。よもやこれほどまでの不満が噴出してしまうとは―――
 それも当然かと考えて、はわずかに視線を落とした。住宅地そばの歩道には幾何学模様が描かれ、あちこちから降り落ちる明かりをキラキラと反射させている。
 迷惑をかけている自覚は大いにあった。
 騒動の中心はどうやら別にありそうだし、彼らの頭領も自分とさほど変わらぬタイミングで巻き込まれているらしい。しかし多く戦いの原因となっているのはだ。
 せめてこれ以上はと拳を固める彼女の隣に並んで、喜多川はこれみよがしなため息をついた。
「そういうところだ」
「え? どこ?」
「今、これ以上迷惑をかけないようにと考えていただろう」
 どうして解ったんだと目を丸くするに、喜多川は肩をすくめた。わからいでか。
 そしてまた、彼は狭い街路の先を見つめながら告げてやる。
「いちいちそんなことを考えるな。今さら、あの程度の危機で俺たちが参るものか」
「そうでもなさそうだったけど」
 今度は喜多川のほうが思わぬ反撃に呻く番だった。
 しかしは勝ち誇ったりせず、言葉の続きを待っている。
「……そんなに他人行儀にするなと言いたいんだ」
「友だちだと思ってるよ? でなきゃウザいだなんて面と向かって言うわけがないじゃないか」
「それはまた席を設けて話し合おうじゃないか。とにかく―――ああ、だから……」
「なに?」
 立ち止まった喜多川に遅れて、は数歩先で止まり、ふり返った。
 道の左右には一軒家が並んでいる。窓にかかったカーテンの向こうからは室内灯の明かりと生活音が漏れ出て街路を彩っていた。
 そのうちのどこかの家が夕飯を拵えているのだろう。冷たい空気の中に、魚が焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
 そういえば腹が減ったなと思いながら、喜多川は彼女に語りかけた。
「そういう面倒なところも引っくるめて、俺も君を……を良い友人だと思ってる。妙なところで遠慮するのはよせ」
 これには目を丸くして後退った。
「う、うわ、なに急に。馴れ馴れしっ」
「おい」
「ごめん。カテゴリーがさ」
「なにがだ」
「竜司や双葉ちゃんとはちょっと違うんだよ」
「なにがだ…?」
「いや……なんていうか、その……」
 ちらりと見上げた先にある不思議そうな顔は、そのような様子であってもと言うべきか、だからこそと言うべきか、ひどく整っている。
 かといってが口頭に挙げた二人の容姿が一定以下などということは決してない。ただ二人には、気安く砕けた態度が許される砕けた雰囲気がある。
 翻って喜多川を見たとき、そこにあるのはちょっと近寄りがたい美少年然とした顔立ちだ。
 しかしそれも今や、どことなく寂しそうに沈んでしまっている。
「不快ならやめておく」
「いや、いや、待ってほしい」
 大げさに両手を振って、は来た道を数歩戻った。
「駄目だなんてことはないよ。深入りするとこちらも決めているしさ」
「コーヒーの話?」
「それは深煎り……今なんでボケたの?」
「すまん、つい」
「き、……祐介のそういうところはどうかと思うよ。本気で」
「そうか?」
「そうだよ」
「そうか……善処しよう」
 したり顔を浮かべた少年はもう寂しげでもなんでもなく、足取りも軽く歩みを再開させていた。
 その後を追いながら、は両手で顔を覆い隠す。
「うわあ、恥ずかしい……今、いかにも青春みたいなことしてたよ……」
「俺たちくらいの歳の者がしなかったら、他に誰がするんだ?」
「それもそうか……いっそのこと夕陽に向かって走るまでしたほうがいいかな」
 やけにでもなっているのか、は顔を隠したまま奇妙なことを言い始める。
 それはそれで楽しそうだと思わないでもないが、いかんせん時期が悪いなと喜多川は思う。彼の想像の中では、そのまま仲良く異界に突入して、件の母親か姉の如き世話焼き性の先輩に怒られるところまでが一瞬でくり広げられていた。当然その背後には、鞭を持ったのと斧を担いだのもついてきている。
 気温以外の要因から震え上がりながら彼は重々しく告げてやった。
「やめておいたほうがいいだろうな。おそらくだが、こっぴどく叱られることになる」
「に、新じ、いや、真先輩が怖くて異界探訪なんてやってられるか!」
 おそらくはも同じような光景を想像したのだろうが、しかし彼女はよく分からない反抗心を燃え上がらせて拳を振りかざした。
 その心意気は尊いものだ。時には安全を取るより、少しの冒険心こそが状況を好転させることもある。
 ただしそれは今ではない。
「伝えておく」
 短い言葉にの反逆の精神はたちどころにへし折られた。
「やめてよ……なんかね、怒られるよりちょっと悲しそうな顔されるのが耐えられないんだよ……」
 それはわかると返して、喜多川は快活に笑った。
「さて、帰るか」
「帰ってるんだよ。今まさにね」
 二人の足は先から一度も止まっていない。は呆れ顔をするが、喜多川はご機嫌なままだ。
「あ、そうだ」
「なに?」
「買い物をしていっていいか?」
「いいけど、どこ?」
「そこだ」
 言って喜多川が示したのは民家の屋根の向こうで輝くスーパーマーケットの看板だった。
「お弁当でも買うの?」
「安ければな。今日は……この時間は生鮮食品狙いだ」
 時刻は十八時を過ぎたところだ。なるほどちょうどそれらしい時間帯だろう。
 頷いたは、ささやかな好奇心を湛えた瞳で喜多川を見上げた。
「自炊してるの?」
「それなりに。知ってるか? 米は水で煮るとかさが増すんだ」
「それね、お粥とか雑炊って言うんだよ」
「知ってる」
 軽口を叩き合いながら二人は店を目指して道の角を曲がる。目当てを同じくしているらしい人々の姿がポツポツと見受けられた。駐車場にはそれ以上に多く車が並んでいる。
 これは急いだほうがいいかと二人が大きく一歩踏み出した途端、喜多川のポケットから着信音が鳴り響いた。
「珍しいな……」
 立ち止まった彼はに少し待つよう告げると、液晶画面に表示されている応答ボタンに指を触れた。
「電話口で大きな声を出すなと何度言わせる」
 渋い顔と低い声、そして砕けた態度で応じるところを見るに、相手はどうやら坂本らしい。通行の妨げにならないようにと歩道の端へ身を寄せつつ、は用件が済むのを待った。
「―――本当か!?」
 その耳に喜多川の驚きと歓喜に満ちた声が飛び込んだ。
 なんだなんだと顔を上げると、慌ただしく通話を終え、もどかしげにスマートフォンをポケットにねじ込むところだった。
 それから喜多川は大きく踏み出してに歩み寄ると、
!」名前を呼んでは力強くその両手を握りしめた。
「うわっ、なん、なに? テンション高いね。どうした?」
「しょ、勝訴!」
「は?」
 わけがわからないと目を白黒させる彼女に、喜多川は両手をぶんぶんと縦に振りながらつい今しがたの通話の内容を教えてやった。
 さんざぼかして誤魔化してきたが、実は俺たちの頭領は今身柄を少年刑務所に置いている。
 この発言にはたいへん驚いてみせたが、しかしあれだけ世間を騒がせた怪盗団のリーダーともなればそれもありえない話ではないかと納得してみせる。
 しかしそれは実際のところ、彼が保護観察処分下であったという前提が大きく影響しているのだとも喜多川は語る。
 問題なのはここだった。何故ならこの処分は不当なものであり、彼の罪はそも、言いがかり同然の冤罪だったからだ。
 よって怪盗団の面々は、その実働部隊のみならず、協力関係にある面々に至るまでがこれを晴らそうと年明けからここまで奔走してきていた。
 効果はあった。様々なメディアを通じて一人の少年が謂れのない罪に問われていることが世間に広まり、関心を集めると、家庭裁判所による少年審判のやり直しを求める声は署名という形で驚くほど届けられた。
 そして今日、やり直しに際して最大の決め手である証言者が事件当時の真相を語ると約束してくれたのだという。
 つまり……
「やったじゃないか! これで例の『彼』はこちらで自由になれるということだね?」
 ぱっと表情を明るくさせたに、喜多川は幾度も頷いてみせた。
「ああ、そうだ、これでやっと……もちろんまだ時間はかかるだろうが……やっとまた……はは……やった……!」
 感極まったのか、喜多川は握ったままの手を引くと、そこへ額を押し付けた。
 の指先にも当然その額や頬が触れる。興奮からかこの気温の寒さにも負けず、手も頬も額も、じんわりと暖かい。
 には喜多川の喜びようが、文字通り手に取るように解った。不当に奪われた友を取り戻せるとなれば、これ以上の喜びはあるまい―――
 きっと自分もと気持ちを重ねて、は心からの祝いの言葉を彼に差し向けた。
「おめでとう」
「ああ、ありがとう。本当に……」
「泣きそう?」
「それは別に」
 長い前髪に遮られていた顔がぱっと上げられると、確かに彼は微塵も涙したりはしていなかった。ただしやはり、頬や鼻先は明らかな喜びに紅潮していたし、目も口も綻んでいる。
 釣られて笑みを浮かべながらは口を開いた。
「直接対面できるのはいつになるのかな」
「そう長くはかからないと思いたいが、こればかりはな。ひと月はかかるかもしれないそうだ」
「そうか……でもやっぱり、よかったね、祐介」
「ああ……!」
 喜多川はさらに手を引いて己の胸元へ寄せた。厚手のジャケットの上から触れたその胸は、が想像しているよりずっとたくましかった。
 それに、はしゃいだおかげかいい加減人目も集まってきている。
 は呻いて顔を伏せると、苦悶に満ちた声を上げた。
「……手をね、そろそろ離してくれると……」
「あ、すまん。痛かったか」
「そうじゃないけど」
 手は直ちに解放された。ずっと触れていた部分に吹きつける風は、なんだか他のところよりもひどく冷たく感じる。
 そろそろと視線を上げた先では、喜多川はまだ嬉しそうに微笑んでいる。
 ―――自分ばかり意識しているようで、馬鹿みたいだ……
 はこみ上げる得体の知れない怒りに似たなにかを無理矢理呑み下すと、手を揉みながら明後日の方へ顔を向けた。
 その横顔へ力強い声がかかった。
「あいつが帰ってくれば、君のことも、立花さんのことも、必ず解決できる」
 もう大丈夫だと断言されて、は再び喜多川に向き直った。
「うん、あと少しってことだね……!」
 その胸にはほんの少しの寂寞の念もある。
 ずっと隣を並んで走っていた相手が実は周回遅れの自分に合わせていてくれただけだったと知ってしまった。にとっての不当に奪われた友は、まだ取り戻せていないのだ。
 それを配慮してくれなどと言うつもりはには毛頭ない。
 なんにしたって、この報は彼女にとっても吉報だ。異界のほうにしても場所は判明しているし、そこが外れでもまた別の場所をと、すでに候補は絞り込まれている。
 あとは内からも、『彼』を取り戻すだけでいい。
(待っててね、紬。今度は間違えない。迷ったりしない。惑わされもしないよ。必ず……)
 必ず『正しい』判断をしてみせると胸の内で囁いて、は唇を噛んだ。

……

……

『なんかね、ヤバい白昼夢見ちゃったんだ』
『どうヤバいの? 極彩色だった?』
『ある意味? クリスマスにさ、あ、イブか。イブにね、渋谷で……そうだ、あんたへのプレゼント買ったんだ。あとで渡すね』
『やった。私もあるよ。置いてきちゃったから夜に渡すね』
『赤べこはもういらないからね?』
『わかってる! 今年は―――引っかからないよ! 見てのお楽しみだよ!』
『ちぇっ、賢くなっちゃって』
 田園風景の続く道を、二人の少女が間に自転車を挟みながら延々おしゃべりしながら歩いている。片方は大きな荷物を抱えて、いかにも里帰りといった風情だ。
 その少女は明るい色の髪を肩より長く伸ばし、先から快活そうな様子を見せている。
 もう一方は彼女と比べれば一見物静かそうで、顎のラインで切り揃えられた黒髪が日本人形めいた雰囲気を作り出している。
 物静か『そう』なほうがもう一方に呼びかける。
『すぐ話を逸らすんだから。結局白昼夢ってなんだったの?』
 明るい髪色のほうの少女はやはり朗らかに笑い声を響かせた。
『だってやっぱり直接顔合わせて話したいことたくさんあるからさ。口を一つじゃ足りないんだよね』
『ほらまた逸れたよ』
『ほんとだ』
 けらけらと笑いながら語られる話は、本当にとりとめのない、まとまりもない夢の話だった。
 気がつけば空は赤く染まり、そこから血のような雨が降り、足元はそれによってか赤くぬめる液体に沈んでいた。たち並ぶ高いビルには人骨の如き不気味なオブジェが絡みつき、またそれらは赤い空を裂くようにそそり立ってもいる。
 そのような状態下であるにも拘らず、道行く人々の大半は何事もないかのように通り過ぎ、少数の人々は事態に気がついては恐慌状態に陥ってしまう。
 しかしやがて彼らはその存在が失われ始める。
 ろうそくの火が消えるようにか、あるいは溶け落ちる氷のようにか、差はあれど彼らは次々に悲鳴を上げながら消失していった。
 そのうち自分もそうなるのかと、彼女は恐怖から立ち尽くして震えていたが、その時は一向に訪れなかった。
 それどころか、一団が逃げ惑う群衆の中から飛び出し、骨のような道を駆け上がって行ったかと思うとビルよりもなお大きい、おそらくこの事態を引き起こしたらしい巨大な『なにか』に立ち向かっていったのだ。
 誰かが言った。
『頑張れ! 怪盗団!』
 彼女ははてと首を傾げた。怪盗団? それってちょっと前まで流行っていた都市伝説めいた噂の存在か? と。
 目を凝らしてはるか天高くを見つめると、豆粒よりなお小さくしか見えないが、そこには確かに幾人かが這いつくばっているではないか。いずれも珍妙な格好をしている。
 飛び出して行ったときにチラと見たが、自分とそう歳も変わらなさそうに思えたが―――
 彼女は、そのことに妙な罪悪感を覚えた。波のように広がる『怪盗団』を応援する声の中で、ひどく気まずい思いを抱いていた。
 同じくらいの歳の子があそこで、なんだかよくわからない理由で自分たちを消そうとしている、なんだかよくわからないものと戦っているのに……応援するだけでいいんだろうか? これだけ揃っているんだから、みんなで鞄に石でも詰めて一斉に殴りかかれば、あの巨大な腕の一本くらいはへし折れるんじゃなかろうか。
『発想が物騒だよ』
『そうかな?』
 いずれにせよ、その場では彼女もまた『頑張れ』と声をかけるくらいしかできなかった。
 ただ―――
『ただね、なんか悔しかったんだよね』
『なにが?』
『応援するだけしかできなかったのが。いやさ、私一人だけでも加勢しても良かったんじゃないかなって』
『鞄に石詰めて』
『うんそう。役に立つ立たないは別としてもさ、大声出して隙を作るくらいはできそうじゃない?』
『夢の話だよね?』
『うんまあ。そうなんだけど。気がついたらなんか全部普通に戻ってたし』
『変な夢だね』
『ほんとにね』
 そんなに怪盗団とかにも興味なかったはずなのに、なんであんな白昼夢見ちゃったんだろう。
 首を傾げる彼女に、少女はくすくすと笑う。
『実は無意識ですごく気になっていたんじゃない? 好きじゃないか。悪人を退治して回るような話』
『そんなツンデレみたいな』
『つんでれ?』
 なにそれ? と首を傾げる少女に、彼女はその定義を懇切丁寧に説明してやった。
『悪人退治か……でも私は、改心ってどうかと思うなぁ』
『そうなの?』
 少女は意外そうに首を傾げた。
『だって怖いよ。どうやっているのかは知らないけど、ある日突然魔法をかけられたみたいに心を入れ替えられるなんて……』
『ふーん……それで助かる人がいるのならそれはそれでいいことだと思うけど』
『まあね。そこはね。けどさ、じゃあ法律とか規則とか、あとは……道徳? そういうのはなんのためにあるのよってならない?』
『わああ難しい話をする』
『真面目な話ね』
『は、はい……』
『あんたはいい子だよ。どこに出しても恥ずかしくない自慢の幼馴染』
『え、えへ……』
『だけどそうじゃない人もたくさんいる。そういう人が、あんたみたいな子をひどい目にあわせたりする』
『う、うへぇ……』
『だから、そうならないために法律や規則やルールがある。なにより、道徳ってものがある。でしょ?』
『うん、うん』
 解っているのかいないのか、少女は先から懸命に話に耳を傾けている。
 たぶん理解できてないな―――
 そう思いつつも彼女は己にこそ言い聞かせるているのか、語りながら考えをまとめようとしているのか、さらに言を重ねた。
『もちろんそれだけじゃダメだったから、怪盗団みたいなのが出てきたんだろうなって思う。実際逮捕されたヒトら、みんななんで今まで野放しにされてたんだろうってのばっかりだったし』
『なんだ、やっぱり興味あって調べてたんじゃないか。ツンデレだ……あっ、痛い、やめて』
 柔らかな頬肉をつねる手を離して、彼女はフンと鼻を鳴らした。
 踵はまた、力強くあぜ道を踏みしめる。
『私が思うに、怪盗団って花火みたいなものなんだよね。パッて光って、すごーい、きれーい……でも常に光っててくれるわけじゃない。結局周りは暗いまま。それってどうなん?』
『でも私たちにそんな魔法みたいな力はないよ。それに、大きな力を振りかざすものは怖いってさっき言ったよね?』
『その考え方がダメなんだって!』
『ええっ……』
『たしかに怪盗団は怖い。でもそれは未知に対する恐怖であって、巨大な力に対するものじゃないのよ。私たちに魔法みたいな力がないのもたしかにそう。でも……』
 真っ直ぐに前を向いた彼女の視線の先には、なだらかな山肌を覆う竹林がある。その更に向こうに、峻厳な山々が連なり、雪に覆われて白く霞んでいる。
 彼女はその遠くの山のように厳しい口調で言った。
『もしかしたら私たちにも使えるようになるかもしれないじゃん。そうじゃなくても、犯罪を抑止する努力はできるし、なんなら今からすっごい勉強したら警察のエラいヒトとか、政治家とかにもなれるかもだし、それで法律を変えて、規則を変えて、ルールを……』
『それをしている間に被害にあってしまった人はどうするの?』
『うぐうぅ……!』
 鋭い指摘に彼女は胸を押さえて身体をくの字に折った。
 苦し紛れに睨みつけたところで、少女の純真にして素朴な疑問は消えてくれそうにもない。
 彼女はまたこうも言った。
『長い目で見ればたぶん正しいのかなとは私も思うよ。だけどやっぱり、その場その場での応急処置的な対処も必要になってくるんじゃない? それに誰もが一律に魔法が使えたり、秩序正しく生きるようになったら、それはそれでまた別の問題が生まれる気がする』
『ふぐうぅ……!』
 再び彼女は呻いて胸を掻きむしった。
 少し離れていた間に、幼馴染がまた大きく成長した喜びと、それを間近で見守れなかった悔しさがそこで渦巻いていた。
『大丈夫?』
『だいじょぶくない……うう、成長した……』
『あ、身長伸びたよ』
『また!?』
 バネ細工のように勢いよく姿勢を正した彼女は、自転車越しの幼馴染を上から下までまじまじ眺める。確かに、また少し視線が噛み合わなくなってしまっている気が……
 彼女は叫び声の近い大声を上げながら、幼馴染にそれ以上の成長を禁止した。精神的にも、肉体的にも。
 肉体のほうはともかく、精神に関しては彼女自身が願っていたことであるにもかかわらず。
 ……そのようにはしゃいであぜ道を進む少女たちの声を微笑ましく思ったり、たしなめたりする者は、二人の足がその目的地にたどり着くまで現れなかった。
 たどり着いた後にも。
 石垣に囲まれた平屋の屋敷は、彼女の祖母が畑を世話しながら暮らすかつての生家だ。
 しかしそこに人の気配はなく、また裏手の畑にもビニールハウスにも、なんならそばの山に入っても、どこにも祖母の姿は見当たらなかった。
 普段東京で暮らす孫が単身帰省するとは予め伝えてあったから、留守にするなどということはないはずだ。
 それに―――
『なんかおかしくない?』
 彼女は空を見上げて言った。
 空はつい今しがた語った白昼夢のように赤く、夕暮れ時を教えている。けれどその腕に巻かれた時計の時刻は、とっくに五時を回っていた。年の瀬も間近となったこの時期、この時間はすでに日の入りを通り過ぎているはずだ。
 奇妙を通り越してもはや不気味さを覚えはじめた二人は、人の姿を求めて近所を歩き回った。
 しかしどれだけ歩けど、人の姿どころか影さえなく、また空も夕焼けから一向に暮れる様子を見せなかった。
『ど、どうしよう。なんで? どうして誰もいないの?』
『わからないけど……大丈夫だよ。私がついてるでしょ。とりあえず一回お婆ちゃんちに戻ろ? もしかしたらすれ違いまくってるだけなのかも』
『う、うん、わかった』
 心細さに泣き出しそうになっているのは彼女も同じだろうが、しかしこの幼馴染の前で無様な姿を見せるわけにはと堪えているのだろう。繋いだ手を引っ張りながら、ともすれば心細さに丸まりそうになる背をどうにか伸ばして、彼女は来た道を引き返し始めた。
 すると道の先、角の向こうから影が伸びる。
 ―――やっと人と会えたと歓喜するのもつかの間、二人はその影が奇妙な凹凸を持っていることに気がついて足を止めた。
 背に大荷物を抱えていたり、荷車を引いていたとしても、そんなシルエットにはならないだろう。丸々とした肉体の背から、無数の羽のようなものが伸びている。
 踵を返して駆け出そうとした少女たちの頭上に、さらなる影が落ちた。
『ひっ……!』
 引きつった悲鳴を上げた二人が目撃したのは、丸々と肥えた赤ん坊が宙に浮いている姿だった。
 ただしその赤ん坊は両腕が無く、二人より一回りも二回りも大きい。なにより、その背からは無数の腕らしきものが翼のように伸びている。
 未知のものへの恐怖と驚きによって少女たちが硬直した瞬間、赤ん坊は見た目に相応しくうそぶいた。
 その声量もまた見た目に相応しい大音響で、また質量を持つかのように二人の身体を弾き飛ばした。
 少女たちの身体はまるで放り投げられたおもちゃのように宙を舞い、二、三、横に縦に回転してからエンドウマメの植えられた畑に落下する。
 よく耕された土は精一杯優しく二人を受け止めたが、衝撃は大きく、また音にやられた耳は立ち上がる力を削いでいた。
『うっ……なにこれ、なんなの……』
 痛みと寒気に打ち震えながらも彼女は懸命に立ち上がろうともがいた。うそぶいた一体とは別に、角の向こうに見えた影の本体と、さらに山に繋がる道からもう一体、同じものがゆらゆらと迫りつつあるのが見えていたからだ。
 なにより、少し離れた場所で震える幼馴染が彼女には気がかりだった。そちらも懸命に立ち上がろうとしているが、彼女同様どうにもならないでいるらしい。
『いま助けたげるから……!』
 むき出しの膝で地をすり、彼女は無理矢理に身体を引き起こした。激しい頭痛と吐き気が襲いかかったが、立ち止まればろくなことにならないだろうことは明らかだった。
『大丈夫? 立てる!?』
『ねえ、あれはなんなの? あんな生き物、見たことないよ』
『そんな場合か! 立って! 逃げるの!』
 手を掴んで引っ張り上げてやると、ヨタつきながらも少女は立ち上がった。
『走れる? 行くよ!』
『うっ、うん……わかった……』
 足元の作物を踏みつけることに若干の罪悪感を覚えながらも、二人はどうにか畑を抜け、駅の方向へ向かって走った。
 どうやらあの奇妙な赤ん坊は、移動速度こそ大したことはないらしい―――
 ほっと安堵の息をついたが、さらなる恐怖が二人に襲いかかった。
 駅に向かうこの辺りでは一番大きな車道を、巨大な泥の塊のようなものが塞いでいる。それはどうやら生き物のようで、規則正しく一部を上下させ、触腕らしき緑の蔦を伸ばしてはあたりを探りまわっている。
 立ち止まった二人の背に、赤ん坊が追いついていた。
 蔦の生い茂る道に『声』によって押しやられ、再び叩きつけられた彼女たちはもう立ち上がることができなかった。
 それは痛みや衝撃もあったが、地を這う触腕が二人の手足を絡め取ったからでもあった。
 恐怖から悲鳴を上げ、もがく二人に三体の赤ん坊がゆっくりと近寄り、その顔と肢体を覗き込んだ。こちらは泥の山と違って呼吸さえもしていないようで、宙を移動する際に背の腕をうごめかす以外にかすかな動きさえ見られない。
『わああぁっ! やめて! やめ……っ! 助けて―――』
 切迫した悲鳴に顔を向けるた彼女が目撃したのは、蔦に身体を固定された少女の腕を持ち上げようと背から腕を伸ばす赤ん坊の姿だった。
 それで蔦から自由になれるのかと思えばそうではなく、少女を掴むどちらもが万力の如く力でもって互いに引っ張りあっているらしい。
 耳に幼馴染の骨が軋む嫌な音が届いた。
『あっ―――』
 次いで少女の驚嘆と、硬い物が折れる音が。
 外れたのか折れたのか、あるいはその両方か。分からないが、なおも引き合う二体の間で腕は信じられないほどよく伸びた。少女の口から漏れる苦悶の声も。
 なんてことを! よくもその子に手を出したな!
 そう叫ぼうとした彼女の両腕にもまた、残りの赤ん坊の腕が伸びていた。
 彼女の中にあったのは痛みと恐怖よりも激しい怒りと悔しさの波濤だった。
 さらに言えば、何故こんな目に遭わなければならないという理不尽への怒りよりも、ただ目の前で幼馴染が傷つけられることへの怒りのほうが勝っている。
 その胸には先にした幼馴染との会話があった。けれど今や、長い目で見ればなどとのんきなことは言っていられない。彼女には今すぐ力が必要だった。
 ふと彼女の傍らに影が落ちた。それは人の形をしているが、奇妙なことに長い髪の半分を瓠花の形に結い、身体は黒い御衣に鎧具足で包み、もう半分をそのまま垂らし、裳裾も長い婦人の衣装をまとった男とも女ともつかない影だった。
 そしてその影は立ち上がると、裾を翻して機敏に動いた。懐中に忍ばせた剣をひと振り、怒りに燃える少女の身体を捕らえる蔦と、今まさに腕を引きちぎらんとする赤ん坊の腕を叩き切った。
 ばらばらと散らばる緑や黒の破片を目にも入れず、影はもう一人の少女のほうへ駆け寄った。
 こちらも一太刀、駆け抜けると同時に切り裂かれる。
 少女は涙で滲む視界を懸命に凝らそうと目をみはったが、捉えられたのは顔を真っ青にして駆け寄る幼馴染の顔だけだった。
『大丈夫!?』
 奇妙なことはまだ続いた。千切れかけた腕に彼女が触れると、影の女のほうもまた優しくそこを撫でさする。すると、折れ曲がった骨も千切れた肉も元の通りに戻ってしまった。
 たちどころに消えた痛みに目を白黒させながら、少女は勢いよく飛び起きる。体中を包んでいた疲労感も、すっかりどこかへいってしまっていた。
『いったいなにが―――』
 起きているのかと問おうとした彼女の背後で、蔦の本体、巨大な泥の塊が立ち上がった。
 天を覆うほどの巨体からは、ぼたぼたとその身を形成する泥が落ちてくる。幸いなのは、どうやら泥はただの泥で、においや異常がないことだろうか。
 立ち上がるのと同時に天を突かん勢いで振り上げられた腕が地に叩きつけられる。
 彼女は咄嗟に少女を抱えて脇に飛び、影を操って腕に飛び乗らせていた。
 影は剽悍だった。太い腕を階代わりに駆け上がると、三度剣を振るって泥の首を撥ね飛ばした。
 大地を震わす断末魔の絶叫が響き、泥の身体が崩れると、辺りには再び静寂が取り戻された。
『はっ、はっ、はあっ、ケガはもう、他に、ない?』
『う、うん。私は平気だよ。でもそっちは……』
 平気だと幼馴染の心配そうな視線をはね退けて、彼女は垂れ落ちる汗を袖で拭った。
 そこへ戻った影は、まだ油断なく剣を構えて山のほうを睨んでいる。
 ふり返った二人はそこからやってくるなにか黒くて、不定形な五つのもやのようなものを目撃する。
 得体は知れないが、これもまた、このタイミングだ。ろくなものではないことは明らかだった。
『アンタだけで逃げて』
『でも』
『早く! 出来る限り足止めするから、だから……』
 縋りつこうとする幼馴染を肘で押して、彼女は影とともに走り出した。すると、もやのほうも速度を増して迫ってくる。
 残された少女は震えながら迷っていた。
 言われた通り逃げたほうがいいのか、それとも立ち止まって勇敢な友を応援したほうがいいのか。
 あるいは自分も、鞄に石でも詰めて加勢したほうがいいのか―――
 できることがないのであれば、彼女の気が散らされないよう逃げるのが良いだろう。彼女のほうがあのもやより余程強ければ、応援してやったほうがもっと力が出るはずだ。
 自分にも彼女がしたような真似ができるのなら……
 拳を握り、いずれかに意志を固めようとした少女の背後に六つめのもやが佇んでいた。
 それは年老いた老人のような、まだ溌剌とした若者のような声で囁いた。
『友を置いて逃げるのか? なんたる不実。なんたる―――』
 ふり返った少女は、たたらを踏んで短い悲鳴を上げた。
『道徳の喪失はこのようなところにも―――』
『ちがう、私はただ逃げるんじゃなくて』
 ただ彼女の役に立ちたいだけだと、足を引っ張りたくないのだと訴えようとした震え声に、前方で五つのもやをせき止めていた少女はふり返った。
! なにしてんの!』
 焦りの滲んだ声色はともすれば苛立っているようにも聞こえた。
 目の前にも後ろにも退けず、進めず、少女は迷った挙げ句に助けを求めて彼女のほうへ顔を向けた。
 けれどそこにあったのは黒いもやに上半身を呑み込まれ、細い脚をバタつかせる幼馴染の姿だけだった。
 少女は力を失ってその場にへたり込んでしまう。もはや打つ手も、打つ気も失くして、ただ茫然とするほかになにかをしようとする気力は失われていた。
 そこへ、彼女を呑み込んだ五つのもやが合流する。
 抜け殻同然となった少女の頭上に車座になって、もやたちはあれこれと語り合い始めた。
『まずは一つ』
『障害は消えたぞ』
『次なるはすでに牢の中に居るという』
『であればもはや捕えたも同じこと』
『あとは器じゃ』
『必要なぶんを喰らわせる器じゃ』
『ならちょうどいい。この娘にやらせよう』
『ああちょうどいい』
『ちょうどいいな』
『いいな』
 もやたちはゆっくりと高度を下げると、少女を中心に時計回りに回り始めた。
『娘よ。聞け』
『お前の友はわしらが喰った』
『しかしまだ死んではおらん』
『返してほしいか?』
『まだ必要か?』
 少女は、目に涙を浮かべてもやたちの足元に跪いた。
『返して! 返してください! 紬はどこに行ったの!? どうなったの!? お願いします、返して……!』
 もやたちは回転を止め、その場でゆらゆらと縦に震えた。笑っているのかもしれない。
『あの娘を返してほしくば試練を乗り越えよ』
『六つじゃ』
『五つでも七つでもない』
『器を満たしわしらの座へこい』
『さすればあの娘のもとへ導こう』
『どれ約束の印をやろうな』
 もやたちから一本ずつ糸のようなものが伸びて、少女の顔を撫でた。冷たい感触に歯を食いしばりながらも、少女はただ黙ってこれを受け入れた。
 やがてそれは彼女の顔をすっかり覆い、もう一つの顔として現れる。
 するともやたちは再び、ゆらゆらと縦に震えた。
『似合ておる』
『おう似合ておる』
『いいぞいいぞ』
 囃し立てるように次々言い、続けてさらに彼女へ申し付けた。
『そのうちおまえを阻む者たちが現れるだろう』
『やつらは言葉たくみにおまえを誘惑するだろう』
『心を預けてはならぬ』
『奴らははじめこそおまえに手を差し伸べるだ』
『しかしやがておまえを殺そうとする』
『なぜならそれこそが―――』

……

……