12:Now For the Second Time

 そのようにしては怪盗団に迎え入れられることと相成った。立場としては客員怪盗というところにでもなるのだろう。
 それでなにか変化があるのかと言われれば―――
「……なぜだ?」
 喜多川は怒りと失望の中間のような表情で虚空を睨みつけていた。ただ空間だけが存在している場所を。
 そしてなにも無いからこそ喜多川には問題だった。
 濃い影の落ちるそこはなんの変哲もない五階建てのマンションの裏手だ。北向きで窓はなく、人気もない。
 ほんの十日ほど前この場所でを捕獲したのは記憶に新しい。それ以後彼は忠犬のように彼女の帰り道の護衛を務めてきたが、実のところこれは監視の意味合いが強く、彼は密かにの人となりと動向の観察を行っていた。
 けれど今となってはただ彼女の身を慮ってのことだ。
 だというのに、そこにはなにも無い。
 校内から一緒になって帰るのは嫌だと切実に訴えたの意向に従い、この場所を待ち合わせに指定してこれまで問題なく過ごせていたというのに。
 先に教室を出た後ろ姿は確かに記憶しているから、まだ到着していないということはないだろう。寄り道も考えられるが、それならば彼女の性格上、一言あってもいいはずだ。
 もしやなにかイレギュラーがあって一人異界へ迷い込んでしまったのか。
 それもまたあり得ない話だと喜多川は眉をひそめる。
 すでに異界へ進入する条件は判明しているし、出入りを自由に行えるアプリさえ作り出された。迷い込んでしまったのなら、それを利用して出ればいいだけの話だ。
 もしかしたら出る前になにかがあったのだろうか。
 悪い想像に胸がざわつくが、同時に彼はふと蘇った記憶にますます眉を寄せ、眉間のしわを深くする。
 この日の日中、喜多川は幾度かに声をかけようと接触を図った。大した用事でも、難しいことでもない。席は離れているがクラスメイトだ、少し歩いて名を呼ぶだけでいい。
 だというのに彼はここに至るまで一言たりとて声を交わすことが叶わなかった。
 何故ならが喜多川の存在を視認するなり教室を飛び出したり、廊下の角を曲がって走り去ったりしたからだ。
 今日の彼女はこの少年を避け、必要以上の距離を置こうと動いていた節がある。
 つまり、待ち合わせをすっぽかされたというわけだ。彼にしてはじめての経験だった。
「……なぜだ?」
 再びつぶやかれた声に答えたのは通り過ぎた冷たい冬の風だけだった。

 同じころ、はエアコンが吐き出す空気にぬくぬくと暖められていた。その身体には椅子から伸びたベルトが巻かれ、尻の下にはクッションのきいた座面がある。
 彼女は車の助手席に座って、車道を走行している最中だった。
 隣の運転席でハンドルを握っているのはマスクをした男だ。これに関して彼は「ひどい花粉症で、少しでも飛び始めると鼻が垂れてしまう」と笑いながら訴えた。
 がこの名前も知らない男に声をかけられたのはほんの十分前のことだった。
 罪悪感を覚えながらも諸事情から喜多川を置き去りに、一人いつもと違う帰宅ルートを歩いていた彼女は、車通りも少ない車道のそばでクラクションを鳴らされて立ち止まった。
 ふり返った彼女のそばにゆっくりと停車したのは白のサブコンパクトカーだった。は首を傾げながらも立ち止まり、何事かと相手の反応を窺った。
 すると助手席側の窓が開き、運転席の男が身を乗り出しながら彼女に声をかけた。
 ―――道を訪ねたい。
 普通ならこの時点で、あるいは停車した時点で不信感を抱いて立ち去るだろうが、は少しの逡巡の後留まった。
 もしかしたら都会ではよくあることなのかもしれない。
 そう思って耳を傾けた彼女は男が告げた行き先を―――未だ不慣れな土地であるにも関わらず―――知っていた。
 口頭でそこへの行き方を教えてやるが、しかし男は困り顔を返すばかりだった。このあたりは一方通行や車両進入禁止の道が多く、口頭での案内だけでは辿り着けそうにないと。
 じゃあマップアプリやナビゲーションアプリを頼ればいいじゃないか。彼女は懇切丁寧にそう申し出たが、男は車にナビを取り付けていないこと、またスマートフォンを忘れてきてしまったことを悲しげに告げた。
 流石のもこれには怪しさを覚えたが、だからこそ行き先に早くたどり着きたいのだと、もしかしたら仕事を失ってしまうかもと必死な様子で訴えられると、なんということか、この善人は懇願に折れてめでたく助手席に収まってしまった。
 かくして車は走り出し、はスマートフォンを片手に彼に次の交差点を右に行って直進だとか教えてやっている。
「キミ、その制服、洸星高校?」
 前方を見つめたままのマスクの男が問いかけた。
「はい」
「ふうん、実は俺、そこの卒業生でさ。何年生?」
「二年です。あれ、今の角を右折ですよ」
「あ、うっかりしてたよ」
 ごめんごめんと申し訳なさなど微塵もなさそうに応えて、男はブレーキを踏んだ。ちょうど目の前の信号が赤に変ったところだった。
 あれ? やっぱりこれってやばいんじゃないの?
 少女の背に嫌な汗がにじみ始め、車内には息苦しい沈黙が訪れた。
 今なら、車も停まっている。シートベルトを外してドアから飛び出せば、逃げられるだろう。
 ―――だけど、本当にただ困っているだけの人だったら? 突然の不審な行動で驚かせるだろうし、己が疑ってかかったことで彼を傷つけるかもしれない。
 いやでも。だけど。だがしかし。
 前方の歩行者用信号に取り付けられたカウントダウン式タイマーは、迷っているうちにどんどんと残りを減らしていった。
 はふとひどく悲しくなって唇を噛む。
 ―――こういうとき、紬がいてくれたらなぁ。そうしたら、どちらにするかをバシッと決めてくれるか、そもそも車に乗るかどうかの段階で、なにか口出ししてくれたに違いない。
 そう考えてしまったが故の悲しみだった。
 カウントダウンはもう残り三つだ。目の前の横断歩道を、一人の少年が大股で横切っている。
 沈黙と消沈を切り裂いて着信音が鳴り響いた。車内の二人は揃って肩を震わせ、顔を見合わせるが、やがて音の発信源がの鞄からと気がつくと彼女は慌ててそれを手に取った。
 着信者の名前を見ては顔を引きつらせた。しかし、出ないわけにはいかないだろう。一言謝罪をして、それですぐに切ってしまえばいい。
「す、すみません。あの、友だちから」
 男もまたマスクの下の顔を引きつらせた。ハンドルから手を離し、彼女を止めようと腕を伸ばすが、それはわずかに間に合わない。
「もしもし―――」
『その男は』
 挨拶もなしに受話口から飛び出したのは地の底から鳴り響いてきたような、低く怒りに満ちた声だった。
 反射的に背筋を伸ばしたに、彼は詰問する。
『君の、知り合いかなにかか』
「えっいや、違うけど。え? なんで……」
『そうか』
 それきりプツと通話は切れ、ツーツーというビジートーンが虚しく響くのみとなる。
 は、いったいなんだったんだと首を傾げる。
 そして彼女は喉を引きつらせて悲鳴じみた声をあげた。それは運転席の男も同等だった。
 目の前を横切ろうとしていた少年がやおら車道に踏み入り、こちらへ近寄ったかと思うとバンと強い音を立ててボンネットを叩いたのだ。
 それは一般的に評して整っていると表していい貌の少年だった。長い前髪から覗く切れ長の瞳は冷ややかな怒りに満ち、射殺さんばかりに―――助手席のほうを睨みつけている。
 唐突な登場は彼の容貌が整っているだけに却って不気味さを増していた。
 震え上がって青ざめたを睨みつけたまま彼は言う。
「降りろ」
「へっ」
「降りろ」
「い、いや、でも」
「降りろ」
「は……はい……」
 三度同じ言葉を繰り返されて、は鶏のように頭を振ってシートベルトを外し、ドアノブ手をかける。
 しかし押せども引けどもドアは開かなかった。どうやらロックがかかっているらしい。
 困り顔を運転席の男に向けると、彼は気まずそうにハンドルを睨んでいた。
「あの、すみませんが……」
 開けて下さい。と言う前に再び少年の手がボンネットを叩いた。ピカピカに磨かれたそこにはもはやべったりと手形が二つ付いてしまっている。
 信号はとっくに青に変わっていた。背後の後続車からクラクションが鳴らされっぱなしだ。
「通報されたいのか。彼女を降ろせ」
 それにもかき消せない声には、地獄の底から響いたってこんな恐ろしくはあるまいと思わせるような得体の知れない迫力があった。
 運転席の男は面倒を悟ったのか、すぐにロックを外すと舌打ちでを車外へ押し出した。
 すると少年は直ちにの首根っこを押さえ、いささか乱暴に歩道へ放り投げる。
「うわっ、なにする―――」
 あまりの扱いに不服を訴えようとするが、それは他でもない彼の舌打ちにかき消された。
「くそ、いらん知恵の回るやつだ」
 その視線の先には走り去ろうとする車の尻、黒いカバーの掛けられたナンバープレートがある。
 あ、やっぱりやばいやつだったのか。
 答え合わせにスッキリとした気持ちになって顔を緩ませるにも彼は舌打ちをくれた。
 の彼に対する評価はこうだ。尊大な自信家だが、礼儀正しさも持ち合わせているちょっと変わったクラスメイト。
 しかしその少年は今、明らかな怒りによって顔を般若のように歪め、侮蔑さえ孕んだ目つきで彼女を見下ろしている。
「や、やあ喜多川くん、奇遇だね。こんなところで会うなんて……」
 なんとか取り繕おうと挨拶からはじめてみるが、彼はぎこちないそれを無視して一歩前へ踏み出した。
「俺の先生は」
「え?」
「悪党だったが、だからこそと言うべきか……躾に厳しい人だった」
 また一歩。は得体の知れない恐怖を覚えてすり足でその影から逃れ出ようと足掻いた。
「箸の持ち方からはじまって、靴はきちんと揃えろだとか、猫背になるなとか、言葉遣いに気をつけろ、上座だ下座だ……うんざりするようなことを、絵の描き方以外にいろいろ厳しく仕込まれたものだ」
「そうなんだ。それは、不幸中の幸い、だね?」
 この少年がなに故そんな話をし出したのか理解できず、またその着地点が把握できずに目を白黒とさせてじりじりと後退る。
 その分彼は前に出た。
「ああ、幸いだ。極悪人ではあったが、それだけではなかった。そう、だから―――」
 少年は拳を握り込んだ。その額には青筋が浮かんでいる。
「女を殴るのは人生で初めての経験だ。覚悟はいいか」
「暴力反対!」
 両手を上げて訴えたが聞き入れられることはなく、拳は無慈悲にのつむじに垂直に落とされた。
「あいたっ!」
 とはいえ全力には到底及ばない、年長者が弟や妹を叱るようなちょっと痛い『げんこつ』だ。
 喜多川は深く、重く、長いため息をつくといっぺんに脱力して、壁際にまで追い詰められたの隣、降ろされたままのシャッターに肩で寄りかかった。その顔は相変わらず苦渋に満ちたままだ。
「君は……君はなんなんだ? 馬鹿なのか? それとも純真なつもりか? 普通あんな怪しい輩について行こうとするか?」
「いやその、私だって怪しいとは……」
 思ったんだ、と続くはずの言葉を、喜多川は遮って叱りつける。
「思った時点で離れればいい! そもそもなぜついて行こうとした!」
「み、道が分からないから、助手席で案内をと言われて、それで……」
 事の次第を事細かに、洗いざらい白状させて、喜多川は信じられないと前髪を掻きむしってその場で大きく震えだした。
 ―――今どきそんな手に引っかかるような阿呆がまだ存在していたなんて! 絶滅危惧種として保存すべきじゃないのか!?―――
 ただならぬ彼の様子にはしょんぼりと項垂れる。
「都会じゃこうなのかと」
「そんなわけがあるか。君はよく今まで無事だったな」
 地元でもそうだったのかと呆れ返った様子で尋ねられて、彼女はますます縮こまった。
「昔は、紬がいたころは、ああいうの、あの子が全部相手してくれていたから、私が……そういう判断を下すことはなかったんだ」
 飛び出した名に、喜多川は一旦怒りを納めようと乱れた前髪を整えて彼女に向き直った。
「立花さんとは高校に入ってからは離れていたんだろう。その間はどうしていたんだ?」
「地元じゃああいうのに遭遇したことはなかった。あっても盗撮とか、見せつけてくるタイプのやつくらいで……」
「それも立派な犯罪だな。はあ……」
「ため息はやめて……反省してます……」
 怒りが完全に納まったわけではないが、しかしそれとは別に反省なんてする必要はないと喜多川は思う。
 彼女の行いの根底にあるのは善意だ。道がわからなくて困っている、もしかしたらそれで仕事を失ってしまうかもしれないと訴えられて、同情から己にできるだけのことをしようとした。
 それを考えなしと非難するのも、自己防衛もできない馬鹿だと罵るのも人の自由だ。
 けれど本当に悪いのはその小さく尊い善意を利用して拐かそうとした男のほうで、彼女に責められる謂れがあるかどうかは疑問が残る。ただし、喜多川が捕まえて叱りつけていなければ、きっと今ごろ彼女は『げんこつ』よりひどい目にあっていたこともまた確かだ。
 ただ喜多川としては、必要以上に萎縮させて彼女の底に芽吹く善意を踏み潰したくないだけだ。
 まだ互いの正体も知れなかったころ、彼女は高巻や喜多川の言動に感化され、少しくらいの無茶ならばと傷つくことを厭わず走り出した。
 それがこの小さな芽から生じたものと理解しているからこそ、なんとか保ってやりたいと思う。
 とはいえ身の危険への対処は別問題だ。血の巡りは決して悪くないはずと見ていたが、どう諭すべきか。
 そのように彼が思い悩んでいると、は再び幼馴染の名を口にした。
「紬はね」
 喜多川は、俯いてまだ新しいはずなのに傷だらけの靴と見つめあう彼女の、どこか寂しげな声に耳を傾けた。
「紬は私の王子さまだったんだよ」
「は?」
 しかしそこから飛び出したなんだかメルヘンチックで乙女趣味な単語に怪訝な顔をしてしまう。まったくの不意打ちだった。
 はいかにも不満げな顔を上げて彼を睨みつけた。
「笑わないで」
「笑っていないが」
 確かに喜多川はにこりともしていない。ただ先ののように、話の意図と終着点がわからず目を白黒とさせるばかりだ。
 その彼女だって己の発言が少し、だいぶ、かなり恥ずかしいものだと理解しているのだろう。照れたように前髪をいじりながら足先を落ち着きなく揺らしている。
「だ、だって、私が困っていたり、男の子に意地悪されていたりすると、すぐに飛んできて助けてくれたんだ。子どものころからずっとそうだった。ほら、王子さまでしょ」
「そういうものなのか」
 理解できるような、できないような。曖昧な返事をするに留めて、喜多川は話の結論を待った。
「中学を卒業する半年前くらいにかな、紬から引っ越すって聞かされた。すっごく泣いたよ。この世に独りで取り残されるってくらい絶望した」
「大げさ過ぎないか? 今生の別れでもあるまいに」
「それは紬にも言われたよ」
 ―――別に死に別れるわけでもないんだから、あんまり大げさにしないでよ。
 言葉は少し違ったが、淡々とした様子はの記憶の中の立花とそっくりだった。
 そのようにふて腐れた様子を見せるに、喜多川はやっと口元を緩ませる。なにも怒りが納まったというわけではなく、ただ彼女の語る立花紬という少女に、クラスメイトだったはずの彼女に、初めて親近感や身近さを覚えたというだけだ。
 そしてそのことにこそ彼は必要もないのにいたたまれなさも覚える。なんだか己がひどく薄情な人間になったような気になったのだ。
「……それで? 立花さんにそう言われて、君はどうしたんだ?」
 喜多川は己の中に芽生えた後ろ向きな感情を悟られまいと話の続きを促した。
 彼女は頷いて、まだどこか照れくさそうに己の至らなさを恥じるように不明瞭な発音で言う。
「それで、私も一念発起というわけだ。親離れならぬ紬離れをしようと思って、高校に入ってからは新しい友だちを作ったり、いろいろ頑張ったんだよ。これでも」
「成果はなさそうだな」
 喜多川はいかにも皮肉っぽく笑ってやった。どうやら彼女のほうにもその自覚がありそうだとして。
 果たしてもまた苦みばしった笑みを浮かべて肩をすくめる。
「まあね。君の申し出も断れなかったくらいだ」
「俺の?」
「寮まで送るって話」
「ああ……ああー……? 断る気だったのか? なぜだ? あっ! そうだ、なぜ君は待ち合わせに来なかった? おかげでずいぶん走り回る羽目になったじゃないか!」
 忘れていた怒りがぶり返したのか、喜多川は再び髪を逆立てんばかりの心火に燃えて少女を睨んだ。
 しかし今度は、も冷ややかな視線を返す。
「知らないんだね」
「なにをだ?」
「噂」
「どんな」
 は弱りきった様子で天を仰いだ。空は茜色に染まっていたが、すぐそばの通りには人と車が行き交っている。
 その瞳は心の底から言いたくないと訴えていたが、喜多川はそれを許さなかった。
 ついに折れた彼女は頬をわずかに赤く染めながら絞り出すようにして応えてやる。
「き、君と私が……付き合っていると噂になっているんだ」
「どうしてそうなる?」
 喜多川は当然のことのように眉をひそめて首を傾げた。
 今度はが前髪を掻きむしって身悶える番だった。
「だから……! あのさ、君、私のことを追いかけただろう? ほら、先々週。月曜日だ」
 忘れもしないと恨みがましげな調子で訴えるが、喜多川は平然としている。
「ああ。だがあれは君と話をするために……」
「わかってる。けどね、その前も一日中私を観察していたね」
「それは君が逃げるよう追い込めと言われていたんだ」
 それもわかっていると、は頷いて返す。
「極めつけに翌日からの護送だ。皆言っているよ。君が私を追いかけて盛大な愛の告白をしたとね」
「そんなことをした覚えはないが?」
「私もされた覚えはないよ」
「なぜそんな話になるんだ?」
「皆そういう話が好きなんだよ」
「あー……?」
 わからない、と喜多川はついに困り顔さえ浮かべてしまう。
 ゴシップの類が人々の心を惹き付けるものであることは彼にも解る。安全かつ身近な存在の醜聞はさながら映画や漫画のように刺激的で、かつ手軽でリスクやコストのない娯楽になり得る。
 しかしそこにはやはり一定以上の真実が含まれてこそだろう。
 だからこそ解らない。自分たちは幾度か死線をともに乗り越えこそすれど、恋慕も性愛も互いに抱いてはいないではないか。
「なぜそうなる?」
 再び問うた喜多川に、は深々ため息をついた。
「私だって知らないよ。とにかく、そんなの君にだって迷惑だろう? だから一人で帰ろうと思ったのに……」
 うんざりだと言わんばかりに吐き出されて、喜多川はむっと眉を寄せた。迷惑だと思われていることはさておき、それに対する彼女の行動に対する怒りだった。
「それならそうと伝えてくれればよかったんだ。君には目も口も指も揃っている、なんらかの手段で俺に相談してくれれば……」
 は、言葉を遮らんばかりの剣呑さを湛えた目つきで彼を睨みつけた。
「言いたくなかったんだ! そこを、解ってもらえないかな……!」
 静かで、重く、粘ついた怒りの籠められた声と眼差しに、さしもの喜多川も一歩後退った。地雷を踏んだらしいが、しかし彼にはそれがなんなのかは解らない。
 ―――俺たちは友人で仲間なんだから、なんだって相談してくれれば力になるのに。
 そう言おうとして、彼は一度口を閉ざした。なんとなくこれを伝えると余計に話が拗れるように感じたのだ。第六感とでも呼ぶべき直感が彼を救った。
 それに今は、何故連絡や相談、報告を怠ったのかということよりも、今後の動向について検討することを優先すべきだろう。
「あー……君の主張は解った。おそらくだが。それで、こちらの主張をさせてもらうが、気にしなければいい。今日のようなことが無くとも異界の件がある以上、君を一人にするわけにはいかない」
「アプリがあるじゃないか。もう出入り自在だよ」
 反論は素早かったが、それは喜多川を納得させるほどのものではなかった。首はすぐに左右に振られた。
「万が一ということもある。入ってすぐに化け物の姿が見えたこともあったろう」
「それくらい、一人ででもなんとかできるさ」
 理屈は知れないが身体機能の強化に、今や吸収した神格の力もある。支払いは大きいが、確かに彼女ならば異界をうろつく化け物など大した脅威ではないだろう。
 ただし、それは相手が一体や二体ならばの話だ。
 すでに二度、彼らははっきりとした知性と自我を宿した存在と巡り合っている。そしてどちらもが彼女に対しては友好的とは言えなかった。あのような存在が今後罠を仕掛けてこないとは決して言い切れない。
 ……と、喜多川は優しくて厳しい女王陛下から仰せ付けられている。
「では、君から真にそうと伝えてくれ」
「うっ」
 もちろん自身も、軽率な行動は以後可能な限り控えてくれと熱心に説かれたから、安易にわかったとは応えられない。なによりこんな個人的かつ感情に由来する事情によってあの女王陛下を困らせるのは気が引ける。
 いよいよ言い返す言葉を失っては渋面を浮かべた。
 喜多川には決して理解できないが、その根底にあるのは恥じらいだ。
 小中は同性の幼馴染にべったりで、先ごろまで通っていたのは女子校だった。そんな彼女は今日に至るまで異性との関係を噂されたことはない。
 つまり彼女はこの少年をどう取り扱っていいのか解らなくて困っているわけだ。
 それは怪盗団の面々にしても同じことだが―――
 性格は物静かで内向きな傾向にあって、たいていは自己の中にあるなにかと静かに向かい合い、対話することを楽しんでいる。いたずらに触れなければ一人ででも勝手に満足してくれる。ただし、隙を見せると反応しづらいボケをかますし、なにかに夢中になるとところ構わず奇行に走る。そのスイッチがどこにあるかは、誰にも解らない。誰かあいつの取扱説明書を用意してくれと、仲間たちは常々そう思っていた。
 それを新参者にうまく使えと言うほうが土台無理な話だろう。
 とはいえ喜多川の目的はこの新参者を言い負かすことではない。彼がボンネットを二度も叩いたのは建設的な議論のためだ。
「では、君が俺の随行によって居心地の悪い思いをせず済むよう、その対策を講じようじゃないか」
 その脚は道を前に進むために動き出している。この場合の目的地は二人のねぐらだ。
 はその後を追い、横に並んでゆるく首を左右に振った。
「君が黙って見逃してくれれば一瞬で終わるよ」
「それはナシだ。露見した場合のリスクが双方ともに大きすぎる。君が噂を気にしないというのはどうだ?」
「無理だ。女子からの好奇の目線が痛くて怖い。一部男子と先生からも」
「なぜそんなことに」
「さあね。鏡を見れば」
 そっけなく返されて、喜多川は通りがかった店先のガラスを覗き込んだ。見慣れた己の顔には、疑問符が貼り付けられている。
 はそんな彼を一瞥して、今度ははっきりと大きなため息をつく。
 実際のところ、彼女が問題視しているのは噂とそれによって呼び起こされる憶測や好奇心、妬みや嫉みであって、喜多川自身ではない。
 これら風聞の恐ろしさを、はよく理解しているつもりでいる。
 勝手気ままな想像から生じる優越感は麻薬と同じだ。病みつきになっていることにさえ気がつかぬまま多くの人は乱用に耽っている。
 じゃ、そう考える私はその多数に含まれていないの?
 湧き上がった疑問にギクリとしつつ、ふり払おうとかぶりを振る。すると幸運なことに閃きが彼女の中に訪れた。
「そ―――そうだ! 一緒にいても不自然にならない理由を作ろう」
「ほう?」
 今日初めて耳にする明るい声色に、喜多川は楽しげにふり返った。
「例えば、そうだな……私と君はいとこというのはどうかな」
「そうだったのか!?」
「いや知らないけど。別に実際そうである必要はないよ。そういう設定さ」
 つまりね、と前置いて、は拳を握った。
「こういう作り話を広めるんだ。私たちの両親は不仲で、私と喜多川くんの間にもその影響によるわだかまりがあった。だけど君の説得によって私たちは親類としての友情を取り戻した……というようなね」
「なるほど。皆の関心を俺たち二人のみにではなく、家族や一族といった集団に移行させるというわけか」
「ああ。家の問題なら皆も迂闊に踏み込めはしないだろうし、妙な誤解も晴れるだろう?」
 ぽんと手を打って合点してみせた喜多川に、はますます熱心に頭を働かせる。
 両親の都合―――急な転校も併せて考えれば金銭トラブルが相応しいだろう。私の親が喜多川くんのご両親から金を借りるも、その返済のゴタゴタがあって……
 頭の中でまとまりつつあるストーリーに一人満足げに頷いて、は喜多川を仰ぎ見た。
「うん、よし、私の父と君のお父さんが兄弟ということにしよう」
「あ、それは無理だ」
「へっ……?」
 しかし、出来上がったものは披露する前に相方によって打ち壊されてしまった。
 彼は平坦な様子でそのわけを教えてやる。
「俺は父の顔も名前も知らん。今どこにいるのか、生きているのかも。この事実はおそらく、すべての者にとは言わないが、校内には知れ渡っているだろうな」
 は丸くした目を幾度も瞬かせて握っていた拳を開き、そろそろと下におろした。
「え、あ……あー……そうか。そうなんだ。ごめん、知らなかったんだ」
「それはそうだろう。俺も話した覚えはない」
 わざわざ吹聴して回ることでもないと語る喜多川の様子は本当にいつも通りだ。
 は一方的な気まずさを振り払うようにことさら明るい声を出す―――
「じゃあ、君のお母さんと私の母が姉妹ということにして」
「それも無理だ」
 再び打ち壊されて凍りついた。
 その胸には悪い予感がむくむくと膨らんでいる。
 そういえばと彼女は思う。彼は以前、例の師匠とやらの下粗末な家で暮らしていたと聞かされた。けれど彼はその師が己の罪を認め、在宅捜査を受ける身となってからも『自宅』には帰らず寮生活を選択している。
 はそれを実家が遠く離れているとか、転校先が見つからないとか、そういう理由だろうとあたりをつけていたが、しかしここに至ってそれは間違いかもしれないと思い始めている。
 喜多川はそれを確信に置き換えた。
「俺の母はすでに他界している」
 彼の言葉はの想像よりもさらに悪いものだった。彼女の中では、せいぜい父親と同じく顔も名前も知らない、なにかこう、生まれたばかりに失踪したとか、孤児院の前に置き去りにされた―――それも充分過ぎるほど手ひどい仕打ちだが―――程度だろうと高をくくっていただけに、衝撃は大きかった。
「うう……」
 呻いてたたらを踏んだ彼女にさらなる追い打ちがかけられる。
「その母も今の俺と同じような境遇だったと聞かされている。俺に親類縁者が存在しているかは甚だ疑問だな」
 大したことでもなさそうに身の上を明らかにする少年には打ちのめされた。
 その胸には早々と罪悪感が芽生え、大きく成長しつつある。
「……それは、知らなかったとはいえ、無神経なことを言ったね。ごめんなさい。いい考えだと思ったんだ。君を傷つけるつもりは……」
 声は上ずっていた。そのように己の失態に恥じ入り苦々しく思う彼女に対し、喜多川はやはり淡々としたものだ。
 むしろ彼女がなぜ項垂れるのかを一瞬理解できず、首を傾げさえする。
「ん? ああ、気にしていない。というか、知っていると思っていたが」
「さすがにそんな……君の極めて個人的な情報を軽々しく聞かせてくるような人はいなかったよ。これはいいことだね。だけど、あー、その……」
「二度言わせる気か? 気にしていない」
 はそろそろと顔を上げて喜多川の表情を盗み見た。
 彼女を見下ろす眼差しには、確かに傷ついた様子も悲しむ色も見当たらない。それはなにも父親の不在や母の死をなんとも思っていないという意味ではないのだろう。
 何故なら瞳の奥には強い光がある。それは一つの苦難を乗り越えた証だ。
 はそれにほっと息をついた―――そうか、彼にはそれくらいなんてことないと思えるなんらかのきっかけがあったんだろう―――
 それならば同情や意味のない共感に憐れみは侮辱も同然だ。
 背すじを伸ばした少女は彼に向き直った。
「わかった」
 いつも通りに短く応えた彼女に、喜多川は目尻を下げた。
 いい加減、彼女のこの言葉足らずな理解力のよさにも慣れてきている。出てくる言葉が短いだけで、頭の中では一瞬の間に様々なものが巡っているのだろうことも、彼はすっかり解っていた。
「理解してもらえて助かる。ただまあ、君の作戦は前提から崩れたわけだが……」
「あー、うん。そうだね」
 乾いた笑いを漏らして歩みを再開させた少女は、困りきった様子で頭をかいている。
 そのつむじを横目で窺いながら、喜多川は顎をさすった。
 彼の主張は初めから一つだ。気にするな、ほっとけ。これに尽きる。けれど彼女はそれこそが不可能だと言う。
 であれば、さて。喜多川は頭をひねって妙案を探った。
「……発想の転換、あるいはコペルニクス的転回だ」
「エウレカ? どんな?」
「噂自体を無効にすればいい」
 先に彼女が対抗神話めいたストーリーを広めてはと提案したように、喜多川もまた、すでに流布された噂に少し手を加えようと目論んでいる。
 は瞳をきらめかせてまた拳を握った。
「そんな方法があるの? どうやって?」
 彼は得意満面に応えた。
「皆が好き勝手な憶測を立てるのは真実が明らかになっていないからだろう? ならば偽の情報によって確定させてしまえばいいだけだ。俺たちは恋人同士だと公言してしまえばいい―――」
「わけないだろう」
 返されたのは白けた空気だけだった。
 もはや幾度目かも分からないため息がの唇からこぼれ落ちる。目の前の友人が問題の根底にあるものをまったく理解してくれていないと、彼女もようやく察したらしい。
 事実彼は不思議そうな表情を見せている。
「名案だと思ったんだが……」
「どこが? どのへんが? 絶対にやらないでよ。絶対だからね?」
「それはやれという意味―――」
「フリじゃない。やらないで」
「はい」
 素直な返事ではあったが、先の言葉の突拍子のなさに対する呆れと怒りはまだ納まらない。アスファルトを踏みしめる少女の脚には力が籠もっていた。
「だいたい訊かれてもいないのに付き合ってますって宣伝するのはどうなのかな。事実だとしても恥ずかしい行いに思える……いやこの場合は嘘なんだけど」
「そうか?」
「そうだよ。ごく親しい相手に伝えるのならともかく、誰も彼もといちいち言って回る気だったの?」
「ふむ……それは手間だな。互いをそれらしく呼び合ってみるというのは?」
 胡乱な眼差しが喜多川に差し向けられた。彼の言い様では、まだこのくだらない作戦を行おうとしているように思えたからだ。
「なんて? 君を人前でハニーとでも呼べばいいかな?」
 ばかばかしい。フンと鼻を鳴らしたではあったが、喜多川はそんな状況を想像したのだろう。勢いよく吹き出して肩を震わせ始める。
「ぷっ、ふふ、笑えるな。君が俺を? ふふふっ、で、ではなんだ、俺は君をダーリンとでも呼ぶのか? ぶはっ、あはは……!」
 いよいよ声を大に笑い出す彼に、もまた声を大きくして怒鳴り散らす。
「自分で提案しておいて! やらないから! 君もやろうとしないでよ!!」
「すまん……ふっ、はは! 駄目だ、ツボに入った……!」
「笑い過ぎだよ!!」
 ローファーの踵が勢いよくアスファルトを踏み鳴らしたが、喜多川の笑いはしばらく収まらなかった。
「はあはあ……では、ふう、この案も駄目か」
「根本的な問題の解決になっていないからね。まったく……」
 ツンと顔をそらした少女の横顔は高い建物から落とされる影に半ば隠されてしまっている。
 もう夕陽は地平線に着くころだろう。彼らが進む路地からその様子は確認できなかったが、茜色から深く暗い藍色に変化する空が夕暮れの終わりを教えている。
 もうそろそろ、人通りの多い場所を歩いても平気そうだ。
 しからば議論もここらで打ち切りと、喜多川は彼女に勝ち誇った笑みを向けた。
「解決に関しては一番はじめに提示した。ほうっておけばいい。そんな事実はないのだからな。それとも君は困るようなことがあるのか?」
 問いかけには冷えた指先をすり合わせ、視線をあちこちにさまよわせた。
「困るというか……確かに、今のところ実害はないけど」
「なら言わせておけ。人の噂はすぐに消える」
「そうかなぁ……」
 進退窮まったか。少女は弱りきった様子で顔を俯けた。
「君は人の言うことが気にならないの?」
 対する少年はいつも通りだ。彼女の問いかけ通り、他者の言うことに一欠片の関心を払わず、傲慢ささえ感じさせるほど泰然としているように見える。
 その心中をに察せる術はない。
 そのため彼は伝えようとして口を開いた。
「本当にまったく気にしていないと思うのか?」
 ちょっと拗ねたように告げられた言葉には顔を上げた。
 すると尊大な自信家で、礼儀正しくもあるこのちょっと変わったクラスメイトは、ごくごく普通の少年の顔をして彼女を見つめているではないか。
 その瞳には絶対の自信の影に厳重に隠された不安や心細さが揺れている。
 途端は見てはいけないものを見てしまったかのような心地になった。それは意図せず他人のプライベートな空間や時間に土足で踏み入ったような、気まずい瞬間に似ている。
 しかし今このとき、目撃は不慮の事故や偶然による目撃ではなく彼自身があえて曝け出そうとしている。彼女が罪悪感や居心地の悪さを覚える必要はない。
 ただし―――
 はまばたきをくり返しながら、まだ冷たい一月の空気を肺の奥に送り込んだ。
 己は今、許されるのと同時に試されているのだと彼女は感じていた。何故なら目の前の少年の瞳が雄弁に訴えかけている。
 ―――この『他者の想像する喜多川祐介』という仮面の下に秘した本音や本性に触れてくれてもいい。だけど、さて。果たして君はどうだろう。友人として踏み込む気概はあるのか? もうすでに解っているだろうが、俺は身の上からしてとっつきにくい嫌なやつだぞ―――
 そんなふうに言われた気になって、は小さく唇を噛んだ。
 その心の奥には善意の芽が震えている。
 また彼女はこうも思う。
 転校生である己はともかく、彼もまた校内で友人らしき相手とともに居るところを目撃したことがない。幾度か耳にした彼にまつわる話は概ね彼の才能や容姿に関するものばかりで、その人となりについては変人の一言で済まされていた。あとは彼の師に対する罵詈雑言だ。
 が喜多川との接触を喜ばなかったのは恋人同士だと囁かれたためだが、しかし前述のエピソードに怖気づかなかったのかと言われれば……
 本人に自覚はないが、は善良な人間だ。それは多くの人がそうであるのと同じことで、別段珍しい性質でもない。
 ただしその善良さというものは、多くの人がそうであるように、簡単なことで挫けてしまう。
 しかし彼女の場合、この場においては目の前に一人の少年がいて、言葉を待っているという点が影響してくる。
 なにしろ彼は普通の少年ではなかった。それは彼の身上や性質を指してではなく、限られた者だけが知る≪心の怪盗団≫の一員としての面を示して、普通とは少し違うと表される。
 彼ら怪盗団の本懐は一つだ。改心はあくまでもその手段であり、目的はあくまでも人々に叛逆と反撃のための勇気を与えること。
 取り違えたこともあれど今や揺るぎなく打ち立てられた標は頭領の不在にも、怪盗団の存在そのものが人々の記憶から薄れつつあっても、決して崩れることはない。
 だからこそは一度これに感化されて戦いに身を投じた。
 今は二度目だ。
「わかった」
 厄介な相手への義理立てと友情のため、深入りしてやろうと心に決め、は物理的にも一歩前に踏み出した。
「つまり君、本当は人目を気にしてるんだね」
 口元には意地の悪い笑みが浮かんでいる。
「まあな。気にしていないふりをしているだけで、本当は評価が気になるし、恐ろしくてたまらないものだ。拒絶されれば当然傷つくのだからな」
「臆病者め」
 言葉はまた辛辣だった。しかし喜多川は、だからこそと笑ってみせた。
 罵られるのが嬉しいのではなく、発破をかけられることが心地よいのだ。辛味の効いた言葉は明確に彼の尻を叩くために吐き出されていた。
「でも普通はそんなもんだろうね。私だって怖い。学校でいつ面と向かってヘタクソと言われるか、ビクビクだよ」
「せいぜい励むことだな」
「そうする。それと、ごめん」
 唐突に飛び出した謝罪に喜多川は首を傾げる。なんに対するものだろうか、と。
「先のことなら、俺は気にしていないと……」
 それらしい心当たりに行き着いて告げようとすると、は両手を振って少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「そうじゃなくて、あー、約束をすっぽかして一人で帰って、君の厚意を無下にしようとしただろう? それに対する謝罪だ」
 それから、と彼女はまた目を伏せる。
「そもそもそうしようとしたのは、君の見た目や評判にビビってたからなんだ」
 懺悔くらいは黙って聞いてやろうと思ったのか、喜多川は静かに彼女の言葉に耳を傾けた。
「私なんかがとか、逆に一緒にいて私まで望まない評価を付けられたらどうしようかとか……自分のものさしで勝手に人を推し量ってレッテル貼り付けて、それで遠ざけようとするなんて最低だ。君は初めから私を信用して助けてくれると言ってくれていたのに。だから改めて、ごめんなさい」
 ぺこりと下げられた頭に喜多川は目を細める。黙っていれば知られないようなことをわざわざ口にするそのバカ正直さに、彼は呆れと感心を覚えていた。
 また彼は、がのしを付けて差し出してくれた隙にほくそ笑んだ。
「そうだな。ああ、俺はいたく傷つけられた」
「うぐ」
 いささか大げさな身振り手振り付きの返答に、は呻いて後退る。
 その動きを追う少年の瞳には一丁前にも狩りを行う獣めいた輝きがあった。
「償うつもりがあるのなら、君にも倣ってもらおうか」
 声には恫喝者の素質が光る。
 は嫌な予感を覚えてますます距離をおいた。
「なにを?」
「気にしないふりだ」
「うげっ」
 は猫のようにぐんにゃりとしてそばの街灯のポールにもたれかかった。縋るような眼差しを喜多川に向けもするが、彼はただ笑うだけだった。
「俺は君のそばを離れるつもりはない。いいな」
 宣誓めいた確言に、はついに声さえ失ってしまう。
 もちろん、彼女はこの言葉に深い意味が―――あるにはあるが、が一瞬考えてしまったようなものは―――ないことを承知している。
 けれども自信たっぷりにそう言われてしまうと、不如意にも顔に熱が集まってしまう。
 違う違う。変な勘違いをするんじゃない。
 は懸命に己に言い聞かせながらがくがくと首を縦に振った。
 喜多川はそんな彼女の煩悶など知りもせず、心のつかえも取れたと晴れ晴れとしている。
 そしてまた納得もしてみせた。
 彼女の幼馴染は、己のクラスメイトは、きっとこんな心地だったのかもしれない、と。
 この少女の根底に芽吹く善良さが他者の悪辣な態度や仕打ちによって摘み取られないようにと、立花紬も考えていたに違いない。
 そしてたった今そうであったように、この小さな芽は手をかけてやるとたちどころに反応して、意地や気概を見せてくれる。
 だから立花紬は転校に際して悲しむに大げさにするなと呆れてみせたのだ。幼馴染は必ず応えてくれると知っていたのだろう。
 果たして彼女はひとり立ちしてみせようと新たな生活に挑んだ。その成果は芳しくないようだが、そこは今後に期待ということでいい。
 そして、そんな彼女の盾という身分は彼らの自尊心をひどく刺激する。この善良で背すじの伸びた少女を庇護していると思うと、己がひとかどの立派な人物になったかのように思えたのだ。
 その思い込みを決定づけるようにはつぶやいた。
「喜多川くんって紬みたいなところがあるね」
 拗ねたような調子ではあったが、声には懐かしむような温かみがあった。
 喜多川はわざとらしくまばたきを二度して、からかうように己の胸をさすった。そこにあるのは傍目には貧相な胸板だけだ。
「俺は男だが?」
「見りゃわかるよ。見た目じゃなくて……ああもう、いいや、帰ろう。疲れたよ」
 疲れたと言う割にしゃんと伸ばされた背すじは喜多川に当初の印象、精悍さと勇ましさを思い起こさせる。
 こっちの台詞だと言い返して、喜多川は先を歩きはじめた彼女に随行した。

 所変わってルブランの二階、屋根裏部屋に当たる部屋に、一匹の猫と二人の少女が集っている。
 そのうち奥村は手にモップ、頭には三角巾を巻き、身体は割烹着めいたエプロンに包んではせっせと床を磨いている。
 もう一人であるところの双葉もまた、長い髪を一つにまとめ、ゴム手袋をはめた手で雑巾を掴んでは窓を拭きふき。
 そしてモルガナはそんな二人を階段そばの手すりに乗り上げて眺めている。そのへんのニンゲンよりよほど器用な彼ではあるが、掃除となるとどうにもやれることがない。
 二人がこの部屋の掃除を行っているのは手持ち無沙汰に尾を振るばかりのモルガナのためでもあったし、そのうち戻ってくるはずの部屋の主のためでもあった。
 そもそも何故彼女たちが掃除をすることになったのか。話は前日にまで遡る。
 やっとルブランに帰り着いたモルガナではあったが、再会と再加入のための祝いは諸々の状況を鑑みて延期と相成り、また次の異界潜入は三年生組の強い要望からフルメンバー(−1)と客員怪盗でと決定したことにより、すっかり暇になってしまった。
 夜は佐倉家の軒先で過ごした彼は今日、やはりやることもないと日がな一日ルブランの看板猫を勤め上げた。給金はマスターお手製のねこまんまだ。
 そこに双葉がやってきて『野性味がたった半日でうしなわれた』などと言うものだから、へそを曲げたモルガナは些細な反抗として佐倉家の軒先―――もとい、ダンボール箱の底に座布団を二枚を重ね、フカフカの毛布を取り付けた惣治郎お手製の高級寝具を辞退して屋根裏部屋に戻ると宣言したのだ。
 折しもそれはモルガナの様子を確かめに来た奥村がドアベルを鳴らしたときだった。
 そういうことならばと、奥村は主の不在でなかなか行き届かない屋根裏の清掃を申し出る。
 それに惣治郎が、よそ様の娘さんだけにやらせるのはバツが悪いと己の娘を生贄に差し出したというわけだ。
 もともと惣治郎が暇な時間―――売るほどある―――を見繕っては簡単に掃き清めてくれていたこともあり、主であるところの少年が去年の間に集めたり押し付けられたりプレゼントされた物品と実家から送られた日用品に埋まった部屋は、あっという間に清められた。
 最後に例の高級寝具が佐倉家より運び込まれて、屋根裏はモルガナの預かりとなった。
「ふうっ……こんなところかな? モナちゃん、どう?」
「うむ、十分だ。ありがとうな、ハル」
「どういたしまして」
 おっとりと笑う奥村は本当に嬉しそうだ。モルガナはこみ上げる照れくささを誤魔化すため、耳の後ろを後ろ足で掻いた。
 その背に双葉の手が伸びる。
「わたしも手伝っただろ! ほめろぉ!」
「ンにゃ! やめろっ! つつくな!」
「ほれほれぇ〜」
 少女の指が毛の流れに逆らって背骨をなぞり上げる。モルガナは言いようのない気持ち悪さに身をよじって逃れ、さっそくと部屋の隅に置かれた高級寝具に飛び込んだ。
 奥村はそんな二人のやり取りにくすくすと笑いながら、壁際のソファに腰を下ろす。
 見上げた天井の梁には星座を模った蓄光シールが貼られている。正面の棚にはディスプレイされたラーメンどんぶりやヒーロー戦隊らしきフィギュア、スワンボートや王将を象った置き物、大きなヘラに寿司屋の湯のみと華やかな熊手……
 背後にはいかにも外国人観光客向けのTシャツやら、夜景の描かれたペナントに破魔矢と、雑多極まりなく飾られている。
 一貫性のないインテリアはこの部屋の主たる少年のことをよく表していた。
 これらはきっと彼がこの土地にやってきて得たものの証だ。壁に貼られたアイドルポスターも、床に置かれたシュウマイ形のクッションも。
 ……ちょっと女の子の影響が強いかな。
 奥村は笑みを崩さぬままそう思った。
 さておきこの部屋が不思議とくつろげる場所であることは、主の不在に関わりはないらしい。
 足を伸ばした奥村に倣うように双葉も空の寝台に腰かけ、ポケットからスマートフォンを取り出してあれこれといじり始めた。
 モルガナももぞもぞとベッドから這い出ては、彼女の隣に腰を落ち着ける。
 奥村はふむと唸って、静かに立ち上がった。
「お片付けしてくるね」
 バケツやモップに雑巾、ゴム手袋にエプロンは階段付近に放置されたままだ。双葉は手伝おうかと自ら申し出たが、これは奥村が遠慮した。
「大丈夫、私、案外力持ちだから」
「それはしってる。案外でもない」
「あれっ……?」
 首を傾げながら清掃道具をひとまとめに抱えて奥村は階下へ消える。
 再び戻ったとき、彼女はまた手にトレイを持っていた。双葉はそれこからこぼれる香りにばね細工のようにはね起きる。
「おやつ!」
「うん。マスターがお駄賃代わりにって。かえって申し訳ない気もするけど……」
「いーの! モナ、テーブル出せ!」
「無茶言うなよ」
 かくして少女たちと猫はテーブルを囲んで退屈な午後の時間を雑談で潰すこととなる。
 話題は概ね、新人客員怪盗についてだ。
 さて、その新人と奥村は、出会ったその日に連絡先を交換し、以後密かに親交を深めていた。
 そのはじまりは奥村の『困ったことがあったらなんでも相談してね』という実に心配りの行き届いた文言だった。
 もちろんこれは本心だが、その裏には懐柔や籠絡の意図が含まれている。
 そしては気がついているのかいないのか、ホイホイとこれに乗り、奥村にずっと一つの相談を持ちかけていた。
 当然というべきかそれは件の噂に関するものだ。
 ―――なんでか学校で付き合ってるとか噂されている。彼に悪意がないのは解るが、なんとかならないか。
「って感じでね、ちゃんは私にずっと相談してたんだよ」
 別段秘密にすることでもないと奥村が明かしたのは、が坂本にも同様の相談を寄せていたからだ。モルガナが合流する前、彼はどうにかしてやれないかと、夕方の監視兼護衛は持ち回りでしたほうがいいのではないかと持ちかけていた。
 そんなわけでこの件は、喜多川を除いた全員の知るところとなっている。
 それ故モルガナにも話されたわけだが、肝心の黒猫の反応はそっけない。
「ふーん……相手がユースケじゃ、もさぞかし苦労してんだろうな」
 労りこそすれ、彼には人間社会における対人関係の苦労は真実理解し難い。猫にはそんな気苦労は無縁だ。
 ところが理解できるはずの二人の少女もまた意味有り気に目配せをしてみせる。
「どうなのかな? 苦労はたしかにしているかもしれないけど……」
 紅茶のそそがれたカップを片手に、奥村は笑う。
 モルガナは自分ばかりが話題に乗り切れていないと察して、はてと首を傾けた。
「なんだよ、含むところがありそうじゃねーか」
「ふふっ、まあね。だって本当に迷惑なら、一言も喋らず早足で帰ればいいじゃない?」
 だけど、と言葉を止めて奥村は双葉に視線をやった。
 受けて双葉はスマートフォンの上で指を滑らせ、何某かのアプリケーションを起動させる。
 それはよくあるマップアプリに酷似しているが、しかし広く民衆に浸透する大手企業製のものではなく双葉特製の―――特定個人の位置情報を追跡するトレーサビリティ機能を主としたアプリだ。
 怪盗団はかつてこれを用いて危機を免れたことがある。それから長らくお役御免と眠らされていたのだが、今またこれが使われているのは……
 双葉はニヤッと口角を釣り上げて笑った。
「むふふ、これはオフレコだけどな、一応の位置情報、逐一確認してんだ」
「オイオイ……」
 犯罪行為であることは今さらだが、対象が仲間の一人という点に関してはさしもの彼も苦々しく思えるのだろう。
 そこからお叱りや苦言が漏れ出る前にと、奥村は声をかけた。
「念のため私がお願いしたの。まだちゃんがどう動くのか解らなかったころにね。万が一あの子が私たちを陥れようとしていたら、一番危険なのは祐介でしょう?」
「おイナリが異界に連れ込まれて喰われる可能性があった……てか、今もある。あいつは鋭いんだかぼけてんだかわからんし。だから頻度は落としたけど、チラッとな」
 モルガナの鼻先に差し出された画面には地図が表示され、その上にデフォルメされた人間のシンボルが浮いている。一定の時間毎に位置情報を抜き取り、それをこのマップ上に反映させるもののようだ。
 とはいえモルガナには説明されてもわかることは多くない。
 それにやっぱり、今さらだ。電波ジャックに威力業務妨害、器物破損と凶器準備集合と他諸々、それなりに罪を重ねてきた。そしておそらく、怪盗団のうちでそれを気にする者は一人もいない。必要だったからやっただけだと開き直るのみだ。
 モルガナに至っては犯罪行為だから気になるというより、怪盗としてその行いがクールかどうかが気にかかっている。身内を疑ってかかるのはどうなの? と。
 それも先の説明で納得がいく。これもまた、必要だからやっただけだ。
「ま、ワガハイはそのへんに口出しするつもりはねぇよ。で?」
 これがいったいなんなんだと話の続きを急かす彼に、奥村はなんと説明したものかと天井を見上げる。
「んー……祐介は歩くの速いでしょ?」
「わたしらなんかは小走りにならんとおいてかれるからな」
「そりゃ歩幅の差のせいだろ。なら別についてけてるんじゃないか?」
 彼女は女子にしては背も高いほうだったと思い返して中空に目を向ける。だいたいこれくらいだろうか。それならアイツはこれくらいか。
 忙しく目玉を動かすモルガナにとっては、いずれも見上げなければならない相手だ。やはり二人の言いたいことが解らないと猫は身体ごと伏せった。
 そんな彼の顔の前に双葉の手が伸びる。両手でピースサインをつくり、指先を下にして交互に指を動かす様は人の脚の動きを表しているらしかった。
「そしたら二人ともけっこうな速さで移動するはずだろ?」
「まあ、そうなるな」
 目の前でこしょこしょと動かされる指に思わずと前足を伸ばしつつ頷いてやると、モルガナにもやっとおぼろげに話の着地点が見えてくる。
 奥村はまた楽しげに笑った。
「ふふ、だけどね、位置情報から計算される歩行速度はすごくゆっくりなんだよ。ね、双葉ちゃん」
「うんむ。そんで、おしゃべりしながら歩くと、ふつうは速度は落ちる。迷惑がってんのも本音だろうけど、一度話しはじめると楽しくなっちゃうんだろうなぁって、想像」
 モルガナはハンと鼻を鳴らして手を引っ込めた。香箱を作った彼の背は直ちに双葉の手の置きどころと化す。
「まッ、いいんじゃねえの。つまり誰も困ってないってコトだろ」
 奥村はやはり穏やかに笑って「そうだね」と同意を示した。
 方や双葉はどこかつまらなさそうな表情を見せる。
「おイナリめ……色を知る年齢か!」
「双葉ちゃん?」
「あっあっ違います下ネタとかじゃないです漫画のセリフで……」
「んー?」
「ごめんあさい」
 深々と頭を下げた双葉の手は真っ直ぐに伸ばされて、日用品の押し込まれた棚を指し示している。
 なるほどそこには漫画本が隙間を埋めるように押し込まれているではないか。奥村は立ち上がって一冊を取り上げると、無言でそれを読み始めた。どうやら格闘漫画の類らしい。
 双葉はそろそろと顔を上げると、そのままそっくり返って仰向けに寝転がった。
 果たして奥村はどこまで読むつもりなのだろう。例の一冊に至る前に諦めてくれればいいが―――
 この部屋にある以上、それはあの少年の愛読書の一つだ。恋する健気な少女なら好みの作風でなくたって読破してしまうかもしれないし、それとはまったく別に気に入ってしまうかもしれない。
 双葉は心の中で、今は遠い少年に頭を下げた。すまん、やっちまったかもしれん、と。
 黒猫はそんな彼女を横目で眺めつつ、大きなあくびを一つ。惰眠を貪ろうと丸まった。