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07:I Don't Know Enough About Cat
時計の針はとっくに深夜の零時を過ぎ、草木も眠る丑三つ時に差し掛かろうというころ。双葉は部屋の明かりを落としてひっそりとマルチモニターと睨み合っていた。
サブモニターにはデータ収集用に走らせているウェブクローラーが高速で情報の取捨をしているのか、ほのかな光を放つ液晶モニターの上に波膨大な量の文字と数字が踊っている。また別のモニターにはメインフレームから切り離されたCPUが関数の解析を行い、忙しく働いている様子を教えている。
双葉の目はそのどちらでもなく、メインモニター上に映し出された、これもまた大量の数字とプログラム言語を捉えていた。
昨日持ち帰った異界のデータの分析はとっくに終わっている。もとより大した量ではなかった。録画と録音、気温や湿度、振動や傾き……あの場所に関する一週間分の情報は、双葉が想像していたよりずっと少なかったのだ。
それらが示すのは『不変』だ。
気温や湿度、録画された映像のほとんどは固着したかのように動かず、これといった変化は見られなかった。
映像や音声は双葉たちが戦闘した際のもの以外では水曜日に一度だけ。例の太り過ぎたキリンのような生き物が三匹、群れをなして通ったのみ。それ以外は無人と無音が続くばかりだった。
気温と湿度も昼夜の変化なく、十七度前後と五十パーセント上下を保っていた。
なにより双葉を驚かせたのが茜色の空だ。およそ百五十時間、記録された映像に昼も夜も訪れなかった。
―――つまり、あの異界は夕暮れの世界なんだ。
双葉はそう結論付けて、半年ほど前にスマートフォンから抜き取っておいた『イセカイナビ』、そのバックアップを引っ張り出した。それが四時間ほど前の話だ。
去年のクリスマス・イブに行われた決戦以後、イセカイナビはこの世界から失われた。だというのに彼女がこれを所持しているのは、抜き出したデータの内部構造を調べようと一度分解し、その残骸を捨てずに残しておいたからだ。
小分けにして保存したまま放置していたソースコードを再び組み直しても、もちろんイセカイナビは起動しなかった。
しかし―――
佐倉双葉という少女は、その生い立ちと経験から、表向きの言動に反して内側は大変にドライな現実主義者だ。
オカルトやスピリチュアルを楽しんでも、心から信じて奇跡も魔法もあるんだなどとは決して口にしない。そんなものがあった彼女は今ごろ母と父に囲まれて暮らしているはずだからだ。
もちろん現状の生活に不満も後悔もない。ただときおり寂しくなって、猫くらいの大きさの暖かくて柔らかなものをモフモフしたくなるだけだ。
なにより、認知世界は間違えようもなく現実に存在する。人の心が科学的に証明し尽くされてなお実在を立証できなければ、その時初めて双葉は自分たちの経験が夢か幻覚だったと認めるだろう。
そのように現実を見据える瞳は今、動かなくなったイセカイナビのソースコードをじっと見つめている。
実のところ、双葉は仲間たちにも告げていない情報をいくつも抱えている。
そのうちの一つに、実はこの現実の世界でもペルソナの力を行使できる、という事実がある。
ただしこれは大変に限定的で、ペルソナ使いの肉体や心理等様々な状況が組み合わさって偶然に発動したらしいケースが多い。あるいは補助器具の使用によって安定させる方法もあるようだが……これは双葉の手腕をしてもどのような道具をどう用いるのかさえ知ることは叶わなかった。
さておき、ペルソナの力はそれと知らない者が見れば奇跡や魔法のようなものだ。何もないところから炎や冷気、雷撃を呼び出し、千切れた手足をくっつけてもとの通りに治してしまう。
つまり、この厳格な現実主義者は実体験と科学的根拠に基づき確信を持って口にする。『奇跡も魔法も在るんだよ』と。
それ故彼女はイセカイナビの示すところを抵抗なく受け入れた。
眼前に晒し出されたイセカイナビのソースコード、そこに刻み込まれているのは『魔法の呪文』だ―――
行儀のよい構文と仰々しく並べられた権威ある神々の名をはじめに見たときは思わず笑ってしまったものだ。
これはアプリなんかではないとかつて語った通り、これは野にあふれる真っ当なナビゲーションアプリなどではない。
双葉が推察するに、これは魔術的儀式の手順や触媒をすっ飛ばして擬似的に再現するエミュレーターの一種だ。使用者を特定の場に『逆召喚』するための通路を開き、さらに固定化させるための魔術が織り込まれている。
プログラミング言語のうちいくつかはともかく、ヘブライ語で記された呪文部分には流石の双葉も手が出せない。
ただ、適当に翻訳ソフトにかけた結果出てきたいくつかの単語には心当たりがあった。前述の神の御名の他に、人の意識に関するいくつかの言葉が浮かび上がったのだ。
それはかねてから類推していた通り、物質的な存在が異世界へ移動するには意識の状態が深く関わっていることを示唆していた。イセカイナビを使用した際に感じた軽い目眩や浮遊感はこの作用によるものだろう。
であれば、これは少しの『改造』によって例の異界にも応用することができる。異界への移動にもやはり、人間の精神的な状態が大きく関わってくるからだ。
確信を抱いた双葉の指はキーボードの上を滑らかに動いている。
再現される儀式に手を加える必要はなかった。イセカイナビのように行き先を使用者に入力させるのではなく、固定してしまうだけでいい。
行き先はもう判っている。侵入のための鍵の形も。
昼と夜の境目。自己と他の境界。そこにが持つなんらかの因子。
最後に関しては未だ正体不明だが、彼女がそばにいればいいだけの話だ。
双葉は家主も眠る佐倉家の二階に怪しげな笑い声を響かせる。
「こんなの楽勝だぜ。ぐふふ……」
ご近所さんへの配慮として絞られた蛍光灯の明かりの下、双葉は朝日が昇るまでパソコンとにらめっこし続けた。
……
月曜日の放課後、喜多川はすっかり板についたの護送役を務める最中、ふと彼女に語りかけた。
「体調に変わりは?」
一月の半ば、ますます冷え込む人気のない帰り道だ。やっとクリーニングから返ってきたコートの襟を寄せながらは彼を見上げ、かすかに首を傾ける。
それからやっと、異界での一件に関する話と理解して、彼女は小さく頷いた。
「これと言ってはないよ」
「そうか」
よかった、と安堵すると、息を継ぐより早く疑問がもたげる。
「しかし本当になぜ君にあのような力が……」
怪盗団の頭目よろしく斃した神霊を吸収せしめ、恐ろしいほどの破壊の力を見せつけた。けれど頭目のようにはいかず、前後不当に陥ってしまう―――
彼女には『彼』ほどの力……根本的な体力や気力が足りていないということだろうか?
唸って考え込む喜多川の耳に、隣を歩くの微かなつぶやきが触れる。
「……私でなければならない理由、か……」
はっとして見下ろした先にある目は虚ろだ。遠くを眺め、虚空になにかを思い描いているのだろう。
もしかしたら、またあの―――行方知れずとなったままの―――幼馴染のことを考えているのかもしれない。
喜多川は彼にしては珍しく少しだけ遠慮がちに問いかけた。
「思い当たることが?」
はすぐに首を横に振った。
「ないよ」
芸術家の端くれとして、喜多川は普通校のカリキュラムには無いようなことを多く学んでいる。それは単純に美術に関することが多くを占めるが、彼個人が興味の赴くまま、求めるがまま得た知識の中には、人の表情が教える感情の揺らぎに関するものがいくつかあった。
嘘をついている人間はそれが嘘だと思われないよう、よくある誠実な人物像を無意識的に演じようとするという。だから多く、目を逸らさないとものの本には書かれていた。
根拠があるかは甚だ疑問だと思いつつも、喜多川はじっと彼女の瞳を覗き込んだ。
「え、なに」
もちろんと言うべきか、彼の行動の意図を図りかねたは目を丸くして後退った。
「なにというか……君を視ているんだ」
「目が怖い。なに。やめようよそういうの」
怖いとは失敬な。喜多川はぶすくれながらもついと視線を外してやった。
彼の視界の端では緊張から解き放たれて大きく息を吐き出している。結局彼女のほうから視線が外されることはなかった。
は喜多川を見上げたまま、どこか上ずった声で、さも今思い出したと言わんばかりに口を開いた。
「そういえば、喜多川くんたちは、猫を探しているんだよね」
渋い色合いの手袋に包まれた手にはスマートフォンが握られている。
喜多川は素直に提供された話題に乗ってやることにした。
「ああ、そうだな。猫というかなんというか……やつの捜索も目的の一つだ」
「猫のようななにか、っていうのは、この子?」
差し出されたスマートフォンの画面には一匹の猫が表示されていた。額の中央から左右に割れた黒と白。鼻は汚れているが、もとはピンク色だろう。見事なハチワレ柄の猫だった。
喜多川は首を左右に振った。
「目つきの悪さは似ているが、違うな。腹も白くないし、瞳はもっと濃い青だ」
は短く「そうか」と応えると、すぐに次の画像を表示させる。そこにも似たような柄の猫がいる。
「この子は?」
「……違うな」
「これ」
「違う」
「これっ!」
「違うな〜」
結局、十メートルを歩く間に喜多川は実に十三匹もの猫の画像を見せつけられた。
その中に探し猫のモルガナはおらず、何故かのほうが大きく落胆して肩を落とす始末だった。
「うーん、駄目か。それらしい猫、いろいろ撮ったんだけどな……」
項垂れる少女の姿に喜多川のほうが申し訳なく思えてきてしまう。彼は彼女に顔を上げるよう促しつつ手を差し出した。
「もう一度見せてもらえるか」
「ん」
手の上に大した警戒もなさそうにスマートフォンが置かれる。喜多川少年はなるべく余計なものを見ないようにと思いつつ、少女のカメラロールを覗き込んだ。
そこにあったのは猫、猫、猫―――黒猫以外にも茶トラや白、ぶちに三毛。洋猫の雑種なのかやたらと毛足の長い猫もちらほらと見受けられた。
そんなに猫が好きなのか?
思いつつ一つ一つを見分するうち、喜多川は奇妙なことに気がついて足を止めた。歩きスマホは褒められた行為ではないからというより、好奇心に足を絡め取られたが故の停止だった。
被写体である猫たちが寝そべり、座り、顔を洗って日なたぼっこを満喫する舞台は、背景から察するにどこかの神社の境内だろう。
「これは、すべて同じ場所で撮ったのか?」
撮影された画像だけで数十枚に及ぶほどだ。まさかと思いつつ問いかけた喜多川に、は直ちに頷いて返した。
「うん。寮の近くの神社。知らない?」
「そんな場所があったのか。そこで? 一度に?」
「うん」
「こんなに猫が?」
は疑問符が出るたびに頷いた。
「集会でもしていたんじゃないかな?」
「なんと……これが噂の猫集会か。寮の近くに神社なんてあったか?」
「小さいし狭い路地の奥だったから知らないのも無理ないかも。私も寮への道を覚えるために何度もマップ見て気がついたくらいだし」
そんな場所がこんなに身近にあったのか、と思うと、喜多川の胸に燻っていた好奇心に一気に火がついた。
「これは是非ともこの目にしなければ!」
「いいかもね。猫、みんな寝てて逃げなかったから、スケッチし放題じゃないかな」
またが煽るようなことを言うから、彼はますますはしゃいだ様子でスマートフォンを握りしめた。
「これは俄然楽しみになってきた……!」
は、若干の呆れを滲ませつつ、低く喉を鳴らして恍惚とする少年に向けて手を振ってやる。彼女はスマートフォンを返せと全身で訴えていたが、残念なことに喜多川はそれには気がついてくれなかった。
「はあ……いってらっしゃい」
仕方なし、やんわりと奪い取るようにして取り返して、は今度は送り出すために手を振った。
すると喜多川は唐突に動きを止め、再びの瞳を覗き込んだ。
「え?」
「ん?」
「君は来ないのか?」
「もう行ったよ?」
「二度三度と訪れたところで怒られるものでもないだろう。行こう」
「え? 私も? 二人でぇ?」
怪訝そうに眉をひそめられた理由が解らず、喜多川は首をひねった。
「嫌なのか?」
「嫌ではないけど……」
でも、と続くはずの言葉を彼は叩き潰した。
「ならいいじゃないか、行こう! 自然に生きる猫たちの表情や肉体を好きなだけデッサンできるとは……しかもタダで! 素晴らしい! ともに彼らの愛らしさや美しさの謎を解き明かそうじゃないか!」
「まあそれは、やぶさかではないけども。あー、うー……」
こんなことになるのなら猫の写真など見せなければよかったと後悔すれど後の祭りだ。瞳を輝かせて嬉しそうに先を歩く彼の中では、もうすでにの同行は決定している様子だった。
結局はこれを承知した。猫以外動くもののない小さな神社だ。夕方の危険な時間帯を過ごすには、悪くない場所かもしれないとして。
……
とはいえ。
としては複雑な心境から、喜多川と二人だけという状況は避けたかった。
翌日の放課後、件の神社に向かう前に立ち寄りたいところがあると喜多川を引っ張った彼女は、途中のコーヒーショップで待ち人の姿を見つけて心底安堵したように息をついた。
「うーっす」
ひらひらと手を振って合流したのは坂本と双葉、そして奥村の三人だった。
喜多川は彼らの合流を別段嫌がるわけでもなく、ただ不思議そうに目を瞬かせる。
「お前たちも来るのか?」
「だってねこいっぱいいるんだろ。モナまざってるかも!」
嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる双葉をたしなめつつ、奥村は意味ありげな笑みを湛えている。
「もしかして、あなたにとっては私たちがいちゃ不都合かな?」
「いや?」
「あら残念。なーんだ」
「それはどういう……」
意味なんだ、と問おうとする喜多川の横から、は奥村の背を押して歩き出した。
「春さん! 早く行きましょう! 面白がらないでください……!」
「ふふふ、ごめんね。ちゃんは困ってるんだもんね」
なにが? と喜多川は首を傾げたが、助けを求めて視線を送った先の坂本も双葉も、処置なしと肩を竦めるだけだった。
に誘われて進んだ小路は、本当に狭かった。
女子三人はさておき、坂本や喜多川は通り抜けるまで身を縮こませていなければならないほどだ。
左右は民家と民家を隔てるコンクリートブロックの塀や青錆の浮いた柵にトタン板が塞ぎ、視界を狭めて閉塞感を生んでいる。
足元は雑草が生い茂り、夏場にはあまり近付きたくないと強く思わせる有様だ。
ここは本当に通っていい場所なのかと喚きたくなる直前に視界が開け、まるで異世界に迷い込んだかのように錯覚させられる。
管理する者もいないのだろう、蔦の這う鳥居はくぐってやっと鳥居だと気がつく有様で、開けた空間の足元には野放図となった石畳が前方に続いている。左手に乾いた手水舎があり、石畳のつきあたりには経年劣化によって全体的に色あせた高床造りの拝殿が鎮座ましましている。
境内は来た路と同じく四方をトタンやコンクリートブロックに囲まれ、他に入り口らしき場所はなさそうだ。
だというのに……
「マジで猫だらけだなオイ……」
坂本の言う通り、どこを向いても猫がいる。いったいどこから入り込んだというのか、ちらほらと首輪をしている猫の姿も見受けられた。
不思議なことに日当たりは悪くない空間のなか、彼らは思い思いの場所でくつろいでいる。
「ちっちっちー」
双葉はさっそく、手水舎の手前で香箱をつくっていた茶トラの猫に声をかけた。
しかし、反応はそっけない。茶トラは迷惑そうに顔をそらすと、立ち上がって拝殿の床下に隠れてしまった。
「あーねこ行っちゃった……」
がっかりと肩を落とす双葉に、はくつくつと喉を鳴らしはじめる。
「残念だったね」
「今のは野良の子なのかな? ときどきすごく人懐こい子もいるけど、お顔を知っている間柄でもなければあんなものかしら」
言って、奥村はあたりをぐるりと見回した。
自分たち以外に人の姿はないくせに、どこへ視線をやっても猫の姿が目に飛び込んでくる。
四方を塞ぐ壁の上から隣接する民家の屋根や壁、庭木の頭が覗いているが、偶然か意図してのことか窓やベランダといった人の生活空間からこちらを覗える場所は存在していなかった。
まるで人間の世界から切り離されているようだ―――
雑踏鳴り止まぬ街中にあって、こんなに静かで、一種静謐ともいえる場所があるなんて……
ほうと感嘆の息をつく奥村の傍ら、情緒的な感覚とは縁遠い坂本は雰囲気にもくつろぐ猫たちにも遠慮せず声を上げた。
「モルガナー、いたら返事しろよー」
当然それに応える声はない。
「なんか、ねこみんなくつろいでんな。わたしらガン無視されてっぞ」
「だな。逃げねぇよこいつら」
やれやれとかぶりを振って、坂本はその場にしゃがみこんだ。
するとなんということか、すぐさま彼の足元に汚れた毛並みの白猫が横たわった。
「あ? んだよ……しゃーねーなぁ……」
渋々といった様子で白猫を撫でてやる。彼だって、罵倒さえしてこなければ猫は可愛いものだと思っている。
双葉はまた、拝殿の朽ちかけた階段の下で丸まる鯖トラに近寄った。
「あのぉ……な、なでてもいいか?」
今度は先にお伺いを立ててみる。
すると鯖トラはちらりと片目を開け、「にゃー」と鳴く。
双葉に猫の言葉など解りはしなかったが、しかし、何故かそれが許しを与えられたのだと確信できた。
「ゆるされたっ、よーしゃよしゃよしゃ……」
「ゴロゴロゴロ……」
「おほーっ、ういやつめぇ」
さて、一番この場に来たがっていた喜多川はというと、彼は律儀に拝殿に礼をし、なけなしの賽銭を投入してからあたりを観察し始めた。
その関心はどうやら猫にではなく、神さえいるかも疑わしい社殿に向いている様子だ。
「ふむ、大社造りか」
社殿の脇に回り、そこに入り口があることを確かめて頷く。お目付け役のつもりか着いてきていたは感心したように手を叩いた。
「詳しいね」
「まあな。君はどう思う?」
「調べたわけでもないし、標も見当たらないからなんとも言えないけど、国津神を祀る神社じゃないかな」
彼女の目は鳥居に向いている。草に覆われてはいるが、その足元は石の台に支えられていた。
喜多川は目を細めて口元をほころばせた。
「そうだな。鳥居の形状からもそれは明らかだろう。この辺りならばやはり大己貴命か?」
「もしくは、猫の神さま」
冗談めいた発言だが、はどうやら真面目に言っているらしい。
「ふっ、それもあるかもな。これだけ集まっているんだ、彼らにとってはさぞや霊験あらたかな神であるらしい」
「どの子もくつろいでるもんね。にゃー」
と、は拝殿の高床の上で伸びるサビ柄の鼻先に手を伸ばした。サビ柄は鼻を引くつかせてニオイを確かめると、すぐにまた顔を伏せて寝る姿勢に戻った。
それを見て許しを得たとして、は優しく猫の頭を撫でてやる。
「おまえ、毛並みいいね。飼い猫か、半野良か……いいもの食べてるな?」
喜多川はしばし無言で猫と少女を見守っていたが、やがて彼もまた別の猫に目をつけると、膝をついて静かに語りかけはじめる。
「君、少しいいか」
白黒猫は迷惑そうに片目を開け、長い尾の先端を極めて小さく振った。
「ああ……美しい。是非とも君にモデルを頼みたい」
「にゃー」
「そう無下にしないでくれ。君に惚れたんだ」
スケッチブックを開いて熱っぽく訴える少年に、白黒はいよいよ嫌そうに尾をバタバタと振った。
「にゃー」
「違う。手近なところにいたからではないんだ。君のその寛いでいるようで隙のない佇まい。飼い猫にはない野性味、だからこその汚れや乱れた毛並みに痩せた躰……」
少年は両手を猫のそばに着いて懇願する。
「頼む! 俺に君を描かせてくれ!」
離れた場所から坂本の野次が飛ぶが、喜多川は構いもせず白黒の瞳を覗き込んだ。
猫ははっきり言って迷惑がっていた。しかし、少年がなにか悪辣な意思によってなにかをなそうというわけではないと見抜くと、あからさまなため息をつくと短く鳴いて緊張を解いてやった。
「おお! ありがとう! ではさっそく!」
「会話できてるの?」
一部始終を眺めていたもまた、首をひねりつつ鞄からスケッチブックを取り出していた。彼女の目当ては先に撫でさせてくれたサビ柄だ。
「ふふふ……いいぞ、こうだ。ああ、この曲線のなんと芸術的なことか……!」
「だからうるせーよ祐介」
大声を出すわけではないが、絶えず興奮した様子を垂れ流す少年には、白黒どころか人間さえも辟易としてくる。何事かと歩み寄った坂本は、日ごろの自分を棚に上げて喜多川を睨めつけた。
その程度で彼が改めるわけがないとは承知の上だ。坂本はすぐに横たわる彼のそばを通り過ぎてに歩み寄った。そばには双葉と奥村もついてきている。
高床の上に寝そべるサビ柄を立ったままスケッチする彼女は手と目だけを忙しなく動かしてこそいるが、他は不動を貫いて動かない。
「ふんむ、は同じタイプでも大人しいな。いいことだ」
「微動だにしねぇってのもこれはこれでこえーけど……」
「こうして見てると、描かれるものにも違いが出るものなのね。へぇ……」
「わたしはスマホでいーや。ねこ、こっちむけー」
双葉はまた別の猫にスマートフォンのレンズを向ける。
撮影に対する猫の反応はまちまちだ。面倒くさそうに撮影を受け入れるか、顔を逸したり背を向けたり、フレームの外へ逃げ出してしまったり。双葉のカメラロールには猫の尻や尾っぽの先端、ブレた被写体といった失敗写真ばかりが並んでいた。
対して坂本のほうは概ね当たりを引いたのか、カメラ目線やあくびの瞬間、腹を見せて寝転がる個体さえ収められている。
こちらもなかなか上手くいかない奥村が、これを眺めて感嘆の吐息をもらした。
「わあ、すごい。もしかして動物撮影の才能があったりする?」
「別に普通じゃね? こんだけいたら撮らせてくれるやつもそこそこいんだろ。つか何匹くらいたよ?」
「うーん……十匹は間違いなく超えてるよね。いち、にい、さん……」
鳥居を始点にのんびりと数え始めた奥村の足元で、双葉が二人をふり仰ぐ。
「見えるとこだけなら二十三匹いたぞ」
「いつ数えたんだよ。はえーよ。つか多くね? このへん野良そんないんの?」
「完全野良かはどうかな。ほら、こいつ」
感心半分呆れ半分、あたりを見回した坂本に、双葉は手近な猫を示して言った。
そこに居たのは丸まる黒白猫だ。なんだと覗き込んだ坂本の目の前で、黒と白の耳がピクピクと震える。その耳先はわずかに欠けてしまっていた。
「えっ、なにこれ痛そう。ケガしてんの? まさか、お前ギャクタイされてんの……?」
思わずと伸ばされた手が労りとともに猫の背を撫でると、黒白は心地よさそうに喉を鳴らしはじめた。
彼の早合点を正したのは奥村だ。
「違うよ。この耳は避妊手術が済まされているって報せるマーク。この子は面倒を見てくれている方がいらっしゃるのね」
「へ? そうなん? はー、考えられてんだなぁ……」
そうと知って見回すと、ちらほら同じような欠け耳がいる。
とはいえ中にはケンカか事故か、去勢済みの印かどうか判別つかないものも多い。坂本はそんな一匹を指して問いかける。
「あいつも?」
「あれは尻見りゃわかるだろ。ほら、きんた―――」
「双葉ちゃん? ダメだよ?」
「むわぁあ、あ、アレがな、他の猫より小さいだろ。オスは虚勢されると、ああなる」
喜多川の不気味な笑い声をBGMに、坂本は前かがみになって震え上がった。
「おう……なんかゾッとすんな……」
様々な面から必要なことと理解していても、同じオスとして感じるところがあるらしい。背を丸めた少年の姿に、奥村はふと胸を過った不安に眉をひそめた。
「モナちゃん、大丈夫かな……?」
「あっ……」
「……あれ? ヤバくね? 早く見つけてやんねぇと、あいつも……」
三人はまたたく間に凍りついた。脳裏には最悪の想像―――『これじゃあワガハイ、ニンゲンになれたとしても、アン殿とは……うわあぁーん! びええぇん!』―――
奥村は両手を口に添え、時間も場所も顧みず声を張り上げた。
「も、モナちゃーん!? いたら返事してーっ!?」
「そこ! 静かにしてもらえないか!」
静寂を求めたのは喜多川だ。そばの白黒猫は「こっちのセリフだ」と言わんばかりの渋面を浮かべ、少し離れた場所のは先と同じ姿勢のまま、相変わらず手と目だけを動かしている。
奥村はしょんぼりと俯いて、胸の上で拳を握った。
「モナちゃん……」
モルガナとは縁浅からぬ仲の奥村は、双葉と同等か、それ以上にモルガナの身を案じている。そもそも打算的だが夢見がちな乙女は、モルガナが消滅したとさえ思っていない。
対し、坂本たちはまだ存在していてほしいと強く願いつつ、心の奥底では諦めも抱いてもいた。それは薄情だからではなく、真実を知ったとき傷付かずに済むようとする正常な防衛機能だ。
この無意識がなすことを抑え込むのは至難の業だ。
奥村のように痛みを恐れず信じられたほうがよっぽど楽なのかもしれない。
双葉はこみ上げるものを飲み込んで、日当たりのよい石畳の上でまどろむ黒猫に語りかけた。
「なー、おまえ、モナ知らん? おまえみたいに黒くて、でも手足と尾っぽの先っちょと、口まわりが白くて、蒼い目に、たぶん黄色い首輪してる……」
複雑な心持ちなど知りもせず、坂本は肩をすくめた。
「会話できんのかよ」
「いやさ、そういう話あるだろ。飼い猫がいなくなったから野良のボスっぽいやつに見かけたら教えてって頼んで、しばらくしてボス猫がいくえふめいになってたねこ連れてきてくれるっていう」
「まあ、素敵なお話ね。実話なの?」
「真偽は不明。ネットで見たコピペだし」
あくびをする黒猫をひと撫で、双葉は立ち上がってため息をついた。不明などと言いつつ、彼女も与太話程度に捉えているのだろう。
坂本はふうんと唸ると、境内に視線を配った。
「……まあ、『やらないよりは』だろ。ボスっぽいやついるか?」
「どうかしら。ボス猫さんというと、やっぱり大きくて、立派なおひげをしているのかな」
「えっ、マジでさがすのか?」
坂本たちは神社の境内を練り歩いた。と言っても、大した広さではないから、時間はかからなかった。
拝殿の裏、いっとう日当たりのよい場所に、しめ縄の巻かれた巨石―――というには物足りない大きさの岩が横たわっている。
なによりその岩を小さく見せているのは、それを寝台に丸まる一匹の猫だ。身体の大きな種もいるが、これは毛足が短く、茶色の毛皮に黒の縞模様はいかにも日本猫らしい。また尾は短く、途中で折れてL字を描いている。
「でッけぇ!?」
「こらっ、せっかく眠っているのに大きな声を出したらかわいそうだよ」
思わずと叫んだ坂本を奥村がたしなめた。
彼は両手で口を押さえ、奥村と猫の中間あたりにくぐもった謝罪の言葉を投げるが、あまり心が籠もっているとは言い難い。
そんな坂本を押しのけて、双葉がずいっと前に踏み出す。
「でも起きてもらわなきゃ話はできないぞ」
足音を消してそろそろと歩み寄ると、丸くなった猫の耳がピクピクと反応する。完全に寝入っているわけではなさそうだ。
手が届く範囲まで近寄って、双葉はゴクリとつばを飲み込んだ。
―――デカい。一メートル近くはありそうだ。
うっかり飛びかかられでもした日には、双葉などろくな抵抗もできずにのど首を押さえ込まれてしまうだろう。
こみ上げる本能的な恐れを、双葉は『モナのため』と振り払い、すうっと大きく息を吸った。
「たっ、たのもう!」
「ぶにゃ……?」
巨猫はその大きさに相応しいゆったりとした動きで顔を上げる。毛皮はいくらかくたびれてこそいるが、金色の瞳にはえもいわれぬ迫力があった。
「うおお……マジででけぇな……」
やはりこちらも本能的な畏怖を覚えているのか、坂本はわずかに後退った。こいつとケンカしたらタダでは済まされないという確信が、その胸にはある。
さりとて事を構えるつもりはないのだ。奥村もまた坂本を押しのけてずいと前に身を乗り出した。
「あの、お休みのところをごめんなさい。私たち……」
「ささっ、さがっ、探してるやつがいるんだっ!」
巨猫はちらりと二人の相貌を眺め、ひげを揺らすと顎を前足の上に戻した。その様は、興味がないと言わんばかりだ。
これは無理矢理にでも意識をこちらに向けてもらわねばならないと、双葉は岩に両手をつけて彼に肉薄する。
「おねがいっ! だいじな友だちなんだよ、家族みたいにおもってて……そいつ、帰り道わかんなくて困ってるかもしれなくて……!」
「お力添えをいただけませんか? 本当に大切な子なんです」
奥村もまた双葉の隣に並んで、丁寧に頭を下げる。
傍から見れば異様な光景だ。一般的に常識を身に着けていてよさそうな年ごろの女子が二人、猫に向かって必死になって懇願している。
ばかばかしいと切り捨てるのは簡単だ。そもそも相手は猫で、言葉が通じているかどうかも疑わしい。
それでも坂本は、スマートフォンを手繰って一枚の画像を表示させると、巨猫の鼻先にうやうやしく差し出してみせた。
「……こういうやつなんだけどよ、知らねぇ?」
なんでこんなことしてんだろ、と思いつつ掲げられたのは、居眠りをしているらしい少年の頬に肉球を押し付ける黒猫の姿だ。少年の口の端からはよだれが垂れている。
するとどうだろう。猫は小さくかぶりを振ると、眠たげな眼をかすかに開いて画像を覗き込んだ。
また彼は、
「ぶにゃにゃ、うにゃうにゃ、なおーんなうなう……」
なにかを重々しく告げもした。
その様はまるでおとぎ話か子ども向けのアニメーション作品から切り出したかのようだ。彼は間違いなく、言語によるコミュニケーションを図っている。
「……なんて?」
「わかるかよっ」
「まあ、たくさん喋る子なのね」
とはいえその努力は実らなかった。人間たちは彼の発言の意味を理解できず、できるとも思わず呆けるばかりだ。
喋る猫の存在を身近にしていても、他の猫までとはなかなか思えないらしい。
巨猫はそんな少年らの様子にフンと鼻を鳴らすと、やおら立ち上がって岩を飛び降り、スタスタと歩き去っていってしまった。
「あーねこ行っちゃったねこぉ……」
追うのも気が引けると双葉は肩を落とす。猫は楓の木の一本に目をつけると身軽に跳び上がって足踏みに、塀の向こうへ消えてしまった。
「やっぱりご迷惑だったかしら。お休みのところに、かわいそうなことしちゃったね」
「ん……今度猫缶持ってきてやろ」
「エサやっちゃダメだろ野良だし。……野良か? あの大きさで野良ってヤバくね? 通報されそうじゃね?」
坂本のツッコミは二人の少女の間を虚しく通り抜けた。
そろそろ日も落ちはじめている。夕刻と呼んでいい時間帯だ。ここには猫以外の姿は見えないから安全だろうが警戒するに越したことはない。
「……万に一つの気休めは済んだってことで、のそばにいようぜ」
気を取り直した双葉が提案することに、奥村は曖昧に微笑んでみせた。
「万に一つなら、案外起きたりするかもね?」
あの大きな猫さんが、モナちゃんを連れて帰ってきてくれるかも。
期待と夢物語に輝く瞳をわざわざ閉じさせる無粋な輩は、少なくともこの場にはいなかった。
それから少年たちは、日が落ち切るまでの間、のそばで彼女の様子に変化がないかを見守った。
その結果分かったことは、やはりこの時間帯であっても人混みを避けさえすれば異界に迷い込まないということだ。
「ふーむ、やっぱ人のいないとこでじっとしてるのが正解か」
「ああ。私が下手に動きさえしなければ、他の人が巻き込まれることはない……と思いたいね」
日が落ちて分かったことはもう一つあった。鳥居のそばには、なんと生きた電灯が一本だけ存在していた。弱々しくまたたく蛍光灯だ。もしかしたら、この場の誰よりも年を経ているかもしれない。
その明かりに照らし出される範囲に猫の姿は見当たらない。猫たちは時間の経過とともに数を減らし、今や数匹の野良らしき年寄り猫くらいだ。彼ら以外は家や寝床に帰ったのか、はたまたこれから狩りの時間か。あるいは単純に都会の中とは思えぬ濃い闇に隠れて人の目を逃れているのかもしれない。
いずれにせよ、は申し訳なさそうに眉をひそめてしまう。
「猫も帰る時間だ。双葉ちゃん、君は大丈夫? 春さんも竜司も」
「あれ? 俺は?」
「門限までまだ余裕あるよ」
「それはそうだが」
なにか釈然としない、と口を尖らせて、喜多川は双葉に奪われていたスケッチブックを取り返そうと腕を伸ばした。
「あーっ、まだ見てたのに!」
「マスターが心配するだろう。早く帰ったほうがいいんじゃないのか?」
「ダイジョーブ、もうタクシー呼んだ。春が」
示されて奥村は頷いた。
「うん。でも少し時間がかかりそう。十分くらいは待たなくちゃかな」
「こんなとこまでタクシー入ってこれねぇだろ。とりあえず出ようぜ」
促して坂本は鳥居をくぐった。民家の隙間は狭く、真っ直ぐに伸びた先からは人の世界の証明であるかのように人工光が差し込んでいる。
その光に安堵することもまた原始的な感情だ。
炎の明かりさえ手にしていなかった太古、人はどうやって夜の闇の恐怖を凌いでいたのか……
などとは坂本は思わなかったが、ここにある今にも消えそうな弱い光より、道の先の強く安定した輝きに安心感を抱いたのは確かだ。
けれど早くそこにたどり着こうと踏み出した一歩は双葉によって押し止められた。
「ちょいまち」
「あ?」
「十分くらい余裕あるんだろ? なら帰る前に試したいことがある」
そう言った彼女の手にはスマートフォンが握られている。
なんだと首を傾げた一同の前で、双葉はなんの説明も躊躇もなく『それ』を起動した。
途端少年たちは一瞬の目眩と浮遊感、耳鳴りに襲われる。
見当識さえ失ったかのような感覚にたたらを踏み、各々手近な支えに手を伸ばすも、それらはすぐに取り戻された。
「……なんだ、これは……」
つぶやいたのは喜多川だ。彼は右に双葉を、左にをくっつけて呆然と立ち尽くしている。
「やっべ、こりゃひどいな。どっか記述間違えたか……?」
双葉はよろよろと喜多川から離れ、両足の感覚を確かめるようにその場で足踏みを繰り返す。踏みつけられる野草の上には濃い影が落ちていた。
状況のおかしさに真っ先に気がついたのは坂本だ。彼は鳥居につけていた手をまじまじ眺め、次いで空を見上げて瞠目する。
「は? は? なん……なんじゃこりゃあっ!?」
つい先ほどまでとっぷり暮れていた空は茜色に巻き戻されていた。かすかに聞こえていた生活音も走行音も、時おり届く犬や猫の鳴き声もぱったり途絶えている。
「―――ペルソナっ!」
唐突に吠えた奥村の背後に、当然のように彼女の影が立ち上がる。けれど豪奢なドレスを翻した顔の無い女は、どこか困った様子で周囲を見回すばかりだ。
「やっぱり、ここは異界のようね。双葉ちゃん、どういうことなの?」
ふつと半身を消し、奥村は厳然と問いかけた。
わずかばかりにも怒りの籠められた視線に、しかし双葉は怯えることなくスマートフォンを突き出した。
「むふふ、これっ!」
「な、なに? 経路案内……?」
示されたものに心当たりのないは首を傾げるしかない。その手は未だ喜多川のコートの袖を掴んでいるが、彼女はそれにさえ気がついていない様子だった。
掴まれるほうの喜多川は、驚きもあらわに声を上げる。
「それは、イセカイナビか? なぜまだ残って……いや、なぜそれによってここへ?」
「かくかくしかじか」
「真面目に訊いてんだよっ! ちゃんと答えろや!」
流石にこんな状況だ。冗談に乗る余裕はないと叱る坂本に肩をすくめて、双葉は改めて己の成したことを語った。
イセカイナビのソースコードを分解、個別に保存していたこと。それを記憶を元に組み立て直し、さらに改造を加えてこちらの異界に対応させたこと―――
「実験も成功。これで自由に異界と現実を行き来できるぞ」
自慢げに胸を張った双葉だったが、返されたのは白けた空気だ。
実験に付き合うことに不満はないが、それならば事前に一言あって然るべきではないのか。
坂本と喜多川はそっと奥村に目線をやった。『躾』は任せると意思を籠めて。もちろん、奥村は頷いた。
「あれ? わたしピンチ?」
「かもね。上手くいったから良かったものの、失敗してまた別のとんでもない異世界に迷い込んでいたらと思うと、ゾッとするな……」
「それはないよぉ、ちゃんとがいなきゃ起動しないよう指定してあるよぉ」
両手を振って抗弁する双葉ではあったが、はやっと喜多川の袖を掴んだままでいることに気がついてそれ以上は反応してやれなかった。
慌てて離れた彼女は踵を石畳の角に引っ掛けてすっ転ぶ。幸い頭こそ打たなかったが、尻は強かに打ったらしい。痛みに身悶える少女を、少年たちは救出してやろうと手を差し伸べた。
そんな一幕を背後に、奥村はこんこんと双葉に組織における『ほうれんそう』の大切さを説く。
意思疎通なくして、そも社会は成り立たない。そこを疎かにし、数字ばかりを追えばいつしか人心離れ、身近な存在にこそ足元をすくわれる―――
含蓄のある言葉だ。
双葉は素直にごめんなさいと謝罪した。
「うん、じゃあ次からは気をつけようね」
「ハイ……」
「でも、自由に行き来できること自体はありがたいよ。これでこちらの調査も、モナちゃんの捜索も捗るね!」
すごいよ、と手放しの賞賛を与えられて、双葉は照れた様子で頭をかいた。その言葉には嘘も企みもないが、肯定的な発言には意味があった。典型的なアメとムチだ。
そうと分かっていても誇らしくなれるのは、双葉が単純なのか、奥村の素質か。
を助け起こす喜多川は、沈黙は金と口を閉ざした。
「とりあえず出るか? タクシー呼んじゃったんだろ? つか出れんだよな?」
「入れたってことは出れるはず。やるぞ? ……やりますよ?」
「はい、どうぞ」
笑顔の奥村に促されて、双葉は『改造版イセカイナビ(仮称)』を起動させた。
再びの目眩と浮遊感、そして耳鳴り―――
その後彼らはすぐに一月の冷たい外気に触れ、揃って身を震わせる。
「うえっぷ……改良の余地ありだな。どこがいけないんだろ……」
「直せんなら直しといて、マジで……あークソ、ふらふらするわ」
坂本はおぼつかない足取りのまま狭い道をすぐに進み出した。
十分はとっくに経過している。寮施設のそばに呼びつけたタクシーはもうとっくに到着しているかもしれない。
奥村たちはやや早足になってその後を追った。
少年たちが消えた場所には猫が残り、じっと彼らが居た場所を見つめている。
渋い顔をして尾をひと振り、重苦しいため息をついて彼もまたその場を立ち去った。