← ↑ →
06:Don't Care if They All Despise Me
やっと言えたと涙目になる双葉の眼前、表示されたステータスは、おびただしい数があらゆる穴と隙間から這い出ることを教えていた。
しかし仲間たちの反応は芳しくない。
「はあ……?」
「どこからだ?」
訝しげに首を巡らせる少年たちの足元と、たちの右手、マンホールと排水口の蓋が音を立てて直上に跳ね飛ばされた。
耳障りな鈍い高音が一度、地に叩きつけられてもう一度。
離れた場所から似たような音が幾度も響いた。
開かれた穴たちからぬめった縄のようなものが一匹這い出たかと思うと、二匹、三匹、十、二十、五十、百―――
線虫めいてかたまり、もつれ合いながら大小種々様々な蛇があちこちから湧き、アスファルト舗装の上をのたうち回りながら広がっていった。
「―――ッ!!」
声にならない悲鳴を上げて高巻はにしがみつき、双葉は直ちにペルソナを呼び寄せて空中に浮かび上がった。
少年たちもまた、波のように押し寄せる蛇の群れに嫌悪感も顕に後退り、数歩の距離を空けていたたちのもとへ合流する。
今や、ビルの壁面、街灯を支えるポール、ガードレールやショーウインドウの向こうに置かれたマネキンや、駅舎と駅舎、ビルとビルを繋ぐデッキ網にまで細長い生き物たちは至り、蔦のように覆いつくしてしまっている。
地面が見えるのは少年たちの足元くらいだ。双葉もまた一人離れれば飛び掛かられかねないと、頭上に浮かび上がった位置から動けないでいる。
「すごい、東京にこんなに蛇がいたなんて」
「ああ、これほどまでの数が生息していたとはな」
この後に及んでまだ感心する余裕を見せる喜多川とはさておき、坂本は刺激することも躊躇われると得物を握りしめたまま硬直していた。
―――杏はビビってっけど、あいつが動けさえすりゃ、ワンチャン突破はまだ可能だ。問題は、その時間を稼ぐことだけ。いけるか? 祐介と……サンにやらせんのはどうなのよ。ヘビ平気そうだったし、バカ力だけど、女子だぞ!? やっぱ俺らがやるしかねぇんじゃないの!? イヤだけど―――!!
坂本は悲壮な覚悟を決め、ちらりと喜多川に目線をやった。同じものが返されたところを見るに、どうやら喜多川少年も同じことを考えていたらしい。
「おれ、泣きそう……」
「やめろ、お前に泣かれたら俺も泣く」
堪えろとせがまれて、坂本は歯を食いしばった。
しかし踏み出す直前、双葉が二人を押し留める。
「待って! なんこれ……へび、かたまって……合体してる……」
彼らの前方、数メートル先で異変は起きた。波のようにさざめく蛇の群れがさらにより集まり、糾う縄のように一つの大蛇の形をとる―――
見上げる高さは五、六メートルもあろうか。頭には巨体に相応しい角が生え、胴回りは大人五人が輪になってようやく囲めるかというほど太い。全長に至っては、十メートルは軽く超えていそうだ。
鱗の模様は複雑怪奇で、より集まった蛇が蠢くからか、赤と黒、黄色と緑の幾何学模様が絶えず変化し、万華鏡を思い起こさせる。
改めて得物を握り直した坂本と喜多川は、しかし再び『声』によって押し留められた。
『人の子じゃ。人の子があくがれぬままでおる』
かん高い声には誰も聞き覚えがなかった。すなわちそれは、大蛇から発せられているということになる。
ポカンとして声も出ない子どもたちに向け、大蛇はなお言を重ねる。
『此は如何に。なにゆえ参った? 此処は境界線の内。そなたらにとっての外ぞ』
問われているのだと気がついたのは、信じられないことに坂本だった。
「えと、いや、俺らは別に遊びに来てるわけじゃ……」
『なんと?』
「あ、その。ええ? しゃべんの!? てかなにッ!? なんて!?」
『なんと、あなかましい。やめよ、やめよ。おどろかすでない』
威嚇するように尾を掲げた大蛇に、やっと我に返った喜多川が応じた。
「―――いずこかの高貴な御仁とお見受けした。ご無礼、切にご容赦願いたい。俺たちはここへ迷い込んだだけなんだ、そこを通してくれ!」
『迷い込んだ?』
うーん、と大蛇は首をもたげて尾を下ろした。
『外と内を定めてこちら、たまさか人の子が舞い込むこともあれど……なんとまあ』
驚きとも感心ともつかぬ声をもらして、太く大きな首が今度はぐるりと一同を見回した。
大きさは違えど、瞳はは虫類のそれと変わらない。黒々としたつぶらな瞳はどこか愛らしく、宝石のような輝きを湛えて子どもたちを興味深げに観察しているようだった。
『外はまぎらわしきものとはいえ、人のすがたもさま変わりしたものじゃ。いと奇異なり……そういうのが流行りか?』
「あ、ああ、俺たちにはこれが普通だが……それより、あなたは」
なんなんだ、とは問えず言葉を濁した少年に、大蛇はちろりと舌で空を舐めて応えた。
『吾は谷頭なり』
ギョッとしたのは喜多川ではなく、その背後で高巻を優しく地に降ろしてやっていただった。
彼女はすばやく坂本らの背に取り付くと慌てた様子でその耳に囁きかける。
「そのひと、たぶん、神さま」
「……正気か?」
「やずはやつ。やつは谷間。渓谷の神……たぶん、見たら死ぬタイプ」
「ヤベーじゃん。え? 即効?」
わからない、と返されて、頭を抱えるどころかその場で膝を抱えたくなる気持ちがこみ上げる。これをぐっと堪えて、彼らは改めて神霊を見上げた。
谷頭なる神はまぶたの無い眼でじっと少年たちを見つめている。
たったそれだけのことで二人の背と腹の下に嫌な汗が吹き出した。それはどうやら、背後で動向を見守っていた高巻と双葉も同様らしい。
再び大蛇の舌が空を舐めた。
『ああ、そなたが。なるほど心得た』
なにを、と質す余裕はすでに失われていた。
谷頭なる神の眼が捉えていたのは坂本たちではなく、その背に貼り付く少女だった。そこには哀れみと深い労りの心が垣間見える。
にも関わらず今やその頸部は平たく広がり、内に隠された毒腺を明らかにしている。実に分かりやすい威嚇行動だった。
「あっこれなに? 戦闘?」
間の抜けた高巻の問いかけに答える者もなく、彼女も含めて全員がその場を飛び退った。
追うように大蛇の口から噴射された液体がアスファルトに叩きつけられる。
すえた臭いを放つそれはじわじわと染み込んでこそいくが、特別地面を融解させるようなものではないらしい。けれど双葉は青ざめてわずかに高度を上げる。
『その液体に触るなよ!』
警告に少年たちは眉をひそめた。それはまあ、大蛇の口から吐き出された以上ろくなものではならないだろうと想像つくが―――
『うっかり体内に入ったら身体中の血液が凝固して一瞬で血管詰まって死ぬぞ』
全員の背を薄ら寒いものが駆け上った。
このような経験をするようになってからこちら、死を覚悟したことは各々数は違えど幾度かあるが、そんな死に様はごめんだった。
さりとて、今や敵意も顕に巨大な頭を振る谷頭なる神を相手にするにしても、退くにしても、足元は通常サイズの蛇に埋め尽くされている。
進退はすでに窮まっていた。
―――やっぱり。
そう思うのは坂本だ。足元から威嚇してくる小蛇をつま先で追い払いながら、彼は得物を握りしめた。
―――やっぱ、俺らがやるしかねぇんだよな、コレ。
横目で窺えば、喜多川も口をへの字にしている。やはり彼も似たようなことを考えているようだ。
できればほんの少しでも打ち合わせがしたがったが、ことここに至っては仕方なし。男二人は覚悟を決めて構えを取った。
後ろに控えた高巻が一網打尽にしてくれることを期待して、いざや征かんと踏み出そうとした彼らは、しかしその間をすり抜けて飛び出した影に出鼻を挫かれる羽目になる。
「―――さん!?」
呼びかけた喜多川に目配せをして、は蛇の絨毯の上に足をつけると、跳び上がって一足のうちに歩道脇の道路標識に飛びついた。
そこにも蛇が絡みついているが、は怯む様子さえ見せずに鉄の塊を地面から引き抜いた。
掴んだ手や厚手のタイツに覆われた脚に何匹かが牙を突き立てると、痛みに仮面の下のからくぐもったうめき声が上がる。しかし動きを止めるには至らず、少女は引き抜いたばかりの道路標識で足元を薙いだ。
舗装するアスファルトごと、そこにいた蛇たちが宙を舞った。吹き飛んだアスファルト片は真っ直ぐ大蛇の腹に突き刺さる。
しかし、太い腹は呑み込むかのように瓦礫を受け入れると、ほどけた縄か糸のように身を崩して小さな蛇として別れ、液体のように溶けて広がってしまう。
は仮面の下の目を見開いた。今の攻撃で倒せたなどとは到底思えない。であればこれは―――
のすぐ背後で、蛇たちが再び寄り集まって大蛇を形作った。
大口を開け、少女をひと呑みにせんと襲いかかる。
咄嗟にふり返ったは、手にした道路標識を盾に牙と打ち合った。一合、二合、三合……四度打ち合わせたところで少女は足を絡め取られ、押し負かされてその両腕が跳ね上げられた。
万歳の姿勢になった胴はがら空きだ。今度こそ逃れることも迎え撃つ術もなく、無防備な腹に牙が突き立てられる。
寸前、気合の声とともに一閃が疾走った。
刃とともに大蛇の首を斬り落とし、通り抜けてはひしめく蛇の上に着地したのは喜多川だ。チン、と鞘に収まる涼やかな音が響いた。
大蛇はしかし、斬り落とされたところから新たな首を生やして再び大口を開けた。見れば落とされた首は先と同じく、小蛇に戻って群れに合流しているではないか。
舌打ちを一つ。脚を絡め取られそうになって喜多川はその場を飛び退った。
を呑み込もうと開かれた巨大な口には、坂本の大ぶりの一撃が叩き込まれる。
剛撃によって牙がへし折られ、また体勢を整えたは再び足元から地面ごとすくい上げる一撃をお見舞いする。
再び大蛇の頭部は弾け飛んだが、またもやまばたきの間に再生した。
「チッ、やっぱダメか……まとめてふっ飛ばすしかねぇな」
ボヤいた坂本に、と喜多川は頷いて後方へ目を向ける。
打ち合わせのための時間稼ぎとしては、は十分な働きを果たしていた。
少年らの背後には鞭を手に佇む高巻と、陽炎のように揺らめく周囲の光景があった。そのさらに後ろに嗜虐的な笑みを浮かべる艶やかな女の影も。
作り出された焦熱によって風景が歪み、また魅惑的なその脚にすり寄ろうとする不届き者はそれによって瞬時に炭と化した。
やがて炎が現れる。
「っし、イケるっ! うまく避けなさいよ! 焦げても責任取らないから!」
鞭をひと振り、激しく地を叩いた途端、少女の周囲を覆う熱が膨れ上がって一直線に突き進み、大蛇の太い胴を捕らえた。
牽制するため組み合っていた少年たちがたまらずその場を離れると、一瞬前まで立っていたそこを炎が余すことなく舐めていく。
かん高い気泡音は足元と大蛇を形成する小蛇たちの断末魔か怒りの声だろう。炎が通り過ぎたとき、残されていたのは炭化した彼らの死体だけだった。
「どんなもんよ!」
渾身のドヤ顔を浮かべて腰に手を当てる高巻の左右と前方に、大きく跳躍して炎を躱した少年たちが揃って着地する。
「やっぱジャージ必須だわ。あと捨ててもいい靴」
「ジャージだって馬鹿にならんぞ。ああ、焦げずに済んで良かった……」
「すごい火力。バーベキューするのに便利そうだ。いいなぁ」
「え? そういう感想? さん、ちょっと天然入ってる?」
和やかに談笑しつつも、今回ばかりは彼らも気を抜いたりはしていなかった。
蛇は地を埋め尽くすほどにいたのだ。ずいぶん数は減らしたが、殲滅には至らないことはわかり切っている。
『またくる。前方、パセラ方面』
静かな双葉の声に促されて少年たちは遠くに見えるビルの一つを目印に向き直った。
その先十メートルほどの距離をおいて、蛇がぞろぞろと寄り集まっては縄のように絡み合い、再び谷頭なる神となって首をもたげた。
先の打ち合いも炎も前哨戦に過ぎないと彼らは理解している。相手が自分たちより格上の相手であるとも。
『たぶん―――』
大小種々様々な蛇が津波のように迫り、仲間たちがそれを嫌々はね返すのを足元に眺めながら、双葉は投影型タッチコンソールの上で忙しなく手を踊らせながら告げる。
『たぶんそいつは、クラゲの一種みたいに群体をつくるナマモノなんだとおもう』
「ぐんたいってナニ? 軍隊―――うおっ!?」
大蛇による大跳躍からのボディプレスをからくも躱すものの、着地点にいたアオダイショウを思い切りよく踏みつけて坂本はすっ転んだ。
横になったその身に布団を被せるように、無数の蛇が大挙して襲いかかる―――
「群体というのは、同じ種類の生き物が寄り集まって一つのカラダを形成するもののことだよ」
答えつつ横から割って入ったが道路標識の看板部分で塊をはね返した。
「ひい、あぶねぇ……ありがとよ」
「どういたしまして。それで、群体を形成するときは個々それぞれにはカラダのパーツとしての役目が割り振られるんだ。口とか目とか、肛門とかね」
これに何故か大蛇の牙と打ち合っていた喜多川が反応する。
「いま肛門と言ったか!?」
「そこ食いつくなヘンタイッ!」
すかさず、高巻が大蛇の尾を焼きながら叱りつける。
大蛇は概ねの予想通り、群体生物のようなものなのだろう。無数の蛇が集まり、一つの大蛇としてまとまっている。それ故に、首を落とそうが焼き払おうが、躰を形成する蛇が尽きぬ限り再生し続けるというわけだ。
『着眼点はわるくないんだけどな。こーもんじゃなくて心臓か脳……生き物の絶対的な弱点が必ずあるはず』
あるいは語り継がれた神霊であるというのなら、伝説になぞらって斃すという手もある―――
唯一この場で谷頭なる神のことを知るは元気よく、
「そういう話には心当たりない!」と答えたから、対処は群体の核を突く方向でまとまった。
双葉はすでにそれらしき結論を得ている。
反応を探れど、一つとなった大蛇の中に脳も心臓も存在しない。しかし一個体としてあれだけの機動を見せる以上、瞬間的な判断を行い、全身に指令を送る器官が存在しているはずだ。
最悪、一匹残らず蛇を殲滅するという手も残されている。
『とにかくわたしがそいつの弱点を探ってやるから、なるたけバラして! 散らばった瞬間とかたまる瞬間の反応をみたい!』
要請に応えて、高巻は地上三メートルの高さを保ち続ける双葉、および彼女のペルソナの上に飛び乗った。
『ぐえっ』
「ちょっとごめんね。しばらく相乗りさせてっ」
しぶしぶながらも了承した双葉に満足げに頷いて、高巻はすぐさま豪炎を大蛇の腹に叩き込んだ。
燃え盛る炎はまたたく間に体表へ広がり、たまらず巨体が解けて四散する。
『もう一回!』
「つっても結構キチぃよこれ!」
喚き散らしてみせるものの、坂本は離れた場所で再び肉体を形成する大蛇に迫った。仮面の下から目配せする先、彼の左手には喜多川とが続いている。
一瞬速度を緩めた坂本を置いて、露払いと喜多川が飛び込んだ。大蛇は持ち上げていたあぎとを振り下ろして迎える。
衝撃とともに少年の悲痛な声が響き渡り、割られたアスファルト片と切り離された蛇たちが飛び散った。
は構いもせず踏み込み、息つく間を与えまいと宙に舞う瓦礫を打ち返す。
「コートが! また汚れた……!」
悲鳴じみた喜多川の泣き言を通り過ぎて破片は大蛇の身に突き刺さった。
先ほどと同じように、破片は巨体に呑み込まれたかのように躰の内側に取り込まれる。
しかし目を凝らしてよく見ると、大蛇は尖った破片を吸収しているのではなく、躰に穴を開けてくぐり抜けさせているではないか。
であれば、とは喜多川を見やった。彼は応えて顎を引くと、足元に積もった瓦礫のことごとくを鞘の先や脚を使って打ち上げた。
道路標識がそれらをまとめて捉え、豪快に振り抜かれる。
『こしゃくな―――』
忌々しげに唸った大蛇は七つも八つも飛来する礫に穴を開けそこね、いくつをまともに喰らってしまう。
「よしっ」
「面制圧が効果的なようだな。任せたぞ」
ぐっと拳を握ったを下がらせ、喜多川は悲しげな目線を己の腰元に落とした。すっかり土埃で汚れた彼のコートは、その上頬に負った傷から滴る血を吸って黒く汚れてしまっている。
先週に比べればまだマシな部類だ。家に帰ったらすぐに洗ってしまおう。
心に誓う少年の後ろを坂本が駆け抜けていった。
大蛇に空いた穴はまだ塞がりきっておらず、タールのように粘ついた黒い液体―――おそらく血―――が滴っている。
そこを狙って金棍棒の先端を叩き込み、振り抜いてさらに穴を広げてやる。気泡音は散らばった小蛇の悲鳴だろう。
坂本は仮面の下の眉をひそめたが、こみ上げる感情を飲み下して銃を構えた。
つや消しされたボディにトリガーガード、連射と近距離戦闘に重きを置いた銃身にはリアサイトが存在しない。大まかに狙いを付けてブッ放すだけという取り回しは、いかにも彼向きの得物であった。
「銃まで出た! 喜多川くんも出せるの?」
「ああ、あるぞ」
弾倉に改造の施された散弾銃は九発全弾を大蛇の身にすべて叩き込んだ。
おまけ程度に喜多川の援護射撃が飛ぶ。ライフル銃から放たれた二発は過たず大蛇の眼球を左右とも撃ち抜いた。
これに大蛇は弾けるような勢いで身を崩した。
『むっ? なんぞ、どういうこっちゃ……あっ、あっ、うごくなよもーっ!』
どうやら双葉がなにかに気がついたらしい。
勝機が見えたかと喜ぶ暇もなく、大蛇はまたも躰を形成して立ち上がった。
『―――えっ、なんで―――』
双葉が驚嘆の声を上げたのは、立ち上がった巨体が一つではなかったからだ。
「避けて!」
警告は高巻からもたらされた。
坂本たちは事態を把握して散開する―――
飛び退った少年たちが居た場所を、二本の太い尾が叩いた。
『なんで増えるんだよッ! ずるいぞ!』
焦りと怒りの籠められた言葉の通り、大蛇は今や二体に増えて少年たちを睨みつけている。
谷頭なる神霊はまた、かかと高らかな笑い声を響かせた。
『此はそなたらにとっての外、吾らの内。理は吾らのもの―――』
「意味わかんねぇ!」
すかさず怒鳴り返した少年に大蛇たちは一瞬だけ動きを止めると、グネグネと揃って身を揺さぶりはじめた。
どうやら困っているらしい。
やがて神はひときわかん高い声で、
『……わしらのほうがここでは強い』と言い返した。
そしてそれを証明するかのように、さらにもう一体が現れる。
「ちょっ……まだ増えんの!? アンタたち、逃げなさいっ!」
『リソース無限かよ! どう考えたって計測以上の数がいるじゃねーか!』
双葉と高巻の悲鳴と同時に、合わせて三つのあぎとが坂本たちに襲いかかった。
一体に三人でかかってやっと傷を負わせた相手だ。それぞれ別個に狙われては回避するのも難しい。
まして足元は蛇で埋め尽くされている。
「うぐっ」
分断された先では声を上げて膝をついていた。そのふくらはぎには蛇が二匹喰らいついている。毒はないが牙は大きく、堪えようのない痛みを彼女に与えていた。
『いとこころぐるし。然こそ言え、無為の犠牲は本意ではあらぬ。許せよ娘』
言葉が示す通り、どういうことか目を細めた神霊に敵意や害意といったものは見当たらない。
「……やっぱり、そうするしかないんですか……?」
は苦しげに喘いで胸を押さえた。
『然り。吾が住処から引き離されたのもそれ故に』
「でも、な、なんで……」
大蛇はゆるく首を振る。
分からないということなのか、はたまた語るべき言葉を持たないということなのか、には解らない。
彼女を囲うように蛇たちが群がっている。退路を探る目をどこへ向けても、切れ目は見つからなかった。
先よりずっと数を増している。
焦りとともに歯を噛んだ彼女を憐れみをもって見つめるも、谷頭は大きく口を開いた。
上顎の奥に小さな―――それでも大人の頭ほどもある―――牙が覗いている。そこから滴った毒液がの目と鼻の先に雫となってこぼれ落ちた。
は仮面の下の顔を青ざめさせる。戦う意志はまだあったが、それが役に立つかどうかは彼女には解らなかった。
幸いなことに降り落ちるように頭上から迫った牙を防ぐことには成功する。鈍い金属音が鳴り、スチール合金の棒がへし曲がった。
単純な力比べはほとんど拮抗していたが、間に挟まれる物品にはたまったものではない。
きしむ音を立てる竿が限界を迎える寸前、横から彼女をかっさらう腕があった。
「無事か? 無事だな! 一度態勢を整えるぞ!」
早口に言って少女を担ぎ、すり抜けたのは喜多川だった。一拍遅れて飛び込んだ坂本が勢い余って地を舐めた大蛇の脳天を強かに叩いた。
「おまけだ!」
彼はまた己の半身を呼び寄せ、猿神とともに猛然とした勢いで大蛇の躰を打ち据えた。
谷頭は気泡音をもらして解け、その場を退く。
どうやら二人は首尾よく別個体の攻撃から逃れ、双葉の指示に従っての救援に駆けつけたらしい。走り抜ける二人と抱えられる少女の後には二つの巨大な頭が追ってきていた。
頭上から降り注いだ炎の塊が壁をつくり、追手と少年たちを分断したのは彼らが蔦に覆われたショッピングモールの入り口付近にたどり着いたときだった。
壁をつくり上げた張本人である高巻が双葉のプロメテウスから飛び降りてそこに合流する。
「ちょっとヤバくない? 撤退する?」
「できるのか?」
『ルート自体は指示できるよ。成功するかは……』
わからない、と率直に告げて、双葉はふらつきながら少年たちの頭上まで高度を下げる。
「例の弱点ってやつはどうなったん。てかなんで分身してんの?」
『うー、うー、弱点っていうか、コアがあるのは間違ってないはずなんだよぉ……』
ならば何故複数の個体を形成しているのだ。
誰もこの疑問を口にしなかったのは、炎の壁を破り、我が身を焦がしながらも小蛇たちが波のように押し寄せたからだ。
彼らはまた、燃え落ちながらその身でもって炎を押しつぶし、進みながら巨体を形成する―――
喜多川はすばやく反応して半身を呼び、身を裂くような冷気で大蛇の足元を凍りつかせた。
しかしそれも、凍りついた部分を脱皮する要領で脱ぎ捨てられては功を奏さない。
太い尾が少年たちと建物を支える柱もろとも振り抜かれ、彼らはガラスや壁を突き破る勢いで弾き飛ばされた。
唯一上昇によって難を逃れた双葉であったが、視界は舞い上がった砂埃と燃える蛇の骸から立ち上る黒煙に埋め尽くされてしまっている。
『みんなっ! だいじょうぶか!?』
生存自体は確認できていた。反応は拾えているから、位置も把握できている。しかし助けに向かうには彼らはバラけてしまっていたし、そばにはまだ大蛇が油断なく鎌首を揺らしている。炎の壁の破れ目からはもう一体が迫りつつあった。
彼らは冷淡な声で告げる。
『吾らにとっての外であればいざしらず、内なる外でそなたらが勝てる道理は無い。それを置いてしりぞけ』
視界の利かない土埃の中、強かに背を打ち付けて呻きながら坂本は辛うじて頭を上げる。後頭部にじんわりと濡れたような感触と熱があった。おそらく衝突の際に出血したのだろう。
彼のすぐそばに高巻が横たわっていた。坂本が咄嗟に間に入ったからか、彼女には傷一つない。しかし豊かで美しいブロンドの髪には埃や砕かれたコンクリ片が絡まってしまっている。
「いっ、たぁ……」
うめき声は明確な言葉を紡いでいた。意識があることは坂本にとっても、誰にとっても僥倖だ。少なくとも傷はすぐに塞いでもらえる。
坂本は高巻を助け起こすと、すぐに顎をしゃくって少し離れたところに倒れる喜多川を示してやった。彼は坂本たちより前にいて、まともに尾を受けたからだろう。かわいそうに汚したくないと切願していたコートは見るも無残な状態になっている。
「骨やってねえだろうなアレ」
「やばっ、治してくる」
慌てた様子で起き上がった高巻が喜多川のもとへ駆け寄っていく姿を横目に捉えながら、坂本はの姿を探した。
「双葉、サンどこ?」
『けっこうふっ飛ばされた。竜司の右手十メートル先。動かないし応答もない……フォローいけるか?』
「やるしかねぇだろ」
じわじわと広がる痛みと生ぬるい液体が襟首を濡らす不快な感触に歯を食いしばりながら彼は身を起こした。
濃霧のように視界を塞ぐ土埃のすぐ向こうに大蛇の気配がある。喜多川が立ち上がるのには少しの時間が要るだろうとみて、坂本は短く呼気をついた。
『むこうはこっちの位置と動きを把握してると思っていい』
ピット器官がどうの、赤外線がどうのという双葉の説明は坂本の耳を右から左に通り抜けた。そんなことは織り込み済みだと。
坂本に道理は解らないが、あの大蛇はを狙っている様子だ。おそらくそれは彼女の隠しごとに関係しているのだろうが―――
新島や奥村や、あるいは『彼』がいればこの状況を利用して彼女の糊塗を剥がすくらいはしただろう。その際デカいヘビ退治はもののついでだ。
けれど今ここに彼らは居らず、すぐ動けるのは己だけだ。
坂本は力強く地を蹴った。十メートルなんて距離は彼にとって一秒もかからない。足音に反応した蛇が跡をついてくる気配がしたが、彼は構いもしなかった。
「! 生きてっか!?」
跳ねるようにたどり着いた先、道を挟んだ隣のビルの壁面にはもたれかかっていた。声に反応するように手や足が痙攣するところを見るに昏倒こそしていない様子だが、身体をひどく打ち付けたのか痛みで声が出せないらしい。
坂本は彼女の直前でふり返り、半身を呼び寄せて雷鳴を轟かせた。すぐ背後に迫っていた大蛇は激しい閃光に顔を焼かれ、崩れ落ちて四散する。
「立てるか?」
「う、ぐ……だい、大丈夫……」
この隙にと腕を掴んで引っ張ってやると、はふらつきながらも己の脚でしっかりと自立した。
「それより、双葉ちゃんは―――」
「あいつなら上だし、ケガ一つねぇよ」
「それはよかった。でもそうじゃなくて」
『お呼びか?』
律儀に頷いて、は坂本の腕に捕まりながら口を開いた。
「群体生物なんだ。この神さまは、たくさんの蛇が寄り集まって一つの身体を形成してる」
「それさっき聞いたけど」
あたりに集いつつある小さいほうの蛇の気配にじりじりと後退りつつの坂本が言うことに、はゆるく首を横に振った。
「それは、あの大きな一個体だけを見てした話。でも……」
『あーっ! 把握した! りゅーじ! 杏と合流しろ!!』
唐突に飛び出た大声に、坂本は思い切り顔をしかめた。うるさいうるさいと罵られることの多い彼にしてもそうしたくなるような大声だった。
「露払いは、まかせて」
腕から手を離してが言った。手にはあの衝撃の中でも手放さなかったらしい歪んだ道路標識―――車両進入禁止の印はすっかりひしゃげていびつなじゃがいものような形に成り果てている―――が握られている。
坂本はすっかり彼女のことを気に入って、軽く肩を叩いてやった。
言葉も交わさずに駆け出した二人は、足元を覆いはじめた蛇たちを文字通り蹴散らし、すぐに高巻らが待つ場所に駆け戻った。
「こっちはいつでもいけるよ!」
喜多川の治療を済ませていた高巻は、すでに双葉から指示を受けて待ち構えていた。
「先鋒は任せろ」
喜多川もまた。
受けて坂本は頷くと、すぐに彼らと別れて走り出した。高巻がそれを追う。
残された喜多川とは息をついてすぐ、そばに迫りつつあった大蛇に躍りかかった。
『つまり、だ』
再浮上し、剣戟の場を見下ろしながら双葉は言った。
『わたしたちはあのデカいの―――その躰のナカに本体が潜んでると考えてた。あれが一つの個体だと思い込んでたんだ。でも、あれがバラけたとき、散らばったへびたちの中に特別な反応はみられなかった』
彼女の足元、直下で喜多川が振り下ろされた尾の一撃を躱し、翻って逆なでするように刃を突き立てている。
仰け反った蛇の顔にが飛び掛かる。脳天めがけて垂直に振り下ろされたポールは、さらに奇妙な形にねじれ曲がった。
『おまけにあれは一度にいくつもカラダを形成した。するってぇと、あれ一つ一つに本体かあるいはコアになるようなものが存在してるってことになる。もちろんその可能性もあるけと、でも、このわたしが反応を捉えられない以上そんなのありえない』
じゃあなんなのか。
双葉は大物相手にやたらと派手に立ち回る二人の映像を手で追いやって、坂本と高巻を捉える投影モニタを指先で引き寄せた。
高巻はすでに巨大な炎の塊を構え、坂本はいつでも走り出せるようにと構えを取っている。
『こいつは群体なんだ。ぜんぶで一つ。ぜんぶってのは、今ここにあるぜんぶ―――』
双葉の半身であるプロメテウスの内部に、周辺一体を広角で映す無数の映像が浮かび上がる。
「要はこの辺にいるやつ全部神サマの一部ってことだろ」
『そゆこと。デカいのはイカやタコの足みたいなもんだな。そりゃいくらでも再生するしいくつもつくれるわ』
「で? とりあえず全部焼いちゃえばいいの?」
『うむ。そのときの反応で今度こそコアを捕まえてやる!』
「お願いね。マジで。あんま連発できないんだから」
踵を鳴らして高巻は大きく息を吸い、気合を入れ直して顔を上げた。炎はますます膨れ上がり、今や太陽と見間違えそうなほどの光量と熱を放っている。
「やるよ! ヘカーテ!」
咆哮とともに炎が彼女の前方、道路と歩道、ビルの壁面と、扇状に広がり、勢いを得て燃え広がった。
蛇たちはその大きさに関わらず、鱗を熱になぶられてのたうち、跳ね回る。
双葉は表示させた全体の中から、直ちに奇妙な動きをみせる一団を拾い上げた。
自らが焼かれることも厭わず、絡み合って壁をつくる塊―――
『一時方向、五十メートル先!』
指示を受けて坂本は走り出した。
くすぶる炎と炭化した蛇の死骸で埋め尽くされた地はコンディション的にとても良いとは言えないし、心理的にもあまりよい心地はしなかった。
鼻には生き物が焼かれるいやな臭い。目は熱と黒煙でヒリヒリする。
しかし彼は七秒ほどの時間をかけてそこへたどり着いた。
足場の悪さを考慮しても、全盛期の記録と比べたらクソみたいなタイムだ。
己に向けて毒づいて、彼はひっくり返したざるのようなものへ大きく腕を振り上げる。
すると呼応するように網目が狭まり、防護はより強固なものとなってしまう。
『その中身がコアで間違いない! ぶっ潰せ!!』
双葉はそう言うが、疲労困憊した身で固く絡み合った壁ごと叩き潰せるだろうか―――
わずかな不安を風切り音が断ち斬った。
坂本の左手から、刀を鞘に収める、耳に心地よい音が鳴った。刹那の間に目を向けると、そこには喜多川がボロボロになった己のコートを渋い顔で見下ろしている。
坂本は渾身の力を籠めて腕を振り下ろした。その背後には谷頭なる神を楽しげに見つめる猿神の姿があった。
予め切れ目の入れられていたざるは八つに割れ、中に隠れていたひときわ小さな白い蛇は坂本と、その半身の一撃によって叩き潰される―――
かん高い絶叫があたり一帯に轟き、反響すると、またたく間に大蛇はいずれもが崩れ落ちて形を失った。
また同時にあれほどいた蛇の群れが嘘のようにかき消える。その場には小さくなった炎だけが残されたが、それもすぐ吹く風に押し消された。
「やっ……やった……?」
呆然とつぶやく坂本の背に、駆け寄った高巻の腕が伸びた。
「やったね! おつかれっ!」
ばしーん、といい音を立てて叩かれて、坂本はその場に崩れ落ちた。その後頭部は血に濡れている。
「え? ちょっと竜司? うわ! すっごい血ぃ出てる!!」
「杏、そちらが済んだら俺たちも頼む」
「うー……くらくらする……」
同じくその場に膝をついた喜多川と、よたよたと歩み寄るに頷いて、高巻はすぐに坂本の傷を塞いでやった。
一人無傷の双葉は彼らのすぐそばに着地すると、やることもないと周辺をぐるりと見回しはじめる。やがてどこからともなく指示棒を取り出すと、その先端で地面の上をツンとつついた。
そこには坂本に力いっぱい殴られ、目を回して転がる白蛇の姿があった。
『う〜むむむむ……』
「うわっ! 生きてる!」
双葉はサッと少年たちの背後に回り込んだが、白蛇はどうやら身動きも叶わないらしい。尾の先で悔しそうにアスファルトを叩くだけで、とぐろさえ巻くことはなかった。
『うう……外なるは内の如し、内なるは外の如し……まじれるは移りゆく世のならいか。吾のやぶれることこそその証か。ふーむ……』
小さな白蛇はなにやらブツブツとつぶやいていたが、やがてわずかに顔を待ちあげると、舌先で空を舐めながら坂本をじっと見つめた。
『ことしもこそあれ、いと小さきものたちにやぶれるとは。見事なり……』
「なんて?」
蛇はぱったり倒れて伸びきった。
「……褒められたんだよ、お前は」
同情を誘われたのか喜多川が谷頭の言葉を説いてやるが、坂本は後頭部に貼り付いたかさぶたを掻き落としながら「ふーん」と大した興味もなさそうに応えるばかりだ。
とにかくこれで終わりだ。あとはもう帰って風呂入って朝まで爆睡してやる。
そう心に誓った坂本の視線の先で、白蛇は光の粒へと身を変じさせはじめた。
「なんだ……?」
はてと首を傾げた少年たちの間を通り抜け、光の粒はさらに細かな光の粒子を撒き散らしながら、まっすぐにのいるほうへ移動する。
―――誰もが驚きをもってその光景を眺めることしかできなかった。
吸い寄せられるように加速した粒がの顔を覆い隠す能面に触れ、かすかに光を撒き散らしながら消える。その様はまるで吸収されたかのようだ。
そしてこの光景に、以外の面々は見覚えがあった。
斃した妖精や精霊、悪魔や神々の形を取るシャドウの力を己の中に吸収する姿―――
「その力……!」
立ち上がった喜多川に、治療のため座らされていたはびくっと肩を震わせた。
「え? な、なに? 今なにが起きた?」
また彼女の肩や背に手を触れさせていた高巻は、治癒を終えるとともに無遠慮に仮面を撫で回しはじめた。
「いま、さん、ジョーカーと同じことしたの……!?」
「だ、誰かなそれは」
「っぽい、のか? あ、ステータス値ちょっと変わってる!?」
双葉もまた反対側から腕を伸ばし、仮面を捕まえてゆらゆら揺らす。
は悲鳴を上げたが、起きたことを把握しても理解の至らない少年たちが止めに入ることはなかった。
「さん、出せるか?」
「え? え? なにを? 脳みそなら出そう、揺らさないで」
「あー、ほら、俺らみたいに。ペルソナ出せねぇ?」
「やってみてくれ」
いよいよ彼らもにじり寄って迫ると、はわけが分からないなりに、それでも健気に答えようと吠えた。
「ぺ、ペルソナ! ヤツノカミ……?」
しかし声にはどうも迫力がない。
だというのに、取り囲む怪盗たちと同じく仮面が外れることなくそれは現れた。
万華鏡のように移り変わる模様をした、巨大な蛇―――どう見たってそれは、先まで自分たちを散々痛めつけてくれた大蛇だ。
それは軽く首を振ると、求めに応じるように力を発揮してみせた。
ひょう、と空気そのものが切り裂かれる音がした次の瞬間、彼らのすぐそばにあったビルが轟音を鳴り響かせはじめる。
「え、なに」
「なんか切った感触した……」
気付けば蛇の姿はない。呆然とする少年たちの前で、音を立てるビルの上半分が斜めにゆっくりとずれていく―――
「あ」
異口同音につぶやいて、彼らはその場を大慌てになって退いた。全速力で走る彼らの背後で、縦二つに切断された建物が倒壊する。
激しい振動と衝撃。地鳴りと轟音。巻き上げられた土埃はまたたく間に彼らの視界を埋め尽くした。
「なんじゃこりゃあ!!」
口の中に砂が入るのも構わず双葉が叫んだ。
数百メートルを全力疾走した後の絶叫だ。双葉は力を失ってその場に倒れ伏した。
「っべーだろ……祐介、お前できる?」
「やってやれないことはないだろうが……試してみるか?」
やめとけ、と制して、坂本も双葉の隣に寝転がる。
「ちょっと竜司、汚れるでしょ。双葉も起きなさ―――」
嗜める高巻の肩に、のしっと重いものがのしかかった。埃とかすかな汗のにおい、制汗剤らしきシトラスの香り……彼女の肩には、がもたれかかっていた。
「……? さん? どしたの、ねぇ……」
まるで甘えるように頬を肩に擦り付けると、切り揃えられた髪の先が高巻の首筋をちくちくと苛んだ。
くすぐったい、と笑って身を捩ったが、しかし彼女はすぐに目を見開いて色気のない悲鳴を上げる。
「ぎゃっ! ちょっ、さ……鼻血!?」
慌てて肩を支えようとする高巻の腕をすり抜け、彼女の声にふり返った少年たちの目の前では受け身も取らず地に倒れ伏した。唯一幸いなことに、高巻が半ば抱える格好になっていたからか、顔面をひどく打ち付けるような羽目にはならなかった。
しかし、うつ伏せに倒れた彼女はそこから起き上がらない。時折肩や脚を痙攣させるように動かす以外、彼女が反応を返すことはなかった。
「なんで!? あっ、毒……!?」
青ざめる高巻のそばに、駆け寄った双葉がしゃがみ込む。彼女はすばやくの状態を確認し、ほっと安堵の息をついた。
「毒じゃない。そこはだいじょうぶ……ただ、なんだこりゃ、いろいろとすっからかんになってる。HPもMPもぜんぜん残ってない」
「それ死んでねぇ?」
「あ、いちだけ残ってるから。死んではいない。でもほっとくとやばげ」
「やばいんじゃん!」
見た目にダメージはないが、それでもと高巻は促されるまま治療を行った。
少なくともそれで鼻からとくとくと流れる血は止まったが、は目覚める様子を見せない。
少年たちは顔を見合わせて、とにかくまずは引き返そうと決めるとじゃんけんを行い、敗北した喜多川の背に彼女を預け、歩き出した。
その道中、彼らはの身に起きた現象についてを語り合った。
「マジなんなん? ヤベーだろさっきの。そいつもブッ倒れちまうし……双葉、なんかわかんねぇの?」
声こそ遠慮がちに潜められているもののあの破壊力には興奮を隠せないのか、どことなく弾んだ足取りで先頭を行く坂本の疑問符に、双葉は困り顔で応える。
「んーむ、たしかにジョーカーみたいなことしてるっぽい。こういうのはたぶんモナのが詳しそうなんだよなぁ」
そもそも本当に同じものなのかという疑問は残る。
何故ならば、と高巻はその答えをかざした。
「まずさ、さんってジブンのペルソナ持ってなかったよね?」
かの少年とて初めは自前のペルソナを持ち、その後シャドウとの交戦を経てはじめて対象の力を己の仮面に吸収、行使が可能だと判明したのだ。
これには大前提として、まずその者がペルソナ使いとして覚醒、ないし契約をしている必要があるのだと目される。
「……可能性としては……」
を揺らさないようにと慎重に足を運んでいた喜多川が低く唸るように言った。
「もしかしたら、さんもペルソナ使いなのかもしれない。春という前例もあるだろう。彼女も初め、力に目覚めてはいたものの顕現させるには至らず、使いこなすことができなかった」
「あー……そういやそうだな。そんで今、吸収して使えるようになった? にしたってそいつのペルソナどこ行ったんだよ。まずそこが先じゃねぇの?」
「『あいつ』はときどきストックがどうのといってたけど、吸収イコール上書きじゃなくて、複数を使い分けてたから、いるけどまだ出てきてないだけで、ヤトノカミとのナカで同居してる状態……?」
首を右に左にと傾げては解らないと悔しそうにする双葉の後を歩きつつ、喜多川は背に負った少女をちらと見て述べる。
「彼女自身のペルソナが発現こそしていないものの存在しているとなれば、先の吸収以前から常人離れした身体能力を発揮していた説明もつく」
「そうなると、さっきのすんごいのは……ヤトノカミ? が入っちゃって、それでウチらとは違う手順で能力が使えるようになったってことだよね」
「と、俺は思う。実際のところはわからんが」
先頭を行く坂本は、謎ばかりが蓄積する状況を吹き飛ばそうとでもいうのか、やたらに大きく、またはしゃいだ声をあげる。
「そんな深刻に考えなくてもいいんじゃね?」
もちろん、気絶した以外からは冷たい視線が返される。
「竜司、お前というやつは……」
「ンだよ、さっきの見たろ? すっげーじゃん!」
非難がましい喜多川の冷たく低い声にも動じることなく、坂本はまたおどけたように両腕を広げてみせた。
「まあ、たしかに戦力にはなってくれそうだね……?」
チラとを見やって、高巻は曖昧に頷く。そこには『しかし』がくっついている。
「でもやっぱ、あんまテキトーに使わないほうがいいんじゃない? さん、こんな状態だしさ。出たら病院とか、行ったほうがいいのかな……」
碧の瞳には気遣う色があった。
後ろから向けられるその視線に気がついたのか、喜多川は応えて頷いた。
「そうしたほうがいいかもな。先からどうも、やたらと熱い。熱があるようだ」
これには坂本も呻いて己の発言を悔いるようにうつむいた。
確かに、坂本の言う通り、ビル一つを瞬時に破壊する威力だ。喜多川は同じことができるかと問われて「やろうと思えば」と答えたが、実際のところこれは彼の『ささやか』な見栄に過ぎない。同じことは確かにできる。が、一撃では無理だ。というのが正確な解答だった。
坂本や高巻にしても、過程は違えど同等の結果を出せるという自負と自信がある。しかし彼らもやはり、瞬時にやれと言われれば「いやムリ」と答えるだろう。
対して、の見せた破壊力は凄まじくはあるが、鼻からの出血と昏倒、そして発熱―――
ぐう、と喜多川から腹の虫が鳴くような音がする。
彼は前を見据えたまま、
「俺じゃない」と主張した。
「空腹のステータス異常追加な。つまり、こやつの能力、ものっそいコスパがわるいっ」
双葉の口から情け容赦なく告げられた結論に、少年たちは重苦しいため息をついた。こうなることを知っては、あの破壊力の魅力をもってしても使用を推奨したくはなかった。
「すげー≪切り札≫になると思ったんだけどなぁ……そいつ、マジで大丈夫なんだよな?」
「うん。外出てちゃんとごはん食べさせて、きちんと休めばなんとかなる。あとは念のため病院な」
一同の足は交差点の中央を通り抜け、高巻以外の本日の集合場所である駅前のランドマークにたどり着いていた。
出立前、彼らはその足元に各々の荷物を放り出していた。双葉は積み重ねられた中から財布とスマートフォンを詰めたウェストバッグを取り上げつつ、先の坂本の発言を拾って述べる。
「実際、≪切り札≫になるとはおもう。一発こっきり、捨て身の秘奥義。まあブッパが当たるかってぇと相手次第だけど」
「マジかよ。やらせんの?」
おいおい、と流石の坂本も苦言を呈しそうになるが、双葉は犬を躾けるように手のひらを突き出してそれを押し留めた。
「でも、だ。でも今んとこの力の正体がほんとにペルソナかどうかもわかんないし、その状態だろ。仮にあれがペルソナの力だとして、制御できない力なんてパルプンテと同じだ。アルケニーのマハムドみたいなことになったら目もあてられん」
「なにそれ?」
「わからん」
顔を見合わせる高巻と喜多川を尻目に双葉は続ける。
「まずはに力の制御をおぼえてもらおう。その上で、が使いたいって望んで、わたしら全員が承認したら使ってもらう、ってのはどうだ?」
「どうだって言われてもよ……」
「んまあこれは後でまことたちにも話を通す必要があるだろうけど……ひとまずの草案。どう?」
坂本たちは顔を見合わせ、それから未だ目覚めないの様子を窺った。ぐったりとした様子を目にしては、先にはしゃいでいた坂本でさえ軽々に「オッケー」とは口にできない。
しかしふいにピクリと腕が震え、彼女は喜多川の肩に顔を埋めたまま、くぐもった声で言う。
「わかった……私は、それでいい……」
のろのろと顔を上げた彼女は喜多川を促して膝を折らせると、ふらつきながらも己の足を地面に着けた。
「無理をするな。熱はまだ引いていないんだ」
気遣うように差し出された喜多川の手をやんわりと断って、は像の台座に背を預ける。
「大丈夫、インフルほどじゃない。呼吸も問題ないし、痛みもない。熱いお風呂に入って一晩寝れば治るよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
心配そうに高巻が歩み寄る。額にあてられた彼女の手は受け入れられたが、は頑なだった。
「もちろん、君たちが判断したことも受け入れる。ペルソナとか、異世界とか、そういう方面に関しては君たちのほうに一日の長があるみたいだし。でも、私の意見としては、双葉ちゃんの案に賛成」
少年たちは困り顔で互いの顔を見やり、意見を探り合う。長い時間のことではなかった。なによりの意志は固そうだとみて、諦観の息をつく。
それにこの判断自体にも彼女の抱える事情を知る手がかりが隠されていそうだ。無下にして心を閉ざさせるよりはと彼らは頷きあった。
「……じゃ、まずこっちで他の連中と作戦会議するな。そこでまた、いろいろ決まったら連絡する」
代表として双葉が述べ、みんなもそれでいいかと尋ねると、これに全員が頷いた。
さてそれでは今日はもう帰ろう。服も汚れたしやたらと疲れたとめいめい持ち物を抱えて駅構内へ歩を向ける。
は多少ふらついてこそいたが、支えを必要とするほどではないという本人の弁は強がりではなかったらしい。遅れることなく一同に続いていた。
そんな彼女たちの姿を最後尾から眺めていた高巻は、思わずと場違いを自覚しつつも小さく笑った。
「アンタたち今日どこ行ってたの? なんでお揃いの保冷バッグ持ってんのよ」
柔らかな高巻の笑みに、しかし彼らは青ざめてその中身を確認する。
―――四つの悲鳴が駅構内にこだました。
……
翌朝、疲れの抜け切らぬ日曜日、坂本は日課のロードワークを終えたのち、ぶらりと家を出て昨日散々苦しめられた戦いの場―――
その『こちら側』に該当する場所に訪れていた。
けれど特別なことはなにもない。いつもの街の風景があるだけで、蛇も炎も、瓦礫もなにも無く、ただ人と騒がしさだけが溢れている。
やはりパレスと同様に、異世界での出来事が現実世界に反映されることはなさそうだ。
それならば暴れることに躊躇はいらない。あるとすれば、やはり着替えの持ち込みが必須となる点に関してだろうか。昨日の帰りも、家に帰り着いてからも苦労した。
念のためと鞄の中に忍ばせたトレーニング用のジャージの存在を意識しつつ、彼はふらりと目的もなく歩き出した。
そろそろ昼時だ。なにか適当に見繕って済ませよう―――
そう思った矢先、またも彼は一人きりの食事は許さないとでも定められているかのように見知った人の姿を見つけ、少し小走りになって彼女の背に近づいた。そこにはわずかばかりの怒りが籠もっている。
「なに出歩いてんだよ、!」
「うわっ、坂本くん」
そこにいたのは間違いなく、昨日疲労困憊した状態で別れただった。
ただしこの日の彼女はややくたびれた風情が残るものの顔色は良好で、熱やそれに伴う発汗はみられない。
意識せず安堵の息をもらす彼の姿に、は苦笑して肩をすくめる。
「だから大丈夫だって言ったじゃないか。それに、一応病院の帰りだ」
「マジ? どうだったん?」
「なんともないよ。なーんにも。念のためインフルエンザの検査もしたけど、陰性。これはまあ当然だけど」
「無理してねぇだろな」
は朗らかに笑ってみせた。
「君は私のことを立派な戦力と認めてくれていると思っていたけど、そうでもないのかな?」
「それとこれとは話が別……」
言いかけて、坂本はうん、と片眉をひそめた。
違和感の正体はすぐに分かった。その会話を交わしたとき、彼女は喜多川の背に負われていたはずだ。
「聞いてたんかよ……」
「ぼんやりとだけどね」
「あー……無責任なこと言って悪かったな……」
「気にしてないさ」
彼女は本当に、かけらも坂本の不用意な発言を恨んだりなどしていないと柔和な笑みを浮かべている。
坂本は毒気を抜かれて、降参だとわざとらしく両手を上げてみせた。
それから彼は、彼女の言葉を肯定するように親しげで砕けた態度を差し向ける。
「てか、その坂本くんってのやめてくんね? あいつらみたいにテキトーでいいよ」
彼の言うあいつらとは当然、もそれなりに馴染みつつある面々のことだ。
は少し意外そうに目を瞬かせたが、すぐに頷いて、例の如く謎の理解力を発揮した。
「わかった」
しかし、すぐに申し訳なさそうに項垂れる。
「……坂本、なんだっけ……?」
「竜司だよ! 記憶力死んでんな!?」
「いやぁ……人の名前を憶えるのは苦手で……」
照れたように笑う姿に怒る気にもなれず、坂本は肩をかくんと落とした。
そんな彼の姿にますます笑みを深くし、また坂本が立ち去ろうとしないのをいいことに話題を投げかける。
「君たちの言っていた……ジョーカー? というのは、例のもう一人のペルソナ使いのことなの?」
「あ? あー……そこは憶えてんのな……そうだよ。ジョーカーってのはあっちの世界でのコードネーム」
「コードネーム!」
はちょっと興奮したように繰り返した。
「そ、俺はスカル」
「あっ、ドクロの仮面だから……?」
「そうそう。じゃあよ、祐介は分かるか?」
「まさか……フォックス……?」
「あたり」
はなにが面白いというのか、口元に両手を当てて小刻みに震えはじめた。追い打ちと坂本はその耳に囁いた。
「杏はパンサーな」
「うぐっ、くくっ……そ、そのまんまじゃないか……!」
「その反応、だよなー」
俺は結構気に入ってるけど。ひっそり主張する彼をよそに、は目尻に滲みはじめた涙を拭う。
「じゃあ、そのジョーカーとやらは……こう、トランプの絵柄みたいな人なの?」
「や、あいつは……なんか……黒いよ、とりあえず」
曖昧な返答に、はそれじゃさっぱりわからないよとまた快活な笑い声を上げる。
―――お互いに行くところもすることもないと判明した二人は、それならばと昼食に手近なファストフード店を選んで腰を落ち着けた。
注文を済ませてバーガーとドリンク、ご一緒のポテトを受け取り、会話は再開される。
「その……ジョーカーという人についていくつか訊きたいんだけど、構わないかな」
「別にいいけど、なに?」
「彼は複数のペルソナを使っていたと言っていたよね。そして私にもペルソナがあるかもしれない、と」
「あー、でも確定じゃねぇよ?」
「まあね。私にも実感はあまり……だから仮定として。その上で『彼』……君たちの短い会話から察するに、彼の力は少し君たちとは違っていたんだよね?」
坂本は再び肯して、彼女が知りたがっているのであろうことを語ってやる。
「あいつは、そう、色んなペルソナを使い分けることができたんだよ。俺らは基本、一人一つなのにな。しかもあいつは、戦ったシャドウを自分の仮面に吸収みたいなことして、それをペルソナにしてた。あとはいつの間にか増えたり減ったりしてたけど……そのへんはあんま詳しく聞いたことねぇな」
「なるほどね。君から見てどうかな。私の力は彼と同等のものに思える?」
「それは、んん……似てるかなとは思う。けど、あいつは斃したやつを、ってのはなかった。いろいろ、シャドウって結構話せるやつもいてさ、そういうやつらと交渉して、それで向こうが納得したら、ペルソナになってやってもいいよって感じ」
ふむと唸って、は幾度か頷いた。
また彼女は手元に置いたドリンクで指先を冷やしつつさらに問いかける。
「彼は私のように、力を使ったあとに倒れるようなことはあった?」
坂本はきっぱりと応えて首を左右に振った。
「なかった。いや、最初にペルソナが出たときはさすがに疲れてたっぽいけど、気絶したりってことはねぇな」
「そうか……となると今のところ明確な類似点は、異世界の存在を自分の仮面に取り込む、ということだけかな」
「だな。のアレも相当ヤバかったけど、多分あいつもそっくり同じことができたと思うわ。やったことはねぇけど」
「そうなの?」
「一応俺ら、かい―――」
……怪盗なんだから、カバーアクションとアンブッシュが基本。
坂本は己の舌を噛んで言いかけた言葉を潰した。
への対処を決定する作戦会議のなか、自分たちの身上に関しては厳重に取り扱おうとすでに結論が出ている。ペルソナ使いであることはともかく、自分たちが世間を騒がせた怪盗だということは伏せておこう、と。
は中途半端に言葉を止めた彼を不思議そうに眺めている。
「あ、あー、ほら、俺らカイブツより小さいことあるし? そういうデカいのいちいち相手してたらいつまで経っても進めねぇからさ。基本見つからないように」
「ああ、なるほど。そうだね、救助対象がいるのでなければそのほうが効率的だ」
下手な誤魔化しには見事に騙されてくれたらしい。それとも誤魔化したいなにかがあると悟って乗ってくれただけなのか。
いずれにせよ、彼女はそちらの件へ深く追求せず、別に切り口をつけて続ける。
「ジョーカー……≪切り札≫か。そのコードネームに相応しい傑物だったようだね。似たようなことをしているはずなのに、私と彼の違いはどこにあるんだろう……」
坂本はやっと彼女の求めるところを理解して首を縦に振った。
「『あいつ』の場合は……」
彼が語ったのは一人の少年に関する一年を通した記憶だった。プライバシーの尊重と怪盗団の秘密を守り抜くため、彼の前科やそれにまつわる因縁と、仲間たち一人ひとりに関する事件の詳細はぼかしつつ……
並べ立てるとよくあるフィクションのようだ、と坂本は思う。
心の中の異世界、そこに現れる怪物たち、ペルソナと歪んでしまった人の心―――
最後に彼は、大きく開いた窓の向こう、人が波か川のようにひしめき合って流れるところを指して言う。
「ちょうどこのへんで話を聞いたんだよな。去年のクリスマスイブに……」
「イブに?」
そこまで黙って話に耳を傾けていたはそこではてと首を傾げて話を遮った。
「ん? ああ、そうだよ。十二月の二十四日……またクソ寒くてよ、夜に雪降ったって、そっちでもニュースでやってなかった?」
「うん、やってたね。ホワイトクリスマス、イブだったって……紬が……」
言葉を止めて、は再び口を閉ざした。
なにかを思案するように視線を伏せた彼女を坂本は訝しむが、結局彼女がその沈黙の中身を語ることはなく、促されて彼は続けた。
「なんか、やっぱ『あいつ』は特別だったんだってよ。はじめっからヤベーやつに仕組まれてて、それでペルソナに覚醒することになってたって」
ワイルドの資質。それが『彼』にあったからこそ、特別な≪力≫を持ち、数々の試練を与えられた。
そして今も……
坂本は悔しそうに顔を歪めて、テーブルの上で拳を握った。
「まあ、そんで……いろいろあって、今は『あいつ』にゃ会えなくなってる。別に死んだわけじゃねぇけど……とにかく俺らは『会えない』。だからここにいないんだよ」
「……そうか、わかったよ。なにか辛い話だったようだね。無理をさせてしまってすまない」
「あ、いや、こっちこそ悪ぃ、変に気ぃ使わせちまったよな。あー……」
坂本はガリガリと頭をかいて、それからやっとバーガーの包みを剥がした。長話の間につまんでいたポテトはもう空になってしまっている。
炭酸飲料を一口啜って息をつき、彼は淀んだ気持ちをすっかり切り替えて明るく声を上げてみせた。
「話変わるけどさァ、って妖怪とか詳しいん?」
切り替わりについて行けていないのか、はたまた大きめのバーガーに食らいついているからか、はキョトンとした眼差しを目の前の少年に返した。
「なんで?」
やっと声を返したとき、その口の端にはソースが付着してしまっている。坂本がそれを指で示してやると、彼女は慌てた様子で口元を拭った。
「いやほら、昨日のあのヘビ、なんか名前で呼んでたじゃん。即死系だとかさ」
ああ、と頷いて、は肯定を示した。
「まあそれなりに。まったく知らない人よりはマシかなと」
「んじゃさ、訊きたいんだけど。外とか内とか言ってたじゃん? あれってどういう意味?」
坂本もまた二枚のパティとチーズ、申しわけ程度にレタスの挟まれたバーガーに大口で食らいつく。その咀嚼が終わるまでの間、は請われて彼の疑問にこたえた。
「内っていうのは、私たちの世界のことじゃないかと思う。外というのは、あの蛇―――神さまたちの暮らす世界のことかな。開拓された人間社会と、森や山なんかの自然が残っている場所ってことだね。この辺りでもし蛇と会ってもビックリはしても簡単に逃げられるし、追い払う道具もたくさんあるけど、対して足元が草に覆われてるような山奥じゃ、私たちはそもそも彼らを見つけることさえも難しい。私たちが有利なのが内、彼らが有利なのが外……そんな感じかな」
語り終えるのと同時に坂本はドリンクで口の中を流し込む。先の長話の間放っておかれたせいか、ドリンクからは気が少し抜けてしまっていた。
坂本は声を潜めつつ教師役に次の質問を投げかけた。
「じゃあよ、あの場所……あそこって『外』なん? そんなことも言ってたよな?」
「……そうだね。そう言っていた……だから彼らのほうが強いんだとも」
「つまりあそこは神サマの世界ってことか?」
「それは、どうだろう。あれは神だと言ったのは私だけど、本当にそうなのかは……」
はポテトを一つつまみ上げ、口に運んで放り込んだ。
おそらく今も、その身の中には昨日戦い、斃した『神』が宿ったままのはずだ。しかし彼女自身にその実感は乏しく、またそれが『神』であるという確信もない。
……そうなる前、あの大蛇は彼女を主に狙っていた。坂本たちにも幾度か牙を向けたが、いずれにしても致命傷と呼べるほどのものではなかった。
あの場で彼女だけが明確に命を奪われようとしていた。坂本は本能的な部分でそれを察している。
幸いなことに彼はそれが何故なのか、という疑問を飲み込める程度の判断力くらいは有していた。
なにより、目の前の少女の顔には隠しきれなかったのだろう不安の影がチラついている。嫌がる女の子に無理矢理、というのは、やっぱり彼の趣味ではなかったのだ。
「……結局、あいつはなんだったんだろうな。今まであのバケモンの中に喋れるやつっていなかったんだろ?」
代わりの問いを投げると、は俯いてうーんと唸った。
「そもそもあの大蛇を神と判じたのは、彼―――便宜上彼と呼ぶけど―――彼が自分を谷頭と名乗ったからだ。谷頭はやつ……つまり谷やそこに流れる河川のこと。それをキャラクター化した存在がヤトノカミ」
「つよそう」
「うん、実際強い。見ただけで死ぬ。私たちはそうならなかったけど……これは、昔話の中で、人に土地を奪われたとされる神さまなんだ。自分たちのなわばりを守ろうと人と戦い、敗れて山奥に追いやられた」
坂本はうんうんと頷きながらも、頭の後ろを通り過ぎた嫌な記憶に眉をひそめた。住む土地を奪われてた蛇―――タイムリーだ、と。
「もしかしたら……」
まるでその記憶を読み取ったかのように、は彼の胸に湧いたもやもやしたものを後押しする言葉を吐いた。
「ずっと大昔はあの蛇みたいなのが、本当にこっちの世界の山や谷にいたのかもね。それがさらなる土地開発によって住処を失い、あっちの空間に逃げ延びた」
「あー、カンキョーハカイがどーのこーの」
「それそれ」
「深いわぁ……」
「いやそんな深くはないと思うけど」
呆れるわけでもなく淡々と返した彼女は、最後の一口を放り込むと空になった包み紙を丁寧に折り畳みはじめる。
それを眺めながら、坂本は先の彼女の発言を反芻する。
住処を失い、逃げ延びた……
その仮定のもと考えると、あちらが仕掛けてきたこととはいえ自分たちの行いがひどく悪辣なことに思える。
はそのことに気がついていないのか、あるいは気がついた上で、双葉のようにそれこそが自然の摂理と捉えているのか。平然とした様子で残りのポテトを口の中に片付けている。
問いかけるつもりはなかった。彼女の態度を冷酷だとなじる気も。
ただ彼は、己を納得させようと胸のうちで同じ言葉を繰り返す。
そうとも、『俺たち』のほうが強かった。だから勝った。
単純な方程式は彼を落ち着かせ、二人はしばらくそこで穏やかに、なんの益体も実もない、友だちらしいおしゃべりをして過ごした。
けれどのほうは厳密に時間制限がある。夕刻に差し掛かる前に寝床に篭り、大人しくしていなければならない。
坂本は彼なりにうやうやしくこのシンデレラを駅まで送り届け、自身もまた自宅方面に向かう電車に乗り込んだ。
つり革に掴まったまま、彼は一人思案に耽る。
見上げた釣り広告には名前と顔くらいしか知らないタレントの不倫や薬物乱用、政治家の不正疑惑を大げさに報せる見出しばかりだ。
そこにもう『怪盗団』の文字はない。
あれだけ世間を賑わせた存在は、もはや大衆にとって『そういえばそんなのもあったね』程度の存在なのだろう。
それでもいいや、と少年は思う。もちろん、それは強がりだ。本当は悔しいし、もっと自分たちのしたことの意義や意味を形として得たいと願っている。
なにより、『怪盗団』はまだ消えたりなんかしていない。
まだここにいるんだと叫び出したくなる気持ちを、次の停車駅を告げるアナウンスがせき止めた。
坂本はかぶりを振って、停車した電車から地元と呼べる駅のホームに降り立った。
まだ日中と言っていい時間帯だ。住宅街近くの駅から外へ向かう人はさほどなく、彼はこのまままっすぐ家に帰ろうか、それともどこか立ち寄ろうかと考えながらのんびりとした足取りで進んだ。
構内を抜け、見慣れた駅前の通りを過ぎる。
ふと、頭に一人の少女の提言が蘇った。
小さなことからコツコツと―――
意義だとか意味だとか、環境保護とかCO2の排出削減がどうのこうの。そんなのは怪盗のシゴトとは思えないし、そもそもただの高校生である彼が深刻になって考えることを強制されるべき事柄ではない。
坂本は頭を乱暴にガリガリとかき、渋面を浮かべ、それでも道の端に捨てられたペットボトルを器用に蹴り上げた。
真上に飛ばされたそれは、再び地に打ち捨てられるより前に空中で捕まえられて、そばのゴミ箱に放り投げられた。
―――たぶん、おそらく。
彼は己にむけて言い訳しながら、奇妙な気恥ずかしさを誤魔化すように早足になって家路を急いだ。
こんなのは『怪盗団』のシゴトじゃない。斃した敵がなんなのかとか、そういうことを考えるのは彼の役目ではない。
―――まあ、やらないよりはよっぽどマシなんだろう。ぬくぬくとしたところから誰かの行いを独善と罵しりあざ笑うくらいなら、罵られてあざけられたほうが、気は楽になる。そんな気がする。
ただ彼は大っぴらに『いい子』みたいなことをするのが恥ずかしいだけだ。
―――シャドウを斃して悪人を改心するほうが、こんなのよっぽど楽だったよな?
彼は苦笑しつつ、今度は己にではなく、獄中の友人にむけるつもりで囁いた。