05:Under a Blanket of Rose Madder

 暗闇の中に金属がこすれ合う重い高音が響いた。
 耳障りなこの音に一人の少年がまぶたを震わせる。
 ゆっくりと目を開けても彼に見えるのは暗闇ばかりだ。まばたきをくりかえし、やがて闇に目が慣れてきても、視界の中に彼の居場所や時間を教えるような物は見当たらなかった。
 彼自身にはこのような状況にいくつかの心当たりと見覚えがあって、記憶との大きな差異に強い困惑を抱いている。
「なんじゃこりゃあ……」
 寝起きのかすれた声でつぶやいて己の手足に視線を向けると、案の定そこは冷たい鉄の塊に捕らえられていた。
 このような手かせや足かせには馴染みもあったが、しかしここにあるものは少年が知る物より鎖が短く、先端は壁に繋がれている。
 『あの』牢獄にだって数歩うろついて粗末な簡易寝台の上で寝返りをうつ権利くらいは存在していたというのに、ここでの彼は完全に身動きを封じられていた。
 熟考の後、少年は暗闇に向けて語りかけた。
「……ラヴェンツァ? いないのか?」
 返されたのは虚しい沈黙だけだった。
「ふうん、なるほど」
 などと一人納得した素振りをしてみるものの、彼に分かることは一つとしてありはしなかった。
 もしかしたらこれは夢なのかもしれない。現実置かれた環境が夢に反映されてこのような形をとっているのかも。
 しかしこの暗闇の中には、およそ人が生活するためのものは見当たらない。
 ただ湿った空気と素足の裏に伝わる畳らしき感触、背についた石壁のざらつき、そして……
 三メートルほど先にあるドアと、そののぞき窓からこちらをうかがう何者かの視線。
 囚われた少年は反抗的な目つきでそれをはね返したが、途端襲いかかった眠気に身体を弛緩させると、吊るされるような格好のまま意識を手放した。
 扉のむこうのものは安堵したかのように目を逸し、静かにその場を遠ざかった。
 彼には眠っていてもらわねばならない。あれは今やこのようなものたちにとっても大きな脅威だ。
 彼が眠る部屋の扉はおびただしい量の錠と鎖によって封印されている。

……
 週の真ん中に位置する水曜日ほど気だるいものはない。
 月曜日は、休みの間に蓄えたエネルギーで満ち溢れている。火曜日にもまだ余裕がある。しかし水曜になるとそれも薄れ、まだ平日が続くのかとウンザリしてくる頃合いだ。
 木金になれば週末まであと少しと気合も入れ直せるが、水曜日から見ると週末は果てしなく遠く感じられる―――
 待ちに待ち侘びてやっと訪れた放課後、通い慣れたジムからの帰り道をのんびりと歩いていた坂本は、ポケットに放り込んでいたスマートフォンが震える気配に立ち止まった。そばのポールに背を預けて画面を覗き込むと、どうやら母親からのメッセージらしい。
 忘れてるだろうからもう一回言っておいてあげるけど、ママは今日夜勤だからね。
 というようなことが綴られていた。
 つまり、夕飯は自分でなんとかしなさいと述べたいらしい。
 坂本はこれに分かってるし覚えてるからと返信して、どうしようかなと頭を掻いた。
 ―――陸上部の練習に混ざってもいいけど?と妙に居丈高に告げられたのは三学期が始まってすぐのことだ。
 坂本は素直にこれを喜び、謝辞を告げたが、その後もかつての仲間たちの元へ帰ることはしていない。
 時間を見繕ってともに汗を流すこともできたはずだが、そうはせずにこうして独りでいるのは後ろめたさの表れなのかもしれない。
 あいつは今も一人でありもしない罰を受けているというのに―――
 だから坂本はスマートフォンをポケットにねじ込むと、鞄を抱え直して歩き出した。今は『彼』以外の友人を誘って飯を、なんて気分にとてもなれなかったからだ。

 ……けれど現実、世界は彼を一人にはしてくれなかった。自虐的な思考や自己憐憫にひたる暇があるのなら、なすべきことをなせと言わんばかりに。
「げぇ……」
「は? なにそのイヤそーな声。ちょっとこっちきなさいよ」
 言って、じろりと坂本を睨みつけたのは高巻だった。
 帰り道にあるファミリーレストランで適当に済ませようと立ち寄った坂本は、夕飯時で混み合う店内の狭い通路を進む最中、一人テーブルについてメニューとにらめっこしていた高巻に気がついて思わずと声を上げてしまったのだ。
「いやいいです。別の席で食うんで」
「混んでるときに一人で席占拠したら迷惑でしょ。いいからさっさとくる!」
 対面を指さす高巻を見るに、そういう彼女こそ一人でやってきているらしい。
 坂本はため息をつきつき、相席の栄華に賜った。
「ンでいんだよ杏」
「新メニューがすごい美味しいって聞いて興味あったから」
「一人でぇ?」
「いいでしょ別に。ホラこれ、カロリー控えめボリューム大きめ」
 広げられたメニュー表の上、よく磨かれた爪が示したのは山盛りに具材が乗ったパエリアだ。なるほど確かに、写真の右下に綴られたカロリー表示は五百キロ以下を示している。
 しかし坂本の目はすぐにその下の牛すき定食とチキン南蛮定食に移った。色鮮やかに撮影されたメニューを見ているうちに、そうでもないと思っていた食欲がにわかにむくむくと膨れ上がったのだ。
 二人はすぐに店員を呼びつけ、各々の注文を告げた。
 あとは料理が届くまで待つだけだ。特に会話を交わすでもなく、それぞれ手元のスマートフォンに目を落とした。
 高巻はどうやら誰かと連絡を取り合っているらしい。店内にひしめく客たちのざわめきの中に、何度も通知音が鳴らされている。
 坂本は坂本でニュースアプリに目を通すことに集中しはじめる。カスタマイズされた表示一覧には、スポーツ関連の様々な情報と、CO2の排出削減にまつわる世界各国の動向―――
 画面を覗かれたわけでもないのに、坂本は彼自身も己に似つかわしくないと思う環境問題への関心のわけを語り出した。
「こないださぁ」
「うん」
 幸いなことに高巻と誰かさんのやり取りは少し前から途切れていた。彼女は顔を上げて坂本に向き直ると、頬杖をついて話に耳を傾けてくれている。
「家の近くでヘビの死体見ちゃって」
 ヘビ、死体。二つの単語から想像されたものに、高巻は顔中で嫌悪感を表現した。
「なに? グロい話? やめてよー……」
「ちげーよ。ほら、なんつうの? なんか……道の真ん中でさ、たぶん車? にひかれて……ぺちゃんこ? でよ」
 なお仔細を語ろうとする坂本に、高巻は両手で耳を押さえて身をよじる。テーブルの下では脚までもが折り畳まれて、窮屈そうに縮こまってしまっていた。
 口からは剣呑な声色が飛び出す。
「だからやめてってば! これからご飯食べるってときに!」
「だぁらそこは本題じゃねえんだよ!」
「じゃあなによ!」
 パッと耳を解放し、両手をテーブルの上に戻した高巻ではあるが、瞳にはまだ怒りと不快感がくすぶっている。
 坂本はいくらか鼻白みながら、それでも記憶に焼き付いた嫌な感情を吐き出そうと口を開いた。
「いやなんか……かわいそう? みたいな……? ホントなら今って冬眠してるはずじゃん。その辺の土とか石の下にいたのが、なんか間違えて車通るとこ出てきちゃったもんだから……」
「あ、あ、あー……ああー……暖冬とかなければ車にひかれることなんてなかっただろう、みたいな?」
「そうそう、それそれ。それでカンキョーハカイとかそういうの考えちゃってさー……」
 それで、なんとなく昨日の朝くらいから温暖化だとか森林破壊だとか、今まで頭になかったキーワードをアプリに入れてみた、というわけだ。
 拗ねたような風情で落ち着きなく片足を揺らす少年に向けられたのは、しかし生ぬるい眼差しだった。
「うわ、竜司が真面目なこと言ってる。ウケる。ぷぷっ」
「っせぇよ……俺だってそういうキモチになることあるんですゥ」
 そういうリアクションをされるだろうなぁとは坂本も思っていたから、苛立ちつつも大声を出すことなく済んだ。
 しかし、続けて高巻が言うこととすることには、さすがの彼も我慢がならなかった。
「はーいはいはい、そうだねーいい子だねー。ナデナデしちゃお。おー、よちよち」
「気色わりぃことすンじゃねぇよッ!! 俺のおふくろかオメーはぁ!」
「ジョシコーセー掴まえてママ扱いすんな!」
「してねぇよ! お前がハハオヤとかゾッとするわ!」
「それも失礼!!」
「うっせえよ!」
 幸いなことに、二人のこのやり取りは店内の喧騒に紛れてさほど目立つことはなく済んだ。
 とはいえ前後と通路を挟んだ隣の席の客には届いているから、二人は咳払いをして声をひそめあう羽目になる。自業自得と言ってやれる人員はこの場に最も不足しているものの一つだ。
 ため息を一つ、坂本は憂うつげに話の結論をテーブルの上に差し出した。
「とにかくさぁ、こういう……こういう、アレ? も、世直しの一部じゃん? 俺らもーちょっと……なんか、なんかさぁ?」
 曖昧極まりないなにか―――言葉に言い表せないもどかしさや悔しさに、高巻は真面目くさって頷いてやった。
「言いたいことはわかる」
「マジかよすげーな」
 坂本が言いたいことはつまり、怪盗団の行いに意味はあったのかということだろう。
 それは誰にもわからない。
 モルガナは消える直前、世界が今後どうなるかはキミたち次第と言っていたし、坂本とて己たちの行動に意味が無かったなどとは決して思ってはいない。
 ただ一朝一夕で目に見えて現れるものでないことは確かだ。子どもたちが世界に示したのはそういうちっぽけなものでしかない。
 じゃあそれは価値のないものなの? と問われれば、坂本も高巻も、声を大に否定することだろう。
「とりあえず……」
 その第一歩として、高巻は至極真面目に言い放った。
「ゴミはキチンと分別してゴミ箱に」
 坂本は脱力して肩を落とした。
 いい加減長い付き合いになってきたこの少女に、なにか具体的で画期的なひらめきを期待しただけ無駄だったなと。
「いやそれいつもしてますけど?」
「えらいねーいい子だねー、ナデナデしてあげよっか?」
「もういいよそれ……」
 やめてくれ、と力なく言われて、高巻は楽しそうに声を上げて笑った。
 小さなことからコツコツと。怪盗活動だって最初はそうだったでしょ。
 朗らかに笑う彼女の言うことに、坂本は渋い顔をしつつも頷いてみせた。おっしゃる通りだと。

……
 再びやってきた土曜日、先週のこの時間と同じように、佐倉双葉は渋谷駅のランドマーク前広場に立っていた。
 そばでは、当然のように坂本と喜多川が荷物を持たされている。
「また荷物持ちか……」
 肩を落とす少年たちに、双葉はざわめきに負けない快活な笑い声を上げると、腰に両手を当ててふんぞり返った。
「今日はそれだけじゃないぞっ! にもつもち、兼ネゴシエーターだ!」
「あー?」
 首を傾げて怪訝な表情を見せた二人ではあったが、同時に見えた姿にすぐに納得してみせた。
 地下通路に繋がる階段から上がってが姿を現していた。彼女は少年たちのもと歩み寄ると、どこか居心地悪そうに足を止めた。
「や、やあ……待たせたかな」
 この様子では、どうやら偶然鉢合わせたというわけでもなさそうだ。
さん、どうして君が?」
「わたしが呼んだ!」
 胸を張る双葉に少年たちは顔を見合わせる。何故なら彼らの知る限り、双葉にはへの連絡手段が存在しない。
 戸惑う二人の様子から事情を聞かされていないと察したのだろう。は困った様子で今朝の出来事を語ってやった。
「びっくりしたよ、朝起きたら知らないIDからメッセージが来ていて」
 メッセージの送り主はナビを名乗り、彼女をこの場に誘ったのだという。
 少年たちは眉をひそめ、きつく目をつむってに頭を下げた。
「ほんっとすいません……」
「申しわけない。こいつはそういうやつなんだ」
 そうとも、この佐倉双葉なる少女は、信じられないことに世界有数のクラッキング技術を有した超一流のハッカーだ。坂本らがと連絡先を交換した時点で、のアドレスやIDを入手することなど赤子の手からおやつを奪うより容易だったに違いない。
 お前も謝れと少年たちに詰め寄られ、双葉は思い切り頬を膨らませた。
「だってわたしに教えてくれなかった!」
「このような事態としても勝手に連絡先を双葉に渡すのは気が引ける」
「どういう意味だ!」
「そういう意味だよ」
「ぬわーっ!」
 憤慨して腕を振り回すも、坂本も喜多川も傾きさえしない。二人は改めて丁寧にに頭を下げた。
「悪ぃな、サン。ビビらせちまってよ。一応、悪いことに使ったりはしねーと思うし、させねぇからさ」
「ああ。万が一があれば言ってくれ。むこう三月ほど、小遣い停止処分を言い渡してくれる御方に心当たりがある」
「い、いや、いいんだ。たしかに驚いたけど、別に渡してくれて問題ないよ。協力することはやぶさかではないんだから」
 両手を振って頭を上げてくれとこわれ、二人は姿勢を正した。双葉はそんな二人の間でまだ頬を膨らませている。
 坂本はそんな双葉に目を向けて、はてと首を傾げた。
「けどなんでサンまで? いや別に全然大歓迎だけどよ」
「だって当事者がいたほうがいいだろ?」
「当事者……」
 思わずとの表情に不安が滲む。
 双葉は彼女を脅かすでもなく、安堵させるつもりもなく、両手をひらひらと振って意図を明らかにしてみせた。
「もうちがうとは言わせないぞ。異界がいつから存在するかはわからないけど、わたしたちもほかの連中も、迷い込むときは付近三百メートル以内におまえがいることが何度かあった」
「はあっ!? 初耳ですけど!?」
 素っ頓狂な声を上げた坂本をうるさいと制し、双葉は真剣な表情で続けた。
「まだ確定ってわけじゃないからいわなかったんだ。確認できたの四件だけだし。証拠としちゃお粗末すぎるだろ」
「確信に変えようというわけか」
「そっ、悪いが今日以降も何度か出入りを確かめさせてもらうぞ」
「だからってなぁ……」
 言い方ってもんがあるだろうと頭をかいた坂本の隣で、は相変わらず顔色の悪いまま、しかし毅然として言い放った。
「いや、構わない。私も、もしかしたらとは思っていたんだ。傾向があるとなれば、対策を練ることができる。そうだね? ええと……」
 そういえば名前を聞きそびれていた―――
 尋ねるような視線を投げかけられて、双葉はにんまりと笑って手を差し出した。
「双葉だ。よろしくな、っ」
 握った手をそのままに、双葉はを引っ張って歩き出した。
 その後ろを、男たちは顔を見合わせながらついていく。
 奇矯なふるまいが多く人見知りをする双葉と、つい先日さんざん怖がらせたばかりのだ。顔合わせにはもう少し時期を見たほうがいいかと少年らは話し合っていたのだが、どうやら必要なかったらしい。
 知らない間にずいぶんとまあ成長したものだとしみじみ思う―――
 それはさておき、目指す先無くさまよう虚しさについては先週も話題に出たばかりだ。
 もちろん先週も今週も目的地自体はあるが、そこは今のところ実在も実態もあやふやだ。
 偶発的に過ぎない現象の発生を祈りつつ歩き回る行為に折り合いをつけようと努力した結果、少年たちの行程は半ば、この街にほとんど馴染みのない少女らの観光案内と化しつつあった。
「地元じゃお祭りでもなければこんなに人は集まらないかも」
 人の波を眺めて田舎者然とが言うことに、隣を歩く坂本は目を細める。そういや、あいつも似たようなこと言ってたなぁ、と。
 そのの出身地は坂本がいうところのあいつと同じであることは、すでに喜多川を通じて共有されている情報だ。
 坂本は記憶を胸に返して言った。
「アレだろ? 大道芸」
「ああ、よく分かったね? あれも年々盛況ぶりが増しているけど、でも、こちらは土日はいつもこうなんだろう? すごいなぁ……」
 思わずと坂本は吹き出していた。何故なら彼女の返答は、そのままそっくり彼が思い描いた人物と同じものだったからだ。
 不思議そうに首を傾げるに坂本はなんでもないと、馬鹿にする意図はないと告げる。
「ちょっとな、おんなじこと言ってたやつがいてよ」
「ふうん? その人も、君たちと同じ―――ほら、例の」
 の手が己の顔、目元を指先でトントンとすばやく二度叩いた。
 ペルソナ使いなのかと問うているのだろう。坂本は素直に首を縦に振った。
「今は色々あってここにいねぇけどな。ま、そのうち紹介するわ。ちょっと変わってっけど……すげぇイイやつだから、サンのことも知ったら絶対力になってくれると思う」
 どことなく照れたような調子で吐かれた台詞に、は幾度かまばたきを繰り返した。
 やがて彼女は微笑んで、
「そうか、楽しみだよ」と応えた。社交辞令として受け止めているのかもしれない。
 それでもいいさと坂本は思う。期待していないほうが、『彼』が登場したときのインパクトはより強まるだろうから、と。
 そのようにほくそ笑む彼の数歩先で、今は喜多川のコートの裾をグイグイと引っ張っている双葉が二人をふり返った。
「なあなあ、いまおイナリと話してたんだけどさ、ちょい歩いたとこアレあるんだって。抹茶のジェラート。たべたい……たべたくない?」
 瞳を煌めかせているのはなにも双葉だけではなかった。同じくふり返る喜多川もまた、瞳に好奇心と空腹を訴える光を湛えている。
「はー? この寒いのに?」
「たてもののなかは暖かいよ! いいからついてまいれ!」
 いくらかの不満を覗かせた坂本に指を突きつけ、双葉はすぐに身を翻して店舗があるらしき方向へ走り出して行ってしまう。
「おい双葉! 先に行くんじゃねぇよ!」
 迷子になったらどうすんだ、と大声を出して後を追う坂本と、そんな彼に「どんだけガキ扱いだよ」と言い返す双葉を、周囲を歩く人々は若干の迷惑さと微笑ましさを宿した瞳で見送った。
 残された喜多川ともまた似た色を湛えつつ早足になって二人を追う。
 最中喜多川は声に少しの申し訳なさを滲ませて語りかけた。
「話を振っておいてなんだが……君はいいのか?」
「え?」
「君の地元が本店だろう」
「ああ、でもそんなに頻繁に食べるものでもないからね。久しぶりに食べたい、かな」
「そうか」
 なら構わないかと安堵する少年の様子に、は口元を緩ませた。
 奇妙な会合からこちら、喜多川少年は約束通り帰り道の護衛を忠実に果たしている。その間は道の選び方が良かったのか、それともこの少年がいたからか、は久方ぶりの平穏な日常を送れていた。
 今日に至っては観光まがいの行脚だ。誘いをかけたのは目の前の少年ではないが、しかしは大きな感謝を籠めて彼に告げた。
「気を遣ってくれて、ありがとう」
「ん? 礼を言われるほどのことではないと思うが」
 しかし悲しいかな、意図は伝わらない。
 もまたそれでもいいさと喉を鳴らし、すぐに話題を元に戻した。おそらく喜多川の主観からははじめから変わってもいないだろう。
「オススメはNo.5だよ」
「ほう」
「行こう」
 道の先で早くと急かして手を振る双葉と坂本に、二人は小走りになって合流した。

「なんか思ってたより歩かされたなおい」
「だから俺は少し遠いと」
「おイナリのすこしは常人とちがうんだってそれ一番言われてるから」
「そうか、こっちだとこの距離でこれが毎日食べられるんだ……近いな……」
「あれ地元民? なんか地元民が一番感動してね? なんで?」
「そらみろ、少しだろ。俺の距離感が狂っているわけがない」
「田舎の一駅と都会の一駅の差がまったくちがう説」
「……寒いときに食べる冷たいものっておいしい……」
「マイペースすぎんだろ」
「やべーよおイナリ二号だよ」
「それは褒め言葉だな?」
「もぐもぐ……」
 店の外に誂えられたベンチに肩を並べ、少年たちはしばしそこでジェラートに舌鼓を打ちつつ休憩と洒落込んでいた。
「あーでもうまい。そーじろうにもおみやげに買ってってやろうかな」
 ニーハイソックスに包まれた細い脚をぶらぶらとさせながらもらす双葉に、左右を挟む少年たちはそうしてやれと同意を示した。
 歩き始めてからかれこれ二時間近くが経過している。前回は一時間も経たずに入れたことを顧みると、今日は駄目なのかもしれないと心も諦めの方向に傾きつつあった。
 そんなわけでと少年たちは店内に舞い戻り、しばしの後保冷ボックスとともに帰還する。何故か全員が同じ物を手に持って。
「なんでや」
「いや、おふくろにと思って……」
「竜司ってばやさC」
「うっせ! つか祐介とサンはなんでよ!?」
 二人は声を揃えて答えた。
「自分用」と
 真剣そのものの様子に坂本はもはやツッコむ気にもなれず、もう今日は帰ろうと先導して歩きはじめた。
 人の多い駅前に戻ると、そこは相変わらずの通行量だ。数えるのもばかばかしくなるような人の数―――
 日はすでに落ちたが、辺りは眩しいくらいの人工光に照らし出されている。
「いま何時?」
「六時になったとこ」
 時間を確かめた双葉にすばやく返して、坂本は一同を見回した。手には時間制限のある土産が下げられているから、今日はここらで解散すべきだろう。
 そう思って告げようとしたとき、坂本はふとに視線を留めた。
 彼女は人の波を眺めて放心している様子だった。
「おのぼりさん、大丈夫かよ?」
「ひとの多さによったか? あるあるだぞ。あるある……」
 重苦しく頷く双葉に苦笑して、は呆けていた訳を語る。
「酔ったというか……これだけ人が多いと、自分まで見失いそうだなぁって」
 坂本は首を傾げた。
 どれだけ人がいようと、自分は自分だ。どうやったって、見失うなんてことは不可能じゃないのか―――
 そのように思う傍ら、しかし喜多川などは口元にかすかな笑みを乗せて同意してみせた。
「そうだな。群衆の中にあると、自己と他者を区別する境目を見失いそうになる」
「ちょっとなに言ってんのかわかんねぇ。ジブンとタニンって間違えようがなくね?」
「間違えるわけじゃないんだ。自分と他者の区別が曖昧になってしまいそうになる、が正しいね」
「なんか違うの?」
「まったく違う。そもそもお前の話では自己と他者が別個に存在していて……」
 哲学的論議に花を咲かせる若者たちを横目に、双葉はふむと腕を組んだ。愛らしい顔を隠す無粋な黒縁眼鏡の下の瞳は、議題の一部である人の波を見つめている。
 トワイライトと人混み、そしてという少女の存在。双葉はこの三つが異界へ入るために必要な要素と捉えている。
 では、何故この三つが揃ったときに人は異界へ迷い込むのか―――
 に関しては、伝え聞いた彼女の経験から、おそらくなんらかの因子が彼女に存在するためであろうと思われる。それが生まれつきのものなのか、それとも偶然なにかを手にしたか、あるいは与えられた、植えつけられたのか……
 いずれにせよ目には見えないなんらかの資格を彼女が有しているのだろう、と双葉と新島は目している。
 次にトワイライト。トワイライトとは、すなわち夕暮れ時のことだ。
 何故、この時間に限定されているのだろう? もちろん観測できていないだけで、他の時間帯も神隠しが発生している可能性は大いにある。しかし少なくとも、双葉が経験し、また仲間たちが見聞きした状況は間違いなくその時間帯に発生している。
「夕方になんかあんのか……?」
 ポツリと漏らされた双葉のつぶやきに、坂本たちは議論を停止させて彼女を見下ろした。
「夕方? この時間だと……今なにやってんの? テレビとか見る?」
 全然、と喜多川とは首を横に振った。はともかく、喜多川はそもそも部屋にテレビが無い、と。
 双葉はこれみよがしにため息をついて肩をすくめた。
「そういう話じゃなくて〜……なんで夕方なのかなって考えてたんだ。ほら、だいたいそれくらいに迷い込むって話、しただろ?」
「あーあー、それな。なんで?」
「わたしがきーてんのっ!」
 喚いて地団駄を踏む双葉をみっともないと咎めながら、喜多川もまたふむと唸った。
「夕方か……古くは誰そ彼とも逢魔時ともいって、魔物と出会いやすくなると言い伝えられていたそうだが。そう、鳥山石燕の描いた一枚にちょうどそんな様子が―――」
「画図百鬼夜行の一枚だっけ? 昼と夜の境、雲が茜色から藍色に切り替わる一瞬に、魑魅魍魎が現れるっていう」
「……いや、俺が思い描いたのはその続刊の……」
「ああ、ごめん。名前は思い出せないけど、たぶん考えているのは同じかな。ネットで探せば出てくると思うけど―――」
 己の言を受けて返すの様子に、喜多川は嬉しそうに目元を緩ませた。何故ならこういった方面の話題に喜んで乗ってくれる人材が、怪盗団にはついぞ現れなかったからだ。
 彼はものも言わずにの肩に手を置くと、
「君こそ求めていた人材だ」と熱っぽく囁いた。
「え? え? なにが?」
「変態レーダーにつかまったか」
「誰が変態だ」
「お前以外にいねぇだろ。オラサン困ってっから離せ」
 手は坂本によってすぐ払い除けられたが、は未だに戸惑った様子で首を傾げている。
「閑話休題と書いてそれはさておき。おイナリの言うことはまあまあ悪くないぞ。そうだ、トワイライトってのは黄昏時のことだな。昼と夜が入れ替わる、境界線上の時間」
「げっ、難しい話すんの?」
「そうでもない。……そうでもないからな! 竜司! わたしはおまえが心配だよ!」
「お前に心配されるほどじゃねぇよ!?」
「話の腰を折るなってば!」
「いや自分で折ってんだろ!」
「ぐぬぬ……このメンツだと話が進まないな……モナかまことがいればぁ」
 いいから、と結論を急かされて、双葉は咳払いを一つ、真面目な顔を作って口を開いた。
「だからな、境界線ってのが一つのファクターになってるんじゃないかと思ったんだよ」
「その心は?」
「うむ。まず時間帯がそうだってのはわかるな? で、さっきが言ってたことだ」
 はキョトンとしてまばたきを二度双葉に向けた。
「私? なに言ったっけ」
「自分を見失いそうになるって言っただろ。他者と自己との境目が曖昧になるって意味だとも」
 双葉は一同の顔を見回す。坂本とはまだ呑み込めていない様子だが、喜多川はなるほどと手を打っていた。
「そうか、境界線上に位置することが重要なんだな?」
「そうそう。たぶんそれが、こっちの世界とむこうの世界との境界でもあるんだとおもう」
「事象と精神の境が失われた結果、位相の区別までもが失われて迷い込むということか」
「うむ、試してみる価値はある。やってみようよ」
「そうだな。上手くすれば能動的に異界へ進入する手立てに―――」
「すいませんちょっといいですかね? 俺らついてけてないんだけど……」
 喜多川と双葉は同時に頭を抱えた。
 つまり―――
 昼と夜、自己と他者、そのどちらでもなくなった瞬間に、異界への入り口が気が付かぬうちに現れるというわけだ。双葉の見立てではそこにの存在も加味される。そういえば今日はその検証のためにわざわざお越しいただいているのだった。
 双葉はのろのろと頭を上げ、坂本とに向き直った。
「先週、わたしらで入ったとき、このへんだったろ? 人多いし、わたし軽く意識とんでた。たぶんあれがトリガーなのかも」
「俺と杏の時もそうだな。俺はもの思いに耽って、己自身への注意は逸れていた」
 この場で確認できる共通点は二例のみだが、リスクやコストが無いとなれば試さない道理はない。
 双葉は堂々と宣言した。
「時間的にはギリいけるかもだよ! おまえら、ちょっと意識トばせ!」
 ―――と言われて、よしやろう、さあやろうとできることではないことが問題だった。
 少年たちはしばし沈黙して互いの顔を見合わせた。あたりを雑踏だけが包み、無為の時間が過ぎていく。
「どうやって?」
 やがて困り顔で坂本が問いかけたことに答えられる者は誰一人としていはしなかった。
 意識して変性意識状態を作り出すには長い修練とコツ、あるいは薬物や音楽による後押しが求められる。そこまでのものでなくとも、想定ではほんの一瞬、自己から意識を逸らせばいいのだが、しかしそれこそが難題だった。
 またが申し訳なさそうに手をあげる。
「私が入るときは、別にそういう感じではないかなって……」
「よしっ! 解散! 投了!」
 即時堂々と告げて、双葉は己の左右を固める坂本と喜多川の尻をひっぱたいた。
「痛え!」
「うぐっ」
 飛び上がった二人の腕に押し付けていた荷物を取り返し、双葉ははしっこく駆け出した。
「テメコラ双葉ァ!!」
「手癖が悪い!」
 怒りに顔を歪める少年たちの隣で、はのんびりとした様子で双葉の背中に語りかけた。
「双葉ちゃん、一人で帰れる?」
「かえれる! たぶん!」
 じゃあなと元気よく手を振り、人垣の薄い場所を見つけてそこに飛び込んでいく。
 元気があるのはいいことだが、あのふるまいはどうにかならないものか―――少年たちはため息をつきつつ、さて自分たちも帰るかと顔を上げた。
「あっ……」
 その耳にのかすかな驚嘆の声が届いた。
 なんだ、と尋ねる必要は無かった。何故ならほんの一瞬前までそこここを埋め尽くしていた人の姿も喧騒も、街頭テレビから垂れ流される雑多なBGMも、電車の到着を教えるアナウンスも、なにもかもが消失していた。
「なんでぇーっ!?」
 地下道へ繋がる階段の下から双葉の絶叫が響いた。
 彼女はゴーグルで顔半分を覆った姿で、すぐに慌てふためいた様子で駆け戻る。
「なっ、なんっ、ぜーっ、ぜっ、ぜひっ、ひっ、なんでっ、ひいい……」
「まずは息を整えろ」
「ぜーっ、ぜーっ、おえっ」
 蒼白になって激しく肩を上下させる双葉を喜多川に預け、坂本とは辺りへ視線を巡らせる。
 人と音が無いこと以外にこれといった異常は見当たらなかった。あるいは目の前にある光景の異質さに、些細な変化を見逃してしまっているのかもしれない。
 二人は仮面に覆われた顔を見合わせて呻きあった。
「なにか、入るようなこと、した?」
「や、俺はなんも。フツーだったよ」
「だよね……」
 双方ともに心当たりはないと、喜多川と双葉に視線を送る。
「俺も特には」
「わっ、わたしも……うぷっ……」
 四人ははてと首を傾げる。
 そこに、この空間にあるはずのない音が聞こえはじめた。カツカツとなにかが地面を叩くような音だ。
「例のバケモンか!?」
 警戒を顕にした瞬間、坂本らの手に得物が握られる。は手近なポールに腕を伸ばしていた。
 またあんなばかばかしくなるような光景が繰り広げられるのか、と双葉はやっと落ち着いてきた呼吸の中、喘ぎながら三人を制した。
「ちっ、ちがう……これはだいじょー、うぷっ、だいじょうぶうぅ……」
「オメーは大丈夫じゃねぇよな?」
 乾燥した空気の中、さして水分補給もせず、またろくな準備運動もせず、日ごろ運動をしない者が全力疾走を行えばどうなるか。その答えを我が身でもって示す双葉には、近付きつつある音の正体がハッキリと視えていた。
 ―――そもそもこの面子、バランスが悪すぎる。
「物理と物理と物理なんだよなぁ……わたしが回復って、効率わるスギィ……」
 一定のリズムを刻んで近付きつつある音には各々耳に覚えがあった。例えば暗い夜道に響く、ヒールを履いた女性の足音―――
「あーっ! 居たぁ! よかったあぁ〜……!」
 交差点の向こうから息せき切って駆けて来たのは、豊かな金の髪に赤い仮面を貼り付けた少女だった。
 それは双葉待望の、ヒーラー兼後衛型アタッカーだ。
「杏!? なんでここに!?」
「なんでって、そこのスタバでちょっと休憩……」
「ぼーっとしてたかっ!?」
「ええ? してた、かも? え? なんで? あっ、増髪さん!」
「やあ、久しぶり。ケガとかしてない?」
「杏、今向こうから来たよな」
 しかし高巻という少女は混沌を呼ぶ存在でもある。全員が好き勝手に発言を行うこの場は、カオス以外のなにものでもなかった。
 真っ先に我に返った坂本がパンと手を打って全員を停止させるまで、誰もここが安全ではないということに気が付かなかった。
 一先ずと手近な駅ビルの一階に身を置き、少年たちは順番に話はじめる。
「えっ私から!?」
 一番手として指名されたことに後退りつつも、高巻は停止したエスカレーターの三段目に腰を下ろして語り始めた。
「いや別に。言うほどのことなんてないけど。私ほんとただあそこのスタバで休んでただけだし」
「ぼけっとしてた?」
「しつこいなぁ。なんなの? それ」
 戸惑いつつも「してたけど」と頷いた高巻に、少年らは顔を見合わせて頷きあった。なるほど、今回は彼女がトリガーになったのかもしれない、と。
 疑問符を浮かべる高巻に説明してやることしばし、彼女はうーんと唸って考え込んだ。
「そう言われれば、そうなのかもって思うけど……でもさ、そんなの私だけじゃなくない? その方法じゃ、他にももっとたくさんの人が入っててもいいと思うんだけど」
 例えば、の存在が必須であるとして、彼女が少し人混みを歩いたら、呆けている者のそばを歩く可能性は十分過ぎるくらいにあるだろう。
 だというのに見回した限り、また高巻が双葉の悲鳴を聞きつけてやってきた範囲で、そのような人物は見当たらなかった。双葉が走査した範囲内にも自分たち以外の人間の反応は感じ取れなかったという。
「でも、サンは何度か俺ら以外のヒト見てんだろ? 杏たちだって最初入ったとき会ってんじゃん」
「それはそうなんだけどさ。そうじゃなくて、少なくないかってこと。むしろウチらが毎回なんかしら入れてることのほうがおかしくない?」
 はそばのガラス壁に背を預けたまま沈黙している。仮面の下の表情は窺えないが、気まずく思ってはいるのだろう。
「逆なんじゃないのか?」
 明かりが落とされ、冷え冷えとした通路に喜多川の声が反響した。
 少年らが首を傾げて見上げると、その視線の先で彼はエスカレーターの手すりにもたれかかり、己の顎をさすっている。
「方法云々はともかく、本来招かれているのは俺たちであって、それ以外の者はイレギュラーだとは考えられないか。それこそ本当に偶然、俺たち、あるいはさんの移動に巻き込まれてしまって……」
「なんで俺ら? って、もしかして」
「ペルソナ使いってのが条件のひとつってことか?」
 頷いた喜多川に、でも、と高巻は反論を差し向けた。
さんってペルソナ使えないよね? なんかスゴイってのは聞いてるけど……」
「う、うん。そのスタンドみたいなのは出てこないよ。代わりに、かは分からないけど、身体能力の向上は感じる。その、すごく」
「それは」
 応えたのは双葉だった。
「たぶんにはわたしたちにはない『ナニカ』がある。それがなんなのかは分からないけど……そもそもそいつがこっちにきてからだろ、わたしらがここに入れるようになったの。だからやっぱり、なんかしらはあるんだとおもう」
「それは……」
 の腕が己を抱きしめるように組まれる。仮面の下の顔が色を失っているだろうことは誰の目にも明らかだった。
 これ以上の刺激は厳禁と少年たちは視線を交わし合う。鬼ごっこはごめんだったし、先日彼女を捕縛した折の一連のやり取りもまた、すでに共有されている。
 喜多川はクラスメイトを気遣って話を切り替えた。
「そのあたりも追々分かってくるだろう。それより俺の番だ。杏、君は先ほど、交差点の向こうから来たな」
「え? うん」
「そのときなにか、目につくものはなかったか」
 高巻は首を左右に振った。
「別にいつも通り……じゃないけど、見た目はそのまんまだったよ?」
「ふむ、そうか」
 一人納得して頷く喜多川に、訝しげな視線が突き刺さる。彼は応えて口を開いた。
「先週、俺たちはこの付近で例の怪物とやりあっただろう。その折、店舗や道路の一部を破壊した」
「―――あ!」
 思い出したと坂本と双葉、そしては顔を見合わせた。
 確かに先週、すぐそばの大きな交差点でひと立ち回りを演じたではないか。
 しかし高巻はいつも通りの光景だったと言う。
 それはつまり、戦闘の痕跡も、異形の死体も見当たらなかったということだ。
「どういうこと? 死体、消えなかったよね?」
「出入りのタイミングで消える……? だとしても、建物や道が直るのはどういうことだよ」
 疑問に答えられる者はここに存在しない。
 難しい顔をして呻く少年たちの中から一人、双葉は立ち上がると無言のまま足音も少なに外へ向かって歩き出した。
「おいどこ行くんだよ。帰んのか?」
 振り返らず彼女は答えた。
「逆。行くぞおまえら。こないだ設置した計測のあれこれ、回収する」
 高巻とが不思議そうにまばたきをする横で、少年たちはあっと声を上げて小さな背中に続いた。

 高巻の語った通り、先週通った道を引き返す形となった道程に、あるはずの死体も建物の残骸や瓦礫も欠片たりとて見当たらなかった。
 まるで時が逆巻いたか、はじめから無かったことにされてしまったかのようだ。
 不気味さを覚えつつたどり着いた先で、双葉は手早く回収した物を鞄に押し込んだ。
「今見ねぇの?」
 重いだろうと手を差し出した坂本の腕に飾り気のないリュックを預けつつ、双葉は辺りに首を巡らせる。
「近くはないけど、見たことない反応がある。ここじゃだめ。いちど外に出よう」
 了解と応えて、坂本らはすぐに来た道を引き返した。
 最中双葉は幾度も後ろをふり返り、ゴーグルの下に隠した眉を潜めて喜多川のコートの裾を握りしめる。
「……シワになるだろう。どうした」
 先週着ていたものは血糊が落ちずに破棄し、泣く泣く有り金はたいて買ったばかりの新品だ。二、三年は着潰したいと目論む彼としては、あまり引っ張られて形を崩したくはなかった。
 そんな切実な思いを感じ取ったのか、双葉は手を離して高巻のほうへすり寄った。
「ん? なによ珍しいね。うりうり」
 白い手が双葉のつむじをつついたが、普段なら猫のように嫌がって離れるはずの少女は不安そうにその場に留まった。
 いよいよ様子がおかしいと以外の面々は思いはじめる。
 小生意気な言動と虚勢が目立つ双葉が怯えている―――
「……敵か?」
 低く押し殺した声で坂本が問いかけた。
 双葉は高巻の腕に絡みつきながらかすかに首を横に振り、小さく、
「わからない」とやはり不安げに辺りを見回しながら答えた。
「反応は無いんだ。無いんだけど、なにか……」
 なにかがいる。
 引きつった声に少年たちは身構えて周囲に目を配った。目に見えるものは変わらない。無人の街並みの中を沈黙だけが通り過ぎていく―――
「……みんな、いつの間にか武器が出るんだね。いいなぁ……」
 いささか場にそぐわないぼやきを漏らしたのはだった。彼女はキョロキョロと辺りを見回して、得物になりそうなものを探した。
 先週引き抜いた歩行者用信号機も消火栓も、バス停の電子案内板も元の通りに戻っていたから、もはや遠慮する必要はない。なんなら、店先に置かれている物でも。重そうな物ならなんでもいい。
 視線はやがて電気の通っていない街頭の一本に止まった。長過ぎるかとも思うが、無手のままよりはいいか―――
 ふらりと隊列を抜けて道端の一本。ガードレールの近くへ歩を寄せたは、そこに居た自分たち以外の『現実的な生き物』に驚きと喜びの混じった声を上げる。
「わっ、ヤマカガシ!」
 彼女が数歩離れていたことには気がついていたから、少年たちの反応は早かった。
さん、どうした?」
 大股に歩み寄った喜多川は彼女の視線の先、足元を見ておやと目を丸くする。
 アスファルトの切れ間から伸びた雑草の上に蛇が一匹、黒くつぶらな瞳でこちらを見つめていた。
「近づいちゃ駄目だ。毒があるよ」
「えっ」
 思わずと喜多川は後退る。
 蛇は威嚇こそしていないが、こちらを見つめいる以上存在を認識されているのだろう。飛び掛かられてはたまらない。もじりじりと下がって距離をおいた。
「え、ちょっとやだ、ヘビ? ヘビいんの? しかも毒ヘビ?」
 今度は高巻が双葉にしがみついている。されたほうは若干迷惑そうにしながらも、十分距離が空いていると確信しているからだろう、焦る様子は見せていない。
「いやでも、ヘビって……普通の? そのへんにいる?」
「ここいらでもそのへんにいるのかな? とりあえず図鑑に載っているような蛇だよ。例の化け物みたいなやつじゃない」
 坂本はほっと安堵の息をついたが、毒ヘビと聞かされては完全に安心しきることはできなかった。
 なによりも―――
「生き物がいるのか。ここに」
 呆然とした喜多川の声に、双葉もまた驚きを顕に頷いた。
「いきものはなんにもいないとおもってた。だってねずみとか、鳥とか、ふだんそのへんで見かけられるようなやつは、ぜんぜん……」
 空にも地にも、双葉の走査にかからずとも、目視できておかしくないはずの存在はこれまで一匹も一羽も確認できなかった。
 それがここにきて突然。それも……
「でもなんでヤマカガシがこんなところにいるんだろう」
 はっきりとした疑問の声を上げたのはだった。
 彼女の視線の先では、蛇が相変わらずこちらの様子を窺っている。その身は艶のない鱗で覆われ、黒の斑点の合間に毒々しい赤が散らされている。
「なにか気にかかることが?」
 後ろ歩きになって下がるの隣、同じくゆっくりと距離を稼ぐ喜多川が訊くことに、は一度うーんと唸ってから答えた。
「ヤマカガシって、名前の通り普通は山で暮らしてる生き物なんだ。田んぼなんかでたまに見かけたけど、臆病だからめったに会えないレアなやつで……」
 とうとうと蛇の生態を語るはどこかいきいきとしている。一番共有する時間の長い喜多川にしても初めて見る態度だった。
 彼女は興味深げな様子でやっと隊列に舞い戻り、少年らに向けて首を傾げる。
「だから、変なんだ。この辺りには餌になるような生き物も豊富とは言えないだろうし、隠れる場所はそれなりにありそうだけど、水場は住めるようなものじゃないよね? そもそも今の時期なら冬眠しているはず」
 なんでこんなところにいるんだろう?
 彼女の疑問に答えられる者はいなかった。
 辛うじて喜多川が眉をひそめつつ述べる。
「この辺りは、古くは水の流れる渓谷だったというが……埋め立てや暗渠化されて久しいはずだ。それに他の生き物……人でさえ姿を消している中にやつだけというのは、いかにも奇妙だな」
 はしきりに頷いてみせている。
 とはいえ答えの出ない問答だ。疑問はさておき、少年たちは歩みを再開させた。
 ところが―――
「あっ、マムシ」
「ぎゃっ」
「あっ、ヒバカリ」
「うげっ!?」
「ああっ! タカチホヘビ!」
「なんで嬉しそうなの!?」
 歩みを進めるたび、植え込みの下や排水口、看板の影やビルの足元、あちこちに彼らは現れ、一様につぶらな瞳で子どもらの様子を窺い見ていた。
「双葉ぁ、アンタのペルソナでいない道とか探せないのぉ」
 すっかり弱って涙目の高巻などは、もはやおんぶお化けさながら双葉の背に縋り付いてしまっている。
 双葉は困り顔で辺りを見回すが、しかし彼女の能力では、小さ過ぎる彼らの存在を掴み取ることは難しい。
「集中すればいけるかもだけど……でも、ほんとに、なんでだ……? この間も、さっきまでも、ぜんぜん見かけなかったよな?」
「うん……ウチらが入ったときなんて、あのバケモノしか……」
「この子たちが、ほら、例のパレス? の主ってことはない?」
 ふり返って語りかけたのはだ。その手には目についた街路樹からへし折った長い枝が握られている。彼女は先ほどからをずっと、それで道を塞ぐ蛇たちを追い払っていた。
「や、ここパレスじゃねぇんだよ。なんかぜんぜん違うんだって」
「へー……? じゃあなんでだろう。実はここが人類が滅んだ後の世界で、この子たちが支配者として君臨してる、とか?」
 様々な憶測の中でもブッ飛んだ部類の可能性を口にするは、彼女の地元でもめったに見られないような希少種を目撃したからかどことなく浮かれている。
 やれやれとため息を一つ。喜多川は彼女に倣って枝を一本切り落とし、進行方向に寝そべる一匹を優しく歩道の端に追いやった。
 短い距離をたっぷりの時間をかけて戻る羽目になったが、先日大立ち回りを演じた舞台も目の前に迫っている。あそこを抜け、改札まで降りるか登るかできれば、疑問は晴れぬが寝床には帰れるのだ。
 逸る気持ちを抑えながら少年はまた一歩を踏み出した。
「ひいい……っ!」
 その背に、双葉の嫌悪感に満ち満ちた悲鳴が届く。
 前を進む喜多川と坂本、そしてはすばやくふり返ると、悲鳴の原因を探して辺りを見回した。
 けれどその甲斐なく、どこにもあんな情けない悲鳴を上げるようなものは見当たらない。
 双葉は青ざめてわけを語った。
「あっ、あのな? やってみた。集中して、へびのいないとこ、探してみた。したらな、そしたら……」
 震える指が側溝の蓋や雨樋、マンホールや排水口、建物や道路のわずかな隙間を指し示した。
「わたし有能だから、できちゃった。わかる。めっちゃわかる。Gばりにあっちこっちにいる」
 一匹や二匹じゃない。数百匹、あるいは数千の数がそこかしこの隙間や暗がりからこちらの様子を覗き見ている。
 言って、双葉は高巻にしがみついた。
 は虫類を特別苦手としていなくたって、彼女が目撃した数と様子は衝撃的だった。受け止めるほうの高巻も豊かな想像力が仇となったか、完全に凍りついてしまった。
「あーもう……サンさ、こいつらまとめて持ち上げられたりしねぇ?」
「どうかな」
 うんざりした様子の坂本に枝きれを投げ渡し、は固まる少女らを器用に担ぎ上げる―――
「できた」
 喜多川は感嘆の吐息をもらした。
 しなやかな少女の肉体が、彼の思う美を体現する少女と、智慧を内に宿した少女をまとめて抱き上げる。その様はさながら旧約聖書に綴られた剛力の英雄サムソンか、ギリシャ神話に謳われるアテナイの王テセウス。
 ……どちらにしても年ごろの少女に向ける賛辞でないことは明らかだろう。
 手でフレームを作り三位一体となった少女たちを捉える彼を、坂本は横から蹴り飛ばして現実に引き戻した。
「オラ行くぞ。つか、急がねぇとアイス溶ける……」
「ハッ! そうだった……あっ!? 竜司、いま気がついたんだが、俺の部屋には冷蔵庫がない……!」
「バカ! 食いながら帰れ!」
 騒いで先を行く少年たちの後ろを、ひと塊になった少女たちがついて行く。大道芸人かちんどん屋の興行のような光景だった。
「あわ、あわわわ……やば、ちょいまち、やばば……まって、おねがい待ってえぇ……」
 横抱きにされた高巻に抱っこされた状態の双葉は奇妙な安定感からか、先からずっと狼狽の声を上げ続けている。
 我に返った高巻はさらなる安定を求めての首に腕を回す。
「てか双葉、アンタ飛べんでしょ? ペルソナでぱーっと行けないの?」
「やっ、や、ちが……おまえらストップぅ!」
「は?」
 突然の制止に、も高巻も、先を行く坂本と喜多川も立ち止まった。
「へびっ! いっぱい! くるっ!」
「いやそれはもう分かったって。別にそいつら全部出てくるわけじゃねぇんだ―――」
 から。
 語尾に双葉の悲鳴が重なった。
「出てきそうになってるんだってばあぁっ!!」