04:Isn't it a Lovely Day

 週明けの学校で増髪探しを再開させた喜多川ではあるが、洸星高校の規模はマンモス級というわけではないものの全校生徒の数は三百人ほどで、この内女子は百六十三名。ここからシルエットと声を頼りにたった一人の女子を探すとなると、大変な手間となる。
 そもそも喜多川が気安く接触できる女生徒の数など両手で足りる程度だ。性差に怖気づくわけではないが、女子というものはどうにも、彼が声をかけると反応芳しくない。
 決して嫌われているわけではなさそうなのに―――むしろ好意的ですらあるのに、不気味なほどの隔たりを感じるのは気のせいなんかではないはずだ。
 手がかりが無いわけじゃないことだけが幸いだった。
 そうとも、たいていの女子は喜多川を見るとハッとして、まるで彼をすでに知っているかのような反応をみせるのだ。
 しかし一人、己をまったく知らない、覚えてもいてくれなかった少女がいる。何故なら彼女は転校生だから―――
 そうとも。彼女はクラスメイトである己の姿や名前を憶えてくれていなかった。それは自己紹介をしていなかったからで、決して己の名が売れていないわけじゃないんだ。
 喜多川は自分自身に強くそう言い聞かせて、腐る気持ちを切り捨てた。
 彼がいるのは全校生徒が必然的に通過する場所、すなわち校門前だ。徒歩以外の通学手段も無いわけではないが、目当ての人物は女子寮に居を構えているため裏側の通用門を見張る必要はなかった。
 腕を組んで仁王立ちする彼に当然不審がる視線が送られる。しかし彼は一つも気にすることなく待ち人が現れるのを辛抱強く待ち続けた。
 果たして彼女はこの寒空の下、ブレザーの下に明るい茶色のカーディガンを着込んだ恰好で現れる。ちょっと肩を落として、たった一人で。
 ……まだ友だちができていないのかもしれない。そういえば、クラスでもあまり誰かと話しているところは見かけない。それはまだ転校してきたばかりで馴染めていないだけかと思っていたが―――
 喜多川は大股で彼女に歩み寄ると、進行方向を塞ぐように立ちはだかった。
さん」
「あ。あー……喜多川くん。……だよね?」
 まだ名前を覚えてもらえていなかったのか。
 この事実にいささかばかり落ち込みつつ、彼はじっとの黒々とした瞳をのぞき込んだ。
 そんなことをしたところであの能面の下の顔と一致するのかは分からないが―――
 喜多川は彼女の前に手を差し出した。
「少し手を貸してくれるか」
「ん……? ああ、なにか運ぶのかな? 構わないよ。こう見えて力仕事には少し自信が」
「そうではなくて、手を見せてほしいんだ」
 このいかにも不審な頼み事に、しかしは素直に応じて彼に手を―――両の手のひらを差し出した。
「……反対側」
「こう?」
 くるりと両手がひっくり返される。
 あまり日に焼けていない、白く滑らかそうな手だ。その甲にはシミ一つ見当たらない。
 だからこそ、爪の間に土と血が混じり合ったものがまだわずかに残っているのがよく目立った。爪の先が傷だらけになっているのはなにかを引っ掻いたからではなく、汚れを落とそうと苦心した痕跡だろう。
 喜多川は改めて少女の姿を見下ろした。
 まだ糊の効いた制服は新品の証だ。けれどその袖口は、気の早いことに少しだけすり切れている。
「……コートはクリーニングに出したのか?」
「え? そうだけど……」
 何故それを知っているんだと見上げてくる瞳のあまりの素直さに、喜多川の胸に罪悪感がめばえ始める。
 どうにかそれを抑えつけて彼は言った。
「見つけたぞ、増髪―――」
 確信を持った語り掛けに、ははじめ不思議そうな表情をしてみせた。まるでなんのことを言われているのか解らないと言いたげな、ちょっと引き気味の顔だ。
 まさか見当違いだったのかと思い始めた瞬間、サッとの顔が青ざめた。
「ひ、人違いです」
 上ずった声で否定の言葉を口にするも、この状況でそう答えること自体が肯定を示している。
 喜多川は容赦なくそのことを指摘してやった。
「なぜ人違いだと言えるんだ。本当にそうなら、こんなわけの分からない問いかけをされてそうとは答えないだろう」
 普通ならそも『増髪』が人を指す言葉と思わず、単語の意味や意図するところを尋ね返すはずだ。
 の口が「あ」の形を作って固まった。
 その姿に喜多川はふっと勝ち誇ったように笑う。
「君は案外、粗忽者なんだな」
 笑う彼とは対照的にの顔色は優れない。
「わ、わた、私……」
「待て。話を聞いてくれ。俺たちは別に、君を疑っているわけではないんだ。ただこの件を解決しようと―――」
 はますます青ざめると、道を塞ぐ少年を思い切り突き飛ばした。
 その手がみぞおちを捉えたのは偶然か意図してのことか。どちらにせよ喜多川は急所の一つを突かれてたたらを踏み、その脇を通り抜けては駆け出して行ってしまう。
 慌てて目で追うと、少女の後ろ姿は思っていたより近くにあった。どうやら足はあまり早くないらしい。
 喜多川は幾度かむせ込んでから彼女を追って走り出した。
 彼女への親切心のつもりでもあったが、なによりあとに控える女王陛下に失態を叱責されることだけは避けたいというのが本音だった。新島真のお説教というものは、正論と正論と正論を豪速球で叩きつけられることをいう。
 悪い想像を振り払い、追いつこうと進むのにはもう一つわけがあった。
 冬の日はもう落ちかけて、辺りは半ば夕闇に呑まれている。そして彼女の向かう先は学校付属の女子寮だ。
 洸星高校は住宅街と商業地区の境目にあって、校舎から寮へはこの商業地区を通り抜ける必要がある。
 最寄り駅から電車かバスに乗る者が大多数だが、歩けない距離でもないからと歩く者も少なくない。たいへん意外なことに喜多川は電車を利用している。それは単に師のもとに身を寄せていたころに与えられた定期の期限がまだ切れていないというだけだ。
 ともあれ、がどちらかはまだ分からないが電車にせよバスにせよ徒にせよ、寮へたどり着くには必ず人が多く行き来する場所を通らなければならなかった。
 双葉が満足げに『トワイライトと人が多い場所』と述べたのはつい昨日のことだ。
 おそらくもこの法則には気がついているのだろう。人通りの少ない路地を選んで進んでいることがその証拠だ。
 喜多川からすれば彼女のそんな行動は浅知恵としか思えない。なにしろ彼女はこちらへやってきたばかりで、まだろくに土地勘も育っていないのだ。
さん! 待ってくれ!!」
 角を曲がって姿を消した少女に懸命に声をかけるが、その足は決して止まってはくれなかった。
 らしくない大声を出したのは、彼女が進んだ先に大型の食品スーパーマーケット―――門限ぎりぎりに来ると惣菜とパンが安い―――が存在していることを知っているからだった。
 トワイライトは夕飯の支度時であり、運良く定時で上がれた者たちの終業時間でもある。当然食品スーパーマーケットには人が集まることになる―――
 喜多川は落胆して肩を落とした。新島のお叱りが確定したからだ。
 路地から飛び出した彼女を追って出た先にその姿は見当たらなかった。人の多さに見失った可能性はあるが、今となっては別の可能性を考えたほうがいいだろう。
「……あちらへ入ったのか……」
 眉間に寄ったしわを指で押さえつつ、喜多川はもう一度辺りに視線を巡らせる。
 すぐそばに三階建てのアパートメントがあって、その裏に二階建ての店舗と駐車場が見える。駐車場は車で溢れ、人の出入りも多く確認できた。
 ため息をつきつき、喜多川は事の次第をグループチャットに投げつけた。
 返信を待つ間辺りを歩いて回ってみたが、異界に導かれることもなくただ虚しく時間だけが経過するばかりだ。
『もう女子寮でまちぶせするしかないな。むしろ潜入しろ。スニークミッションだ!』
 いち早くついた双葉の返信は無視し、彼は生鮮食品の並べられた棚を冷やかすだけ冷やかしてから男子寮に帰ることとした。

 その夜、子どもたち一同に介して短く話し合った。
『―――それじゃあ、間違いないのね?』
『ああ。あの逃げっぷりでは確定だろう』
さん、かぁ。やっぱりなんか隠してるのかな?』
『そのような様子だった。だがそれだけとも思えない』
『困ってるってのもまちがってないとオモ』
『だな。あンときの逃げ足っぷりハンパなかったし』
『秘密にしておきたい理由があるのかな。やっぱりお話はしたいよね』
『そうね。判断するためにも情報を詰めたい。どうしようかな……』
『スニークミッションか!?』
『双葉、おすわり』
『:(』
『居場所は分かっているんだから、そこは焦らなくていいんじゃないかな? 学校だって簡単には休めないだろうし』
『待ち伏せでいんじゃない? 学校の近くで』
『だな。いつやんの?』
『早いほうがいいわ』
『では彼女の登校を確認し次第連絡する』
『お願いね。ところで祐介』
『なんだ?』
『どうして逃したの?』
『はい』
『はいじゃないが』
『双葉、おすわり』
『:|』
『祐介、説明してくれる?』

 ……お説教は幸いなことに、十分ほどで終了した。

……
 翌日の放課後、洸星高校から少し離れた道端に少年たちの姿がある。ただし高巻は以前から予定にあった撮影のため、双葉は少し自宅で行いたい作業があるとのことで欠席している。
 そこはなんの変哲もない五階建てのマンションの裏手だ。南向きで窓はなく、濃い影が落ちている。潜むにはうってつけの場所ではあった。
「本当にここ通ンのかぁ?」
 訝しげに問いかけたのは、足元に生えた苔をしげしげと眺める坂本だった。制服姿のままの彼は、授業が終わるなり急いでここへやって来ている。
「祐介次第ね。どうなの?」
 応えた新島が喜多川へ視線を送る。彼は昨晩のお説教を思い出したのか、少しだけ後退った。
「……あちらの心の内までは解らん。ただまあ、可能な限りプレッシャーは与えられたとは思うが」
「ちょっとかわいそうだけど、仕方がないよね。お話、聞いてくれるといいんだけど……」
 不安げに漏らして、奥村は校舎のある方向へ目をやった。民家の屋根の上には、学校の屋上が覗いている。
 ―――日中、喜多川はに接触せず、ただじっと彼女を観察し続けた。
 相変わらずコートはクリーニング中だからか、ブレザーの下にカーディガンを着込んだ姿で、規定通りのスカート丈と暗色の厚手のタイツ。彼女はおととい膝を擦りむいていたから、おそらくタイツの下には絆創膏が貼られているはずだ。流石にそれを確認することはできないが。
 なんにせよは気が気でなかったことだろう。昼休みは教室から飛び出して、予鈴が鳴るまで戻ってこなかった。
 もちろん喜多川のこの奇行は彼の本意ではない。彼は新島に命ぜられた通り、彼女が逃げたくなるようにしただけだ。
 新島はそのわけを語る。
「彼女が馬鹿じゃなければ、待ち伏せを考慮して昨日と同じ道は通らない。そして私の想像通りの人物なら、人通りの多い場所も避けるでしょうね。あなたたちが複数人で迷い込んだ姿を確認した以上、近い距離にいる他人を巻き込む可能性くらいは考えるはずだから。そうなると学校も避けそうなものだけど、祐介に正体を知られてからも登校してきたところを見るに、気楽に学校をサボれるタイプでもない。それから、これは祐介も言っていたけど、まだ馴染みのない土地であまり入り組んだ場所も歩きたくないはず。これらの条件を満たした上で、駅にせよ、バス停にせよ、徒歩にせよ……そこを目指す人通りの少ない道となれば、この辺りは必ず通る」
 とうとうと語った新島の目も、校舎の方向を睨んでいる。
 自信満々といった様子だが、しかし実際のところこの作戦参謀の勝率は半々だ。敵に出し抜かれて逆手や搦手を取られることも珍しくない。
 ただし今回は、相手が決して『敵』ではないというところがミソだろう。
「私とモナちゃんを待ち伏せしていたときもこんなふうだったよね?」
 朗らかに笑う奥村とは対照的に、少年たちの間には冷えて乾燥した空気だけが横たわった。
 脳裏を過った鬼ごっこをあまり思い出したくないと彼らが思っているとは気がついていないのだろう。どこか懐かしく、嬉しそうに少し前の出来事を語る奥村の様子を前にしては、彼らもやめろとは言えなかった。
 そのようにぽつぽつ語らっていると、想定通りが姿を現した。
 けれどその悄然とした様子といったら―――
 丸まった背は先日あの異空間で見た姿とは似ても似つかない。喜多川などは凛とした佇まいから力強さと鋭さを覚えたものだが……
 明らかになにかに怯え、幾度も後ろをふり返っては手元のスマートフォンに目を落としている。おそらくマップアプリで進む方向を確かめているのだろう。
 なんとなく申し訳なさを覚えて、坂本と喜多川は顔を見合わせる。怖がる女子を無理矢理というのは、どちらも趣味ではなかった。
 しかし新島はそんな少年たちの気遣いや配慮などには一切頓着せず、俯きがちな少女の前に歩み出ると胸を張って語りかけた。
「あなた、さんよね?」
「へっ? そう、ですが。あなたは―――」
 顔を上げたは、新島とその隣に並ぶ奥村とを交互に見、すぐに後ろに控える坂本と喜多川に気がついて顔を青ざめさせた。
「こ、こんちわー……」
「……待ち伏せのような真似をしてすまないとは思うが……」
 気まずそうに頭を下げる坂本と、許してくれと懇願するクラスメイトの声を右から左に聞き流し、は踵を返そうと身体を捻った。
 また逃げられると走り出そうとした少年たちの眼前で、新島は無防備なの右手を捕らえ、下に引いて身体を寄せる。
 そして、唇を耳に寄せて妖しく囁いた。
「無駄な抵抗はやめなさい。ひどいことされたいってわけじゃないでしょう。あなたも私たちも、そこは共通しているはずよ―――」
 低く抑えられた声が直接耳孔に飛び込むと、の背をえも言われぬ感覚が駆け上った。未知の感覚に全身を震わせ、逃亡の気配は消失する。
 新島による捕獲は的確で迅速といえた。相手が敵でさえあったならば。
 坂本は慌てふためいて二人の間に割って入った。
「ちょちょちょ待って! 怖えよ! なんでだよ!? 普通にまずはオハナシだろ!? パイセンほんと交渉できねえな!」
「う、うるさいわね! そこは私の仕事じゃないのよ!」
 驚くべきことに、新島はこれで優しく話を聞き出すつもりでいるらしい。これは彼女が悪いというよりは、これまでの経験が悪いと言うべきだろう。
 ―――悪党相手の交渉は、情報を引き出した後に戦闘が控えているのがセオリーだった。あるいは、叩きのめした後に口を割らせる。
 現実でもその手が通用するなどとは微塵も思ってはいないが、その手法による成功経験は確実に彼女の足を引っ張っていた。
 さて、奥村は新島のそんな真っ直ぐな気性とそれ故の不器用さをよく理解している。の手を捕らえ続ける新島の手をやんわりと外してやった。
「はい、マコちゃん放してあげてね。さん、ごめんね? 怖かったかな?」
 極めて優しく、暖かみを籠めて背を撫でもする。
 解放されたこともあるだろうが、なによりその手の優しさにはほっと息をついた。
 まるで良い警官と悪い警官のお手本のようだと喜多川などは思う。もしかしたら奥村のほうは己の役割を承知した上で新島に好きにさせたのか、とも。
 真相は誰にも分からない。ただ効果的であることに間違いはなかった。
さん、話をしよう」
 少なくともは逃亡を諦め、力なく、
「わかった」とは応えてくれたのだから。

 ここではちょっとと渋るのため、少年たちは手近なカフェに場所を移した。
 TRICHTERという名の店は高い天井のホールにレトロな内装が浪漫を感じさせる喫茶店だ。ルブランとの一番の違いはメニューの中に酒も含まれていることだろう。
 学生らは当然それには目もくれず、各々好きな飲み物と軽食を適当に注文した。
 客の姿もまばらな店内で案内された席は店の奥、半個室の内の一つだ。密閉こそされていないが、密談するには充分だろう。
 壁際の席にを押し込み、隣を奥村が、テーブルを挟んだ対面に坂本、新島、喜多川が並んでいる。
 逃亡を防ぐためのフォーメーションだったが、これが問題だった。は再び縮こまり、怯えて小さくなってしまっている。
「完全ビビり入っちまったじゃねえかよ。パイセンあやまって!」
「しつこい!」
 道中もさんざ坂本につつかれて、新島はすっかり拗ねてしまっていた。
 とはいえ彼女もとっくに己のしでかしたことを自覚しているから、頭は素直に下げられる。
「悪かったわ。急に腕を掴まれたら同性でも怖いわよね。ごめんなさい……」
「いっ、いえ、大丈夫です。ホントにゼンゼン、痛くはなかったので!」
 謝罪とその受け取りが済まされたところで、後に残るのは絶妙な気まずさだけだ。少年たちはいつもの如く、『彼』がいようがいまいが、初手をしくじっている。
 取りなすようにに語りかけたのは、この時もまた奥村だった。
「私たち、あなたとお話がしたくて来たの。それは分かってもらえたかな?」
 首は縦に振られた。
「よかったぁ。驚かせちゃってごめんね? あっ、私は奥村春です。よろしくね」
 嬉しそうに目を細めて名を告げる彼女の様子に、わずかなりとも緊張がほぐれたのだろう。は慌てた様子で頭を下げた。
「し、失礼しました。私は、です」
 名乗らずにいた不調法には気がつけても、先に奥村に名を呼ばれたことには気がついていないらしい。
 もちろん彼女の名など、奥村だけでなくすでに全員が承知している。
「よろしくね。えっと……ちゃんって呼んでいいかな?」
「は、はい」
ちゃん、うふふ。私のことも春って呼んでほしいな」
「でも、先輩……ですよね?」
 この時期に私服姿で現れたことから判断したのだろう。の目は唯一同い年と判明している喜多川と、制服姿の坂本をチラチラと窺っては、合間に奥村と新島との間をさまよった。
「先輩なんて言っても一つしか違わないよ。ダメかな? お願い」
 両手を合わせてそう言われてしまうと、には―――このような状況でなくとも―――ノーとは言えなかった。奥村春という少女の笑顔にはそういう力がある。
 は少しだけはにかみ、照れた様子で呼びかけた。
「は……春、さん……」
 敬称を付けたのは彼女の最後の抵抗だろうか。それも満面の笑みを浮かべた奥村の前では無駄なことだ。
「なーに?」
「あ、いえ、なんでも……えへ……」
「こういうの、ちょっと照れちゃうよね。ふふふっ」
 結局、はすっかり警戒心を奪われてしまう。
 なるほど、交渉とはこういうことか―――
 新島は深く納得して、やはりこれは自分の仕事ではないと胸に刻み込んだ。ああいう真似はちょっとできそうにない。だって恥ずかしいから、と。
 それでは己の役目を果たそうと、新島は背筋を伸ばした。
「こほん。じゃあ、さん、いいかしら?」
「あっ……はい。えっと……」
 そうだった、と新島は軽く己の名と所属を明らかにする。秀尽高校三年、元生徒会長、三月に卒業予定。
 倣って坂本も己の名を告げた。同じく秀尽、喜多川と同学年だと。
「もうペルソナのことも説明済みなのよね。私と春もこの子たちと同じ。目的もね」
 目的、という単語には再び身体を強張らせた。
「……あの空間のことを訊きに来たんですよね。でも……」
 声もまたかすれて―――恐怖を表している。
 テーブルの上、湯気の立つ紅茶に目を落として彼女は小さく首を横に振った。
「でも本当に、私が話せることは多くないんです」
 俯いたは青褪めて震えている。視線は落ち着きなく幾度も逃げ道を探るように床や壁を這った。
 この上まだこの場から逃げ出そうと、しかしそれを堪えようと懸命になっているのは明らかだ。
「―――さん」
 静かな呼びかけは喜多川のものだった。低く落ち着いた声にも少女の肩は震え上がる。
 構わず、彼は続けた。
「はじめに君とあの空間で逢ったとき、俺と杏は君に告げたな。あの空間で困窮した者を助けると。今もその気持ちに変わりはない」
 なにを言おうとしているのかと訝しがったのは仲間たちだけでなかった。もまたそろそろと視線を上げ、窓から射し込む西日に照らされる少年の顔を目に入れている。
 そこには奥村とはまた趣の違う、優しさの籠もった眼差しがあった。厳しいが、しかし決して冷淡ではないまごころは、その少年の本質でもある。
「これは俺の勝手な想像だが、君はあの異界の存在によってなにか厄介ごとを抱えさせられているんじゃないのか? それなら、俺たちにとって君もまた助けるべき対象だ」
 そうだな、と仲間たちに向けられた言葉には、全員が頷いた。
 彼女次第だと思う者のほうが多いが、しかし窮地にあるというのであれば、怪盗団は最後まで見捨てない。『彼』が自分たちにしてくれたように―――
 もしかしたら、大した力にはなれないかもしれない。ペルソナ使いとしての活躍ではなく、現実世界での解決を求められたら、一介の高校生である彼らにできることは少ない。
 それでも怪盗たちは胸を張って怯える少女に示してみせた。なにがあろうと折れないものがここあると。
 果たしては、瞳に希望を瞬かせて応えた 
「助けてくれる? 本当に? 私は、死なずに済む?」
 そこから飛び出した『死』という物騒な単語に、新島は軽く眉をひそめる。―――怯えていた理由はこれなの?
 考え込む彼女を横目に、坂本は困り顔で身を乗り出した。
「事情もわかんねぇうちにどうこう言うのもアレだけどよ、まあ、助けるよ。ジコショーカイしちゃったしさ、名前知ってるやつが困ってるんなら、なあ?」
 呼びかけは新島を通り過ぎて喜多川に投げかけられていた。彼は当然、肯してみせる。
 は一度だけ少年たちの顔を確かめるようにぐるりと見回すと、決心したようにテーブルの上の拳を握った。
「あ……あそこは……あの場所では人が消えて、代わりに化け物が闊歩している。多くはないけど、私以外にも迷い込む人がいて、そういう人は起きているのに寝ているみたいになって、逃げることも出ることもかなわなくなる……」
 実際にそのような場面を目撃している喜多川が大きく頷く。
 その隣で新島がふむと唸った。
「神隠し、よね。あなたはなぜこの現象を神隠しと表現したの?」
「それは……」
「そう表現するに相応しい現象に心当たりがある、そうよね?」
 気をつけてはいるのだろうが、言葉はどうしても詰問調だ。仲間たちは苦笑しての返答を待った。
 はしばらくの間、記憶を探るように目を伏せ、沈黙する。引き結ばれた唇から悲鳴が転び出ないのが不思議なくらいに蒼白な顔をして。
 やがて彼女は、震える声で新島の問いに答えた。
「去年のクリスマスのことです。冬休みの初日で、ちょうど紬がこっち……私の地元に遊びにきたときだから、よく憶えています」
「つむぎ? あなたのお友だち?」
「はい。私の幼なじみの立花紬……喜多川くん、彼女のことは覚えてる?」
 唐突に水を差し向けられて、喜多川は少し慌てて記憶を探る。聞き覚えはあったから、掘り返すのに時間はかからなかった。
 少年の脳裏に蘇ったのは丸い輪郭のオリーブグリーン……春告鳥の名で知られる鳥が梅の枝にとまっている姿だった。
 それは捻りなく『うぐいすと梅』と題された一枚の絵画だ。高校生絵画展に提出された一枚。優秀賞作品の一つに選ばれていた。
 それを描いたのは、かつて彼と同じ教室でともに学んだ―――
 喜多川は驚きも顕にを見つめ返した。
「立花さんが、君の幼なじみ?」
 彼女は頷いて、ギュッと唇を噛んだ。
 どういうことだと首を傾げる他の面々に、喜多川は言葉を選び選び、立花紬なる女生徒についてを語る。
「俺の元クラスメイトだ。俺はあまり話をしたことはなかったが。冬休み中に転校していって……親の仕事の都合だと聞かされていた。それで、その空いた席に」
「入れ替わりに私が座った」
 今度は坂本たちが驚かされる番だった。
 唐突な転校自体は、少ないがまったく無い話でもないだろう。しかしその空いた席にやってくるのが転校していった女生徒の幼なじみで、なにか重大な秘密を隠し持っているらしい少女となれば……
 見えざるなに者かの意志や意図を感じさせる。例えば、『彼』があの屋根裏部屋に追いやられるようにしてやって来たように。
 無言で見交わし合う少年たちに構わず、はどこか遠くを眺めて語り続けた。
「紬は明るくて、優しくて、子どものころから絵がとっても上手かった……こっちに引っ越しちゃうまで、いつも一緒だった。……でも……」
 うう、と唸るような声が少女の細い喉から漏れ出ていた。年老いた魔女が呪いの言葉を吐くような、怒りと憎しみに彩られた低い音だ。
 その怒りと憎しみは、どうやら彼女自身に向けられているらしい。
「あの日、紬はたぶん……」
 ……曰く、立花紬なる少女がの地元にまで赴いたのは、そちらで独居する祖母の家があるかららしい。年越しはいつもそこで過ごし、また東京で暮らす両親のもとへ帰るのだと。
 その折に二人で顔を合わせ、一年の間にあったことを報告し合うのが二人の少女のお約束ごとだった。
 けれどその日、立花の祖母が待つ田舎のバス停から歩き出してすぐ、二人は異界に迷い込んだ。人の姿がないことに気がついたのは祖母の家の前に着くころだった。
「家の中にも紬のおばあちゃんの姿がなくて、二人でおかしいおかしいって。近所の人を探しにあちこち歩いたけど、どこにも見当たらなかった。そのうち地響きみたいな音がし始めて、やばいと思って紬に逃げようと声をかけたけど、あの子はまるで起きたまま夢でも見てるみたいに動いてくれなかった」
「それで」
 ごくりとツバを呑んだ坂本の声に促されて、は力なく首を左右に振った。
「例の化け物が出て、私は逃げた」
 どことなくおどけた様子で言ってはみるものの、顔色の悪さのせいでひどく痛々しい。
 引きつった笑みの貼り付けられた顔は淡々と話を続けた。
「気がついたら人が戻っていて、その足で交番にも行ったけど、化け物に襲われたって言ったらアルコール検査なんかされたよ。もちろん一滴も飲んでない。結局調書も取られず追い返された。なのにその日の夜には警察がきて、紬を最後に見かけたのはいつかって」
 少女はその時、見たものを正直に話すことができなかった。一度追い返されたこともあるが、彼女自身、化け物や無人の空間が夢や幻覚ではないと言い切れなかったからだ。
 少女は立花とは彼女の祖母の家の前で別れたと嘘をついた。もしかしたら現実はそうで、その後白昼夢を見て記憶が混同しているのかもしれないと、己に幾度も言い聞かせた。幼なじみはきっと、荷物を置いた後どこかに遊びに行ってしまっただけだと。
「紬のおばあちゃんはずっと『神隠し』だって騒いでた。人がこつ然と消えるなんて、そうに違いないって」
「……だからあなたは『神隠し』と言ったのね」
 頷いて返したにやはり同じ現象を目の当たりにしていたのかと思う一方で、新島は決して喜ぶことはできなかった。仔細はぼかされたが、話しぶりからしておそらくその立花紬なる少女は―――
 なにより、の話は佳境に入ったところだ。
「変なことはまだ続きました。その次の日、お母さんがおかしなことを言い出したんです。そろそろ転校の準備をしなさい、って」
「こちらへのか」
「そう。でも、転校するなんて話は聞いたことがなかった。する気も。あっちの……私立の学校に通ってた。なのに、いつの間にか洸星に転入して、寮に入ることになっていた。おかしいってお母さんたちに訴えても、困った顔をされるだけだった。通っていた学校に確認もしたけど、本当に転出の手続きがされていて、どうすることもできなくて……それで、こっちに来たら……」
 また、あの無人の空間に迷い込んだ。それも一度や二度じゃない。転校と寮への入居のために二点間を行き来する間と、生活用品を揃えねばと街に出かけたとき―――
 そう語る彼女の瞳はこの場に揃う人物の中で、喜多川を捉えている。彼は得心して頷いた。
「それが俺たちと初めて出会ったときだな」
 肯定とも感嘆ともつかない息と声をもらして、はすぐにまた顔を俯けた。
「ああ……必死だった。あの金髪の子、あの子が襲われそうになっているのを見て、無我夢中でその辺りにあったものを掴んで……」
 助けられてよかったと述べた声はかすれ、ほとんど囁きに近い。
 けれど彼らは確かにそれを聴き取り、またそこに籠められた万感の思いを感じ取る。彼女は心の底から、高巻に迫っていた危機を跳ね除けられたことを喜んでいる。
 ふう、と息をついて、はどことなくスッキリとした表情をみせた。
「あの日からほとんど毎日です。気がつくとあの場所にいて、たまに迷い込んだ人もいて……」
「その中にこういう人はいた?」
 遮った新島の手にはスマートフォンが握られ、画面には顔写真と人名がいくつか並んでいた。
「なにそれ?」
「ここ一週間の行方不明者リスト。あの子に作ってもらったのよ」
 あの子とは当然、今日は作業とやらで不在の双葉のことであろう。坂本と喜多川はぎょっとして目を見張ったが、奥村はくすっと小さく笑っただけだ。
 どうやらこの先輩方はいつの間にやら警察に寄せられた相談や捜索願を抜き出させ、顔写真を入手するところまで話を進めていたらしい。
 鮮やかな手並みに呆れるやら戦慄するやら。少年たちが顔を見合わせて渋い顔をする傍ら、は一つの顔写真に目を留めていた。
「この人、見覚えがあります。先週入ったときに見かけて、それで……」
「まさか、例のバケモンにやられちまったってんじゃ」
 は、かすかに顎を引いた。
「そう……」
 深刻な顔をして頷き、スマートフォンを手元に返した新島は、またふむと唸って己の顎を指先で撫でた。
 想像していたよりずっと自体は重篤だ。知れた限り二人の人間があの空間で『消えて』いる。
 把握できていないところにまだ被害者がいるのかもしれない。こうしている今もそれは増えているかもしれない。
 可能性の重さに眉を寄せた少年たちの様子にか、は再び蒼白に戻って震えた声を上げた。
「嘘じゃないんです」
「えっ?」
「本当に私はなにも知りません……!」
 少女の様子はおよそ凡常とは言い難かった。まるで刃物を持った殺人鬼に追われているかのように怯え、恐怖している。今すぐにでも叫びだして暴れたとしても誰も不思議には思わなかっただろう。
 そしてその恐怖は、明らかに少年たちにこそ向けられていた。まるで彼らこそが己を死に追いやる者であるかのように。
 これはどうしたことかと新島たちはすばやく視線を交わしあった。違うと否定するのはもちろん、そこからいかにして彼女から発言の意図を引き出すか―――
 結論が出るより先に、喜多川は己の思うままに動いた。
「信じるよ。君はただ巻き込まれただけだ。俺たちと同じようにな」
 が息を呑む一方で、坂本は己の額を叩き、新島はひっそりとため息をついた。奥村は、うんうんと頷いて微笑んでいる。
 奥村に言わせれば、彼の行動こそが限りなく正解に近い。今はまず彼女の信頼を勝ち取ることこそが肝要だ。
 ―――たぶん。私にも同じことはできる。でもあなたみたいに、ただ心だけではきっとできない。そこには打算が含まれてる。これがきっと奥村の呪われた血統の証……なんてね。まだ三代しか続いてないのに、血統もなにもないよ。
 奥村は心の中で少年に賛辞を送りながらコーヒーカップを傾けた。深煎りのマンデリンは、少女の心情を表すかのように苦かった。
 その隣で喜多川の発言に驚かされて硬直したは、しばしの後我に返ろうと幾度もまばたきを繰り返した。
「あ……あ、ありがとう……」
 絞り出された声は完全に気が抜けている。
 喜多川は軽く首を左右に振った。
「礼を言われるようなことじゃない。それより、君がこれまで異界に遭遇したときのことを話してくれないか? 情報を累積させてパターンを割り出したいと仲間の……おととい会ったな。あいつが場所や時間帯を知りたがっているんだ」
「ナビ、だったね」
 二人の会話に新島も己の役目を思い返したのか、スマートフォンの録音機能を起動させる。
 ―――なるほど、ほとんど毎日と語った通り、彼女と喜多川らが出会った日から、実に十回も彼女は異界に迷い込んでいた。日によっては二度三度と進入してしまっている。
「そりゃ慣れるわけだわな」
 感嘆の息とともにそうもらした坂本に、は曖昧に笑った。

 情報はいくらあっても余るということはないが、時間は有限だ。今日はそろそろと奥村が切り出したところで、急襲から始まった奇妙な会合はお開きとなった。
 連絡先を交換した彼らは、必然的に帰路を同じくする喜多川にを託して別れた。
 二人とは別方向に動き出してしばらく、新島は歩を緩めずに言った。
「たしかに彼女、嘘はついてないわ」
 一歩先を歩く坂本は、ふり返って後ろ歩きになりつつ頷いてみせた。
「だな。それは俺も分かるわ。けどよ」
「そうだね……」
 奥村もまた同意を示すと、新島は重苦しいため息をついた。
「彼女、さん。まだなにか隠してる」
 二人は同時に頷いた。
「触れないほうがいいと思って流しちゃったけど、死なずに済むのかって言ってたよね」
「ヤバすぎんだろ。真、どういうことか分かった?」
 新島はすぐに首を横に振った。
「まだ情報が足りないわ」
「かといって今すぐ訊くのは悪手だよね。もっと彼女を信用させなきゃ、きっとまた逃げちゃうわ」
 青ざめて必死に遠ざかる姿は、実際に目撃していない新島と奥村も想像に難くない。
 もちろん再び捕獲することも、学校やその寮の位置が割れている以上容易だ。けれどそうなれば、彼女は二度と心を開かないだろう。その確信が三人にはあった。
「まずは仲良くして、信頼を勝ち取らなきゃ、か……そのあたりはあなたたちに任せるわ」
 少しだけ唇を尖らせて吐かれた台詞に、坂本はニヤッと意地の悪い笑みを浮かべた。
「パイセン落ち込んでる?」
 この優等生の先輩が突破や突貫、知恵や理性による物事の判断は得意でも、内側からの懐柔や籠絡といった搦手を苦手とする事実は、坂本にとっては格好のからかいの種だ。
 感慨深くもあった。
 はじめから完璧人間とは思っていなかったが、なんでもそつなくこなす生徒会長サマがまた分かりやすい、おまけにからかいやすいしくじりを見せてくれる日が来るとは―――
 新島は思い切り彼を睨みつけた。
「絞るわよ」
「先輩ごめんなさいッス!」
 おどけた仕草で三下のような口をきく後輩に、新島は軽いひじ鉄をプレゼントしてやった。
 奥村はただ笑うだけだ。
 適材適所。さて、あちらはこちらの意図を掴んでくれているかしら。掴んでいなくても、彼のことだからきっとうまくやってくれているだろうけど。
 ……さすがに期待しすぎかな?
 うーんと唸って星の瞬きが目立ち始めた空を睨む。今度は坂本たちのほうが、不思議そうに彼女を見つめる番だった。

 人通りの少ない道を選んで歩く二人の間で、意外なことに途切れることなく会話が交わされ続けていた。
「あの子の絵、素敵だったでしょ? きれいだったでしょ?」
「ああ。そうだな、記憶にもよく残っているよ。動物や花のモチーフが多かったな」
 話題の主役はの幼なじみ、『立花紬』についてだ。
 まさか君が立花さんの幼なじみだったとは、と喜多川が切り出してからこちら、はずっと彼女の自慢話を続けていた。
 物心ついたころからの友人で、小中とともに過ごし、学外でもよく一緒に遊んでいたのだという。
「私が絵をはじめたのもあの子に影響されたからなんだよ。よく一緒に画用紙に絵をさ……」
 思い出話は尽きることなく、永遠に続くかと思われた。
 しかし話は立花が高校進学とともに両親の仕事の都合で都内へ転居することになったあたりで勢いを失いはじめる。
 それは単純に共有する時間が減ったため、語る事柄が尽きたということでもある。
 けれど今や、話題の中心である立花なる少女は―――
「やっぱり、紬はあそこで……」
 寂しげで悲壮感に溢れた声だ。夕闇の中にある表情は喜多川には窺えなかった。
 ただ一つ気にかかることがある。は今、やっぱりと言ったのだ。先にも決定的な出来事は語られなかった。
 確信に置き換えようと喜多川は問いかける。
さん君は……その、見ていないのか?」
 立花紬が捕食、あるいは殺害される現場をとはさすがに言えず曖昧にぼかしたが、は彼の言わんとするところを正確に察してくれた。
「ああ……確信できるような場面は、見ていないよ」
「……それなら、生きているかもしれないな」
 こんなのはただの気休めだとは喜多川自身も自覚している。
 自覚してなお口にせずにおれないのは優しさなのか、お節介なのか。結論は出なかった。ただ彼はひどく落ち込んだ心地になる。
 坂本のように場の空気を入れ替えてしまうような真似は己にはできないのかと。
 しかしはそんな彼の様子を見てなにを思ったのか、嬉しそうに笑って返した。
「ありがとう」
 二人はそれからしばらく沈黙して歩き続けた。
 日はゆっくりと高いビルや集合住宅のむこうに落ち、家々の明かりや商店からこぼれる光が足元を照らし出している。
 鼻の奥がツンと痛くなるような年明けの寒さは、沈黙の理由になった。口を開けると舌が冷える。
 けれど足がの仮宿、女子寮の門前にさしかかるとそうもいかない。白い息を吐き出しながら彼女は喜多川をふり仰いだ。
「君がいたからなのかな……『寄り道』せずに帰れるなんて。今日は久しぶりに部屋でゆっくりできそうだ。ありがとう」
 丁寧に頭を下げた彼女に手を振って、喜多川は笑みを返した。
「どうせ帰りは同じだ。今後も可能な限り付き添うよ」
 これは明確な親切心からの台詞ではあったが、の反応は芳しくない。困り顔をして、言いづらそうに手をすり合わせている。
「でも、その……」
 喉の奥につかえた言葉は、出るより前に押し潰された。
「迷惑なんてことはない。任せてくれ」
 堂々と、いっそ男らしく言われてしまうと、にはもうノーとは言えなかった。
「ああ、うん……ありがとう……」
 じゃあなと微笑んで手を振り遠ざかる喜多川少年の悪意のない様子に、はため息をついた。
 なるほど彼は、他者に貼られるレッテルが本当に恐ろしくない様子だ、と。