03:My Kind of City

 一日を挟んだ日曜日、芋洗いもかくやと人でごった返す渋谷の駅前に、佐倉双葉の姿があった。
「というわけで! いざ!」
 ―――なにが『というわけ』なんだよ。
 そう思うのは傍らで双葉の荷物の半分を持たされた坂本だ。
 双葉が言うことには、彼女と坂本だけがまだ件の異世界に進入していないという点に『というわけ』は掛かっているらしい。
 しかしそれならばと、坂本は双葉を挟んだ対面で彼と同じく荷物の半分を押し付けられた喜多川を見やる。
 いささかうんざりとした顔を見せているのは彼がやや強引な手法によって―――『来ないとわたしが迷子になって一生家に帰れなくなっちゃうぞ! そしたらそーじろうはショックで店を閉めてしまうかも! つまりおまえは食いっぱぐれることになる!』―――呼び出されているからだ。
「……竜司もいるのか」
「そりゃな。俺まだ遭遇してねぇし。行けそうって言われたらまあ来るだろ?」
 坂元はこの呼び出し方法を知らないのだろう。喜多川の様子に首を傾げるばかりだ。
「なぜ俺まで」
 『というわけ』なら俺は必要なくないかとぼやく彼に、双葉はニンマリと意地の悪い笑みを浮かべる。
「にもつもち」
「おい」
「てのは冗談としても、道案内だな。わたしたちはふたりとも行ったことがないから、仮に今日はいれたとして、それが例のアレかどうか判別できない」
 前置きとして提示される冗談の性質の悪さに辟易としつつ、喜多川は納得して荷物を担ぎ上げた。
 そういうことならば、付き合わない道理はない。
 彼らは特別目的もなく辺りをさまよい歩き始めた。
「ますかみのことはひとまず置いといて、とにかくサンプル数を増やしたい。推察される結果を考えれば少ないのは良いことなんだけど……傾向と対策のためには、どうしても絶対数がものを言うから」
「あー……つまり、とにかく数こなすしかねぇってことでいい?」
「いいよ」
「ふむ、とはいえ闇雲に歩き回る虚しさだけはいかんともし難いな」
「真らで入ったってのは昨日の放課後だろ? 祐介と杏で行ったときはどうだったん?」
「あのときは夕方の駅前通りだな。俺は気が付かなかったが、いつの間にか人通りが途絶えていたそうだ」
「なんで気が付かなかったんだよ」
 どことなく責めるような視線をはね返して、喜多川は拗ねたように低い声を吐いた。
「考え事をしてたんだよ」
「どうせいつもみたいにヘンタイ的なこと考えてたんだろ」
「誰が変態だ……!」
 大人げなく、年相応に言い返す少年から逃れ、もう一人を盾にしながら双葉は辺りを見回して満足げな顔をしてみせた。
「二つの事例の共通点は時間と場所だ。トワイライトと人が多い場所」
 まさしく今この場所こそがと鼻息荒く訴える眼鏡の下には、明確な興奮が垣間見える。
 きさらぎ駅が、地下の丸穴が、空の色がどうたらこうたら……昨晩遅くまではしゃいでいた延長線上に彼女はまだいるらしい。
 呆れつつも微笑ましく思って、男二人は顔を見合わせる。
「では、このまま歩っていればそのうちたどり着けるということだな」
「しゃーねぇなあ。もうちょい付き合ってやんよ」
「うむっ! 助さん角さん、ついてまいれ!」
 元気よく小走り気味に進み始めた双葉の背を二人は追った。

 果たして彼らは思惑通り、無音と無人が続く空間に迷い込む。
「んお……っ!?」
 息を呑んで足を止めた坂本の隣で、喜多川は落ち着いた様子で辺りを見回した。
「ああ、これだ」
 確信のこもった声に、坂本は背を這い登る寒気のようなものを誤魔化すように頭を振る。
「マジで人いねーじゃん。不気味、ってか私服に仮面ってなんか落ち着かねーな」
「そうか? まあ、どうせなら怪盗服になってくれたほうが動きやすいが」
 その顔には確かに、彼らの顔を隠す仮面が貼り付いている。しかし服装はパレスと違って常のままだ。昨日新島が語った通り、『主』に警戒されていないことの証明という可能性もあるが―――
 答えを求める視線の先で早々とペルソナを呼び出していた双葉は、
「なんじゃこりゃあ!」素っ頓狂な声を上げた。
「ど、どした、双葉」
「こりゃパレスじゃないっ! ぜんぜん違う……認知の力の影響なんかじゃない。見た目はわたしたちの知る姿そのものだけど、これは、これは……」
 興奮した様子でまくしたてるナビに、二人の少年は揃って首を傾げてみせた。
 ナビは応えるつもりもないのだろう。訴えるというより、己にこそ言い聞かせるように告げた。
「物質的な法則に拠らない、思考的な概念に近い。心の影響と言われれば近いものもあるけど、わたしの知ってるどの現象とも噛み合わない」
「なんて?」
「さあ……」
「それでもわたしたちは確かにここに存在してる。その点ではパレスと同じだけど……やっぱりパレスとも、メメントスとも違う。ここはまったく異質だ。あらゆる既存の法則から外れた世界―――これがほんとの異界ってやつだ」
 一応の結論が出たらしく語りを止めた彼女に息をつきつき、少年たちは揃って問いかける。
「で?」
「あーとな、えーと……なにひとつわからない!」
「おいっ!」
「待て竜司。双葉がなに一つ解らないというのであれば、それはすなわち、ここが認知世界とかけ離れた場所であるということだ」
「お? おお……たしかにそういうことになんのか」
 落ち着きを取り戻したらしい坂本の目が辺りを探るようにさまよった。
 無音と無人。ここにはなにも無い。
 それが彼の正直な感想だった。
「あ、一つ朗報」
「あんだよ」
「おまえらの発する独自の信号はキャッチできるぞ」
 それはすなわち―――
 喜多川は頷いて応えた。
「はぐれても問題ないと」
「そゆこと。通話やチャットはイケるみたいだし、もしもひとりで入っちゃっても、わたしが入れさえすれば見つけてやれるぞ」
「そりゃありがてえこって。ってぇことは、モナがいたら分かるってことだな?」
「うむ!」
「なるほど、朗報だな。今はどうだ?」
「悲報。それっぽい反応ミツカラズ……でも調査もかねてちょっといろいろ試す。ベースの設置するから手伝って」
「了解した」
 ベース設置、と言ってもなにか大がかりなことをするわけでもない。ただ風や雨―――どちらもが今のところこの異界に存在するかは分からないが―――を避けられそうな場所を見繕って、双葉が延々二人に担がせ続けた荷物を置いたというだけだ。
 それでも見通しの良いガラス張りのコーヒーショップに腰を落ち着け、持ち込んだ飲料や菓子を広げる程度の余裕は生じる。
 すっかりくつろいで足を延ばしたころ、双葉はのんびりと宣言した。
「じゃ、そろそろやるか。まずは普通にサーチしてみるから、テキトーに警戒よろ」
「はいよ」
 応えて、坂本は立ち上がる。座したままの双葉と喜多川から離れ、通りに面した棚に寄りかかっては人の影すら見当たらない辺りへ視線を這わせた。
 双葉はその背中を見つめながら、己の内側に語り掛ける。
 ―――まさかまだこんなことする羽目になるなんて思わなかったな。
 気がつけば目の前に己とそっくり同じ顔をした少女が、テーブルの上に腰を下ろしてこちらを見下ろしている。
 彼女は言った。
 ―――でも、ワクワクしてる。そうだな?
 その通りだ。なんで解るかなんて言わなくていいぞ。だっておまえはわたしなんだから―――
 双葉は自分自身を溶かし、さらに細かく砕いて周囲に行き渡らせる様をイメージする。浮遊感があるのは、事実彼女の身体が半身によって絡めとられて宙に浮いているからだろう。
 やがて彼女の目は明確な―――複数に渡るヴィジョンを得る。
 それはマルチモニタ上に映し出され、状態を示す数値とともに彼女にこの場所の情報を与えた。
 双葉はその内から一先ずと地形データを拾い上げ、脳内にある現実世界との比較検証を行った。
「うん……ほんとに外とカタチはおんなじだ。建物の中も寸分違わずつくられてる」
 ペルソナを己の中に戻し床に足をつけた双葉の前には、立体投影モニターのようなものがいくつも浮かび上がっている。
 映し出された街の風景を並んで見つめ、喜多川はふむと唸って腕を組んだ。
「ここはパレスではないが……もしもここがパレスだとしたら、この街丸ごと、細部に至るまで知り尽くす者ということになるのか?」
 独り言めいたつぶやきではあったが、人っ子一人いない店内にはよく響く。警戒にあたっていた坂本のところにまで。
 彼は少し声を大きくして二人に語りかけた。
「でもよ、パレスって心が歪んじまったヤツの中にできんだろ? で、俺らそこにイセカイナビ使って入ってたンじゃん? じゃここはどうやってできたんだよ?」
 二人は顔を見合わせながらうーんと唸った。
「わかんないな。いつからあるのかもさっぱりだ」
「地層調査でもできればそれによって年代測定ができるかもしれんが……」
「難題じゃね? 掘り出したもん現実に持ち帰ること自体はできるだろけど、解析できるよーな機材にはさすがにあてがない」
 そもそも掘り出すにしても、穴くらいはペルソナの力を用いれば容易だろうが、年代を測定するほどとなるとその労力は果てしない。
 結局、今すぐに『いつから』を知る手立ても思いつかず、少年たちはため息をついた。
 坂本は再びガラスのむこうの外、高いビルや駅の屋根が覗く方向を眺めてなんの気もなく、聞かせる気もなさそうな様子で言葉を発した。
「俺らが生活してるみたいにビル建てられたりしたんかね」
 するとこれにぽんと双葉が手を打った音が返される。
「―――パレスが現実に即してるのは主の認知に影響されるからだ。でもここに認知は関係ない。それなのにどうして、現実の、現在の、渋谷そのままの姿をしているんだ?」
 仮に、と前置いて、双葉はその場に円を描くように歩きはじめる。
「ここがパラレルワールドの類だとすれば、この形に意味は無い。類似した歴史や働きから同じ街並みが生まれたと考えることができるからだ。けど、そうじゃないとしたら。なにか意図や意味があってこの形をしている、あるいは意図や意味の結果としてこうなっているのか―――」
「待て待て待て」
 分かるように言ってくれよと坂本が双葉の早口言葉を止める。
 双葉はやっと立ち止まってこれに答えた。
「さっき言ったろ、ビルやら道やら、工事して建てたのかって。でも、工事なんてしてないんだ。駅に改修中のとこあるだろ。なのに工事中らしい反応……というか、あらゆる反応はないんだ」
 その辺りもバッチリ走査済みだと、双葉は胸を張る。
「んじゃ、なに? ビルやらなんやら、勝手にニョキニョキ生えてくんのか?」
 タケノコみたいに、と彼は喜多川の手元のチョコレート菓子を指し示した。
 それを一つつまみ、口に放り入れてから双葉は首を左右に振る。
「わからん。そうかもしんないし、そうじゃないかもしれない。ただこういうカタチになっていることになにか意味や理由があって、それを知ることができれば、ここの謎も迷い込んじゃう原因も特定できるかもしれない」
 ふむ、と一つ頷いて、喜多川もまたタケノコ状のチョコレート菓子を口に運ぶ。
「今のところの想定は?」
「迷い家に近いものじゃないかと思ってる」
「なにそれ」
 いよいよ坂本も見張りの役目を投げ捨て、チョコレート菓子に手を伸ばした。
「山の中にあるっていうまぼろしの家の伝説。そこにたどり着けたやつは大金持ちになれるってハナシだぞ」
「……つまり俺たちは富を得る……こうしてはおれん! 宝箱を探さねば!」
 息を呑んで駆け出そうとした喜多川であったが、その首根っこは直ちに坂本の手に押さえられた。
「アホかっ! 大人しくしてろ!」
「いやりゅーじも声デカいわ。話続けるぞ?」
 おまえらってばほんとガキみたい。と人より小柄な双葉に言われる屈辱に、少年たちは己の行動を棚に上げて歯を噛み鳴らした。
 構わず双葉は続ける。
「迷い家ってのは、一説によると一つのユートピア論にたどり着くらしい。金持ちになれるきれいな家、ある日偶然にそんな場所に意図せずまよいこむ……ここじゃ貰えるどころか命もってかれそうだけど。まあでもワンチャン? どうよ?」
「まあタナボタな感じはある、か? けどよ、ここって別に金目のものとかなくね?」
「そこはまだ分からんだろう。パレスやメメントスのように宝箱があるやもしれんぞ」
 叱られてなお喜多川はウキウキとした様子を隠しきれず、そわそわと辺りを見回しては瞳を輝かせている。
 とはいえ金が手に入るとなれば坂本も双葉もやぶさかではない。
 ―――新しいシューズ、ゲーム、服に漫画に、遊びに行く資金。グラフィックボードにメモリ、フィギュアに超合金、限定のDVDボックス。画材の補充に欲しかった本、寝具の新調と上等な食事……
 三人の脳裏に、美しい旋律とともに夢が駆け巡った。
 妄想に背を押され、少しばかり浮かれた調子で坂本は二人に囁きかける。
「……探してみっか?」
 にわか、子どもたちは企みと夢、希望と薄汚い欲望に胸を膨らませる―――
 しかしそれは大きくなりきる前に針を刺されて破裂する。
「いやいやいや、あかん。やめとこ。初回に無理は禁物。今のわたしらには『切り札』がないんだった」
 危ういところで正気を取り戻した双葉の言に二人も引き戻される。坂本と喜多川は表情をきりりと引き締め直して頷いた。
「んっんん……そうだな。では今回はこれで終いか?」
「おう。とりあえずここに、いろいろ設置してく」
 双葉は店の入り口に置かれた防犯センサーに鞄の中身を次々貼り付けはじめた。
 温度計にはじまり、湿度計と録音機、外の通りにカメラを向け、さらにGPS付の改造携帯―――
 そんなものどうするんだとの問いに、双葉はいずれもが一定間隔でデータを保存、携帯のメモリに送信されるのだと語る。
 その携帯はどう見ても旧式の折りたたみだが、本来充電器が挿し込まれるソケットにUSBメモリに似た小さな機器が取り付けられていた。
「蓄積させたデータを持ち帰って解析できれば、ここと外との差がもっと明確にできる」
 だから来週にでもまた付き合ってくれと請われて、少年たちは素直に頷いて返した。悲しいことに、日曜に呼び出しをかけてくれような相手は二人ともに存在しない。
 設置も済んだと双葉はすっかり軽くなった鞄を担いで立ち上がる。その前を喜多川が行き、双葉を挟んで殿を坂本が。
 再び人気のない通りを行きながら、坂本はビルを見上げてつぶやいた。
「ユートピアねぇ……俺はあんまここ好きになれねぇよ。誰もいねぇ、なんの音も気配もねぇ。たしかに渋谷ってそんなキレイなとこじゃないし、うっとおしいくらい人がいるかもだけど、やっぱ外のほうが俺はいいな」
 誰に向けたものでもないこの声に、前を行く二人は同意を示して頷いた。
 ゴミや悪臭に害獣、ホームレスが日常的に見かけられる、治安だってあまり良いとは言い切れない。
 それでもこんなふうに寒々しい姿と化すくらいなら、ごみごみしていても活気と熱気に溢れた雑踏のほうが好ましい。
 そのように子どもたちの意見は一致していた。

 歩き出してしばし、双葉が待ったをかけたのは高架の下を潜り抜けたところでのことだった。
「あっ……ストップ、ふせて、しずかに」
 なんだと問いかける必要はなかった。
 通り抜けたばかりの高架の上を、本来行き来するはずの車ではなく、太りすぎたキリンのようなシルエットの生き物が歩いている。
「おえっ……あれが例のバケモンか?」
「おそらく。俺たちが以前見たものとは形状が違っているが……双葉、どうだ?」
「たしかにシャドウとはちがう。けど、なんだ、ありゃあ……」
 生き物の死角になりそうな位置―――そもそもあれが視覚によって対象を定めているかも解らないし、顔らしき部分に目があるかも不明だが―――に身を隠した三人は、声をひそめて互いに視線を交わし合った。
 手には、いつの間にか得物が握られている。
「ヤっちまうか?」
 足音もなく静かに進む肥えたキリンを油断なく睨みながら坂本が言った。
 喜多川の目は双葉に向けられている。暫定この場で判断を下す立場にあるのは彼女だろうとして、その決断を待っている様子だ。
 双葉は少し迷いつつも応えた。
「ふたりがいけるなら、ちょっとしかけてみてほしい。様子をみたい」
「こちらは構わんが」
 すでに刀の柄に手をやる喜多川の視線に籠められた意図をすばやく察して双葉はこっくり頷いて返した。
「むしろそっちが気をつけて。いろんな角度から見たいし、自衛のためにも動き回るから、ちょっとフォロー遅れるかもしれない」
「んじゃ、慎重にか。いけっかなー……」
 自信なさげに漏らしつつも、かつて彼らを率いた少年に忍んだ走り方を教えたのは他でもない坂本だ。
 二、三の簡単な打ち合わせを済ませて、彼は影の中に紛れるように走っていった。
 双葉もまたすぐ己の半身……プロメテウスに乗り込むとその場を離れ、あとには喜多川だけが取り残される。
 ……実際のところ、坂本にしても双葉にしても、戦いに際して緊張や恐怖を感じないわけではない。もちろん喜多川もそれは同様だ。
 ただあのとき―――神の如きものを前に一歩たりとも引かずに済んだのは、すぐそばに『彼』がいたからだ。
 そして彼は今も各々の胸の中で、不敵な笑みを浮かべてこの試みにおける危険こそをせせら笑っている。
 少年は息をついて決意を固めると、手近な道路標識に刀の鞘を叩きつけた。
 濁った高音が辺り一帯に響き渡ると、キリンはすぐに長い首をもたげて少年の姿を捉えた。
 もしかしたら襲いかかってこないかもしれない。肥え太ってはいるがキリンにどことなく似ているし、草食動物なのかも。
 などという希望的観測は直ちに打ち壊された。
 太ったキリンは小さな口から汽笛のような鳴き声を上げ、先までののんびりとした動きが嘘のように機敏な動きで遮音壁を乗り越えると、少年の目と鼻の先に地響きとともに着地する。
 アスファルトや歩道脇の植え込み、ガードレールや先ほど叩いた道路標識が衝撃によってひび割れ、ひしゃげてはあちこちに叩きつけられた。
 動いただけでこれとは。おまけに先のあの俊敏な動き。やっぱりやらなきゃよかった。
 喜多川はうんざりしながらも迎え撃つ構えを取った。キリンは着地の姿勢から攻撃の準備動作に移り、カバのように太い後ろ足で激しくアスファルトの破片をすり潰している。
 ぶ厚そうな皮膚はゾウのようで、その下に骨があるのかどうかは解らないが、関節部らしきところを見るに膝や肘は存在しているらしい。
『―――待った! ヤバいのくるッ!』
 双葉の声と同時に膝らしき関節がわずかに折り畳まれた次の瞬間、キリン―――カバ―――ゾウ―――は衝撃波さえ生むほどの勢いでもって少年の眼前に迫っていた。
 冗談だろ、と思う程度の時間はあった。
 その間に辛うじて刃を抜き、巨体の軌道をわずかに逸らす。
 一拍遅れて破裂音に似た激しい大音響が響くほどの勢いだ。直撃こそ免れたが、太い脚に袖の一部が掠っただけで彼は独楽のように回されながら吹っ飛んだ。
『やっべ、ソニックブーム出てる。おイナリ、生きてるかッ!?』
 周辺のガラスが衝撃波に粉砕される音が喧しく響く中、双葉の悲鳴じみた声だけが喜多川の耳に届いた。
 どうも、今の衝撃で耳をやられたらしい。
 痛みと耳鳴りに目眩を覚えながらどうにか立ち上がると、混合生物は巨体を揺らして喜多川を見据えていた。
『りゅーじっ! 今のでおイナリの耳がやられた! そっちはだいじょうぶか!?』
 衝撃波は障害物を回り込んで広範に行き渡る。当然この声を受けた坂本も無事とは言い切れなかった。
 高架の柱部を迂回し背後を取ろうとしていた彼は、もろに衝撃波を食らってコンクリートの上に倒れ込んでいる。
「クソが! 顔面削れた!」
 とはいえまだ軽口を叩けるだけの余裕があった。
『ちょっと削ったくらいのほうがイケてるかも!』
「やかましいわ! ああもぉ痛ってぇなチクショウ!」
『どっ、どうする? やっぱ逃げるか!? 退避ルート検索して―――』
「いや、いい」
 遮って、坂本は舌打ちを響かせる。
 ふり返った彼の視線の先、十数メートル向こうで喜多川が異形の攻撃を受け流していた。
 ぶ厚い皮膚と脂肪に守られた身体は、その大きさだけで十分な脅威だ。喜多川はじりじりと後ろに追いやられてしまっている。
 しかし―――
 坂本は呆れた様子で双葉に告げた。
「キレちまってるよ、アイツ」
 仮面の下の喜多川の瞳には、猛然と燃え盛る怒りの炎が垣間見えた。
 口からは地の底を這うように低い独り言が漏れている。
「油断した……? 俺が? ありえん! では気が抜けていたのか? あの日に戦いはすべて終わったと、どこか思い込んでいたということか? なんたる無様か。こんなことでは、君に顔向けできん―――」
 異形は巨体に見合わぬ俊敏さでもって太く強靭な腕や脚、短い尾に長い首を振り回しては少年の痩躯をひき肉にしようと迫っている。
 痛む体を叱咤しながら猛攻を避け続けるのは至難だ。息は上がっていたし、聴力を欠いた身はともすると平衡感覚を見失いそうになる。
 しかし彼は辛抱強くそれを待った。
 先の短い打ち合わせで決めたのは各々の位置取りとタイミングを合わせるための合図だけだ。
 喜多川が敵を引きつけ、その間に坂本が忍んで背後に回る。位置についたら双葉が『せーの』の号砲を放つ。
 シンプルだが効果があることは経験として知っている。喜多川は怒りを堪えて振り下ろされた脚の一撃から飛び退って逃れた。
 やがて双葉が待ちわびた様子で吠える。
『オッケー今だ! せーのっ!』
 喜多川は跳ね上げられたアスファルト片が身体を傷つけるのをものともせず一直線に走り出した。
 肥えた巨体の脇へ周った彼を追って、異形は首を巡らせる。
 吹っ飛ばされた際に打ちつけた身体はひどく痛んだが、やっと得た怒りを晴らすチャンスに怯んでなどいられなかった。
「―――竜司!」
 呼びつけると、彼は気安い様子で応えた。
「あいよーっと!」
 陽光を遮って影が落ち、続けて坂本の身体が異形目がけて落下する。同じタイミングで彼の半身もまた。
 両足を揃え、全体重と落下速度を加えた踏みつけが首の付け根に叩き込まれた。
 足の裏に骨が砕けたか外れたか、いずれにせよ骨をやった感触を覚えて、坂本はニンマリと笑った。
「もういっちょ! やんぞセイテンタイセイ!」
 雲に乗り直した猿神は、楽しげに手を打ち鳴らして彼に応えた。
 手にした棍を優雅にひと振り、痛みに悶える異形をさらに打ち据えると、雷光迸ってその全身に流れているらしい体液を沸騰させる―――
 異形の口からは悲鳴とともに煙が上がり、小さな眼孔からタールのような黒く粘ついた液体が滴り落ちる。それさえも煙を上げはじめると、ついに異形は四肢を痙攣させて倒れ伏した。
 辺りには静寂が取り戻される。
 坂本は息をついて半身を己の中に収めると、すぐに巨体から飛び降りて喜多川に駆け寄った。
「大丈夫か!? おい!」
 膝をついてその場にうずくまっていた彼は、肩を叩かれてやっと差し伸べられた手に気がつく有様だ。坂本は彼に肩を貸してやった。
 そこへプロメテウスが乗り付けられる。
「りゅーじ!! おイナリぃ! だっ、だいじょーぶかっ!?」
「俺は平気だけど、祐介はあんまり」
「ぎぼぢわるい……」
 集中力によって辛うじて機能を保っていた三半規管が安堵とともに揺れだしたようだ。喜多川は目を回して吐き気を堪えるのに必死になっていた。
「あわわわ……なんとかできるかやってみる……」
 双葉は坂本と喜多川を中心にその周りをくるくると回りながら、再び己の半身を招来した。
 プロメテウスは彼女の心の写し身に相応しく、あらゆる事象を読み取ることに長けている。その力を利用してナビゲーターを務めていた彼女たちではあるが、反面他の仲間たちのように攻撃に参加することはできなかった。
 それが悔しかったのかなんなのか、誰もわけは知らぬが、いつの間にか彼女はサポーターとしての能力も極めて限定的ではあるが身につけていた。
 それは例えば負傷や疲労の回復―――
「ムムム……痛いの痛いのりゅーじに飛んでけぇ」
「コラぁ!」
「少し声を抑えてくれ、あー、まだ耳が痛い」
 完治とはいかずともそれなりに回復したらしい喜多川が両耳を押さえて項垂れるのに、二人は安堵の息を漏らした。
 そして、未だ死骸を晒したままの異形をふり返る。
「事前情報どーり、こっちは傷と違って消えないな。データ的にもシャドウじゃないことは間違いない」
「じゃ、なんなんこいつ?」
「うーん、いきもの……? いちおう、ちゃんと肉のある生物っぽいんだよな。構造や大きさはちがうけど、わたしらとそんな変わんないのかも」
 困った様子で応えた双葉に、坂本は「げっ」と顔色を若干青ざめさせる。
「まーじかよ。ちょっとさすがに罪悪感みたいなのが……成仏してくれぇ……」
 パンと音を立てて両手を合わせる姿は滑稽だが、彼は真剣だった。
 これまで戦ってきたシャドウらは、どれだけ泣き喚き命ごいをしてきたとしても、結局は生き物ではなかったのだ。あくまでも人々の心の奥底で繋がる無意識の大海から組み上げられた飛沫に過ぎない。実際にパレスの主は別として、どれほどシャドウを斃したとて、それによって倒れる者は現れなかった。
 しかし目の前のこれが生き物となると、勝利は途端気まずいものになる。
 双葉はうーんと唸って彼の悔恨や懺悔をすすごうと口を開いた。
「言うてこいつ、おイナリ見るなり襲いかかってきたし……完全こっち食う気満々だったとおもうぞ?」
「そうなんだけどさぁ。ココロの問題よココロの」
「おまえさんはほんと意外すぎるくらいに繊細だなぁ。もっと原始的に考えろよ、こいつよりわたしらのが強かったってだけのことだ」
 遥か太古の時代、ハイエナ、狼、ワニ、ライオンたちの祖先、スミロドンにメガラニア、人類の天敵は数多くいたが、しかし我々は滅亡せずに済んでいるではないか―――
 坂本は槍を持ってマンモスを追いかける自分自身を思い描いた。
 それはそれで結構人生楽しそう。
 思いかけて彼は激しく首を左右に振った。
「そういう話だったっけ!? 俺の悩み壮大すぎない!?」
「ゔー、だから大きな声を出すなと……」
 頭が揺れるとしきりに訴える喜多川を尻目に、坂本と双葉は撤退のためにと彼を左右から支えてやった。
「アンバランス」
 とはいえ喜多川の言う通り、右の坂本はともかく、左の双葉の肩を借りると、かえって歩きにくい。
「心意気を買ってよ」
「そうだな、ありがとう」
 礼の言葉とともに喜多川は双葉を追い払った。
 自由になった双葉は、ちょっと機嫌を損ねながらも警戒のために辺りを見回す。視覚からの情報と半身の放つレーダーと合わせ、付近に敵がいないかを探る。
 背後では少年たちが下らない与太話を繰り広げている。
「さっきの技だけどよ、ダブル・ライトニング・スタンプとかどう?」
「スカル要素はなくていいのか?」
「あー、そっか。ダブル・ライトニング・スカル・スタンプ……長くね?」
「ライトニングは必須なのか……?」
 曰く、高所から雷のように踏みつけるのがこの技の最大の特徴であるが故に、そこは外せないとのこと。
 双葉はふり返って馬鹿話を遮った。
「まーだいるぞ。さっきのと同じ種類―――」
「……ダブル・ライトニング・スカル・スタンプの出番だな」
「いや無理。あれはさっきのが高架のそばに居てくれたからできたんだし」
 迂回して進もうと二人は提案するが、双葉は青ざめて首を左右に振り、次に手を振って複数の立体投影ビジョンを出現させた。
 どうやらこの辺りの監視カメラ映像を盗み取って映し出しているらしいが―――
「うげっ!」
 ヴィジョンにはいくつものカメラ映像と、そのうち二つに映り込む先の混合生物の姿があった。
「鳴き声に反応したか」
「やべぇなこりゃ。どっか隠れてやり過ごすか?」
「それがいいだろうな。どこか適当な建物か地下にでも入ろう」
「いや、待って。なんだ? この反応……」
 待ったをかけた双葉の手が、新たな映像を浮かび上がらせる。
 少年のたちの南方、数十メートル離れた駅前の広場を映し出しているらしい映像の隅を少女が一人、なにか大きな―――おそらくはバス停の電子案内板―――を担いで走り抜けていった。
 双葉はすぐにまた別のカメラに切り替える。先と同じ少女の姿があった。
「あ、増髪」
 呆けた調子でつぶやいたのは喜多川だ。カメラの撮影範囲から走り抜けていった能面は見間違いようがない。
「今のが例の? なにしてんだ?」
「走ってった方向からしてたぶん―――」
 遠くでつい先ほど耳にした咆哮が響いた。
「あやっぱり。ヤバいぞあいつ見つかった……いや、見つかりにいった……?」
 首を傾げた双葉の前に表示される映像の中で、増髪はコートの裾を翻して電子案内板を異形の横っ腹に叩きつけている。
 他のヴィジョンに映るもう一体も、彼女のもとへ移動している様子だ。
「どちらにせよ、見捨てておけん。急ごう」
 脚を引きずりながら進む喜多川に、坂本と双葉は再び肩を貸してやった。

 たどり着いたスクランブル交差点ではすでに一体、息絶えた巨体が横たわり、確認できたもう一体がなにかを追って走り回っていた。
 その獲物―――増髪はといえば、粉々になった電子案内板を放り捨て、代わりに消火栓を振り回している。
 細身な少女のシルエットが長く重い物を振り回す様はなんだか冗談のようだ。おまけに消火栓となれば本来はほとんど地中に埋まっている物のはずだ。おそらくは地上部分を掴んで無理矢理引っこ抜いたのだろう。
 その消火栓が、ガチンとかん高い音を上げる。
 首を伸ばして噛み付こうとした異形の歯を、増髪が鉄の塊で防いでいた。
 一体目はカメラ映像から見るに、奇襲のような形で先手を取れたのだろう。それ故喜多川が味わった音速の体当たりを喰らわず勝利したに違いない。
 二体目がどのタイミングで彼女の元にたどり着いたのかは分からぬが、小さく見えはじめたときから防戦一方になっていることは明らかだった。
 見えるほど近づいた今となっては、彼女の特徴の一つである紺色のPコート……洸星高校指定の通学用コートがすっかり汚れてしまっているのが確認できる。
「う、ぐぐ……!」
 今もその顔色こそわからないが、うめき声を上げて押し負けそうになっている。
 彼女の眼前、巨体からすれば小さな口には、人間のものとよく似た歯が生え揃っている。しかし大きさを比べれば、歯の一本は大人の拳程もあるだろう。それらを支えるあご周りの筋も骨も、生き物としてはあり得ないほどの頑強さを備えている。
 少女の目の前でミシッと嫌な音を立てて消火栓が噛み潰された。
 増髪が仮面の下で息を呑むのと、駆けつけた坂本のすくい上げるような一撃が異形の腹を捉えるのは同時だった。
 ギャアッと悲鳴を上げて異形が仰け反ると、次に喜多川が飛び込んで長い首を斬り落とす。
 どうやら首は正しく首であるらしい。腕や脚と違い、斬り落とされた瞬間から動きを止めて倒れ込むところを見るに、致命打としては十分過ぎるくらいだろう。
 記録を済ませた双葉は、彼らの頭上で髪を振り乱して叫んだ。
『まだ来る! まだ来るよ! もう一体いた! おやつの方向!』
 響く声に、増髪は目の前に転がる首にも驚きつつ三人の姿を確かめた。
 金髪に髑髏面、頭上に浮かぶ謎の球体。残りの一人が見たことのある狐面をしていることに、彼女は心の底から安堵してため息を漏らす―――
「また君か。ということは、この人? たちは」
「ああ、俺の仲間だ」
 頷いて返した喜多川に対する彼女の反応は、初めに会った時と同じく、このときも果敢であった。
「わかった! フォローする!」
 双葉は画面越しに迫りくる異形を睨みつけつつ思う。いったいなにがわかったんだよ、と。
 さておき、増髪は次に歩行者用信号機に目を付けたのか、歩み寄ってはパイプを掴み―――
「現地調達すぎんだろ!」
 坂本のツッコミをものともせずに引っこ抜いた。
「よし!」
 気合いを入れて引き抜いたばかりの長過ぎる長物を肩に担いだ少女に、誰もなにも言うことはできなかった。
 あまりの馬鹿馬鹿しさに不要とも思えたし、なにより残り一体が猛烈な勢いで駆けてくる姿が視認できたからだ。
『さっきのくるぞ! カウント、さん、に、いち、今!』
 アスファルトを踏み砕きながら衝撃波とともに突っ込んできた異形を、カウントのおかげで難なく回避する。
 散らばった三人はものも言わずに互いを見交わし合った。
 にわか編隊とはいえ、増髪はうまくチームに組み込まれているといってよかった。
 彼女は傷の癒え切っていない喜多川をあまり前に出すわけにはいかないと判断し、己自身もある程度以上の消耗があると自覚していた。
 となれば一番槍は坂本に譲ろうと脇に避け、彼が衝撃波にめくれ上がった瓦礫を盾にしながら進む後に続いた。
「ペルソナァ!」
 駆けながら声を張り上げた坂本の背後に半身が浮かび上がる。猿神は稲妻のように飛び出していくと、長い首をもたげて少年たちを睨む異形の脚を強かに打ち付けた。
 短い悲鳴が上がり、セイテンタイセイが姿を消すのと同時に坂本がもう一方の脚にトゲ付きの金棍棒を叩きつける。彼は手に伝わる骨が砕ける感触に顔をしかめた。
 一方でその場を飛び退った彼と入れ替わりにやってきた増髪は、なんの躊躇もなく歩行者用信号機に勢いを乗せてスイングする。
 力に任せた一撃を三発も叩き込まれて、異形は悲鳴さえ上げずに仰け反った。
『気をつけて! 例の猛突進を生み出してるのは主に後ろ足だよ、どうにか回り込んで後ろ足も潰しちゃって!』
 頭上から降りかかる双葉の指示に坂本と増髪は仮面を見合わせた。
 後ろ足もと双葉は言うが、しかし猛スピードで突っ込んできた異形は、身体を半ば通りに面した店舗に隠してしまっている。
「一度出てきてもらうしかねぇか?」
「広い場所に出すのは危険だ。このまま押し込んだほうが―――」
 いいんじゃないか、と言いかけたとき、長い首が振り回されて二人の足元を抉った。砕かれて散らばっていたアスファルト片とガラス、その下のむき出しになった地面から土と砂利が巻き上げられ、二人に身体に雨のように降り注いだ。
 もちろんそれは致命傷などではないし、歯を食いしばれば充分耐えられるような痛みだ。しかし確かに、二人に隙を生じさせた。
『みんなふせて!』
 双葉の悲鳴じみた声に坂本たちは反射的に地に伏せった。
 その頭上を、衝撃波と瓦礫とともに巨体が飛び出していく。
 二人の上には再び礫の雨が降り、背後からは前足を潰された巨体が胴体着陸を行う激しい轟音が響き渡った。
「みみ、耳がキーンって……」
「う、ぐ……鼓膜が……」
 至近距離で衝撃波を浴びせられた少年たちはすぐには立ち上がれない。
 最悪なのは、異形が器用にも空中で反転し、倒れ伏した少年らの背後を取る形で着地していることだ。
『だから気をつけろって言ったのにぃ!』
 涙声に応えたのは後ろ足だけで立ち上がった異形の咆哮だけだった。
 サッと双葉の顔が青ざめる。
『立てんのかッ!?』
 見るに短い尾が支えになっているらしい。
 そういえば、一番バランスがいいのは四脚ではなく三脚だとなにかで見たおぼえがある―――
 双葉は与太ごとを放り投げて入力パネルの上にすばやく指を這わせた。
『回復支援! 二人とも立て!』
 降り注いだ蛍光グリーンのスポットライトは暖かく、少年たちの身体から痛みや疲労を取り除いていく。
 しかし二人が立ち上がって巨体のボディプレスから逃れる時間があるとは思えなかった。
『ああーもおーっ! おイナリ! 早くしろ! はしれっ!』
「無茶を言うな。俺も脚をやられているんだぞ」
 涼しい声で応えた喜多川は、そう言いながらも異形の影の上に足を乗せた。
 二人より遅れて駆けていた彼もご多分に漏れず衝撃波に吹き飛ばされ、また大量のすり傷を負わされてゼイゼイ言いながらここまで歩いてやってきていたのだ。体力的には、至近距離でまともに喰らった二人よりは先の回復を含めてましと言っていいだろう。
 少年は息をついて鞘から刀を抜き放った。その背後には大刀構えた偉丈夫が立っている。
 二つの斬撃が空間ごと斬り裂くような鋭さで通り抜けた。
 刀が鞘に収められた軽い音が響いた次の瞬間、斬撃が三つの支えをすべて切り離していた。巨体は悲鳴を上げながら傾ぐ―――
「……しまった」
 異形はその巨体を尾と首によって安定させていた。そのうち後方を支えるものを失えば、当然重心は前方、坂本らのほうへ片寄ってしまう。
 ボディプレスを防ぐための攻撃が、結果的にそれを後押ししていた。
『そらそうなるよ』
 呆れたような双葉の声。しかしそこにもはや焦りはない。
 異形は倒れる寸前新たな支えを得て、立ったまま事切れた。慌てて立ち上がった増髪が、歩行者用信号機をつっかえ棒代わりにその胸に突き刺していた。
「うへー……双葉、さすがにもうおかわりはないよな?」
『うんむ。無いぞ。まったくゼロじゃないが、かなり距離が空いてる』
 言って双葉は降下し、すっかりボロボロになった三人の前に自らの脚をつける。
 彼女は笑顔で彼らをねぎらい、戦闘の終了を告げた。

 やれやれと息をつくのもつかの間、彼らは一先ず無事な道路の上に移動して簡単な傷の手当を済ませることとした。
「無茶をしたな」
 髪に絡む土埃を払い落とす喜多川の目は、あちこち汚れてしまった増髪に向けられている。
 彼女は仮面の下で苦笑しつつ、破けてしまったタイツを引っ張った。その目は喜多川にではなく、立ち往生によって奇妙なオブジェと化した怪物を見つめている。
「あいつの鳴き声が聞こえたから、また人が入ったのかと思ってね。君たちに倣おうと思ったんだ」
 ―――彼女はつまり、以前高巻と喜多川が約束したことに感化され、人助けのつもりで己を危険に晒したらしい。
 一歩間違えばと思わないではないが、自らの行いによって他者に行動のための勇気を与えることこそが怪盗団の本懐だ。
 喜多川は口元を綻ばせて嬉しそうに「そうか」と返した。
 一方で増髪の声にはまだ苦味がある。
「それが君と君の仲間だとは思わなかったけど……また入っちゃったの?」
「まあな。だが今回は偶発的にではなく、望んで来たと言っていい」
 胸元の埃を払っていた手がピタリと止まる。増髪は首を傾げて同年代らしい少年たちに向き直った。
「望んでって、どういうこと?」
 応えたのは引き続き治療を受けていた坂本だ。
「調査っつーかなんつーか……こいつ、あー……ナビにはよ、いろいろ調べる能力があんだよ」
「めっちゃファジー」
 曖昧極まりない説明をされて、双葉は頬を膨らませていた。己をコードネームで呼ばれたことに関しても。
 名乗っていいものか、坂本もまだ判別つけ難いと思っているのだろう。それは双葉も同様だった。
 何故なら彼女には確信がある。
 ―――こいつはわたしたちとはちがう。ペルソナ使いじゃない。なのにそれに限りなく近い≪力≫をもってる。
 おそらく坂本もこの微妙な差異を本能的な部分、動物的勘でもって嗅ぎ取っているのだろう。それ故のコードネームだ。
 双葉は少しの思案の後、改めて己の能力―――戦闘には不向きな部分は除いて―――を説明してやった。
 喜多川はそんな二人の様子にも口を閉ざしている。その眼差しは話に耳を傾ける増髪の様子を見澄まし、見定めようと注がれている。
 果たして増髪は、どこか興奮した様子で双葉に詰め寄った。
「そんなことまで可能なのか! すごいんだね……助かるよ。本当にありがとう……!」
 声は朗らかで、双葉の手を握った彼女の手は温かく不自然な発汗もない。一方でやや脈拍が早く思えるが、これは興奮状態だからだろう。肉体的にも彼女に嘘があるようには思えなかった。
 しかしその口ぶりは奇妙だ。喜多川らの証言によれば、彼女は『なにも知らない』と言っていたはずだが、これではまるで彼女こそが当事者のような―――
 双葉は小さく華奢な手をにぎにぎしながら淡々と返した。
「気にすんな。わたしたちにも目的がある」
「目的?」
「うん。じつは人……じゃなくて、ねこを探してる」
「猫? 誰かのペットが迷い込んだの?」
「普通はまあ、そう思うよな」
 坂本と喜多川は愉快そうに喉を鳴らした。
「ペットっつうか、なんてーか……仲間の一人で」
「猫が?」
「ねこなんだけど、ねこじゃなくて……いやねこか。ねこだよな?」
「猫のような、しかし猫ではない……かといってまったく猫ではないと言うとそれも違っているな……」
 こみ上げる笑いを堪えつつ互いを見やる彼らに、増髪は再び首を傾げた。
「……猫、の・ような……ナニか……?」
「まあそんなかんじ」
 手を離した双葉はすばやく荷物を漁ると、筆箱とリングノートを喜多川に押し付けた。
「ああ……しばし待て。人相書きを用意しよう」
 意図を察してすぐにペンを走らせはじめた喜多川の傍ら、坂本と双葉は改めて探し人―――猫―――をする羽目になったあらましを軽く説明する。もちろん怪盗団の存在には触れず、ただ不思議な世界を案内する猫との出会いだけをだ。
「歩いて喋って戦うキャット……」
「できた。こういうやつだ」
「丸くて黒い……」
「んで、猫のときはこんなん」
 差し出されたスマートフォンの画面には、件の猫が香箱を作っている姿があった。猫はどうやら、この場の誰でもない少年の背を布団代わりにまどろんでいるらしい。布団にされている少年も。
 微笑ましい一枚に、増髪は声を弾ませた。
「わああ、かわいい」
「あー、カワイイ〜とかネコちゃ〜んって呼びかけるとこいつキレっから」
「そうなの……」
 事実を告げると、増髪は露骨に肩を落とした。
 しかし―――しかし坂本らは力強く訴えた。
「けど積極的にそう言ってやってくれる?」
「ああ、それに『ネコじゃねぇ!』と返事をしたら―――」
「そいつがモナだっ!」
 どことなく冗談めいた彼らの言に、しかし増髪は生真面目に頷いてみせた。
「わかった。こういう黒猫状の生き物を見かけたら、ネコちゃんかわいいって呼びかけてみるよ」
「よろしくたのむっ!」
 ビシッと敬礼をしてみせた双葉に、増髪はやはり律儀に、少し不格好な敬礼を返した。手のひらが完全に双葉のほうを向いてしまっている。

 やがて彼らは地下へ向かい、いくつかの先例に倣って改札を目指して歩きはじめた。
 その足取りは軽い。なにしろ思わぬ邂逅に加え、人探しの手伝いまで頼めたのだ。なにも解らなかったときとくらべれば大躍進といえるだろう。
 けれどまだ気にかかることはある―――
「にしても増髪サンって、ペルソナ使えるわけじゃねぇのにすっげえ強いのな」
 喜多川と双葉はぎょっとして坂本を盗み見たが、どうやら彼は増髪を問い詰めてやろうなどというつもりは微塵もないらしい。脳天気な調子で笑っているではないか。
 喜多川は小さく息をついて彼に追随した。
「……そうだな、この間も助けられたが、今回はまた一段と……」
 冷静になって考えれば考えるほど、馬鹿らしくなってくるような光景だった。電子案内板、消火栓、歩行者用信号機……
 増髪は両手を振って上ずった声を上げた。
「ち、違うよ!? 別にもとからこんな馬鹿力というわけじゃないよ! たしかにちょっと筋トレとかしてるけど、ここまでじゃない―――」
「おちけつ。みんなそんなのわかってる」
「あう……この空間にいるとこうなるんだ。すごく力が溢れてくるというか、ただ走るだけでも普段の数倍は速く走れるし……」
 喜多川は改めて彼女に問いかけた。
「ペルソナは使えないんだよな?」
「ああ。というより、本当にその、ペルソナとやらがなんなのかさえ未だによく……」
「とりま魔法使えてステータス底上げされるっておもってくれればいいよ」
「なるほど。わかった」
 真剣な声色で頷く彼女の姿に、坂本は乾いた笑いを漏らした。
「わかんのかよ。増髪サン理解力ハンパねーな」
 もしかして口先だけで本当は解っていないんじゃないか、とは流石の坂本も喜多川も口にはしなかった。
 それは配慮やデリカシーを覚えたというよりは、おしゃべりの時間が終わりに近づいているからだ。一同の足は改札の前にたどり着いていた。
 立ち止まって、増髪は少し困った様子で少年たちの顔……仮面を順に眺め回した。
「というか、その増髪っていうのは私のことかな? どうして?」
「あー、なんかその仮面がさ、増髪ってやつなんだってよ」
「へー……」
 増髪の手が己の仮面をペタペタと撫で回した。その爪の間には土と血が混じって固まったものがこびりついてしまっている。
 あれを落とすのには苦労するだろうなとぼんやり思う喜多川の隣で、坂本が大きな声を上げた。
「ああ! そうだよ!」
「でけー声だすな!! いちおう近くにはいないけどシャドウみたいに突然わきでてくる可能性もあんだぞ!!」
「あっさせん……すいません……」
 叱りつける双葉の声のほうが大きいと耳を押さえた喜多川は、向き直って増髪に問いかけた。
「君の名前を教えてくれないか?」
「え?」
「それと、できればここではなく、もとの世界の安全な場所で話をしたい。君は俺と同じ学校だろう?」
 増髪は驚いた様子で喜多川のつま先から頭の天辺までをまじまじ眺め回した。
 これに少年のほうは少し落ち込んでしまう。科が違えばほとんど顔を合わせることもないが、しかし一年か二年同じ学び舎に通って、存在すら認識してもらえていなかったのか……
 顔貌についてではなく、筆こそを通じて身近なところくらいには名を知らしめているだろうと確信していただけに、喜多川の精神に入ったひびは大きかった。
 そんなものは増髪が汲み取る必要もないことだ。彼女はただ、いかにも不思議そうな様子で首を傾げている。
「話をしたいって、どうして?」
 奇妙な問いかけだった。
 何故なら彼女はすでにこの事態の解決を願うようなことを幾度も口にしており、また今日に至っては怪盗たちに感化されて自らを危地に飛び込んでいる。最大の協力者である彼らとの同盟となれば、願ってもない申し出のはずだ。
「……ここで会えると決まっているわけでもない。落ち着いて情報交換もできないだろう」
 狐面の下の目が細められていることに気が付いているのかいないのか、増髪は己を守るように腕を組んで辺りに視線を這わせはじめた。
 その仕草に眉をひそめた双葉が言を継いだ。
「この空間にどうして迷いこんでしまうのか、そもそもどういう場所なのか、調べてるっていっただろ。ああいうばけもんがウロウロしてる場所にだれでも入れちゃうってんなら、原因の究明と解決は急がれるべき。おまえもそうおもわないか?」
 もとより双葉の声は抑揚を欠いている。そこに責めるような色がわずかにでも乗せられると、ひどく冷たいものとなった。
 増髪は答えず、ただ悄然として双葉の言葉のうちの一部を繰り返した。
「解決? 解決だって……?」
 顔全体を覆い隠す仮面が彼女の表情を覆い隠している。その表情は窺えないが、しかしひどく怯えているのだろうことは明らかだった。
「増髪?」
 何故なら彼女は震えている。おそらくは恐怖によって。
「し……知らない。私じゃない……!」
「へ? なにが―――」
 瞠目する坂本たちの前で、増髪はすばやく身を翻すと改札に飛び込んだ。ふつとその姿が消える。
「ちょっ……オイ!?」
 なんでだと叫びながら、坂本もまた改札を通り抜ける。その後を喜多川と双葉が続いた。
 目眩のような感覚と耳鳴りの後、ざわめきが耳朶を通り、目には人の波が映る。
 坂本は大きく数歩前に出たところでたたらを踏んだ。人垣に道を塞がれたのだ。
 少年たちは増髪の姿を探して視線を巡らせたが―――
 彼女の姿は、もうどこにも見当たらなかった。
「クソ! なんだってんだよ!!」
 そばの柱を叩いた坂本を、喜多川の鋭い視線が咎めた。
「声が大きいと何度言わせる。落ち着けよ、彼女はそう遠くへは行かないはずだ。少なくとも洸星にいることは分かっている」
「う……悪ぃ……」
 呻いて坂本は頭をかいた。指先にざらついた感触があるのは、先に散々瓦礫の雨を浴びたせいだろう。
 坂本が落ち着いたのを見て、双葉は口を開く。
「増髪、あいつ絶対なにか知ってるぞ。当事者ですみたいな口ぶりだったし、確定」
「まあ……そんな感じだったな。つうて、相変わらず手がかりはねぇんだけど」
「こちらで捕まえるしかない、か……」
「いけそー?」
 期待の籠められた視線に、喜多川はわずかに鼻白んだ様子を見せた。
 一応昨日おとといと捜索はしているのだが、どちらも時間の無駄に終わってしまっている。
 項垂れて彼は応えた。
「ちょっと時間をくれ」
「はよせい」
 やれやれと肩をすくめた双葉を睨み返す彼は、ふと違和感を覚えて辺りに目をやった。
 なんだかどうにも……
「どしたおイナリ」
「いや、なんというか、妙に視線を感じるなと」
「ンだコラ、モテ自慢か。殴るぞ」
「なにを言っているんだお前は。そうじゃなくて―――」
 喜多川は坂本に視線を移し、はっと息を呑んだ。
 金に染められた髪のあちこちに砂埃が付着したままになっている。額から頬にかけてすでに固まった血がこびりつき、首を覆うネックウォーマーから派手な色のダウンジャケット、その下のパーカーも、オーバーサイズのデニムも、そこかしこが汚れてしまっている。
 喜多川は慌てて己の姿を確かめるべく、鏡面を探して大股に歩き出した。
「おい? どうしちゃったんだよ?」
 その後を、坂本と双葉が子ガモのようについていく。
 ガラスに映った喜多川の姿はひどいものだった。
 明るい色のチェスターコートに、下はいつものワイシャツとテーパードパンツだ。いずれにも彼自身が流した血が点々と付着していた。
「あ、あああ……」
 絶望の声を漏らしてくずおれた喜多川に、二人はぎょっとして駆け寄った。
「どーしたんだよほんとに!?」
「どっか痛むのか? 傷は全部塞いだはずだろ?」
「まだ気が付かないのか。竜司、己をよく見返してみろ!」
「は? あ? あー……あーっ!?」
 今度は誰も、彼の大声を咎めなかった。
 唯一双葉だけがきれいなままの姿を保っているが、そんな彼女が間にいるからこそ少年たちの惨状はより引き立てられ、人目を吸い寄せている。
 喜多川は血の付着した部分を隠すため、コートの襟を立てて前を閉じる。それはそれで不審者めいた姿だった。
「なんたる実害……!」
 呻いた彼の隣で、坂本は汚れを落とそうと躍起になって服を叩いている。
「あああ、怒られるよこれぇ……もう次から俺ずっとジャージ持ち歩くわ……」
「それがいいかもなー」
 そっと距離を置いた双葉の優しさにか、少年たちは項垂れてこの事態の早急な解決を心に誓った。
 一方でまだジリジリと後退する双葉は考える。
 パレスやメメントスではこんなことはなかった。汚れも傷も不調も、外に出れば元通りだ。
 汚れに関してはそもそも服装が変化していたからだろうが、そうでなくたって疲労感と戦利品以外にあそこから持ち出せるものはなかったはず。
 認知世界と違うと確認したのだから、先までいた異界とで違う結果が生じたのは当然だが―――
「次はケガなおす前に出てもらうか……」
 物騒なつぶやきは少年たちの耳に届くことはなかった。