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02:Just a Journey
淡いクリーム色に下塗りされた画面に、大きくレンゲの花が描かれている。
白く浮き上がる花弁の上には、蝶が一匹、憩うているのか、蜜を求めているのか、羽根を広げてとまっている。黒一色の輪郭に黄色や白の模様が描かれているところを見るに、モンシロチョウのようだ。
それはどちらかと言えば、芸術的な観点に重きをおいた絵画というより、生き物の性質までもを教えるような図鑑的な印象を見る者に与えていた。
見る者とはすなわち、喜多川祐介に他ならない。
彼は放課後の美術室の前に居て、扉に取り付けられたガラス窓から内部をじっと覗き見ている。
別段やましいことがあってそうしているというわけではなかった。授業が終わったばかりの放課後ここへ足を運んだところ、先客が居たことを珍しく思って足を止めたというだけだ。
そもそも彼が常に一番槍というお約束があるわけでもない。
驚きは、そこに居たのが美術部の見知った人物や作品でないことに起因している。
―――転校生だ。
転校生が、まだ糊の効いた真新しいブレザーの上にエプロンを着け、どことなく陰鬱げな面持ちでキャンバスにかじりついている。
(名前はなんといったか。ええと……)
そうだ。だ。。
この新しいクラスメイトの名をきちんと憶えていたことに安堵しつつ、喜多川は慎重にドアを横に滑らせた。
確かに学業からの解放を宣言するベルが鳴ってから、喜多川は教室で少し足を止めていた。とはいえさしたる時間は経っていないはずだ。だというのに先にここへたどり着いて作業に取り掛かるとは、よほど熱心なのだろう。その邪魔をしたくなかった。
同時に喜多川の脳裏には昨日高巻から授けられたばかりの提言が再生されている。
―――私が言うことじゃないかもだけど。大したことじゃなくたって……
どこか寂しげな少女の声に背を押されながら彼は歩を詰めた。
他の生徒がやってくるまでのほんの数分間、他愛のないおしゃべりをするくらい、別に構いやしないだろうと思える理由が彼にはあった。勝手気ままな親切を施すにしても、会話したことがあるという実績は必要だ。
しかしさて、どうしたものか。
悩んで集中が途切れるのを待とうかと足を止めると、ちょうどその瞬間が訪れる。
「ふう……」
息をついて顔を上げたは、すぐに筆を置いて肩や首を回し始めた。
「終わったか?」
「ひゃっ!」
声をかけると、は想像よりも可愛らしい悲鳴を上げて身体全体を震わせた。机代わりに筆を置いた椅子に脚が触れる―――
喜多川は慌ててその背を掴んで転倒を防ぐと、に向けて素直に頭を下げた。
「すまない、驚かせたな」
の主観からすれば唐突に現れたようなものだ。目を白黒させて、少年の頭からつま先までを遠慮がちに眺めて、やっと幽霊や妖怪の類いでないことを確信したのか、ほっと安堵の息が漏れる。
すると次に、疑問が首をもたげたのだろう。当然として、目の前の人物が誰かという。
問われる前に喜多川はそれに答えた。
「喜多川だ。同じクラスの」
「あー……うん、うん……そう、そうだったね」
白々しく頷いているところを見るに、どうやら憶えてくれていないらしい。
……自己紹介なんてしてないんだから、当然だよな。
喜多川は己をそう納得させて、なんということのない雑談のつもりで彼女に語りかけた。
「学校にはもう慣れたか……と訊きたいところだが、まだ二日目では難しいか」
「まあ、うん。あでも、購買とか、食堂は憶えた。いいね、ここ。食堂あって。前いた学校はなかったから……」
「へえ……弁当だったのか? それとも給食?」
「お弁当。購買はあったけど、朝早くにでも行かないと品揃えが悪くて」
「そこはどこも、変わらないんだな」
「そうなのかも」
想定より調子よく続いていた会話はそこで途絶える。
喜多川の目は熱心さを伴って、の作品に向けられていた。
「蝶か」
感心したような調子の台詞にもまたキャンバスに向きなおる。
「ああ。蝶とか、好きでね。急な転校だったし、まずは自由制作をと先生が。課題に。なるべく早く、と」
「ふうん……」
それで、誰よりも早くここへたどり着いていたということか。おそらくは昨日のうちから、取り掛かっていたのだろう。
―――けど、妙だな。
頭の片隅に、わずかな違和感がにじみ出る。
転校に際して、初日から課題制作をと言い渡されるほど厳しい校風ではなかったはずだ。彼女の筆力を確かめるためならば前いた学校での成績や課題の出来栄えを確かめればいい。
急な転校でそれも難しかったのか。それとも―――
喜多川の目はますます情熱的に注がれる。にではなく、彼女の作品に。
クラスメイトたちや喜多川は、彼女はひとかどの実績を持った人物なのではないかと想像していた。これはわざわざ遠方から、こんな時期に、捩じ込むようにして転入してきたことから起こる。
しかしそれに反して、誰もなる少女の名を耳にしたことはない。
それじゃあ一体、この子は何故ここにやってきたんだろう?
答えを求めて少年は彼女自身をではなく、彼女の描いたものをつぶさに観察した。
先に感じた通り、精密ではあるが、絵画としては少し物足りない。感心はするが、心を打たれるというほどではないというのが、喜多川の正直な感想だった。
言葉を寄せるとしたら、精巧、精緻、精微、精確―――写真と見紛うような写実さだ。きっと彼女は目がいいんだろう。画家には必須ともいえるスキルだ。
となれば、物足りなさの正体は―――
思考に没頭するのを遮るように、幽かな声が発せられた。
「あ……あまり見られると……」
はっとして見れば、が力なく項垂れている。その手は膝の上に置かれて拳をつくり、なに故か震えていた。
「どうして?」
率直に問いかけた少年に、は呻いて己の胸中を明らかにした。
「あなたは、有名な先生のお弟子さんだったと」
そういうことか。
示された卑屈な態度に、喜多川は得心しつつ軽く肩をすくめた。
彼が師である斑目一流斎の支配から抜け出したのはもう半年も前のことだが、しかし校内では未だに囁かれることが多い。ずいぶん減ったが、白い目を向けられることもある。
なるほど、彼女も己の噂を耳にしたのだなと喜多川は納得する。
気まずそうに視線がそらされているのはきっと―――お前もあの老人の罪の片棒を担いでいたんだろう―――そんな話を聞いたのだろう。あるいは、聞かされたのかもしれない。
その通りだ。被害者ぶるつもりはない。
喜多川は毅然としてそう思う。
どう足掻いたところで己が『黙っていた』という事実は変えられない。たくさんの人が傷つき、夢を食い尽くされて倒れていく様を黙って見つめていた……そうなるよう躾けられたと言い訳もできるが、そんなつもりは彼には微塵もなかった。
かといって今にしても、多弁となるつもりはやはり無い。
沈黙は金で、雄弁は銀というが、彼にとって最大の自己表現は絵を描くことにほかならないからだ。
それ故、筆を握るとき、ささやき声も白眼視も、なんということはない。
喜多川が平然としていられるのは、ただ『彼』に笑われたくないからというだけだ。お前は本物の芸術家だと言った『彼』の言葉を、嘘にしたくない―――
背筋を伸ばして、なんてことないと涼しい顔で取り繕って、常に超然としているのが多くの人が認識する喜多川祐介であると彼は自覚している。それは奥底で他者の評価や結果に怯える姿を隠す、人格を守る最も強固な仮面の一つだ。
そんな己の一部分に貼り付けられた『有名な先生の弟子だった』という値札は、今や彼にとってなんの意味もない。
彼は優しく、小さな子供をあやすように笑ってみせた。
「それは俺の実力を示すものにはならない。もちろん、君の筆にもなんの影響を及ぼさないだろう」
そのように語る彼の言葉と笑みに、はいくらか困ったような、己の発言を恥じ入るような、単に感心しているような……いくつかの感情が入り混じった複雑な表情を見せた。
口からは謝罪の言葉が現れる。
「ごめんなさい。失礼なことを言ったね」
瞳にはもう卑屈な色は見当たらない。
喜多川は莞爾として謝罪を受け入れた。
「構わない。実力とは関わりないが、その過去もまた俺の側面の一つだ」
奇妙だが自信深げなその態度に、今度こそは感嘆とともに頭を垂れ、渋ったわけを語り始めた。
「私は特別誰かに師事を仰いだわけではないから、実力と実績ある人に自分の描いたものを見られるのは、どうにも……照れくさくてね。妙な態度をとってごめんなさい」
そう結んで己の描いたものに目を戻した彼女の気持ちが、喜多川にもわからないわけではない。
出来の如何にかかわらず、誰だって優れた相手と比較されるのは、恐ろしい。
また納得もしていた。彼女の作品から受ける物足りなさは、すなわち絵画としてのいろはを教わってこなかったが故のものかと。
喜多川は彼女の恐れや恥じらいに深く共感しつつも厳然と述べた。
「それなら修練を重ねればいい。君の目と指なら、さほどかからずに済むさ」
叩きつけられたなんとも傲慢なもの言いに、は無言とまばたきを返した。
彼は謙遜も遠慮もせず己への評価を当然と受け取り、また彼女のへりくだりを否定もせずに済ませている。人によっては不快感も覚えるような不遜さを、しかしは心地よさを伴って受け止めていた。
心の籠もらないおざなりな否定やおべっかより、飾り気なく事実を言い表され、その上指針を与えられることに一種の清々しささえ覚えている。
その証拠に、口元には力の抜けた笑みが浮かび上がっていた。
「そうだね。ここへ来てしまった以上、手くらい動かしていなきゃ……」
言葉にもどこか脱力した様子が窺える―――
喜多川は怪訝そうな顔になって首を傾げた。
「ここへ来たのは君の望みではないのか?」
「えっ?」
「いま、来てしまった、と」
そう言っただろうと詰める目に、は二度まばたきをしてから曖昧に、今度は明確な作り笑いを浮かべてみせた。
「そんなこと言ったかな」
言ったよと指摘するのは簡単だったが、このとき喜多川はそれを飲み込んだ。
クラスメイトではあるが、まともに会話するのは今日が初めてだ。そも高巻に気をかけてやれと言われなければ話しかけすらしなかったに違いない。
それは冷淡とも遠慮とも違うが、薄情と言われれば、彼は素直にそれを認めただろう。そして反論する。義務感によって語りかけられて、君は嬉しいか―――?
口から出ない問いに答える者もなく、喜多川はに頷いた。それは肯定としてではなく、ただ間を繋ぐためのものだった。
「聞き間違いか。すまない、よくあるんだ」
「そう。そういうこともあるかもしれないね」
誤魔化されているとは喜多川も理解していたが追及はせず、ちょうど他の生徒たちがやってきたこともあり、彼はいくつかの伝言を彼らに頼んでから美術室を辞した。
そろそろ学校を出て向かわなければ、指定の場所に時刻通りの到着が難しいと思われたからだ。
四軒茶屋の地下鉄駅を上がってすぐの路地に入り、小路を行った先にルブランはある。
純喫茶の名に相応しく居酒屋が軒を並べる中にあってコーヒーを自慢とする店だが、立地の悪さ故に客足は乏しい。
この日も客はまばらで、喜多川が店のドアを開くとちょうど、常連の老夫婦が店を出ようとしているところだった。
老婦人は開けようとした矢先開いたドアに「あら」とのんびりとした声を上げたが、そこに居たのが見慣れた少年と知ってすぐに相好を崩した。
「お友だち、もう揃ってますよ」
などと気安く語りかけてもくる。
話し込むような仲でもないが、もはや通い慣れた喫茶店の常連となれば知らぬ顔でもない。
喜多川は彼女と彼女の連れ合いが通りやすいようドアを押さえて道を譲り、静かに頭を下げた。
老夫婦は若者のそんな態度に感心と言わんばかりに満足げにして去っていった。
少しの間だけそれを見送って、喜多川は店に踏み入った。
老婦人の言った通り、店内にはすでに彼の友人―――怪盗団の仲間たちが揃い踏みして彼を待ち構えていた。
「待たせたか。すまないな」
気安く言って彼もまた席につくと、皆々おざなりに手を振ったり挨拶を投げかけてくる。時計が示す時刻は約束の時間ちょうど。彼が遅れたわけではなく、単に皆のほうが来るのが早かったというだけの話だ。
店の店主である佐倉惣治郎は彼らの裏の顔を承知しているから、子どもたちはまったく気負いせずに顔を突き合わせて話し始める。
議題は当然、昨日高巻と喜多川が遭遇した不可解な現象についてだ。前日からSNSを介したやり取りでおおむねの事情は皆承知しているから、二人が改めて口頭でもって経験した事象を語るのに滞りはなかった。
あらましを聞き終えて、ふむと唸ったのは怪盗団のブレインを務める新島真だ。
「神隠し、か……なんだか時代遅れな響きね」
「実際に消えた人はいらっしゃるのかしら?」
奥村春が打ち上げた疑問を、佐倉双葉がキャッチする。
「ちょーいーまーちー……っと、ほい」
店の中央に位置するテーブル席に座した彼女の手元には、起動させられっぱなしのラップトップパソコンが置かれている。
そのキーボードの上を双葉の小さな手指が滑らかに動いたかと思うと、次の瞬間にはいくつかのテキストデータが画面上に浮かび上がる。
どれどれと覗き込んだ一同の前に示されたのは、都内に寄せられた家出や失踪人相談のリストだった。
「多っ」
思わずと高巻が素っ頓狂な声を上げる程度には、羅列された人名は多い。
行方不明者として届け出がされる数は年間でおおよそ八万人。そのうち都内に限定した場合は八千人ほど。ただしこの内のほとんどはさほどの期間をおかず保護されている。
とはいえそれでも、毎年数十人が失踪したまま今も発見されていない。全国規模でみれば数百人ほどが、毎年この国から消えているのだ。
その事実に薄ら寒いものを覚えたのだろう。坂本竜司は眉をひそめて軽く頭を振った。
その隣で、喜多川が言う。
「これは去年の統計だろう? 年が変わってからはどうだ」
双葉の指がまたキーボードの上を跳ね回る。今度は少し時間が要った。
やがて現れたのは、先に比べたらよほど簡素なリストだった。
「もう五件もあんのかよ……」
「しかも―――」
うんざりとした声を上げる坂本を目でたしなめつつ、新島がリストを指先で軽く撫でた。
五件中四件が十代の少年少女とある。一名のみ、七十代の老人だ。
「あんまよく知らないんだけどさ、こういうのって普通おじいちゃんおばあちゃんばっかなんじゃないの? ほら、ボケちゃってどっか行っちゃう、みたいな……」
高巻の疑問に、新島は首を左右に振った。
「意外とそうでもないのよ。行方不明者として届け出がされる割合のうち、最も多いのは私たちくらいの年齢なの」
「え、そうなんだ? 家出とか、そういう……?」
「そういうことね。家庭内トラブルからの失踪が最も多いとされているわ。ただまあこれは、このパターンが一番届け出されやすいってことでもあるんでしょうけど」
子どもが家出したら、普通親は警察に相談するものでしょ。と結んで、新島は再びリストに目を戻した。
「今見てるのは、一応届け出されたって段階のだな。たぶん全部、ただの家出だとおもう」
「そもそも事件とも言い切れない、ってことね。こうなると警察内の資料もアテにはできそうにないかな」
やれやれと肩を落とす新島の隣で、双葉もまたふーむと唸って腕を組む。
「なあその……増髪? って、信用できんのか?」
もっともな文言であった。高巻や喜多川の見たものを疑うわけではないが、しかしそこに登場する増髪なる未知の人物に関しては、行動どころか、実在さえもが疑わしい。
仲間たちから向けられる疑惑の視線に、高巻は困ったように指先をすり合わせた。
「そう言われるとなんの根拠もないんだけど……」
傍ら、喜多川は泰然として答える。
「俺は信じるぞ」
カウンターチェアに浅く腰掛けた彼の様子は、自信に満ち溢れてもいた。
「お、自信ありげじゃん。なによ?」
また彼は、坂本の問いかけに淀みなく答える。
「単に救援に割り入った際の様子が必死そうだったというのもあるが、そも考えてみろ。もしも彼女があの空間で悪意をもって何某かの行いをしていたとするのならば、俺たちの前に姿を見せる必要さえないんだ。敗れて食われるなりすればそれでよし、二人だけで勝てたとして、後から顔を出せばいいだけだろう」
「おお……なるほど……」
理路整然と並べ立てられた言に、坂本が感心したように頷くが、しかし新島は厳しい目を彼に向けた。
「そういう風に思わせることが目的だとしたら?」
「お、おお、おう……たしかにそういう考え方もできんな……?」
坂本は、困ったように喜多川と新島を見比べる。
間に割って入ったのは高巻だった。
「私も祐介に賛成。あの子、増髪さん、ほんとに困ってる感じだった。あそこにウソはない、と、思う……」
語尾が自信なさげに弱々しく掠れたのは、今や彼女にも新島の厳然とした理性の眼差しが向けられていたからだ。
新島は冷たい声で高巻に指摘した。
「思いたいだけじゃないの?」
「うっ……それはぁ……」
「あなたたちお得意の曖昧な感覚や勘に頼るわけにはいかないわ。今は特にね」
団の頭脳派の言うことはもっともだ。確証のない曖昧な感覚によってのみ判断を下せば、後戻りもできない道に迷い込む可能性さえもある。
まして彼女の語る通り、今の彼らは≪切り札≫を欠いている―――
店内にカウンターを叩く激しい音が響いた。その向こうで成り行きを見守っていた惣治郎が思わずと眉をひそめたくなるような怒号が続く。
「おい真! ンな言い方しなくても……!」
もちろん、坂本の怒りもあって然るべきものだ。彼らはそも、情によって結ばれている。気持ちの赴くまま動いたからこそ救えた者も少なくない。
しかし、思わずと立ち上がりかけた坂本を、小さくやわらかな手が制した。これまで黙って店自慢のコーヒーを楽しんでいた奥村が、優しく彼の肩をツンとつつくと、それだけで毒気は抜き取られてしまう。
また彼女はかわいらしく小首を傾げて新島にむけて笑ってみせた。
「マコちゃん、もういいよ?」
すっかりなにもかもを承知している様子の奥村には、新島も舌を巻くほかない。
バツが悪そうに唇を尖らせて、ぷいとそっぽを向く以外に彼女ができることはなかった。
「……意地悪な先輩で悪かったわねっ」
「あ、ヘーキヘーキ! ワザとイジワル言ったんでしょ? そんくらいわかるよ!」
高巻が明るく返すと、店内に立ち込めていた険悪な空気は霧散する。惣治郎はまた、ひっそりと息をついて読書に戻った。
つまりはそういうことだ。
怪盗団における重要なカードを欠いた今、確実でないものを追って窮地に陥れば、最悪のことになりかねない。まして高巻と、ついでに坂本は、どちらかと言えば暴走する側だ。喜多川は比較的理性的なものの見方をするが、しかしその感覚は少し皆とズレている―――
となれば必然的に、あらゆることのストッパーとしての役目は新島に回ってくる。
大切な仲間だからこそ、厳しく接しなければ守れないかもしれない……ここは『彼』の帰る場所でもあるのだから、新島の責任は重大だった。
そんな気苦労などつゆ知らずと、坂本はヘナヘナと力を失って脚をだらりと投げ出した。
「あンだよぉ……俺けっこうビビってたんだけど……」
「りゅーじおまえもう黙ってろ」
「させん」
呆れた視線と指差しを双葉から頂戴して、坂本は両手を合わせた。謝罪は新島に向けられているようだった。
新島はかすかに首を振って、咳払いを一つ。話を戻そうと一同を見回した。
「とにかく、今はまだなんとも言えないわ。私たちはその奇妙な場所に入ってないし、増髪さんにも直接対面はしていない」
それ故に情報の信憑性と確実性が薄いのだと前置いた上で、彼女はさらに言を重ねた。
「その子は『神隠し』と言ったのよね?」
「ああ」
喜多川が頷いて返した。
「なにも解らないと言う割に、いやに具体的な単語が出るんだなって」
「それは―――」
少し穿ち過ぎではないかと反論しようとするが、その前に新島が手を振って彼を押し留めた。そんなことは彼女自身も解っているとして。
「彼女に悪意があると断定はしないわ。でも、間違いなくなにかを知っていて、それを隠している。そのことは忘れないで」
理知的な瞳の奥に、隠し切れない心配の色を見つけて、喜多川は恥じらうように項垂れた。
ちょっと心配しすぎじゃないのか。こっちはもう、一人前でなくとも一応男子なんだから、もう少し自主性に任せてくれたって―――
反抗期の子供のようなことを思う彼はさておき、この件は一先ず片付いたかと見て、そろそろと双葉が挙手をする。
「わたしからも、ひとついいか?」
ぱっと視線が彼女に集中する。
「モナ、見かけたって」
「それはぁ……ごめん正直自信ない……」
「俺は気が付かなかったな」
顔を見合わせる高巻と喜多川の様子に、双葉は塩をふりかけられた菜っ葉のように萎れてしまう。
「も……もしかしたら、モナ、そこに迷い込んで帰れなくなっちゃってたりしないかな……」
声もまた、力無い。
店内には再び居心地の悪い空気が満ちた。
年明け前のクリスマス・イブ。最後の大仕事をやっつけた彼らの前で、怪盗団の導き手たる猫は消えてしまった。
そも彼は物質的存在ではなく、人々の無意識の集合体、メメントスから汲み上げられた一杯の塩水だったのだ。そのコップには、希望と記されていたに違いない。
猫の形をした猫でない生き物は、メメントスが消滅すればともに消える運命だった。彼はそれを承知の上で、人々を救うためともに戦い、そして大いなる悪しき意志に打ち勝った。
だから……
彼はもう、存在しない。希望なるものは目に見えない形となって、それぞれの胸のうちに帰ったのだから。
それが正しい姿だ。世界の法則には決して抗えない。
沈痛な静寂が店に満ちた。誰も言葉を発することのできないような。
しかし、唐突に坂本が大きく息を吐き出すと、やたらと明るい声色で、やかましい大声を発した。
「あるかもしんねーな! モルガナだし!」
仲間たちは、双葉ですらもポカンとした表情で彼を見やった。
「ちょ、竜司……」
高巻が慌てた様子で腰を浮かしかける。下手な期待をもたせるなと言いたげなその様子にこそ、坂本は怒るようにしてますます声を張り上げた。
「だってよ! あのクソ猫がなんかいい話風にして消えるとかなくね!? くっせーセリフ言って、それではいサヨナラ〜! なんて!」
声真似らしきものを織り交ぜて吐かれたセリフは、おそらく彼の本音だろう。
一番初めに≪切り札≫の手を取り、旅の終わりまでをともに走ったということは、すなわち『彼』の次に件の猫と時間を過ごしたということだ。
そして坂本竜司という少年は、粗野な見た目や言動の裏に、深く厚い情を隠し持っている。
致命的な喧嘩もあれど、こうしてまだ声高にその帰還を望むことこそがその証明だった。
―――いささか、趣には欠けるが。
そう思いつつ喉を鳴らしたのは喜多川だった。
「フッ、そうだな。たまには面白いことを言うじゃないか」
親しみの籠もった憎まれ口に、坂本は顔をしかめた。
「お前にだけは言われたくねぇわ」
「は?」
「あ?」
隣り合って座した少年たちの間に火花が散る―――
奥村はそんな二人の様子をにこやかに見守りつつ、パンと手を合わせて打ち鳴らした。
「喧嘩しないの。でも、そうだね、モナちゃんのことだから、もしかしたらほんとに……」
「そっ、そうだよ! モナきっと、カッコつけて消えたつもりでいたらさ、実は普通にそのまま残ってて、恥ずかしくて帰れないのかもっ!」
身を乗り出して期待と希望に瞳をきらめかせる双葉を押し戻す術は、誰も持ち合わせてはいなかった。
「そうね。実際に、ペルソナが使える空間がまだ残っているということは、モルガナが存在している可能性に繋がるでしょうね」
「モルガナ、ここがワガハイの居場所だーって言ったもんね。ウチらと、『彼』がいる場所が……」
苦笑して互いを見合う子どもたちは、やがてこのばかばかしいほど楽観的な希望を確信に変えてやろうと心に決める。
「やることが増えたということか。まったく、手間のかかる連中だ」
「ンっとにな。アイツ引っ張り出すのと、バカ猫探しに……」
ついでに、と坂本は口角をつり上げた。
「そのヤバそうな場所のこと、調べてやろうじゃねぇか」
威勢のいい言葉に仲間たちは頷いて返した。
「彼を出所させる件に関しては今まで通りでいいよね。モナちゃんを探すのはそのおかしな場所の調査と兼ね合いになって……」
「そうね。後者に関しては、まずは私たちも実際にそこへ入って、可能なら、増髪さんからも話を聞きたいかな」
「うへぇ、そのためにゃ家からでなきゃか……モナめ、このさむい時期にめんどうなことさせおって」
テーブルの下に投げ出した脚をバタバタとさせる双葉に、カウンターの向こうから父親のお叱りが飛ぶ。
その惣治郎には、子どもたちの言っていることの半分も解らない。己には認識できないなにか奇妙な空間があって、そこでアレやコレやがあるらしいとは理解しているが……
あまり危険なことはしてほしくないというのがこの男の本音だ。家族としても、大人としても。
彼はふむと唸って至極真っ当なことを言った。
「なんだかよく解らねぇが、その増髪さんとやら、こっちで会えたりしないのかね?」
落ち着いた男の声に、子どもたちは目を見開いて硬直した。
「その発想はなかった……」
項垂れた高巻の言葉に、惣治郎は苦笑する。
微笑ましげな目に見つめられて、高巻は慌てた様子で両手を振り回した。
「だ、だって外に出たらいつの間にかいなかったし! もしかしたらあの場所にしかいないヒトなのかなーって!」
「うむ……」
重々しく喜多川が同意することに、他の面々は顔をしかめる。
ひらめきや直感という点では優れた二人だが、広い視野で全体を観察することに関してはさほどでもないというのが、惣治郎も含めた全員の所感だろう。
とはいえ、この現実世界での接触という発想がなかったのは皆同じことだ。
新島は二人の証言を頭の中でなぞりつつ問いかけた。
「私たちとそう大して歳は変わらなさそうだったんでしょ? 顔が見えないのにそう判断したってことは、彼女制服だったんじゃないの?」
これに、高巻は驚きも顕に大きな声をあげる。
「なんでわかるの!?」
あちこちからため息が落ちる―――推理というほどのものでもない。見た目に反して礼儀正しい彼女が遠慮のない口をきいていた時点で、各々の中に増髪なる人物が少女の姿として描かれていた。
「……どんな制服だった?」
「えっと、紺色のPコートに、紺? か、黒のボックスプリーツ……」
呻きながら記憶をさらう高巻を横目に、喜多川は己の鞄を漁り始める。
「しばし待て、描いたほうが早い」
「お、さっすが」
揶揄する坂本をはね除けつつ、テーブルに画帳を広げ、その上にペンを走らせることしばし。
描かれた線と点の塊は、やがて一人の少女の輪郭を明らかにした。
しかし―――
「いやこれほとんどコートで制服見えねーな」
出来上がったものを見た双葉の正直な言葉に、一同は残念そうに肩を落とした。
「てか仮面こわっ! 夢に見るわ!」
「これじゃちょっと手がかりにはならないね」
喚く坂本をたしなめつつ、奥村は困り顔を画帳から上げた。その視線の先にいる喜多川はまだなにかを深く思案している様子だった。
やがて彼は「あ」とやや間の抜けた声を上げてポンと手を打つと、ペンではなくスマートフォンを取り上げて弄り始める―――
「あ、あ、あー……」
奇妙なうめき声を上げた彼は今度こそ、完全に消沈した様子でテーブルに突っ伏した。
「なに? どした?」
怪訝な様子で問いかけた坂本の手に、スマートフォンが手渡される。画面にはインターネットブラウザが立ち上げられたままになっていて、どこかの公立高校の公式ホームページが表示されているようだった。
いくつかあるコンテンツのうちの一つ、入学案内の内からさらに、制服の案内―――
その冬服の中に、喜多川が描いたものとそっくり同じコートが表示されていた。
学校名は都立洸星高校とある。
坂本はテーブルに伏せられたままの喜多川の後頭部に手をやると、両手で激しく彼の髪をかき乱しはじめた。
「お前ンとこのヤツじゃねーか!! なんで気が付かなかったんだよ!」
「やめ……すまないとは思うが……! 俺たちだって、真面目に制服なぞ着ていないだろうがッ!」
バシッと音がするほど強く坂本の手を振り払って、喜多川はすっかり乱されてしまった長い前髪を押さえた。
彼の言うことには、学校指定の通学用コートであることに間違いないが、あくまでも指定であり、またそれなりに高価であることも相まって、購入すらせず済ませる生徒のほうが圧倒的多数であるらしい。当然喜多川も、そもそもそんなものが存在していたこと自体を忘れていた。
そんな彼の言に、新島はどことなく言い訳するような調子でつぶやきはじめる。
「私たちは、ほら、私立だし……校則にも別に制服の着用は絶対とは書かれてないし……学生らしい格好をくらいしか指定されてないから……」
乾いた笑いが寒々しく響いた。互いに互いの持ち物や身に着けた物から目を逸らす。
現役高校生たちの白々しい態度に、この場で唯一例外の双葉は呆れ果てたと言わんばかりに首を振る。とはいえ、そんな彼女の毛髪もオレンジ色に染め上げられている―――
双葉はその奇抜な色の頭をかきつつ、喜多川を睨みつけた。
「じゃ、おイナリ、探してこい」
「なぜ俺が……というわけにもいかんか。仕方あるまい」
探す以前に増髪の実存を確かめることも含めての任務であると承知しているからか、喜多川の反応は芳しくない。
顔のわからない相手となればなおのこと。
手間を思って呻いた少年に、新島は分かっているだろうけどと前置いた上で語りかけた。
「目立つ真似はくれぐれも避けてよ?」
「わかっている」
「見つかるまでの間に私たちもそこに入れるといいんだけど……」
奥村のささやき声は空になったコーヒーカップの底に落ちて消えた。
……
その翌日、金曜日の放課後。機会は存外早く訪れた。
新島はこの日の昼、生徒会の引き継ぎのために学校を訪れていた。すでに通常授業はすべて終えていたから、次代の生徒会役員たちに文集用の原稿を渡すためだけにだ。
面倒と思わないでもなかったが、これでやっと完全にお役御免となれば、足取りは軽い。
間近に大きな試験も迫っているがそこに不安もない。となれば、あとは卒業までモラトリアムを満喫させてもらおう―――
そこまで気の抜けた考えを持つでもないが、しかし新島はすぐに家へ帰らず、長らく担ぎ続けた生徒会長なる重責から解放された喜びを味わおうと街をぶらつくこととした。
それも、一人ではつまらない。
そう思い始めたのは興味のあるショップを一通り冷やかして回った後のことだ。
折しも辺りは学生の帰宅ラッシュが始まっている。誰か見知った顔でも通りかからないかなぁと願っていると、上手い具合に相手を見つけ、新島はほくそ笑んだ。
「杏!」
雑踏のなかを少し窮屈そうに歩いているのは高巻杏だ。大きな声で呼びかけつつ手を振ると、彼女はすぐに新島の姿を見つけて顔を綻ばせた。
「真じゃん、なにしてんの?」
小走りに駆け寄った彼女は当然学校帰りなのだろう。見慣れた学生服姿で、肩からは通学用鞄を下げている。
「ちょっと時間が空いたから、ぶらぶらしていただけ。あなたは? これから仕事?」
「んーん。今日は特になんにも」
それに、と付け加えて、高巻はすばやく新島の対面、大通りに面したカフェのテラス席に腰を下ろした。吹く風は冷たいが、テーブルのすぐそばにはあかあかと点るストーブが設置されているため、足元は少し熱いくらいだ。
「例の、ほら、『彼』のさ、証言者探しも今は連絡待ちで……」
動きようがないのだと高巻は少し悔しそうにふっくらとした唇を噛んだ。
彼女たちの頭目は現在、仇敵獅童正義の罪の立件のため、投獄中の身だ。パレスを利用した改心の手口を明かすことで、同じ手段を用いた精神暴走事件を立証させ、かの敵に然るべき罰を与えるため―――
それもきっと、ひどく時間のかかることだろう。あんな不可思議な世界の存在を、まずは司法に認めさせなければならないのだ。
彼らとしては、自分たちの頭領をそんな長い時間貸し出すつもりは毛頭ない。
大切な友であり、家族であり、危機をともに駆け抜けた仲間で、最大のトラブルメーカーでもある≪切り札≫―――エースカードを、いつまでも他人の手に委ねるわけにはいかなかった。
何故なら時間は有限で、遊びに行きたい場所も、一緒に見たい映画や漫画も、見せたい作品も、語り合いたい事柄も、まだまだたくさんあるのだから。
このため年明けからこちら、子どもたちは『彼』を取り戻すためにあちこち奔走している。
高巻はモデル活動を通じて得た伝手を利用し、かつて彼の冤罪を決定づけた証言者を探しているが、これがなかなかうまくいかないのが現状だ。
獅童正義は女遊びの激しい輩だった。こうした業界への接触も多いだろうと睨んでのことだったが……
重苦しいため息を誤魔化すように、高巻はメニューを取り上げた。
「改心ってほんと便利だったんだなーって実感しちゃうよね」
「否定はしないけど、物騒な考えしちゃ駄目よ」
「わかってるよぉ。けどさあ、んもう。甘いもの食べちゃおうかな」
「あ〜ん〜?」
高巻が本格的にモデルを目指すと宣言してから半年ほど。確かに彼女は以前よりますますその身を研ぎ澄ませているが、それは様々な努力の結果だ。
それをこんなところで台無しにしていいのか。新島は彼女の手からメニューを取り上げた。
「ヤダヤダ生クリームとかチョコとかマシュマロとか食べたいの! 今日だけだから! ひと口だけ!」
駄々っ子のように長い脚をジタバタとさせる彼女を制して、新島は勝手に紅茶を注文してやった。
ぶすくれる高巻ではあったが、すぐに気を取り直すと先ほど己がそうされたように立ち上がり、手を振り始めた。
「春〜! こっちこっち!」
見れば、私服姿の奥村がのんびりとした足取りで近くを歩いている。
彼女はすぐに二人に気がつくと、嬉しそうに笑って駆け寄った。
「こんにちは。いいなぁ二人でデート?」
「んふふ、実はね」
「違うでしょ」
「なんでよ。ウチらラブラブじゃん」
「まあ、うらやましい。私も仲間に入れてくださる?」
もちろんどうぞと空いたテーブルから椅子が引き寄せられて、そこへ奥村は上品に腰を下ろした。
「……じゃあ、二人もちょうど会ったところだったんだね」
「まあね。そろそろ一人でうろつくのにも飽きてきたところに杏がのこのこ来たものだから」
「罠にかけたみたいな言い方しないでよ。フツーに歩いてました! てか春はなんで?」
「私は視察の帰り。酷いよね? もうすぐセンター試験なのに」
そう言って頬を膨らませる奥村は、新しく打ち立てたイメージ戦略のための新店舗、その候補地を午前中からあちこち見て回らされていたらしい。
移動のほとんどは社用車だったが気疲れからくる肉体疲労はなかなかのもののようで、やってきたコーヒーにはいつもより多く砂糖が注がれていた。
「大変ね。無理しちゃ駄目よ?」
「無茶言われたらウチらに言ってよ。百倍にして返してやるんだから」
「ありがとう。でも大丈夫。もう今日はおしまいって切り上げて来ちゃったもの」
つまり、社長令嬢の意見―――ワガママ―――はある程度は通るのだと、奥村は述べている。
この強かさには二人も感心していいのか呆れたらいいのか。それとも恐れるべきだろうか? ライバルとして。
……まあいいや。
高巻と新島は煩雑な思考を投げ捨て、すぐに手元へやってきたスイーツに夢中になった。
そのようにして、少女たちはおしゃべりに数時間を消費する。実はないが、実りのある時間だったと彼女たちは胸を張ることだろう。
さてそろそろ、日も傾いてストーブだけでは辛くなってきた。まだ少し時間はあると、それなら暖かいところで映画なんてどうかとまた歩きながら盛り上がる。
けれど途中、三人は奇妙な感覚に襲われて立ち止まる。
「あ―――」
声を上げたのは高巻だ。予感めいたものを覚えて街路の先へ頭を出した彼女は、確信とともにふり返る。
その顔には、すっかり馴染んだ赤の仮面―――
街路を抜けた先は無人で、今や少女たちの周囲にあったはずの気配も音も、消えている。
「あら、まあ。思っていたより早く遭遇できちゃった」
おっとりと笑う奥村の顔には、黒のマスクが貼り付いている。
傍らの新島には鉄仮面が。
彼女は軽く肩をすくめて己のそれを撫で上げた。
「あまり嬉しくはないけどね。さて……」
足元からは蒼い炎とちぎれた鎖が湧き上がる。
「来て、アナト―――」
呼び声に応じて現れたのは、豊穣と戦いを司る女神だ。しかしその見た目は、変形合体でもしそうな物々しさ―――メカメカしさ―――をしている。
事実アナトと呼ばれた新島の半身は、彼女が命ずるままにバイクへと変形した。
タイトなジーンズに包まれた脚がそれに跨がると、仮面もあって少し言い表し難い雰囲気を醸し出す。
高巻と奥村はそれからは目を逸らして、まじまじ彼女の姿……その仮面に目をやった。
「ペルソナ、本当に呼べるのね。仮面も外れない」
独り言ちた奥村の背後には巨大な頭蓋骨と一体化した艶めかしい女が佇んでいる。
高巻は二人に倣ってヘカーテを呼び出してみせた。
「引っ張ったりしても全然なの。まずこっからしてパレスやメメントスとは違うんだよね」
「それに服も変わらない。これは、この空間の主に敵として認識されていないから……?」
「主と呼べる存在がいるかどうかもまだ解らないよね。どこから手をつけたらいいのかなぁ」
マスクの下で困り顔をしつつ、奥村は周囲を見回した。
少女たちが佇んでいるのはカフェからさほど離れてもいない。繁華街にある映画館を目指していた最中、街路から抜け出して四車線の道路にぶつかったところだ。
しかしその大きな通りに車は一つも見当たらない。見れば信号は停電でもしたかのように一つ残らず消えてしまっている。
「少し見て回ってみましょう。二人とも、後ろに乗って」
寒々しささえ覚える無人の道を眺めて、新島はバイクの後ろを指し示した。
無音を割く彼女の半身が上げる唸り声だけが響く中、少女たちはぐるりと周辺一体を見て回った。
建物の配置や見た目に変化はない。街路樹も駅のロータリーを彩る草花も、時が止まってしまったかのようにそのままだ。
ただ人と音だけが、その空間からは取り除かれているようだった。
「人が本当にいない……なんだか不気味ね。普段ならこの時間、人でいっぱいのはずなのに……」
「街の姿は元のままというのが余計にそう思わせるのかな。やっぱりここはパレスとは違う……?」
「分からないわ。イセカイナビは消えてしまったし、メメントスだって消えたはず。モルガナはたしかにそう言ってた。けど、それならここは、認知世界とは違う異世界なのかしら」
新島の半身はすでに彼女の中に帰されている。白く塗装されたガードレールに腰を預けて並んだ三人は、自然と声を潜めてしまっていた。
分からないことだらけだと唸る新島と奥村をよそに、高巻ははてと首を傾げた。
「異世界ってそんないくつもあるもんなの?」
心の中の世界というのも結局なんだかよく解らなかったというのに、この上まだ理解の及ばない場所があるというのか。
どことなくげんなりとした様子の高巻に、新島は「さあね」と気楽そうに答えた。
「マクロの世界では物質は観測されるまで無限に遍在しているとされているから、その考えに基づいたら私たちが認識できない場所に無数の世界が存在していたとしてもおかしくはないと思うけど」
「ごめんなんて?」
「見えない場所のことは分からないってことだね」
とはいえそれも、観測するまでもなく確定した結果というものは無数に存在する。例えば猫を毒ガスと一緒に箱に入れたらどうなるか。観測するまでこの猫は生きている状態と死んでいる状態が重なり合っているなど、論じるのもばかばかしい話だ。
というようなことを、奥村が可能な限りやわらかく伝えてやると、高巻は解っているような解っていないような、曖昧な表情を仮面の下に浮かべて頷いた。
「つまり、ウチらが知らないとこに、認知世界やここ以外にもペルソナ使えちゃう変な場所がある……いや無い……? どっち?」
「さあ、どうなのかしらね。もしかしたらそういう場所があって、そこにはそこのペルソナ使いがいるのかもしれないわよ?」
「んあー? じゃあそこのペルソナ使いが助けてくれたりしないかなぁ……」
「そんなうまい話、無数の異世界よりあり得ないと思うけど」
「あ、うまくオチがついたね。ふふっ」
朗らかに笑う奥村の姿に二人は脱力して肩を落とした。
さて、新島は鞄からスマートフォンを取り出して一つ唸る。
「とりあえず時間の流れは外とこことで違いはなさそう」
そのロック画面にはシンプルなデジタル時計が表示され、現在時刻を教えてくれている。周辺を回るのに掛かった時間はきっかり三十分。入ってから間違いなく経過していた。
「そういや、パレスだとカメラとか使えなかったよね。ここはどうだろ……」
言いつつ高巻もスマートフォンを取り出し、すばやくカメラアプリを起動して二人の間にその身を置く。
アプリは正常に動作しているのか、大通りにシャッター音が響いた。しかしそのストレージに三人の姿を捉えた自撮り画像は保存されない。
「ダメかぁ……」
「通話やチャットは?」
どうだろうかと各々チャットアプリや電話帳を立ち上げる。新島と奥村はグループチャットにメッセージを送り、高巻は履歴を辿ってこの場に相応しい相手に通話を仕掛けた。
三コールのうちに彼は応えた。
『もしもしぃ?』
「うわ繋がった!」
通話口で上げられた素っ頓狂な声に、坂本は
『は? いきなりなに』といかにも面倒くさそうな声を返した。
普段ならそんな彼の態度に噛み付こうものだが、この時ばかりは構わずまくし立てる。
「竜司、あんた今どこにいんのっ!?」
『ジムの帰りだけど』
「どこの!? 渋谷!?」
『ですけど?』
「じゃあ今すぐ電車乗って! 三分!」
『ンでだよ! インスタントラーメンじゃねーんだよ俺は!』
「いーから早くしなさい!!」
口やかましい姉のような態度は坂本にとっての鬼門だ。逆らい難いという意味で。
彼は不承不承指定された駅に向かって動き始めた。
他方では、双葉がチャットを受け取って場違いにもはしゃいだ様子を見せている。
『きさらぎ駅みたい! やべー! トンネル入るなよ! 話しかけられてもついてくなよ!』
そしてここに電車に乗ったらしい坂本が合流する。
『なに? お前ら例の変な空間に行っちゃってんの?』
『やばいな。わたしら出遅れてんぞ。巻き返してかないと』
『俺そういうの苦手なんだよ。やっぱスタートダッシュって重要だし』
横へ逸れ始めた会話には、当然というべきか新島が喝を入れる。
坂本にはいくつかの指令が下された。
ここから出るために人の多い場所―――駅の改札口に向かうから、あなたはそこでカメラを構えてムービー撮影を行いなさい。
双葉は画面の向こうで喚きつ、同じ文言をチャットに送り付けた。
『わたしもみたい!! 撮り逃すな! 共有しろよ!!111』
うるさいし何故そんなにテンションを上げているんだとは、誰も指摘してはやらなかった。
十分ほど後、言いつけ通り改札前でカメラを構えていた坂本の目の前に、少女たちは現れる。
「うおっ!? いきなり出てきたなお前ら!」
大声に何事かと幾人かが迷惑そうな目を向けるが、しかし坂本の姿を見ては納得か呆れを示して流れていく。
少年はふんと鼻を鳴らして録画を止め、少し疲弊した様子の少女たちに合流した。
「おつかれ。どうだったん?」
「ん、シャドウ……っぽいのに遭わなかったこと以外は、だいたい前回と同じ。急に入って、アンタが言うみたいに、急に出て……他の人は気が付いてないってのもそうかな?」
「ほーん」
生返事を返す坂本の手、そこに握られたスマートフォンを取り上げるのは新島だ。
「録画見せて」
「返してー」
憮然とする持ち主の前で撮りたてのムービーが再生された。
はじめの数十秒はよくある改札の風景と変わりない。しかし電車が到着したらしきアナウンスがかすかに聞こえはじめた次の瞬間、改札を通り抜ける形で三人の少女がコマ送りをしたように現れる―――
この動画は急かすフタバに促されるままチャットに送信された。
ちょうど喜多川も彼女たちのやり取りに気が付いて会話に参加しはじめたところだ。この場にいない二人はムービーをおかずに、益体もない、奇妙だがテンポのいいやり取りを交わしはじめた。
そこから得られるのはネットによくある創作とも実話ともつかない怪談話のみ。
高巻はため息とともにスマートフォンをポケットに戻した。
「やっぱモルガナだよね。いてくれたらまだなんか、もうちょっと解りそうじゃん?」
その通りだと、他の面々も各々持ち物をポケットや鞄にしまい込む。チャット上はさらに別の怪談話が埋め尽くしていた。
「そのためにも、もっとあの空間のことを調べて、増髪さんも捕まえないとね。誰か後で祐介と双葉に発破かけておいて」
私はそろそろ行かなくちゃと告げて、新島は高巻らに手を振った。
映画はまた今度。できれば血や幽霊が出てこなくて、甘ったるい恋愛もの以外で。
残された注文に、高巻と奥村はがっかりとして項垂れた。