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01:Mysterious New Face
「です。よろしくお願いします」
三学期が始まるなりやってきた転校生は短い自己紹介を終えると、ぺこりと小さく頭を下げた。
これに、同じクラスとなることとなった喜多川祐介は、おや、とほんの少しだけ目を見開いた。彼女の口から出た出身地に聞き覚えがあったからだ。
それはたしか、俺たちの頭領と同じ―――
奇妙な偶然もあるものだ。少年は縁というものの面白さを噛み締めながら、かすかな笑みを湛えてと名乗った少女へ目を向けた。
取り立てて特筆すべきところは見当たらない。強いて言うのであれば、あごのラインで切り揃えられた艷やかな黒髪はなんだかこけしや日本人形のようだ。
しかし彼女は生き物らしく、呼吸をしていて、目が合うと照れくさそうに笑ってみせる。
でも、と喜多川は……彼だけでなく、クラス中の子どもたちが不思議に思っていた。
この時期に転校とは、両親の仕事の都合と語っていたが、新年度を待たず、あるいは進学を待たずしてやってきて、それでわざわざ普通科ではなく美術科に転入とは実に手間のかかることだ。
受け入れる側の洸星高校の定員数にだって限りはある。たしかに去年、年が明ける直前になって慌ただしく転校していった者はいたが……これだって奇妙なことだし、その空いた一つの席に他を押し退けて座すというのも、なんだかまるで誂えられたかのようだ。
それとも、なにかしらの実績のある人物なのだろうか?
それなら名前くらいは耳に入っていてもよさそうなものだが、誰もなる人物に心当たりはなかった。
クラスメイトとなった少年少女たちの心に一つの文言が浮き上がる。
―――謎の転校生。
静かな教室内で、喜多川だけがかすかな笑い声をもらした。
そういうところも、彼と似ているな。
周りの席の者はいつものことと受け流した。
そのような日常の一幕を雑談ついでに語ってやると、高巻杏という少女はひどく楽しそうにする。ここのところ進捗芳しくないと言っていたから、こうした他愛のない、オチも笑いどころもないような話が嬉しようだ。
喜多川はそのことに密かに息をつく。別に男としての務めだなどと前時代的なことを言い出すつもりはないが、自ら檻の中に収監されることを選んだ奇特な輩が帰るまで仲間たちの身や心を守る程度のこともこなせなければ、きっと失望されてしまうだろう。
そういう意味では彼はよく務めを果たしていると言えた。
証明するように高巻は明るい声で彼に応える。
「んでもほんと珍しいよね。こんな時期に転校なんてさ。もうちょっと過ぎたら春休みで、三年でしょ? 卒業まで待てなかったのかな」
「さあな。特別話をしたわけでもないから、そこまで深くはわからないよ」
「もしかしたら『彼』みたいに地元でなんかあったとか」
「そうそう冤罪などあってたまるか」
「まあね、けど逆ってこともあるかもじゃん」
言って、高巻はかすかに顔を俯けた。翠の瞳は手元で湯気を立てる紅茶に注がれている。
二人がいるのはなんてことない、どこにでもあるチェーンのファミリーレストランだ。彼らと同じような学校帰りの学生たちで溢れている。
真面目そうな顔をして参考書に齧り付く者もあれば、級友らしき少年少女らと談笑に励む者、あるいは安価な割に量の多い甘味に瞳を輝かせる者……
きっとかつては、高巻もそんなふうにしていたのだろう。今は遠く離れた土地の学校に通う親友と―――
喜多川は口の中で己の舌先を噛んだ。
『彼』の代わりを務める気など毛頭ないが、それでもやはりこういうときはその不在を恨めしく思うものだ。
君ならこんなときどうする? どんなふうに声をかけて、彼女の気を紛らわせる? それとも慰めてやるだろうか? あるいは気が付かないふりをして、いつものように下らないことを言って笑わせてやったりするのか?
迷う間に高巻のほうがその気持ちに気がついたのか、なんてことないと言わんばかりのいつもの眩い笑顔を浮かべ、手は誤魔化すように豊かな金の髪を撫でつける。
「ま、なんにせよさ。その子もきっと、『誰かさん』みたいに転校したばっかりじゃ不安なこと多いだろうし、いろいろ気を使ってあげてよ。って、私が言うことじゃないかもだけど。大したことじゃなくたって、親切にされて嬉しくない人なんていないでしょ?」
不自然なくらいに明るい声だった。
喜多川はそれにこそ己を強く罵って―――お前にはほとほと呆れ果てたぞ、気の利かぬ男め―――曖昧に、しかしよく躾けられた犬のように頷いてみせた。
率直に言い表して、高巻杏という少女は美しい。顔貌や全身の作りだけでなく、落ち込んでいるときにこそこうして顔も知らない誰かを思いやり、ちょっとお節介な言葉が出るようなところが彼女の美しさの本質だ。やや間の抜けた気質や勉強が不出来だったとしても、それはまあ、ご愛嬌というものだろう。
感服する気持ちで胸をいっぱいにして、喜多川は手元の冷や水で喉を潤した。屋内は暖かいが、空調の吐く暖気は乾燥している。
見ればちょうど、高巻の手元のオレンジティーも空になっている。
偶然駅前で顔をあわせてお茶を一杯楽しむ時間はもう終わりだ。喜多川は立ち上がって彼女に「駅まで送らせてくれ」と進言した。
年が明けたばかりの一月、早々と三学期が始まったころ、夕方の時間の空はもう薄闇に包まれ、街灯や店先の明かりが眩く足元を照らしている。
二人が歩くアーケード街は、ほんの少し前までは正月仕様に飾り立てられていたはずだが、今はすっかり平常運転に戻っている。
その変わり身の早さに感心するやら、呆れるやら。歳神を迎える祭儀に対する民草の関心が薄れていることの表れと思うと、なんだか寂しいような気もしてくるが、人のことをとやかく言えるほど、喜多川も高巻も、伝統的な行事に熱心というわけではないから、特別そのことに関して口に出したりはしなかった。
それより、吐く息が白く染まり、肌を刺すような冷気のほうが気にかかる。
喜多川は子どものころからあまり寒さに頓着しない性質で、ワイシャツの上にコートを引っ掛けただけで十分と吹き付ける風にも涼し気な面立ちを崩さない。
一方で高巻はスカート丈を短く詰めていることもあるのだろう、長い脚には分厚いタイツと、首にはマフラー、耳当てをして、身体は裏起毛のカーディガンと厚手のジャケットで包んでなお、身体を丸めて震えている。
女子は大変だな。と、無遠慮にその形のよい脚を観察しながら思うが、あまりジロジロ眺めているとそのうちお叱りが飛ぶと流石の喜多川も理解しているからか、彼はすぐに前方へ視線を戻した。
会話は途絶えがちだ。
それは二人に共通した話題がないからではなく、ともすればついつい、共通の友人である『あの少年』に触れそうになるからだ。
そして高巻杏という女の子は、その少年のことを好いている。彼女自身がその想いに気が付いたのは、友だちとしてずっとそばにいると約束されたときだった。
もちろん喜多川はその仔細を知らないが、しかしこの感情豊かな女の子が、仲間の手前一生懸命気持ちを堪えて不和を呼ばないようにと努力していたことくらいは、見抜けている。
おそらくそれは他の面々も同じことだろう。
だから、かの少年は今だ清らかな身でいられるわけだ。
喜多川にはそれを羨ましいとはあまり思えなかった。どちらにしたって。焦る気にはなれなかったし、己にはまだ分不相応と思える。
なにより彼は、目の前にある高く険しい山を登るのに夢中になっている。
(でも……)
揺れる高巻の金の髪を横目で捉えつつ、彼は好奇心に胸が疼くのを抑えることはできなかった。
(どういう気持ちなんだろう。誰かを好きになって、そのために懸命になるというのは)
仲間のうちの一人、奥村春などはそもそも『彼』の役に立ちたいと怪盗団に加わった節がある。もちろん彼女の家族にまつわる一連の事件も大いに関係しているのだろうが―――
時として命の危機にさえも対面することは、奥村は否が応でも理解していただろう。己がではなく、誰かが死ぬ可能性さえもあるシゴトだった。
それすら乗り越えて、ただ好いた相手の傍にいたいと鉄火場に身を投じるほどの情熱的な献身。
奥村のこれに関しては、他の仲間に聞かされて初めて気が付いたほどだ。覚悟すら悟らせぬほどの覚悟―――そんなに深刻に捉えていなかったのかもしれないが―――いずれにせよ、己か他者の命をかけてまでする恋とは、果たしてどんなものだろう。
歴史に名を残した芸術家の中にはそれこそそのような愛憎に悲恋、解放的な悦びに明け暮れた者もいる。ラファエル前派のロセッティや、琳派からの影響色濃いクリムト―――
彼らと同じものが、この性別も歳も違えば、時代さえ隔てた少女たちの胸の中にあるというのか。
多く人は本能的に他者を求め、恋することを求めるようにできている。また人の肉体は生理的側面からもそれをアピールするようになっている。遺伝子に連綿と刻み込まれた種の保存のための合理的なシステム……それが今もここに、瑞々しく息づいていると思うと……
ぱっと脳内に広がった取りとめのないイメージに、喜多川は指先をこすり合わせた。
ああ、なんてことだ! 今は彼女を送り届けるまで、足を止めるわけにはいかない―――!
悲劇的にそう思って拳を震わせる少年の様子になどまるで気が付かないまま、高巻は寒さ以外の要因から腕を組んでうーんと唸った。
彼女が沈黙していたのは、別に、全然、まったく、喜多川が危惧しているような理由ではなかった。
もちろん彼女がかの少年に想いを寄せていることに間違いはないが、彼女はちゃんと分別できている。燃えるゴミの日は火曜と水曜で、ビン缶は毎月第三日曜日、燃えないゴミは月始めの木曜。
ロマンチックなシチュエーションを好むのと現実的なことは、それぞれ別個にきちんと両立できるものだ。
そんなことより、彼女が気にしているのは今自分たちが歩いている道に関してだった。
幾何学模様を描くタイルで舗装されたなんの変哲もない道路が駅に向かってずっと続いている。それ自体はなんの変哲もないが、しかし左右に並ぶ商店はいずれも行儀よくシャッターを下ろしてしまっていた。
高巻はポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認した。まだ夕方の五時半を過ぎたところだ。
これは奇妙なことだった。
二人が歩いているのは駅から出てすぐの商店通りだ。中には夜から営業を始める飲み屋や二十四時間営業の店もある。
それに、先までは活気づいた中を歩いていたはずなのに、少し前から一人として他の人間とすれ違っていないのだ。
耳には二人の足音しか入ってこない。ささやき声や、風の音さえも―――
高巻の主観としては、ほんの少し前、瞬きを二度した間にそうなっていた。
なんだかおかしい。まるでパレスにでも迷い込んだみたい。
いいかげん隣の少年も気がついているだろうと声をかけようとした彼女の視界に、ふと淡い輝きが映り込んだ。
それは燐光を放つ一匹の蝶だ。
蝶という生き物は、古のころからたびたび魂と捉えられていた。鮮やかな翅の色彩と舞うような動きが、古代の人々に祖先の魂を幻視させたのだろう。
遥かな時を経て、このとき高巻もそのような印象を抱かされる。
無音を切り裂くように舞い飛ぶ蒼い蝶……
言葉もなく目で追うと、その先の角に見慣れたものが見つかった。
先だけが白い、黒の長い尾―――
ハッとして、高巻は思わずと足を前に踏み出していた。
「モルガナ?」
喜多川を置いて走り出した彼女は、風もなく項垂れるのぼりを避けてすばやく角の先へ顔を出した。
当然そこに探し人―――猫の姿は見つからない。ただ相変わらずの無音と無人、寒々しい街路だけがずっと遠く、ビルや商店に挟まれて続いている。
肩を落として立ち止まった高巻の背に追いついて、喜多川は首を傾げた。
「突然どうした?」
「ううん、ちょっと……モルガナがいた気がして……」
喜多川はキョトンとした顔で瞬きを繰り返した。その瞳は言葉のないところで『そんなはずはないだろう』と訴えている。
そんなことは高巻だって解っている。
モルガナはメメントスの消滅とともに消えたのだ。まるで夢か幻のように、ちょっとイイ感じのことを言って―――
きっとよく似た模様のただの猫を見間違えただけだ。
それもまた高巻はよく解っている。
それでももしかしたら……不思議な冒険の名残りとして、あのフカフカの毛皮にイタズラをさせてくれるなら―――
高巻はぎゅっと拳を握って、俯きかけていた顔を上げた。
解ってる。大丈夫。別にヘコんだりなんてしてない。『彼』が帰ってくるまで、そんなことしてる暇なんてない。そう告げようとして。
しかし彼女はいずれをも口にすることはできなかった。
何故なら目の前に立つ少年の顔に、見慣れた、けれど少しだけ懐かしい仮面が貼り付いていたからだ。
「祐介、アンタそれ……」
疑問は鋭い発声に遮られた。
「杏! 退がれ!」
また彼は腕を伸ばして高巻の肩を押し退けると、気がつけば手にしていた刀を鞘から抜き放ち、真っ直ぐに彼女の背後に飛び出して行ってしまう。
なにがあったのかとふり返った高巻の視界に奇妙なものが映り込んだ。
走り出した喜多川の進む先に、ちょうど同じ年ごろと思わしき学生服の少年が立っている。しかしその表情は恍惚としていて、まるで正気とは思えない。
そして、それに覆いかぶさるように―――奇妙な、としか言い表せられない異形が口を開けていた。
例えるならそれは、肉屋の店先に吊るされたブロック状の焼豚だ。色は黒に近く、表面は魚鱗癬めいたひび割れに覆われ、内側の鮮やかな肉色を覗かせている。
そこに赤ん坊のふくふくとした手足が生え、大人の歯を揃えた巨大な口がくっついている。吐き出される生臭い吐息が不気味さをいや増していた。
―――シャドウ!
認識した瞬間、高巻の内にいくつかの明確な意志が生じる。
異形に対する恐怖。抵抗の意思も見せず立つ無防備な少年に対する庇護心。非日常的な存在に対する警戒心。
意志は混じり合って戦いへの決意として顕現した。
それは冥府の館に座す女主人の姿をとる。獄卒と番犬を従え、鞭を振るう苛烈な女王―――彼女の叛逆の意志は当然、不思議と危険に満ちた綱渡りの日々を終えてなお存在し続けていた。
「まだアンタの出番、終わってないみたいだよ……ヘカーテ!」
呼び声に応えて顕れた女の影は、己の存在をさも当然と言わんばかりに高笑いを響かせた。
今や高巻の手の中にも鞭が握られている。
別にオトコを引っ叩いて興奮するシュミなんてないのに―――
思えどしかし、少女は激しくタイル舗装された足元を叩き、それを号令とした。
轟音とともに湧き上がった炎の波は商店のシャッターや叩かれた舗装路、店先に置かれた看板やのぼり、放置されたままの自転車やバイクのことごとくを舐めながら猛烈な勢いで異形に迫った。
幸いなことに先に走り出していた喜多川はすぐ背後に迫る赤熱に気がついて、今まさに噛みつかれようとする少年の身体を引っ掴んで異形のぶ厚い肉を盾に炎を回避する。
炎が焼き焦がしたのは異形のみだ。自ら意思を持つ生き物のように肉塊に迫り、まとわりついてその全身を焼き尽くした。
耳をつんざくような悲鳴がアーケードに反響する―――
「やった……!?」
炎の中のシルエットが音とともに膝をついたのを見て、思わずと高巻の肩から力が抜け落ちる。
異形の影から喜多川が警句を投げつけたが、しかしそれはわずかばかり間に合わなかった。
「まだだ! こいつ、まだ生きて―――」
「えっ、やっ……」
異形は燃える手足を振り回し、焦げた肉片をあちこちに振り落としながらも自らを焼いた少女に向かって突進する。
内部にまで至ったらしい熱によって黒く炭化させられた舌が高巻の眼前いっぱいに迫った。
……こういうとき『彼』がいたら、ちょっとキザ過ぎるくらいにかっこつけて助けてくれるのになぁ。
襲いくるだろう痛みに備え、高巻はきつく目をつむり、歯を食いしばった。
訪れたのは衝撃と重いものが地に倒れたような轟音―――
「はあっ、はあっ、はあぁ……!」
五体満足どころかすり傷一つ負わずに済んだ高巻の目の前にいたのは、息をせき切らせて肩を上下させるおかっぱの女の子だった。
背は高巻と同じくらいあって、ぶ厚い紺のPコートを身にまとっている。その裾からはボックスプリーツの黒のスカートが覗き、頼りなさげな脚は黒のタイツに、首は鮮やかな黄緑色のマフラーに隠されていた。
手にはなにか長い―――物干し竿のようなものを掴んでいる。よく見ると燃え落ちた布切れが見えるから、おそらくその辺りにあったのぼりの旗を竿ごと抜き取ったのだろう。
彼女の向こうに、燻る肉塊がビクビクと痙攣して倒れている。
「えっ……と……」
高巻に解ることはほとんどなかった。いわんや未だ足元も覚束ない少年を抱えた喜多川にも。
解るのはただ、怪物が少年に襲いかかっている現場に遭遇し、撃退に乗り出したところ見知らぬ少女が闖入したということくらいだ。
おまけにどうやら、彼女もまた自分たちと似たような身上らしい。
喜多川がそう思ったのは、彼女の顔にも仮面が貼り付いているのを目撃したからだ。
ただそれは、高巻や喜多川のものとは少し趣を違えている。
増髪と呼ばれる能面の一種だとは彼にはすぐ理解できた。巫女や神降ろし状態の女人を表す面だ。
なるほどと喜多川などは思う。
高巻に迫った異形を、弱っていたとはいえ竿の一本で叩きのめした苛烈さは、女武者の面に相応しい。
「た、助けてくれた……んだよね? えと、ありがとう……」
呆然としたままの高巻がやっとそれだけを言うと、増髪の面をした少女も呼吸が落ち着いてきたのだろう、ふうと大きく息をついてから彼女に向き直った。
「礼を言われるほどのことじゃないさ。間に合ってよかった」
高巻と喜多川はその声に精悍な印象を抱いた。ピンと伸ばされた背筋もそれを後押ししている。
「君は……いや、これは一体?」
意識を取り戻す様子を見せない少年を背に負い直し、喜多川が問いかける。
増髪は困ったように頭をかきつつこの疑問に答えた。
「私もよくは……ここでちゃんと話のできる人と会えたのは、君たちがはじめてだ」
仮面の下の目が喜多川の背で虚ろな目をする少年に向かう。
曰く、この空間―――言われて喜多川はやっと自分たちと怪物以外に動く存在がないことに気がついた―――に迷い込むと、たいていの人はぼんやりとして会話どころか意識を保つことさえできなくなってしまうという。
「その人みたいに、ぼーっとして、起きてはいるみたいなんだけど……叩いても引っ張っても、なんの反応もしなくなっちゃう。それで、こういうのに襲われても……」
増髪は竿の先端でもはやピクリとも動かない肉塊をつついた。
高巻らは眉をひそめる。
シャドウならば致命傷を負わせた時点で本来あるべき場所へ戻るはずなのに、しかしこの怪物は未だ死体をこの場に晒している。
であれば、これはシャドウではないのだろうか?
「こいつは一体なんなんだ?」
率直に尋ねた喜多川に、増髪はやはり困った様子で頭に手をやった。
「分からない。こういうの、あちこちにいるんだ。たぶんもう死んでるから、こいつは安全だけど……」
であればこれは生き物なのかと思うが、しかしこのような巨大な生命体には二人とも……察するに増髪にも心当たりがなさそうだ。
喜多川はまたさらに問いを重ねた。その目は無人と無音が続く周辺をゆっくりと見回している。
「ここはいったい、どういう場所なんだ?」
「パレスともなんだか違うみたいだけど」
追随して漏らした高巻に、今度は増髪のほうが首を傾げた。
「パレス?」
「あ、えーと……」
しまった、と高巻は口を押えて困り顔を喜多川に向けた。
どうしよう。もうメメントスは消えてしまったけど、やっぱり自分たちのこと―――怪盗団の正体に関しては触れないほうがいいよね。
意思の籠った視線に喜多川はわずかに顎を引いて肯定を示してみせた。
とはいえ彼は口を閉ざした。己は黙っていたほうが賢明だろうとして。
高巻はうーんと一度唸ってから、慎重に言葉を選んでパレスについてのみを説明し始めた。
「なんかね、えっと、人の心の中に歪んだ欲望があると、それがこう……わーってなって、こういう感じの、異世界みたいなのが出来てね? ウチらそこに出入りできるんだけど、そこのことをパレスって呼んでて……」
とはいえその説明はふわっとしている。まるで風に舞うたんぽぽの綿毛だ。地に落ちるまで誰にも捕まえられない―――
「なるほど、わかった」
しかし増髪は果敢にも頷いて返した。
「じゃあ、ここはそのパレスってやつなのかな」
さらに適応する様子さえもみせる。喜多川が信じられないものを見るような目を向けていたが、それには高巻も増髪も気が付きはしなかった。
「んー、どうだろ。たしかにパレスにもこういう感じの怪物? みたいなのはウジャウジャいたけど……」
私たちはそれを『シャドウ』と呼んでいた。と告げて、高巻はおそるおそるとショートブーツのつま先で物言わぬ肉塊をつんとつついた。
「……シャドウであるならば、このようにいつまでもその残骸を晒すことはない」
喜多川が補足して言うことに、増髪は腕を組んで首を傾ける。その目はもう怪物を映してはおらず、喜多川と高巻のつま先から顔まで―――そこに貼り付く仮面を無遠慮に眺め回している。
「というか、君たちは一体? さっきの魔法みたいなのは……」
えっ、と高巻と喜多川は同時に声を上げた。
「君も仮面をしているだろう。知らないのか?」
「え?」
「えっ?」
間の抜けた声が三人の口から順に漏れる。
増髪ははっと息を呑んで己の顔に手を添えた。
「あれ? 仮面なんて、いつ……」
「今気がついた!?」
素っ頓狂な声を上げた高巻の前で、増髪は己の顔を覆うつるりとした能面を撫で回している。
「なにこれ、取れ……」
やがて指先が端にたどり着くと、力を込めて外しにかかる―――
「ないっ!」
口元すら覆われたその表情は高巻と喜多川に窺うことはできないが、しかし声の調子から彼女が大いに動揺していることは判然としている。
それは水面に伝う波紋のように二人へ伝播した。
「え、マジで? ちょっと動かないで……」
高巻の手が増髪の増髪にかかる。引かれるまま増髪の身体は前後に揺れた。
「イタタタッ! 待ってストップ!」
「ご、ごめん! てかこれ、外れないって、まさか……」
はっと息を呑むなり、高巻は今度は己の仮面に手をかけた。艶のある赤のラバー素材は吸い付くような手触りと、普段なら無いはずの強い抵抗を返してくる。
奮闘する二人の少女を薄目で眺めながら、喜多川は一人納得したように頷いていた。
「そういえば、ペルソナを使ってるときも仮面はついたままだったな」
「くぬぬ……っ! あれっ!? なんで!?」
外れない!!
高巻の悲鳴じみた声が虚しく響き渡った。
「やはり、どうも俺たちの知る場所と勝手が違うようだ」
両手が塞がっているため不参加を決め込んだ喜多川が仮定として示すことに、高巻は大きなため息をついて両腕をだらりと下ろした。
唯一晒された唇からは、泣き言のようなものも落ちる。
「モナがいたら、こういうの分かったりしたのかな……」
小さな声だ。増髪には届かず、喜多川は聞こえなかったふりをして、ごく自然に話題を切り替えた。
「さて、そろそろここを離れないか? またあのような怪物に襲われてはかなわん」
「あ、そだね。えっと……そういや、ここってどうやって出るの? ウチらの知ってるパレスってやつだと、入ったところから出られたんだけど」
問われて増髪はすぐに二人を誘った。
「それなら、こっち」
未だ残り続ける怪物の死骸を避け、足音も少なに向かったのは二人のもともとの目的地……つまり駅構内だった。
階段やエレベーター、改札が出入り口のようになっているのかと経験則から二人は想像するが、増髪が言うには―――メメントスとは違って―――確実にここ、という場所は存在しないらしい。
「何回か試したけど、場所はその時々で変わるんだ。これもまだ確定じゃないけど、人が多く集まりそうな場所に向かうと、いつの間にか出られていたりする」
「あー、なるほど、だから駅ね」
相づちを打つのはもっぱら高巻の役目だ。喜多川は背に負った少年の様子と周囲と、それから増髪の挙動を見定めようとでもしているのか、沈黙を保ったまま黙々と歩き続けている。
喜多川の審美眼をしても、彼女の歩調に乱れや迷いは見つからない。声にも、不安や恐れこそあれ、不自然なほどの緊張は窺えない―――
探るような真似をしていることに高巻も気がついてはいるのだろう。しかし彼女は咎めることも促すこともなく会話を続行する。
「人の多いとこかぁ。学校とか?」
「学校は、どうかな。遅い時間だと鍵がかかっていたりして、逆に出るのが大変そうだ」
「あー、そりゃそっか。そうなると駅が鉄板になるのかなぁ」
ふーむと唸って腕を組んだ高巻に、増髪は戸惑いつつもどこか縋るような眼差しを向けた。
「なんだか、また来ること前提みたいな言い方だね」
言葉に高巻と喜多川はキョトンとした様子で顔を見合わせた。
「えだって、まあ。むしろキミの言い方だと何回もここ来てんだよね? ウチらもそうならないとは限らないし。それに……」
チラと少女の碧の目が相変わらず負われるがままの少年に向けられる。
彼女は極めて普通のことのように言ってのけた。
「正直よく分かんないけど、こんなんなって取り残されたら、化け物がいなくてもろくなことにはならないよね? なんでかウチらは平気みたいだし、それなら入っちゃったついでにでも助けられたら、そっちのがいいかなーって」
ねえ? と高巻は喜多川をふり仰いだ。
見上げられた少年の顔には、苦笑とも昂然とも表せられる笑みが湛えられている。
「ああ……彼女の言う通りだ。いかなる状況にあろうと、俺たちは苦境にある者を見捨てない」
彼はまた声には出さず告げる。
―――それが怪盗団の存在意義だ。顔も名前も声も知らない、どこかの誰かに勇気を与えるための、形のない正義の砦―――
無言の中にあるものは伝わっていないだろうが、しかし増髪は仮面の下で瞬きを幾度も繰り返した。
唇からは真意を問うための言葉がこぼれる。
「それはつまり、今日のように助けてくれるということ? そこの人みたいに」
二人は首を縦に振った。それが当然のことであるとして。
増髪は少しの間沈黙した。
深い色合いのブーツがタイル床を叩く音だけが、無人の駅構内に響く―――
やがて、増髪はつばを飲み込むような仕草をしてから、朗らかな様子で述べた。
「そうだね。助けがなければ、きっと『神隠し』のようになってしまう。できるのなら、助けるべきなんだろうね」
一歩を大きく踏み出して、増髪はふり返った。
「君たちのような≪力≫があればそれも不可能じゃない……私が言うのも変な話だけど、どうかお願いだ。またこの空間へ踏み入ってしまったら、その時他に人がいたら、今日のように助けてあげて欲しい」
「オッケー! 任せといて!」
高巻のあまりの即答ぶりに、安請け合いだと喜多川は呆れるが、しかしやはり、高巻杏という女の子は美しいと感服する。見た目の話ではなく、心根の有様として。
彼はそれに倣おうと頷いた。
「約束しよう。そのような場面に出会せば、必ずやその人を救出すると」
反響する二人の声を耳にする増髪の表情は、変わらず仮面に隠されている。
「ありがとう……!」
けれど返された声にこころが籠もっていることは、もはや審美眼なるものを持たずとも解ることだった。
少年たちの足が改札を通り抜けると、耳鳴りのような奇妙な圧迫感とめまいの後、雑踏が押し寄せる。
目には時間帯に相応しい人の波―――
「うわっ、ホントだ!」
驚嘆の声を上げた高巻をすれ違う人々は胡乱な目で見ては通り過ぎていく。その中に一人として前後不当になっている者は見当たらない。
戻ってこれたかと息をつくのもつかの間、喜多川は慌てた様子で壁際に寄ると、気を失った少年を背から下ろした。
「とりあえず、駅員にでも預けるか……」
呼吸は安定していて、顔色も悪くないことから、少年はただ眠ってしまっているだけのようだ。
渉外を高巻に任せ、喜多川は自由になった肩や腕、手を回して、辺りに視線をさまよわせる。
小走りに駅員のもとへ駆け寄る高巻の背を中心にぐるりと一周視線を巡らせても、どういうことか増髪らしき人物の姿は見当たらなかった。
代わりにはならないが、見慣れないが見覚えのある後ろ姿が遠ざかるのを見つける。
「あれ……」
「ん? どしたの」
思わずと声を発した彼のそばに、手早く職員にお願いを済ませた高巻がいつの間にか立っていた。
隠しだてすることでもないと喜多川は素直に答えた。
「転校生がいたんだ」
「あー、さっき話してた。声かける?」
「今はよそう。それより……」
二人は壁際に寄ったまますぐには解散せず、人波に紛れながら声を落として話し合った。
「みんなにもさっきまでのこと教えといたほうがいいよね」
「そうだな。すぐに反応してくれればいいが」
「この時間じゃどうかな……」
「であれば、今日は帰るか。できることも思いつかん」
「そだね。んじゃ、また夜にでも―――ちゃんと反応しなさいよ?」
離れつつある喜多川の背に、高巻の剣呑な視線が突き刺さった。
彼は、動きを止め、ぎこちなく頷いて、叱られた子供のように項垂れる。
「わかってる。……解ってはいるんだ」
「アンタねぇ……」
集中するのはいいけど、それによって他のなにもかもをおろそかにするのはやめなさい!
高巻のお説教によって、喜多川は二本ほど電車を乗り逃した。