30:It'll forever remain a dream

 やっと日常が取り戻されたと喜んだのもつかの間、はもしかしたらこれまでで一番かもしれない危機に直面していた。
 ルブランのテーブル席に着いた彼女の前では、すっかり馴染んだ面々が渋い顔をしたり、面白がったり、頭を抱えたりしながら彼女の前に積み上げられたものを眺めている―――
くんちょっとステ振り極端すぎない?」
 面白がっている一派筆頭が、伊達眼鏡の下の瞳を猫のように細めて言った。
 その傍らの双葉は手にした用紙をひらひらと振りながら、やはり楽しげに追随する。そうしていると二人はまるで血の繋がりのある兄妹のようだ。
「んだな。文系は全滅だぞこりゃ」
 これに苦笑して、取りなすようなことを言うのは高巻だ。
「まあ、そもそもソッチ系の学科だもんね」
 どんまい、との肩を叩きもする。
 新島はまた、重く深いため息をついて、手元の紙束―――一つ前の期末考査の答案用紙を視界の外へ押しやった。
「理系も科学や保健学はダメじゃない。数学はどれもほぼ満点なのに……」
「それ以外はギリ赤点ばっかだな。りゅーじの答案みたい」
「ンだとコラ。俺のがまだマシだっての」
 唐突に名を挙げられて坂本が牙をむく。まだマシなどと彼は訴えたが、実情はどんぐりの背比べというところだろう。
「だ、大丈夫だよ! まだ二年だもん、今からでも十分取り返していけるからね!?」
 そんな二人の様子を眺めていた奥村が唐突に立ち上がり、ぐっと拳を握りしめてフォローのような、そうでもないようなことを懸命に述べる―――
 モルガナは彼女の様子にこそ呆れて肩を落とした。
「ハルぅ、逆にダメージ与えてっから……」
「えっ? あれっ?」
 最後に、記述問題にじっと目を落としていた喜多川がとどめを刺した。
「……、進級は大丈夫か?」
「おっ、わたしと同級生するかっ?」
 そして何故か嬉しそうな双葉が死体蹴りを行って、を爆発させる。
「わああ! もう! うるさい!! ほっとけよぉ! もう食ってくだけの技術力はあるんだから、試験結果なんてどうでもいいんだよ!」
 消火は手早く、そして的確だった。
「や、よくはないでしょ」
「リーダーはともかく、あなただって登校再開と同時に期末なんだから」
「頑張ろうね、ちゃん」
「とにかく暗記だ。死ぬ気で詰め込んでこーぜ」
 同性ゆえの容赦のなさに、は逃れることもできず敗北の苦渋を受け入れるほかなかった。

 とはいえ、手間がかかるのは彼女だけではないのだ。
 すでに試験の終了した喜多川はさておき、高巻も坂本も、偏りという意味ではたっぷりと新島の手を焼いてくれた。
 どういうわけか成績優秀な頭領からはじまり、赤点とは縁遠い奥村と、今のところ学校に通っていない双葉に、そもそも猫のモルガナ。
 問題のない者のほうが多いはずなのに、勉強会が解散されるころには、新島は青ざめるほど疲労困憊している有り様だった。
 そのようにして、問題児たちの手元にはそれぞれの苦手科目や引っかかりやすい設問をまとめた怪盗団参謀本部長官特製問題集が押し付けられる。
 不満の声が上がらないわけではなかったが、しかし新島が手ずから、愛情―――は籠もっていないが、真剣に自分たちのことを心配して一人ひとりに向けて作ってくれたとなれば、受け取らないわけにも、またやらないわけにもいかないだろう。
 それでも文句の一つくらいは付けてやりたくなるのが人情というもの。
「くそおぉ……こんなの全部やれるわけないだろぉ……」
 ましてには潜伏期間の間の遅れを少しでも取り返すようにと、更に追加が課されている。
 学科が違う以上どこまで役に立てるかは分からないけどと前置いた上で渡された参考書は、新島がかつて使用していた物らしい。重要なポイントにはマーカーが引かれ、几帳面な字で補足が無数に書き込まれていた。
 この努力の痕跡と、純然たる善意と厚意を前に彼女ができることといえば、その望み通り勉学に励む他にありはしないだろう。
 身悶えていたを眺めていた喜多川などはそう思って苦笑する。
「手伝ってやるからそう愚痴るな」
 手も差し伸べてやれば、はすぐに顔を上げて縋るような視線を返した。
 ……手伝えるのは歴史くらいなものだが。
 とは言わず、喜多川は視線に笑みを返してやった。
 勉強会が解散された後、二人は六畳一間のアパートの一室に落ち着いている。
 ここはようやく潜伏生活をせずに済むようになったが法律上の保護者から与えられた当座のねぐらだ。
 保護者のほうは今度こそ一緒に暮らそうと申し出てくれたが、やはりこれも、は拒絶している。ならばと用意された部屋も本来ならもっと大きな女性向け賃貸だったのだが、それもまた彼女は嫌がって、このセキュリティこそ強固だが狭く家賃も安いところにもやっと落ち着くことに相成った。
 狭い部屋には不釣り合いのダブルベッドは、せめて身の回りの物だけでもと先方が選んだ結果だ。一人娘の初めての一人暮らしじゃあるまいに、とはの弁である。
 そこに腰を下ろして、間に折りたたみ式のローテーブルを挟み、喜多川のほうは床に敷いたクッションの上に座している。テーブルの上には参考書と課題プリントのほかに、湯気のたつ不揃いな湯呑が並んでいた。
 また部屋の隅には旧式の石油ストーブが置かれ、部屋を暖めてくれている。乗せられた新品のケトルはつい先ほどかけたばかりだから、部屋はまだしばらく乾燥したままだろう。
 喜多川がここへ来るのは今日が初めてのことだ。
 帰りしなが、
「そういえば仮だけど家が決まったよ」とやっと機種変更のできたスマートフォン、そのマップアプリを差し出して、これから来るか? と問いかけたのだ。
 それにイエスと答えたから彼はここに居る。
 狭い部屋を見回して、彼は思ったままをやっと落ち着きを取り戻したらしい部屋主に告げてやる。
「想像と少し違ったな」
「ここ? そうかな。これくらい狭いほうが落ち着くよ」
「元の家は大きかったじゃないか」
「あれはあれで、なんていうか、すごく寂しかったんだぞ」
 ずるずると寝台から降り、背もたれ代わりに寄りかかって膝を抱える。その表情はまだどことなく拗ねている様子だった。
「そういうものか?」
 問えど、気持ちは解ると彼は思う。
 あの家は独りで過ごすには少しだけ広すぎた、と。
 想像を後押しするようには寂しげに応えた。
「キミが来るようになって、短い時間だったけど、あの家で一人きりじゃないのはすごく嬉しかった」
 心の内をまったく素直に吐露する少女の姿に、喜多川はふっと肩や首、顔中から力を抜き落とした。
 それは意図してのことではなく、ただ己の存在や行いが彼女のためになっていたと知って、部屋に上がり込んでから知らず知らずのうちにしていたらしい緊張を解いたというだけだ。
「そうか」
 応える声もまたこの上なく優しげだった。
 はしばらく無言で彼のその安らいだ表情をぼうっと見つめ、短い言葉と声を反芻した。その胸の奥にある小さな心臓は、落ち着いている割に妙に強く脈動を意識させるように動いている。
?」
「えあ、あ―――なんでもないよ。別に見とれてなんて……いや、いや、ほんとなんでもないから……」
 ほうけていたかと思えば、声をかけると慌てた様子で手を振り、両手で己の頬を押さえて俯いてしまう。
 珍妙なその振る舞いに首を傾げつつ、喜多川は茶を一口すすった。
 外は静かだ。乾いた風がそばの木立を揺らす音さえもが聞こえてくる気がした。かすかに建物が軋むような音も―――
 あのあばら家も、この時期はこんな音を立てていたな。
 もはや薄れ始めたほんの半年前の記憶を手元に手繰り寄せ、少年は懐かしく思う。
 ……師は未だ公判中だ。その罪は刑事罰における詐欺罪に当たると目されているが、本人に深い反省の意が見られること、また高齢であること、対してその被害の広範さと重大さが天秤にかけられ、なかなか結論が出ないでいるようだ。
 喜多川としては、下される判決がどのようなものであろうと、もはや大した関心はない。
 何故ならどう転んだとしても、己があのあばら家に戻れる日は来ないと解っているからだ。
 なにも知らず、あの老人をほんとうの肉親のように感じていたころには―――
 今度は喜多川のほうがぼうっとして、に心配される番だった。
「退屈だよな。ごめんな、テレビとかまではまだ揃えられてなくて」
「えっ? あいや、そんなことはない。ただ俺は……」
 ちょっと郷愁に似た想いに駆られていただけだとは何故か言い出せず、少年は小さく首を振った。
「お前といて、退屈だなどということがあるものか。少し色々と考えていたんだ」
 誤魔化すつもりで言うと、は穿つこともなく照れた様子で頭をかいた。
 この単純さが喜多川にはありがたかったし、愛おしくも思う。少し心配でもあった。
 さておきはいつの間にかその腕に、藍色の風呂敷に包まれた桐箱を抱えている。
「それは?」
 大きなベッドの足元と壁の間に挟まれるように置かれていたダンボール箱の蓋が開いているから、おそらくは喜多川がほうけている間にそこから取り出されたのだろう。
 はテーブルの上の湯呑を端に寄せ、慎重に風呂敷包みを置いた。
「テレビはないけど、あちこちに隠しといた荷物を回収してさ……」
 語りながらは膝をにじり、喜多川の隣に移動する。
 小さな白い手が桐箱の蓋を持ち上げると、桐の香りともに虫よけや湿気よけの独特なにおいが部屋中に広がった。の手はまた、それらとともに内部に重ねられていた白い紙をつまみ上げる。
 現れたものに喜多川は息を呑んだ。
「これは―――」
 は自慢げに笑ってみせている。
 テーブルの上に寝かせられているのは、飾り気の全くない額に納められた一枚の絵画だった。
「あんまり言いたくないんだけど、これ、獅童が……まあ、その、買い戻してくれたんだ。ご褒美だってことでね」
 いささか気まずそうに言うものの、絵を見つめる彼女の瞳には懐かしさと愛おしさがいっぱいに湛えられている。
 それもそのはずだ。そこにあるのは彼女の亡き祖父、黒崎明翫の作品の一つ『淑女』に他ならない。祖父を敬愛する彼女がそのような顔をするのは当然のことだろう。
 豊かな黒髪を左右均等に分けて三つ編みにした、華やかな衣服に身を包んだ女性の肖像画だ。揃えて腰元に置かれた手。わずかに傾げられた首にかかるほつれた髪。細い腕にやわらかそうな二の腕と胸。いずれもが精緻に描かれ、皮膚の下に通う血液の流れまでもが見えるようだ。
 けれどそこに顔はない。のっぺらぼうのように平坦で、ただ肌色で塗り潰されている。
 本当に―――
 喜多川は感嘆の息を漏らしながら先達の作品に魂なるものを吸い寄せられたかのように魅入られた。
 本当に、これを描いていた男はどれほどの愛情をこの『淑女』に捧げていたのだろうか。
 描かれたこの女性が可愛くてかわいくてたまらない、愛おしい、なにより嬉しくてどうにかなってしまいそうなほどの歓喜を、別の道から跡を追う少年に強く訴えている。
 どうしてそれほどまでにと、数ヶ月前の少年は思っていた。
 けれど今、本物の傑作を前にして、彼にはすべてが理解できている。
 後押ししたのはの楽しげな声だ。
「一度だけ、おじいちゃんは私をモデルに絵を描いたことがあるんだ」
「ああ……」
 少年ははっきりと首を縦に振って、彼女の言葉の先を奪ってやった。
「これだろう?」
 当然『これ』とは目の前にある絵のことだ。
 は少しだけ意外そうな顔をしてみせた。
「なんだ、気づいてたのか。よく分かったな?」
「解らないわけがないだろう。どれだけお前と顔をつき合わせていると思うんだ」
「ふふふ、それもそうか」
 笑み崩れた彼女を前に、喜多川は夢想する。
 嬉しそうに笑う彼女のその表情を切り取れたら……
「ずっと前……この顔の無い女に顔を与えるならどんな顔が相応しいだろうかと、考えたことがある」
「どうなった?」
「その時は結局解らなかった」
 彼の瞳は真っ直ぐにの顔を捉えている。
 今はそれ以外には有り得ないと訴えるような力強さに、ははにかんで頷いてみせた。
 これはね、と言って、は桐箱の縁を指でなぞった。
「おじいちゃんが、私が大きくなったらどんな子になるかなって想像して描いてくれたものなんだ」
「素晴らしい慧眼だな。さすがだ」
「だろぉ? おじいちゃんはすごい人なんだ。怖いものばっかり描いてたけど、でも、怖いだけじゃなくて……」
「ああ、彼の作品には常に隠された意図がある。愛や慈しみ、享楽的な楽しみや、未来への希望―――」
 重ねられる言葉の一つ一つには瞳を輝かせ、頬を興奮によって紅潮させる。
 彼女はまた満面の笑みを湛えて嬉しそうに声を上げた。
「キミこそ私のルクレティウスだ!」
「ふっ、そう褒めるな」
 時間帯に相応しくない歓声に、少年は自慢げに前髪をかき上げた。
 その気障なようにも、間抜けなようにも見える仕草に、はますます笑みを深くする。
 かつて彼女がすぐ隣に座す少年に接触を図ろうと思ったのは、本当にただの好奇心だった。明智吾郎から心の怪盗団なる連中がどうやら彼と同等の能力を有しているらしいと聞き及び、そしてそれが同い年の少年少女と知らされて、面白そうだと思ったのだ。
 折しも彼女は同時期≪怪盗≫を名乗って初めての犯行を終えたばかりだったから、娯楽的な興味はすぐに大きく膨れ上がった。
 けれどその中から喜多川祐介を選んだのは本当に偶然によるものだった。
 もちろん気にはなっていた。日本画の大家、斑目一流の愛弟子にしてその被害者―――彼の境遇にが己を重ねなかったと言えば、もちろん嘘になるだろう。
 けれど接触を図るのであれば、同性の高巻杏や、粗忽なふるまいの目立つ坂本竜司のほうがよほど御しやすかっただろう。どちらかとでも親しくなれれば、彼らが本当に心の怪盗団とやらかはすぐに知れたはずだ。
 本当に偶然だった。借りていた本を返さねばと閉館間際の図書館に駆け込んだら、独り己の世界に入り込む変人が書架の間に佇んでいたのだ。それが怪盗団の一員と思わしき人物のうちの一人でなければ、はすぐに踵を返して見なかったことにしただろう。
 そしてまた、アラーム音に正気を取り戻したらしい少年が慌てた様子で書架を飛び出した折、とぶつかったのも偶然のことだった。
 ただし、彼の抱えた鞄の中から生徒手帳をスり盗ったのは、間違いなく彼女の意思によるものだ。
 手帳を返してやったのはただの気まぐれだが、その後のいくつかの接触はやはり偶発的なものだった。
 あまりにそれが続くから、それなら利用してやろうと心に決めたことこそが彼女の人生の転換点だろう。
 つまりこの少女は、まったく偶発的な事象が折り重なった結果ここに至っている。
 それは多く死が突発的な現象であることとよく似ている。生きているという状態が継続されているのは、ありとあらゆる事象が物質的な法則を伴って無限に続く二点間を移動する間、偶発的な死を回避し続けるという偶然の産物によって生じている。
 彼女もまたほとんどの場合、そのような見えざる手によって生き延びてきていた。
 その始まりが彼なのだと深く理解して、は感慨深くつぶやいた。
「やっぱりキミで良かった。他の誰でもない、キミだから……」
 自分は生きて、ここにいられるのだ。
 かすかな声は喜多川の耳には届かなかったのか、彼は不思議そうに首を傾げている。
 別に難聴というわけではないだろう。ただ彼は、積極的な割にどうにも少し鈍いところがあるだけだ。
 そしては、偶然に頼ってきたことと同じように、その積極さと鈍感さに甘えてきた自覚がある。
 彼女はまた、これ以上はもうしちゃだめだと取り留めもなく思っていた。
 ここへ彼を誘ったのはそのためだった。
 は深呼吸を一度してから、話題を切り替えた。
「あのさ、タクシー代、おぼえてるか?」
「ん? ああ……だが支払いは別に」
「物でってんだろ。だから、これ」
 気楽な様子で指し示されたものに喜多川は瞠目する。
「……は?」
「この絵をキミに譲るって言ってるの」
 もどかしそうに重ねるに、彼はますます焦りをみせる。
「ま、待て、受け取れない。これはお前の大切なものだろう」
「だからだよ。キミに貰ってほしい」
「しかし―――」
「にぶちん……」
 唇を尖らせてつぶやかれた声は今度は耳に届いたらしい。しかし意味はともかく意図が理解できず、また彼は首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「別に。とにかく……受け取って欲しいんだ。こんなの卑怯かなとは自分でも思うけど……でも……」
 少年は改めて『淑女』を見下ろした。
 顔の無い女の姿。しかしそこにのせられる表情が、彼にはどうしてかはっきりと目に見えた。拗ねて口を尖らせて、頬を赤く染めている―――
 そして少年は豁然と大悟した。
 『これ』は彼女の祖父にあたる男がまだ幼く小さな少女だったころの彼女を前に、彼女が成長した姿を想像して描いたものだ。
 そして少女はその想像通りに成長した。捻くれてはいるが美しく、素直というよりは愚直という方向に。
 つまり、この絵は『現在の彼女』そのものなのだ。
 そして彼は『それ』を受け取って欲しいと懇願されている。
 大悟の後、少年は覚悟を決めて頷いてみせた。
「分かった。その栄華に賜わろう」
「大げさ……」
 しゃちほこばって応えた喜多川に苦笑しつつも、は安堵からほっと息をついた。意図を見抜かれたことに対する照れも多分に含まれた吐息だった。
 そして、彼女もまた決意とともに背筋を伸ばし、喜多川に正対するように座り直して真剣な表情を作った。
「あのさ……ずっと言えなくてごめんっていうか、その、恥ずかしくてさ、なんでこんな素直になれないんだろうって悩んだりしてたんだけど。いやこの際それはもうどうでもよくて……」
「ん……?」
「……ちょっと待って、深呼吸する……」
 明らかな緊張を示す彼女の様子に、喜多川は再び悟って一拍呼吸を止める。
「待て、なんだか俺のほうが緊張してきたんだが」
「ごめん。でも私のほうが、心臓が、心臓が……」
「お、落ち着け」
「うん……よ、よし!」
 ふーっ、と長い呼気をついて、少女は改めて姿勢を正し、喜多川に向き直った。
 その瞳は瞳孔が開き切って、奥底で星のように光が瞬いている。緊張で震える唇は艷やかでふっくらとして、血の気のよいことを教えるかのように鮮やかだ。頬はまた、様々な理由から赤らんでいる。
 彼女の放つ兆の一つ一つがこれから告げられるであろう言葉を予見させていた。
 それは彼がずっと求めていた言葉だ。
「あの……私、祐介くんのことが好きです。わ、私と……付き合っ、いや付き合ってるんだけど、あれ? ええと……」
 悲しいかな決意の強さと相反して、語尾は掠れて不明瞭になり、床に落ちてグズグズになってしまう。
 それでも肝心で決定的な言葉は少年の耳に届いている。
 彼は応えて言った。
「今なんと」
「ええーっ!?」
 決死の告白を聞き逃されたと失望と落胆も顕に叫ぶ少女に、彼は項垂れて頬を染め、懇願した。
「すまん、もちろん聞こえていた。だが……本当にすまないと思うが、でも頼む。もう一度……」
「こ、こ、この野郎……!」
 隠し切れない喜びによって震える彼の様子に促されて、はもう一度決死の覚悟を固めてみせた。
「すっ、ううう、ああもう! 好き!キミに好きだって言われたとき、ほんとはすっごく嬉しかった! だって大好きなんだから! 絶対キミより私のほうがキミのこと好きだからな!」
 ヤケになって急に大声を出したからか、彼女は乱れた呼吸と多大な恥じらいによって頬を紅潮させ、目には感情の昂ぶりから涙まで滲んでいる。
 もっとスマートに決めるはずだったのに―――
 そんな思いなどつゆ知らず、喜多川はただ愉快そうに笑うばかりだ。勝ち誇っているようでもあった。
「そうか、ふっ、ふふ、ふふふ……っ」
「笑うなぁ……」
「嬉しくてな。駄目だ、堪えきれん―――」
 湧き上がる感情の奔流に促されるまま、少年は腕を伸ばして恥じらいに震える少女を捕え、腕の中に囲い込んだ。
 されたほうも抵抗はせず、黙って抱擁を受け入れるとその胸に顔を埋めて、疲労感に似たものを呼気とともに吐き出した。
「はあぁ……なあ、返事とかしてよ」
「保留では駄目なのか?」
「やめろぉ」
「すまん。ああ、もちろんだ。死ぬまでそばにいてやろう」
「なんで上からだよ」
 呆れつつも、返答に満足げにしても彼の痩躯に腕を回した。
 そのようにして顔を上げ、まぶたを下ろした少女に、喜多川は後先を考えずに顔を寄せる。彼女はもう泣いたり拒絶したりせず、かすかな笑い声を漏らしながらこれを受け入れた。
 もう待つ必要はなかった。遠慮や自制も、おそらくは。
 少年はつばを飲んで彼女のなだらかな肩をゆっくりと、促すように撫でた。
 するとそれを見計らったかのように、部屋中に電子音が鳴り響いた。
「うわっ!?」
「あ……」
 驚いて床に転がったから身を離し、慌てて音の発信源を手繰り寄せる。
 原因は喜多川のスマートフォンだ。『シゴト』以外の外出の際は必ず掛けるようにしている門限を知らせるためのアラーム―――
 彼はまた現在時刻を確認して頭をかいた。もう時間はあまりない。今から電車に飛び乗って、走って帰れば間に合うだろうが……
 まだ驚いて硬直している少女に向けて、喜多川は申し訳なさそうに告げた。
「すまない、そろそろ帰らないと……」
「えっ」
「門限だ」
「あ、あ、そうか。そう。うん……」
「明日の放課後は空いてるか? 課題を手伝うのはそのときにでも―――? 手を放してくれないと帰れないんだが」
 立ち上がろうとした喜多川の袖を、の手がはっしと掴んでいる。彼女はまだ呆然とした顔をして、ひどく戸惑ったようにあちこちに視線をさまよわせていた。
「や、その。だって……」
 喜多川は浮かしかけていた腰を落として、掠れて消えそうな彼女の声を聞き逃すまいと耳をすませた。
 窓の外からは相変わらず冬の風に木が揺らさせる音と、近くの車道を走る車の走行音が聞こえてくる。部屋の中にはストーブに乗せられたケトルが湯気を吐き出す音と、隣室の住民がつけているらしいテレビの効果音や笑い声。そこに時折屋鳴りが混じり、不思議と心地よい調和を奏でている。
 その中で少女はいかにも恥じらいながら訴えた。
「す、据え膳ってやつ? の、つもりだったんだけど」
 言うなり今度こそ耳まで赤く染めて俯く少女の姿に、喜多川は手の中のスマートフォンの電源ボタンを長押しした。
 液晶画面が暗転したことを確認して部屋の隅に放り投げると、彼は己の生涯において唯一にして最大の名誉をかけた戦いに挑むべく立ち上がった。
 ……大げさ過ぎる、とはの主張したいところだろう。

……

 おなじころ、倉庫かなにかと見間違えそうな、埃っぽく湿っぽい空気に満ちた部屋に少女が二人と少年が一人、あかあかと灯されたストーブを囲んでいた。
 少年は、少女たちに問いかけた。
「復讐したい?」
 二人の少女は顔を見合わせてから、朗らかな声と表情で答えた。
「わたしらそんなに、ひまじゃない」と。
「いつまでも『彼』のことを考えていてあげられるほど、優しくはないの」
 二人の少女はまた声を揃えて言った。
「どうでもいい」と、冷徹に。
 もはやただ嘆くつもりも、怒りや憎しみに駆られる気も、同情や側穏を示す余裕などありはしないと彼女たちは言った。
 乾いて冷たい風が建付けの悪い窓の隙間から吹き込むが、ストーブの周りは暖かく、すやすやと穏やかな寝息を立てる猫は目覚める気配がない。
 また彼女たちは述べる。
「彼の出番はもう終わったの」
「ワンチャンあるとしたら、熱心なファン相手にじゃね?」
 そうね、と二人のうちきちんと足を揃えて膝の上に手を揃えて置いたほうの少女が頷いた。
「もちろん、償いも、懺悔もいらないわ。そんなことに耳を貸す時間なんてないんですもの。明日は朝から重役会議に顔を出さなきゃいけないし、メニューの試食もしなきゃ。デザイナーさんと内装の相談もあって……新しい企画が安定するまで、寝る時間もないくらい」
 椅子に座しているというのに膝を抱える無作法なほうの少女も語る。
「わたしは編入のための準備しなきゃだ。学科試験はヨユーだけど、面接とかあるし……あと、認知訶学の研究もするつもりだから。コーコーセーとセイギの味方と、研究の三足のわらじだ。ぶっちゃけ他のことにかまけてる時間なんて、一秒だってない。あ、クロの散歩も!」
 部屋に少女たちがくすくす笑う声が響いた。
 それは冷酷なようでいて、不思議な温かみも宿している。
 けれどその言葉の意味するところを思えば、やはり無慈悲で凄然としていると言い表されるべきだろう。少年などはそう思う。
 彼女たちはたった今、彼のひとがなにを言おうが行おうが、その一挙手一投足に一かけらの関心もないと告げたのだ。
 それはきっと責められるより、憎しみをぶつけられるより、あるいは許しを与えられるよりもよほど残酷なことだろう。誰からも顧みられず、もはやただ朽ちていくだけ……
 少年は、苦笑して手を打ち鳴らした。乾いた拍手が部屋に響いたが、猫はやはり起きないままだ。
「そうか、仕方がない。でもまあ、そりゃそうか。二人の人生は、二人だけのものだもんな」
 これから先何年、何十年続くかはわからないが、いずれにせよ短くはない生を復讐や悔恨に費やす義理も義務も彼女たちにはありはしない。彼女たちにはすべきことも、やりたいことも山ほどあって、とてもその身一つでは足りていないのだ。
「ええ、だからね」
 奥村春は笑顔で言った。
「お好きになさって。私はそのつもりだから」
 佐倉双葉はつまらなさそうに言った。
「死んだ人間を生き返らせる方法がわかったときだけ、連絡くれ」
 少年は応えて肩をすくめた。
「伝えておくよ。なんで俺がやらなきゃならないのかすごい疑問だけど」
「しゃーなし。メッセンジャーは新しいオトコに夢中だ」
「古いほうともそういう間柄とは思えないけどね?」
「キラキラ王子さまオーラ、意味ねーなー」
「あら、私たちにだって効果なかったじゃない」
 またぞろ残酷なことを言い始める少女たちを諫めて、少年はため息をつく。
 ここに極上の女が二人いるが、しかしどちらにも、鋭い棘と、毒がある、と。


 それからしばらくの後、世界を揺るがすようなあれやこれやがあって、一人の極悪人が広く衆目を集める。
 癖のある黒髪と目元を隠したその少年は、己の背後に魔王を従えて言った。
「この≪世界≫を頂戴する!」
 それゆえに紛い物の造物主よ、失せろ。
 放たれた弾丸は神を討ち倒し、そして彼は宣言通り≪世界≫をその手中に収めた。
 ≪世界≫とはすなわち、あらゆる全てのものである。
 物質的宇宙に存在する塵芥から巨大な恒星に至るまで、はたまた精神世界に置かれる大小様々な概念を、薄汚れていようが光り輝くものであろうが、無分別に、無差別に、ありとあらゆるすべてを掻っ攫っていった。
 それは長い旅の果てに彼が得て然るべきものでもあったし、望む望まぬに関わらず課せられる使命のようなものでもあった。
 このころには彼も開き直る術を完璧に身に着けていたから、高笑いとともに身に覚えのない≪罪≫までもを盗み出していた。
「やっぱり≪怪盗≫としては俺のほうが優れてるってことだな」
 どこかのビルの上から雪の降る街を一望しながら、彼はこの上なく楽しそうにつぶやいた。
 その傍らにいつもいるはずの猫はどこにも見当たらない。
 引き換えというわけではないだろうが、彼の背後にある鉄錆びた重い扉を押し開ける者がいる。
「おい、なに自分に酔ってんだ。支度はできてるのか?」
 かけられた声に極悪人はふり返り、己の身を包む―――彼のためにわざわざ黒にリペイントされた―――身体機能アシスト用のパワースーツを叩いてみせた。

 現実この悪党がしたのは警察に出頭し、ここ一年で仕出かした己の行いを告白することだ。
 これは彼の仇敵獅童正義の罪の立件のためであり、複数の殺人教唆の立証のためだった。
 その自己犠牲的なふるまいこそが彼の善意や正義の証明なのかもしれないが―――
 仲間たちはこれを許さなかった。
 何故なら彼の犯行は、一度だって単独で行われたことがないからだ。
 彼のそばには常に仲間たちの姿があり、それこそが彼の力の源だったのだから、それを今さら『全部自分一人でやりました』などと言われて激高しないものがあろうか。
 とみには怒りを通り越して呆れを素通りし、憎しみまで抱きかねないほどの反応を示した。
 何故なら彼は≪グリム≫の犯行―――四枚の絵画の窃盗―――までもを己の仕業として呑み込んでしまったのだ。
 おかげではなんの咎も負うことなく日常に投げ返されてしまった。己のしたことを間違っていたとは決して思わないが、しかしいずれ罰は受けねばと身辺整理を進めていただけに、彼女の怒りは激しかった。
「あのお節介焼き野郎!!」
 かつて彼自身が己をそう評した通り、彼は本当に世界一の男だったということか。
 さておき吠えては新たなスーツ、マークⅩを引っ提げて、獅童正義の不正の証拠を盗み出そうと張り切って家を飛び出して―――
「いったあぁい!」
 待ち構えていた―――わけではなく、冬休みの直前、たまたま近くに用があったからと期末試験の結果を直接問いただそうとしていた新島にげんこつを頂戴した。
「あのね、。違法な手段によって入手された証拠は裁判で提出できないし、できたとしても効力を発揮しないの」
 ごもっとも。
 また彼女はが隠そうとしていた答案用紙を目ざとく発見して詰め寄った。
「この点数、なに」
「えあ、う、それはその」
「付け焼き刃とはいえ範囲と指導要領からみてもある程度のヤマは当たっているはずだよね。補習を受けるほどじゃないみたいだけど……」
「いやその、いろいろ、あって、あんまり勉強に集中できなくて」
「いろいろ? なに?」
「あの、その、だから……」
 口ごもる少女の様子を眺めて、新島は思考を巡らせた。それはにとって最も恐ろしいことの一つだ。
 果たして新島は彼女の『ご期待』に沿うてみせた。
「そういえば、祐介―――」
 その名が唇から漏れた途端、はテーブルに突っ伏して叫んでしまう。
「あのバカ喋るなって言ったのに!!」
 そしてもちろん、これは新島の策略の内だった。彼女はしたり顔で頷くと、
「……祐介とは特に顔を合わせても連絡もしてないけど、元気にしてるかしら?」と手の内を明かしてみせた。
 嵌められたことに気がついて顔を青くするに、新島は『やったった』と言わんばかりに微笑んだ。
「ふうん、そう。ふーん……」
 それはまるで彼女らしくない、底意地の悪い笑みだ。
 は顔を赤くしたり青くしたりしながら、クゥンと情けなく鳴いてみせる。
 それですっかり全てを承知して、新島は厳しくに言い渡した。
「話を戻すわよ。いい、馬鹿なことをすればより彼の処罰が重くされる可能性もある。冷静になりなさい」
「はい……」
「それから」
 こほんと咳払いを一つ。
 スカートのしわを払いながら、新島はジトっとした目を一つ下の同性の少女に向けた。
「ほどほどにしなさいね」
 は、蚊の鳴くような声で「はい」と答えるのが精一杯だった。 

 さておき、それで諦めるような気性の娘ではないことは新島も承知している。……恋人との付き合い方に関してではなく、無実の罪によって囚われの身となった少年のほうの話だ。
 そもこれは、あの少年に貼り付けられた前科というレッテルを剥がせればいいだけの話だ。
 獅童の殺人教唆に関しては認知世界の実在と実証が将来的になされることを踏まえ、長い目で見ればいい。それまでは脅迫や暴行と言った現行法で立件可能な罪でお茶を濁し、あの男に本当の償いをさせるため捕縛し続ける。
 頭目と猫を除いた怪盗団の面々は、いずれ今回逃げおおせた彼の取り巻き連中もまとめて粛清してやるつもりでいた。もちろん、二人が戻り、全会一致の承認を得た上で。
 つまり現状求められているのは、ただあの少年を取り返すことだけだ。
 そのあと、猫を探しにいこうということで、子どもたちの意見はまとまっていた。

 その中で、にできることが一つある。
 もとよりそのつもりではいたのだから、これは簡単なことだった。
 奪われたものを奪い返せばいいだけだ。


 年越し間際の寮内は静まり返っている。
 いつもなら騒がしいはずの屋内に人気が少ないのは、多くの三年生が進学や就職を見据えて寮を出始め、また一、二年生らの多くも冬休みに際して実家に帰省したからだ。
 居残っているのは帰るのが面倒だからなどというとんでもない不孝者や実家が遠すぎる者、次の住居が見つからない者くらいだ。喜多川のようにそもそも帰る場所がない者は少数派だろう。
 けれど彼は少しも気にせず、いつものごとくキャンバスの上に筆を滑らせていた。
 冬休みの課題はとっくに終わらせ、提出用の油彩の模写と自由課題は、部屋の隅に立て掛けられてじっとその時を待つばかりとなっている。
 今取り掛かっているのは年が明けてすぐに開催される年齢不問の絵画展への応募作だ。申し込みはすでに済ませ、納入は二月の末まで。余裕は充分にあった。
 強いて言えば画材の残りとそれを揃えるための懐が心もとないか―――
 それも、筆を止める枷にはなり得ない。
 原点に戻って美人画をと閃き、高巻に頭を下げて脚に縋り付き、土下座をしかけたところでやっと「いい!? 私はゼッタイ! 脱がないから!」と了承を頂戴できたのは本当に幸いなことだ。
 クリスマス前から忙しくする合間を縫うように納得いくまでその横顔を描き取らせてもらい、それを元に下描きを済ませたのが今日のこと。
 少し怒っているようなその表情は、近寄り難いが故の彼女の美しさをおおむねほとんど再現できていると言えた。
 怒っているのは、スケッチの間彼女がずっと例の極悪人への愚痴を言い続けていたからだ。
 やれ本当に人の気持ちが解らないやつだとか、やれこれだからナルシストって最低だとか、やれ友だちなのになんの相談もしてもらえないなんて、これじゃあ志帆のときとおんなじじゃない―――
 目尻ににじみ始めた涙まで描き写すほど、喜多川という男は不粋でなかった。
 やがて下塗りまでを済ませて息をつくと、そこで初めて部屋に己以外の気配があることに気がついてふり返る。
「……来てたのか」
 換気のためにわずかに開けた窓のすぐ下に、真っ黒なコートにからし色のマフラーを巻いたがあぐらをかいて座していた。その手には年末特大号と題された工学系の月刊誌が開かれている。
「うん。遅くにごめん。邪魔した?」
「いや、大丈夫だ。ちょうど切りのいいところだったから。そうでなくても声をかけてくれてもよかったんだぞ?」
 手早く筆や鉄皿を片しながらそう語りかけると、は困ったように笑いながら雑誌を閉じた。
「いいんだ。キミが描いてるの見るの、す、……好きだし……」
 照れたように言って俯く少女の姿に喜多川は思わずとこみ上げた笑い声をこらえ切れずに漏らしてしまう。
「ふっ、くく……そうか……ふふふ……」
「笑うなぁ!」
「すまんな。それで? 今日はどうした。メッセンジャーか? それとも俺に会いに来てくれた?」
 この問いに噛みつかんと詰め寄っていたはピタリと動きを止め、渋い顔をして突き出しかけた両腕を中空にさまよわせはじめる。
 奇妙なパントマイムに喜多川がいらぬ興味を抱きかけたが、それは発揮する前に吐き出された答えに中断させられた。
「……どっちでもない。いや、両方かな……」
「うん?」
「あのさ」
「うん」
 難しい顔をしてさまよわせていた両手を合わせ、指先をしきりにすり合わせながら、はなんの脈絡もなく彼に告げた。
「……好き」
 つい先日、やっと聞かされた最も明解な好意表現に、思わずと少年の顔がほころぶ。
 たとえ恋仲でなくたって、好きと言われて嬉しくない場合のほうが珍しいことだろう。
 胸の内で己にそう言い訳しながら、喜多川は深く頷いてやった。
「ああ。俺もだ」
「う、うん、ありがと」
 恥ずかしそうに応えて、はすり合わせていた両手を彼の服の袖に伸ばした。
「……すっごい好きなんだ。ほんとに、大好き……」
 そしてまたさらに言い重ねる。これには喜びより驚きが勝ったのか、喜多川はらしくなく動揺も露わに声を上ずらせた。
「ど、どうした、熱でもあるのか……!?」
「茶化すなよ! 真剣なんだよこっちは!」
「おお……そうか。うん、そうか……なんだ、その、照れるな……」
 求めていたことではあるが、こうも唐突に、暴投気味に投げつけられてしまうと戸惑うものだ。それは人と少しリズムやペースが違うとよく評される彼にしても当てはまるようだった。
 それに応えねばと思う心もまた、規格外なんかではなく、ごく普通の、年相応の少年らしさから発揮された。
「その……俺もだ。俺も君が好きだよ。愛おしく思う」
 ただ少しキザっぽいなとは、言ってから彼自身も自覚する。
 言い方の問題だろうか?
 思えど彼には他に己の気持ちを表す言葉は見つからなかった。
 投げ返されたも、掴んだままの裾をより強く、しわが寄るほど握りしめながら決して放そうとしないでいるから、この返答は最適解だったのだろう。
 とはいえ、ひねくれているのが彼女の短所であり、あるいはかわいげでもある。
 は無理やり眉を釣り上げ、怒っているような声で、まったくそぐわない言葉を半ば叫ぶようにして言った。
「ああもう! ギュってして! キスしてくれるまで帰らないぞ!」
 なんだそりゃ。喜多川は呆れて目を細めた。
 もちろん彼女の要求に応えるのは簡単だったし、それは彼の望みでもあった。
 ただそれ以上に求めるものがあることに気がついて、彼は嘆息とともに掴まれた腕をやんわりと振り払った。
「ならしない」
「なんでぇ!?」
「しなければずっとここにいるんだろ?」
「それじゃダメなんだよッ!」
 今度こそ怒りから喚いて地団駄を踏む姿は愉快ではあったが、しかしどうやら彼女が某かの目的を持ってここへ訪れたのだということを教えてもいる。
 必死になって己を求めるような理由があるのだろう。
 理解して、喜多川は促した。
「どうしたんだ?」
 再びはピタリと動きを止め、今度は真剣そうな顔になる。
 両腕をだらりと垂らし、声を潜めてその意図をやっと語り始めた。
「ずっと考えてたんだ。私もちゃんと罪を償わなきゃって」
「罪……?」
「泥棒」
「ああー……」
 なるほど確かに、かつて彼女は総計数百万に及ぶ損害を負わせる窃盗を働いた。現実には絵の持ち主は全員保険に加入していたから金銭的な損失はないだろうが、それと気持ちの納得は別問題だろう。
 しかし喜多川は首を横に振って彼女の決意めいたものを否定にかかる。
「だがあれは理由があってのことだろう」
 何故なら彼女のかつての仇敵はそれを隠れ蓑に複数の人の命を奪っていた。規模としては獅童が数段上だろうが、命に掛け値がないのと同じように、その罪の重さも大差はないだろう。
 であれば斟酌はあって然るべきだと喜多川などは思う。己のかつての師が、年齢や反省の深さから相応の扱いをされているように―――
 そのような意図の込められた眼差しに、しかしもまたゆるく首を振った。
「盗みは盗みだ。命令されたとはいえ、私は人殺しの手伝いもしたし、何度も人を殴ったりもした」
「む……だが、それを言われると俺が檻の外にいることも問題になるんじゃないか?」
「本題から逸れてる気もするけど、じゃあってキミやみんなが後追いで出頭してリーダーが出所なんてなったら、ミイラごっこになるだろ」
 喜多川はしばし沈黙した。ミイラごっこってなんだ―――
 熟考の末、どうやら『ミイラ取りがミイラになる』と『イタチごっこ』が混じっていると察して、なるほどと頷いてみせる。
 したり顔の恋人に、彼はまたさらにその意味するところを推察した。ミイラ取りがミイラになって、イタチごっこをする……
 囚人を救うために囚人となれば、解放された
囚人がまた囚人になってまた囚人に囚人が。
 おおむね正しく理解して、喜多川は大きく肯してみせた。
「ふむ……なるほど。確かにやつなら、俺たちが捕らえられたと知ればまた同じことをするだろうな」
 しかも場合によってはいささか強引な手段を用いてでも―――
 想像と部屋を満たす寒気に震え上がって、喜多川は正否を確かめるようにへ視線を送った。
 頷いて彼女は応える。
「そういうこと。無限ループを避けるために、私ってわけだ。私なら、明確に自分の罪を立証できるから、下手なこともできないから」
「だから、やつのためにお前こそが自首する、と?」
「別にあいつのためじゃない。言ったろ、ずっと考えてたって。ホゴシャとも話し合ってたんだよ」
 大丈夫、とは自信深げに言ってのける。そこには確かな勝算が垣間見えた。
「長くはかからない。スピード解決はおじさまの得意技だ」
 ふふんと顎を上げた彼女の言うことには、自分のような若く身寄りのない少女がしおらしくして目に涙を浮かべ、反省を示しつつ己の苦境を語れば、民衆は勝手に同情を示してくれるだろう―――とのこと。
 もちろん瑕疵は付くだろうが、それこそを美談に塗り替えるための下準備も済ませていると語る彼女に、喜多川は呆れと感心をない混ぜにしつつ苦笑する。
「信じるぞ」
「もちろん!」
 返されたのは満面にして挑戦的な、この少年が最も好む彼女の表情だ。
 喜多川は応えるように彼女を優しく抱き寄せた。
「あ……」
「その覚悟に免じて、帰してやる」
「うん。……あのさ、でもさ……」
「どうした?」
「でもやっぱり、しばらくは会えなくなるから」
 心細げな声に、喜多川はやっと彼女の目的を理解する。
 彼ははじめに正答を言い当てていたということだ。つまりの目的は事付と面会―――
「会えない間、う、浮気とかしたら、泣くから。すごい大声で。捨てられたってここの門の前で名指しで喚いてやる」
 そして釘を刺しに来ている。
「最上級の脅しだな……」
「するなよ」
「そんな予定はないし、当分お前に夢中だ」
「当分って」
「百年くらいかな」
「キミの時間感覚どうなってるんだよ」
 微笑んで、少女は彼の唇を奪った。他の者に譲る気はないと言わんばかりに情熱的に。
「……待ってるからな」
「うん。いってきます」