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31:The Great Work
というのが一週間前の話で、そして今、喜多川の前にはぶすくれた顔をしたがいる。
彼女はいつものごとく夜更けに前触れなく押しかけた。もちろん扉からではなく、窓から。
「……自首したのでは?」
当然そのように問いかけた彼に、は顔を真っ赤にして喚き立てる。
「しようとしたんだよ! したよ!」
床を踏み、腕を振り回しながら彼女は一週間前この部屋を飛び出してからのことを語った。
その脚で寮のそばで待ってくれていた保護者とともに最寄りの警察署へ向かい、自首をしたいと申し出た。過去何件かの絵画の窃盗と他いくつかの罪を申告し、刑事処分を受けたいと。
しかし―――
その場での聴取の後、二日後に犯行再現が行われ、さらなる調査をとまた二日待たされた末、招集に応じて警察署へやってきた彼女はとんでもないことを聞かされたのだ。
「証拠が無いって……盗んだ絵も、犯行に使ったガジェットも、≪グリム≫のメッセージカードを作ったパソコンもプリンタも、全部ぜんぶあの火事で燃えちゃって、残ってたスーツは全部キミに手を加えてもらってからのタイプだからそれ以前と機構が別物で、あいつの証拠として押収されたやつと噛み合わなくて……とにかく≪グリム≫と私を繋げるものが徹底的に消されてて、それ以上なにも言えなくて……」
早口でいっぺんに言ってから、一度大きく息をつく。そこには憂鬱がたっぷりと籠められていた。
「なんか……変なクスリやってるのかって検査されて……カウンセリングも受けさせられて、可哀そうな目で見られるし……うう、うぐぐ……」
悲しみからではなく、屈辱によって目に涙まで浮かべ始める。
「ああ、泣くな泣くな、よしよし」
「子供あつかいすんなぁ!」
わしわしと乱雑に頭を撫でた手を振り払い、はもともと赤かった顔をもっと―――怒りによって―――赤くして、「どうしてこうなるんだ」と悔しそうに歯を噛んだ。
すでに寝支度を整えていた喜多川は、そんな彼女を放おっていそいそと布団に脚を滑り込ませる。恨みがましげな視線が突き刺さったがかけらも気にせず横たわって彼は言った。
「良かったじゃないか」
「なにがだよぉ……」
盛大なため息とともに、はそのすぐ横にぺたんと腰をつけてしまう。
喜多川は横臥したまま彼女に微笑みかけた。
「お前の話を総合すると、どういうわけか≪グリム≫の犯行を示す証拠のほとんどは失われているわけだろ? それなら、あいつは一部不当な罪を問われているということになる。前歴と同じようにな」
「あ? ああ……ああ? そういうことに、なる、な?」
多すぎる疑問符を差し挟みながらもなんとか頷いてみせた彼女に同じく返して、喜多川はまた、どこか楽しげに声を弾ませて続ける。
「つまりこうも言い表せないか? やつは罪を『自白した』のではなく、『自白させられた』―――」
は目を見開いて頬杖をつく少年を見下ろした。彼はやはり、ひどく楽しげな顔をしている。まるで一端の悪党のような、一種凄みのようなものを覗かせる笑みだった。
「ちょうど、一つ気になっている案件があってな」
「へっ?」
「舞地吉春は知っているだろ?」
唐突に飛び出した名にはますます目をむくが、しかし問いにはすぐに答えた。
「おじいちゃんと同じころに活躍した画家だろ? ロマン主義に独自の技法を持ち込んだ人で、作品は風景画が中心だったと思うけど……」
「うむ、よくできました」
いちいち言い方が引っかかるとが眉をひそめるのも気にせず、彼は枕元に置かれたスマートフォンを取り上げ、手早く操作して彼女の手に押し付けた。
「な、なんだよ。怪チャン? 閉鎖してなかったのか……」
「ほぼ雑談場所になっているようだがな」
雑多な話題の中には本当に他愛のないものから、テレビやニュースの実況に、もちろん掲示板の趣旨に沿った議論も行われている。
中には日常の中の些細な悩みや相談事がいまだ持ち込まれているが、これは同じ掲示板の利用者が解決に導いているようだった。例えば具体的な役所の手続き案内や、弁護士への相談方法に費用の目安、もっと簡単に、効率的な勉強方法や進路の決め方、恋愛相談……もともとの使い方とは違っているが、しかし相変わらず悩みを抱える人々の一つの拠り所にはなっているらしい。
とはいえ、所詮ただの井戸端会議場だ。本物の悪党への対処は、誰もが心得ているわけではない。
「ここを」
見ろ、と指し示されたのはレス数も少ない一つの書き込みだった。
『絵を取り返したい』と題された文章は以下のように続いている。
『母が大切にしていた絵を騙し取られてしまいました。老人介護のデイサービスを利用していたのですが、そこの看護師が言葉巧みに母を騙し、絵を奪ったのです。この事のせいなのか前より体を悪くし、起き上がることも難しくなった母が亡くなる前に絵を取り返したい。怪盗団が本当にいるのなら、どうかお願いします』
この書き込みにはいくつかの疑問の声が付けられている。
―――警察に訴えたのか?
『もちろん相談しました。しかし譲渡の手続きに問題はなく、立件等は難しいだろうと言われてしまいました。弁護士さんにも相談しましたが、同じように返されてしまいました。』
―――施設には?
『伝えましたが個人間のやり取りにまで関与しないの一点張りです。』
―――ヤバすぎるでしょ。その看護師は今も働いてんの?
『どうやら母の病状が悪化するのと同時に退職してしまったようです。どこへ行ったのかは個人情報とのことで、一切教えてもらえませんでした。』
またこの人物は痛切に訴える。
『施設側に責任を求めようとしたところ、迷惑行為で逆に訴えてやると言われてしまいました。もう泣き寝入りするしかないんでしょうか?』
は思い切りしかめた顔を上げると、いかにも不快そうな唸り声を上げた。
「これが?」
「奪われたのは舞地吉春の『秋桜』だ」
言って彼は枕元に置いていた美術年鑑を取り上げ、しおりの挟んであったページを開いてみせる。
現れたのは色鮮やかなコスモスと、その花の影で憩う小さな野ねずみだ。どこかコミカルに、淡い色彩で描かれたそれは見る者に思わず口元が緩むような微笑ましさを与えている。
「あ〜、コレ。好き。なんか和むんだよな。ほら、ここ、これここの……」
「同感だ。実に微笑ましい。同じころに描かれた『川辺の蛙』など小一時間は笑っていられ……いや、後にしよう。資産価値としてはもちろんだが、この人独自の技法は今もって日本の美術界に舞地一派を形成する偉人の作品だ。それが真に愛でる人の手から奪われたとなれば、冒涜以外のなんだというのか」
「否定はしないけど、でもこれがなんなんだ? 鑑定書か譲渡契約書に細工でもされたかな……」
「ああ、それは鑑定書のほうだ。孫に財産を残してやりたいと被害者が漏らしたところ、資産価値を調べるという名目でコピーを渡したら、それが偽物だったと」
「それでどうして騙し取られるまでいくんだ」
ますます眉を寄せての問いに、喜多川はまだ寝そべったまま答える。
「鑑定書が偽物でも絵は本物かもしれない、と言われて縋る気持ちで預け出したらしい。おそらくこの時に譲渡契約を知らぬ内に取り付けられたんだろう」
「ウカツすぎる」
「まるで誰かさんのようだな」
「ん? 誰?」
「……とにかく、だ」
咳ばらいを一つ。喜多川は今度こそ仰向けに寝そべって薄い枕に頭を置き、迂闊なところのある相棒を見上げて述べる。
「いかにも俺たち向けの『シゴト』だと思わないか?」
返されたのは怪訝そうな色の瞳だ。
はまた困惑を隠しもせずに切り返した。
「でももう≪改心≫はできないだろ? あの妙なナビは消えちゃったし、メメントスだって消えたはずだ」
「まあな。『怪盗団』には不可能だろうさ」
「だろ? やるにしたって今は―――」
重ねて述べる言葉を、喜多川のいかにも楽しげな笑声が遮った。低く喉を鳴らし、この上なく愉快そうに彼は言う。
「だから、『俺たち』向けだと言ったんじゃないか」
「……どういう意味だよ。はっきり言ってくれないとわかんないよ」
「なんだ、また忘れたのか。、お前は俺たちと出会う前から≪怪盗≫だっただろう?」
「あ」
間の抜けた声を上げて、はぽんと手を打った。
彼女はやっと、この長い話の着地点を理解したのだ。
つまり―――
「本物の≪グリム≫がまた犯行を行えば、彼は無実の罪を着せられたことになる」
「その通りだ。そして俺なら、鑑定書から譲渡契約書、また『秋桜』の真贋も見定められる。先達の傑作をあるべきところへ収めてやれる」
おお、と感嘆の声をもらしては瞳をきらめかせた。
が、しかし、それもすぐに萎れてしまう。
「でも、大丈夫なのか?」
「なにがだ」
「全会一致」
「ああ……」
頷いて、少年は布団から腕を伸ばして少女の肉付きのよい脚を軽く叩いた。その意図するところを汲んで、は膝をにじって彼の枕元へ移動する。
薄い枕を捨てて新たな枕を得た彼は、心地よさげに目を細めながら、しかし忌々しげに述べる。
「俺がお前の術中にすっかりはまっていたころ、連中はお前の身上を調べ上げていた」
「えっ」
「それも俺がいない間にな。こちらを心配してのことらしいが……」
許し難い。
言い切って、彼はさらに言い重ねる。
「ならば俺もまた、友人の身を慮ってやってやろうじゃないか。都合よくターゲットも現れてくれたことだしな」
「お、おお……すごい悪役みたいなこと言い出したな……」
「ふッ、褒めるなよ」
「褒めてない」
「あれ……?」
キョトンとした彼の長い前髪を撫でながら、はふむと唸った。
「まあでも、そうだな。悪くない。そもそもの話、あいつは本当にありもしない罪によって捕えられたんだろ?」
「そのやつを解き放つのが存在しない罪というのは、実に愉快な話じゃないか」
低く喉を鳴らして少女の腿に顔を埋めようとする少年の髪を引っ張りながら、もまた楽しげな笑い声をもらした。
「うん―――いいよ。やってやる。うまくやれば、これは強い後押しになる。それに、大切な絵を騙して奪うなんて悪党、そのへんにのさばらせておく道理はない。その話、乗ったぞ」
「そう言ってくれる思ってたよ。ふふふッ、この俺が虚実を生み出す手助けをする日がくるとはな」
「こういうまがい物なら悪くないだろ?」
「馬鹿を言え、これは間違いなく本物だ」
二人の『確信犯』はにんまり笑って、ざっくりとした犯罪計画を打ち立てた。
その二人の前に立ちはだかるのは当然、いち早く二人の不審な行動を察知した女王陛下である。
彼女は怒り心頭といった様子で二人を叱りつけた。
「計画が杜撰すぎる! これじゃあ被害者が逆に訴えられかねないし、最悪の足取りから私たちまで芋づる式に検挙されちゃうじゃない! やるならもっと完璧に計画してからにしなさい!」
どうにも不足しがちなブレインは口うるさい母親のような風情で二人の間に割って入ると、夏休みの計画に逐一ケチをつけるようにダメ出しを行った。
またここにもう一人のブレインが徒でもってやってくる。
「ほい、ターゲットの氏名と現住所。あでも絵はここじゃなくて中間業者の預かりな。見取り図と警備の配置、監視カメラの位置とセキュリティのパスはこっちの封筒ん中」
もう一人の女主人はタクシーを安アパートに乗り付けて現れる。
「色々準備するのに場所が必要じゃないかなって。財産整理をしたら空っぽになっちゃった倉庫があるの。表向きは私が将来出店するお店用のアンティーク家具をしまうってことにしてあるから、好きに使ってくれていいよ?」
その新たなアジトに、物見遊山気分で遊びに来る者もいる。
「えなに? 人手? え? 俺ぇ? 祐介じゃ駄目なん……ああ、警備員かぁ、そりゃ祐介じゃダメだわな。目立ちすぎるわ。いーよ、やるよ。ついでにこれ仕込んでくりゃいいんだろ? オッケーオッケー、やっとくわ。……バイト代は普通に俺が受け取っていいんだよな?」
くつろぎを求めてやってくる者まで現れる。
「はー……疲れたぁ……ねー、なんか飲み物ない? いや水道水じゃなくて。てかここさ、テレビとか置こうよ。デッカイやつ。4kのさ。え? 電気あんま使っちゃダメなの? なんで? 使用電力でヤバいことしてんのバレちゃうの? そんなぁ……」
結局、事はすべて明らかにされてしまう。
とはいえそのおかげで万事すべて滞りなく済まされて、ターゲットは詐欺罪で刑事処分を受けることとなり、絵は本来の持ち主の末期に立ち会うことができた。
伝え聞いたところによると、依頼人の曽祖父と舞地吉春はかつて同じ師のもとで学び、競い合った間柄だったのだという。
しかし依頼人の曽祖父は已む無い事情から志半ばで筆を置き、田舎に帰り事業を継ぐこととなった。その折、舞地吉春は『秋桜』を描き、餞別として譲り渡した。
『秋桜』はよく見ると、画面端で寝そべる野ねずみの他に、ちょろりと覗くもう一本の尾があって、ねずみが二匹いるのだとは、知る者には有名な話であった。
そして今度こそ、≪怪盗グリム≫はお縄となる。ものの見事な白浪物、鼠小紋東君新形だ。
とはいえ別に、意地悪な役人などは出てこない。
かねてから計画していた通り、しおらしく涙ながらに己の境遇を訴えた齢十六、七の少女の姿に却って同情的になる始末だ。
そして彼女の保護者にして老齢ながらにやり手の弁護士、早瀬某の手腕によって不起訴処分を勝ち取ったはさっさと娑婆に舞い戻る。
喜多川は予想以上に早く戻った彼女に首を傾げて問いかけた。
「自首したんだよな?」
は怒りによって顔を真っ赤にして言い返した。
「他に言うことあるだろ! 嬉しくないのかよ!」
奇しくもそれは、この一幕を演じる羽目になった元凶の無罪が確定となった日であった。
かくして世界一の悪党もまた舞い戻り、ついでに猫も、ルブランに帰り着いた。
二月十三日のことだ。
その翌日、バレンタインデーのルブランには、一人の客もいなければマスターの佐倉惣治郎も居候に店を任せていそいそと出かけていってしまったから、店には彼と猫と、もう一人のみ。坂本竜司が行き場がないと訴えてここへ逃げ込んでいた。
前日の出所祝、無罪祝、モルガナおかえりに怪盗団の再集合のお祝いに、諸々含めたパーティーとは打って変わって、店内は陰鬱な空気に満ちている。
なにしろここには男が二人。ついでに猫が一匹。呼び出されることも呼び出すこともなく、ただただ時間を浪費しながら、虚しく囁き合うばかり。
この世は≪地獄≫。少年たちは己を見返すことなくいたずらに世を恨みぬいた。猫はそれらを聞き流して、せっせと毛づくろいに励んでいる。
ここへ一人の女神が現れる。
緩く編んだ髪を左右均等に垂らし、赤いタイのセーラー服の上に黒のコートを羽織り、大きな鞄を抱えてドアベルの音とともに入店する。
「うわっ、空気が淀んでる」
開口一番そう言ったに、二人の少年はうつろな目を向けておざなりな挨拶を放り投げた。
「なんだくんか……」
「うーっす……」
唯一歓迎の色を示したのはモルガナだけだ。彼は尾をひとふり、退屈がやっと紛れると彼女の足元へすり寄った。
「モルガナくんは優しいね。それに比べて、ご挨拶だな、バレンタインだってのに……」
もっと他に言うことがあるんじゃないの?
モルガナを抱き上げ、拗ねたように訴える彼女に、店番は鼻を鳴らして言い返した。
「嫌味ならいらない。惚気なら帰れ」
「あそう。じゃあこれいらないんだな」
さらに切り返した彼女の手には、可愛らしくラッピングされた長方形の箱が二つ―――モルガナの短い手にはすでにリボンの巻かれた寿司屋の折箱が抱えられている。銀座の高級店ではなさそうだが、それでもモルガナは嬉しそうに尾をぶんぶんと振り回していた。
少年たちは目をむいて驚きに硬直した。
しかしやがて、ぎこちなく動き出すと、冗談とも本気ともつかないたわごとを繰り始める。
「ちょっと待ってて、一回銭湯行ってカラダきれいにしてくるから」
「マジかよ、俺、こんなの……祐介になんて謝ればいいんだよ……ッ」
「やっぱり帰る。じゃあなバカ二人」
少年たちは慌てて背を向ける彼女の足元に縋り付いた。
「待て! チョコは欲しい! 頼む! お願いします!」
「さん! ゴショウだから帰らないで!」
鬱陶しそうに二人を蹴り飛ばしながら、は優しくモルガナをカウンターチェアの上に座らせてやり、チョコレートをカウンターに放り出した。
「受け取れバカども」
「あざーっす! ホワイトデー期待しといてくれていーぜ!」
「いいよそういうの。大したもんじゃないし。そもそも日ごろのお礼。むしろこっちがありがとうだよ。竜司くん、色々本当に、ありがとう」
「うお……マジトーンで言われっと照れるわ。へへ、こっからもよろしくな、!」
笑い合う二人の間には、性別を超えた友情が横たわっている。危地にあれば必ずや互いの助けとなるような、そんな熱い想い―――
傍ら包みを開けてもらったモルガナは、すでにカウンターに手を付けて、寿司折の中に頭を突っ込んでいる。
「はあ〜ん! マグロ! 大トロ! アジ! ヒラメ! ハマチ! ニャーッ!」
さて、店番の少年は、カウンターの上に置かれたチョコレートをじっと睨んでいたかと思うと、おもむろに坂本を脇へ除け、に向かって真剣に言い放った。
「一生のお願いだ」
「え?」
「手渡ししてくれ」
「は?」
少年は汚れるのも構わずその場に膝をついて両手を合わせ、を拝み上げた。
「頼む! 一度でいいから女子からチョコを手渡しされたいんだ! お願いします!!」
「ええ……」
「情けねえことすんにゃよ……はぐはぐ、うまうま、うみゃみゃみゃ……」
「俺ちょっとわかるわ……手渡しって地味に憧れるシチュなんだよな……」
「そ、そういうものなのか。ふうん」
思案顔で天井のしみを見つめ、口内で何かをつぶやいて、はやっと首を縦に振った。それは少年にとっての福音であった。
この際個人のパーソナルデータより、性別が優先されるべきだ。ポリティカルコレクトなんてクソ喰らえだ―――
と思ったかどうかはさておき、少年は立ち上がってに相対する。
「私も練習したいと思ってたし」
「練習? えなに、まさか本命まだ渡してねーの?」
すでにソファに戻った坂本が、こちらもまたすでに包みに手をかけ、スマートフォンを掲げて中身とラッピングを撮影しながら首を傾げている。
それに、は重々しく頷いた。
「ほんとは、朝一番に渡しに行くつもりだったんだけど……寮の前まで行ったら、祐介くんが女子と話してて、それで、チョコを渡されて、受け取ってて……」
言いながらその光景を思い返したのか、は暗雲に覆われてモルガナの背に顔を突っ伏してしまう。
「あー……あいつ顔はいーからな」
「くたばればいいのに」
「オマエってやつは。見苦しいぞ。にゃぐにゃぐ……」
モルガナは相変わらず、寿司に耽溺している。背にかかる重みなど今の彼には無いも同然だった。
フカフカの毛皮に鼻先を擦り付けながら、はさらに物憂げにわけを語る。
「なに話してるかまでは聞き取れなかったし、怖くて近寄れなくて、それでこっちに来ちゃったんだけどさ……」
「根性なし」
「でも気持ちはわかるわ」
「だよな!? もうなんか、頭が真っ白になって、チャット来てるけどそれも怖くて確認できなくて……!」
勢いよく顔を上げた彼女の額と鼻には、モルガナの黒い毛が貼り付き、目尻には涙までもが浮かびつつあった。
これにはさすがの頭目も同情めいた想いを抱こうというもの。
彼は真剣な眼差しを彼女に投げかけ、重々しく告げた。
「奪われたのなら奪い返せばいい。まだ終わったわけじゃないんだ、やつの心をわしづかみにして引っこ抜くような熱いやつをかましてやれ」
「で、でも……」
「諦めるのか?」
言葉に、は背筋を伸ばした。
「やだ。諦めたくない……!」
「まあ十中八九食い物だから受け取っただけだと思うけど。チョコに罪はないとか言って」
「台無しだよ」
撮影を終えた坂本がやっと既製品のチョコレートに手をつけ始めながらツッコミを入れるが、いつものごとくそれは聞き流された。
「さあ来いッ! 俺を練習台にしてやつの心を奪い返せ!」
「お、おう! やってやる!」
ああ騙されてる。とは言わず、坂本はそれなりにお高いチョコレートを頬張った。半分は残して、おふくろに自慢がてら分けてやろうなどと考えながら。
さて、勢い込んだがチョコレートを両手に握りしめた次の瞬間に起きたことは狭い店内で起きたとは思えぬほど多かった。
まず、モルガナがやっと寿司に満足して、残りは夜に食べようと顔を上げる。
同時にこのタイミングで新たな客がやってきて、ドアベルを鳴らした。
これに気が付くことなく、が腕を真っ直ぐに前へ伸ばす。
伸ばされた少年は、来客の姿を目撃して「やべっ」と小さくつぶやいたが、続くの大声にかき消される。
ほとんど同時に客は言った。
「! 探したんだぞ、返信してくれないからなにかあったのかと―――」
「やっぱりキミのことが好き! 諦められない! 他の誰にも渡したくないッ!」
「タイミング最悪かよ」
最後に坂本がうめいて、モルガナが器用に肉球で折箱の蓋を閉めた。
この間約五秒。瞬き三回の間の出来事だった。
来客―――昼を過ぎても来訪のないことを不思議に思い、メッセージを送れど返信どころか既読も付かない恋人を探しにあちこちさまよった末ここにたどり着いた喜多川は、その場に膝から崩れ落ちて茫然とする。
「え……え? えっ? なん……えっ? あ夢かこれ。ふふ、こんな日に悪夢を見るとはな。ふふふッ、はは、くっ、くくくっ」
「ヤバいユースケが壊れる! 目がやべぇよ!」
「リーダー、カレー一人前! 大至急!」
「八百円」
「これほぼほぼオマエのせいだからな? 財布から抜いとくぜ」
そんな、と口答えしつつも、彼の手はすばやく硬直するの手からチョコレートを掠め取り、カレー皿には白米とカレールー、福神漬が盛り付けられる。
それは精神崩壊直前の少年の口に直ちに注ぎ込まれた。
「ほら祐介、あ〜ん♡」
「地獄かよ」
「最初からな」
「もぐもぐ」
そしてやっとも我に返る。
「わあーっ! うわあー!」
悲鳴とともに。
……誤解が解かれての鞄の奥底に眠っていた義理とはランクの違う高級チョコレートが手渡されたのは、それから二時間も後のことだった。
……
そんなこともあったなと笑い話にできるようになったのは、季節が巡った五月、ゴールデンウイークも過ぎたころになってからだった。
様々なことの元凶である少年が猫とともに田舎に帰り、時おり戻ってはトラブルを巻き起こす。そんなことがもう三度も起きたころだ。
ゴールデンウィークは結局その対処に追われ、怪盗団はここ―――奥村が使用許可を出した表向きは空のはずの倉庫をアジトとして、ほとんど篭りきりだった。
実際奥村が買い付けた家具や調度品等も置かれてはいるが、それは倉庫のほんの一部だ。
広々とした鉄骨造、敷地は二百坪、そのうち使用面積はおよそ百五十坪。トイレと水道付きの二階建て。田舎でも真っ当に借りようと思えば年間五十万は下らないだろう。
奥村は特別賃料を求めたりはしなかったが、仲間たちは細々、奥村の雑事……荷物持ちだとか付き添いだとか、彼女の日常に貢献することで罪悪感を誤魔化していた。
頓には許しを得ているとはいえ、安アパートには運び込めない物品の数々……小型の発電機やサーバー、大型のデスクトップパソコン、半ば分解されかけたドラム式洗濯機と無数のスーツケース、折りたたみ式やウォール形のクレーンや巻き上げ用ウィンチに高性能研削加工機器に旋盤装置、油圧式の板金加工用工具、他諸々……を置かせてもらい、またあれこれと弄り回すのに場所を提供してもらっている。
何故なら彼女は焼け落ちた家を再築せず土地ごと売り払い、また保護者の庇護のもとにも入らず、相変わらず安アパートから学校に通っていた。
今は工科系大学への進学を目指して女王陛下に教えを乞う傍ら、アシストスーツの改良とバージョンアップを行いながら、より医療の現場向けのまったく新しいモデルの開発に勤しんでいる。
その暮らし向きがやや貧しいのは、不起訴とはいえ犯罪行為が明るみに出たために保険金の支払いを停止されてしまったからだ。とはいえ、開発中のアシストスーツが実用レベルで完成すれば、その特許で一山当てられるはずと彼女は目論んでいる。
それが井の中の蛙なのか、本物の金鉱石かはまだ誰にもわからない。
ただ、喜多川は時々ここを訪れては彼女と時間をともにすることがある。
暇を持て余した仲間たちが遊びに来ることもあるが、この日に限っては彼一人で、再来月が納入期限の公募展への提出作のテーマをなににしようかと筆をさまよわせていた。
倉庫の中はたいてい常に、発電機が唸りを上げている。
静音式とはいえここに他の加工装置が加われば、当然内部はやかましい。冬はコンクリ床と鋼板によってひどく冷えたし、夏は風通しの悪さからサウナほどではなくとも熱くなるだろう。
それでも秘密基地めいた様相になりつつあるこの中にいるとなにかしらの秘密組織の一員という気がしてきて、喜多川はわくわくしてしまう。実際彼は怪盗団という秘密組織の一員ではある。
そのうち、なにかいかにも特撮ヒーロー的な変形合体する巨大ロボットや特殊車両なんかを作ってくれないものか―――
夢想する彼の耳に、ふとはしゃいだの声が届いた。
「なあ、おいってば! 見て見て!」
「……どうした?」
顔を上げると、先まで洗濯機相手に格闘していたがいつの間にか倉庫の出入り口付近にまで移動し、開け放った扉から外を見て喜多川を手招いている。
首を傾げつつ腰を上げた彼にもどかしげに駆け寄り、腕をグイグイと引きもする。
引かれるがまま外へ出ると、ちょうど頭上をモビングするツバメが横切った。
「ほらあそこ、ツバメが巣を作ってる!」
「だからこんなに威嚇されているのか……」
なるほど確かに、見上げた屋根の雨樋の継ぎ手に立派な鳥の巣が作られている。昨日一昨日は無かったはずだが、いつの間にやらというやつだ。
穏やかな日差しの中とはいえ、上を見上げると少しばかり眩しく感じて目を細める。
狭まった視界の中確認できる限りでは、巣はしっかりと継ぎ手に貼り付いている。巣が風や雨によって落下する心配はなさそうだと安堵の息をつくのも束の間、単調な鳴き声を上げて頭上を飛び回る親鳥の姿に憐れみがこみ上げたのか、今度は喜多川のほうがの腕を引いて屋内に引き上げさせた。
「そのうち騒がしくなりそうだな。出入りの際静かにするよう皆に伝えておかなければ」
「だね。卵いくつあるかなー」
「食うなよ?」
「食べるか!」
「冗談だよ」
「ふんっ!」
ぷいと顔を逸してしまった彼女を追って、喜多川は大股で奥へ進んだ。
そこにある分解されたドラム式の洗濯機は、内部のモーターを利用して発電機に改造するらしい。はここしばらく、ずっとその作業に掛かりきりになっていた。
今もまた、からかい言葉に怒ってしまった様子で、乱暴に外装を引き剥がしている。
「機嫌をなおしてくれ」
「別に怒ってない!」
「怒ってるじゃないか……」
呆れ半分、微笑ましさ半分、喜多川は油で汚れた白のタンクトップに目を移した。別段汗で下着が透けているとか、そういうことは残念ながらないし、不埒な思惑―――別になにも考えてないと少年のほうは強く主張する―――を感じ取ったのか、彼女はすぐにそばの椅子に引っ掛けてあったジャケットを羽織ってしまう。
それを残念に思いつつ、喜多川はその椅子に深く腰を下ろして長期戦の構えをとった。
粘り強さという点では、きっと誰にもこの少年には敵わないだろう。
もそれは理解しているからか、すぐに降参の意を示して項垂れる。
「もう……なんだよ、大人しく絵でも描いてろよ」
「そうするよ」
言われて、彼はずっと抱えたままでいたスケッチブックを開いた。
そこには先頭のページから中ほどまですでにぎっしりと隙間なく様々なものが描かれている。
静物や動植物、人工物や自然の風景、道行く名も知らぬ人のスケッチもあれば、彼の仲間たちが談笑する姿もある。
それこそ彼の≪宝≫だった。
そこにまた一つ加えようと鉛筆を構えると、は戸惑いがちに身を縮こませた。
「え、私?」
「ああ。今決めた。次の提出作は君だ」
「えええ」
作業したいのにと訴える彼女に、別に動いていても構わないと告げてやると、いかにも戸惑ったふうな目線が返される。
気にもせず、喜多川は彼女に求めて訴えた。
「さあ、笑ってくれ」
「うへー……私なんか描いて楽しいか?」
「当然、惚れた相手を描くこと以上の楽しみがあるものか。しかも……」
「なんだよ」
「お前は生きて、ここにいる」
なんだそりゃ、当たり前だろ。
は呆れつつもやっと照れたような笑みを浮かべた。
ああ……
感嘆の声を漏らして少年はうっとりとその姿に見入り、手はすぐには動かなかった。
なんということはない。ただ彼は年ごろの少年らしく、みずみずしい感性のまま思っただけだ。
この子はなんて美しいんだろう。顔形や造形だけでなく、ただそこにあるだけで汚れていてもまばゆく感じられる―――
眩しく感じるのはただ彼の瞳孔が開いて光を多く取り込んでいるだけだ。興味や好奇心から呼び覚まされる興奮が肉体に作用しているが故のこと。
仕組みを知ればなんということはない。ただの生理現象だ。
けれどその仕組みこそが目の前の少女をきらめかせている。
この世にあるあらゆるものもまた、この少年には同等に映って見える。
かつてが悟ったように、喜多川もまた承知している。自分たちの出会いや経緯が、ほとんど偶発的な現象によって引き起こされた事象であると。
物質的、霊的問わず、ありとあらゆる偶然が重なってやっとここに座すことができたのだと思うと、彼の胸には満ち足りた感覚があふれ出す。
それは生きていることの証の一つだ。明日か明後日か、一年後か十年先か、いずれ時の流れとともに衰えて失われていくもの……
それで構わないと少年は思う。永遠に続くとなればどこかで手抜きをしてしまうかもしれない。かといっていついつに終わるなどと知るのもよろしくない。どうせ残り少ないからと諦めてしまうかもしれないし、まだ余裕があるからと腑抜けてしまうかもしれない。
いずれにせよ彼の瞳に宿る永遠の炎も、いつかその命とともに消え失せる定めにある。
けれど今は、明日のことなど知らぬと言わんばかりにそれは燃え盛っている。
炎はよく少女を照らし出した。
いつか思った通り、彼女は花だ。甘い芳香を放つが、毒のある花―――
それは今このときだけの輝きを惜しむことなく見せつけ、強く少年を惹きつける。その身に潜む毒を飲ませようとして。
望むところだ。
少年もまた笑みを浮かべて手を動かした。
誰もがかしずくような偉大な仕事を、己もまた成し遂げてみせると心に誓いながら。
力強く動く手は少女の輪郭を迷うことなく拾いはじめる。
外ではどうやら、卵の殻を割ったらしいツバメの雛が、産声を声高く響かせていた。
幾年か後、その名とともに一枚の絵画が世に知れ渡る。
こちらを見つめる女の絵だ。手には一輪の花を携えている。
精緻と言うにはまだ粗く、勢いばかりが勝る筆はしかし、その女の表情と瞳に映り込む影が不思議と人の眼を惹き付けた。
ある人は花を指してなにかの暗喩ではないかと言った。
瞳に映る影は画家だろうと言う者もあった。
表情を指して笑っているのではなく嘆いているのではないかと言う者もある。
見たまま幸せそうに笑っているだけだろうと受け取る者もいる。
画家はどれにもイエスともノーとも言わなかった。ただ絵画以上に感情を窺わせない笑みを湛えて、曖昧に頷くだけだ。
この画家の近隣に住まう人々は口々に言った。
「礼儀正しいんだけどちょっと変な人なんだよね」と。
どこに行けば会えるのかと問われれば、
「あの絵の女の人とよくその辺を散歩しているよ。黒くて大きな、ちょっとだけ白い犬を連れて」と教えられるだろう。
……
「ただしょっちゅう、長く家を空けられるのよ。どこかに旅行にでも行ってらっしゃるのかしら」
……
…………
黒衣の青年は、どこか異国の土地にいた。
その身には衣装と揃えたかのような、漆黒の、艶の無い塗装が施されたパワードスーツが取り付けられている。
周囲は彼を溶かして一体化させるかのような闇と、幾筋かの頼りない月明かりがあるばかりだ。
けれど目を凝らせばそこが白く塗られた土壁に囲まれた建物の中で、採光用の小さな窓のむこうには月光きらめく夜の海が広がっていることが分かるだろう。
青年はまた、その腕に小さな箱を抱えている。
中身はいわゆる一つの『宝』だ。そう呼ばれるに相応しい、大きな宝石のついた銀の指輪―――
はじまりはほんのひと月前のことだ。
そのころ彼はこの土地に商品の買い付けのために訪れていて、息抜きと敵情視察のつもりでふらりと立ち寄ったカフェで『彼女』と出会ったのだった。
物憂げな明るいブラウンの瞳に吸い寄せられた彼は、『彼女』の嘆きのわけをまるで魔法のように巧みに聞き出していた。
『祖母の形見の指輪を騙し取られてしまったの―――』
彼女の祖父はかつて、別の土地で貴族に連なる血筋の一人だった。けれど大戦当時、難を逃れようとこの地へ逃れ、この地の女と燃えるような恋に落ちて地位を捨てた。
その女こそが彼女の祖母であり、祖父は出自を教えるその指輪を愛の証として捧げた。
やがて大戦が終わり、二人は子宝にも恵まれる。祖父のほうは七十を前に逝去したが、祖母のほうはなんと九十七歳の長寿を全うして夫の元へ旅立ったのだという。
その末、最後まで祖母の面倒をよくみた彼女に指輪は託された。
なにかの役に立つかもしれないけれど、私にとってはただあの人の≪愛≫そのもの。受け継いで、語り継いでくれたら、嬉しいわ、と。
彼女はその通りにした。指輪は大切に保管され、本当に必要な時以外は身に着けられることはなかった。
必要なときとは、すなわち祖父が指輪を捧げたのと同じときだ。
そしてついに彼女にもその日が訪れようとした。運命的な出会いを果たした男と愛を誓い、二人は挙式のためにあれこれと話し合った。式場を選び、ドレスを選び、段取りを打ち合わせ……
交換する指輪の一つをこれにして欲しいと相談すると、相手の男はもちろんだと快諾して、先に式場に預けておこうと指輪を彼女から受け取った。
男はそれきり姿を消した。挙式のための資金と指輪を持ったまま。
つまり男は結婚詐欺師だったというわけだ。
お金は諦められても、指輪だけは取り返したい―――
涙ながらにそう語った彼女に、青年は笑ってみせた。
きっとしばらくしたらひょっこり帰ってくるさ、と。
青年はすぐに件の詐欺師を見つけ、組織だった詐欺グループ、一帯を支配するマフィアの末端組織の一員であることを突き止めた。指輪はマフィアのボスに献上され、アジトである洋上の小島に持ち運ばれたことも。
それで青年はこんな場所にまでやってきて、指輪を取り返したはいいもののすっかり騒ぎが大きくなってしまい、立ち往生しているというわけだった。
「おかしいな。誰にも見つかってないはずなのに……」
母国語でつぶやいて、青年は暗がりであぐらをかいた。
そばの通路を複数の重い足音が通過するのを耳にしながら建物の見取り図を思い描く。ここへは食料品等の日用品の搬入に紛れてやって来たが、帰りはさて、どうしたものか。
「おい―――」
唐突にかけられた声に、青年は反射的に懐から黒光りする拳銃を取り出して人影に突き付けていた。
「……撃ってみろよその弾の出ないモデルガンで」
しかし返されたのは懐かしい母国語だ。青年は目を瞬かせて癖のある黒髪をかきあげた。
広がった視界に映るのは彼と同じく癖のある黒髪の、似たようなアシストスーツを身に着けた女だった。
もちろん彼はその女をよく知っている。
「あれ、奇遇だな」
軽い調子で返すと、それがいかにも気に食わないと女は彼の胸ぐらを掴み上げた。
「バカか! どうせピンチになってるだろうって寄越されたんだよ! ていうか、そのスーツ、ちゃんと武器も内蔵されてるって仕様書に書いといただろ!」
声を潜めて怒鳴るという器用な真似をする女に、青年は首を傾げる。
「そうだっけ?」
「読めよ! ああもう、あの子の頼みでなけりゃこんな……!」
当然その人はである。伸縮性に富んだ黒いウェットスーツに身を包み、その上にアシストスーツという出で立ちで、苛立たしげに髪をかき乱している。
「落ち着けよ」
「キミが言うか!?」
「助けに来てくれたんだな、ありがとう」
「みんなに言え!」
吠えては青年にワイヤレスイヤホンと貼り付け型の喉頭マイクを押し付けた。
促されるまま取り付けると、耳にホワイトノイズとともにひと月ぶりのあたたかな声―――
『ジョーカーか!? このあんぽんたんっ! また女に釣られてあぶないことしてんのか! 何回目だこの女たらし!』
ではなく、佐倉双葉の手酷い叱責の言葉に迎え入れられた。
そしてお説教はそれだけで終わらなかった。
『このバカ! ワガハイを餓死させる気か!? ホテルに置き去りにされてから糊口を凌ぐのにどれほど苦労したことか!』
『俺なんか二徹してきてっから! ジョーカーお前おぼえとけよ!? あとでたっぷりこの借り返してもらうかんな!』
『待ってよ私なんか撮影中断させて来てるんだからね!? また雑誌やネットでヘンなこと書かれたら恨んでやる!』
『フッ、甘いなお前たち。俺は個展の最中だぞ。失敗したら、ふふふ、どうやって生活したものかな……ふふふッ』
『あなた達はまだいいほうよ。こっちは昇格試験までもう日が無いのに……ジョーカー、落ちたらどうしてくれるの?』
『みんな落ち着いて。あっ、安心してね? 私は大丈夫だよ。でも、ねえ、今度はどんな女の人なのかな? うふっ』
―――ジョーカーは、渇いた笑い声をもらして、目線を明後日のほうへ放り投げた。
けれどそこには―――ファングがいて、じっとりとした目つきを彼に突き刺している。
「まったく……ほらさっさと逃げろ。脱出ポイントはナビが指示してくれる」
「お前は?」
「水中用ジェットがある。泳いで帰るよ」
「ポイントの確保は?」
「スカルとクイーンが今やってる」
「陽動は?」
「私。別地点でフォックスが仕掛けの設置を。十分後に起動予定だ」
「戻った後は」
「足取りの消去はナビが、デコイの流布はすでにパンサーとノワールが済ませてる」
「了解。安心して日本に帰れるな」
「さっさと行け!」
怒鳴りつけて振り抜かれた脚は青年の腹を捉えるはずだったが、彼はもうそばの窓から表の暗がりに向かって飛び出していくところだった。
舌打ちをして、もまた別の方向に走り出す。
陽動は彼女のいつもの役目ではあるが、今回はいつも以上にやる気が湧かない。
何故なら彼女もまた、商談を中途半端に切り上げてここへやって来ているからだ。
そのようにして屋敷を囲む雑木林を駆け抜けていたジョーカーの前に、巡回警備中だったらしい男が二人立ちはだかる。
彼らは筋骨隆々な肉体に、黒光りする短機関銃をお揃いにして抱えている。
「仲良しかよ」
軽口を叩いて、スーツのアシスト機能を起動、瞬間的に人の限界近い疾走を行い、銃弾が発射されるより先に右手側の男の懐に入り込む。
男たちの足元を振動が襲う。青年が踏み込んだ勢いを殺すために力強く地を踏みしめたのだ。それはどうやら中国武術における震脚というものによく似ている―――
同時に彼は両手の手根部を用いて激しく男の肺腑を下から突き上げた。わずかに足が浮くほどの衝撃は臓腑どころか脳までもを揺さぶり、一瞬でその意識を刈り取り昏倒に至らせる。
服を掴んで無防備に倒れるのを阻止してやりながら、次にともう一人の男に目を向ける。
脱出のためのチェックポイントは彼の背後、闇に沈んだ木立のほんの三十メートルほど向こうにあった。
続けて眠らせてしまおうと縦に拳を構えると、男はすぐさま銃口を彼の膝に向けた。
指はすでに引き金にかかり、一秒以下の後に弾丸が青年の足をひき肉に変えるはずだった。
しかし男は唐突に飛来した拳銃弾に手を撃ち抜かれ、現地の言葉でジョーカーを罵りながらたたらを踏んだだけだった。
ジョーカーはちらりと弾丸が飛んできたはずの方向に目を向ける。
白い壁の建物と建物を繋ぐ渡り廊下を、彼よりいくらか若く見えるが、人種と性別を同じくする人物が駆け抜けていく姿が見えた。
「……なにやってんだあいつ?」
そう思っているのはお互い様だろうと承知しつつ、ジョーカーは驚愕に目を見開いて硬直する男の懐にダッキングの要領で飛び込んだ。
男は慌てた様子で膝を上げたが、青年の戻しを利用したアッパーがその顎を捉えるほうが早かった。
「まあ、いいや」
がくがくと膝を震わせながら崩れ落ちた男を優しく床に寝そべらせてやりながら、ジョーカーは再び走り出した。
その背後で、派手だが小規模で連続した爆発音が響く。
ジョーカーはこの音に聞き覚えがあった。
子どものころ、神社の境内に悪ガキ仲間と集まって、親からくすねたライターを使い、それで遊んでこっぴどく叱られたものだ。ところによっては、新年の祝に大量に用いられるという―――
つまり爆竹の破裂する音によく似ていた。
「どうやら、俺たちの他にも侵入者がいるらしい」
言ったのは、いつの間にか横に並んだフォックスだった。彼の手には古ぼけたこうもり傘によく似た―――というよりはそのものが握られている。
「もう見た。あいつだろ」
「フン、奇縁というやつだな。伝えるか?」
「どうでもいいって言われるのがオチだ。いつもみたいに……」
「それもそうか」
応えて、フォックスは傘を開いた。ちょうどそばの建物の影から、二人の話し声や足音を聞きつけたのか、新手が銃を手に駆け寄ってきたところだった。その手には映画やドラマでよく見かける拳銃が握られている。
二人はわずかにも怯まず、開かれた傘の小間に身を隠しながら全力で突進しはじめる。
いくつかの弾丸が撃ち込まれたが、撥水ではなく撥弾とでも呼ぶべき加工の施された傘は彼らにかすり傷一つ負わせることは叶わなかった。
総計百五十キロ程度のチャージを喰らって仰け反った三人の男は、流れるように撃ち込まれたジョーカーの拳によって顔を確認する暇もなく気絶させられる。
やわらかそうな土の上を選んで横たわらせてやりながら、ジョーカーは畳まれたこうもり傘の布地をつついた。
「世紀末仕様?」
「防げるのは銃弾だけだぞ」
「多い日も安心」
「そうそうこんな日があってたまるか。だいたい、君はいつも……」
お説教の気配に、ジョーカーはフォックスを置いて合流地点に向けて全力で駆けはじめた。
その手にはちゃっかり、フォックスの手から奪い取った傘が握られている。どうやら彼の興味をいらぬほど掴んでしまったらしい。
「おい! 返せ!」
「あとで返す」
追いかけっこの様相を呈しつつ、二人は坂を転がるように降り、崖下の脱出ポイントに駆け込んだ。
茂みの下に隠れるように接岸されたオープンデッキのモーターボートがそこで待ち受けている。
「そう言って前回も勝手に持ち出した挙げ句破片だけ持ち帰ったよな?」
追いついたフォックスの小言に、待ち構えていたスカルとクイーンも道中のやり取りを悟ったのか、早々と呆れ顔をジョーカーに向けている。
彼はそばに倒れていた二人の男を跨ぎながら抗弁を試みた。
「あれは相手が悪いんだよ。まさか自由業の方々があんなおぞましいもの隠してるなんてさ……」
足が波で揺れるボートの床につく。
それでやっとジョーカーの無事を確信したのか、それとも彼の言い分にか、スカルはこれみよがしに盛大なため息を吐き出した。
「前々回は砂漠であいつのバイク勝手に走らせて全損させたよな」
「あれは! あとちょっとで核の冬が来るかもしれなかった!」
両手を振って訴える彼を追って、フォックスもまた乗り込んでくる。スポーツタイプのモーターボートだ、船内はそれで満員となる。
搭乗予定人数が揃ったことを確認して、クイーンもまたため息をもらした。
「ベガスじゃナビとの合作の……ロックハッカーだっけ? あれを悪用して危うく世界規模で指名手配されるところだったわよね」
「あれも仕方がなかったんだ。オーナーの娘が誘拐されて……」
艇体に見合わぬ高馬力エンジンが駆動し始めると、二十フィートにも満たない船体は激しく波を蹴立てて洋上を突き進み始める。
揺れる船上はすぐに疲労と呆れに支配された。
「スパイ映画かお前は」
ここ数年の彼のやらかしとそれに付き合わされた苦い経験を思い返してつぶやいたのはフォックスだった。ハンドルを握るクイーンはふり返ることなく頷いている。
「これがホントのバカボンドってか」
うまいこと言ってやった感を醸し出しながらスカルが言った。
しかし、返されたのは沈黙と冷たい視線―――
やがて激しい水音とエンジン音に紛れて、少年の声が割って入った。
「バガボンドだろ」
全員がギョッとして後ろをふり返る。
そこにいたのは明るい色の髪から海水を滴らせる、彼らよりいくらか若く見える人物だった。
「げっ、おまっ、なんでまたいんだよ」
「君たちが派手に暴れてくれたおかげでこっちの計画が台無しにされてな。脱出手段が奪われたんだよ」
なんと呼ぶべきか、今や名無しとなった少年に睨みつけられて、スカルは気まずそうに視線を逸した。
一方でフォックスはどこか楽しげにしたり顔を浮かべている。
「どうやら馬鹿は三人いたようだな」
彼の目はスカルとジョーカー、そして相乗りを強行した少年に注がれている。
少年は嘲るような笑みとともに切り返した。
「そうだな、僕の目の前に並んでるよ」
「ンだとコラ……!」
思わずとスカルが立ち上がり、腕を伸ばしてその濡れた胸ぐらに掴みかかる―――
「ちょっと暴れないで! 大人しくしてなさいッ!」
いっときハンドルを手放したクイーンの拳は平等かつ均等に、男四人に振る舞われた。
結局、名無しの少年は現れたときと同じく、陸に帰り着く前にいつの間にか姿を消していた。
それもまたいつものことともはや不思議がる者もおらず、夜明け間近の揺れない地面の上に足をつけ、騒動の発端となった青年は実に晴れ晴れとした様子で伸びをしてみせる。
「今回こそ死ぬかと思った」
「反省しろや」
続いて船着き場から伸びる木道を歩きながら坂本が脅しつけるように言ってやるが、彼には少しも効果がない様子だ。
「してる」
平然と返されてしまう。
ならばと坂本は、新島に席を譲った。
「それなら、行動に反映させなさい」
じっとりとした視線が背に突き刺さると、若干早足になりながら彼はどうにか
「善処します」とだけ答えて、すでに陸地で待ち構えていた残りのメンバーに合流する。
おざなりな労りの言葉が交わされて、一通りの罵倒と叱責を受けて、この集団のリーダーであるはずの青年はやっと一応の許しを得られる。
やがてお説教の席に姿を見せなかったが、どこかでシャワーを浴びて塩水を落としてきたらしくまだ湿ったままの髪もそのまま、ハンディPCで時刻を確認して片割れの袖を引っ張った。
「祐介くん、そろそろ行こう。会場までピストン輸送してやる」
「う、アレか……いや、不満はない。ではな、皆。また……今度は普通に飯に誘ってくれ」
「おつかれーい」
ぶんぶんと手を振る双葉に若干渋い顔をしつつ、は大型の車体を流用した400ccフルカウル系バイクの尻に喜多川を乗せて走り去った。おそらく二人は、休む間もなくそのまま自国へ帰るのだろう。
同じく時間に余裕がないのは新島だ。
「私も行かなきゃ。飛行機出ちゃう……!」
彼女はしかし、本当に慌ててここへやってきていたから、のように自前の装備や乗り物を持ち込みことまでできずにいた。先まで乗っていたモーターボートも、双葉に依頼されて早々現地入りしていたが組み立てたものだ。
悔しそうに歯噛みする新島の肩を奥村が優しく叩く。彼女の手にはプリペイド式の携帯電話が握られていた。またその優しげな面立ちには、人を安堵させる笑みがある。
「タクシー呼んでおいたよ」
もうそこに来るはずだからと示した先、街灯に照らし出されたロータリーに、示し合わせたように黄色く塗装された車体が滑り込んでくる。
「ありがとう、春!」
「ううん、いいの。私もそろそろ帰らなきゃだから」
二人は小さく手を振って、仲良く車に乗り込んだ。直前、奥村は少しだけもの言いたげな視線を誰かに送ったが、「それじゃあまた。あちらでお会いしましょうね」と言うだけに留めていた。
さて、人気のない寂れた船着き場には、猫と女が二人、男が二人、残される。
そのうちで高巻は今回裏方を務めたからか、座り仕事が多く肩が凝ったとしきりに首や腕を回しながら残りの面々を見回した。
「私は明後日の便で帰るけど、あんたたちはどうすんの?」
応えて坂本は眠たげに目をこする。
「俺も明後日のしか取れなかった。つか、一回どっかで寝ねぇとやべぇ。もう飛行機じゃ眠れねぇんだよ……」
また双葉とモルガナが答えて曰く。
「わたしは特に急いでないぞ。仕事はどこでもできるし」
「ワガハイ一人じゃフネにもヒコーキにも乗れねぇし」
人気のない薄闇の中に、高巻が嬉しそうに両手を合わせる音が響いた。
「じゃあみんなで観光してこうよ! ここまで来たんだからジェラート食べなきゃ!」
寝かせてくれと訴える坂本の腕を高巻と双葉が、背にはモルガナが乗り上げて、三人と一匹は意気揚々と歩き出す―――
一人取り残された黒衣の青年は、癖のある黒髪をかきながら慌てた様子で彼らに声をかけた。
「あれ、俺は? 誘ってくれないの?」
「指輪のコとデートでもしてきたらぁ?」
返された高巻の冷たい声に、焦りはますます募る。
「ウッソだろ、杏……竜司、お前は俺を捨てないよな」
「ワリ、眠くてツッコミ入れてやる余裕ねぇわ……ふわぁ……ああー……」
大きなあくびを寄越されて、彼は最も家族に近い関係の一人と一匹に救いを求めた。
「双葉、モルガナぁ……」
「諦メロン。さっ、モナ、この辺は海鮮がうまいらしいぞ~! あ~らごすた~!」
「マジか!? マグロはあるのか? ワガハイ、新鮮なのがいいっ!」
キャッキャとはしゃいで坂本を振り回し、二人は小走りにロータリーを駆け抜けて行ってしまった。おそらくその先の大通りで、タクシーなりを捕まえてくれるつもりなのだろう。
あの人見知りの引きこもりが、母国を遠く離れた土地で自らそんなことができるまで成長したなんて、と感慨深く思う気にはとてもなれず、青年は恨みがましげな視線を最後に残った親友二人に投げつけた。
「偉大な仕事を終えた男に対する態度か?」
やっぱり、返されたのは冷たいものだけだ。
「なにが偉大な仕事よ。女関係で厄介ごと見つけるのそろそろやめてよね。てかホント、何人目よ?」
「まあ泣いてるヒト助けんのは立派だとは思うけど。そういうのは俺らの手を借りないでやり遂げてから言うもんじゃね?」
ちょうどタクシーを先導しながら戻った双葉とモルガナがこれを聞きつけて、驚きに目を見開いた。
「おお、りゅーじが正論ぶっこんでる……」
「むッ……成長したじゃねーか……ちぇっ!」
「態度が失礼ッ」
「えーっと、とりあえず一番近くのホテルまで」
騒ぎながら、彼らもまたタクシーに乗り込んで姿を消した。ホテルで坂本に休養を取らせた後、こんな地方都市ではなく、もっと人の多い観光地にまで足を伸ばすつもりなのだろう。
項垂れてくず折れた青年の手には、ただ古ぼけた指輪だけが残されている。
もちろんそれは、早晩本来の持ち主の手に返されるだろう。
そのついでに彼が報酬を受け取るであろうことこそが、仲間たちからの心象をいささか悪くする原因になっているのだが―――
青年のこの『悪癖』は結局、彼の居候先のマスターが歳を理由に引退し、彼に店を譲るまで続いた。
……
四軒茶屋の駅を出て通りをしばらく歩いた先の路地のさらに奥に、ルブランという名の純喫茶がひっそりと店を構えている。
飲み屋が軒を連ねる道の中、酒を扱わない喫茶店の地味な佇まいはまるで自ら望んで狭い小道に埋没しているかのようだ。
実際、この店のマスターを勤める男にはそういう向きがあった。流行ることを望まず、静かな時間を求める人の居場所になれればいいと。
それで身上を潰さずに済んでいるのだから、誰にも文句などつけようがない。
この日もルブランはいつも通り、まばらな客足が途絶えそうで途絶えずにいた。
それでも夕方になってくると客足は遠のくもので、日も傾き始めた十七時ごろにこの時間帯最後の客の一人が店を出る。
若い女がはにかんで手を振る姿とドアベルの涼やかな音を楽しんで、やれと男は息をついた。その手はなんの淀みもなく動いて、自分自身への憩いのためのコーヒーが一杯用意される。そう広くもない店内にはすぐに芳醇な香りがまた濃く広がった。
カウンターに腰を預け、まぶたをおろして彼はしばらく耽溺する。耳には半ばバラエティと化した夕方のニュース番組のはしゃいだ食レポとチープなBGM、舌には熱と苦味、鋭い酸味の下に隠された深い味わい―――
ふとドアベルが鳴いて、見慣れた姿が顔を覗かせる。
「おかえり」
大した興味もなさそうに言ってやると、ドアをくぐった少年は居心地悪そうに小さく頭を下げた。
特別血の繋がりがあるという間柄ではないが、店の二階の屋根裏部屋は、今のところこの少年の仮のねぐらとなっている。
地元でなにかやらかしたとかで家を追い出され、先月から一年ここで預かることになったのだ。
―――まるでかつての自分のようだ。
男にそうと思われているなどとは露知らず、少年は背を丸めて鞄を胸に抱えながら屋根裏に繋がる階段を目指してそろそろと歩き始めた。
そんな怯えられるほど厳しく接したつもりはないが、しかし思い返せば己もはじめはこんなもんだったか。
思いつつ彼の分のコーヒーも用意してやろうかと腰を浮かしかけた男の耳に、かすかな猫の声が届いた。
思わずと少年を見ると、なんということか、その胸に抱えられた鞄から、うす汚れた子猫が目ヤニだらけの顔を覗かせているではないか。
男は込み上げるものを堪え切れず、吹き出して肩を震わせ始めた。
そんな様子をどう思ったのか、少年は焦った様子で、この小さく惨めな生き物がゴミ箱に放り込まれて弱っていたのだと、どうしても見捨てておくことができなかったのだと語る。
「ああ―――」
そんなことだろうと思ったよ。
返して、男は癖のある前髪の下から少年を見下ろした。
子供というのは、かつて自分もそうであったはずなのに、なんだか不思議な存在だ。
思いながら彼は言った。
「怪盗とか、やるつもりない?」と。