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29:Optical illusion-d
時は少しさかのぼる。
なんとか合流を果たしたジョーカーとナビは、腕一本離れれば互いが見えなくなりそうなほど濃い霧の中、文字通り額を突き合わせてどうするかを話し合っていた。
「やっべっぞこれ。進めば進むほど霧が濃くなってくみたい」
「これより奥はどうなってる?」
「もっとひどい。下手すりゃ雲の中とかわんないよ」
「そこまでか……中心はどこだ」
「たぶんあの小屋。オタカラに寄れば寄るほど、だな」
なるほど。狩人気取りの悪党は、予告状によってずいぶんとこちらを意識してくれているらしい。
望むところだ、と言いたいところだが……
ジョーカーは癖のある前髪をいじりながら更にナビに問いかけた。
「進む手立てはあるか?」
「うーん、無いわけじゃないな。でも『あいつ』にそこまでできんのかなってかんじ。そのへんも含めて、今はとにかく合流が優先」
立てた人差し指でジョーカーの胸板をつついて、ナビはすくっと立ち上がった。揺れるオレンジ色の髪がジョーカーの視界を遮り、そして―――
血飛沫が降り落ちた。
遠くから届いた銃声を捉えて咄嗟にナビを突き飛ばしたおかげか、弾丸は彼女の腕を千切り飛ばさず、華奢な肩に大穴を空けるだけで済んだ。
「ナビッ!!」
それでも当然ダメージは大きい。衝撃に傾いだ身体を捕まえて、ジョーカーは直ちにその場を飛び退った。
小さな身体を庇いながら地に伏せ、すぐに銃撃に耐性のあるペルソナに切り替えたからか、続けて撃ち込まれた弾丸はいずれも彼にかすり傷しかつけることは叶わなかった。
そのうち敵もこの少年への攻撃はあまり意味がないと悟ったのだろう、銃撃は止み、発砲音は少し離れたところへ移る。
安堵することはできなかった。おそらく今狙われているのであろう仲間のことも、腕の中で激痛から身体を痙攣させている少女のことも気がかりだ。
「ナビ! ナビッ! しっかりしろ!」
幾度も呼びかけるが、蒼白な顔は短く早い呼吸を繰り返すばかりだ。瞳は瞳孔を収縮させ、彼女がショック状態に陥っていることを教えている。
「ナビ……!」
滴る血がまるで少年のものだとでも言わんばかりに彼の顔色もまた蒼白だった。
実際に彼は押さえた傷口から滴る血によって吐き気を覚えている。
「く、くそ……ナビ、そんな、俺はこんな……!」
ともすれば叫び出しそうになる喉を懸命に抑え、少年は項垂れて彼女の名を呼び続けた。
彼がこれだけ動揺するのにはもちろんわけがある。
仲間だからというのは当然、消極的選出であっても彼には怪盗団の長としての責任がある。けれどこれだけなら傷を負った程度で動揺することはなかっただろう。事実として前線に立つ他のメンバーはいつでも大なり小なりの怪我をしている。
それだってなにも思わないわけじゃない。だがそれ以上に、彼にとってこの女の子は家族のようなものというところが大きい。
血よりも濃い絆で繋がった、あの小さく古ぼけた純喫茶を家と思うための大切なパーツの一つだ。
これを失えば、自分はまた居場所から追い出されるかもしれない。
ルブランだけじゃない。怪盗団だって、誰か一人でも欠ければ皆怖気づいて去ってしまうかもしれない。
想像して、少年は震え上がった。
そもそも今回の件、が持ち込んだものであり、志田沼の行いは許しがたいとも思っているが、一時とはいえこの少年がこちらに集中しようと決定したのは一種の逃避行動だ。
獅童正義―――少年の因縁の相手を前に、やっと内にくすぶり続けた怒りを晴らせると意気込んでみたものの、いざ挑んでみれば道はひたすらに険しく、長い。
それはいずれのパレスでも同じことだったが、どれも結局≪ジョーカー≫には他人事だった。退学やら訴訟やら、多額の支払いやらが迫ってきたこともあるが……その気になればどれも≪誰か≫のせいにできる場面でしかなかった。
けれど今、獅童正義の改心を行うのは間違いなく≪彼≫のためだ。
もはやどう武装したとて言い逃れはできない。
少年は大悟して感嘆した。
みんな、こんな心地で戦っていたのかと。
考える時間が欲しかった。いつだってしくじるわけにはいかなかったが、今回は≪誰か≫のせいにすることはできない。なにかあったとき、あいつが自分を巻き込んだんだと思うことはできないのだ―――
そして、彼は己のこのような思考を激しく嫌悪している。
責任だとか、パーツだとか、怖気づくだとか……
あらゆることからの逃避先として選んだここで双葉に重症を負わせたことが彼の心を打ちのめしている。
少年は地に額を押し付けて未だ震える少女の身体を抱き締めた。
「双葉、ごめ」
謝罪の言葉はしかし、すべてが喉から吐き出される前にうめき声に変じた。
少年の下腹部に強い衝撃が走ったのだ。
「〜〜〜ッ!?」
腰を上げ、額は地についたまま。無様な格好になった少年の下から這い出しながら、ナビは蒼白な顔に苦痛と恥じらいを、瞳に心火を宿して吠えた。
「こんなかすり傷で縮み上がってんな! ついてんのかどうかもわかんねーじゃねーかっ、このクソザコメンタル!」
言うなり、ナビはその場にばったりと倒れこんだ。
……そしてスカルが額に腐った落ち葉と泥をつけ、モナとともにやってくる。
傷は直ちにモナが癒やしの力を注ぎ、痕もなくきれいに消え去った。
だというのに、ジョーカーはナビを抱えながらまだ鼻をすすっている。
「だぁもおうっとおしいっ!」
「というかなんでオマエ回復できるペルソナ持ってきてねーんだよっ!」
「だって今日の回復当番クイーンだったから……なら俺いらないなって火力方面に全振りして……ごめんなナビぃ」
ジョーカーの腕の中には、彼のコートでくるまれたナビが抱えられている。顔色は良くなったが未だ意識は失われたままだ。
「てか、起きねーな。傷は塞がったのによ……」
黒いミノムシと化したナビを覗き込んで、スカルは顔を曇らせる。
「まさか……!」
「いや生きてはいるぞ?」
ジョーカーの肩に居場所を移したモナもまた、ナビの唯一露出した顔面を見つめている。
少女の小さな鼻は呼吸によってかすかに動いている―――
「くー……ぷすー……」
そこから漏れるのは間違いなく安らかな寝息だった。
「おいコラぁ! 寝てんじゃねぇ! 起きろナビっ! お前が寝てたらみんなと連絡できねーだろぉがっ!」
スカルが喚いて地団駄を踏もうが、ジョーカーが上下に振ろうが、モナが尾の先で鼻をくすぐろうが、ナビは決して目覚めなかった。
それはすなわち、状況の悪さは決して変わらないということだ。
そのようにジョーカーらが騒ぐすぐそばに、パンサーとノワールの姿がある。
二人の耳に届く少年らの様子からナビは無事だと知ることはできたが、しかし声は霧に反響するばかりで方向が掴めない。
闇雲に動いてこれ以上離れるよりはと留まっているが、しつこく降り注ぐ弾丸が彼女たちの体力を削り取っていた。
「く……ペルソナッ!」
ノワールの足元から蒼い炎が噴き上がり、白く塗りつぶされた周囲を照らす。
その半身が作り上げた不可視の盾は弾丸を弾き返すが、手応えのようなものは感じられない。
ましてパンサーに打つ手は無い。視界の塞がれたこの状況で無闇に炎や弾丸をばら撒けば、誰に当たるかも分からないのだ。
背に触れるノワールの温かさを確かめながら、パンサーは鞭を握りしめて声を張り上げた。
「男子ィ! 遊んでないでさっさとこっち来いっつーの!」
反響した声はどうやら男子に届いたらしい。慌ただしい足音が二人のそばまで寄ってきていた。
クイーンは一人でいる。
この濃霧の中でも彼女は冷静さを保っていたし、その怜悧さは一欠片も失われていなかった。
今もまた、飛来する銃弾を軽やかなステップで躱し、相手の正体を見定めんと霧を睨みつけている。
彼女は攻撃の正体と仕組みをすでに理解しつつあった。
大口径ライフルによる正確無比な狙撃。ただし狙いは急所ではなく、脚や腕といった末端部だ。
(まずはこちらの気力を削ごうってことかな。ふうん、一方的に相手をなぶるのがお好みのようね)
ゲスが。とクイーンは声に出さずつぶやいた。
音のないそのささやきを聞きつけたのか、それとも偶然か、肩を狙ったらしい一撃がクイーンの耳を擦過し、小さな傷をつけていった。
大したことのない痛みに鼻を鳴らす。
それよりも髪が幾筋かまとめて千切り飛ばされたことのほうが彼女の怒りを煽っていた。
「ああもう! ファング、帰ったら本当にみっちり勉強させるからね……!」
そしてその怒りの一端は、どういうわけか仲間の一人に向けられている様子だった。
そのファングはといえば、クイーンに攻撃が集中し始めたからか、相変わらずフォックスと背を預けあった格好で思案に暮れていた。
「妙案は思いついたか?」
「急かすなよっ! というか、キミも考えろ!」
「考えてはいるが、思いつかない。刃の通る相手ではなさそうだ」
素っ気なく返すも、フォックスとて諦める気は微塵もないのだろう。痩躯には闘志が漲り、一度なにかを申し付けられればいつでも動けるよう構えている。
彼のそんな姿勢はファングをよく後押しした。
「くそぉ、霧が邪魔なんだよ……こいつさえなんとかできれば……」
豊かな黒髪をかき乱して、ファングは目の前の霧にむけて脚を振り回した。当然相手はただの気体だ。その行為にはなんの意味もない。
どころか、挑発と受取られたのか、再び正体の知れない相手の攻撃を誘う始末だ。
「―――させるかっ!」
吠え声とともにフォックスのそばに白髪の偉丈夫が立ち上がり、大刀をひと振り氷塊を作り出して銃弾をせき止める。
「うわっ! 冷たい!」
「あ、すまん、つい」
冷気は彼女の脚にまで及び、厚手のソフトラジアル生地の表面に霜を貼り付けさせていた。
「凍っちゃったじゃないか。冷え性なんだぞ……」
「だからすまんと。後で落としてやるから」
「そう言ってヘンなとこ触るつもりじゃないだろうな」
「自意識過剰じゃないか? というかお前の言う変なところというのはどこを指すんだ」
「う、うるさいな! ああもう、着氷したみたいになっちゃった……」
この益体のない言い合いはファングにひらめきをもたらした。
動きを止めた少女を不審に思いふり返ったフォックスの胸ぐらを、ファングは猛然とした勢いで掴んで引き寄せた。
「うおっ!?」
「これだ! いけるぞ!」
「な、なにか思いついたのか?」
「確定じゃないけど、でも、どう考えたってこの霧になんかあるのは間違いない! だろっ?」
揺さぶられながらもフォックスは頷いてみせる。
「それはそうだ。で?」
しかしファングから出るのはいまいちまとまりのないあやふやな言葉ばかりだった。
「えっと……だから……霧ができるのは地面が冷たくなるからで……」
「まあ、そうだな。……大丈夫か? 本当に大丈夫か? 気圧と気温の関係は割と最近習ったところだよな?」
「うるさいな!」
怒りによって顔を真っ赤にして吠えて、ファングはフォックスを突き飛ばした。霧は今や、半歩空いた距離でさえ、互いの仮面が霞んで見えるほどだ。
それでも声は届く。
「とにかく、冷やしていいんだ」
「いいのか?」
「くどいぞ」
肩にかかった黒髪を払い除けて、ファングは居丈高な調子で顎を上げる。また彼女の手は己のマズルマスクに触れ、顔を隠すゴーグルとともにそれを取り外した。
鋭い目つきが、まるで少年を射すくめるかのように注がれている。
「めいっぱいやれ。全力全開で、この辺一帯を凍りつかせるくらいに!」
晒された彼女の口元には自信に満ちた挑戦的な笑みがあった。
「キミならやれるだろ?」
言葉はまた挑発的だ。
フォックスは目を細めて、目の前の少女をまじまじ眺める。
根拠もないのに自信深げな様子に、活力に溢れた佇まいはきっと誰にとっても好ましいものだろう。
とりわけ彼にとっては、万難を排す力を与える。
不可能などこの笑みを前に、存在するはずがなかった。
「いいだろう。惚れ直させてやる」
応えて彼は手にしていた刀を足元に突き刺した。
彼を中心に、足下や手近な大木の表面はすでに凍りつき始めていた。
「いくぞ、カムスサノヲ!」
引き剥がされた狐面は直ちに彼の半身として顕現し、存分にその力を発揮する。
霧の向こうでパンサーの驚きに満ちた悲鳴が聞こえた気がするほどの冷気が広がり、辺りをますます白く染め上げた。
またたく間に幻想的な光景が広がった。風のない中、濃淡のまばらな白がかすかに揺らめき、ファングの姿を揺らがせている。
―――見た目という意味だけなら、喜多川にとって彼女は『そこまで』のものでもない。もちろん、女性的な魅力ということなら充分だが―――さておき、ただ形というだけのことであれば、同じものはいくらでも見つかるだろう。
つい先日も、はこれに関して『私のどこが』と問いかけていた。そして喜多川は『その笑みが』と答えた。
表情は感情の揺らぎを表す最たるものだろう。感情とは気持ちだ。心から現れるものだ。
この半年ほどの間に、喜多川はそれまでの十六年と少しの間よりよほど多くのものを見、知ってきた。
そのおかげか、未だ結論には遠いが、しかし薄っすらと答えらしきものは見えはじめてきている。
心とは魂だ。
あのとき、はじめてこの女の子の微笑みを目にしたとき、きっと彼女は演技も企みも忘れ、その魂をむき出しにしたままふり返ったのだろう。
この少年はその魂の鮮烈な美しさに一瞬で心を奪われてしまった。
今もこの少年は霧にけぶる視界の中、決して見失うまいと見つめる彼女の姿に見惚れている。
霧の中で勝ち気そうな笑みを浮かべる女……なかなか面白い画になりそうだ、などと思いながら。
そうしている間に、辺りは吐く息が凍るほどの冷気に覆われる。
めいっぱいと言われたからにはと際限なく力を放出し続けた反動か、フォックスの顔色は優れない。
それでも彼は背筋を伸ばしたまま、ファングがなにかを仕出かしてくれるのをじっと待った。
「仕掛けは万全……あとは私が……」
白い息を吐きながらつぶやいて、ファングは顔を上げる。
喜多川がほんの少しの間過去の出来事に思いを馳せていたのと同じように、彼女もまた思考を巡らせていた。
ただし彼女が向き合っていたのは過去ではなく、己自身にだ。
自らに向けて、さらなる力が欲しいと少女は訴えていた。
それは彼女自身のためだ。仲間の危機を救いたいだとか、哀れな小動物を守りたいだなどと、今この瞬間に彼女は考えてはいなかった。
ただ必要だから欲している。そこに理由や感情は介在しない。この少女はただ、そうしたいと欲し、また己がそれを為せると確信して、そうあるべく己自身に飢えたる牙を突き立てている。
(いつもと同じじゃダメ。もっと出力上げて、効率よく……)
強い自利心はしかし決して協調や同調と結びつかないわけではない。己のために為したことが、結果的に誰かや社会のためになっていたなんてよくある話だ。
それ故に『復讐』のための仮面はもはや彼女に不要だった。
噴き上がった蒼い炎はいつものごとく、黒い獣を呼び起こす。ただこのときはそれだけに留まらなかった。
(なるほどこれが、私の―――)
黒い獣の上に、一人の女が跨っているかのように繋がれている。女は獣の背から飛び出した太い杭に貫かれ恍惚とした表情を浮かべているが、その顔の中央には縦に割れ目があり、ぱっくりと口を開いている。中には小さな瞬きがあって、まるで宇宙の深淵を覗くかのような心地を見る者に与える。
この場合の見る者とは喜多川のことだ。彼は声には出さず、世界の起源に思いを馳せた。もちろんそれは終生口にされることはないだろう。
己の新たな力の開花にファングはにんまりと笑って吼えた。
「全部吹っ飛ばせ、ババロン!」
鋭い号令に緋色の女は腰に佩いた剣をひと振り、直ちにその力を顕現させた。
力とはすなわち、ただ純粋なエネルギーの放出だ。
風を巻き起こしたり、炎や冷気を生じさせたり、稲妻や核熱、不可視の力を招来するわけでもなく、衝撃そのものを生み出して広く一帯―――フォックスが広げた冷気の及ぶ辺り全体に行き渡らせた。
今度こそパンサーの悲鳴が、想像していたより近いところから響く。
なんの前置きもなく放たれた衝撃波は氷点下以下まで冷却された空気と、同じく零下にまで冷やされた霧……今や極小の氷の粒と化したこれを激しく吹き飛ばし、地面やそこここに立ち並ぶ木々、あらゆる地物に勢いよく貼り付けさせた。
俗に樹氷や粗氷と呼ばれる現象だ。
後には冷えて澄み切った空気だけが残され、かすかに氷の割れる破砕音があちこちから響いてくるばかりとなった。
「……なんだ、思ってたより近くにいたのね」
もたらされた静寂の中で言ったのはクイーンだ。
未だ蒼い炎をまとったままのファングがそちらに目を向ければ、身体や髪に付着した脆い氷を手で払う彼女の姿が、開けた道の先ほんの数メートルのところにあった。
「クイーン! 無事だったか。他の皆は―――」
喜びとともにフォックスは脚を踏み出したが、しかし彼は力を使い切った反動か、すぐにその場に膝をついてしまう。
「わっ、ちょっと、大丈夫?」
「うっ……くそ、やり過ぎたか……」
慌てた様子のクイーンが駆け寄る。彼女が地を踏みしめるたび、着氷した氷が砕けてパリパリと音を鳴らした。
そしてフォックスが膝をついたということは、同じく広範に力を及ばせたファングもまた。
「く、クイーン、てぃっちゅもっへにゃい……?」
「え? きゃあっ! やだもう、、あなた……」
見れば同じく膝をついてくずおれたファングの鼻から赤いものが滴っているではないか。クイーンは慌ててポケットを探り、ハンカチを彼女に差し出した。
その間に、複数の足音が彼女たちに駆け寄ってくる。
そのうち一人は多大な怒りを含ませていた。
「フォックス! ファングぅっ! こっちが死ぬかと思ったじゃないの!」
鞭をふりふり、高いヒールで凍りついた地面を砕きながらいの一番に駆けつけたのはパンサーだ。その後ろにモナを抱えたノワールと、相変わらず黒いミノムシと化したナビを抱えたジョーカーとスカルが控えている。
「ごみぇん、ほかにあんにもほもいちゅかにゃくっひぇ……」
「なに言ってんのかわかんない。なに、鼻血? あーんもう、見せなさいホラっ!」
「たてにゃい」
借り物のハンカチで鼻を抑えてうずくまるファングに、パンサーは手をかざしてやる。
「力を使い過ぎたんだな。フォックス、オマエは大丈夫か?」
「多少ふらつくが、ファングほどではない。が、腹が減った……」
ノワールの腕の中から語りかけたモナに、フォックスもまた力なく答えた。
ジョーカーは黒いミノムシをスカルの腕に預けて、キョロキョロと辺りを見回している。
つい先ほどまでどころか、はじめにここへ訪れたときよりずっと見通しの良い風景は、かえって強い違和感を彼に与えていた。
その耳には騒ぐ仲間たちの声と樹氷の鳴き声ばかりが届く。
そうとも、霧氷と化した霧が固着させられて以降、銃声は一発たりとも響いていない。
「志田沼のシャドウはどこにいるんだ?」
独り言として漏れた言葉に、黒い殻から突き出された細い腕が応えた。
やっと目覚めたらしいナビが、少し離れたところに生えた一本の杉の木、その上方を指し示していた。
釣られて視線を上げた先、白く凍りついた幹と枝、葉の中に、奇妙なオブジェが貼り付いている。
「あすこにいるのが、そう」
眠たげに漏らされたナビの声が示す通り、なるほど磔にされた人影には見覚えがあった。志田沼啓治、その人だ。
「霧に紛れてたんじゃなく、霧になって紛れてたってことか」
「だから俺らの位置バッチリ把握してたってことかよ」
目覚めたナビを地に立たせ、スカルはやれやれと息をつき、今度はフォックスのほうに手を貸してやる。
「立てっか?」
「うう、スカル、なにか持ってないか……?」
「えー? うーん……あ、ガムあったわ。コンビニのくじで当たったやつ。肉ガム」
「それは……それは―――」
「食う? やめといたほうがいいと思うけど」
「背に腹は、いや、しかし……!」
どうする? 問いかけとともに『肉ガム』なるものを目の前にチラつかされて、フォックスは心底迷った素振りをみせる。
妥協して不味いものを口にするのか。武士は食わねど高楊枝を決め込むか―――
悲壮な覚悟を決める前に、クイーンが放り投げたチョコレートが受取られたのは本当に幸いなことだった。
そのようにして復調したフォックスは、高い位置に貼り付けられた志田沼のシャドウを睨めつけながら忌々しげにつぶやいた。
「……つまらん。これでは惚れ直させることはできないじゃないか……」
応えたのは彼の隣で相伴に預かるスカルだった。
「今さらいらねーだろ」
呆れた口調のスカルの視線の先には、はるか後方、やっと血が止まったらしいファングが、夢見心地な視線をフォックスの背に投げかけている。
またその口元は彼女の意思とはまったく無関係に言葉を紡いだ。
「……かっこよかった……」
幸いなるかな。その顔は溶かした氷ですっかり清められ、夢見る乙女としての体裁は辛うじて保たれている。
保ってやった張本人であるところのパンサーは、すっかり汚れてしまったクイーンのタオルハンカチを絞りながら肩をすくめるばかりだ。
「そうかなぁ……いや別に否定はしないけどさ。まあ見た目はいいよね。見た目は」
「イイやつだというところは否定しない。ヘンタイだけど」
落として上げてまた落とす。
困り顔のノワールがそんな二人を優しく咎めたが、パンサーとナビは顔を見合わせてやれやれとかぶりを振るばかりだった。
身動きの取れなくなった志田沼のシャドウを放置し、オタカラの安置された小屋にたどり着いた怪盗たちは当然の権利と言わんばかりに宝を手中に収めた。
そして現実に帰り着いたとき、この絶滅種であるニホンオオカミの剥製は一本のビデオテープに変化していた。
目の色を変えたのは頭領ただ一人だった。
「これ、たぶん……俺たちが生まれる前に発禁になった映画だ」
曰く、一九八〇年代の北米、当時としても異質なグロテスクホラーが封切りされた途端上映禁止を言い渡されてお蔵入りとなったのだという。
片田舎で起きた飼い犬の惨殺に端を発する連続殺人事件を捜査していた保安官の視点で物語は進むが、彼は徐々に犯人の狂気に呑み込まれてしまい、犯人を射殺後その遺体を犯人がしたのと同じ手順で『加工』し、姿を消してしまう―――
ラスト三十分は新たなシリアルキラーと化した保安官が延々殺人と『加工』を行う姿が映し出される。
問題となったのはその『加工』のあまりのグロテクスさと、ライティングやカメラアングル、凝った美術の結晶によって生じたリアルさだ。
上映館では嘔吐やショックを受ける観客が多発し、また時勢も考慮されて敢え無く発禁となった。
上映後の販売も見据えて作られたパッケージサンプルがいくつかあるのみで、これも製品化はされずに終わり、現在に至っても正規の販売はされておらず闇ルートでのみ取引されているという。
「で、多分これ、その世界に十本くらいしかないパッケージサンプル」
震える手でレトロなプラスチックケースを掲げる少年の瞳にはどこか恍惚とした輝きがあった。
ここに集う中で彼に賛同できる者はない。
「……そんで、いくらになんの?」
「数本しか存在しないゲームカセットなんかは数十万円で買い取りされてるけどなぁ」
「あ! プラモんとき調べたんだけど、そういう一枚二枚しか存在しないトレカなんかも百万したりすんだよな?」
ルブランに戻って物品の処理を論じていた少年たちの前には、各々注文した飲み物や食べ物、あるいはお冷やラップトップが並べられている。
双葉はさっそくと件のグロテスクホラーがやり取りされている場を探しているようだ。
「百万か……仮にそのビデオがその程度で売り捌けたとして、皆で分けたとしても十数万……うっ、物欲が!」
「やめてよ祐介。あでも、私も欲しい靴があってさ。これなんだけど、かわいくない?」
「あら、いいわね。お値段はかわいくないけど。私は貯金かなぁ、車欲しいし。もうちょっと高く売れたり、しないかな……?」
「ワガハイ、スシにする! マグロ、大トロ、ハマチにブリ……ンにゃあ〜ん」
欲望と妄想を膨らませる仲間たちを眺めて、奥村などは苦笑する。
「みんな、ほどほどにね? そんなに高く売れるとも限らないんだから」
「そうそう」
同調したのはだった。彼女の前にはバニラアイスの乗せられたメロンソーダが鎮座している。
「だいたい十数万円なんて、使おうと思ったらあっという間に消えちゃうもんだ。あまり欲をかくとその後が大変だぞ」
諫言めいたこれに、喜多川は口を尖らせる。
「夢くらい見たっていいだろ。お前には欲しいものはないのか?」
言われて、は困った様子で眉を寄せた。
ストローに触れていた指が離れ、縋るものを探すように己の髪を掴む。
「私なら、そうだな―――」
答えて彼女はルブランの外へ目線をやった。
その翌日、佐倉家の小さな庭に少年少女が寄り集まって歓声を上げていた。
「クロ! こっちゃこい! こっちだぞこっち!」
「なに言ってんだ、コイツはモナルダだぞ」
「よしよし、チビだよなー?」
小さいが太い脚の黒い、一部が白い子犬があまり手入れのされていない芝草の上をよたよたと歩いている。
当然この子犬はが盗み出した例の犬で、彼の居所は志田沼の突然の自首とともに有耶無耶になり、こうして佐倉家に仮預りとしてやってきているというわけだ。
里親を見つけるつもりで募集をかけることになっていたから、きちんとした名付けが行われるでもなく、こうしてめいめい好き勝手な名をつけて勝手に呼んでいる。
はブロック塀に背を預けながら、双葉がこわごわとまだ毛の柔らかい子犬の背を撫でてやっているのを眺めて微笑んでいる。
その隣に、居候のくせにこの家の立派な一員のような顔をした少年がどっかと腰を下ろした。
まだ日の高いうちだ。平日のこの時間、この場にいるのは彼らだけだ。
二人は双葉が子犬とモルガナの毛皮を撫で比べる様を見つめながら意味もなく声を潜めあった。
「で? 気晴らしになったか?」
「は? なにが?」
ぽかんとした顔を晒した少年に、はいかにも呆れたと言わんばかりに肩をすくめる。
「なんだよその顔。かわいいつもりか?」
「つもりじゃなくてもかわいいだろ。この俺のハニーフェイスが……」
「今度はごまかしてるつもりかよ」
「さっきからなんだ」
少年は怪訝そうに顔を歪めた。その尻に、背に、じわじわと嫌な予感が登ってきている。
はそれを肯定するかのように鼻を鳴らした。
「フン、別にいいけどな。私にバレてるくらいなんだから、当然他の連中も承知だって理解しとけよ」
肩にかかった黒髪を払い除けて、は地べたに直接座り込む少年を見下ろしている。
その眼は大きく見開かれ、黒々とした瞳には驚嘆と気まずさがいっぱいに湛えられている。
もとより兆候はあった。彼の珍奇なふるまいはさておき、先までの強行軍、それに際して奥村が用意してくれた豪華すぎるお弁当、不満げにしつつも従った仲間たち、そして双葉の罵倒―――クソザコメンタル―――
少年は大きく息を呑んで両手で顔を覆った。
「は……」
口からはため息のような、感嘆の声のようなものが漏れる。
は首を傾げた。
「なに?」
「は、は、恥ずかしい……」
そうとも、この少年は、怖気づく己を悟られまいと少しの寄り道を選んだのだ。
志田沼の犯行は確かに許し難いが、焦って無理や無茶をするくらいなら本来やるべきことに注力すべきであって、志田沼に関しては犯行を牽制し、一時手を止めさせる程度に留めたって構わなかっただろう。
は彼を嘲ってせせら笑った。
「ざまみろ、バーカ。私を利用したバツだ」
「君だって俺たちを利用した……」
「私が利用したのは祐介くんだけ」
言うなり、のポケットに突っ込まれていたスマートフォンが通知に震える。
彼女はすぐにそれを取り上げてメッセージの送り主を確認すると、嬉しそうに口元を綻ばせた。
「杏たちもこっちくるって。今電車に乗ったってさ」
「え、来るの。ちょっといま会いたくないんだけど」
「別にキミに会いに来るわけでもあるまいに」
打ちのめされて少年は膝に顔を埋めた。
そこへ双葉が子犬をおっかなびっくり抱き上げて、やってくる。
足元には心配そうな顔をしたモルガナ付きだ。どうやらこの意外に世話焼き気質の猫はすでに子犬を弟のように思いつつあるのか、先ほどから兄貴風をびゅうびゅうと吹かせている。
「どした? にいぢめられたのか?」
「うう、双葉えもん、やり返す道具を出してよ」
「ねえよそんなもん。なあなあ、こいつ、里親見つからなかったらどうすんだ?」
「ああ、フタバ、そんな抱っこの仕方じゃモナルダが落ちちまうよ……!」
は腕を伸ばして、やんわりと双葉の手からまどろみ始めた子犬を奪い取った。
毛皮は全体的に黒いが、腹と脚先は白い。背中にもぽつんと一つ、斑点がある。濡れた鼻先をピスピスと鳴らして、じっと少女を見上げる瞳はこちらも黒く濡れている。
「私が引き取ってやりたいけど、家がな……」
そうとも、相変わらずこの少女は宿無しの住所不定者だ。土地はあるが、家屋は相変わらず燃え落ちてそのままだ。
昨日の金の使い道に関する問答の折、は求める物を尋ねられて答えた。
『家』と。
なるほどそれはこの子犬のことも含めて言われていたのか。得心して、双葉は子犬の鼻先をツンとつついた。
「じゃあさ、あのさ、やっぱりさ、里親、やめにしないか?」
意外な提案だった。のみならず、猫も少年も目を見開いて互いの顔を見合わせている。
「そうじろうがな、わたしがちゃんとお世話するならまだしばらく置いといてもいいぞって……」
ああ、と二人と一匹は感嘆の息を漏らした。
佐倉惣治郎というひとは、本当になんて面倒見がいいのだろうと感心し、感服したのだ。
冤罪とはいえ前科者の未成年者を引き取って監督してくれている時点でそれは知れたことだが、その少年が怪盗なんてことをやって世を騒がせていることを知ってなおここに置いているのだから、さもありなん。
もちろん惣治郎はもまた怪盗であり、宿無しであることもすでに承知している。行き場がなければ空いてる部屋を提供して良いとまで。はこれを丁重に断り、屋根裏に押し込められている少年はならそこに自分を置いてくれと申し出たが、こちらは惣治郎のほうが年頃の娘と野郎をひとつ屋根の下に置くわけにはいかないと丁重にお断りした―――男女差別だと彼は訴えたがすげなく却下された―――。
今回の事の顛末も簡単に説明してあったから、聡明な男はそれでの望みと身上を合わせて想像し、双葉にそうと言ってくれたのだろう。
つまり惣治郎の意見はこうだ。『ちゃんに家が見つかるまで、うちで預かっといてやるよ』と。
「おじさま、かっこよすぎ」
「お、浮気か?」
飾り気のない感想を漏らしたに、少年はからかいつつも同意するように笑ってみせた。
遊びにやってきた高巻は子犬を『フランシス』と呼んだ。そんな彼女に引きずられた坂本は『ポチ』と。
この場に現れこそしなかったが喜多川は『タロウ』と呼び、新島は『ぶち丸』と、そして奥村は『モモ』と名付けた。
でははなんと呼ぶのか。
一部が白い、黒い子犬。太い脚はいずれこれが大型に成長することを物語っている。
……別に子供なんかではないし、犬種も全然違うし、彼は頭のてっぺんから尾の先まで艷やかな黒の短毛だったけれど。
心の中で言い抜けつつ、は優しく子犬に呼びかけた。
「ジュニア、おいで」
子犬はどうやら、己が誰の手によって冷たい水の流れからすくい上げられたのかを理解しているらしい。
愛らしく元気の良い声で応えて、の膝の上に乗り上げた。
……
………
「なんで、ここに―――」
「それはこっちの台詞だよ。やだなぁ、なんでこういうところで会っちゃうんだろ……」
肩口まで伸ばされた明るい色の髪をかきながら、明智吾郎は困り顔をに向けた。
時刻は夜十時、場所は松下動物病院のほど近く。は念の為と佐倉家を辞した後、近辺に傷ついた動物がいないものかと見回っていたところだった。
徒労であることを喜んでこの日のねぐらに向かおうとした矢先、この少年とばったり出くわしてしまったというわけだ。
彼はため息をつきつき言った。
「君、タイミング悪いって言われてない?」
小馬鹿にするような声色に、は青ざめつつもまなじりを釣り上げる。
「質問に答えろよ……!」
押し殺した声で怒りを示す様は怯える獣のようだ。明智は鼻を鳴らして肩をすくめた。
「ちょっと探し物をね」
ひらりと振られた手には一枚のポストカードが摘まれている。しわだらけで薄汚れたそれには、夜の闇を裂く街灯の明かりを跳ね返す金の意匠が印刷されている―――
志田沼に送りつけた≪グリム≫の予告状だ。はサッとますます顔を青ざめさせた。
もとより生存は知られていたはずだが、これで確定となり、また己が怪盗団と行動をともにして未だ活動状態にあることを悟られただろう。
震える声では問うた。
「それも命令されてやってるのか?」
明智は目を細めて口をへの字に曲げた。どうやら彼女の態度や言葉に思うところがある様子だが―――
「自分で考えなよ」
返答は短くそっけない
明智はポストカードを手の中で握り潰すと、すぐにそれをコートのポケットに押し込んだ。大事にするつもりなど毛頭ないと言わんばかりに。
眉をひそめるに、明智はそんなことよりもと明るい声で語りかけた。
「この辺りで動物虐待をしていた輩が自首したんだって? 聞いた話じゃ、捨て犬を川に捨てたりもしてたらしいじゃないか」
「なにが言いたい」
「別に。その子はどうなったのかなと思っただけさ」
少しだけ迷って、は口を開いた。
「一匹は助かったよ。あとは、みんな……」
見つかってすらいないと悔しそうに歯を噛んだ少女の様子に、明智は肩をすくめる。その目には彼女に対する呆れのような、まだよちよち歩きの赤ん坊を見守るような、憐れみに似た色があった。
目線を下げていたはそれに気が付かない。
明智も特別それを悟ってほしいとは思っていないのだろう。低い声で無味乾燥に応えるだけだ。
「そ。残念だったね」
「他に言うことないのかよ」
「あー? 泣いて悲しめばいい? それとも許せないって義憤に駆られればいいのか?」
「似合わないな、どっちも」
「だろ? 分不相応なことはするべきじゃないんだよ」
スポットライトのように落ちる街灯の光から抜け出すように一歩踏み出す。よく磨かれたブーツのつま先がアスファルトを叩く音がいやに響いた。
明智が踏み出した分は後退った。敵愾心をいっぱいにしてなお隠し切れない怯えがそこには見て取れる。
口元に冷笑を湛えて明智は嘲るように言った。
「ほらね」
彼の言う『分不相応』とは、己のことではなくのことであるらしい。
またには、何を指して不相応とされているのかも察しがついていた。
「……だから、代わりにやってくれたってことかよ」
俯いてつま先を睨むの脳裏にあるのは阿藤勝利の最期だ。直接この目で見たわけではないが、前触れのない心停止によって倒れたことは怪盗団の存在とともに連日報道されていたから、嫌になるほどよく知っている。
にとっては殺してやりたいと願っていたはずの相手ではあるし、お似合いの末路だと思う。けれど今や、彼女の隣や後ろに、導くように前へ立つ少年たちは彼女に言葉のないところで訴えている。
やりたきゃやれよ。けどそうなったら俺たちは全力で邪魔をする。だって気にくわないから―――
彼女がそうであるように、自利心は決して協調性や共感、同調能力の欠如でないことを、彼らもまたその存在によって示していた。
果たして明智はそれを理解しているのか、いっそ微笑ましげにさえも見える笑みを浮かべて小さくかぶりを振った。
「自意識過剰。別に君のためじゃない。元々阿藤はどこかのタイミングで消す予定だったらしいし」
彼はまた、どこか疲れた息を漏らしもする。
「それがあの時。ちょうどいいからってすごい投げやりな指示もらっちゃってさ……やってらんないよな。こっちだって課題とかあるってのに」
唇を尖らせて不満げな顔をつくる彼に、はなんと応えたらよいのか分からず沈黙した。
明智はまるで、己が目の前の少女を殺そうとしたことなど無かったかのような振る舞いを見せている。
かつてそうであったように、馴れ馴れしくはないが余所余所しくもない奇妙な態度だ。
また彼はさらに彼女を困惑させるようなことを言い始めた。
「提案なんだけど、君のお気に入りとこの辺りを離れる気はない?」
「は……?」
「だから、君と君の彼氏くらいなら見逃すよう言い添えてやってもいいってことだよ」
「い、いや、なんで……!?」
「大した脅威じゃないから。やろうと思えば今日明日にでも―――」
「そうじゃない!」
怒り以外の要因から顔を赤くして吠え、は激しく地を踏み鳴らした。
「なんで知ってんだよ! 私と祐介くんが……」
「やっぱり付き合ってるんだ?」
「あっ……嵌めやがったな!?」
せせら笑って、明智は踏み出した一歩を巻き戻すように足を引く。
声はまた冷淡な調子を帯びた。
「『前回』は見逃してあげられたけど、今回もタダってわけにはいかない。このまま大人しく舞台を下りろ」
「なんで……」
はやはり戸惑うことしかできずにいる。目の前にある脅威を跳ね除けることも、その提案を受け入れることも彼女にはできなかった。
そもそもそんな提案をされること自体が想定外だ。新島冴のパレスで『見逃された』という事実も。
どのような事情、あるいは心情から明智が建言したのか、にはまったく理解できなかった。
「なんでそんなこと言うんだよ」
不安感から瞳を揺らめかせながらも率直に問うと、明智は先の調子のまま、冷たく平坦に答えた。
「さあね。僕にだって情くらいはあるのかもしれないし、ただの気まぐれかも。もしかしたら、君と連中を陥れる罠かもな」
「う、うぐ……」
呻いては後退る。どれも本当のことのように思えたし、どれも偽りに思えたのだ。
ただ一つ解るのは己がこの提案を呑んだとて、あの少年は同意してくれないだろうということだけだ。
己の信奉する美学によってのみ道を定める真っ直ぐな瞳は逃亡も敗北も決して許さない。いわんやそれはこの少女のみならず、仲間たちにも同じものを求めている。
真なる絆は半ば強制的に怯える少女に前を向かせた。
「ダメだ。そんなことできない。聞き入れられないよ」
明智は特大のため息をついて頭をかいた。それは躾のなっていない飼い犬の失敗を目撃したかのような風情を宿している。
苛立ちとともには言い放った。
「おっ、お前こそ警察に出頭しろ。これまでやってきたことの罪を償えよ!」
明智の口から漏れたのは失笑だった。聞かされた言葉の意味を理解するなり、思わずと彼は吹き出していた。
「ぷっ、くくく……冗談が言えるようになったんだ? いやほんと面白いよ。傑作だ、アハハ……」
「こっちは真面目に言ってんだよ! バカにしてんのか!?」
「当たり前だろ」
なにが当然なのか―――今度こそ怒りに顔を紅潮させた少女に、明智は彼の武器の一つである甘やかな笑みを差し向けた。
もちろんそれは、この少女にとってなんの価値もないものだ。
この事実はいささか少年の矜持を傷つけないでもなかったが、ともあれ彼は底意地の悪い意図を込めて言い放った。
「罪を償えと君は言うけど……じゃあそっちはどうなんだ。自分がしてきたことに対する償いをすでに果たしたって言えるのか?」
うっと呻いて言葉を呑んだ少女に、少年は続けて語る。
「不法侵入に窃盗、器物破損に恐喝と暴行、あとは危険物取扱法違反?」
役満というほどではないが、間違いなく罪に問われるべき行いだろう。
明智は笑顔を保ったままさらに言を重ねた。
「阿藤勝利も君が関わらなければ長生きできただろうさ」
「あれは! お前が!」
「さあ? 誰にもそれを証明することはできない。証明できないってことは、罰することもできないってことだ」
「なにが言いたいんだよ……」
「自分で考えろ」
冷たく突き放すと明智は背を向けてスポットライトから抜け出した。
空に月はなく、霞のような雲がかかって星々の瞬きも遠ざけられている。闇に溶け落ちそうなその背には制止を呼びかけた。
「待てよ! 待ってってば!」
追い縋ると今度は彼女のほうがスポットライトの下へやってくる。
弱々しい人工光に照らされながら、はこわごわと彼に語りかけた。
「な……なんでそこまでするんだ? あんな男のために、どうして人を殺したりまでする? それでお前にどんな得があるってんだ?」
明智は足を止め、ふり返りもせずに低く笑った。
「ずいぶん今さらだな」
「訊こうとしてた。そのうち話してくれるとも思ってた。でも結局、最後までどっちもなかった。そんな余裕も」
「へえ、『今は』あるってこと? ふぅん……」
「なあ吾郎、もうやめようよ。わ、私も自首するから……」
「つまんない冗談だな」
「まっ、真面目に、言ってる……」
少女の声が妙に掠れて震えていることを怪訝に思って、明智は首を巡らせた。そしてそこにあったものを見てぎょっとすると、今度は彼のほうが後退りはじめる―――
「うぐぐ……なんで……なんでこんなことに……」
「ちょっ、うわ、それも冗談じゃないのかよ!?」
上ずった声をあげた彼の視線の先、は目と鼻から水を垂らしていた。ある意味ではこれは彼女の武器だろう。主に相手に撤退を促す効果がある。
そしてそれは明智にも効果があるようで、彼は完全に腰を引けてさせて顔を引きつらせていた。
「だっで吾郎がぁ……真面目に言っでるのにぃ……」
「うわあ面倒くさ」
包み隠さず心情を表して、しかし少年は退くことも進むこともせずその場に留まった。
「私を……ぐすっ、消しにきたじゃんかぁ……」
「ああうん、そうだね。うんうん」
「わかってないのかよぉ、私が目的果たしたら、消されたってことは……」
「生きてるけど」
「真面目に聞けよっ! お前だって目的を果たしたら、けっ、消されるかもしれないんだぞ! どうせどこかで、やっかい払いされるにきまっ、決まってるんだ!」
ぼろっと大粒の涙が溢れるのを見て、少年は舌打ちをする。あるいはそれは、彼女の発言に対するものだったのかもしれない。
「ほんと、意外と頭も働くな」
「意外とが余計なんだよぉ……お前こそどっかに逃げるなり、身を隠すなりしなきゃ、消されちゃうって……」
「あーはいはい」
うんざりとした様子で首の後ろをかく。そこに驚きやうぬぼれは無いようだった。
証明するように彼は言った。
「君が彼を『保険』に使ったように、僕も『保険』はかけてある」
はずずっと鼻をすすって目を瞬かせた。
「そういう意味じゃ、君はもう本当に用済みなんだよ。さっさと舞台を下りてくれないか」
「で、できない……」
また頬を滑り落ちる水滴を見てしまったからか、明智はこれ以上は付き合いきれないと言わんばかりに背を向け、荒々しく大股に踏み出した。
「それなら好きにしろ。なんにせよこの≪地獄≫にいる限り、すぐにまた会うことになるんだから」
そして彼は今度こそ、どれだけ呼び止められても足を止めなかった。
結局明智の語る『保険』というものがなんだったのか、が理解することはなかった。
何故なら再開された獅童のパレス攻略の中で邂逅を果たしたとき、彼はわずかにも彼女に対する慈悲を見せず、決して容赦もせず、最後には隔壁の向こうに姿を消して、末期を悟らせることもなく消え失せたのだ。
ナビは間違いなく明智の反応は消えたと述べた。
それでこの話は終わりで、後に残ったのは寂寞のようなものだけだ。
派手な『予告状』を突きつけた割に、世間の反応は芳しくない。
それに違和感を訴える者もいたが、改心の結果が出るまで他に打つ手もなし。少年たちは日常に埋没して潜伏を選んだ。
喜多川もまたよくある―――とは少し言い切れない―――男子高校生としての日常をこなす傍ら、日増しに募る不安を情熱に転化するかのようにキャンバスに打ち込んだ。
そうしている間、彼は概ね煩瑣とした世の雑事から切り離される。嫉妬も羨望も、同調や期待も、なにもかも彼には届かなかった。
例外は仲間たちからの呼び声だろう。
このときはさらにもう一つ意味を加えた相手からの短いメッセージを受信して、昼休みの時間を注ぐことを中断させる。
『今すぐ屋上にこい』
喜多川は筆を置いて、首を傾げた。制服に絵の具が飛んではまずいと身に着けていたエプロンを外し、片手で折り畳みながら返信する。
『どこの?』
もっともな返答に、しかし相手は苛立ちを示す絵文字とともに答えた。
『校舎のだよ! 西棟!』
思わずと窓の外へ視線をやる。対面に建つ校舎の屋上は立入禁止だったはずだが―――
しかし相手が彼女となれば、鍵も柵も、高低差もなんの意味もないと彼は知っているから、得心して手早く道具の片付けに取り掛かった。
最大限急いだつもりだが、美術室を出るころには昼休みはもう半ばを過ぎてしまう。
慌てて駆けつけた先、施錠されているはずの戸は当然と言わんばかりに鍵はかかっていなかった。
「―――?」
重いスチール扉を押し開けつつ呼びかけると、呼び出し主は上から降って湧いてきた。
「遅い!」
「そうは言ってもな。突然すぎる」
「うっ、それは、ごめん」
呻いた彼女に歩み寄ると、背後で戸がバタンと閉まる音がする。十二月の冷たい風が重い戸を押し戻したのだろう。喜多川は乾いた風に乱された前髪を指先で払い除けつつ、目の前の少女をまじまじ眺めた。
彼女は腕を後ろにやって、俯いて、落ち着きなくつま先を揺らしている。
「どうした? なにか急ぎの用件か?」
すわ緊急事態かと若干の焦りとともに問いかけると、は俯いたまま後ろに回していた腕を彼に向けて突き出した。
「ん」
そこには渋い色合いの巾着袋が吊られている。濃い緑に、小豆色の底。口を締める紐は鮮やかな猩紅―――喜多川は取り留めもなく宇治金時が食べたいと思った。
しかしこれといった言葉もなく差し出されては、さすがの彼も戸惑う他ない。
「これは?」
と問いかけるが、はそっぽを向いてますます前に袋を突き出すばかりだ。
「ん!」
「だから……」
「いいから受け取れよ! 腕疲れちゃうだろ!」
じれったそうに喚いた彼女の頬は、よくよく見れば何某かから赤く染まっている。
よく分からないが―――機嫌を損ねる前に掴んだほうが良さそうだ。
喜多川はうやうやしく差し出されたものを受け取った。
「なんなんだ?」
また問いかけてみるが、やはり彼女は答えない。また俯いて、じっとつま先を睨んだまま、あーとか、うーとゾンビのように呻くばかりだ。
埒が明かないと、喜多川は袋の口を開いて中を覗き込んだ。
途端ふわっと香ばしい匂いがして、彼の忘れられていた空腹感を呼び覚ます。
飾り気のないタッパーの蓋は半透明で、薄っすらと中身が見えている。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた白米と、おかずがいくつか。全体的に茶色い部分が多く、色合いとしてはあまり褒められたものとは言えなかった。
声を失った彼を不安げに見上げながら、はやっとまともな言葉を発してみせた。
「食べたいって言ってただろ……」
緊張から掠れて上ずった声が耳に触れた瞬間、喜多川は心臓を内側から握り潰さんばかりに掴まれたような心地になった。
よくよく見れば、胸の前で交差された指には絆創膏が貼られている。
なんてベタな。
思うも口にはせず、喜多川はともすれば笑い出しそうになる口元を片手で覆った。
「ありがとう。嬉しいよ」
くぐもった声でそうと告げるのが彼の精一杯だった。これ以上をと求められたら、あとはもう叫び出して走り回る他ない。
そしてどうやら、にしてもそのリアクションで正解だったらしい。
ふんと鼻を鳴らし、顎を上げて居丈高な態度を取りつつも、その口元は隠し切れない照れや喜びによって緩んでしまっている―――
喜多川は、校舎から死角になる場所を選んで腰を下ろすと、早速とこの手製らしい弁当に手つけた。
「いただきます―――」
鼻先をくすぐる白米の甘い香りに、焦がした醤油の芳ばしさ、胡椒やごま、酢と砂糖……
渾然一体とも雑然とも言える香りこそ弁当の楽しみの一つだろう。つい先日味わった高級仕出し弁当と比べれば当然質は落ちるだろうが、そばにしゃがみこんでそわそわと落ち着きなく手をすり合わせる少女の存在を併せれば、彼にとってどちらが好みかは歴然としている。
手始めにとカップの中に盛り付けられたほうれん草の白和えに箸を伸ばす。形の不揃いな人参とこんにゃくが一緒についてくる。
口に入れて咀嚼する間じっと見つめられるのにはいささか困りこそすれ、ほのかな甘みとごまの香り、軽く出汁で下茹でされているらしいこんにゃくの食感は、端的に言って彼の好みだった。
「うん、うまい」
飾り気なく告げてやると、ずっと不安に揺らいでいたの表情はぱあっと明るい陽が差したかのように輝き始める。
「そうか! よかっ……こ、この私が作ったものがマズイわけないだろ!」
どうしてそこで素直に喜べないのか。思えどやはり口にはせず、代わりに次のおかずを噛みしめる。れんこんとごぼうをマヨネーズで和えたサラダだ。噛むたびじわりと旨味が溢れ出る。
「ほ……ほんとに? うまい? ちゃんとできてる?」
「ああ、この唐揚げ、生姜の風味がよく効いていて飯が進む」
嘘偽りなく答えると、はいかにも興味がないふうを装ってさらに問う。
「……ふ〜ん……ほ、他は……」
「煮豆は出来合いを買うとやたら甘く味付けされたものに当たることがあるよな。けど、俺はこれくらい控えめなほうが好みだ」
「そう。そうなの。へー……」
感心と安堵の入り混じった声を上げ、はその場に座り込んだ。
喜多川は預かり知らぬことではあるが、ここ数日彼女は高巻や新島の手ほどきを受けて連日調理の練習に勤しんでいた。
両親と生活していたころは通いの家政婦がいたし、それが失われてからの食生活のほとんどを外食やレトルトで済ませていた彼女に基礎を叩き込むのにはそれなりの苦労があったらしいが……
最終的に教師役の二人と副審を務める奥村、双葉のお墨付きを頂戴して、この日、朝からレンタルキッチンでこの弁当を拵えたというわけだ。
とにかくレシピを見ろ、アレンジするな、計量はきちんとやれ、逐一味見しろ。以上四つの決まりごとを守った結果、の人としての体裁は保たれた。
あとでみんなにお礼言わなきゃ。思いつつ、は止まることなく進む箸を眺めて楽しんだ。多少焦げ付いていることもあるが、そこはご愛嬌というものだ。
そのうち、彼女は聞かせるつもりもあまりなさそうな調子でポツリとつぶやいた。
「何度か」
喜多川は視線を彼女に移して、熱い茶に息を吹きかけながら続く言葉を待った。
「あいつと飯を食べたことがある。だいたいいつもコンビニかスーパーで買ってきた弁当だったけど」
彼女の言うあいつとやらが自分以外の他の男であることは面白くないが、しかし少年は沈黙を保ったまま頷いてみせた。それはそうか、二年ほども付き合いがあれば、幾度かそういう機会に恵まれることもあるだろうとして。
は懐かしがるでも、かといって悲しむわけでもなく、ただ淡々と、なんの感情も織り交ぜずに続けた。
「いっつも会話もなんにもないし、冷めた弁当は全然美味しくなかった。でも、誰かと一緒にご飯を食べられるのが、あのころは本当に嬉しかった……」
「そうか」
応えて、喜多川は茶をすすった。
大して興味もなさそうなその様子にか、は苦笑する。
「餌付けされてたのかもな」
それはきっと、と喜多川は胸の内で思う。
体面や体裁を気にしてというばかりではなく、わずかばかりにでも情があったのだろう。己の師がそうであったように。
そしてきっとそんなことは彼女もよく理解しているだろうから、わざわざ言葉にしてやる必要はなかった。
「不味い弁当だったんだよ。本当に」
つまらなさそうに言って、は俯いた。
喜多川は再び箸を取り上げて、形の悪い肉団子を一つ口に放り込んだ。
「」
「ん?」
「美味いぞ、これ」
「うん……」
頷いて、はやっと微笑みを返した。