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28:Optical illusion-c
週末の早朝、頭目とナビゲーター、そして猫の姿が松下動物病院の前にあった。
やっと日が明けきったころだ。民家の内に気配はあるが人通りは無く、また休日であることもあって車通りもほとんど見られない。
「ふわぁ〜……」
大あくびをもらした双葉の腕に抱かれたモルガナも、まだうとうとと船を漕いでいる。
そこへ音もなくが降り立った。
舗装されたアスファルトの上に見事に着地した彼女に驚きもせず、少年らはおざなりに「おはよう」と朝の挨拶を済ませた。
「まだキミらだけ?」
「ん? なんだカレシの心配か? はえーよ」
「ちがっ……双葉あっ!」
揶揄する言葉に声を荒げるを嗜めたのは頭目のほうだった。
彼はしきりに眠たげな目をこすり続けている。
「うー、眠い、キツい、ダルい……やっぱやめときゃよかった」
「言い出しっぺだろ」
「だからちゃんと一番最初に……ふわあ……」
今度はが彼の大あくびを嗜める番だった。
三人と一匹はしばらく雑談をして待つこととなる。朝食はとってきたか、睡眠時間はいかほどか……これから向かう先に関する話題には一切触れられなかったのは特別意識してのことではなく、単にまだ覚めやらぬ眠気のせいだろう。
そのうち仲間たちもそれぞれタクシーやバイクを乗り付け、あるいは徒で集まり始める。
「おはよー」
「おはよう」
挨拶もそこそこに、全員が集まったことを確認して頭目はスマートフォンをさっと構えた。
「そいやキーワードは分かってんのか?」
すっきりした様子の坂本が問うと、彼は相変わらず眠たげな様子で答える。
「こんなの推理するまでもな……ふわ……」
噛み殺しきれなかったあくびを口の端からもらしつつ、少年は液晶画面を皆に見えるよう差し出してやる。
待機状態のイセカイナビにはすでに『志田沼啓治』『松下動物病院』と入力されている。そして最後の項目、キーワードにはこうあった。
『猟場』―――
なるほど推理する必要は確かに感じられない。実に安直で、ストレートな表現だ。
怪盗たちは近隣の住民が目を覚ます前にとすぐにパレスへ飛び込んだ。
めまいに似た感覚の後、湿り気のある土の上に足がつく。
見回した周囲は霧に包まれた林の中の小径だった。
真っ直ぐに天に向かって伸びる木々は杉か小楢か。足元に落ちた葉はいずれも腐って形を失っているため判別はつかなかった。
道の先も後も、霧が隠してしまっている。
「なるほど、猟場ね」
顎を上げて鼻を鳴らしたのは新島だった。湿気を含んだ風に眉をひそめつつ、じっと霧のむこうを睨みつけている。
なにより彼女はパレスに飛び込む直前から身にまとっていた明るい色のジャケットと黒のスキニーのままだ。
それは他の面々にしても同じことだった。
「服は元のまま、か」
こちらは白の圧縮ニットにいかにも暖かそうなボアブルゾンのが。
趣もシルエットも全く違えた二人の少女は互いを見やって苦笑し合った。
無遠慮にもその間に踏み入ったのは坂本だ。彼は興味深そうに辺りを見回しながらそのまま踏み進み、まとわりつく湿気を追い払うように腕を振った。
「ま、むこうはそもそも俺らに狙われてるとすら思っちゃいねぇだろうしな」
「世間的には死んだことになっているのもあるだろうな」
喜多川が同調してその隣に並んだ。この少年たちもまた見た目には正反対だが、中身はだいたい、似たようなものだろう。
それでもここがパレスだと皆が確信しているのは、迷い込んだこの風景よりも二足歩行姿に変じたモルガナの存在が大きい。
直前まで双葉に抱えられていた彼は腕から逃れるとすぐに背後を振り仰いだ。
そこにある仮面に隠されていない少女の顔色は優れない。
「ふむ、どうやらオマエも感じているみたいだな」
「うん……なんかイヤなかんじ。モナはどんなんだ?」
猫は短い腕を組んでふむと一度唸ってから答えた。
「そうだな、毛がゾワゾワする感覚があるぜ。この霧のせいかもしれん」
感知を担当する二人の間には頭目が割り込んだ。
「オタカラのニオイはどうだ?」
問われてモルガナは直ちに鼻をひくつかせた。ヒヤリとした冷気がヒゲの先を刺激したが、その中に含まれるほんの僅かな―――芳しい『宝』のニオイを、彼は確かに感じ取った。
「……微かだが、あるな。けどだいぶ遠いぜコリャ」
短い指と小さな肉球が少年たちの前方、霧に阻まれた道の遥か彼方を指し示す。
とはいえ方向が分かるだけマシというものだろう。頷いて、頭目は次に双葉に目を向けた。
「地形の把握は可能か?」
「おおむねだいたいは。高低差はほとんど無い平坦なマップだな。ただ、やたらめったら広くて……」
「東京ドーム何個分?」
「二百個くらいかなぁ」
「デカっ!?」
素っ頓狂な声を上げた高巻に、双葉はチチチと指を振る。
「実際には言うほどでもないけどな。まあ任せとけって」
軽口とともにどんと平坦な胸を叩きもした。
途端彼女の足元からは蒼い炎が噴き出し、背後にはその半身が浮かび上がる。浮遊する球体から伸び出た『触腕』は直ちに痩身を絡め取り、その内部に収めた。
ナビゲーターの準備は整ったと見て、怪盗団の長は音頭を取るべく指を鳴らした。
「だからなんでいちいち……」
「もうツッコむなって。ナビ、どっち行きゃいいんだ?」
苛立つファングを諌めつつ、スカルはさっとノワールがずっと肩に下げていた『荷物』を貰い受けた。
「あらっ? まあ、ありがとう、スカル」
「いーよこんくらい。……てか今さらだけどさぁ、仮面ないのにコードネーム呼ばれんのちょっと照れねぇ?」
「そうかな? 私はあまり気にならないけど……」
ナビの指示を受けて歩き出したジョーカーに倣い、一同はめいめい雑談などしつつ連れ立って霧の中を進み始めた。
―――さて、東京ドーム二百個分とは即ち、おおよそ十平方キロメートルである。これは小規模な市町村であればすっぽりと入るほどの大きさで、おそらくはパレスの主が動物病院を中心に付近一体を猟場と認識していることの表れだろう。
広さという意味ではナビが語った通り、実際に大したことはない。壁のように阻む段差や大木こそあれ、迂回は容易で起伏は平坦だ。若者たちの健脚にかかれば、端から端までは一時間もあれば踏破できる。
問題はその道が舗装もされていないむき出しの地面であるということくらいだろう。
そしてそれが最大の問題だった。
「きゃっ!」
愛らしい悲鳴を上げてノワールの身体が傾いだ。そばにいたファングの腕が咄嗟に抱きとめていなければ、彼女は岩だらけの地の上に倒れ込んでいたかもしれない。
その華奢な足元を彩るバレエシューズは本来光沢のある素材をすっかり傷だらけにして艶を失ってしまっている。
これでは現実世界に戻った後、処分せねばならないだろう……ノワールはファングに礼を言いつつ己の足元を悲しげにさすった。
先頭に立っていたモナはふり返り、大きな青い瞳を細めていかにも呆れたと言わんばかりにため息をついている。
「ノワールぅ、オマエというやつは、ドンくさいにもほどがあるだろ……」
辛辣なことを言ってのけるが、そんな彼の背後には何故か既に半身が控え、彼女の身に傷はないかと覗き込んでいた。
素直に心配だと言えばいいものを……
とはノワールでさえも思っていたことだが、そこを刺激すればモナもまた、火に放り込んだ栗か竹の如く爆発することは皆知っている。怪我のないことを知って引っ込んだ彼の半身とともにこれを飲み下した。
とはいえモナの弁に筋が通っていないわけじゃない。
ノワールの腰を掴んだままのファングはふむと唸るなりしゃがみ込み、もう片方の腕をフレアスカートから覗く膝の裏に差し込んでぐいと彼女を持ち上げた。
「ひゃ……えっ? え? ファング?」
俗に言うお姫様抱っこの状態で持ち上げられて、ノワールは慌てた様子で腕をさまよわせる。
「アシストスーツは本来こういう使い方をする物だからね」
ファングは真剣にそう言い放ったが、ノワールも周囲も困惑顔だ。
「絵面がね。悪くはないけどアヤシイんだよね」
「怪しい……? 誘拐犯にでも見えるってこと?」
代表としてパンサーが述べたことに、ファングは首を傾げる。
そういう意味ではない―――意志のこもった視線を向けられて、二人は互いの顔を見合わせた。
「なんつーか、ファングがやらなくていいだろって感じ……?」
「そうか? ノワールは軽いし、動きに支障は出ないと思うけど」
「まあまあ、そういうのは男子がやればいーのよ」
スカルの言にファングは首を傾げるが、続くパンサーの主張には思うところがあったのか、曖昧に頷きつつも丁寧にノワールを地の上に戻してやる。
「えっ」
驚いたのはノワールのほうだ。ファングに運ばれるのだって充分恥ずかしいことなのに、この上まだ他の―――『誰か』の手を借りるなんて……
思いつつも彼女の目は動向を見守っていた少年に注がれている。
彼は承知して頷いた。
「両手が塞がると困るから、おんぶでいい?」
「えっ!?」
「うん? 俺をご指名じゃなかったか」
「うっ、ううん、でも、私……お、重いかも……」
少年はふっと口元を緩ませて、笑ってみせた。
「やってみれば分かる」
そしてその場に膝をついて背をノワールに向ける―――
他の面々はジョーカーにノワールを任せるのならばとすでに数歩先を行っていた。
この上さらに彼を待たせて、皆の足を止めさせるわけにはいかない。だから、とノワールは己に言い聞かせて少年の肩に手を置いた。
目の前に晒された背は、なんだかいつもより大きく、たくましくノワールの瞳に映った。
「えっとじゃあ、乗るね……」
「いつでもどうぞ、センパイ」
こんなシチュエーションで『先輩』と呼ぶなんて、意地悪だ。
ノワールは頬を赤く染め、それでも脚を彼の腕に絡めるようにして差し出した。
―――その背後で、かすかに物音がする。
真っ先にふり返ったのはナビだった。とはいえ彼女はずっと己の半身、浮遊する球体に身を預けていたからその身は誰の目にも映らないが、彼女が発した警告は素早く一同に行き渡った。
「警戒ッ! 六時方向に敵影四つ!」
またたく間に全員の姿が『ただの高校生』から『怪盗』に変化する。得物を構え、背後に向き直った彼らの目には、しゃがみ込んだジョーカーと、それに覆い被さろうとするノワール、そして霧の向こうから猛然とした勢いでやってくる獣―――
四匹の黒い犬だ。顔には仮面を着けている。
「猟犬ってこと?」
「だろうな」
短く言い交わして、パンサーとフォックスはそれぞれジョーカーとノワールを捕まえて右と左に押し退けた。
空いた場所にクイーンが踏み入り、猛然とした勢いで突っ込んだ獣の仮面のことごとくを瞬時に叩き割った。
「正体を見せなさい―――」
「俺の仕事……」
引き倒されたジョーカーが泣き言を漏らしながら立ち上がる。
そのすぐそばに、『猟犬』としての形を保てなくなったシャドウが本来の姿を取り戻して顕現する。
とはいえ変化はあまりない。結局それも黒い毛皮に、あかあかと燃える瞳をした垂れ耳の犬だ。ただし、毛はふわふわの巻き毛で、大きさは仔牛ほどもある。
「うわっ、かわいくない!」
叫んでジョーカーはその場を飛び退った。着地より前に懐の拳銃を抜き放ち、至近距離から弾丸を挨拶代わりにと叩き込んで地に足をつける。
悲痛な悲鳴が霧の中に響き渡った。
「あっ……かわいそう……」
ファングの言葉に、彼女の傍らに控えていた半身―――犬種は違えどこちらも同じく黒犬のグリムが、クゥンと悲しげに鳴いた。
ジョーカーは苛立ちとともに怒鳴りつけようとしたが、すぐそばに火炎の塊が叩きつけられてまたさらに飛び退る。
「……パンサー! 俺を巻き込む気か!」
「ごめーん!」
両手を合わせて申し訳なさそうにするパンサーの後ろでは、シャドウの体力や与えたダメージを数値化して観測するナビがふむと唸っている。
「しかも効いてない。炎は無効化されてんな」
「げー、じゃあ私下がってる……」
項垂れて、パンサーはその場にしゃがみ込んだ。元より位置しているのは後方だから、誰も彼女の姿勢に文句はつけなかった。
「炎がダメってんなら、氷がセオリーだな」
「相分かった、しばし待て―――」
すでに組み合いの距離に入っていたフォックスは、巨体を刃によって牽制して距離を取る。
足止めにと前へ出たのはスカルとクイーンだ。
「よいっ……しょっとぉ!」
「せぇいッ!」
気合とともに得物を振り、追い縋ろうとする巨体を押し返す。
当然その間にフォックスは支度を整えている。
視界を狭める霧さえも凍りつかせるような冷気が迸り、巨体な犬の喉元に喰らいついた。
「あーだめだこりゃ。氷もちがうな」
「む、そうか……ならば斬り捨てるのみ」
「ちょい待て、コッチはどうだッ?」
足元をすくい上げるような烈風がフォックスのすぐ脇を通り抜けた。これははしっこく巨体の足元を駆け回ってシャドウらを翻弄していたモナが放ったものだ。
目に見えぬ壁のようにのしかかり、真空を生み出して分厚い皮膚を裂いた烈風は黒犬たちの身を傾がせたが、しかしやはりこれも弱点と言うほどではないようだった。
「ふーむ……よしファング! おまえの出番だ、いけっ!」
「ええ……やり辛いよ。かわいそうだよー……」
「言っとる場合か。はよやれ」
「う、う、う……グリム〜……」
項垂れながら彼女もまた仮面を引き剥がして己の半身を呼びつける。呼応した尖った耳の犬の声はどうにも弱々しいが、しかし放たれた攻撃は間違いなく垂れ耳の犬たちの身体を叩いて弾き飛ばした。
悲痛な声にファングは耳を押さえてきつく目をつむった。そんな彼女に、ナビは無情にも事実を突きつける。
「はい違った。てかこりゃ半減されてるな。効いてないよ」
「じゃあやらせるな!」
「やらなきゃ弱点かどうかわかんねーだろぉ」
「ナビ!」
しれっと応えたナビに向き直り、ファングは吠える。
その無防備な背を狙って一匹が躍り出たが、これは辿り着く前にクイーンが叩き潰し、本来あるべき場所へ押し返した。
「残り三! 遊んでないで片付ける!」
「ううー」
相変わらずやり辛いと訴えながらも、ファングもまた戦線に加わった。
さて、ノワールは引き離されたときの姿勢のまま、一人俯いて地面に『の』の字を書いていた。
「別に悔しくなんかないもん。あとちょっとだったのになんて、思ってないもん。別に……ううー……っ」
八つ当たりをするように、華奢な手が地面を何度も叩き、書かれた無数の『の』の字をかき消した。
当然そんな隙だらけな彼女を、シャドウが放っておくはずがない。
壁のように立ちはだかる二体に手こずる間にもう一体が激しく地を蹴立て、巨体に相応しい鋭く大きな牙で少女のやわらかな皮膚と肉を引き裂かんと襲いかかる―――
「……別に、怒ってなんかいません、いないけど、けど……私だって少しは―――っ!」
言葉の最後は彼女の足元から噴き上がった蒼い炎と、そこから現れた半身が叩きつけた不可視の力が巨体をへし曲げる音に遮られて誰の耳にも入らなかった。
ファングは再び涙目になってその場にしゃがみ込み、耳を塞いで犬たちの悲鳴から逃れようと足掻いている。
彼女は結局、総攻撃には参加しなかった。
霧の中に浮かんだドアをくぐると、そこはどこか民家のリビングに繋がっていた。
「あ、セーフルームか」
ぽんと手を打って納得するなり、ジョーカーは遠慮杓子なく置かれていたソファの上に腰を沈めた。
「そっか、この林って病院の周り一帯だもんね。そりゃ人んちの中なんて認知の外だわ」
隣にはパンサーが。彼女少し遠慮がちに腰を下ろした。
毛足の長いカーペットが敷かれているからか、はたまた数に限りのある椅子やソファの面積を気にしてか、スカルやフォックスはやれと息をついて床に直接着座する。
ノワールは少し迷ってジョーカーの隣に腰を下ろそうとして、飛び込んだナビに先を越され、ガックリとしながらベンチタイプのソファに腰を落ち着けた。その隣にファングが、二つあったスツールにはクイーンとモナがそれぞれ座る。
長方形を描いたガラスのローテーブルを囲んで、全員の口から同時にため息が漏れる―――
奇妙な沈黙の後、スカルが口火を切った。
「警戒されまくりじゃねーか、あんだよあのシャドウの量」
疲れと苛立ちのたっぷりと籠められたこれに、クイーンは苦笑して肩をすくめる。
「よくよく考えてみれば、長年その犯行を悟らせなかった人物だもの。この警戒心の強さで悟らせずに済ませていたんでしょうね」
「ふん、小心者の空威張りか、忌々しい。モナ、オタカラまであとどの程度ある」
「近づいてはいるぜ。ニオイ自体はもうすぐそこだ」
フォックスの投げた問いにモナが答えると、補足するようにテーブルを挟んだ対面のナビが言を継いだ。
「ちょっとこっから道が入り組んでる。もうしばらくはぐるぐる歩いてもらうよ」
彼女はだらしなく身を投げ出し、ジョーカーの腿の上に頭を乗せている。ノワールが羨望の眼差しでもってチラチラと窺っていることには、彼女も枕も気がついてはいない様子だった。
「マジかよ……てか今何時? 俺らどんくらい潜ってんの?」
これにはパンサーが答えた。
「んと、うわ、もう五時間くらい経ってる」
「最初のシャドウに見つかってからほとんど途切れず進んできたから、合わせれば三時間くらいは戦闘してたことになるわね」
「そら疲れるわけだよ! なあジョーカー、マジでこのまま進むんかよ……?」
縋るような視線がスカルからジョーカーへ向けられる。他の面々も疲れの滲んだ眼差しを彼に向けたが、だらりと肢体を伸ばしたオレンジ色の髪を器用に編み込んでいた手に疲れはない様子だ。
「俺はまだ余裕あるけど」
事実彼は平然とした様子で言い放った。
それは彼が被る仮面の内に自己回復の能力を有するものがあるからであって、他の面々には通用しない。
もちろんそれは彼も承知だろう。考え込むように顎をさすって、編み込む手は止まった。滑らかな髪は押さえを失ってすぐに解けてもとの通りになる。
「警戒されていない状態でこれだろ。万が一でも志田沼に俺たちの存在が感知されれば、ますます面倒なことになりかねない。やっぱり可能な限り進んでおきたいかな」
「そうなんだよね……」
重苦しいため息をついて、クイーンは上体を伏せて頬杖をつく。組んだ両手の上に顎を乗せ、揃えた足先で落ち着きなくカーペットを叩きもした。もちろん彼女は土足のままだ。
「今のところシャドウ単体の強さ自体は大したことないのよ。次々に出てくることが厄介なだけで……ルート確保もできない内に数を増やされたり、より強いシャドウが出てこられたら堪らないわ」
頭目と参謀の結論は作戦の続行だった。
となれば他に策があるわけでもなし、子どもたちは項垂れて決定を受け入れる。
またジョーカーは物憂げな様子で、
「二手に別れて、なんてのも考えてたけど、やらなくて正解だったな……」とぼやいた。
乾いた笑いがパンサーの喉から漏れる。
「メンバー割間違えたら死人が出るやつじゃん、それ」
「せやな。やらなくてよかった」
おざなりに返答しつつ、ナビの頭を重いの一言で膝から落としつつ―――「中身がぎっしり詰まってるからな。だれかさんと違って!」―――彼はソファの背もたれに深く身を預けた。
どこのどちらさまのお宅が再現されているのかは分からないが、なかなかの座り心地だ。こういうの、あの屋根裏部屋にも欲しいな。なにしろあそこにあるソファは店の備品のような物だから、決して悪くはないが上質には到底届かない。
益体もないことを考えていたジョーカーの耳に、「ぐー」という間の抜けた音が届いた。
ハッとした彼が天井と見つめ合っていた顔を戻すと、ちょうどフォックスが首を左右に振っているところだった。
「俺ではないぞ」
そう言った彼に苦虫を噛み潰したような顔をしたのはファングだ。
否定せず適当に流してくれれば『では誰が』などという思考は生じなかったはずなのに―――
そして、そのように訴える表情こそが彼女を犯人に仕立て上げている。
「くん」
「はい……」
ファングは項垂れて膝を抱えた。
「飢えてるのか?」
「朝食べてないから……」
「寝坊した?」
「二度寝した……」
「お前ほんとロボット以外はポンコツだな」
「ほっといてくれよぉ!」
顔を上げて喚いた彼女の鼻をくすぐったのは頭目の嘲りのこもった笑いではなく、食欲をそそる芳しい香りだった。
「あれ? 夢?」
「違うよ」
隣にいたはずのノワールはいつの間にか立ち上がっている。彼女はテーブルの上に取り分け用らしい紙皿を並べ、クスクスと笑っていた。
夢か幻と言いたくなるのも無理からぬ光景だ。テーブルの上にはところ狭しとノワールの『荷物』が広げられている。
ところ狭しと置かれた重箱の中に、色鮮やかな旬の野菜の煮物や天ぷらと、海の幸と山の幸が勢を競うように並べられ、だし巻き卵が黄金のように輝いている。
ご飯は山菜のおこわと白く美しい白米が、こちらも一粒ひと粒が艶をもち、湯気が立っていないのが不思議なくらいの輝きを放っていた。
またお重とは別に、唐揚げやきんぴらごぼう、茶碗蒸しやまぐろの炙りなんてものもある。いずれにしたって照りと艶、香りと、空腹を促す強烈な魅力をこれでもかと放っている。
ノワールは照れたようにはにかみながら、未だこれを夢か幻と疑うファングに箸を差し出してやった。
「えっと、私が作ったものもいくつかあるけど、ほとんどはお父様がよく利用なさっていた料亭にお願いしたの。お口に合うといいのだけど……さ、どうぞ召し上がって?」
ファングはなにも言わずに箸を受け取り、ノワールにしがみついた。
「ノワールすき……」
「まあ、ありがとう」
すでに両手を合わせて一礼の後箸を伸ばしていたジョーカーは、何故か悔しそうに歯噛みするフォックスに自前のコーヒーを差し出してやった。
「いや和食にコーヒーは合わなくね?」
すかさずスカルが。彼もまた箸を伸ばし、唐揚げをつまみ上げている。
「おにぎりにコーラ」
「やめろぉ」
嫌がって顔を振るナビの手元には固めに蒸し上げられた茶碗蒸しがある。
「ミルクティーに幕の内……」
ジョーカーの冗談に、どうしたわけかクイーンが追随した。彼女は根菜の天ぷらを抹茶塩で味わっている。
「ちょっとやめてよクイーンまで」
「パンサーっ、マグロ取ってくれ、マグロっ!」
「はいはい……スカル、肉ばっか食べない! ナビも銀杏掘り出すのやめなさい!」
どうなっているのか器用に肉球で箸を掴むモナは念願のマグロを前に尾をぱたぱたと振り、パンサーは己より他人のことが気にかかるのか、白だしで煮た里芋の煮物を取り皿に取ったきりなかなかの食べられないでいる。
さて、ファングは嬉しそうに両手を合わせていただきますと言って、まずはと煮しめに箸を伸ばした。
飾り切りされた人参と蓮根は花に、昆布は結ばれて、こんにゃくはねじられ、彩りに添えられたきぬさやの緑は鮮やか。いずれもが目からも楽しませようと趣向が凝らされている。
もちろん味も満足いくものだった。出汁のきいた上品な風味が芯まで至り、少女を唸らせた。
「ずっとコンビニ弁当ばっかりだったから、こういうの……こういう……おいしい……」
「語彙力が小学生か。いや、フォックス、座ってろ。食レポはいい。座って……座れ!」
「はるぅ、おしぼりくれー」
「はい、どうぞ。双葉ちゃん、これもおいしいよ?」
「うみゃうみゃ……にゃあぁん……」
「やべ、モナが猫化してる。いや猫か。おい猫、ヒゲに食べカスついてんぞ」
「だからスカルは肉ばっか食べてんじゃないって……」
「む……コーヒーも意外と合うな。だが途中に挟むには味が強過ぎる、これでは繊細な味付けが台無しに……いやしかし、ああ……!」
「悶えるのもやめなさい。あ! ファング、髪がご飯食べてる!」
少年たちは騒がしくしながらもごちそうに舌鼓を打った。もちろんこれは比喩表現で、誰も落語家のように舌を鳴らしたりはしていない。
デザートには品種の違う三つのりんごが食卓に供された。
それをつまみながら、ファングはちらりとパンサーとモルガナ、そしてフォックスの背後、そこに下がる長い尾を見下ろしている。
モルガナの尾は当然、肉体と繋がって、彼の気持ちを教えるかのようにゆらゆらと揺れている。どうやら今は『幸せ』を訴えているようだ。
それは分かる。何故彼がそんな姿をしているのかは分からないが、しかし身体の一部なのだから、動いておかしなことはない。
ファングは胡乱げな目を残りの二人に向けた。
「前々から思ってたんだけど、キミらの尻尾、動いてるよな?」
パンサーとフォックスは、それぞれ青森の紅玉と長野の王林を口にしながら同時に答えた。
「気のせいじゃない?」
「気のせいだろう」
そんなはずはない、と抗弁しようとしたファングの前に、岩手のさんさをくわえたジョーカーが割って入った。
「僕は森の精」
「は?」
「ところでくんって料理はできるのか?」
遮りかたも話題の転換も唐突で脈絡がない―――
とはいえファングもそろそろこの少年の珍奇な振る舞いに慣れ始めてきていたから、わけのわからないことは追求せず放っておくのが一番と先の発言は受け流す。
しかし直近の発言にも渋い顔をしてみせた。
「なんでそんなこと答えなきゃならないんだよ」
ぐいと腕を伸ばして、うさぎの形にカットされた王林をひと切れつまみ上げる。
そんな彼女の態度に、ジョーカーはニヤッと口角を釣り上げた。
「なんだ、できないタイプか」
そういえばさっきもコンビニ弁当がどうのこうのと言っていたっけ。
得心して頷く彼に、ファングは直ちに噛み付いた。傍で眺めていたクイーンなどは、そんな安い挑発に乗るようじゃまだまだね、とどこか達観した目つきでもって見守っている。
「そん、ッなわけないだろ! この私にできないことなんてないんだよっ!」
広々としたセーフルーム―――ここに限ってはセーフハウスでいいんじゃないか、と家中を確認して回ったスカルとナビは主張している―――に響き渡った。
誰かが「あーあ」とため息をついた。
少なくともそれはフォックス以外の誰かだ。何故なら彼は、ファングのこの発言に瞳を輝かせている。
そこでやっとファングは己が計略にかけられたことに気がついて、口を引き結んだ。
しかしすでに時遅しと、期待に尾を振る少年が教えている。
動向を見守っていた仲間たちは苦笑したり呆れて目を細めたりするばかりで、助け舟は期待でそうもない。この事態を招いた極悪人は素知らぬ顔で蜜のたっぷりつまったりんごを咀嚼している。
「うぐ、ぐ……いや、ご飯って、人によって好みの味付けがあるし……それに食材にも好き嫌いが……」
「ファング」
もごもごと言い抜けようとする声は、名を呼ばれるだけでピタリと止まる。
「食べさせてくれるな?」
彼は笑顔で、頬をかすかに紅潮させている。喜びというものを表情にすれば、まさにこのようなものだろうと人に思わせるような、真っ直ぐで甘やかな感情表現だった。
「フォックスの勝ちだな。誰かファングに賭けてたやついる?」
「いねーよ。大穴すぎるだろ」
ドローイングデットだと吐き捨てて、モナはすぐ食後の毛づくろいに取り掛かった。
「ううう……なんでこんなことに……」
いらない見栄を張るからだ、とは誰も言ってはやらなかった。
誰もまさか彼女が本当に料理をほとんどしたことがないのだとは思わなかったのだ。
休憩を終え、体力と気力を取り戻した子どもたちは拍子抜けするくらいあっさりとその後の道程を切り抜け、林の奥に佇む小さな古ぼけた小屋にたどり着いた。
あの中からオタカラのニオイがするとのモナの言に従って侵入すれば、なるほど確かに小屋の中にはモヤのような輝きが静かに佇んでいる。
しかし小屋の中は異様の一言に尽きる。みすぼらしい木壁のそこかしこに大型のイヌやキツネ、タヌキにアナグマが、備え付けられた棚にはウサギやハクビシン、リスにネコ、小型のイヌ……様々な動物の剥製が飾られていた。
おそらくこれらは過去に志田沼が狩ってきた『獲物』なのだろう。それを証明するように、獣たちの表情は皆苦悶と屈辱に歪められている。
また壁には二対の猟銃が交差する形で飾られていたが、こちらは銃口が潰されていた。
しかし、さて……
「来るまでのシャドウの数はヤバかった割に、ワナとかなんもねーのな」
猟銃の銃口を覗き込んでいたスカルが言ったことに、仲間たちは同意を示して頷いてみせる。その視線は可能な限り獣たちの無残な姿を目に入れまいと虚空をさまよっている。
セーフルームを出た後もシャドウらの猛攻は断続的に続き、時には待ち構えるように道を塞ぐ形で幾度も現れた。
だというのにこの小屋周辺の空き地に出た途端、それらはぱったりと止んでしまった。まるでここへは近づくなと厳重に言い含められているかのように。
その割に小屋の内部は罠もなく、監視もなく、鍵さえもなく、オタカラと剥製以外に目ぼしいものは全く見当たらないときた。
間違いなくなにかしら厄介なことが待っている―――
カンや経験則から湧く嫌な予感を振り払い、ことさら明るく努めたのはノワールだった。
「でもっ、あとは予告状を突き付けるだけだね。 これでもう酷いことをされるコはいなくなるよ」
「そうだね……これで……」
ホッと息をついて胸をなで下ろしたのはファングだけではなかったが、案件を持ち込んだ分感慨深さはひとしおだろう。
けれど彼女には心底からこれを喜べない懸念がある。
特別隠すようなことでもなかったから、彼女はすぐにこれを口にした。
「ここまで来といてなんなんだけど、大丈夫なのか?」
「なにが?」
しかし明確にその懸念を表現しなかったからだろう、理解の及ばない仲間たちは首を傾げる。あるいは彼らははじめから、それを問題視していなかったのかもしれない。
その可能性に苛立ちながら、ファングは補足して語った。
「怪盗団がまだ活動可能だって知られたらマズいんじゃないかって。ジョーカーはもとより、今度こそみんなも命を狙われるかもしれない……」
不安を滲ませて唇を噛んだのは、その実行犯を思ってのことか。
それは誰にも解らなかったが、そばに立っていたフォックスはいずれもを鼻で笑い飛ばした。
「なにを言っているんだお前は」
「うっ、なんだよ、笑うなよ。だってみんな、怪我とかしたらイヤだろ……」
しおらしく項垂れた少女の姿に快活な笑い声を上げたのはパンサーだ。
「なぁに? もしかして気がついてなかったの?」
「なにを?」
「元々これはキミが持ち込んだ話でしょ? だったらキミがやればいいって話じゃん」
「あー……?」
言わんとすることが解らないと首をひねる彼女に、怪盗たちは忍び笑いをもらした。
その中からジョーカーが答えを教えてやる。
「俺たち九人の他にもう一人、≪怪盗≫がいるだろう?」
「はあ? まさか、アイツを利用するのか? どうやってだよ?」
「そっちじゃなくて。そもそもあいつ別に怪盗じゃないだろ……」
だから、と血の巡りの悪いファングに呆れ果てつつ、ジョーカーは頭をかいてその名を告げてやった。
「忘れたのか? お前は俺たちと出会う前から≪怪盗≫だった―――」
ファングはハッとして仮面の下の目を見開いた。すっかりこちらの名が馴染んで忘れてしまっていたのは確かな様子だ。
そしてまたジョーカーは器用に片目をつむって彼女の神経を逆なでした。
「そうだろ、≪グリム≫。元よりこれはお前の持ち込んだシゴトだ、危ない橋を渡ってもらうぞ」
……
翌日の早朝。松下動物病院には志田沼啓治の姿がある。
それ自体におかしなことはない。何故なら彼は数年かけてこの小さな病院の前院長、松下洋一の信用を勝ち取り、後継者のいないこの場所を譲られるまでに至ったのだ。おかしなことは、何一つなかった。
継いで後、近隣の住民からも信を得るため、善良な獣医という役を完璧に演じきった。
これ自体はたいへんな快感だった。このまま善良になってもいいかもしれないと思える程度には。
けれど彼には他者から理解を得辛い衝動がある。堪えることはできなかった。
―――でも、少し間隔を空けるべきかもしれない。調子に乗ってやりすぎたせいか、この近辺に動物を狙った異常者がうろついているとすっかり噂になってしまった。
しばらくは野良や野生のものを狙おうかと男はほくそ笑んだ。あの子犬のように、と。
しかし、川に放り投げるというのは、執行と処分を同時に行える良いアイデアと思えたが、これは誤りであった。
鳴き声と水音から末期を想像する楽しみはあるが、やはり直接視認できなければ刺激は減る。
そういう意味ではあの少女らには感謝しなければならないだろう。
よもや一度きりのはずの愉しみが、再び舞い戻ってくるとは思わなんだ。
あの少女―――
きっと雨の中、流れ着いたかなにかした子犬を拾い上げたのだろう。目に涙を浮かべて、深く深く頭を垂れたあの姿に、えも言われぬ悦楽を覚えた。
あの少女は子犬を引き取るだろうか?
そうであればいいな。志田沼は軽やかな足取りでまだ無人の院内を進んだ。
動物病院と言っても、獣医師は志田沼だけの小さなものだ。時折前院長の松下が顔を覗かせることもあるが、隠居を決め込んだ老人はよほどの人手不足でもなければ長居はしない。
今は入院患者も件の子犬一匹きりで、深夜番の看護師も自分が行くからと早めに帰した。院内には男が一人きりだ。
子犬をあの少女が引き取ってくれれば、大きくなるのを待ってもう一度、なんなら二度三度と狩りに行けるかもしれない。
その度にあの黒髪が深く垂らされるのを見られるのであれば、待つのもきっと悪くない。
新たな悦びに打ち震えながら、男は入院室の扉をそっと開いた。
十二畳ほどの広さの部屋、左手に鈍く銀色に輝く格子戸が八つ並んでいる。ここがいっぱいになったところを志田沼は一度も見たことがなかった。おそらくそれは幸いなことだろう。
このときも入院室には生き物の気配はなかった。
男は納得しかけて、すぐに大きく部屋へ踏み入った。かすかに消毒用アルコールのにおいが鼻をつく中足音も荒く進むと、子犬が眠っているはずのケージは鍵が開いており、またその中には少しくたびれた毛布が一枚、きれいに折り畳まれて置かれているばかりだ。
他のケージを覗いても、子犬の姿は見つけられなかった。
まさか脱走したのかと思いつつ、もう一度鍵の開けられていたケージを確かめる。
すると畳まれた毛布の上に奇妙なものが置かれていることに気がついた。
厚みのあるポストカードだ。真っ白な紙面の中央に牙を見せて吠える、紅い瞳の犬の横顔が金で箔押しされている。
―――なんだこりゃ。
誰かのいたずらかと紙をひっくり返して、志田沼はすうっと血の気が引く感覚にたたらを踏んだ。
取り立てて特徴のない書体で以下のように綴られている。
『子犬は二度とお前の手に戻らない。取り繕った平穏も。罪なき命を奪った咎を受ける時が来た。グリムの牙は決してお前を逃さない。』
抽象的な文言は、ただの犬泥棒と捉えることもできるだろう。
彼が一般的な獣医師であるならば、善良な一市民であれば。そうでなくとも、多くの者はこんなものを送りつけられたところで首を傾げるだけだろう。
けれどこの男は顔面を蒼白にし、瞳の奥に残忍な本性を揺らめかせて戦慄いている―――
その歪んだ心から落とされた影がうそぶいた。
『なにが咎だ! やれるもんならやってみろや! 馬鹿な連中は俺を善良で無害な男とすっかり信じ切ってんだ、今さら誰がどう言おうと、俺が疑われるわけがねぇんだよ! 』
男は予告状を握り潰すと、すぐにそばのごみ箱に叩き入れた。
予告状を志田沼が受け取ったことを確認して、怪盗たちは再び男のパレスへ降り立った。
その姿は前日と打って変わり、踏み入った瞬間から怪盗としての衣装をまとっている。
「さすがに警戒されてんなー」
己の身体を見下ろしてスカルが言った。イエローのグローブで触れた顔面にも、当然彼のトレードマークであるドクロ面が貼り付いている。
その視界が今日はどうにも煙っている。さすがにこの強行軍から蓄積した疲労が視界をぼやけさせているのだろうか……
不安に思って目をこする彼の耳に、パンサーの戸惑いがちな声が飛び込んだ。
「ねえ、霧濃くなってない?」
仲間たちが彼女に口々に同意するのを聞いて、スカルは小さく安堵の息をついた。どうやら自分一人が不調というわけではなさそうだ、と。
しかしそれはそれで問題であった。
「これでは数歩先も危ういな」
前方へ腕を突き出したフォックスの目には、己の天色のグローブが霞んで映っている。
見回せば、隣に立つクイーンやナビの姿は捉えられても、その向こうにいるジョーカーやスカル、パンサーの姿はぼやけてしまっている。いわんやさらにその奥に立つノワールやファングなど、輪郭がうっすらと浮かぶばかりだ。モナに至っては高さの関係もあってもはやどこにいるのかもわからない。
ジョーカーはふむと唸って足元のモナを持ち上げた。
「ンにゃ……なんだよ?」
「蹴っ飛ばしそうだから、肩に乗ってろ。必要な時以外は降りるな」
「うへー、了解」
渋々ながらも頷いた猫によしと返して、ジョーカーはナビのオレンジ色の髪を一房優しく捕まえた。
「ナビ、構造に変化は」
「それはない。けど、ノイズがひどくて、シャドウの位置はちょっと自信ないな」
なるほど、そうか。と応えて、ジョーカーは再びモナに向かって問いかける。
「ニオイはどうだ?」
「こっちは影響ねぇよ。オタカラも、シャドウも、なんならオマエらのニオイもバッチリだ」
それはつまり、たとえ誰かがはぐれたとしてもすぐに位置を特定できるということだ。
ジョーカーは誰にも悟られぬよう密かに息をついて仲間たちがいるのであろう場所へふり返った。
「二列縦隊、俺が先頭に立つから、絶対に前のやつから離れるな」
それから、とジョーカーは両手でそれぞれモナとナビの頭をかき混ぜた。
「索敵はモナが、ナビはナビに……道案内に集中して。最短ルートを通っていこう」
「ラジュ!」
「うむ、任せとけ!」
誇らしげに応じた二人から手を離し、ジョーカーは再び前方へ向き直る。
その背後でスカルと並びながら、クイーンがいくらか心細げな声を上げた。
「敵が出た場合はどうするの? 同士討ちは避けたいわ」
「あー……色で判断して」
「テキトーか! おい動く前に立ち位置決めんぞ!」
歩き出そうとしたジョーカーの背を掴んで止め、スカルは縦隊を円に組み替えてフォーメーションの決定を行わせた。
大して時間のかかるものでもなし、一同は己の役割と位置を確認すると、再び縦二列になって今度こそ進み始めた。
そこまでした上で常に前後左右の仲間の気配を気にかけていても、気が付けば彼らは互いの姿を見失っていた。
これは怪盗たちの失態というより、ますます濃くなりはじめた霧のせいだろう。
足元から頭上から、たちこめる霧はもうもうと辺りを、少年たちを覆い、もはや見下ろす己の身さえ白く霞んで先端が窺えない。
そんな中、ファングは不安な気持ちを押し殺しながら深呼吸を繰り返していた。ややもすれば見当識さえあやふやになりそうな視界と静寂だ。己の五感を手放さないよう、少女は懸命に呼吸によって胸が上下する感覚に意識を集中していた。
モナとナビがいる以上、仲間たちから離れてしまったとしても合流は容易だ。下手に動いて見当違いな方向へ行ってしまうより、今は落ち着いて動かないでいたほうがいい。
この考えは正解だった。
『みんなだいじょうぶか? 落ち着いてそこ動くなよ、すぐ合流できるよう指示するからな』
ほどなくナビが語りかける声が耳と脳の中間に直接響いた。彼女が己のペルソナを介して語りかけてきたのだ。
思わずと顔がほころびそうになるのを引き締めて、ファングは背筋を伸ばした。
それにしても、みんな、と言うからには、どうやらはぐれたのは自分一人だけではなく、皆々それぞれバラけてしまったようだ。
「この霧じゃしょうがないか……」
苦笑しつつ漏らされた独白に応えるものがあった。
「ファング? そこにいるのか?」
耳に馴染みのある、そしてなにより心細いときに聞きたいと願っていた声だ。低く落ち着いた、けれど暖かみのある声―――
ファングは反射的に答えていた。
「フォックス! ここにいるよ。キミはどこ?」
すぐにファングは後ろ手に手を組んできつく握りしめた。己の発した声が安堵のあまりか、ひどく浮かれたものになっていたからだ。
恥ずかしい。おまけに今、自分は彼が助けに来てくれたみたいに錯覚もしたではないか。彼だってきっとはぐれてしまっただけだ―――
「ここか?」
思考を裂いて、フォックスの腕が霞の中から飛び出した。
ファングは後ろ手に手を組み、脚を肩幅に広げて直立していたから、彼が真っ直ぐ前へ出した手はちょうど彼女の無防備な胸元に突き込まれる。
「ん? なんだこれ……」
また彼の大きな手はその膨らみを掴んで形とやわらかさを確かめるように揉みしだいた。
「うわ、わ、わああ……!」
「ファング? 『これ』はお前なのか?」
「そうだよ! だから放せ! どこ触ってんだ!」
「いてっ! ちょっと待て、俺がなにをしたと……」
「ひい、こっちくるなぁ」
「動くなとナビが言っていただろう」
よたよたと後退るファングの輪郭を追って、フォックスは懸命に腕を伸ばす。もちろん彼は己が彼女のどこをわし掴みにしたのかをまだ理解していない。全くの偶然と幸運による事故だった。
「なんでいつもいつも、こんなことに……」
「よし、捕まえたぞ。とりあえずここは合流できたな」
後ろから両肩に手を置いて、フォックスは心底安心したと緊張を解く。
ファングとて合流できたことによる安堵はあるが、背後の少年がなにに触れたのかをいつ悟るかということに怯えてそれどころではなかった。
「この霧、どうにかできんものか」
「キミの氷で固められたりしないのか?」
ふり仰いで首を傾けるファングの言に、フォックスは少しだけたじろいだ。そんなことを訊かれるとは思ってもみなかったのだ。
それでも彼は親切丁寧に彼女の疑問に答えてやった。
「高低差のない地形を見るに、この霧はおそらく地表面から急激に熱が失われたことで発生したものと思われる」
「ああ、そう言われれば足元冷えるな。で、それが?」
「つまり、下手に冷やすと余計に霧が濃くなる可能性があるんだ」
ふーん、と曖昧に頷いて、ファングはまた新たに湧いた疑問を背後の少年にぶつけた。
「でも冬は空気が澄んでるって言うよな?」
「それは乾燥しているから―――待て、こんなことは小学校の理科で習うようなことだよな?」
「そうだっけ」
反射的に答えて、フォックスは仮面の下の眉をひそめる。ぽかんとした様子のファングの姿が、彼の内に生じつつある不安を大きくさせた。
「俺はお前が心配になってきたんだが……」
こんな単純な気象現象に関する知識さえ有しないとは、さすがに予想外だ。どうにも教養が偏っているとは思っていたが……
憐れみから持ち上がる愛おしさに、フォックスは肩に置いた手を回して意外なくらいに華奢な肩を抱き締めた。―――バカな子ほどかわいい。
その心中をすっかり察したわけではないが、侮辱を感じ取ったのだろう、ファングは牙を剥いてその腕を払い除けた。
「なんだよそれ!? おい、離れろっ」
「案ずるな。きっとクイーンがお前に相応しい教育を施してくれるだろう」
「だからなんなんだよ! ていうかそこは自分がって言えよ!」
「俺も自信はない!」
「偉そうに言うなぁ!」
霧の中に二人が言い合う声が虚しくこだました。
もちろんこれは全員に筒抜けだ。
『ファング、帰ったら少しお話しましょう』
穏やかだが、冷たく怒りの籠った声が割って入る。女王陛下の『お召し』に、ファングは震えあがった。
誰かが距離を隔ててナビを介した向こうで笑っている。
どうやら全員無事で、会話に耳をそばだてていたようだ。それ自体は大変喜ばしいが、しかしファングはへなへなと地面の上にへたり込んでしまう。
『あー……えっと、とりあえずジョーカーとわたし合流できたから。モナ、そっちはどうだ?』
『スカル見っけた』
『いってぇ! いきなりなにすんだこのクソ猫!』
『油断してっからだよ。ワガハイが敵だったらどうするつもりだ、バカスカル』
今度はスカルが喚く声が霧の向こうに響き渡った。
『モナーさっさとこっち来てくれー』
『ほら行くぞスカル。離れんなよ』
『わあってるわ! いちいち指図すんなっての!』
『スカルだけはどこにいるかすぐ判るね。声デカいっての』
『うっせ!』
揶揄するパンサーの声に、スカルは怒鳴り返した。
その声量の大きさにか、全員の背筋を引っ掻くようなノイズが走る。
『うっ、なに―――』
うめき声が誰のものかは、発した人物にも判別つかなかった。
何故ならそれと同時に甲高い発砲音と、
『ナビッ!!』
ジョーカーの悲鳴じみた声が激しいノイズとともに届いたからだ。
反射的に全員が地に伏せる。手や膝をつけた地面からはなるほど、冷気が立ち上っていた。
『どうしたジョーカー、なにがあった! 応答しろ!』
モナの声に明確に応えるものはない。
『うぐ、ううぅ……』
ただノイズと、ナビのうめき声と少年の荒い呼吸音だけだ。
再び発砲音が霧の中に鳴り響いた。
『ジョーカー! どうしたの!? 返事してよ!』
パンサーの声にも返るものはなかった。
ファングは咄嗟に身を起こし、辺りを見回したが、相変わらずの濃霧に右も左もわからない。足元ですら覚束ない中を走り出そうとした彼女の腕をフォックスが見失う前に掴めたのは幸運なことだった。
「逸るな! 落ち着け、冷静になれ!」
「なってる場合かよ! ナビが……ジョーカーも!」
「だからだ!」
日ごろは落ち着いた素振りをみせる少年の大声に、ファングは怯んだように肩を震わせて動きを止める。
腕を放してやっても、彼女はもう無策のまま走り出したりはしなかった。
「ふう……いいか、よく聞け。ナビが負傷したとなれば俺たちの感知能力は大幅に弱まったと言える。だが、モナならばこの霧の中でもすぐに二人を見つけてくれるはずだ」
だからむこうでなにがあったとしても問題はない。
言い切って、フォックスはさらに言を重ねた。
「その間に、俺たちはできることをするぞ」
「……なにしたらいい?」
「わからん」
「おい! なんだよそれ!?」
「先も言ったがこの霧に俺の力はあまり意味がない。別の方向からこの事態の打開策を探らねば」
「なんにも思いついてないんじゃないかよ……そもそもなにがあったのかも解らないのに」
聞こえた音や声から、おそらくナビが銃撃されたのだろう。それをやったのはおそらく、志田沼のシャドウ本人だ。道中戦闘したシャドウらはいずれもが銃を扱うような形や姿をしていなかった。
ここで一つの疑問が湧く。これはおそらく、ファングのみならず皆が疑問に思っていることだろう。
―――敵はどうやってこちらの位置を把握している? この濃霧では、あちらにも視認は難しいはずだ。事実パレスの主が生み出したはずのシャドウたちですら、音やにおいを頼りにしている節があった。
視覚でなければなんだ? シャドウたちと同じく音やにおいか、それとも熱源を感知しているのか。あるいは振動か、はたまた吐く息に含まれる二酸化炭素―――
ナビは言っていた。
『なんかイヤなかんじ』と。
モナはそれを受けて、『毛がゾワゾワする感覚があるぜ。この霧のせいかもしれん』と応えた。
三度、発砲音が轟いた。
「ファング!」
フォックスの腕が少女の頭を掴み、叩きつけるような勢いで地に伏せさせる。同時に、硬質的な物を切り裂く不快音が響く。
見れば彼の手に抜き身の刃が構えられ、それが銃弾を斬り落としたのだろう、地には二つ穴が穿たれていた。
「くそっ、次はこちらか!」
忌々しげに吐き捨て、フォックスはその場を飛び退った。
するとほんの一呼吸前までその足が置かれていた場所に銃弾が撃ち込まれる。
ファングはそれを見て、器用に片眉だけをひそめてみせた。
弾丸は、先にフォックスが迎え撃った方向とは全く正反対から飛来したのだ。
「高速で移動してるのか? だからってこんな、早すぎる……」
「まるで『ましら』だな」
差し伸べた手をファングが掴むのを確かめるや否や、フォックスは手を引いて走り出した。
その足跡を追うように銃弾が撃ち込まれる。
「―――グリム!」
背後から飛び出した黒い犬が、フォックスの脚を狙う弾丸を噛み砕く。
弾は進行方向から放たれていた。
「く―――闇雲に動けば敵の思うつぼか」
「そうみたいだな」
二人は互いの背を預け合うように立ち、半身を呼び起こして攻撃に備える姿勢をとった。
発砲音。飛来する銃撃を、フォックスの前に出た白髪の偉丈夫が斬り落とした。
「いつまで凌げるか、わからんぞ」
「体力尽きる前になにか考えなきゃ……」
攻撃を受けているのはどうやらこの二人だけではないことが、遠くに響く連続した射撃音が教えている。
ナビのことも気がかりだ。彼女のすぐそばにいるのであろう少年も……泣き声のような悲痛な声色は、まるで彼らしくなかった。
「なんたる無様か」
吐き捨てるように言って、フォックスは苛立ちとともに弾丸を叩き割った。
一方で、スカルはモナを脇に抱え、姿勢を低く保ったまま落ち葉の上を疾走している。
「急げスカル! このまま真っ直ぐだ!」
「おう! ジョーカー、ナビ! 生きてっか!? 死んでねぇよな!?」
縁起でもねぇ。思うがモナは口を閉ざした。
途絶えたきりうんともすんとも言わなかったジョーカーの声がやっと聞こえ始めたのだ。
『……ル……カル!』
相変わらずノイズまみれだが、ジョーカーは確かにこの友人の名を呼んでいる。
彼は直ちに、必要もないのに大声でもって応えた。
「ジョーカー! 今モナとそっち向かってっから待ってろ!」
勢い込んだガサツな呼びかけだ。それでもそこに籠められた力強さは、耳にした者を勇気づける。
ジョーカーはやっと呼吸を落ち着けて、友の声にはっきりとした言葉を返した。
『俺は無事だ、だけど……』
「ナビはどうした?」
鼻先で確かにジョーカーとナビの存在を感じ取りながら、モナが問いかける。すると再び、ジョーカーの声には動揺が滲んだ。
『ナビは……ナビが……』
「まさか―――」
スカルとモナはサッと顔を青くさせた。
太い木の根を飛び越え、更に急ごうとする脚が嫌な予感に絡め取られないよう、スカルは慎重に足の裏の感覚を研ぎ澄ませる必要があった。
耳には少年が鼻をすする音。
嫌な予感ばかりが加速する。
「ジョーカー! どうなったってんだよ!」
怒鳴りつけると、ノイズ越しに彼は涙声で言った。
『ナビが俺のことクソザコメンタルって言いやがった』
スカルは、分厚く積み上がった腐葉土の上に脚をつけ、その滑った感触に足を取られてモナを抱えたまま地に頭を突っ込んだ。
その頭の上を銃弾が擦過していったから、これは幸運なことだった。