27:Optical illusion-b

 獅童正義という男の心の中に形成された歪みというものは、水没した都市の上を優雅に泳ぐ船の形をもって現れている。
 いわゆる巡航客船と呼ばれる豪華な船舶で、おそらくクラスはラグジュアリーと呼んで差し支えないだろう。
 船内にはレストランやバー、プールにフィットネスクラブ、スパや映画館までもが備えられ、その総トン数は十万は軽く超えていそうだ。
 内部に現れる獅童の認知上の人々もその場に似合いの盛装が多い。
 あるいはサービス要員として相応しい制服を身にまとっているが、こちらのほとんどはシャドウらが獅童の忠実な手下と思い込まされているだけだ。被せられた仮面を剥ぎ取れば、すぐにお仕着せの制服を脱ぎ去って本来の姿を取り戻す。
 例えばヤギの頭と角をもった悪魔や巨大な口をもつ獅子―――
 それらを辛くもやり過ごし、セーフルームで一息を入れている中、直近の依頼に関する話題が上がる。
 当然そこにはクイーンもノワールもいるから、改めて聞かされた事の詳細に眉をひそめている。
「最低……そんなやり方で生き物の命を奪うだなんて……!」
「どんな事情があったって……ううん、事情があるからこそ、許せることじゃないよね」
 二人の少女は揃って胸を痛め、沈痛な面持ちでをよく労った。
「それにしても、無茶をしたわね。あのスーツ、別に防水ってわけじゃないんでしょ?」
「一応防滴くらいはしてあるよ。それにそんなに深い川じゃなかったから」
「だとしても、あんまり危ないことはしないでね? あなたの行いは立派なことだけど、なにかあったら、私たちみんな悲しいわ」
「うっ……うん。わかった」
 子どものように素直に首を縦に振って、はかすかにはにかんだ。
 一つとはいえ年上の人たちに、こんなふうに心配されることは今までの人生になかった経験だ。居心地が悪くむず痒いが、なにより嬉しい。誤魔化すように頭をかいたが、どうやらそんな心地も二人にはすっかり見抜かれてしまっているらしい。
「と……とにかく、二人も改心に反対ってことはないんだな? おい、ジョーカー、決を取れよ」
「ケツ?」
 行儀悪くテーブルに腰掛けていたジョーカーは、空とぼけた様子で間近に立っていたスカルの尻を叩いた。
「いって! だからなんで俺のケツをいちいち叩くんだよ!」
「面白いから」
「ろくねーよ!」
 怒鳴りつけてその胸ぐらを掴んだスカルだが、揺さぶったところでジョーカーの口元に浮かんだ薄ら笑いを振り落とすことはできなかった。
 そんな二人のじゃれ合いを冷めた目で見つめていたクイーンが、役に立たない―――立つ気がない―――リーダーの代わりにと手を打ち鳴らす。
「はいはい……じゃ、決行ってことでいいわね。反対はどうせいないんでしょ?」
 見回す視線に怪盗たちは頷いて返した。
 ただ、ナビはいくらか渋い顔をしてモナの尾を掴み、その背にしがみついている。
「うー……」
「暑苦しいぞ、ナビ」
「むむむ」
「なにがむむむだ。ほら、ちゃんと自分で言わんか」
 大上段から言いつけられて、ナビはモナの小さな身体をノワールのほうへ押しやった。
「ぬわあ!」
「きゃっ!」
 二人が悲鳴を上げた横で、立ち上がったナビが大きく息を吸う―――
「そのぉ……昨日、モナと二人で聞き込みして……ジョーカーたちにも言わなかったんだけど、気になる情報を耳にしてて……」
 しかし出てきた言葉は弱々しい。
 何故言わなかったのか、というフォックスの問いかけに、ナビは唇を歪ませた。
「だって……言うのヤだったから……」
「まずい話か」
 しゅんと項垂れた少女に真っ先に反応したのはジョーカーだった。彼はいつの間にかスカルの腕から逃れ、何故かその襟元から掠め取ったスカーフを戦利品と言わんばかりに己の首に蝶々結びで飾っている。
 涼しくなった首を押さえて、スカルは忌々しげに言う。
「どんなだよ。つか、今さらなににビビるってんだ?」
「うー……だからな……」
 嫌々、渋々とナビは語る。
 一件目の聞き込みを終え、空振りだったかと店先を立ち去ろうとした彼女を男が呼び止めた。彼の目はリュックから顔を覗かせるモルガナに注がれており、もみ消したタバコを携帯灰皿に押し込みながら渋い顔をしていた。
「ペットかって聞かれて、モナは怒ったけど他に言いようもないからそうだって答えたんだ、そしたら……」
 男はますます渋い顔をした。猫が嫌いなのかと首を傾げたが、どうやらそういうわけではないらしく、無骨な手を伸ばしてモルガナの狭い額を優しくひと撫でしてこう告げた。
『絶対に逃がすなよ』と。
「なんで? って訊いたら、最近あのへんで、ペットの連れ去りとかが頻発してるって」
「それだけじゃねぇ―――」
 起き上がって乱れた毛並みを整えつつのモナが言を継いだ。
「どうも連れ去られた連中は、たいてい生きては戻らないって話だ。運良く血まみれのところを保護されたパターンもあるらしいけどよ」
 セーフルームはヒヤリとした緊張と言葉にならない不快感に彩られる。
 モナはこみ上げる吐き気を堪えて続けた。
「散歩中の犬がどこからか狙撃されたって話もある。飼い主は無事だったようだが……」
「狙撃……って」
 サッと一同の顔が青ざめた。
 各々銃器の取り扱いにはある程度の心得はあるが、それはあくまでもこの非現実的、非物質的な世界での話だ。現実の世界で、生き物に向けて銃を―――よくできた玩具だとしても、これらを発砲するだなどとは考えたこともなかった。
 口元を押さえたパンサーがくぐもった声を上げる。
「じゃあ、ファングが助けたコも……?」
「分からない。手口が違っているようにも思えるけど、でも、たぶん……」
 困り顔で答えて、ナビは己が突き飛ばしたモナに再び縋り付いた。
「つうかよ、そんなヤバそうな話、ニュースになっててもいいだろ。なんで広まってねえの? ケーサツとかもっと動いてていいレベルだろ」
 場に似つかわしくないほどの声量で喚き立てるように言ったのはスカルだ。
 クイーンは彼を声が大きいと嗜めはしたが、その真意が重く淀み始めた雰囲気を吹き飛ばすためだと解っているからだろう。それ以上は言及せず、言葉の内容のほうに応じてみせた。
「警察はともかく、報道に関しては私たちのせいでしょうね」
「へ? なんで?」
 間の抜けた声を上げたスカルに答えを教えてやるように、クイーンはちらりとジョーカーへ視線を送る。
 受けて彼は渋い顔で前髪をかき回した。
「派手にやりすぎたか……」
 近今、あらゆるメディアは世を騒がせた心の怪盗団、その頭領の逮捕拘留と、聴取中の自殺についてを未だ競うように報道し続けている。
 折しも総選挙投票が近づいているころだ。
 人々の関心を惹き付けるこれら以上に刺激的な画が撮れないのであれば、メディアの腰も重くなる、そんなところだろう。
「それくらい盛大に騙されてくれてるからこそ、私たちはここにいられるんだもんね」
 困ったように小首を傾げたノワールの言に、少年たちはその通りだと肩を落とした。
「とにかく昼中、こっちで調査するよ」
 得体の知れない疲労感に包まれる中でファングが言った。彼女の手はジョーカーの首に伸び、そこに巻かれた他人の持ち物を素早く抜き取っている。
 ジョーカーは不満げにしながらも特別抵抗することはなかった。ファングが取り返さなければ、いずれはスカルに返すつもりではいたのだろう。
 また彼は涼しくなった首元を撫でながら言う。
「俺も手伝ってやろうか」
「どこ目線だよ。キミは私以上に顔を見られたらやばいんだから大人しくしてろ」
「ちぇっ」
 すげなく断りを入れられて、ジョーカーは小石を蹴るような動作をしてみせた。当然綺麗に掃除されているらしい床の上には砂利の破片すら落ちておらず、彼のつま先は空を切るだけだ。
「あまり無茶をしないようにね? なにかあったら、すぐに連絡するんだよ?」
「わ―――わかってるよ。そう穿つことないだろ、これくらい私にだってできるよ!」
 ノズルマスクの下で唇を尖らせた少女に、怪盗たちはやれやれと肩をすくめた。


 パレスの攻略はあまり芳しくないというのが実情だ。
 なにしろ船内は狭く入り組み、厄介な仕掛けが多く、シャドウも強力なものばかり。
 こうなると放課後にしか活動できない学生という身分はひどく厄介だ。間近に迫った期末考査も―――
 ただ、は今のところいずれからも遠ざかっているから、身軽な彼女がさらなる聞き込みや調査を行うことに誰も積極的に反対はできない。
 それぞれの心情を除いては。
「うげっ」
「ご挨拶だなくぅん」
 SNSへの投稿からいくつかの検討をつけて聞き込みを行っていたの前に姿を表したのは、目深にフードを被り、肩から下げた鞄に猫を入れた少年だった。
 言うまでもなくそれは怪盗団の頭目だ。
「来るなって言っただろ……」
「暇だったから」
「諦めろ、。コイツがあの程度の忠告で大人しくしてるわけがねぇよ」
「よせやい」
 鞄から顔を突き出したモルガナの言いように、彼は何故か誇らしげに胸を張った。
 猫と少女の口から同時にため息が漏れる。
 それにも負けず、少年はかすかに笑ってみせた。
「お前のためでもあるんだ」
「はあ……?」
「これ―――」
 言って、彼はモルガナの脇から鞄に手を差し込み、いくらか厚みのある長方形の箱を取り出した。
「なにそれ」
「プリペイドの携帯」
 あっ、とは口に手を当てて驚嘆の声を上げた。
 そういえば確かに、最も手早い連絡手段であるスマートフォンは水に沈んで使えなくなってしまったんだった。
 得心しては手を伸ばした。
 しかしプリペイド携帯はすっとその手から遠ざけられる―――
「おい」
「言うことがあるんじゃないか?」
「ぬああ……ありがとうございますゥ!」
「いいだろう、ほら……金出したのは真と春だけど」
「言い損かよ!!」
 憤慨しながら携帯を奪い取り、包みを剥ぎ取って丸めたものを力いっぱい放ってやるが、片手でやすやすと受け止められて鞄の中にしまわれてしまう。
 歯ぎしりをして悔しがるの姿に愉快そうにして、少年は歩き始めた。
 帰るのかとも思うが、しかしその進行方向はが次に話を聞きに行こうと目星をつけた方向と一致している。
「来ないのか?」
「行くけど……待てよ、なんでキミ、私の行き先を知ってるんだ」
 ふり返った少年は、ニヤリと口角を釣り上げて笑った。
「怪盗としての実績も実力も、俺のほうが上ってことだよ」
「ンな―――!」
 カッと怒りに頬を紅潮させた少女を置いて、少年は手をひらひらとさせながら先を行った。

 険悪な雰囲気のまま向かった三件目の聞き込み先は当たりだった。
 昨日パレス内でモルガナが語った事件の一つ、散歩中に狙撃された犬はこの家の一員だったのだ。
 田村と名乗った家主ははじめ平日の昼過ぎに訪れた二人の少年少女を訝しがったが、が正直に「橋から子犬を投げ捨てた犯人を探している」と告げると、戸惑いながらも当時の状況を語り始めた。
 曰く、その時飼い犬―――チェリーという名前らしい―――を連れて散歩に出ていたのは今年で十三歳になる娘だった。
 チェリーは娘が十歳の誕生日に迎え入れられたゴールデンレトリバーで、彼女にとっては妹のような存在だ。
 夕方の時間、学校から帰って散歩に出るのがこの種族を違えた姉妹の日課だという。
 ところがその日は部活動や習い事が重なり、日もすっかり落ちた八時近くになってから娘はチェリーにリードを取り付けて家を出たのだという。
 散歩コースは家を出て街路を進み、近隣の公園を一回りして川沿いを歩いて家に戻るという簡単なものだ。時間に余裕があるときはその公園でひと遊びをするそうだが、この日は時間も時間と公園を一周してすぐに出ようとしたそうだ。
 ところが遊歩道を半ばまでいったところで、唐突にチェリーが悲痛な鳴き声を上げてその場にうずくまってしまう。
 何事かと娘が駆け寄ったときには、チェリーの後ろ左脚は骨が折れてしまっていた―――
「骨折……ですか」
 眉をひそめてそう問いかけた少年に、田村は目に涙を浮かべて幾度も頷いた。
「すぐに近くの病院へ連れて行きましたから処置は問題なくしていただいたんですが……どうしてこんなひどいことができるんでしょうね。娘もあれから塞ぎ込みがちで……」
 すん、と鼻を鳴らして目尻の涙を拭った女は、悔しそうに口元を歪めている。
 沈痛な面持ちのの隣で、少年は顎をさすって思考に飛び込んでしまったようだ。黙り込んで己の足元を睨むばかりとなる。
「気休めにもなりませんが……犯人は私たちが必ず突き止めます。だから、その……チェリーちゃん、早くよくなるよう、願っています……」
 歯切れ悪く告げられたの言葉に、田村は弱々しく笑ってみせた。
 そして家を辞そうとする少年たちにこう告げる。
「気持ちは嬉しいけど、あなたたちも気をつけてね。ほら、よく言うでしょう。獲物がだんだん大きくなっていって、最後には―――」
 田村は決してそれ以上を言葉にはしなかった。ただ、無茶はせず、できることは警察に任せなさいと言い添えた。

 他二件の聞き込みを終え、二人は件の公園に足を運んでいた。
 事件現場である遊歩道は人気がないが、これは時間帯の問題かもしれない。見通しはよく、道の左右には等間隔で整備された街灯が並んでいる。対して同じく左右に続く茂みはあまり手入れされておらず、まばらな葉付きはみすぼらしく、空いた穴には季節柄かすでに主の去った蜘蛛の巣が多く散見された。
「ジョロウグモってチョコレートの味がするらしいよ」
「うげっ」
「今の時期じゃもう産卵後か……メスは卵持ってるときのほうがうまいらしい」
「じゃあキミが食えよ!」
 唐突に嫌悪感を呼び覚ますような話題を振られて、はたたらを踏んで少年から距離を取った。
 その足元ではモルガナが鼻を幾何学模様を描くレンガに寄せてにおいを嗅ぎ回っている。
「ふんふん、ふん……うへぇ、ダメだ。チェリーのニオイはするけど、それ以外はわかんねぇな。無数のニンゲンに、他のイヌ、ネコに、それ以外のケモノ……」
 ピクピクとヒゲを揺らすモルガナは、本人の主張に反してその身体機能は殆ど猫と変わらない。強いて言うのであれば、猫の能力にヒトの器用さが合わさったハイブリット型高機能キャットといったところか。
 そんな猫の嗅覚は犬には劣るが、それでも数十万倍とされている。それはにおいを嗅ぎ取る能力そのものだけでなく、嗅ぎ分けることにも優れていて、数十、数百と入り混じった中から必要なものを選び取ることができるという。
「そもそも狙撃されたってんなら犯人はここから数十メートルは離れたところにいただろうしな」
 未だ歩道に鼻先を近づけるモルガナを、が抱き上げる。
「エアガンかな……」
「けどよ、弾だってオモチャだろ? イヌの足を折るほどってなると相当な改造がされてんじゃねーか?」
「だと思う。弾もただのBB弾じゃないはずだ」
「となれば……」
 猫と少女の会話に、少年が割って入る。彼は二人のそばの茂みの前に這いつくばり、そこにぽっかりと空いた『穴』を見つめていた。
「自分でやったにせよ、誰かにやらせたにせよ、それなりの腕と知識を備えたやつってことになるな」
「ああ……なにか心当たりが?」
「一つだけ」
 背中に突き刺さる不審げな視線を振り払い、少年はやおら立ち上がると蜘蛛の巣を払いながら茂みの中に足を突っ込んだ。
 ギョッとした二人を置いて、少年はそのままずんずんと雑木林の奥へ踏み入ってしまう。
「お、おい、待てよ!」
 慌てて後を追おうとするが、しかしは茂みの手前で立ち止まった。この日の彼女は厚手の黒のタイツに膝丈のスカートという出で立ちだったからだ。
 野放図となった枝の塊に足を入れれば、厚手とはいえタイツは破れてしまうかもしれない……
 躊躇する彼女の代わりにと、モルガナがその腕から飛び降りて少年を追った。
はそこにいろ。アイツだってオンナの服を汚させるほど野暮じゃねえよ」
 猫の姿でなければなかなかに決まった台詞だったかもしれない。
 とはいえ少年はの視認範囲内で立ち止まり、再び落ち葉の降り積もった地べたに跪いている。
「おい、なにを見つけたんだ? はまだオマエのそういうワケのわからん行動に慣れてないんだから、少しは加減してやれよ」
「刺激は強いほうが早めに慣れるだろ、と……」
 応えて、少年はその場に腹ばいになって寝そべった。
 つい一昨日雨が降ったばかりで、日中もあまり陽の光の刺さない木陰だ。当然地面は湿り気を帯び、彼の服を泥と水で汚した。
 しかしこの少年は少しも構わず、その場から『見える』の足首を眺めている―――
 太ももやふくらはぎは太めだが、そこはやはり女性らしくほっそりとしている。メリハリの効いた体型というものも、なるほどこれはこれで。
 などと不埒なことを考えられているなどとはつゆとも知らず、は困った様子で少年に声をかけた。
「おいっ、なにしてんだ! 人が来たらどうすんだよ!」
「見せつけてやろうぜ」
「いや通報されるだけだろ。バカ言ってんじゃねぇよ」
 背に乗り上げたモルガナにはうるさいと返して、少年は目を細めた。視線はの足首ではなく、手元の地面を睨んでいる。
 そこにはかすかだが、二つの小さな凹みがあった。
「銃架……」
 ボソボソと何事かをつぶやきながら伏せた姿勢のまま後ろへ這いずり下がる―――
「あった」
 またつぶやいて満足げに頷くと、少年はやっと立ち上がって手に付着した泥や落ち葉をぱんぱんと払い落とした。
 その手で呆れた顔のモルガナをひょいと抱き上げ、鞄から取り出したハンドタオルで彼の肉球を拭きふき、歩いてのところへ戻る。
「ただいま」
「なにか見つかったのか? これでなにもなかったら蹴っ飛ばすぞ」
「凶暴だな。祐介はこれのどこを気に入ったんだ?」
「そんなの私が知りた―――うるさいな!!」
「そっちのがうるさい。ほら行くぞ」
「説明しろ」
「歩きながらな」
「……服、泥ついてるけど?」
「気にするなよ」
「するに決まってるだろ!? なんなんだよキミは!」
 喚くに、モルガナはただ「諦めて慣れろ」と言ってやるのが精一杯だった。

……
 らが調査を行ったその日の夜、また部屋を訪れた彼女からことの仔細を聞き及び、喜多川は肩を震わせる羽目になっていた。
 そうか、お前もやっとやつの奇矯な振る舞いに触れる機会に恵まれたか―――
 とは、喜多川の弁である。
 当然は恵まれたくないとぶすくれたが、喜多川はますます楽しそうにするばかりだ。
「キミ、よくあれと付き合ってこれたな」
「面白いやつだと思うが」
「どうだか……」
 重々しいため息をついて、は腰を下ろしていた窓の桟から音もなく床の上に降り立った。
「とにかく、改造銃の線から当たってみるってことになった。キミらあそこの店の人に世話になってるんだって?」
「ああ……俺は直接の面識はないが、そうらしいな」
 が語るのは渋谷のセントラル街、その大通りから奥へ行った路地にある―――怪しげな噂が付きまとうミリタリーショップ、『アンタッチャブル』とその店主、岩井宗久のことだ。
 怪盗団の扱う得物のほとんどはここで用立てられているのだとは説明されていた。
 すでにすっかり寝る支度を整えていた喜多川は布団の上にあぐらをかき、睡魔でぼやける思考と視界の中、部屋の片隅に置かれた空箱をちらりと見やる。
 発泡スチロール製の中身は怪盗として活動する際持ち出す荷物の中に押し込んである。それを手渡した頭目などは「これ結構いい値段した」となにか怨念めいた意志をちらつかせていたが、喜多川にはその優り劣りはよくわからない。なにしろ壊すかもしれないから下手にいじるなと厳命されている。
 失敬な。俺がなにをすると言うんだ。
 浮かんだ憎たらしい心像に告げて、喜多川は意識を現実の少女に戻した。
「その人にそこまでの改造を依頼したか、あるいは同等の腕を持つ人をリストにしてもらった。今双葉が例のスクーターに乗ってる人物と照会してる」
「そうか、早ければ明日にも始末がつきそうだな」
「うん」
 こっくりと頷いて、は床の上にぺたんと腰を下ろした。
 すぐに帰るわけではないことを知って密かに喜ぶ少年をよそに、少女は虚空を睨んで手をもみ合わせはじめる。
 どうやら進捗報告はもののついでで、他になにか話したいことがあるようだ。考えれば確かに、自分にだけに先んじて調査報告を行う理由は特にない。
 促すつもりで首を傾げると、は部屋の隅に重ねられた素描に目を向けたまま抑揚のない声で述べ始める。
「あのさ。昼間、彼に言われてさ……」
「なにをだ?」
「祐介くんは、私のどこを気に入ったんだ、って……」
 調査中になんの話をしているんだ。
 喉元まで出かかった言葉を呑み込んで、喜多川は目を瞬かせた。
 見下ろす先にいるのは頬を赤らめた少女だ。彼女はもじもじと指先をしきりにすり合わせ、つっかえつっかえになりながらも懸命に言葉を紡ごうと喘いでいる。
「それで私も気になって……なあ、キミは私の、その、どこを……」
「ん?」
「だから……」
「うん」
 聞こえない、と聞こえていたのにも関わらず問い返してやると、はその意地悪に気が付きもせず顔を伏せ、耳までを赤くして声を絞った。
「わっ、私の……どこが、す、好きなんだよって……訊いてるの……!」
 少年は吹き出しそうになるのを懸命にこらえた。低く鳴りそうになる喉の震えを呑み込むことにも。
 しかしそれによって生じた間は彼女を不安にさせたようだった。
「私、口は悪いし、目つきも悪いし、頭もそんな……スタイルだって良くないし、今じゃ家もなくなっちゃったんだぞ」
「そうだな」
「どれか一つくらい否定してくれよぉ……まさかハダカを見たからとか言わないよな?」
「それも大いに影響はしている」
 正直に答えると、はいかにも落胆したと言わんばかりに上体を折った。
 長い髪が床に散らばって、明かりのない部屋の中、外から射し込む月の光でキラキラと輝いている。
 喜多川は口元を緩めて一房を手に取り、その柔らかな感触と、立ち上る甘やかな香りを楽しんだ。
 もうずいぶんと馴染んだ花の香りだ。一所には留まっていないはずなのに香りが変わらないのは、特定の洗髪料を持ち歩いているということだろうか。
 手から髪をこぼしながら、少年は愚かなことを考える。その洗髪料が羨ましいだなどと。

 名を呼ぶと、はのろのろと顔を上げる。
 ぶ厚いニットとジーンズの下に隠されたその身体がどれだけ魅力的なものか、彼はすでに知っている。それ故に惹きつけられたことも。
 けれど結局、裸なんていうものは後押しでしかない。
「ちょっと笑ってみてくれ」
「はあ……? 急になんで……」
「いいから」
 急かすと、は困った様子でまだ赤い頬に手を添え、口角を無理に持ち上げてみせた。
「こ、こうか?」
 眉尻は下がったままだったから、笑顔というには少しちぐはぐだ。
 喜多川は腕を伸ばして彼女の頬に己の手を介入させた。
「ちょっと違うな。もっとこう……」
 熱を持った頬は柔らかく、重なった手は滑らかだ。
 気がつけば二人は息のかかるほどの距離で見つめ合っていた。
(あ、しまった)
 そういう意図は無かったと弁明するより先にがまぶたを下ろした。
 不可抗力ではあるが、据え膳だ。ここで拒絶すれば彼女をひどく傷つけることは明白だったから、喜多川もまた目を閉じて唇を寄せた。
 体表のほんの数パーセントにも満たない部分をすり合わせるだけの行為に何故こうも夢中になるのか。益体もないことを考える余裕はすぐにかき消えた。
 ややもすれば途切れ途切れになる思考の中、これも理由の一つだろうなと思う。しかしやはり、後押しに過ぎないとも。
 あまり夢中になり過ぎるとブレーキが効かなくなることは思考とは別に理解していたから、彼は程なくして身体を離した。
「うあ……今のがそうだってことなのか……?」
 照れと恥じらい、軽度の酸欠によって紅潮させた頬に、今度こそはにかんだ笑みが浮かぶ。
「ああ、それだ」
「なんだよ、キミ、やっぱりけっこう即物的だな」
「違う。いや、ある意味ではそうかもしれんが」
「んん? なんだ?」
 首を傾げたの表情は安らぎに満ちている。憎しみに駆られ、復讐を目論むことも、そのために怪盗団を利用してやろうだとか、保身のために目の前の少年を利用してやろうとも思っていない、全くの自然人としてのがそこにいる。
 それはただの一人の少女として、心から彼とともに居ることを喜ぶ姿だ。
 頬に触れたままの指先でその頬を撫で、喜多川は待ちわびた答えを彼女に与えてやった。
「その笑みを向けられたとき、俺はお前に惚れたんだ」
 手を下ろして膝の上に置くと、の視線はそれを追うように下に降りる。
 小さく震えているように見えるのは気のせいか―――?
 追撃は彼女の震えをより強くさせた。
「お前のそういう姿を見ていると、己に不可能はないとさえ思えるな」
「なに言ってんだよ、ほんとに……」
「お前が訊いたんだろうに」
「うう、バカ! アホ! ええと、マヌケ!」
 罵倒の語彙が貧弱、と返そうとした喜多川に、は飛びかかるような勢いで抱きついた。
 日ごろパレスやメメントスを引きずり回されているおかげか、はたまた元より体軸が整っているからか、少年は勢いに負けることなく彼女を受け止め切る。
 首筋に腕を回し、膝立ちになって首筋に顔を埋めるはそれに驚いているのか、かすかに感嘆の声をもらした。
 思ってたより全然貧弱じゃない―――
 などと思われているとは思いもしないのだろう、喜多川は押し付けられる身体の温かさとやわらかさによって法悦にひたりつつ、彼女の背に腕を回した。
「ずっとこうしていたい」
 思うところを正直に明かすと、少女もまた素直になって
「私も」とかすれた声で応えた。
 ならばと少年は問いかける。
「泊まっていくか?」
 もちろん、あまり期待はしていなかった。全くしていないわけではなかったが、今自分たちを取り巻く状況を思えば、この意外な―――と言っては失礼だろうが――くらいに身持ちの固い彼女がイエスと言うはずがない。
「う……ううう、だ、ダメだ。もうホテル取っちゃった」
 やはり彼女は思った通りの反応をしてみせた。
 ただ、彼が想像していた以上に彼女はこれを惜しむような様子を見せている。
 少年はしばらく無言で考えにふけった。時間にしてほんの数秒程度だが、その内には大いなる善と悪の戦いがあった―――のかもしれない。
 どちらが軍配を上げたにせよ、喜多川は背に回した腕から力を抜いて、いつでも彼女が抜け出せるようにしてやった。

……
 翌日、再び放課後のルブランに怪盗たちは集合していた。
 各々の前にはそれぞれの好みに合わせた飲み物や軽食がすでに用意されている。大変珍しいことに、これは頭目のはからいであった。
「注文つける前に出してくれるなんて、どしたの?」
「まるで俺が気の利かない男みたいな」
「そこまで言ってないって。まあそのへんはケースバイケースだけど。利くときと利かないときのギャップ埋めてく努力してよね」
 うるさい、と拗ねて吐き捨てつつ、少年もまた己の手元に用意したコーヒーに口をつけた。
 そのすぐ隣、カウンターチェアに浅く腰掛けた双葉は、ココアで指先を温めながら難しい顔をしている―――
 昨晩、双葉は大した時間もかけずに照合を完了させ、たっぷり八時間の睡眠を取り、目覚めて養父特製の栄養バランスの整った朝食を満足ゆくまで食べ……実に健康的に日中を過ごしてここに至っている。
 だというのに顔色が優れないのにはもちろん理由がある。
 ちらりと盗み見た背後、テーブル席に向き合って座る一組の、その片割れの顔を盗み見る。
 の様子はいつも通りだ。いくらかの疲れは垣間見えるが、それは現状が解消され次第すぐに落とせるようなものだろう。単純なタフネスという意味では、脳筋気味の連中が揃う怪盗団の中では彼女も例に漏れず、引けは取らない。
 それは大変頼もしいのだが、反面メンタルという意味では―――
 双葉は首を反対側に捻ってもう一つのテーブル席へ視線を投げた。
 そこでは新島が真剣な表情でモルガナのブラッシングを行っている。すっかり表が寒くなった今、この猫型生命体は頭目のシーツに未だ抜けきらぬ夏毛をばら撒く絶対悪と化しているからか、こうして隙あらば毛を梳かれる羽目になっている。
 彼にとっての問題は、新島の手が緊張からかやたらと力を籠めてくしけずろうとしていることだろう。
「イテテ……ま、マコト、もうちょっと優しく……!」
「えっ!? ご、ごめんなさい! もっと優しく、優しく……!」
「イダダダダダダ! シッポを掴むなぁ!」
「あっ! 待ってモルガナ!」
 ついに堪りかねたモルガナが身をよじって新島の腕から逃れ出る。彼女の手に残された猫用ブラシには縺れた毛が大量に絡みついていた。
 双葉は落ち延びたモルガナを膝の上に迎え入れてやりながら、隣の奥村にたしなめられてしゅんと項垂れる新島をまた盗み見る。
 この優等生の顔をした怪盗団の作戦参謀は追い詰められたり一度に与えられる情報の許容量を超えたりすると暴走する癖がある。故に彼女を除いた怪盗団の面々には「みだりに女王陛下を刺激するべからず」が不文律として定着しているのだが……
 つついた蜂の巣、火に投げ込んだ栗。
 双葉は再びに目を戻した。双葉から見たという少女もまた、新島と似た性質を持っている。
「うー、また言いづらいよー」
 頭を抱えてオレンジ色の髪をかき乱した彼女に坂本が顔を上げる。彼は頭目が励むクロスワードパズルに横からくちばしを突っ込んでいるところだった。
「なんだよ、どしたん」
「んあー……」
 奇妙なうめき声を上げながら、双葉は手元に置いていた紙束を坂本に押し付けた。
「あい」
「はあ? ンだよこれ……志田沼啓治?」
 読み上げられた人の名に、怪盗たちは顔を上げる。
「あ、例のクソ野郎の資料か。なになに……」
 紙面には志田沼なる男のパーソナルデータが綴られていた。
 齢三十六。バツイチで子供はおらず、十年前から松下動物病院に勤務しはじめ、三年前に後継者のいない病院を継ぎ、以後現在に至るまで勤め続けている。
 近隣住民からの評判は上々で、時間を問わずどのような急患も受け入れる情け深い献身的な医師として名を馳せているようだ。
 一方で―――
 松下動物病院に勤め始める前までは地方を転々としていたとある。結婚と離婚もそのころの出来事だ。
 気になるのは志田沼の経歴と、東北のとある田舎町で起きたらしい事件のスクラップだ。
 日付はちょうど一年前。新聞記事の切り抜きには、山中に白骨化した動物の死体が山積みになっていたと記されている。
 経歴には志田沼が十二年前その近辺の動物病院に勤めていたとある。
「偶然……じゃなさそうだな?」
 嫌悪感をにじませた顔を紙面から離し、坂本はこれら調査結果をまとめたらしい頭目と情報処理担当を睨みつけた。
「もちろん。その後志田沼はその土地を離れて隣県の動物病院へ移ってるんだけど、そこでも動物の連れ去りや負傷が相次いでる」
「あと、そいつの地元でも二十年前に学校の池で飼ってた鯉と亀が全部バラされて死んでるって事件があった」
 うげ、と坂本は舌を出した。
 他の面々も、顔を青くさせてこみ上げる吐き気を堪えている様子だ。
 その内、喜多川とは特にひどく、互いの顔を見合わせては信じられないと震えている。
「二人とも、どうしたの?」
 気遣わしげな奥村の声に、二人は小さく頭を振った。
「いや……本当にその人なのか?」
「間違いとか、勘違いってことは……」
「うんにゃ、もう確認済み……」
 答えたのは相変わらず消沈した様子の双葉だった。彼女の手の中にはスマートフォンが握られ、表示されたイセカイナビにはすでに志田沼の名前が入力済みになっている。
 双葉の目は気遣うような色を湛えて二人に向けられたままだ。
「で、でも……その人……」
「どしたのよ、。なんかコイツにあんの?」
「……が救った例の子犬を看てくれているのは、その松下動物病院の院長だ」
 震えるの代わりに答えた喜多川の弁に、子どもたちは一様に驚いてみせた。
「ちょっと、ソレ……そのコ、ヤバいんじゃないの!?」
「いや、ここへ来る前少し様子を見てきたが、手厚い看護を受けている様子だ。一昨日より回復したようで、ケージの中を歩き回っていた」
「そりゃ、他のニンゲンの目があるからだろうな」
 モルガナの反論に喜多川もまた青い顔を俯けて押し黙る。
「偶然か、自作自演か……」
 つぶやいた少年は癖のある前髪をいじりながらふむと唸った。
「どちらにせよ、ちょっとくんだけに任せるには荷が重くなってきてる」
「はぁっ!? なんだと―――」
、おすわり! 最後まできく!」
「くっ……」
 双葉に指差し命令されて、は浮かしかけた腰をのろのろとソファに戻す。
 そんな彼女の様子にか、頭目は愉快そうに目を細めて一同に宣言した。
「喜べ、こいつはパレス持ちだ」
 驚きの声は上がらなかった。
 なにしろ志田沼とやらは、数日、数カ月の規模ではなく、実に二十年もかけてゆっくりと己の歪みを熟成させてきていたらしい。
 つい先日も猫を対象にした類似犯を叩きのめしたばかりだが、志田沼は経歴を見るに全国規模のようだ。まだ知られていない被害者が日本各地にいるのだろう。
 もしかしたら、記事として取り上げられた二十年よりも以前から事に及んでいた可能性もある―――
 店内に満ちた重苦しい雰囲気に呑まれまいと、坂本はふんと鼻を鳴らして笑ってみせた。
「忙しいところにまたさらにブッこんできたじゃねえか」
 虚勢ではあるが、効果はあった。青い顔をして考え込んでいた新島が気を取り直したらしく、理性の光を湛えた瞳で一同を見回した。
「獅童のパレスは遅れさせるわけにはいかないよ。こちらだって一日も早く解決させるべきだけど……同時にはちょっと厳しいわ」
「そうだな、オマケにシダヌマのほうはナニが待ってるのかもわからねぇときた」
 やはり獅童のほうを片付けてから、腰を据えてじっくりと取り掛かるべきだろうか。しかしその間に被害が拡大し、対象がより『大きな』獲物を求め始めたらどうするのだ―――
 ああだこうだと話し合うが、平行線を辿るばかりでなかなか結論にはたどり着かない。
 やがて己の分のコーヒーを飲み終えた頭目が注目を集めるように指を鳴らした。
「よし、決めた」
 集中した視線をものともせず、彼はカップとソーサーを流しに運ぼうと立ち上がる。
 仲間たちの中央を堂々と突っ切ってから、怪盗団の切り札はカウンターの向こうから言ってのけた。
「一日で片付ければいい」
 沈黙。
 一拍の後、子どもたちは素っ頓狂な声を上げた。
「はあーっ!?」
「マジで言ってんのかよッ!?」
 腰を浮かせた高巻と坂本に、頭を抱えた新島、流石にポカンとした表情を晒す喜多川と、顔を見合わせて困惑顔の双葉と、そして何故か楽しそうな奥村―――
「お弁当用意しなきゃだね」
 彼女はまた手を合わせて弾んだ調子で言う。
 頭目もそれにウンウンと頷いて返し、空になった両手を広げて一同をカウンター越しにふり返った。
「そういうこと。みんな、土日空けといて。それまでの間で可能な限り獅童のパレスを攻略しよう」
 軽い調子で強行スケジュールを告げる頭目に、仲間たちはがっくりと項垂れる。
「……まあ、いいわ。了解。可能な限り準備して行きましょう」
 それでも獅童を優先すべきと主張していた新島がこのように述べれば、他に反対意見も出ない。
「うへー……」
 坂本は呻いて天井を仰いだが、そうしたところで決定が覆るわけでもなし。やるしかないかと気合を入れるほか彼にできることはなかった。
 当然それは、他の面々にしても。
 ルブランにはしばらく、重苦しいため息と食器が洗われる音だけが鳴り響いた。