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26:Optical illusion-a
結果から言えば、作戦は成功した。
少年は生きてアジトに戻ったし、事の黒幕の尾を掴むことにも成功した。
なにか問題があるとすれば、それは彼もまたと同じく息を潜めて生活しなければならないということくらいだろう。
「俺も手紙でも出そうかな……」
ポツリとつぶやいた少年に、少女たちは首を傾げる。
平日の午前中、ルブランの屋根裏部屋ではなく佐倉家の二階、双葉の部屋に押しかけた彼は、しかし二人のガールズトーク―――内容は主にPCの油冷化について―――についていけず、ベッドを間借りしてスマートフォンで時間を潰している最中だ。
インストールされた漫画アプリで適当に楽しんでいたから、話に参加できないことに寂しさは……あると言えばあるが、無いと言い張ることもできた。
ただ、度々飛び込んでくる通知が読書の邪魔をするのだ。
『生きてるの?』
『死んだなんて嘘だよね』
『信じてるから―――』
この土地へやってきてから知り合った人々からの心配と信頼の想いが綴られた多くの言葉に、さすがの少年も笑えなくなってきている。
彼らと接触したのはあくまでも怪盗団のためであり、その奉仕は取引の一部でしかなかったはずなのに、今やすっかり様々な情を抱き、抱かれてしまっている。
そういう人たちにこれ以上あまり心配をかけさせたくない。
少年の脳裏にあるのは一週間ほど前にから託され、モルガナの手によって受け渡しがなされた手紙だ。送り主は相手のことを法律上の保護者などと言っていたが、きっとそれだけではないのだろうことは容易に察せられる。
腹の上で丸まるモルガナの背を撫でながら、少年は感慨深く思う。
因縁とは果たすべくして現れるものなのかもしれないと。
「くん、後でルブランに来て。頼みたいことがあるから」
「今じゃダメなのか?」
「今は眠くなってきたから寝る」
「わたしのふとん!」
「今夜は俺の匂いに包まれて寝ろよ双葉」
「おえー……ねえ、あとで新しいシーツ出すの手伝ってぇ……」
「よしよしかわいそうに。汚れたのは洗濯してやるよ」
憎たらしい会話から意識を遠ざけて、少年は本当にそのまま眠りに落ちた。
「ほんとに寝やがった」
「自由だな……」
猫は寝子だ。現状猫の形をとるモルガナは不問にしても、正真正銘生まれから人間であるところの少年に向けられる少女たちの眼差しは冷ややかだ。
とはいえまだ青あざの残る頬や額に、分厚い毛布の下の肢体も傷だらけであると知っているから、二人は無理に彼を引きずり出そうとまでは思えない。
なんだかんだと文句をつけたって、彼が生きて戻ったことに安堵し、喜んでいることに変わりはないのだ。二人は彼の眠りを邪魔しないようにと部屋を出てリビングで対話を続行した。
……
実際のところ、少年が因縁とやらに想いを馳せたきっかけになった人物のパレス攻略は順調だ。
もファングとしてそれを手伝っているから、進捗いかばかりかはその身をもってよく知っている。
少なからず見知った相手の改心となれば手心も入りそうなものだが、相変わらず手間のかかることだと感心はしても手抜き一つせず取り組む姿に、怪盗団の面々は頼もしく思えばいいのか呆れたらいいのか……彼女の姿勢に対する意見はまとまらなかった。
ただ喜多川は彼女がそばにいて、ともに戦ってくれることを喜んでいる。安全なところから喚き立てるだけの傍観者とならず、リスクを承知で背を預けられることを。
なにより近ごろは新島の姉、冴の協力もあって監視が緩んでいることもあり、以前に増してふらりと部屋にやってくるようになっている。
冴が≪真実≫に辿り着いてくれたことは、怪盗団の誰にとっても僥倖だった。日常のストレスが大幅に軽減したのだから。
そういう意味も含めて、が姿を見せるのはますます喜多川には喜ばしい。何故なら彼女がやってくるのはストレスの発散のためではなく、純粋に己に会いに来ているということになるからだ。
今もまた、彼女は窓を叩いている。
———喜多川少年は、彼にしてはまったく珍しいことに悲鳴を上げて後退った。
なにしろ外は昼過ぎから降り始めた雪が雨に変化したものが未だ夜の闇のなか滴り続け、雷鳴まで鳴り響いている。
寝る支度を済ませた少年の部屋は明かりが落とされていた。明かりといえば降りしきる雨にぼやけた外の街灯くらいなもので、フラッシュライトのように瞬く雷光が照らし出した窓際のシルエットは、彼に恐怖を覚えさせるには充分だった。
濡れて重くなったらしい前髪を顔に貼り付け、目元を完全に隠した女の姿―――
バン、と音が鳴るほど強く窓を叩いたそれが己の恋人であると気がついたのはたっぷり十数秒かけた後だった。
慌てて三日月錠を下ろし、窓を開け放つ。外からは冬の冷たい空気と湿り気が一気に入り込んだ。
濡れ鼠のも。
「キミ、いま完全に自分の恋人のことを妖怪かなんかみたいな目で見てたな! 根に持つぞ!」
「すまん。しかし今のお前の姿を確認すれば俺に非はないと分かってもらえるはずだ」
床にぼたぼたと水滴を垂らしながら重い前髪をかき上げ、はやっと表情を薄闇の中に晒し出す。
喜多川はハッとして息を呑んだ。やや釣り上がった目元が赤く腫れているように思えたのだ。頬を伝う水滴のうちいくらかは、彼女の涙かもしれない。
「どうした、なにがあったんだ」
こんな夜更けにやって来ること自体は珍しくもないが、流石の彼女も天候が思わしくない日はどこか屋根のある所で大人しくしていることが多い。そうでなくたってこの濡れようは雨脚の強さからしても他の要因がありそうだった。
しかしは疑問には答えず、ずかずかと遠慮なく部屋に進み入っては水を撒き散らし、充電器に突き刺さっていた喜多川のスマートフォンを勝手に持ち上げる。
「おい―――」
「ごめん、貸して。私の水没した。急がないと」
「水没? なぜ……いや、なにをそんなに慌てているんだ?」
首をひねった少年は傍らにあったタオルを取り上げると、濡れてかすかに震える彼女の頭を拭き取りにかかった。
そしてやっとこの奇行のわけを理解する。
「近くの動物病院……」
泣きそうな声で独り言ちた少女の腕の中、その豊かな胸に弱々しく呼吸する小さな生き物が抱かれている。
濡れて濃くなった毛の色は薄闇の中判然としない。白くはないだろうが、濃茶か黒か。
いずれにせよヒュウヒュウと喉を鳴らして震える小さな身体が弱り切っていることは明らかだ。喜多川は直ちにの手から己のスマートフォンを取り返した。
「あっ!? なにを……!」
「俺が探したほうが早い。お前はそいつを、とにかく拭くなり温めるなりしてやれ」
「う、うん」
ついでにお前も着替えろ、と指示して、喜多川は検索結果の上位に表示された動物病院に通話を繋げた。
もう日付も変わるころだ。当然営業時間は終わっているはずだが、時間外でも急患の受け入れをやってくれているところもある。
―――はずだ。
湧き上がる焦燥感を噛み殺しつつ、少年はコール音に耳を傾けた。
三回目でやっと受け入れ先を見つけたのはいいが、呼びつけたタクシーに飛び乗って三十分もかかってしまった。
事情を把握したタクシーの運転手はこの雨の中、法定速度の限界―――あるいはそれ以上―――の速度で道を走り切ってくれたが、その間にも小さな生き物は元から浅い呼吸を更に浅くし、震える力も失せてしまったのか、ピクピクと弱く痙攣するばかりになった。
幸運だったのは事態の緊急性を察したのか、電話口で受け入れを許可した医師がすでに院の入り口で待ち構えていてくれたことだろう。
生き物はすぐに引き取られ、診察のためにとドアの向こうに消えた。
まだ三十代と思しき若い医師だった。胸元に掛かっていたネームプレートに小さく院長とあったが、その割に建物は古く、設備も旧式の物が目立つように感じられる。おそらくは二代目か三代目で、元あった施設を引き継ぐ形で勤めているのだろう。
場所も大通りからは遠い街路を折れた先の路地に面している。タクシーからは路地の入り口で降りなければならず、二人は数十メートルを全力疾走させられる羽目になった。
「……タクシー代、払わせちゃってごめん。明日払うよ」
最小限の明かりのみのロビーにのささやき声が響いた。他に音は入り口正面に鎮座する古めかしい振り子時計の揺れる音だけだ。
年代を感じる黒の革張りのソファに腰を落ち着けて、もう十分は経過している。診察室のむこうに消えた生き物の姿は見えないが、それでもの目はずっとそちらを見つめて動かない。
その頬や貼り付く横髪がまだ濡れて湿っているのが喜多川には気がかりだった。一応と自分の服を着させた上にコートを羽織らせたが、下着の類までは用立てできず、そこはまだ濡れているはずだ。
華奢な肩が震えているのは不安のせいばかりではないだろう。
せめて少しでも取り除きたいと少年は口を開いた。
「金のことは気にするな、大したものじゃない」
と言いはしたが、実際には大変に大したことである。なにしろ深夜割増も上乗せされている。
かっこつけた代償はしばらく続く空腹によって支払われるのだろうが、消沈したの顔に苦み走った笑みが浮かぶのを見ればそれはやはり、大したこととは思えなかった。
「バカ……無理すんなよ。絶対返すから」
頑なな言葉だが、声からは先までの緊張がいくらか抜け落ちている。それだけで手痛い出費を負った意義は充分ある。
喜多川は口元を緩ませて彼女に笑みを向けた。
「それなら、なにか物で返してくれ」
「物? たとえば?」
「そうだな……」
ふむ、と唸って、喜多川は思案する。
欲しい物ならいくらでもあるが、それらは己の手でもって手に入れたい物であって、彼女の手を介しては意味がない。
ならばとそれ以外をと熟考しても思いつくものはなかった。そういう意味では無欲とも言い表せられる少年は、心持ち笑みを意地の悪いものにすり替えて言う。
「お前の感性に任せよう。せいぜい俺のために頭を悩ませるんだな」
「は―――あぁ? なんだよそれ一番困るやつじゃないか! なに食べたいって聞かれてなんでもいいって返されるようなもんだぞ!?」
「声が大きい」
「ぐ……」
呻いて動きを止めた少女の滑稽な姿に喜多川は笑みを深くする。
憤った彼女の手がその肩や腕を叩いたが、いずれも痛みを与えるほどではなかった。
「それで、なにがあったんだ?」
調子を取り戻したとみて問いかけると、はハッと息を呑んで振り上げた腕をおろした。
外はまだ雨が降りしきり、振り子時計が示す時刻はとっくに深更を超えている。それでも喜多川は彼女がわけを語って聞かせてくれるまで、扉の向こうに消えた生き物の無事を確かめるまで、この場を辞するつもりはなかった。
やがては弱りきった様子でほんの一時間ほど前の出来事を語り始めた。
「今日泊まる予定のホテルに向かって歩いてたんだ。川のそばの道を、河川カメラに撮られちゃまずいと思って高いところを」
「歩いていると言えるのかそれは」
「うるさいな! 小さなことを気にするなよ!」
「小さくはないと思うが……続きは?」
「……橋を、川の向こう岸からスクーターがやってきて、真ん中で停まった。車通りがなかったから目について、なんとなく見てたんだ。そしたら、スクーターから離れて橋の欄干に近付いていって。なにかを抱えてると思ったら、それを川に捨てて……」
喜多川は想像からこみ上げる不快感に顔中をしかめた。
「まさか」
肯定するように頷いて、落ち着こうとしているのだろうは己の濡れ髪をひと房掴んだ。
「落ちてく最中に箱の中から三匹がこぼれて―――多分それで全部だと思う―――それを見て頭に血が登っちゃって、思わず飛び出して」
「飛び込んだのか……」
顔も名も知らぬ人物に対する怒りと嫌悪感もあるが、なにより目の前の無茶な行動をしてのけた少女に対する呆れからため息をつく。同時に、生き物の生死に関わらず彼女が無事で良かったとも。
「だって、他になにができた? 黙って見てることなんてできなかった。そんなこと考えてる余裕もなかった。グリムのことを思い出したら勝手に足が……」
「解っている。責めたつもりはない」
宥めるように少年の手が背をさすると、は小さく鼻をすすってその腕に額を押し付けた。
「なんとか一匹だけはつかみ上げたけど、あとの二匹は……暗くてもうなんにも分からなかった。水の流れる音ばっかりで声も聞こえなくて……」
消え入りそうな声で助けてやれなかったとは言う。
それはどうやら、過去に失った親友のことも指しているように喜多川には受け止められた。
なんと言ってやることもできず、濡れてしんなりとした頭をあやすように撫でてやることしか彼にはできなかった。
喜多川がその、かつての親友について知っていることは多くない。
黒く艶のある毛と立派な体躯が特徴で、尖った耳と長い舌をもっている。それらはいずれもの半身にも表れていたから、彼にしてもよく知るところだ。
けれどそれは彼女の語る『グリム』そのものではない。
赤い目などはしていなかっただろうし、ちゃんと厚みのある肉体を持っていて、遠吠えによってシャドウを粉砕など決してしなかったはずだ。
あれは結局彼女の一部、記憶や思い出から飼い犬の姿を借りて構築された、彼女の戦う意志の具現化でしかない。
それが死した愛犬の姿をして現れたということが問題なのだ。
それだけ深く彼女の中に根ざすほどの強烈な体験であったことは間違いない。他でもない彼女自身から一連の顛末は聞き及んだだけでも大きな衝撃を受けたほどだ。
トラウマだとかPTSDだとか、彼女の経験した一連の悲劇が小説や映画、コミックの中での出来事であったなら、よくある導入手法で安っぽいお涙頂戴と鼻で笑うことができただろう。
けれどこれは彼らにとって現実で、仇を討つことができたとしても直ちに傷が癒えるわけではない。
いずれ薄れていくものだとしても、今はまだ……
まして彼女は復讐という行いによって、つい先ごろまで自ら傷をほじくり返していたのだから、さもありなん。
少年にできることがあるとすれば、傷が癒えるまで辛抱強くそばで見守ることくらいだ。あるいは、気を逸らすことくらいはできるかもしれない。
だから今すぐ彼がこの場でできることは、落ち込む彼女を抱きしめてやって、ささやかなぬくもりを提供してやるくらいだ。狭く古ぼけた病院のロビーでは、彼に扱える適切な物品は見当たらなかった。
そして喜多川少年は自嘲する。
胸の奥からにじむようにこみ上げてきたもの―――
己の知らない幼いころの彼女を知るオスというものに対し、嫉妬めいた感情が湧き上がってきているのだと彼は自覚していた。そのばかばかしさと虚しさも。
くだらない。死んだ者に対して。しかも相手は犬だぞ―――
自制しようとする気配を感じ取ったのか、ふとが顔を上げた。
「迷惑かけてごめん。あのとき、スマホも使えなくなってどうしようって思ったとき、思いついたのがキミしかいなくて」
心の中を見透かされたのかと喜多川はわずかに戦慄する。
それだけ彼女の発言は、にじみ出た嫉妬めいた感情をいっぺんに吹き飛ばすどころか、少年のささやかな、しかし長大にして至大なる矜持を強く刺激したのだ。
頼られるというのは気分がいい。咄嗟に思いついた対象が己のみとなればなおのこと。
「俺は嬉しい。いや、あの犬の身に起きたことを思えば反吐が出そうなものだが―――それでも……ああ、いい気分だ」
「なんだよ、それ。バカだな本当に……」
「そうかもな」
苦笑して、喜多川はドアの向こうに目を向けた。
気配があることを察知したのだ。もそれに気が付いたのだろう、背筋を伸ばして立ち上がると、ドアノブが捻られるのを今かとじっと見つめている。
喜多川もまた倣って立ち上がると、ちょうど診察室のドアが開いて、ラフな服装の上に白衣を着た医師が眠たげな顔をして姿を現した。
「あ―――あの―――」
上ずった声を発しつつ一歩前へ踏み出した少女とそれを支える少年に向けて、医師はどことなく疲れてはいるものの、しかし確かな笑みを浮かべてみせた。
栄養不良と体温の低下による体力の消耗により弱ってはいるものの、水はほとんど吐いていて、命に別状は無いと医師は語った。
早い段階で水から引き上げられたことと、ずっと腕の中で暖められていたことが功を成したのだろうとも。
は深々と、長い髪が床につきそうなほど深く頭を垂れて、鼻水を垂らしながら幾度も彼に礼を言った。喜多川もそれに倣い、丁寧に謝辞を述べ、子犬が無事であることを心から喜んでみせた。
医師は強い感謝を示す少女と少年の様子にまんざらでもなさそうにして、それからもう遅い時間だから帰りなさいと年長者らしく言いつけた。命に別状はなくとも体力が回復するまではこちらで面倒を見るからとも。
二人は幾度も礼を述べながら医院を辞した。
……
明けた翌日、午前中の純喫茶ルブランに、高巻の怒号が響き渡った。
「なッッにそれ! 信じらんない! サイッテーよそんなの!!」
ソファ席に腰を下ろして腕をぶんぶんと振り回す彼女に、隣に座した双葉は若干迷惑そうな顔をしているが、高巻の言に反論するつもりはないのだろう。膝の上のモルガナの背を撫でながら幾度も首を縦に振っている。
「ひでーことするやつもいるもんだな。生き物を橋から捨てるなんて……」
双葉の小さな手がモルガナを抱きしめる。いささか力加減を間違えたのかモルガナが「うぐっ」とくぐもった悲鳴を上げた。
二人の対面には喜多川とが座し、昨晩の顛末を聞かせ終わって一息ついている。
「別にドーブツアイゴなんて言う気はねぇけど、いい気分はしねーな」
カウンターチェアに浅く腰をかけていた坂本が、渋い顔を二人に向けて言った。
店内には怪盗団の面々のうち、上級生二人組を除いた全員が揃っている。新島と奥村は進学に関する面談や諸手続きのため本日はお休みだ。
であれば当然パレス攻略も休みとなるが、しかし十二月の頭、すっかり表が冬の寒さに支配されつつある日曜日、出かけたくないと屋根裏に籠もった頭目が暇を持て余して彼らを招集したというわけだ。田舎から出てきた少年にはどうもこの都会の寒さが堪えたらしい。
「……改心、する?」
室内だというのにやたらと厚着した少年が、エプロンを着けたまま坂本の隣に腰を下ろした。その手にはしっかり湯気が立つカップとソーサーが握られている。
店内に惣治郎の姿はない。昼前には戻ると店番を彼に任せて出かけたきりだ。
だからこれだけのびのびとした姿を見せているのだろうが―――客が来たらどうするんだと思えど、話の腰は折りたくないと誰もがそこには目をつぶった。
「改心って言ってもさ、そいつの顔とか、、アンタ見た?」
高巻の問いに、は首を左右に振って悔しそうに唇を噛んだ。
「暗かったし、遠くて……すぐに飛び込んじゃったし、上がったときにはもういなかった」
「まずはどうにかしてそいつのコトを調べなきゃか」
こりゃ難しいな、と坂本はジンジャーエールをすする。難しいなどとは言いつつすでにやる気になっているのだろう、瞳には真剣な光が湛えられている。
しかし―――
「改心をするのなら、真と春の了承を得ないと」
そう言ったのはだった。
彼女は生真面目そうな顔をして、両手で握りしめたカップの中のカフェオレを見つめている。
然り、喜多川も頷いて彼女に同調する。
「そうだな、仕置をくれてやることに異論はないが唯一の掟は守らねば」
我々が無軌道にならずにいられるのはひとえにその唯一のおかげであるところが大きい。
そう語る彼に感心したように唸ったのはモルガナだ。
「うむうむ、ユースケとは真面目だな。オマエもちょっと見習えよ、リュージ」
「は? は? はー?」
居丈高なモルガナの言に、坂本のこめかみに青筋が浮かぶ。また彼の隣に腰掛ける少年からも、呆れたような視線が送られていた。
「お前が言うんかよ。掟破りやらかしたの今ンとこお前が最初で最後だかんな」
「ほんとそれ。別にいいけど。よくはないけど別にいい。気にしてない。ああ気にしてないとも」
二人の少年から送られる威圧のようなものに、モルガナも該当する記憶をやっと掘り起こしたのだろう。明後日の方向を見つめながら双葉の腕を逃れようとする―――
「ぐえっ」
再びうめき声を上げて、モルガナは双葉の腕を叩いた。
しかし青い顔をしているのは彼だけではなかった。どうしたわけか、高巻と喜多川から二ヶ月ほど前の話を聞かされたも顔色を悪くして小さく震え始めている。
「……どうした? まだ寒いのか?」
「いや、そのぉ……私も勝手に依頼、やってたなーって……」
「あー」
ぽん、と手を叩いて、喜多川は得心する。
なるほど確かに。彼女は同じ時期、新島冴及び地検特捜部の捜査撹乱のため暗躍していた。
そのころの彼女は怪盗団の一員ではなかったからノーカンかと喜多川などは思うが―――
コーヒーを一息に飲み干し、カウンターの上にソーサーとカップを叩きつけた少年が勢いよく立ち上がった。彼はまた、口元に悪魔のような笑みを湛えて順手で伊達眼鏡のブリッジを押さえ、もう一方でを指し示した。
「駄目だ許さん! 償いはしてもらう!」
「な、なんでだよ! モルガナくんは特にお咎めなしだったんだろ!?」
「モルガナは猫だから」
「ダレがだ! ワガハイはニンゲンだっ!」
お決まりのやり取りの後、少年は改めてに向き直る。
「改心するにしてもしないにしても、決を取る前に下調べはするから。調査くらいならしておいても問題ない……というか、俺はいつもそうしてる。今回はそれをにやってもらおうか」
「へっ……」
「んでも取っ掛かりもなんにもないんじゃ調べようがなくない?」
困り顔で腕を組む高巻に、少年はチッチと舌を鳴らしながら指を振る―――は思い切り顔をしかめた―――
「甘いな、杏。ようかんの上にスクラロースとサッカリンをかけたくらい……おえっ……」
「自分で言って自分で吐きそうになってんなよ」
「つい想像して……んん、とにかく。すでにとっかかりはくんがその口で喋ってる」
はて、と子どもたちは首を傾げた。
唯一双葉だけが訳知り顔でぽんと手を合わせたが、少年は彼女に黙っているよう指先を己の口元に当てて示す。
忍び笑いをもらす二人にモルガナはムッと顔をしかめたが、他方はさして気にもせず思案を続行した。
やがて喜多川が「ああ……」と感嘆とも取れる声を上げた。
「ライブカメラか」
吐息とともに漏らされた答えに、他の面々も各々なるほどと手を打ち鳴らす。
少年は伊達眼鏡のブリッジを押さえてほくそ笑んだ。
「正解。橋の上じゃ顔は分からなくても、スクーターの車種と背丈くらいはわかるだろ?」
「ちょっと待ってろ〜」
少年が朗々と語る間に、双葉は傍らに控えさせていたラップトップパソコンをテーブルに据える。モルガナは相変わらずその膝の上に乗せられていたから、自然彼もまたその液晶画面を覗くことになった。
モルガナに電子機器のことはあまりよく分からない。もちろん怪盗の基礎知識としてある程度扱いは心得ているが、それはあくまでもハードのことであり、ソフト―――つまり電子情報の取り扱いに関しては、怪盗団内ではおそらく彼が最底辺だろう。どちらかといえばモルガナはアナクロ派であった。
となれば餅は餅屋がよし、だ。
双葉に言わせればこんなことは造作もないどころか、誰にでもできるようなことだが―――
パチパチとキーボードを叩いていた指はすぐに止まり、少年たちの前にいくつかのスクリーンショットを差し出してみせた。
「ほい、時間的にもシチュ的にもこいつで間違いないとおもうぞ」
背景はほとんど夜の闇に呑み込まれているが、そばの街灯が照らし出す雨粒と人影、そしてそれがまたがる二輪車のシルエットははっきりとしている。
雨によって量を増した水面の激しいうねりも、その腕に抱えられた箱も―――
「そうだな、間違いない……」
身を乗り出して画面を確認したが音が鳴りそうなほど強く歯を噛んだ。
その音を耳に入れながら、高巻がやけに明るい声で身ぶりを交えながら言ってのける。
「よし! これでなんとなくどんなやつか分かるよね! 身長とか……手すりの高さってどんなもん? これくらい?」
「そんなもんじゃね? したら大体、俺らと同じくらいか」
座面から腰を浮かせ、床に足をつけた坂本が応えた。猫背気味の背筋を伸ばし、同じく床に降り立った隣の少年とともに、高巻が示した欄干の高さをなぞるように確かめている。
「ということはオトコか?」
「断言はできんな。背の高い女という可能性は十分ある」
「顔はわかんないね……これ別角度とかないの?」
「無茶いうな。河川カメラは川の水量を見張るためのもんだぞ」
それもそっか、と応えて高巻は腕を組む。
「他にヒントって言ったら、このスクーター? どっかで見たことある気もするんだけど」
どれどれ、と画面の前に少年たちもが顔を寄せる。押し合いへし合いとなった彼らは、双葉が無言のうちに走らせた画像補正ソフトの仕事が完了するのを狭苦しそうに待つこととなった。
やがてノイズにぼやけていた輪郭がより明瞭なものになる。
「あ、これ」
声を上げたのはだ。意外なくらい細く白い指が画面の端に映し出された特徴的なシルエットをなぞる。
「ベスパだ。しかもクラシックタイプ」
はて、と少年たちは首を傾げるが、サッと己のスマートフォンで該当の車種を検索した高巻が得心の声を漏らす。
「あー、ローマの休日」
また彼女の手元を覗き込んだ頭目は「さらば青春の光」とつぶやいて、双葉が「探偵物語」ともらす。
残念なことにナンバーはちょうど欄干の影に隠れて確認することは叶わないが、糸口は掴んだとは顔を上げる。瞳には獲物を追い立てる獣じみた剣呑な色が宿されていた。
「これなら追える」
「その心は?」
喜多川は極力刺激しないようにと慎重に問いかけた。
「ベスパはイタリア産の輸入車だけど、あっちじゃすでに生産が終わってるんだ。日本国内向けだけにいくらか生産されているけど、それも多くはない。修理やパーツなんかを扱ってる店を当たっていけば……」
「なるほど、自ずと不埒者に辿り着くということか」
「そういうこと!」
歯を見せて笑う少女は誰が見たって愛らしいが、やはりどことなく凶暴さを窺わせる。
やれやれと猫にはないはずの肩をすくめて、しかし怒りを湛えてモルガナは囁いた。
「別にワガハイは猫じゃねぇけど、同じ四足のものとしちゃ面白くねーな」
鋭い犬歯を覗かせて低く唸る彼に促されるように高巻と双葉も目を細める。
どのようなわけがあったとて許される行為ではないし、仮に同情の余地があろうと、彼らには容赦する理由がない。
ターゲットを選別する『ふるい』は種々あるが、一度選ばれれば≪改心≫の結果は一律だ。
そろそろ子どもたちも解り始めていた。
結局自分たちの行動理念ははじめから利己的なものであって、決して他人のためなんかではない。
ひとえにただ―――気に食わない。
それだけだった。
そのための議論の場に今回の件を差し出すべく、少年たちは早速と動き始めた。
……ただ一人、エプロンを着けたままの少年を除いて。
「えっ? すぐ行くの? 俺、店離れられないんだけど……」
「じゃあリーダーは今回お休みな。店番頑張れよ」
「えっ」
「ごちそうさまでした。コーヒー代ここに置いとくね」
「ええっ」
「誰かカバンに入れてってくれぇ」
「しゃーないな。ほらこいモナ、わたしのリュックに入れてやる」
「えーっ」
「、ちゃんと暖かくしろよ。ほら、きちんとしめろ」
「子ども扱いかよ! そんなに厳重にされなくても風邪なんてひかないってば!」
「お前らは早く出てけ!」
追い立てられるように喜多川とが店を出ると、後を追って坂本らもルブランのドアをくぐる。
残された少年は独り虚しく鳴り響くドアベルを耳に、肩を落としてカウンターに突っ伏した。
橋から最も近い駅を中心に周囲数キロを検索した結果、バイクの販売店や修理を請け負う店舗は二十件ほど見つかった。
固まって行動するのも手間とそれぞれ地区を分けて担当することにして少年たちは散開した。
もちろん顧客データは早々簡単に明かされるものではないから、具体的な名前や連絡先が手に入ることはないだろう。
目的はホシのさらなる絞り込みだ。
―――双葉は背に負ったリュックから顔を覗かせるモルガナにせっつかれて、店先で紫煙をくゆらす男の前にそろそろと足を運んだ。
今彼女はこの場にモルガナと二人きりでやってきている。それは彼女自身が望んだことだ。
ついて行くと言って譲らないを説得するのにはなかなか骨が折れたが、伝家の宝刀―――「しつこい! 嫌いになるぞ!」―――をチラつかせると、自己紹介以降やたらと過保護に接したがる彼女も涙目になって退散した。
そのフォローを喜多川に放り投げ、双葉は冒険の権利を手に入れたというわけだ。
現在攻略中のパレスでだって、一人で交渉役をこなせたんだ。現実でだってわけないぜ。
己を奮い立たせながら、双葉は壮年の男を見上げて喉開いた。
「こっ、こんにちは!」
「んあ……ああ、はい、こんにちは……?」
男は怪訝そうな顔をしつつも、頭を下げた少女に倣う。
よし、まずは第一関門突破。挨拶は大事。
双葉は再び顔を上げ直立不動の姿勢を取ると、震えそうになる膝をももをつねって止めながらまた口を開いた。
「あっ、あの、あの、わたっ、わたし……」
小さな身丈に震える声、緊張によって紅潮した頬と薄っすらと浮かびつつある冷や汗らしきもの……
なかなか本題を告げられない彼女の様子に、男は得心したように頷いてみせた。
「迷子? 駅ならあそこの角を曲がって―――」
「ちがう! 迷子じゃない! です!」
それじゃあ一体なんの用だと男はますます不審そうに顔をしかめる。
前途多難だな、コリャ。
モルガナは鞄の中でひっそりとため息をついた。
一方で―――
「へぇ〜っ、そうなんですかぁ〜すっご〜い」
高巻は相変わらずの棒読みで機械油に汚れたつなぎの男に微笑みかけていた。
それだけのことで、些細な違和感を放り捨てて男は鼻の下を伸ばす。
錆の浮いた天井クレーンに小型のガス窯、あちこちに積まれたタイヤや板金―――駅から少し離れた小さな板金塗装の工場に高巻は足を運んでいた。
工場内には強い有機溶剤の臭いが立ち込め、そばを流れるドブ川からの悪臭と混じって鼻がひん曲がりそうなものだが、一度大きく深呼吸してしまうと鼻が麻痺してしまったのかそれ以後はあまり気にならない。
早めに覚悟を決めて良かった。
高巻は長々業務内容を自慢を織り交ぜて話し続ける二十代中程と思われる男の話に耳を傾けながら、ひっそりと胸をなで下ろした。
タービンの回転音の響く工場内に声をかけてから、すでに五分は経過している。高巻はただ、「ここってバイクの修理なんかもやってますよね?」と問いかけただけなのだが、そこから何故かはりきり始めた男の長広舌が続いている。
とはいえ高巻にとってはいつものことだ。
男なるものは、こうして自分が微笑みかけてなにかを尋ねると、必要なことも、そうでないことも、とにかくたくさん、時にはウンザリするほど喋りだす。
それは、己が世間一般的に見て優れた容姿をしているからだ。
決して口にはしないが高巻にはその自覚と自負がある。
彼女自身にはいまいち『なに』が『どう』して『そう』なのかは理解できないが、なにしろ両親を始めとした大人たちや、時には歳の近い異性や同性も口を揃えて言うのだ。かわいい、きれい、美しい、と。
誰もがうらやみ、羨望のまなざしを向けるものだが、高巻にとってこれは長らく足かせでしかなかった。
なにしろこのために、唯一無二の親友が深く傷つけられ、絶たれこそしなかったものの別離を選択させられている。
「あの……大丈夫?」
脳裏を過った痛みの記憶に気が付かぬうちに眉を寄せていたらしい。男が気遣わしげな表情で高巻の顔を覗き込んでいる。
「あ、ごめんなさい。大丈夫です」
「もしかして、ニオイのせいかな。シンナーのニオイって気分悪くなる子も多いから」
短く刈り込んだ頭をかいて、男はしゅんと項垂れる。先まで意気揚々と話していたとは思えない豹変ぶりだ。
高巻は―――
別段、男は整った容姿をしているわけでも、特別肉体的に優れているところもなさそうだ。町工場に勤めているとなれば、給料だってそこそこだろう。
それらの『価値』とは全く別に、高巻は心の底からこのような存在を『かわいい』と思った。
生まれてこのかた、そのように思えるのははじめての経験だった。それも十は年も離れているのであろう異性に対して。
高巻は膨張色で包んだ長く、それでも細く見える脚をひけらかすように組み替えて極上の笑みを男に向けた。
「ホントに大丈夫だよ。一度深呼吸したらこんなの慣れちゃうって」
ついでにと、上体をわずかに前に倒して前傾姿勢をつくる。
白くまばゆい首から鎖骨にかけてが男の目に映った。いわんやそこから繋がる豊かな双丘の深い谷間も―――
「あのね、実は他に訊きたいことがあるんだ」
当然、男は守秘義務のことなど完全に忘れて目の前の少女の言に耳を傾けた。
坂本は目の前に鎮座する漆黒のボディから目を離せずにいた。
差し色に輝くようなイエローの入ったリッターマシン。巨大な水冷式エンジンに無骨なフレーム、シンプルであるからこその『男らしい』エレガントさ―――
男の憧れを凝縮したかのようなマシンが彼の前にはあった。
「やべぇ……かっけぇ……」
恍惚としながら漏らされた声に、店の店長らしき老年の男がフッとどこか虚無的な笑みを浮かべた。
「あんた、免許は持ってんのか」
「へ? あ、いや、俺―――」
坂本は初めて己の背後に人がいたことに気がついて、慌てて振り返ると奇妙な気恥ずかしさに頭をかいた。
「も、持ってないス……」
辛うじてそうと告げるのが精一杯だった。
坂本の前にいたのは、年若い彼を前にしてなお精悍と言い表される偉丈夫だった。白髪の混じった髪は短く切り揃えられ、シワの寄った肌は日に焼けている。腕も脚もよく鍛えられて年とは思えぬほどガッシリとしている様子だ。
怪盗団の中でも肉体派のはずの坂本ではあるが、この老人を前にしては棒切れと同じだろう。とはいえ彼が陸上競技選手だったことを思えばそれは決して不名誉なことではないのだが―――
それでもどうしてか、坂本はなんとなくこの老人の前に立つのが恥ずかしく思えた。
それは見た目や生い立ちによるものではなく、ただ年齢を経た経験の差による、言い難い余裕のようなものを老人が放っているからだ。
惣治郎とはまた別の、脂の乗り切った男の魅力なるものを彼は備えている。
それを本能的にか、敏感に嗅ぎ取ってこの少年は萎縮しているのだ。
「ンだよ、そんならまず免許取ってからきなよ」
そう言われることもまた、子ども扱いをされたような気になって、チクチクとプライドに傷がつけられる。
たぶん―――
母親に免許が欲しいと言えば、それくらいの資金は捻出してくれるだろう。自分の母親とは思えないほど頭の回るひとだから、もしかしたらとっくにそんな日に備えて貯金を蓄えてくれているかもしれない。
この少年はそれを頼るのがたまらなく嫌だった。
早く大人になりたい。大人になって、稼げるようになって、あのひとに楽をさせてやりたい。できれば人に誇れるような立派な仕事に就いて。
漠然としたこの意志を人に話したことはない。心から信頼するあの癖のある黒髪の少年にだって、素振りさえ見せたことはないはずだ。
……ややマザコンのケがあることくらいは、見抜かれているかもしれない。
さておき坂本はふり返って再び大型バイクに、その足元に貼られた値札に目を向ける。
ゼロが六つもついている。
免許を取ったとして、これほどまでのマシンに乗れるのはいつになることか。
この老人のように、ただ立っているだけでなにかを人に悟らせるほどになるにはどれだけの時間を要するのか―――
いじけたような心地はしかし、すぐに吹き飛んだ。
やることが彼にはあった。
それは友だちのためであったり、小さな生き物のためであったり、顔も名前も知らない誰かのためであることだ。
誰に恥じることなく言えることでもあった。当然、母親にも。
ふっと口元を緩めると、坂本はポケットに手を突っ込んで不遜な態度を老人に向けた。
あまり褒められることではないが、老人はどうしてか面白そうに目を細めている。
「や、別にバイク見に来たわけじゃねーんだわ。これにゃ負けるだろうけど、軽いやつなら俺が走ったほうがはえーし」
「吹くじゃねえか。そんならなんの用で来たってんだ?」
太い腕を組んで首を傾けた老人に、坂本はスマートフォンを突きつけた。そこには双葉から送付された例のスクリーンショットが表示されたままになっている。
「こういうのに乗ったクズを探してんだわ。じいさん、アンタなんか知らねーか?」
口のきき方のなってない若者に、老人は愉快そうに口の端を釣り上げてみせた。
また他方では、喜多川が前を歩く少女の背を見つめながらどうしたものかと思案している。
項垂れて丸まった背は、まるで叱られて反省を促された犬のような風情だ。もしも彼女に尾があれば、引きずるほどに垂れ下がってしまっていることだろう。
「……、あまり気にするな」
試しにと気休めを言ってみる。
「わかってる。わかってるよ。でも……ぐすっ、双葉ぁ……」
返されたのは情けない涙声だけだ。
が双葉と和解―――別に仲違いもしていたわけではないが、とにかく何某かのやり取りの後、約束事を酌み交わしたらしいとは喜多川もすでに承知している。
約束というものが、佐倉双葉という女の子を、彼女を大切にする周囲の人間関係ごと守ってみせるというものであることも。
……双葉の父親である惣治郎に「この命に代えても守ってみせる」と啖呵を切ったことも。
は知られているということこそを知らないでいるらしいが、これもまた喜多川には面白くないことだった。
彼女を怪盗団に引き入れるきっかけを作ったのも、そのための交流も説得のようなことも、結果的にその心を盗み出したのも、概ね殆どは喜多川の手柄によるものだ。
それをひけらかして誇るつもりはなかったが、こうも落ち込んだ姿を見せられると、大した興味もなさそうにしていた双葉に横から掻っ攫われたような気にもなる。
別に彼女が自分の所有物だなどと思っているわけではないが―――
面白くないのは確かだ。
少年はムッとしながら己の中の手札を切った。
彼女にこちらを向かせるためのカードはいくつかある。単なるからかい言葉から、肉体的な接触を伴うようなものまで―――
少年が場に出したのはそのどちらでもなかった。
「そういえば」
切り口上はありふれているが、それだけに効果はある。はなんの警戒もなくふり返った。
「なに?」
「つい昨日のことだ。俺はもう寝ようかと部屋の明かりを落とし、布団に潜り込もうとしていた」
喜多川の言わんとするところを掴みかねて、は眉をひそめている。
構わず喜多川は続けた。
「ちょうど雨が酷くなってきたころで、雷までもが夜闇を引き裂いて暗くした部屋を照らし出すほどだった」
「それ、私が―――」
「その雷光によって、窓に女の影が浮かび上がった。腰を抜かすかと思ったよ。なにしろ女は雨に全身をずぶ濡れにして、黒く長い髪を頬に貼り付けて顔を隠しているんだ」
「だから―――」
「それでもその女が自分のよく知る人物だとはすぐに気がついた。慌てて窓を開け、部屋に招き入れたんだが……」
指摘の言葉を幾度も潰されたからか、は口をへの字に曲げて押し黙る。
喜多川は口元を緩めてオチを告げてやった。
「すると女は怒り心頭といった様子で俺にこう言うんだ。自分の『恋人』のことを妖怪かなにかを見るような目で見ていただろう、と」
ハッ、と聞き取れるほど強くは息を呑んだ。同時に頬に赤みが差し、小さく震え始める―――
上機嫌になって、喜多川は少女の隣に並んだ。
「俺と『彼女』の間にある認識にズレがあるのではと少し不安に思っていたが、どうやら杞憂だったようだ」
「こ、言葉のあやだろ」
「ふっ、そうか。そういうことも、あるかもしれんな」
言葉にならないうめき声を上げる少女に対し、少年は余裕綽々と大股に一歩を踏み出す。
少女が釣られるように前へ出たのは、彼に手を引かれているからだ。
「ちょ、は、離せって」
「嫌だ。ここは譲れん」
「ああもう、なんでこうなるんだよぉ……」
泣き言を漏らしながらも、は目的の販売店にたどり着くまで手を振り払ったりはしなかった。