25:anamorphosis

 少年もまた夢を見た。
 彼は何故か犬の姿になっていて、目の前には大皿に盛られたごちそうがある。
 出来立てらしいそれはいいニオイを立ち上る蒸気とともに広げ、見た目にも照りと艶があり、まだジュウジュウと音を立て、いかにも美味しそうだと五感に訴えている。
 だというのに、彼はもうずっとこのおいしそうなご飯の前で『待て』をされている。
 縋るような目を『ご主人さま』―――何故か顔はどうしても見ることが叶わない―――に向けるが、返されるのは『まだ』という無慈悲な言葉だけだ。
 彼は吠えた。
『これはいくらなんでも……あまりな仕打ちではないか!』
 しかし彼は犬になっていて、言葉はすべてワンワンという音にしかならなかった。
 立派な毛皮が汚れるのも構わず地べたを転がりまわり、手足をバタバタと暴れさせてみたりするものの、『ご主人さま』は決して『待て』の命を解いてはくれなかった―――

……
 路地裏に一人の少年と少女の姿がある。
 辺りに人の気配はない。喧騒は路地の奥にまで届いているが雑踏は遠く、代わりにと言わんばかりにかすかな異臭が立ち込めている。発生源はおそらくそばの飲食店のものらしいポリバケツからだろう。あるいは足元の汚れた水が流れる水路か、正体の知りたくない薄茶けたシミか―――
 いずれにせよ、少年は対峙した少女に向けて言った。
「例のものは手筈通りに受け渡しを完了した」
 すると彼が肩から下げた鞄から、ニュッと口周りだけが白い黒猫が顔を突き出す。
「ワガハイがな」
 手柄を主張する猫―――モルガナの様子に苦笑しつつ、少年は彼をアスファルトの上、なるべく汚れていない所を選んで下ろしてやった。気遣いというよりは、汚れた場所を歩いた足で己の寝台の上にまでやってこられてはたまらないからだ。
 少女はそれを受けて安堵の息を漏らすと、モルガナに向けて丁寧に頭を下げた。
「ありがとう、モルガナくん」
「ふん、別に礼を言われるようなことじゃねえよ」
 尾をひらりと振ってそっぽを向きつつ、愛らしい見た目と声の猫はなんだかいっちょ前にニヒリスチックなことを言ってのける。
「したこと、されたことをいつまでも引きずるほどワガハイはガキじゃねーからな」
「……うん。ありがとう」
「へッ―――」
 少年は尊大に鼻を鳴らす猫の尾の先、白い部分を掴んで彼を黙らせた。お説教はもうたくさんだ。
 ―――目の前に立つ少女、から『依頼』を受けたのはつい昨日の話だ。
 パレス攻略を終え、双葉と別れてルブランの屋根裏部屋に戻った彼の前に、が姿を現したのだ。正確には、彼女は先んじて屋根裏に忍び込んでいた様子で、寝台の上で本を膝の上に乗せながら船を漕いでいた。
 叩き起こされた侵入者はモルガナによって床に正座させられながら―――『こんな時間に野郎の部屋に忍び込むのは感心できねーよ』と彼は十分ほど彼女に小言を喰らわせた―――頼みがあると率直に告げた。
 訳を問えば、一枚の簡素な茶封筒を差し出してくる。ちらりと見た限り、そこには宛名も住所もなく、切手も貼られていないようだった。当然、差し出し主の名も。
 曰く、彼女には法律上保護者にあたる人物が存在している。それは祖父の代から付き合いのある弁護士で、今や親代わりでもある存在なのだと。
 そして彼女は今のところ現住所である自宅を焼失し、世間には生死不明の行方不明ということになっている。
 は困り顔でスマートフォンを彼に突き付けた。
 その液晶画面に表示されているのは着信履歴の一覧で、上から下まですべてが一人の名で埋め尽くされていた。そのいずれもが不在着信で、いくつかは留守番メッセージまでもが付属している。
「心配させてしまっているみたいで……せめて生きていることくらいは伝えたいんだけど、直接会うのも、着信を受けるわけにもいかないし」
「俺が接触しても不味いことになると思うけど」
「うん―――だから、モルガナくんにお願いしたいんだ。ダメかな……」
 二人にじっと見つめられて、モルガナは顔をしかめた。
 別にそれくらい引き受けてやったっていいが……
「……、その前にワガハイにすることがあるんじゃないか?」
「え?」
「オマエ、ワガハイになにしたか忘れたとは言わせねーぞ」
「あー、ケツ痛事件。ぷっ、くくく……ッ」
「笑ってんじゃねーよ!!」
 音が鳴るほど激しく尾で床を叩いて、モルガナは牙を剥いてを睨みつけた。
「これは取引だッ! ワガハイを働かせたかったらそれなりの『対価』を支払ってもらうぜ!」
「そ、そう言われても。なにをしろってんだ?」
「ふっふーん、そうだなァ……」
 一転、上機嫌になってモルガナは窓の床板に跳び上がった。
 そして未だ床に正座させられたままの少女を見下ろして言う―――
「よし、ドゲザだ。床に頭こすりつけてゴメンナサイしてもらおうか?」
「おいおい……」
 冗談にしても性質が悪いぞ、と少年は苦笑して相棒を諌めようと軽くその背を叩いた。
 おそらくこの猫はをビビらせて、それで手打ちにしようというのだろう。まったく素直じゃないやつだと呆れるが―――
 二人は驚愕に目を見開いて珍奇な声を上げた。
 なにしろが両手を床につけ、今まさに床に額を擦り付けんと下げている。
「うひゃあバカッ! 本当にするやつがあるか!」
「ジョーダンに決まってるだろ! マジに取るなよなぁッ!?」
 少年は肩を掴み、猫は慌てて床に飛び降りて腹の下に潜り込んで少女の土下座などという衝撃的なシーンを阻止せしめた。
「オマエなぁ……! ワガハイがオンナにドゲザさせて満足するようなヤツだと思ってんのか!?」
「そうだったら追い出す。はあぁ……」
 項垂れる二人に目をぱちくりとさせて、は困った様子で首を傾げた。
「じゃあどうしろってんだ?」
「もーいーよ、誠意はわかったからよ……」
「じゃあ」
 ぱあっと顔を明るくさせた少女に、モルガナは床に寝っ転がりつつ頷いてやる。
「ああ―――請けてやるよ、その『依頼』をな」
 かくして、モルガナは宛先も差出人も記されていない手紙を受け取り、すぐにルブランを飛び出していったというわけだ。
 は心のこもった笑みをモルガナに向けている。
「おかげで着信の頻度も減ったよ」
「ゼロじゃないのか?」
「急に無くなるのもおかしいだろ。連絡があったと悟られちゃおじさまにご迷惑がかかっちゃう。だから手紙に少しずつ減らしていってくれって書いたんだ」
「はあ、大した念の入れようだな」
 感心したように頭をかいた少年には、どことなく底意地の悪い笑みが差し向けられた。
「キミだって同じ立場になったらこれくらいはするだろ?」
「あー?」
「佐倉さん」
「あー……」
 まあね、と曖昧に濁して、少年はまた頭をかいた。
 ……どうやら知らぬ内に、ルブランの下の部分にも入り込まれていたようだと思う。それはおそらく双葉辺りの手引きだろうとも。
 確かにの語る通り、屋根裏の下の部分を支配するあの人物―――佐倉惣治郎は彼が郷里を離れてやってきたこの土地で初めて触れた他人だが、今はもう他人だなどと呼ぶことはできなくなっている。血の繋がりも、そうと呼ぶのに相応しい交流もないけれど、間に双葉を置いているとなんだか家族のようなものになった気さえしてくるのだから。あるいは張り切ってあれやこれやせずともそうと思えることこそがこの関係性をより深く表す証明なのかもしれない。
 それを指摘される面映さに耐えきれなくなって、少年は唇を尖らせた。
「ちぇっ、双葉が妙にはしゃいでたのはくんのせいかよ」
「知らないけど」
「なんだかやたらとウキウキしてた。その割に竜司は静かでノリが悪いし。いやこれは黙ってろって言ったから仕方がないんだけど……やり辛いったらない。早く終わらせたいよ」
「人生で一二を争う危機だろうってのに、キミは気楽だなぁ……」
「まったくだぜ……」
 はあ、とため息をついたモルガナの額を軽くひと撫でしてから、は後ろに置いていたキャリーケースを少年のほうへ押しやった。
「ほら、約束のブツだ」
「お……本当に貰っていいのか?」
「そのために用意させたんだろ。言っておくけど、使いこなすにはある程度の習熟が必要だからな。耐荷重に問題はないだろうけど、サイズはそっちで調節―――聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。わあ、ちゃんとリペイントしてくれたんだな」
「……はあ……一応仕様をプリントアウトしたやつも一緒に入れてあるから、双葉にでも読んでもらえよ」
「わかってるわかってる」
「ダメだこりゃ。モルガナくん、監督頼むよ」
「おう、任せとけ」
 再び、猫と少女は顔を見合わせてため息をついた。
 少年がはしゃいで覗き込んだケースの中には、わざわざ黒にリペイントされたパワーアシストスーツが眠っている。それは先の取引においてモルガナが報酬を求めなかったため、代わりにと少年が要求したものだ。
 もちろんは渋ったが、駄々をこねる子どものようにまとわりつかれては彼女も頷くほかなかった。身長と体重、足のサイズに利き足と利き手、歩幅や体幹のバランスのおおよそをその場で調べ、後日調節したものを渡すと約束してその日は別れ、今日に至っている。
「いいか、使うのならメンテナンスは小まめにやれよ。それから、いきなり私みたいな使い方をしようだなんて考えるなよ!」
「大丈夫、最初は部屋の片付けに使うから」
「ならいい。それから―――」
「まだあるのか」
 少年はやっと顔を上げた。その表情にはいい加減うんざりだと書かれている。
 は少しも構わずに述べる。
「吾郎の前でそれを使うなよ。ケースもなるべく早めに処分しろ。彼は鼻が利く」
「ああ……」
 お小言に飽きていた顔を追い払って、少年は神妙に頷いてみせた。
 なにしろ『やつ』のおかげでさんざん苦労させられてきたのだ。ここにきて些細な手落ちからしくじりたいとはさすがの少年も思えなかったらしい。
 そんな彼の態度に満足げにするに、今度は彼のほうが問いかける。
「気になってたんだけど」
「ん? なに?」
くんが『俺たち』のことを知ったのは『やつ』に教えられたからだろ」
 もはや隠すこともないとは首を縦に振る。
 すると少年は彼女が普段よくするようにキャリーケースの上に尻を乗せつつ問いを重ねた。
「どんなふうに?」
「たしか……面白い連中がいる、だったかな。キミのとこのカモシダ? と、祐介くんのお師匠さまと、この二人の主だった被害者―――キミたちが最近仲良しこよししてるって」
「ふぅん……」
 なるほど当時からすでに知られていたのか。
 少年はつまらなさそうに口を尖らせ、『長い付き合い』に想いを馳せた。
 彼女の発言を顧みると、ずいぶん早い段階から目を付けられていたようだ。その割に挑発的な発言や態度が目立ったように思えるのはあちらの性格か、それとも警告の一種だったのだろうか。
 ―――そんな親切なやつだろうか?
「どうした? なにか気になることでもあるのかよ」
 突然黙り込んだ―――これ自体はいつものことだ―――彼に首をかしげたのはモルガナだった。のほうも戸惑いがちな視線を彼に向けている。
 少年は指先で己の顎をさすりながら思ったことをそのまま告げてやった。
「どうしてわざわざくんに俺たちのことを教えたんだろうって考えてた」
「そりゃ、キミたちの邪魔をさせるためじゃないの?」
「うーん……けどそれ、言わなくてもよくないか? ターゲットの特徴と、することさえ指示されれば、あのころのお前なら従ってただろ」
 反論には呻いて腕を組んだ。
「まあ、そうだな。いちいち疑問を差し挟むのも無駄なことだ。どうせあいつは教えちゃくれないだろうし……」
 然りと頷いて少年は指を鳴らした。の眉がひそめられるが、彼は構うことなく続けた。
「必要ないんだよ。を働かせるのに『怪盗団』はな」
 路地裏は奇妙な沈黙に包まれる。
 今や怪盗団の喉元に刃を突き付けたかの人物に対し、各々想像や考えを巡らせたが、最も付き合いが長いはずの少女は首を傾げるばかりだ。
「じゃあ、なんであいつは私にキミらのことを教えたんだ?」
「それを俺は訊いてるんだけど」
「知らない」
にとっちゃ殺されかけた相手だしな」
「俺はこれからそうなりそうだけど」
 ふーむ、と少年たちは額を突き合わせてうめき声を上げる。
「キミたちに私を接触させることになんらかの利が発生しする可能性があった?」
「例えば?」
「知らない」
くんってロボット以外はほんとポンコツだな」
「はあ? スーツ返せ!」
「やだ」
 足先だけを動かしてケースごと器用に後退る少年に呆れつつ、モルガナは室外機の上でヒゲを揺らした。
にユースケを籠絡させることでワガハイたちに不和を呼べるとでも考えてたんじゃないのか?」
「それは……うーん、正直な話するけど、明智がそこまでくんを重用していたとは思えないんだよなぁ」
「さっきから失礼だな! ……まあ、実際そうだろうけど……祐介くんと知り合ったばっかりのころ、なんか感心されてたし……」
「ほらね」
「ふんっ!」
 機嫌を損ねたらしくぷいと顔をそらしたを横目に、少年は失笑する。
 これにはますますへそを曲げたようで、くるりと背を向けて歩き出してしまう。
「どこへ行くんだ?」
 モルガナの問いかけにも振り返らない。
「帰るんだよ」
「気を付けろよ」
「言われなくても、警戒はしてる」
 すげなく答えては壁を伝う排水用らしきパイプに手を付けた。
「今日のお宿は?」
「そのへんの屋上を間借りする」
 たくましいことだと少年はまた笑った。真似する気はあまりないが、一度か二度くらいはやってみたいものだとも。
 掴んだパイプを支点に足元を蹴り、浮いた脚で建物の外壁を更に蹴って上方へ跳び上がる。
 見事な三角跳びと感心しつつ、これもまたそのうちやってみたいと思う。
 遠ざかりつつある背に少年は声を投げた。
「もう少し真っ当な寝床を選べ。祐介も心配してた」
 雨樋に手をかけ、空中で止まった少女は律儀にも下方へ声を返した。
「キミもたいがいお世話焼きだな」
「俺は世界一のおせっかい焼き野郎なんだよ」
 でなきゃこんなバカみたいなことはじめたりなんてしない―――
 渋い顔をする猫を鞄に迎え入れてやりながら言った少年に、は再び壁を蹴ってその身を更に上へ放り出した。
「そのバカなことの援護は任せて―――」
 それきり彼女の姿は建物の天辺の影に隠れて見えなくなった。声も物音もすっかり消えてしまっている。
 少年は踵を返し、キャリーケースを引きながら路地裏を後にした。

 翌日の新島冴のパレス、その本体から離れた留置所内に、クイーンとナビの姿がある。
 二人のそばには三十センチ四方の箱が積み上げられた台車があり、クイーンの肩にはそれと電源を繋ぐコード類が担がれている。
 二人はやっと完成したガジェットの設置にここを訪れていた。
「本当にこれで……大丈夫なのかしら」
 不安げな声を漏らすクイーンの傍ら、ナビは彼女から受け取ったコードの類を一つ一つ検分している。
 箱からはすでに一つ、灰色のコードが伸び、天井に取り付けられた監視カメラに繋がっている。
「どうだろうな。装置も動かすためのプログラムも、可能な限り精度は高めたけど―――」
「確定とは言い切れないのね」
「まあな」
 気楽そうな様子で応えて、ナビは箱を部屋中央に置かれたテーブルの下に押し込んだ。
「どんなことだって絶対はないだろ。いつもそうだった」
「それはそうだけど……お姉ちゃんのことも心配だし、もう、頭の中グチャグチャになりそう」
 こめかみをさするクイーンにナビの興味深げな視線が突き刺さった。
「前からおもってたけど、なんか、おねえちゃんっていいな」
「え……そう? 怖かったりもするよ?」
「でも基本楽しそうじゃん。今もそんな心配するくらいなんだし、前はもっと仲良かったんだろ?」
「まあ……そう、そうね。うん……」
「いいなー」
 ほう、と息をついてもナビの手は巧みに動き、箱の側面の接続機に次々にコードを挿し込んでいる。そのたびに箱からは小さな唸り声が上がった。
 クイーンは少しだけ思案する様子を見せる。箱の消音性が気になるのかとナビは顔を上げたが、彼女が口にしたのはそういった現実に即した提案の類ではなかった。
「お兄さんみたいなのならいるじゃない」
 ナビはがっくりと肩を落として、最後のコード、一際太いそれを箱に突き刺した。
 するとぱっと箱の上部に取り付けられた小さなライトが点灯し、通電を教える。
「おねえちゃんがいいのっ」
「……彼なら頼めばおねえちゃんもしてくれるわよ」
「いやじゃっ! 気色悪い!」
 ぶるぶると首を振る少女の姿にくすっと小さく笑って、クイーンもまた脳裏に思い描いた『兄』が『姉』のように振る舞う想像を追い払った。確かにちょっと、気持ち悪い。
 ため息をついて、ナビは真剣な面持ちを取り戻す。
「とにかく……こっちが上手くいきさえすれば、まことのおねーさまも大丈夫になるよ。この事件から手を引きさえしてくれればしばらくは安全のはず」
「つまり、リーダー次第ってことね」
「そゆこと」
「はあ……」
 重苦しいため息をついて、クイーンは箱―――空中立体映像投影機のスイッチを入れた。
 パチン、という音とともに投影機上部に取り付けられた光学ユニットが動き出し、空中に件の少年の姿が映し出される。
「わっ、すごいわね。本物……というほどじゃなくても、遠くから見れば分からないんじゃない?」
「むふふ、それだけじゃねーぞ。正面回ってみ」
 言われてクイーンは立ち上がり、座した格好の映像の正面に回り込もうとする。
 彼の真横に踏み入った瞬間、ただの映像のはずのそれはまるでクイーンの存在に気がついたかのように首を巡らせ、視線をそちらに向けた。
「きゃっ!」
 可愛らしい悲鳴を上げて壁際まで後退った彼女を、映像はじっと見つめている。
「ふっふっふー、すごいだろっ?」
「え、ええ……これ、どうなってるの?」
「動くものに反応して顔と目線を移動させるようになってる。動体センサーと一体化した画像処理回路がこんなかに入ってんだ」
 コンコンとナビの手が箱を叩いた。
「彼女、そんなことまでできるの?」
「んーや。阿藤のパレス、憶えてるだろ?」
「ええ……」
 首肯してクイーンは仮面の下の表情を曇らせた。
 なにしろ今もテレビは盛んに彼の死亡を怪盗団の仕業として騒ぎ立てている。そうでなくともやっと改心が為り、の身上を良い方向へ導けたと思ったのに―――
 けれどナビが言わんとするところはそういう深刻な話ではないようで、彼女は唇にニヤニヤとした笑みを乗せてまた箱をコンと叩いた。
「あすこでファングが持ち出せるかって訊いてた映像処理用のチップを再利用してる」
「……なるほど?」
 曖昧に頷いたクイーンに、ナビは肩をすくめる。もっと専門的な話をしてやってもいいし、彼女ならばそれを理解することも可能だろうが、残念ながらそんな時間はないのだ。
 ナビは立ち上がって壁の色と同じ布テープでコード類を固定、覆い隠しはじめた。
 クイーンもそれを手伝い、仕掛けをある程度隠蔽し終えると二人は台車を押して部屋を出る。
 なにしろ仕掛けはここだけでなく、他の場所にも設置する必要がある。もしもの場合に備えて仕掛けの設置は不可能でも監視カメラにネットワークハブを取り付けてナビの元に映像が集まるよう細工も施したい。
 二人に焦りは無かったが、急ぐに越したことはない。
 なにしろ決行はもうすぐ間近に迫っているのだから。

……
………

 耳に取り付けたイヤホンからノイズ混じりの音声がいくつも通り過ぎていく。
 高いビルの屋上に立ち、それよりさらに天高く伸びる摩天楼を見上げながら、ファングはのんびりとした様子で腰を上げた。
 緊迫感を感じさせないその様子を咎める者はない。彼女は一人でそこに何時間も潜み、この時が来るのを待ちわびていたのだ。
『散開。俺が連中の目を引く―――』
 耳にいいかげん馴染み始めた少年の声が届いた。それに応えるいくつかの声も。
 普段よりも低く冷徹に聴こえるのはあちら側の状況ゆえか、それとも受け取り手であるこちら側の問題か。
 判らなかったが、ファングは広々とした屋上で助走を取り、貯水槽に飛び乗るとそれを足つぎに大きな跳躍をしてのける。
 魚のように空を渡ったファングの身はすぐに隣接する―――それでも数十メートルは距離があった―――摩天楼の壁に迫った。
 熱線吸収タイプのガラス外装は当然強化ガラスだ。
 激突する直前、ファングはマズルマスクを引き剥がして今や己の半身となった友を顕現させる。厚みのない黒い影は彼女を先導するように前方に飛び出すと、雄叫びとともに己よりずっと分厚いガラスを粉砕した。
 ファングはそのぽっかりとひらけた空間に飛び込み、粒状に砕けたガラス片とともに転がりながら屋内へ侵入を果たした。とはいえスーツの機能でもってしても殺し切れなかった勢いによって余分にニ、三回転して壁に激突してやっと停止する始末だ。
「あいたた……失敗したぁ……」
 頭を降って髪に絡みついたガラス片を振り落としつつ、のろのろと立ち上がる。
 その耳には騒音によって迫る人に近いものの足音を聞き取っていた。
 飛び込んだところはどうやら従業員用の休憩室らしかった。不規則に並べられたテーブルの上には雑多な種類の雑誌や汚れた紙コップに食べかけのファストフードが放置されたままになっている。
 恐らくここにいた者たちは皆、別の場所での侵入を感知したことで急遽駆り出されていったのだろう。
 そしてご苦労なことに、連中はこのひと騒ぎで引き返す羽目になったようだ。
 ファングはもはや疑問を差し挟むことを諦めて無言のまま二五〇〇連マガジン付きのミニミを両開きの扉に向けて構えた。
 開かれた瞬間、あるいはその直前からファングはそこへ多量の弾丸を雨のように浴びせかける。黒のスーツを身にまとった男たちは悲鳴を上げる暇もなく霧のようになって溶け落ちていった。
 侵入地点として彼女が選んだのは本命の部隊が暴れたところと正反対の場所だ。こちらには大した強さのシャドウは配置されないだろうとの読みは当たっていたらしい。
 ファングは最後の一人になったシャドウの顎を蹴り砕きながら喉頭に装着したマイクのスイッチを押した。
「こちらファング。侵入した」
 すると耳にすぐ反応が返される。
『言われなくても分かるわ。もう少し静かに入れなかったの?』
 お小言めいた言葉を返したのはクイーンだ。反応できるということは、彼女は無事で、応答できる状況にあるということなのだろう。
「やり方は任せるって言ったのはそっちだろ。大丈夫、キミの読み通りこっちにはザコしか来てない」
 尊大なもの言いに、クイーンのマイク越しにだろう、かすかな笑い声が響いた。穏やかなこれはノワールのもののようだ。彼女はクイーンのそばにいるのだろう。
 また耳をそばだてれば雰囲気の違う快活な笑い声もある。こちらはパンサーだ。どうやら彼女たちは女三人でかしましく走り回っているらしい。
 やがてクイーンが周囲を囲む笑い声にこそため息をつきつつ言った。
『もう―――いいわ、そのまま少し敵を引きつけて。楽をさせてもらうから』
「了解」
『無茶はするなよ』
 会話に低く落ち着いた声が割って入った。
 ファングは少しだけ顔をしかめて動きを止めたが、それもほんの一瞬のことだった。
「……わかってるよ。無理や無茶は私のシゴトじゃない」
『ならいい。俺たちはそちらへ向かっている。荷物が休める場所を確保しておいてくれ』
『おいっ! 誰が荷物だ!』
『いいから行くぞ。足音が近くまで来てる』
『おいツメを立てるな……! というか両手が塞がっていては―――うおっ』
 声は不自然なノイズに阻まれて消える。また他の誰かが状況を尋ねたが、返されたのはなにやら騒々しい物音だけだ。
『あーあ……ファング、聞こえてっか? 俺もぐるっと回ってそっち行くわ。逃げ道の確保よろしく』
「わかった。気をつけてね」
 狭い通路にひしめき合って襲い来るシャドウらを跳ね除けながら応えて、ファングの足はドアを通り抜ける。
 そこは先に派手な侵入を行った場所からちょうど反対側の外周に当たる場所だった。こちらはなにか部屋があるわけでもなく、広々とした吹き抜けに、やはりガラス張りの外装によって外と内が区切られている。
 ガラス越しに見える別棟の壁面には色ガラスが内部からの光に照らされて浮かび上がり、地上に色とりどりの模様を描いていた。
 その模様を踏むようにして、なにやら仰々しく武装した大人たちが車輌や装備を並べ、まるで待ち構えるように陣を構えているのがファングの視界に映る。
『気を付けろよジョーカー。連中おまえに夢中みたいだ』
 ナビの警告に返される言葉はない。ただ楽しげな笑い声だけが皆の耳に届いた。
 そういう態度を取るのなら放っておいたところで問題はないだろうと誰もが思う。
 ファングもまた闇に身を潜めるように表の明かりから遠ざかった。
 するとカツン、と足音が響いて、少女は咄嗟にそちらへ銃口を向けた。
 吹き抜けの上下を繋ぐ階段の下、薄闇の中を白い影が歩いている。
「―――ッ」
 ファングは息を呑んで身を硬直させた。
 何故なら見覚えのあるシルエットは階下から彼女を仰ぎ見て、仮面の下の目を瞬かせている。
(ヤバい、見られた。目が合った。誤魔化せない―――)
 冷や汗が頬や背をつたう感覚に、ファングはこみ上げる恐怖を押し殺しきれず震え上がった。
 戦う力を得たとして、どうしたって『彼』に勝てるビジョンを思い描くことができなかったのだ。単純な力も、思考能力の差でも、いわんやペルソナの力をしても―――
 それでも彼女の手は抱えた軽機関銃を落とすことはなかった。引き金に指を当て、最悪の場合に備えている。
 けれど遠く、階下から彼女を見上げていた少年はふっと視線を逸らすと、すぐにその場を走り出してしまう。
 呆然とする間さえもなく白くきらきらしい衣装が角を曲がって消えるのを見送って、ファングはその場にへたり込んだ。
(気付かれていなかった? いや、他の誰かと見間違えられたのか? それとも―――)
 ファングは少年が消えた角をじっと見つめ、引き返してくるかもしれないと息を潜めたが、結局彼が戻ってくることはなかった。
「……なんだよ……」
 舌打ちをしつつ己に課した使命を思い出して膝を叩く。
 やるべきことが彼女にはあった。懸念は残るが、彼我間の距離を思えば目的を果たすだけの時間は十分残されている。
 走り出した彼女を追うものは一人とて現れなかった。

 一方で別の場所を走る二人と一匹―――正確に表せば走るのは一人―――は奇っ怪な動きで追跡してくる黒服たちに追われていた。
「ナビ、投げていいか」
「いいわけあるか! モナじゃねーんだぞわたしは!」
「おい! いまさらっとワガハイを投擲物扱いしなかったか!?」
「それもいいかもしれんな」
「よくねーよ!?」
 いずれにせよ、とフォックスは肩に担いだナビとモナを一瞥して足を早めた。
 このままでは遠からず追いつかれる。そうなる前にどこかで迎撃といきたいが、狭い通路が続く場所では彼もモナも得物の関係上動き辛い。射線が確保できれば銃撃による対処もできるだろうが、どちらも残弾数はとっくに心許なかった。
 どうしたものかと角を曲がったフォックスは、軽く瞠目するとすぐに『荷物』を床に放り捨てた。
「ぎゃん!」
「いってぇ!」
 なにすんだ、とモナが身体を起こそうとするのを、フォックスの手が無遠慮に押し戻した。ナビは四肢をその場に放り出して手をひらひらと振っている。
「頭を下げてろ」
 命ぜられてフォックスは素直にその場に伏せった。腹の下で押し潰されたモナが悲鳴を上げたが、それも続いた激しく連続した発砲音に遮られる。
 秒間二十発近く射出される5.56ミリの高速弾がシャドウらを貫き、削り取って粉々に粉砕するのには一分もかからなかった。
「おしまいっと」
 十キロ以上あるはずの軽機関銃を軽々振り回してどこかへしまい込み、ファングは銃火で焦がさないようにとまとめていた髪を下ろした。
 どこか頼りない蛍光灯の明かりの中に広がる黒髪を見つめながらフォックスは立ち上がる。
「支援に感謝する」
「どういたしまして……ぷっ」
 ファングが堪えきれないと笑いを漏らしたのは、彼の腹に潰されかけたモナが貼り付いていたからだろう。
「……おかわりはなさそうだ。ファング、ありがとな」
 ナビの礼は軽く手を振るだけに留められ、またその手は彼女の髪や肩に付着した埃やゴミを払い落としはじめる。
「んあ、なんだよ。いいよぉ、くすぐったいって」
「はいはい。ほら、きれいになった」
「んー……」
 むずかる赤子のように身を震わせ、ナビはうっとおしそうにファングの腕から逃れ出た。
 ファングは別段それを残念がるでもなく、警戒するように通路の先や後に視線を走らせている。
「過保護だな」
 思わずとフォックスがつぶやくのも無理からぬことだろう。もちろん彼とてジョーカーからこのナビゲーターを託されたのでなくとも護衛を果たすつもりくらいはあるが、ファングの場合はもっと別の、深遠な意味が込められているように見受けられた。
「過保護なくらいでちょうどいいんだよ。ナビを必ず無事に帰すってマスターと約束してきたからな」
 ナビは勢いよくふり返った。
「え! そうじ……あいつと話してきたのか? ちょっ! 余計なことすんなよ!」
「そうは言っても、あんまり心配かけさせるもんじゃないよ」
 嗜めるような語調にナビは頬を赤くして風船のようにふくらませた。
「ぷいっ!」
「もう……」
 へそを曲げてそっぽを向いたナビに、ファングは困りきった様子でフォックスを見上げる。
 ところが彼は腹に貼り付いていたモナをやっと床に下ろして肩をすくめるばかりだ。
 処置なし、と言いたいらしい。
「ちぇっ……ナビ、今はそんなことしてる場合じゃないだろ。ほら、行こう」
「ぐぬぬ……フォックス、おんぶっ!」
「またか」
 言いつつフォックスはすぐに屈んでやる。
 ナビが遠慮杓子なくその背に飛び乗ると、ぐえっと潰れたカエルのようなうめき声が上がった。当然これは八つ当たりだろう。
 ナビは次にファングとモナに指を突き付けた。
「ジョーカーのフォローに集中するから、護衛よろしくっ!」
「了解。任せて」
「しかたねぇなぁ」
 それから、と今度はゆっくりと膝を伸ばしたフォックスの肩を叩く。
「あんまり揺らされると集中切れるからゆっくり走れよ! あとへんなとこ触ったら訴えて勝つからな! むしり取るぞ!」
「俺にむしり取れるようなものがあると思っているのか」
「代わりにファングのカラダで支払わせる」
「なんで私が」
「飼い主だろ。責任と〜れよっ」
「飼ってない!」
 ファングは喚いてナビの脇をつねったがフォックスは押し黙った。足元でモナが不思議そうに彼を見上げたが、その脳裏につい先日見たばかりのばかばかしい夢の内容が過っているなどとは思いもよらぬことだろう。
 そして幸いなことに、モナはそれ以上追求しなかった。
「よーしやるぞ、こいこい、『プロメテウス』―――」