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24:Fantasm-C
少女は夢を見た。
古ぼけた日本家屋。庭に沿って長く続く縁側を通って、幼いころの彼女は一つの扉の前に辿り着いていた。
このむこうに祖父がいる。年老いて曲がったはずの背中をぴんと伸ばして、真剣な表情で板に向かっているはずだ。
少女の小さな手は慎重にドアノブを捻って、音を立てないように静かに部屋の中に進入した。
思ったとおり、部屋の中央では一人の老人が背筋を伸ばして板切れとそこに貼り付けられた麻紙に向き合っている。
―――また、こわい絵を描いてるの?
問いかけると、老人はふり返りもせず静かに、穏やかで優しげな、あたたかみに溢れた笑い声を漏らした。
にはぼくの描いたものが怖く見えるんだね。
老人の言葉に、少女は俯いてばつが悪そうに足をじらす。
だって、なんだか、こわくて、ブキミだもん。キレイなお花とか、かわいいねこちゃんとか、描けばいいのに……
これに老人はまた笑った。
そうだね、確かに、そういうものも、美しい。きっと、描く価値のあるものだろう。そういうもので、この世界は溢れている。
でもね、と言って、老人は手を止めた。
彼は穏やかで優しい、一欠片の狂気も宿さない理性と秩序だった声と言葉で幼子によく言い聞かせた。
それだけじゃ駄目なんだよ、。生きているってことは、いつかは必ず死ぬってことなんだ。ぼくたちは限られた時間の中に放り出されているんだよ。だからね―――
老人はやっとふり返って顔を見せた。
しかしそれは老人などではなかった。まだ年若い、十六、七の、艶のある黒髪と切れ長の目をした少年だった。
彼は言う。
「だから、明日か明後日か、ずっと先か、いつ訪れるのか分からない死を恐れないためじゃない。そのとき悔いのないように……」
また彼は立ち上がって、足音も少なく彼女に歩を詰めた。
「ただ今この時を楽しむために、明日に憂いを託すことなくいられるよう、忘れないようにと穢れを描くんだ。今日という花を摘むように―――」
細く骨ばった手が少女の肩に置かれた。
気がつけば少女は幼いころの姿ではなく、現在の身丈に戻り、何一つ身にまとうことなくそこに佇んでいた。
「うえっ!? なんで!?」
慌てて手を振り払い、背を向けて己を抱きしめてしゃがみこむ。そうでもしなければとても恥ずかしくて意識を保つのも難しかった。
―――そうとも、本当は、大してよくも知らない男の子の前で裸になるなんて、恥ずかしくてたまらないことだ。
それを堪えることができたのは、万が一のとき背後に立っている彼ならきっと己の窮地に駆けつけてくれるだろうという自信があったから。
そうでなければ、こんな、こんな……
俯いて涙目になる少女のなにもまとわない背に少年の手が再び触れ、あやすように優しく撫でた。
「今さら?」
「うっ、う、うるさい……私だって、本当は、こんなの……」
「嫌だったのか?」
「決まってるだろ! 恥ずかしいし、こ、怖かった……! キミはなに考えてるのかわかんないし、ヘンなことされたらどうしようって、いつも……」
「俺をなんだと思っているんだ」
「……ただの間抜けな怪盗気どり……」
正直に答えた少女を、少年は背後から覆い被さるように抱きすくめた。
「あ!」
ギクリと身を硬直させたのは、生成りのシャツで身を包んでいた彼もまた一糸まとわぬ姿であるとその感触によって察知したからだ。
「その間抜けな男に優しくしたのはどうしてだ? お前は確信していたはずだろう。命を守る保険にはもう充分だと」
「う……うるさい、うるさい……そんなの……そんなのは……」
「なぜだ?」
腹に、胸に触れる手にくすぐったさを覚えて歯を噛み、食いしばりながらはこたえた。
「だって、楽しかった……キミと一緒にいると楽しくて……キミの瞳が、おじいちゃんとおんなじで、私を描いてるんだって思うと……」
まるで子どものころの幸せだった時間に戻ったみたいだった。
掠れた声でそう言った彼女を、少年はさらに力強く抱きしめた。するとその胸には深く満ち足りたような感覚と安堵が生まれる。赤子がゆりかごに寝かされているような、絶対の安心感だ。
けれどそれは長続きしなかった。
「……」
耳元で少年が低く甘やかに囁いて、腰を抱いていた手が腹を、そのさらに下へ向かう―――
「え―――あっ!? 待て! 待ってよ、イヤだ、待って……」
は身を捩ってそれから逃れようとしたが、どういうわけか彼からは決して逃れられなかった。
「絶対に、逃さない」
それが彼の口から出たものなのか、己の記憶に刻まれたものなのか、には判らなかった。
もちろんそれは夢だ。現実ではなくて、ただ睡眠時に訪れる無意識の紡いだものでしかない。
けれど大抵の場合、見ている者にはそれが夢だという自覚は失われている。
「うわああっ!!」
もそのご多分に漏れず、悲鳴を上げて彼から―――夢から逃れ出てやっとそれが夢だったのだと自覚した。
はじめから現実にいた双葉などは、その奇声に驚いて悲鳴を上げる。
「ひえっ! お、おお、起きたのかっ!? 脅かすなよぉ……」
「ふ、双葉か……」
「うん。わたしの部屋」
言われて、は汗のにじむ額を手のひらで拭って身体を起こし、部屋を見回した。
なるほど確かにそこは佐倉家の二階、双葉の私室だ。マルチモニタと大型のデスクトップPCの本体が並ぶデスクに、横たわるベッド、アイアンラックの上に飾られた可動式フィギュア―――いずれにもは覚えがあった。
そうだ、作業がキリのいいところまで終わったから、その報告と動作試験のためにここへ来ていたんだ。それもとうに済ませ、可動に問題無しとなったから、少しだけ横にならせてもらったんだった……
ぼんやりと記憶をたどり、やっと自分の置かれた状況を把握して息をつく。
双葉も彼女が落ち着いたとみたのだろう、パソコンのモニタに向けていた身体を椅子の座面とともにくるりと回り、「もう昼過ぎたけど、なにか食うか?」と問いかける。
は腹をさすって腹具合を確かめたが、寝起きではまだ空腹かどうかさえも判然としない。なによりもっと気にかかることがにはあった。首を振って食事を辞退し、恐る恐ると問い返す。
「私、なにか、寝言とか……」
「ん。言ってた」
はギクリと身を硬くして、拳を己の額に押し当てた。夢の内容が頭を過るその動揺を気取られないよう、慎重に問いを重ねる―――
「……なんて言ってた?」
けれど声は上ずっていた。
座面にあぐらをかいた双葉は少しだけ記憶を探るように視線を上に投げると、特別隠すこともないと耳にしたものを明らかにした。
「待ってとか、イヤだとか」
この少女が常人には少し理解できないほどの記憶力の持ち主であることは、もすでに承知している。
であれば、彼女がそうと言う以上、それは真実なのだろう。嘘でもついていない限りは。
加えて双葉はその言葉が嘘ではないと証明するかのように心配そうな表情をに向けている。
「だいじょうぶか?」
そのような様子すら演技かもと勘ぐれるほどは捻くれてはいなかった。経験は彼女にそうすべきと教えたが、しかし生来のものはなかなか矯正できない。
そしてこの場合、が見た夢の内容をすっかり語りでもしなければ彼女がそれ知ることなど不可能なのだから、それで正しかった。
は双葉の気遣いを申し訳なく思いつつ、熱を持つ頬を両手で押さえて隠した。
「平気、なんでもないよ。ただの夢だから……」
「ムリすんなよ」
けれど注がれる瞳にある真摯な輝きはその程度ではすすげなかった。ただ友だちを心配して揺れる瞳は、彼女がひどく傷ついていることを教えている―――
「わ……わたしもな? ときどき、まだ、おかあさんの夢、見るし……」
「へ?」
「ち、違うのか? 待ってって、イヤだって、おまえも、家族の夢、見てたんじゃないのか?」
「んぇ、あ、その……」
まさかそういう受け取り方をされるとは思ってもみなかったとは、には当然言えるはずもなかった。何故なら双葉の瞳には悲しみと心細さがいっぱいに湛えられていて、にはそれをすすがなければならないという自主的に負った義務がある。
慌ててベッドから足を下ろした彼女に向けて、双葉は俯きがちになって言を重ねた。
「夢は、無意識が形作るものだ。そいつの、普段心の奥底に隠れている問いへの、本能や超自我に近い部分が発する答え。それはつまり、意識されない隠された願望だ。わたしの場合は、お母さんに会いたい……生きてて欲しい……まだもっと、甘えていたかった……」
「双葉……」
低く沈んだ声に、は戸惑いがちに手を伸ばした。
彼女の苦しみはよく理解できた。会いたい、生きていて欲しい、もっと甘えて、愛されているということを実感したかった……そのような想いこそが、二人の少女を≪怪盗≫に仕立て上げる根本にある。
双葉の肩に触れたの手は、優しく彼女を己の胸の中に招き入れた。母親の代わりになど当然なれないと知りながら、そうするほか彼女にできることなどなにもなかった。
それでもやわらかく暖かな感覚は双葉を大いに落ち着かせた。耳に届く心音もまた、彼女にあるはずのない胎児のころの夢を見させるかのようだった。
双葉は自ずから頬をすり寄せ、腕を回して彼女の背に手を這わせた。そうしていると、不安が嘘のように溶けて消えていく。
おろしたまぶたの裏には、もはや変わることのない母の姿がある。どれほど時間を経ようと、老いることのない女の姿―――
それを振り払うように双葉はに問いかけた。
「どんな夢だったんだ?」
途端は身を硬くして、双葉の頭を撫でる手を止めてしまう。その脳裏にはつい今しがた双葉の述べた夢というものの正体が繰り返されている。
―――無意識―――本能―――超自我―――隠された願望―――
ぱっとの頬に赤みがさした。それは恥じらいによって生じたものだった。
「いやっ、その……そんなのは、だって……わ、私、別にあんなの、望んでなんか……!」
わなないた唇からは訳のわからぬたわ言が漏れ出ている。
双葉は顔を上げ、の顔をまじまじ眺めて眉をひそめた。
「どした、顔が真っ赤だぞ。まさかおまえ……」
眠たげに蕩けていた目が言葉とともに呆れたような色を宿し、比例してはますます身を強張らせて顔を青ざめさせる。
そして小さくふっくらとした唇が真実を言い当てた。
「―――すけべな夢でも見たのか?」
「うわーっ!!」
は色気のない悲鳴を上げて双葉を放り出した。
そのような一幕を経て、細工は完了する。
あとは仕上げをご覧じろ―――というばかりになると、はまた怪盗団を離れて人の多い街に潜伏することになった。
兎にも角にも、怪盗団のシゴトが済まなければ彼女は明るいところを歩けない。
生存確認のための定時連絡の際、新島などは彼女にこう問いかけた。
「ストレス溜まったりしない?」と。
は答えて言った。
「まあそこそこ」と。
だからこそ作戦の成功を祈っているよと返して、それきり彼女は次の定時連絡まで沈黙した。
そうなると一番面白くないのが喜多川だ。
なにしろやっと気持ちが通じ合えたと思うに至ったばかりなのだ。それが自惚れでないことを強く確信する少年としては、逢うことはおろか、SNSを介してメッセージを送ることすら禁じられて納得できようはずもない。
双葉はSNSアプリの脆弱性がどうだと長々語っていたし、定時連絡はあらかじめ定めておいた符丁に従って行われるばかりだから、なにか気の利いた会話などできようはずもない。
安息日を一日寮に篭って過ごした喜多川には、目の前のイーゼルに立てかけられた絵を睨みつけて幾度目かも分からないため息をつくことしかできなかった。
そうとも、どれだけ不満に思おうが、手は勝手に己の使命を果たそうと動く。
無意識にまで刻み込まれた営みは、呼吸をするのと同じくらい自然に絵を完成させていた。
死んだように横たわる女―――
友人が危険を省みず炎の中から掴み取ってきてくれた描きかけのものを、彼はやっと満足いくところにまで仕上げられたのだ。
腕に小さな火傷をこさえた友人には先ほどカメラアプリで撮影した画像とともに完成の旨と、改めて礼の言葉を送信している。返ってきたのは『マジでいろいろ見えてんじゃん! エロい!』という馬鹿馬鹿しい言葉だけだった。
もちろん喜多川はこれに『芸術をなんだと思っているんだ』と抗弁したが、さらに返された『じゃあお前はなんとも思わねーの?』という言葉に沈黙してそれきりだ。
もちろん―――
彼の言わんとするような情感を抱かないといえばそれは嘘になる。作業に没頭しているときはまったく意識していなかったものも、改めて事実を並び立てると、どうにも落ち着くことができなかった。
けれど元となった黒崎明翫の作品に籠められたものを思えば情欲を抱くのは正しい解釈だ。
いまや喜多川はここに籠めたものを余すことなく理解できている。
死した妻を前にして思うこと。
もう一度触れたい。触れられたい。愛されていることを実感し、愛しているということを示したい。
けれどそれはもうなにをしたとしても叶わず、胸が引き裂かれるような痛みばかりが残されている。
そしてその苦痛には、どこか妖しい悦楽が隠されている。
もはや彼女から与えられるのはこの別離の苦しみだけと知って、被虐の悦びに浸る―――
少年は己の作り上げた作品を見つめながらゆっくりと呼気をついた。
肉体的にはほとんど疲労していないはずなのに、心が激しく摩耗して疲弊しきっている。心臓の動きがどこか鈍く感じられるのはそのせいだろうか―――?
けれどそれも、心の奥底から湧き上がる言語化の難しい感情に押し流されていく。
今となっては遅すぎるが、やはり似たモチーフを主眼とした作品を手がけたのは正解だった。他者の心理を理解するためには、同じ経験を踏むのが最適ということだろう。
黒崎明翫はこんな気持ちで絵と、芸術と立ち向かっていたんだ。
満たされる感覚が少年にはあった。形の無いものに形を与え、確固たるものとして残してやったという満足感だ。
己の手ではまだ『偉大な傑作』とまでは呼べないだろうが、それでも―――
≪愛≫と呼ばれるようなものがここにはあった。
……どれだけそうしていただろう。眠りに落ちるわけでもなく己の作り上げた女の姿と見つめ合っていた彼の耳に、かすかな物音が飛び込んだ。
時計を見ればとっくに深夜の二時を回っている。丑三つ時に窓を叩く音とは、さて正体は幽霊か妖怪か、はたまた―――
覗き込むのが鬼のような形相の婆であれば『去れ』と唱えてやるつもりで腰を上げる。
しかし彼の喉から飛び出したのは、呪文ではなく驚嘆の声だった。
「なぜここに……?」
軽く見開かれた目に映るのはガラスと、その向こうで手を振るよく知った少女の姿だった。
「……べつにいいだろ、会いに来るくらい。だいじょうぶ、誰にもバレてないよ」
慌ててガラス戸を横に滑らせた喜多川の前にいるのは、月明かりに照らし出された黒髪と、真っ黒なコートから伸びる脚にアシストスーツを取り付けただ。
どこからやってきたというのか、彼女はベランダの柵に両足を乗せ、膝を折って彼を見下ろしていた。
「バレなければいいというものでもないだろう。俺が寝ていたらどうするつもりだったんだ?」
ヒヤリとした外気が露出した頬や首、手を叩く。吐く息は白く染まり、素足の先はすぐに冷えてしまう。
しかしがわずかに眉尻を下げたのは、十一月の半ばも過ぎた時期の寒さ故ではないだろう。
「……迷惑だった……?」
視線を落とし、心細げに吐き出された台詞に、喜多川はすぐに首を左右に振った。
「まさか。俺もお前に会いたかった」
潜められた低く落ち着いた声色に、は安堵の息をもらした。それも白く染まり、弱い風に流されて消えていく。
「入らないのか?」
訊きながら喜多川はガラス戸をさらに押し開け、道を作るように身体をずらした。
はすぐには答えず、コンクリ床にやっと足をつけて彼を見上げる。瞳の奥にはかすかな不審感が宿されている様子だった。
「……『ヘンなこと』しない?」
「それは……」
呻いて喜多川はわずかに言葉を止める。止めた時点で答えのようなものだろうが、それでも彼は正直に答えた。
「多分、するだろうな」
「じゃあここにいるよ、バーカ」
「俺が悪かった」
時間を顧みて声を潜めてはいてくれるものの、突き刺さる冷たい視線は夜風よりよっぽどこたえた。
「ほら、入ってくれ。寒いだろう。それに、ちょうど出来上がったところだ」
「ん……?」
首を傾げつつも、喜多川が先に部屋の中へ引っ込むとも靴を脱ぎ捨ててそれに倣う。
彼女の疑問はすぐに晴らされた。
「ああ……」
感嘆の声とともに足を止めた少女に、喜多川はかすかな笑みを浮かべて絵のそばにまた腰を落とした。
「本物は……お前の祖父が描いたものはあの火事で失われてしまったが、これはな。竜司のやつが気を利かせて確保してくれていたんだ。だから……」
「うん……」
見つめる少年の隣にもまた座り込む。
暖房の効かされていない室内でも、外よりはよほどましだからか、コートもスーツもそばへ放り出して、は嬉しそうに祖父の絵によく似たものと向き合った。
瞳孔が開いた瞳は室内の小さな明かりと、外から射し込む月の光を受けて煌めいている。それは彼女が明確にこの絵に興味を抱き、興奮していることを物語っていた。
言葉はないが、それこそが喜多川にとって最たる賞賛だった。
彼女の胸のうちに宿る―――この月光のように静かな情熱が今、己の作品に注がれている。その事実は彼の自尊心をよく満たした。
やがて少女はすっかり絵画の鑑賞と昇華を終えたのだろう。満足げに息をついて喜多川に向き直ると、にんまり笑って彼のわき腹をつついた。
「まだまだだな。おじいちゃんのほうが上手」
その割にはずいぶん長く眺めていたな?
と言い返すことはできなかった。何故なら彼女の発言もまた事実だからだ。阿藤勝利のパレスにあったものよりはよっぽど上手く描けているだろうが、至妙と呼ぶにはまだ少しだけ物足りない。
喜多川は明確に落ち込んで肩を落とした。
「少しは包み隠してくれ……」
「アハッ、なに拗ねてんだよぅ〜」
「やめろ、こら……」
「ふふふッ」
どれだけ振り払っても、わき腹をくすぐる手は止まらなかった。
それどころかは彼の薄い腹に腕を回し、その身と体重を預けて肩口に顎を乗せる始末だ。
喜多川は閉口した。なにしろやわらかくあたたかなものが腕に、胸に押し付けられている。くすぐる指先などこれに比べれば無に等しい。
再び少年の目は時計に向かう。ちょうど三時になったところだった。外からは弱い風に木々がざわめく音ばかりが聞こえ、人工的なものといえば暖房の室外機が吐く唸り声と壁のむこうから響くいびき―――部屋にあるのは静けさだけだ。
「……おい……」
「ん〜?」
ちらりと横目で見下ろした少女はいかにも楽しげで、この上なく嬉しそうだ。
―――これが彼女の『全力』なのか?
いつぞやのやり取りを胸に返して唸りつつ、少年は警告を発した。
「そうくっつかれると、お前の言う『ヘンなこと』をしたくなるだろう」
は離れることなく応える。
「ダメ」
「なら離れてくれ」
「それもダメ……」
煩悶する少年をよそに、少女はグイグイとその身を彼に押し付けた。ぬくもりを求めるように背に腹に腕を回し、力を込めては頬を胸にすり寄せる。
黒髪から立ちのぼる芳香は甘く、彼の身体のうちに入り込むと目眩を引き起こす。苦手な香りだからではなく、好みであるが故の視界の明滅だった。
「くッ、なんの試練だこれは……!?」
思わずとうめき声を上げた彼に、少女はますます楽しげに喉を鳴らした。
「ガマンしろよ。私のことが好きなんだろ?」
「なればこそじゃないのか? それに、そう言うのであれば同じ言葉を聞かせてもらいたいものだ」
しかしこの反論にはそっぽを向いて唇を尖らせる。
「……恥ずかしいじゃん……」
「なんだそれは。お前というやつは……デリカシーという言葉を知っているか?」
「そっちこそ、そう言うんなら……」
床を舐めるように落とされた視線がさまよっている。寝間着の裾を掴む手には力が込められた。
目を伏せたまま、は相変わらず拗ねた調子で訴えた。
「ギュッてしてくれてもいいだろ」
少年は息を呑んで己の不覚を悟り、おずおずと彼女の肩に腕を回した。
「すまん……不覚だったな」
掴んだ肩を押し込むようにすると、少女の身体は抵抗もなく胸の中に収まった。
「……あったかい」
身じろぎをして落ち着きどころを探すの身体のほうが喜多川にはよほど温かく感じられた。
やがて気に入る場所に収まったからか、はぴったりとくっついて動かなくなった。落ち着いた呼吸を繰り返し、うっとりとまぶたをおろしている。
「ふふ……来て正解だったな。キミ、思ってたより体温高い」
「暖を求めに来たのか?」
「他になにがあるってんだ?」
「俺が目当てだろう」
「自惚れんな。それも目的の一つではあるけどさ」
「ふッ、そうか」
上機嫌そうに頷いて、少年はやわらかな肢体を抱きしめる腕に力を込めた。
「……祐介くん……」
夢見心地な声が名を呼んだ。
少年は無言のまま彼女の言葉を待った。
「キミの絵だけでも無事で良かった。これも、私が守るべき≪宝≫の一つだ―――」
「……そうか。気に入ってもらえたようでなによりだ」
「ん……」
かすかに顎が引かれ、額が胸に擦り付けられる。また髪から立ちのぼる芳香が少年の鼻孔をくすぐった。
甘やかな花の香り。おそらくその花には毒がある―――
それでも触れたいと思うのは、逃れ得ない≪穢れ≫と対峙する恐怖に似ている。
どれだけ足掻いたとて必定の定めは誰にも訪れる。その運命の時に、後悔する羽目になるくらいなら……
喜多川の手は彼女の後頭部に触れ、細くやわらかな黒髪を撫でる。
髪は火に巻かれたときに焦げついたせいかいくらか切り落とされているが、艶と長さは失われていない。そのことを知ったときの安堵の気持ちは言葉では表し難いものだ。
喜多川は幾度も優しく、子どもをあやすように撫で続けた。
「キミってほんとに」
「ん……?」
「なんでもないよ」
くぐもった声はどこか失望しているようでもあったし、照れているようでもあった。
ただ彼女は少年の胸に埋めていた顔を上げて告げる。
「なあ、もっと触って」
衝撃的な発言であった。
もっと、とねだっだその瞳はうるみ、頬は赤らんでいる。
言葉に主語は伴われていなかった。であれば、望みのままに動けということだろうか―――?
迷った挙げ句、少年は己に正直に手を動かした。
途端は身を硬くして腕を突っ張り、少年を突き飛ばした。
「このバカ! どこ触ってんだ!!」
「おいッ、声が大きい……!」
さすがにこんな時間、他校の女子を部屋に、しかも窓から招いたと知られれば何らかの沙汰が下されてしまうだろう。特別待遇に響いては困る。
突き飛ばされて後ろに倒れた姿勢から、喜多川は勢いよく起き上がってまだ言い返そうとするの口を片手で塞いだ。
今度は彼女のほうが床に引き倒される番だった。
床に後頭部がぶつかる鈍い音が響いて、涙目になった目が少年を見上げる。
彼の手のひらの中にはやわらかな感触と、吐息の熱。床に散らばった黒髪は波のようにうねり、月光を浴びてきらきらと光り輝いている。
少年はそんな少女の上に覆い被さるような姿勢になっていた。
なんだかまるで―――まるで―――
ゴクリとつばを飲んだ瞬間、少年は手のひらに強烈な痛みと熱を感じて飛び上がった。
「いっ―――たぁ!」
思わずと手を離し、己の胸元に引き返す。手のひらにはくっきりとした歯型が刻まれていた。
「ふんッ! 妙な気を起こすからだ!」
「く……そういう雰囲気だったよな……?」
「ほんと簡単に流されるなキミは……」
非難がましげな目線に気圧されて、喜多川は少し距離をおいて座り直した。
はすっかり乱れた髪を手で押さえ、どこからか取り出したヘアゴムで手早くまとめてしまった。
「そんなにヘンなとこに触りたいのか? そういうもんなのか?」
また彼女は顔をしかめて問いかけもする。
少年は少し考えてから首を縦に振った。
「はい」
「正直すぎるだろ……」
「すまん」
「謝らなくていいけど、今はダメ。時間ないし」
つんと顔を逸して、少女の腕が放り出されたままになっていたコートに伸びる。
逢瀬の時間は終わりということなのだろう。喜多川はがっかりとしてその場に横たわりつつ、先の彼女の発言を反芻してつぶやいた。
「今は、と言ったか」
アシストスーツを装着する身体がギクリと強張った。
「もう帰る」
背を向けられたまま返された声はわずかに上ずっていた。
少年は横たわったまま口元を緩ませ、さらなる問いを投げかける。
「次はいつ来る?」
「そっちのシゴトが片付いたらかな……」
「なるほど、褒美というわけか」
「どういうわけだよっ! とにかく―――帰る。バカ。アホ。マヌケ」
続けざまに投げつけられた罵倒に、しかし喜多川は感心したように瞳をきらめかせた。
「語彙が増えたな。誰に教わった?」
「うるさいっ」
声を潜めつつ吠えるという器用な真似をして、は部屋から飛び出して行った。
―――要するに、はそのようにして一人の少年と触れ合うことでストレスの解消を行っているらしい。
とはいえそれはの口からも、喜多川の口からも決して語られることはなかったから、彼の上機嫌の理由を見抜いている高巻はともかく、他の面々はそれとなくを気遣う様子を見せた。
示し合わせた符丁の一つとして、物資のやり取りの際にはここをと定めたコインロッカーにやたらと菓子を詰め込む者もあれば、メッセンジャーのようなことをしてやる者もいる。あるいは一晩の宿と食事を提供する者、学校に出れないことを慮って参考書―――終わったら勉強会するわよ、というメモ付―――を押し付ける者もあり。
に言わせれば大変なお節介焼きでお人よしぶりだ。もう少し人を疑うことをしたほうがいいんじゃないかと逆にお節介を返したくもなる始末―――
けれどそんな彼女も、双葉にとにかく来いと呼び出しをかけられればその意を問うことすらせず、指定された時間、昼前ぴったりに部屋へ駆け付けている。とても苦言など呈せるはずがなかった。
さて、理由も明かされぬまま来いと言われて忠犬のように馳せ参じたはそこでなにかをするより前に引っ張り出され、戸惑いもあらわに掴まれた手を見つめている。
向かう先を把握して困却するも、手を振り払うことはできなかった。
「ふ、双葉っ、やっぱり私―――それに、誰かに見られたら」
「だいじょうぶ、誰も見てない。だいたいここまで来て今さら何を言ってんだ」
「それは……でも、やっぱりいけないよ、こんなの……」
「なんで」
「だって、私とキミは……そういう間柄じゃないだろ……」
「じゃあどんなんなら許されるんだ? だいたい、おまえだってもう我慢できないんじゃないのか―――?」
「あっ! 双葉……やめて……!」
―――カラン、と心地よいドアベルの音が鳴り響いた。
開け放たれた扉から芳しいコーヒーの香りが広がり、双葉に手を引かれるまま踏み入ったは、胸いっぱいにその香りを吸い込んで、ほう、と感嘆の息をもらした。
「いらっしゃ……って、双葉か」
「ん! ごはん!」
「なんだよ、冷蔵庫に入れといただろ? というかだな、誰だそのお嬢さんは」
テレビの電源も落とした静かなそこ―――客のいない純喫茶ルブランの店内で新聞に目を落としていた男は当然、その店の店主の佐倉惣治郎だ。
男は軽やかな足取りで歩み寄る娘と、彼女に手を引かれて困り顔を見せる少女に怪訝な顔をしつつも新聞を畳み、カウンターに放り投げるとすぐに調理台に向かった。
「あ、あの、私は……」
は己と双葉の関係を―――彼女の主観からは―――正しく説明しようと口を開いたが言葉が出るのは双葉のほうが早かった。
「トモダチっ!」
惣治郎は顔だけを彼女に向けて、眼鏡の下の瞳に驚きを滲ませた。
なんとまあ、いよいよ彼女までもが友を引き連れてやってくるようになったのか。
感慨深げでもあった。
惣治郎はふっと口元を緩め、目を細めるとすぐにコンロの上の寸胴鍋に腕を伸ばした。
その間に双葉はをカウンター席に座らせ、自身もまたその隣に腰を下ろす。
「んふふ、そーじろーのカレーはうまいぞ! 腰抜かすかもしれねーな!」
「ハードル上げんじゃねえよ……」
ボヤいた惣治郎の顔は相変わらずニヤついている。ふり返った彼の手の上にはカレー皿と、その上に盛られた純白に輝く白米、その上にかかる時間と手間をかけて煮込まれたカレールー……
の腹から『グー』と胃袋の鳴き声が響いた。
「ほらな、やっぱりもう我慢できないんだろ?」
「き、キミが早く来いって急かしたから!」
「空腹は至上のスパイスって言うだろ。よかったな、うまいカレーがさらにうまくなるぞ」
「ああいえばこう言うんだから……!」
憤慨すると快活に笑う双葉に目を細めて、惣治郎は二人の前にカレーを差し出してやった。
行儀よく手を合わせて「いただきます」と言ってからさじを口に運んだは、すぐに目を丸くして瞬かせた。
「おいしい、です。えっと……佐倉さん、これ、すごく……」
「だろだろ?」
何故か惣治郎よりも双葉のほうが自慢げに胸を張っているが、惣治郎としても悪い気分ではない。
娘が連れてきた友だち、という時点で好意的に見てしまうのは『父親』として仕方のないことか。
まして今のは借りてきた猫のようにしおらしく―――変装のためだが―――いかにも文学少女然とした大人しそうな格好をしている。この場では双葉だけが真実を知っているが、彼女もまた口いっぱいにカレーを頬張って言葉を発せられる状態ではなかった。
惣治郎は穏やかな笑みを浮かべてサイフォンに手を伸ばしてに視線を送った。
「お嬢さん……って呼ぶのもな、お名前は?」
「むぐ……です」
「ああ、ちゃん。コーヒーは平気か?」
「……あんまり」
申し訳なさそうに目を伏せただったが、しかし惣治郎がそうかと答える前に双葉が割って入った。
「飲めないことはなかっただろ? 苦いのがダメなだけで……そうじろう、ミルクたっぷり入れてやってくれ」
「なんでお前さんが注文つけるんだかね」
渋い顔をしつつも、やっぱり惣治郎の手は淀みなく動いて一杯のカフェ・オ・レを用意し終える。
「え、あ、あの、でも私―――」
一段高いところに置かれたカップからは芳しいコーヒーと甘いミルクの香りが立ちのぼっている。しかしどうしたわけかは困り顔を見せるばかりだ。
やはりミルクが入っていようが積極的に飲みたくないのだろうか? 店内に足を踏み入れている以上アレルギーというわけではなさそうだが、いずれにせよ無理に口にさせるのはかわいそうだ。別のものを用意してやろうか。
そう思った惣治郎の手がまた別のカップに伸ばされたとき、耳に少女のいかにも恥じらいに満ちた声が届いた。
「その……あまり持ち合わせが。別の日なら……」
彼女が店に入る前から渋っていた理由はいくつかあるが、今恥じらいとともに訴えたものが多くを占めているのだろう。
双葉は呆れ返った目を彼女に向け、惣治郎は苦笑して彼女の前にカップを置いてやった。
「こいつはサービスだ。若者が遠慮するんじゃねぇよ、ほら」
「でも」
「なら、お近づきの印にってのはどうだい?」
わざとらしくキザに言い放った壮年の男に、は目をぱちくりとさせた。その傍ら、双葉はさじを口に突っ込んだまま目を細めている。
なにを言っとんじゃこのオヤジは……。
それもまたさじと、の小さな笑い声に遮られて口から出ることはなかった。
「ありがとうございます」
はにかんで、少女はカップに手を付けた。
口の中にはミルクのまろやかさによって和らげられた酸味と苦味、しかし確かなコクと香りが広がって、カレーを口にしたときと同じように彼女を驚かせた。
「おいしい……コーヒーはあまり、その、好きじゃなかったんですけど……」
顔を上げて惣治郎を見つめる瞳には、いまや羨望と尊敬の色がある。何故かまた双葉が自慢げに胸を張る―――
惣治郎は笑み崩れて軽く手を振るだけに留めた。
しかし一つ気にかかることがある。さりとてそれをあけすけに問うのも、双葉の手前、いささかやりづらい。
迷う父親の心中を読み取ったかのように娘が口を開いた。
「は、いろいろ事情があって、いま学校行けないんだ。年越しまでにはなんとかできるだろうけど……」
はっとしてへ目線をやった惣治郎に、彼女は小さく頷いてみせた。
「ちょっと転校の手続きにミスがあって。転校自体はできるんですが、ひと月ほど待たないといけなくなってしまったんです」
まるで予めそう言おうと決まっていたかのようにスラスラと答えて、は困ったように笑ってみせた。
なるほど、それは災難なことだ。
惣治郎は頷いて納得してみせると、彼女に憩いの言葉を投げかけた。
どうしたことかはそれにこそ困り顔を浮かべていたが、特別気にすることもなく惣治郎は二人の邪魔をすまいと在庫や仕入れの確認の作業に入った。
それでも会話は自然と耳に入る。
双葉はひたすらに美味いだろうとに自慢し、されたほうはその度に律儀にも美味しいと返している。惣治郎にはなんだかよくわからないSFめいたカタカナ言葉が幾度も交わされることもある。
見た目はどうにもちぐはぐな二人だが、その関係はどうやら良好なものらしい。惣治郎は店の在庫や出納を記録したノートに目線を落としたまま、静かに息をついた。
……本当に、『あの少年』が屋根裏にやってきてから、信じられないことばかりが続いている。
閉じこもっていた娘が家の外へ出て、笑顔を見せるようになった。まだ一人きりでの遠出は難しそうだが、夏の終わりには『あの少年』らとともに海にまで行き、その後も度々彼らとともに遊びに出かけてはいきいきとした表情をしてみせている。
今また、友人を引き連れて楽しげに語り合っている―――
彼自身にも多くの変化があった。苦々しい思いをすることもあったが、それも気がつけば『解決』していた。
それにこれほどまでに心を許すことになるとは、『あの少年』がここへやってきた当初、四月のはじめには想像もつかなかった。
本当に―――なにもかもが良い方向へ流れていく。『あの少年』がやってきてから―――
「おいっ! そーじろー!」
半ば怒鳴るように呼びかけられて、男ははっと息を呑んで顔を上げた。カウンターから身を乗り出した双葉とが、怪訝そうな顔で彼を見下ろしている。
「お、おう、呼んだか?」
「何度もな! どうしちゃったんだよ……」
「悪ぃ、ちょいと考え事をな。それで、なんだ?」
「おかわり!」
「まだ食うのかよ……ちゃんは?」
「私は結構です。ごちそうさまでした」
ぺこりと頭を下げてカウンターチェアに戻ったに、惣治郎はふむと唸ってあごひげを軽く撫でた。
「それならデザートはどうだい。こいつは―――」
惣治郎はまた妙にきざったらしい仕草と調子で言った。
「双葉が世話になってる礼だ」
とはいえその台詞はいかにも父親然としていて、に笑って要求を飲ませるには充分なものだった。
双葉は『こっちが世話してるのに』と膨れっ面をしてみせたが、それは二杯目のカレーによって遮られた。