← ↑ →
23:The way of death
……
「はい、おみやげ〜」
そう言って高巻がに手渡してたのは袋いっぱいに詰め込まれた菓子や粉モノの類だった。たこ焼きだとか、お好み焼きだとか、たい焼きやらクレープやら、はたまたイカ焼きやステーキ串のようなものもある。
「お腹空いてないけど」
「いいじゃん食べなよ。思い出のおすそ分けってやつ?」
おすそ分けなどと言いつつ、高巻の手のほうが先に小ぶりなたい焼きをつまみ上げる。
まだほのかなぬくもりを残すその味は悪くはないが取り立てて称賛するところも見当たらないといったところだ。
辛い点付けではあるが、手慣れた職人や一定の味を作り続ける機械によるものでなく、素人も同然の高校生らがせっせと作ったものには妥当な評価だろう。あるいは個々人の親御さんであればもっと高評価にすり替わるのかもしれない―――
さておき甘味は甘味だ。高巻は目を細めて感嘆の声を漏らした。
「あ〜疲れたカラダとアタマに砂糖が沁み渡るぅ」
「大げさだなぁ。大した労働なんてしてないでしょ?」
「そうだけど、なんにもしてないよりは疲れてるって。ほらも食べなさい」
「はいはい。いただきます」
はクレープに手を伸ばす。室内に効かされた暖房によって生クリームが溶け落ちるのを危惧しての選択だったが、高巻は「やっぱりお腹空いてんじゃん」と何故か得意顔だった。
特別反論もせず口に運べば、分厚く焼かれた生地にバナナと安っぽいチョコレートソースの味がいっぱいに広がる。生クリームの底には何故かコーンフレークがぎっしり詰め込まれていた。
かさ増しかよと眉をひそめるも、高校の文化祭レベルなど所詮こんなもんかと上から目線を閉ざした。
二人の姿は高巻が暮らす高層マンションの一室にある。広々としたフローリングにウォークインクロゼット、大きな開口部から見える空はすでに日が落ちかけている。
部屋全体を甘く爽やかな香りが包んでいるのはサイドテーブルの上に置かれたアロマディフューザーの仕業で、がここにいるのは宿の提供と中継役を高巻が申し出てくれたからだ。
足取りを掴まれるわけにいかない現状、電子マネーやキャッシュカードの類をは使えない。必然的にあらゆるものの決済を現金で行わなければならないが、貯えには限界があった。
続けざまの逃亡生活に疲れも蓄積していたし、そもそも家を失っているはタダ飯と温かく快適な寝床に釣られて申し出を受け入れたのだ。
そのような経緯でここに至り、高巻から本日の成果―――粉モノ以外の―――を受け取ろうと問いかける。
「それで、どうだった?」
箸巻きを温め直し、ついでと二人分の飲み物を用意して戻った高巻はクッションの上に腰を落ち着けてから答えた。
「一応むこうは食いつきはしたよ。やるってさ」
「そ」
「うまくいくかな? とにかく喋るなって竜司には言っといたけど……」
「今のところはむこうも『誘い込めた』と思ってくれていると思うよ。あとはこっちが『誘い込んだ』ことさえバレなきゃなんとかなるさ」
「う〜、キンチョーする」
粉モノを口に項垂れた姿にはわずかに腰を浮かせたが、慰めの言葉や勇気づけようと腕を伸ばすより前に彼女は自ら持ち直してみせた。
「でもやるしかないよね! こっちは任せといて!」
パチッと片目をつぶってもみせる。
そのバイタリティの高さに感心しつつも苦笑して、はクレープの最後のひと口を飲み下した。
ぺろりと平らげてしまったところをみるに、どうやら思っていたより空腹だったらしい。
自分自身にも感心しつつ、口の中に残る甘みをすすごうと淹れてもらったばかりの紅茶に手を伸ばす。ついでというわけではないが、次の指針を求めて問いかけた。
「それで、具体的にどう切り抜けるつもりなの?」
「あ、そうそう。それね」
箸巻きの次はと高巻の手は一口サイズのカステラをつまみ上げる。その健啖ぶりにも感心しながら続く言葉を待つと、意外な言葉が飛び出してくる―――
「の真似しようかって」
「……私の?」
「そう。つまり、死んだふり?」
「あー……いや、別に私は死んだふりもできてないけど」
なにしろ火災現場たるの自宅から遺体は発見されていない。当然のことではある。そこにあるはずの遺体―――は生きてここにいるのだから。
高巻は肩をすくめて両手を上げた。なんだか見た目にお似合いの、ドラマの中のアメリカ人のような仕草だ。それはどうやら同意を示しているらしい。
「まあね。なんかチクッとアンタの行方知らないか探られた感じあるし」
とぼけといてあげたからと冗談めかしつつも恩着せがましく言ってのけた彼女に、もまた肩をすくめる。
あちらの動向になどまったく関心はないとでも言いたげには続きを促した。
「でも、皆でってなると難しいんじゃないの? 集団自殺でも装うつもり?」
「まさか!」
物騒な発想だ。高巻は大げさに両手を振って仰け反った。その手には半分だけかじられたカステラがつままれたままになっている。
その残り半分を口に放り込みつつ先ほど行ったばかりの作戦会議の結果を伝える。カステラと同じくらいに一口で済む内容だった。
「死ぬのは一人」
「誰?」
「彼」
短い答えに名前は無い。しかしはそれで理解し、なるほどと首を縦に振ってみせた。
彼とはすなわち、怪盗団の頭目のことだ。
ここまで仲間たちを導き、引きずって綱渡りの道程を走り抜けた少年が、いよいよ己の身をナイフの刃先に置こうというのだろう。
は高巻や他の面々ほど彼のことを知っているわけではないが、それでもどうしてか、危険な賭けに挑むことこそを彼が楽しんでいると推察できた。
ちらりと見れば、高巻の顔にはかすかな苛立ちと苦心が垣間見える。
「納得してなさそうだな」
「そりゃね。なんで彼ばっかりが危ないことしなきゃなんないのかとかさ、考えちゃうって」
それはそうだと頷いて返し、今度こそは彼女を元気づけようと口を開いた。
「大丈夫、彼なら上手くやるさ。そのために私がいるんだ。サポートは任せて」
歯を見せて笑い、胸を叩いてみせると、高巻は憂いを振り払って笑みを返す。
「ありがと」
「ん」
照れくさそうに頷いて、は手遊びとクレープの包み紙を折りたたみはじめた。
パステルカラーの塊となった紙をゴミ箱に放り投げながら、より明確に彼女の不安をすすごうとまた問いかける。
「それで、なにが必要なんだ?」
「あ―――えっとね、パレスの中に街あったでしょ?」
「ああ、あの辺り一帯はかなり正確に再現されてたな―――」
喋りながら脳内につい昨日見た『彼女』のパレスを思い描く。
を含めた怪盗団の面々はこの前の晩、ある女性の心の中に形成されたパレスに潜入している。
下見ということで本体―――きらびやかにライトアップされ、ネオンの輝きに彩られた高いビル―――には足を踏み入れていないが、その周辺を軽く見て回った結果、パレスの本体、都内の某所を中心とした付近一帯がそっくりそのまま再現されていることが判明したのだ。
ナビはこれを利用できないかと頭をひねっていたが、このときはまだあちらの出方が解っていないと参照に留めて退散。結論は翌日、つまり今日の秀尽学園高校の文化祭で『彼』がどう接触してくるかに持ち越された。
そして今日、ほんの数時間前に『彼』は予想通り怪盗団に『正義』を突きつけた―――
とはいえ、これはずっと以前から分かっていたことだ。怪盗団の頭目とその相棒の猫は『彼』もまたペルソナ使いであることをもっとずっと前から知っていた。
ただ確信と興味が持てなかっただけとは頭目の弁だが、モルガナは「忘れてただけだろ」と彼を白い目で見つめていた。
さておき、『彼』は少年たちこそが怪盗団である決定的な証拠を示してこれを捜査機関に提出すると述べた。罪を認め、罰を受けるべきだと。
そこから先は頭目の独壇場であった。
親しい者以外の前で彼がこれほど多弁になる姿は付き合いの長い坂本にしても高巻にしても見たことがない。優れた弁術でもあった。
いったいどこでそんなものを身に着けたのやらと三嘆するのも束の間、『彼』はその本心や企みを見抜いているのかいないのか、頭目の演説に意見を翻して猶予を約束した。あるいははじめからそのつもりだったのかもしれない。
そして『彼』―――明智吾郎もまた怪盗団のメンバーの一人として、『彼女』―――新島冴のパレスへ挑み、一連の認知訶学を利用した殺人や傷害の真犯人を探るため共同戦線を敷くことになった。
もちろんこれはどちらにしても表向きの話だ。
明智はおそらく怪盗団を潰す気でいるし、怪盗団は彼と彼の背後の存在を欺きさらなる猶予を得るために動く気でいる。
そのための最大の仕掛けが高巻の語る≪死≫だ。
「ここまできたらどうしたって追跡は逃れようがないから、一旦リーダーだけ捕まっちゃおうってのは話したよね。そこでリーダーには一度『死んで』もらう―――」
「なるほど? そのための仕掛けを作ればいいんだね」
「うん。双葉が言うにはプロジェクターみたいなのが必要なんだって。動かすための中身はあっちでやるってさ」
「了解」
「気軽に言うねー」
「なに? そんなのムリって言っていいの?」
「ダメ」
「ほらね。任せといてよ」
自信深げに頷いてみせると、高巻はほっと安堵の息をついた。それこそを求めていたともまたひっそりと息をつく。
目の前の少女にしても他の連中にしても、仰々しく仲間だなどと言うつもりはにはあまりない。連帯感や群れとしての自覚くらいはあるし、この危機を協力して切り抜ける気概ももちろんある。
しかしある一定の線引きが彼女の中には存在していて、それ以上には立ち入る気も立ち入らせる気もなかった。
実際にはここでの用は済んだとすぐに立ち上がる。
「じゃ、一色さんのところに行ってみるかな」
「え? 今から?」
「うん。この時間ならまだ喫茶店は営業中だろ? 保護者に見つかることもないだろうから、いいかなって」
「それは別に気にしなくていいんじゃないの? マスターになら顔バレしても問題ないんだからさ」
「懸念は少ないほうがいい。それに……」
「それに?」
首を傾げた高巻の金の髪が細く小さな肩に散らばる。透けるような金糸は艷やかで、彼女の彫刻めいた美しさに拍車をかけているようだ。
はまるで見事な作品を前にしたかのような、神妙な様子で答えた。
「血が繋がっていようがいまいが、あの子の『家族』には顔を合わせ辛いよ。そもそもなんて言えばいいんだ? 同業者です、なんてさすがに言えないだろ?」
茶化すような言い方と笑み、大げさに肩をすくめる姿はそれを冗談の類として口にしている様子だ。
けれど高巻はにこりともせず、少しだけ驚いたような顔をしている。
その手がまだ湯気の立つ紅茶に触れた。
指先を暖める真っ赤な色のマグカップは、ずいぶん前に彼女が親友とお揃いにして買ったものだ。まだ背も伸び切らぬころ、それぞれが別のところにいても互いの存在が常にあるのだと教えるために、ふたりが揃って気に入るものを選んだ。
今は遠く離れたところで暮らす優しい笑顔を胸に返して、高巻はかぶりを振った。
「友だちだって言えばいいじゃん」
彼女にとっては極めて自然な発想で発言だった。
何故ならまだ短い付き合いの中でもと双葉の相性は悪くなさそうだと判明している。事実として双葉は母親の件が明かされるまで彼女に懐いているような素振りをみせていたではないか。
けれどは困った様子で首を横に振った。
「さすがにそれは、いくらなんでも……」
「ん、まあ、言いたいことは解るよ。けどさ」
「キミならできるの? 親を見殺しにしたやつと仲良くってさ」
ムッと高巻は唇を尖らせた。
「その言い方、ズルい」
「ごめん。でもやっぱり分別は必要でしょ? 高巻さんだって別に私のこと友だちだとは思ってない―――」
だろう、という断定の言葉はテーブルを叩いた激しい音に遮られた。
ギョッとしてふり返ったの目に、顔を真っ赤にして眉を釣り上げ、憤怒の形相を浮かべた高巻の姿が映る。その手に鞭が握られていないのが不思議なくらいの危険な雰囲気を彼女は湛えていた。
「……そこに座んなさい」
けれど出る声は静かだ。それがかえって彼女の怒りの深さを教えている。
目を見開いて硬直するに、高巻は鋭く命じた。
「おすわりっ!」
まるで犬かなにかのようにテーブルの対面を指し示されて、は慌ててそこに正座する。
「もう一晩泊まってきなさい! そんなくら〜い考えのままで双葉の前に行ったらゼッタイ許さないんだから……!」
「で、でも」
「口答えしない!」
「ひゃい!」
怯えて身を縮こませたの姿に、高巻は満足げにふんと強く呼気を漏らした。
「あ、あの、高巻さん……」
「それもやめて」
「え? どれ?」
「さん付け」
「た、高巻ぃ……?」
「杏でいいって」
「はい……あの、あ、杏? その、ガジェット作るのに一色さんと話をしないと―――」
ジロっと睨みつけられてはますます小さくなる。言葉は口内で丸められて飲み下された。
どうしてこんなに怒ってるんだろう。なにか悪いことをしたのかな。
などと思っていることこそを明かせば、高巻の怒りはさらに激しく燃え盛ったことだろう。口を閉ざしたのは賢明なことだった。
「だいたいさ、なんで竜司は竜司なのにウチらは名字呼びなワケ?」
「名前しか知らないし……」
「さーかーもーとー」
「じゃ、じゃあ坂本くん」
「そんな丁寧に呼んでやる必要ないから」
高巻がツンとして顎を上げたぶん、は頭を垂れる。
「てか、ウチら友だちじゃなかったらなんなのよ。アンタがよく言う同業者ってやつ? なんで私がたかだか同業者くらいの付き合いの相手を自分の部屋に泊めなきゃなんないの?」
「……私が捕まったら、キミらも不利になるから?」
「本気で言ってる?」
は首を左右に振った。
彼女とて充分理解しているのだ。己の過去はさておき、怪盗団の面々がすでに愛着めいた想いを向けてくれていることに。それは友情だったり共感だったり、同情や連帯感、信頼や思慕の念―――
ネガティブな感情や単なる打算などは、双葉や奥村からでさえも向けられていない。
ただ彼女自身がそれを求めているというだけの話だ。
の脳裏につい先日の出来事が思い浮かんだ。困り顔で罰されたいのかと問うた喜多川の顔……
別段がマゾヒストであるという事実はない。かつて語ったとおり、彼女は普通だ。あるいは小さな痛み程度ならばスパイスになるだろうが、それも結局はノーマルな志向があってこその刺激に過ぎない。
彼女が求めているのは痛みそのものではなく、罰を通過した後に与えられる赦しだ。だから双葉は己自身を優しくないと評したし、奥村もそのつもりはなかったと語った。
いまやテーブルの縁に額が付きそうなほど頭を垂れた少女は、弱りきった声を発した。
「どう……どうしたらいい? 杏は私になにを求めてるの?」
「そうだなぁ」
高巻はそんな彼女の姿を眺めながら足先をパタパタと落ち着かなさげに揺らした。掃除の行き届いた部屋は埃も立たない。ただかすかな振動をの正座した膝に寄越している。
高巻は形のよい艷やかな唇に、意地の悪い笑みを浮かべた。
「一昨日」
ぶつけられた単語に、は怪訝そうな表情を浮かべて顔を上げた。
「気がついたらと祐介、二人だけで帰ってたよね?」
首を傾げて続きを促すと、彼女の笑みはますます深く、瞳に宿る好奇心と愉悦はさらなる熱を帯びる―――
「なんかあったの?」
出てきたのは主語のない言葉だけだったが、を上から見下ろす瞳に浮かぶものがその行間に籠められた言葉を教えている。
は頬を引きつらせて震え上がった。
「な……なにか、聞いた?」
「ううん。でも今日のアイツすっごいご機嫌だったからさ、アンタとなんかあったのかなって」
「ご機嫌だったのか」
「うん。さすがにアレの前じゃ緊張してたけど、それ以外のとこだとすっごいニコニコ……ニヤニヤ? してた」
「……別になにもないよ」
辛うじてそうとだけ述べるが、高巻は面白がるような顔をするばかりだ。
どうやら誰にも言うなという命令にはしっかりと従ってくれているようだが、この感受性豊かな少女の前ではなんの意味も果たさなかったらしい。
「ぜーったいなんかあったって! ていうか付き合ってんでしょ?」
「ないよ!」
事実であった。
再び、は感心させられてもいる。
確かにこの年ごろの女子ならこの手の話は娯楽の種にもなろうが、このような状況にあってなお他者の色恋沙汰に首を突っ込もうとは本当に大したメンタリティとバイタリティだ、と。
そんなの心情など露知らず高巻は首を傾げている。
「なんでなんにもないの? 焦らしてんの? 意味ないでしょアイツには」
「そんなんじゃない! だ、だいたいなんでそんなこと訊くんだ? そんなの、別にどうでもいいことじゃないか」
「いやよくないでしょ。団内で恋愛禁止とかはないけど、面倒なことになる可能性はあるわけだし」
「なら、なおのこと、なにもないほうがいいんじゃない?」
「そんなのつまんないじゃん!」
「私を娯楽にするなぁ!」
喚いて正座を崩し、膝をにじって逃れようとするに、高巻は猫のようにぬるりとすり寄った。
「ほらほら喋っちゃいなさいよ! だって祐介のこと好きなんでしょ? もうキスくらいした?」
彼女の手はまた、クイーンサイズベッドの縁に背をぶつけたの腹に伸びる。
「し、し、してないっ! おい、触るなって……アハハ! やめ、んひひっ、くすぐった……」
「うりうり〜ここか? それともこっち〜?」
「いやぁっ! や、め……アハハハ! あはっ、んふふっ、ワキはやめ、て―――」
が降参だと顔を真っ赤にして言うまで、高巻はその腹や脇をくすぐり続けた。
……
完全に日の落ちた時刻、ルブランの屋根裏部屋に着信音が響き渡った。
先に部屋を満たしていたチープながらも趣あるBGMの上に重なったのはオクラホマミキサーだ。音は部屋の主のスマートフォンから響いていた。
メールやSNSではなく着信とは珍しいなと思いつつ、少年は作業机に向けていた顔を上げ、ベッドの上で充電器に繋がれていたそれをいくらか慌てて取り上げる。
テレビの前、レトロなゲーム機のコントローラーを握る双葉の隣に座していたモルガナが「誰からだ?」と問いかけるが、少年は答える代わりに着信主の名を呼んだ。
「杏、どうした?」
ピン、とモルガナの尾が垂直に立った。耳をピクピクとさせ、落ち着かない様子でヒゲを揺らす。相手が高巻と知って、少しでも声を聞きたいと聴力を傾けている様子だ。
しかし少年の手の中のスマートフォンから彼女の声はほとんど聞こえない。
「―――うん。わかった。別に構わないよ」
ただ彼が受け答えをする声とゲームのBGM、SEだけが部屋に広がる。
「うん、うん……ああ、双葉にも伝えとく。うん、そこでゲームしてる。え? あー、はい。ハイ。わかりました……」
通話は五分とかからずに終了する。モルガナはがっかりと尾を垂れ下げた。
「どだった?」
問いかけたのは相変わらずコントローラーを手にしたままの双葉だ。
少年は渋い顔を彼女に向けた。
「なぜか俺までお説教された」
「なんて?」
「双葉にあんまりゲームばっかりさせるなって……」
「おかあちゃんみたいなこと言うな〜」
呆れたように足をバタつかせて、双葉はまたゲーム画面に目を戻す。
少年は作業机に戻りつつ下された指令に従った。
「ほら、ハンターオフィスそこだろ。行ってセーブして」
指令とはすなわち、双葉にゲームを終了させることだ。
促されたほうは嫌そうな顔をしつつも逆らえないと知っているからか、おざなりな返事をしつつも従ってゲームを操作する。
「はぁ〜い……ポンポンポン、と―――」
軽快なSEが響く。しかし彼女の手がリセットボタンにかかる前に、少年は身を乗り出して画面を覗き込んだ。
「どこまで進んだ?」
「マッドマッスルたおした! みてみて」
「お、救急車だ」
「へへへ、まことの名前つけたった」
「ああ……怪我そのまんまにしておくと怒るもんな……」
「んむ。そろそろモナバギーもお役ごめんかもな」
「えー、もうちょい使ってくれよ。ワガハイほどでなくても、そのクルマお役立ちだろ?」
「でもこれからもっとつよいクルマが出てくるだろうしなぁ」
「俺の名前は付けてくれないのか?」
「おまえはもうちょいあと―――」
なかなか落とされない電源に焦れたかのように再びオクラホマミキサーが鳴り響いた。
「ハイ、モシモシ」
少年は固い声で受ける。
「あ、はい、はい。わかってます。ハイ。もちろんです。うん……わかってるよ、大丈夫。うん。うん……はい……じゃあまた明日、え? あはい……」
今回の通話は一分にも満たなかった。
彼は渋面を浮かべて通話の終了したホーム画面を睨みつける。
「……なんでバレたんだ……?」
もちろん今回の着信も高巻からのもので、彼女は厳しく少年と、そばにいる双葉とモルガナに向けて早くゲームはおしまいにしなさいと命じた。
パチッと音がして、灰色のボディの電源が落とされた。リセットボタンにはモルガナの肉球が添えられている。
コントローラーと電源アダプター、三色ケーブルをまとめて片付けながら、双葉は愉快そうに少年をふり返った。
「わたしもだけど、バッチリ行動読まれてんな」
「さすがはアン殿だッ」
何故か胸を張るモルガナはさておき、双葉の手は手際よくゲームカセットと本体を箱に詰め込み終える。
ただし箱は本体付属のものでなく、なんの変哲もないダンボール箱だ。テレビの置かれた棚の下段に押し込まれて、ゲーム機の本日の仕事は終了した。
すっかり静まり返った部屋のソファにモルガナと一緒に身を落ち着けて、双葉は兄のような男を見上げた。彼の手はもうスマートフォンを離れ、作業机の上でなにか怪しげな混合を行っている。
横顔から表情は窺えない。長い前髪が彼の目元を隠して、視線の先すら覆ってしまっている。
双葉は呼吸を落ち着けるよう意識して彼に疑問をぶつけた。
「だから杏にあいつを誘わせたのか?」
少年はかすかに口元を緩めて顔を上げ、手を止めて双葉とモルガナに向き直った。
「まあね。杏ならあの頑固者も調教できるかなって」
「調教ってオマエな……せめて懐柔とか言えんのか」
すかさずモルガナのお説教が飛ぶが、少年はニヤニヤと笑うだけだ。
その態度が気に食わんと渋い顔をするモルガナの背に、双葉の手がそっと置かれた。いささか乱暴にそこを撫でる手に文句の一つも言いたげにヒゲを揺らすが、結局それが口から出ることはなかった。
双葉の視線は少年に注がれている。
こう言ってはなんだが、死の恐怖が待つのはそう先のことでないというのに、こうも平然としているどころかいつもより楽しげにしているのはいかがなものか。
双葉などはそう思う。おそらくモルガナも。口にはしないが、仲間たちも皆似たようなことは感じているだろう。
それを頼もしいと思うか頓着しなさすぎると思うかはそれぞれだが―――
双葉は気が付いている。これはもしかしたら、他の面々すら見抜いていないことかもしれないと思いながら、確信している。
この少年は怪盗団という存在に、そこに所属する面々―――協力者たちも含めた人々に、心を大きく預けている。
それ自体は決して悪いことではないはずだけれど、この少年に関しては割合が大き過ぎる。
本来ならば家族や多数の友人や知り合いにと広く分散されるはずのものが、彼の場合は怪盗団というものにすべて注がれているのだから、依存といっていいだろう。
だから彼は危険な賭けにも平気で乗ろうとする。
何故なら彼の身の置きどころは本来あるべき家庭や学校といった場所になく、唯一である怪盗団が失われればゼロになってしまうからだ。
置く場所のない身もまたゼロも同然だとでも思っているのだろう。
そして、その場所を守るための自己犠牲的な行動をヒーロー的な行動として感じ取っている。
もちろん、不正を行う大人たちへの仕置という意味では、間違いなく彼もヒーローの一人だろう。己が身を捧げ、正義の信奉者として世に示すこと自体は、決して悪しきではない。
彼もそうと自覚しているからこそ、≪ジョーカー≫の仮面をつけたときいちいち気取ったキザったらしい仕草をみせるのだろう。……半分くらいは素なのかもしれない。
『そう』なったのも、『こう』なったのも、彼がこの屋根裏部屋に押し込められることになった出来事に起因している。
でも、と双葉は深く熟考する。
正義とはなんぞや。
元より双葉には正義のつもりはない。けれど正義の『味方』ではあるつもりだった。そのものではないが、そのものを支援し、打ち立てる手伝いをしている気ではある。
双葉の主目的は母の仇を見つけることだ。その目的は果たされ、次なる目標としてその者を裁きの場に引きずり出したいと願っている。
けれどそれとはまた別に、怪盗団のような存在があれば少なからず犯罪の抑止に繋がるのではないかという希望的観測を抱いていた。
しかしそれも―――
盛んに死亡報道がなされているあの男、阿藤勝利の言葉によって打ち砕かれた。
『私は君たちの活動を重要視している。良い意味でも、悪い意味でもね―――』
正体も手段も不明の存在であってもなお利用しようと目論む者は存在するのだと阿藤は教えた。
ましてこの≪力≫の正体―――認知訶学の理論を理解する存在であればなおのこと、『怪盗団』を利己のため利用するだろう。
今の状況はまさしくそれだ。大衆の目は怪盗団に向けられ、真実は自分たちとともに闇に葬り去られようとしている。
それはただの子どもであることを許されなかったヒーローを様々な意味で殺すのと同じことだ。
双葉は楽しそうに潜入道具の作成に精を出す少年を見つめ、己に問いかけた。
自分になにができる?
この少年を、物質的な意味ではなく、精神、あるいは魂といった意味で死なせないために、なにができるだろう?
自分をあの墓場から盗み出し、家の外に、もっと遠くに踏み出す勇気を与えてくれたこの人に、どうやって報いればいい?
……
翌日の昼前、十時頃には佐倉家の玄関―――ではなく、物干し台が置かれた庭から人の気配のない和室へ侵入した。そこはほんの少し前彼女が寝かされていた部屋だった。
懐かしく思いつつ入ったことを告げ、二階にいるから上がってこいと返信がくるのを待って部屋を出る。
必要はないが足音を忍ばせて階段を登れば、目当ての部屋はすぐに見つかった。ノックをすると中から双葉が「入っていいよ」と応えてくれた。
はしばしの躊躇の後ドアノブをひねった。
「うい、おつかれ」
「ん……おはよう?」
平日の午前中、どちらも学校に行っているのが多数を占める年ごろだが、双葉は学校に通っていないし、は現状居場所を明らかにするわけにいかないから無断欠席を続けている。
なんだか奇妙な状況だとは思う。そこに緊張感がさほどないのは、一晩たっぷり高巻に『ほぐされた』疲労のせいだろう。気を回すだけの余裕はすっかり失われていた。
そのようにして招き入れられた部屋ではすでに準備が進められている。
いくらか散らかった床の上にはパレスの内部に再現された建物内部の見取り図が広げられ、すでに無数の書き込みがなされいる。双葉はその前にあぐらをかいてを待っていた。
「……さっそくだけど、ここ、見て」
前置きもなく指し示されたのは蛍光ペンで囲まれた正方形の部屋だ。
「ここと」
双葉の手は続けていくつかの部屋を次々に示していく。
「ここと、ここと、ここ……あいつが捕まって、尋問が行われるとしたらこのあたりのどれかだ。一応監視カメラが―――」
手にしていたペンの先で指定した正方形の隅に記された丸が突かれる。
「ここ。配置はどの部屋もあんまり変わらない」
「どこもそう広くないな。助かるよ」
対面に腰を下ろしたの言葉に、双葉は素直に首を縦に振る。
「せやな。とりまどこに連れ込まれてもいいように、全部に配置させたい。いけるか?」
「そう大した精密さでなくてもいいんだろ?」
「うん。中に入れられさえすれば、あとはあいつが『そこにいる』って認識できる程度のものでいい」
「なら余裕。中身はキミの仕事だけど」
「それこそ任せとけ」
応えて、双葉はうっすらと笑った。
彼女たちがしようとしていることは簡単に言い表せばデコイの生成だ。
具体的には多視点による観察とリアルタイム処理の可能な偽の像を作り出し、暗殺に成功したと思い込ませるためのもの―――
投影される映像は双葉がすでに取り掛かり始めているから、がすることはそのためのガジェットの製作だ。
空中立体描画技術による投影ディスプレイと双葉の作る映像をリアルタイムで動かすための情報処理回路だが、先に双葉が語ったとおり対象は映像そのものを『視る』わけではないから、そこまでの精度は求められない。
なにしろ事は認知の世界で行われるのだ。『彼』がそこにいると確信すれば、そこに像は結ばれる。二人がすることはその後押しだけだ。
問題はどうやって『彼』をそこに導くかだが―――
それは二人にも、他の仲間たちの誰にも及ぶことのできない部分、≪怪盗団の切り札≫が切り札たる所以を発揮すべき舞台だ。
しばらく概要を詰めた二人は、午後になってから家を出ると電車を乗り継いでパレスに忍び込んだ。
目的は測量だ。今回も本体には近寄りもせず、二人は近隣のとある建物に足を運んだ。
「キミまでこなくてもよかったのに」
道中もさんざ繰り返した言葉を中に入ってからも―――ファングは繰り返した。
屋内はほとんど無人でシャドウが現れることもほとんどない。おそらくファングが単騎でうろついたところで危機的状況に陥るようなことはないだろう。それは新島冴の認識の中で、ここが警戒すべき場所でないということの現れだ。
けれどナビは首を振り、ファングが持ち込んだレーザー測量機器の設置と記録を黙々と手伝った。
そのおかげか計測は早々に完了する。ファングはナビに丁寧に礼を述べるが、彼女の反応はどこかよそよそしいままだった。
―――そりゃそうだよな。
ファングは頭をかいて、無人の廊下を行く双葉の背を見つめている。
この態度は当然で、予想できていたものだ。高巻はああ言って、散々弄ばれもしたが、やはりそう上手くはいかない。
それでもやる気が萎えたりしないのは彼女にこそ助力を請われたからだ。先に新島冴にパレスが存在することを確かめた夜、小さな少女はまっすぐに彼女を見つめて「おまえの力が必要だ」と言った。この件に関して尽力するには充分な言葉だった。
パレスの出入り口近く、ネオン煌めくビルの裏手まで戻った二人は、濃い影の落とされた植え込み近くに腰を下ろした。近辺にシャドウの反応がないことはすでに確認済みだ。
時間を浪費するのには当然理由がある。
現状、行方不明として探されているはともかくとして、双葉以下怪盗団の面々には公安部の手によるものか、監視が付けられている。
今日に関してはの助力もあって監視の目を盗んで家を出ることに成功しているが、帰りもまた同じ手が使えるとは限らない。
そも自体、目撃されることがすなわち命の危険に繋がるのだ。帰り道に関しては彼女のほうが気を配らなければならなかった。
そのような理由から双葉は帰りの道を一人で行かねばならない訳だが―――
「……ん、むこうも学校出たってさ」
「そうか。蒼山からだとどれくらいかかるかな」
「わかんない。一時間はかかんないと思うけど」
そう、と頷いてファングは持ち込んだ機材を押し込めたスーツケースからペットボトルの紅茶を二本取り出して、一つをナビに差し出した。
二人はそのまま無言で茶をすすった。
気まずいというよりは、互いに言葉を探すような時間だった。
けれどファング―――に言えることはなにもない。謝罪はすでに、口にするより前に丁寧に拒絶されてしまっているし、とりとめのない雑談を振れるほど無神経にもなれなかった。
ではナビ―――双葉はどうか。
本質は活動的で活発的であっても、長く続いた引きこもり生活は彼女から言葉を奪っている。に対しては真実を知る前は友好的に振る舞えていたはずだが、今は状況も合わさってより言葉がまとまらない。
双葉はここに駆けつけようとしてくれている少年に思いを馳せた。
彼を死なせないためにできることを探すうち、必要もないのにこんなところまで来てしまった。身の丈に合わない遠出までして―――。
彼のことを想い、あれこれと思考を巡らせると、双葉はまた胸が苦しくなる。
恋慕でも家族に向けるものでもない感情は大いに彼女を苦しめた。
救いを求めようにも、隣にいるのは母の死に関与した人物だ。彼女が直接手を下したわけでもなく、ただ巻き込まれたに過ぎないと解っていても、どうしても……
どうしてお母さんを助けてくれなかったの?
八つ当たりに似た気持ちが湧き上がるのをせき止めることはできなかった。
奥村は毅然として、穏やかな笑みとともに言っていた。悲しいことはどれだけ縋ってもいずれ薄れ、記憶から失われてしまう。
それは人間に標準装備された防衛機構だ。ネガティブな感情をいつまでも抱えているのは単純に体に悪い。
もちろん奥村とて今すぐにどうにかなると述べたつもりはないだろう。今もってなお彼女の胸には肉親を喪った経験が生々しく刻まれているはずだ。
けれど彼女はすでに決意もしている。
この苦難を乗り越えてみせると。早すぎたとはいえ、必定の≪死≫を振り払い、あるべき明日を掴んでみせると一人歩き始めている。
まっすぐに伸ばされた華奢な背を思い返して、佐倉双葉は顔を上げた。
乗り越えなければならない。
それは佐倉双葉がではなく、他でもないあの少年こそがという話だった。
そもそも双葉に関してはとっくの昔に己に定めている。うずくまって這いつくばり、顔を伏せて悲劇ぶるのはもうおしまい、と。
八つ当たりなんてしてる場合じゃなかった。
当然、恩を返さなきゃと焦る必要もない。なにしろ時間はたっぷりあるのだ。彼が生きている限りは。
少女はただ、そうしたいと自ら望んだだけだった。そのために必要なものすべては彼女の隣でどことなく居心地が悪そうにペットボトルを傾けている。
―――彼は『調教』と言った。高巻がしたのはほんの『戯れ』であろうことは想像に難くない。モルガナはそれらを指して『懐柔』と言えとお小言を漏らした。
奥村は彼女に『側穏』を示してみせた。新島はどうやら彼女を『相子』であると感じている様子だし、坂本は彼女の境遇やふるまいに『共感』を示している。
いずれもが彼女の心をこちら側に引き寄せた要因だが、最たるはどこかの誰かさんが果たしたらしい『征服』だろう。
案じた双葉は手の中のスマートフォンを小さな手でいじり、昨晩をたっぷり弄んだ少女にいくつかの質問を投げかけた。
返信はすぐに来る。
双葉はペットボトルを煽ると一息に残りを飲み切って大きく息をついた。
「ぷはーっ!」
唐突なナビの行動に、ファングは少し驚いたような仕草をみせる。
立ち上がったナビは彼女をさらに驚かせた。
「あのさっ! ファングは……おいな……フォックスのことが好きなんだよなっ!?」
……ファングは勢いよく口に含んでいた茶を吹き出した。霧状に撒かれた液体はすぐに地に落ち、濃い影の中さらに濃くアスファルトを染め上げる。
「ゴホッ、ゲホッ! きっ、キミまでそんなことを言い出すのか―――ッ!?」
「わたしまで?」
「あ、あ……パンサーが、昨日……」
飛び出した名に、ナビはなるほどと頷いてみせる。
彼女であればさもありなん。本来なら昨日行われるはずだったミーティングが今日に先送りされたのは、おそらくそういう理由だろう。
ナビはぶるぶると首を振る。
「わたしはちがう。どーせパンサーは面白がってるんだろうけど、わたしは……」
薄い胸に手を置いて、ナビは少しだけ言葉を詰まらせた。おまえの精神構造を把握したいだなどとは、馬鹿正直に告げるわけにはいかなかった。
「……わたしはただ知りたいだけ。なあ、好きになるってどんな感じ? 誰かにこ……恋しちゃうって、どうなの?」
傍目には完全にただの『恋バナ』であった。
ファングは天を仰いで両手で顔を覆い、信じてもいないくせに神なる存在に救いの手を求めもした。
神よ、偉大なる全能の存在よ。なに故にあなたは斯様な試練を私に課すのですか―――
答える声は当然なかった。ただナビの期待の籠もった視線ばかりが突き刺さる。
「教えて」
縋るような催促の声も。
ファングは己が計略にかけられているなどとは露ほども思わず、項垂れて馬鹿正直に答えた。
「……苦しい……」
「くるしい?」
「彼のそばにいると、いつも苦しい。自分が変じゃないかとか、寝癖ついてないかとか、服とか、顔とか、いろいろ気になって、落ち着かない……」
「……いやな感じなのか?」
うーんと唸って首を傾げたナビに、ファングは同じ部位を左右に振った。
「そればっかりでもないよ。苦しいけど楽しくて、その……本当はダメなんだって解ってるのに、さわ、触られると、嬉しい……」
ファングの手が彼女自身の身体を、なにかを確かめるように撫で下ろした。
『そこ』に触れられたことがあるということなのか、はたまた触れられたいと願っているということなのか―――
どちらにせよ、ナビは目を細めて唸った。
「すけべ」
「んなっ……やっぱりあ……パンサーと同じ目的なんじゃないの……!?」
「ちがーう」
言って、ナビはファングの隣に腰を下ろした。先よりずっとそば、腕が触れ合うような近さだった。
「ぶっちゃけ、あいつのどこがいいんだ? 別に悪いとは思わないけど、すんごい優良物件ってわけでもないだろ?」
「忌憚の無い意見をありがとう……」
明るい声で仲間をこき下ろす少女の姿に戸惑いと落胆を覚えているのか、ファングは肩を落としている。
「だいたいどこって……か、かわいいじゃん……」
「は?」
「あの、だからぁ……意外と子供っぽいところとか……」
「意外でもなんでもない」
『なり』はデカくてもあれは子どもだ。自分と同じく。
言い切ったナビに、ファングは困ったように喉を鳴らした。
その瞳はグイグイと腕を引くナビの手に落ち、脳は彼女の期待と疑問に応えてやらねばと懸命に回っている。
必死になって記憶を探る少女は、やはり企みになど微塵も気が付かずに、『それ』の始まりである決定的瞬間を教えてやった。
「……あの目が……」
その声はどこか夢見心地だ。ほんの数ヶ月前のことを胸に返して、瞳は遠くを捉えている。
「キャンバスに向かっているときのあの眼……はじめは私なんて見てなかったのに、いつの間にか別の誰かじゃなくて私を見ていて……」
それは夏休みも終わりに近づいたころ、の家が燃え落ちる前のアトリエでの出来事だった。
庭でやかましく鳴くセミと表を通る子どもたちの声、隣家のテレビ、車の走行音。いずれもが遠く、世界から切り離されたかのような空間で己を見下ろす氷の如き涼しげな眼差し―――
「それなのに、瞳の奥は火でもついてるみたいにギラギラしてた。夢とかそんなんじゃない、野心を抱いてるみたいな。ちょっと怖いくらいの真剣さがあった。それは、おじいちゃんにはなかったものだ。おんなじだけど、全然違うんだって気が付いたら……そしたら……」
往々にして恋のはじまりは相手に対する興味や好奇心が多数を占めるものだろう。相手のことが知りたいという欲求がいつしか執着になるのだ。
この少女の場合は比較によってその入り口に立ったのだろう。よく知る親しい人物と重ね合わせていたはずが、全く違っているのだと思い知らされたときその対象に興味を抱いてしまった。
あとはもう、雪の積もった斜面を転がる雪玉の如くだ。
ナビはじっとファングの、ゴーグル越しの瞳を見つめている。
はっきりと窺うことはできなかったが、そこには彼女にこそ炎が宿されているように見える。
その炎によって彼女は≪死≫の運命から逃れられたのだ―――
ナビは思う。自分もそうだと。彼のおかげでただ朽ちゆくだけの墓場から逃れ出ることができた。入り組んだ迷宮のような心の世界に迷い込んだ己を、彼が盗み出してくれたからここにいることができている。
じゃあ自分も、彼女のように彼のことを好きになっているんだろうか?
どうにもそうとは思えなかった。好意は抱いているが、そうではないのだ。そうではなくて、ただあの少年の破滅的な思考や振る舞いが気にくわない。
それを是正するための糸口を掴んで、ナビはにんまりと笑った。
―――昨夜散々高巻に『優しく』されても口を割らなかった彼女は、双葉に乞われてあっさりと陥落したのだ。
ナビは弾かれたように腰を上げた。
タイミングよく、手に握りしめていたスマートフォンが通知に震える。見下ろせば彼が到着したと教えていた。
「着いたって。行こうぜ、ファング」
「えっ? あ、うん―――ええっ? 終わりなのか? 結局なんだったの―――?」
ナビは応えもせずに心の世界と現実の境界線を踏み越える。
慌ててファングもそれを追い、二人は瞬きの間に元の通りの現実世界に足をつける。
「なあ、一色さん、さっきの話……」
誰にも言わないで、と恥じらいつつ述べるに、双葉はふり返って真面目な顔を突きつけた。
「自己紹介してなかったよな」
「へ? 今さら……それにされなくても―――」
「あのな? 、わたしは……」
困惑するを置いて、双葉はただ淡々と続けた。
「わたしは、佐倉双葉っていうんだ。お母さんは若葉。おとうさんは……惣治郎って名前……」
「……一色さん?」
「だーかーらー」
チッチッチッと指を振り、まだ理解に及ばないらしいに双葉は笑ってみせた。
「一色は旧姓。今は佐倉双葉なんだよ」
「あ……さ、佐倉さん」
そういうことかと頭をかいても、他人行儀な呼び方だ。双葉は腰に手を当てて胸を反らした。
通りかかるスーツ姿の大人たちがときおり不思議そうな目を向けたが、双葉は一向に構うことなく堂々としている。
「双葉でいいって。いちいちよそよそしいぞ」
は今度こそ気圧されたように身を竦めた。気まずそうに視線をさまよわせて、上ずった声を出す。
「でも、私は、キミのお母さんを」
「直接手にかけたわけじゃないんだろ」
「そうかもしれないけどさ……」
「安心しろよ。許すっていうわけじゃない。お望みどおりたっぷり恨んでやる」
微笑んだ顔から吐き出されたとは思えない台詞だった。
呻いて後退ったに、双葉は追い打ちのように言ってのける。
「他の誰かが許しても、春がいいよって笑って忘れていっても、おイナリがおまえをたくさんよしよししても、あいつらがどうでもいいって言ったとしても、わたしは忘れない。おまえを『一生』、許さないでいてやる」
恨みの言葉とは裏腹に、声にも表情にも清々しさが宿されていた。
双葉が言わんとしているところは、ある意味にとっての赦しであった。
なにしろ彼女はその生涯をかけてに注意を払い続けると宣言しているのだ。それは大変後ろ向きながらも、プロポーズに似た意味合いを宿している。
はここに至ってやっと己が計略にかけられていると悟った。
この小さな女の子は、自分が決して己に逆らえないと知るためだけに秘しておきたい大切なものをほじくり返させたのだ。
恨みがましげな目を向けて、は彼女の名前を呼んだ。
「双葉ぁ……」
そこにはわずかな怒りと多大な恥じらいと、それらを覆って隠すほどの親しみがある。
名前を呼ばれたほうは満面の笑みを浮かべてみせた。
「へへ、やっと呼んだな。そうだよ、わたしは双葉ってんだ。佐倉双葉だ、よろしくっ」
「こいつ……」
「怒るなよ、わたしにはおまえが必要なんだ。わたしの『オタカラ』を守るために、番犬がいるんだよ」
「なんだそりゃ」
呆れ返ってため息をついても、は逃げ出したりはしなかった。罪の意識はまだあるが、ほんの数秒前と比べればすっかり薄れてしまっていた。
は顔を上げ、背筋を伸ばして宣言した。
「いいよ、やろう。ちょうど一生をかける価値のあることを見つけなきゃいけなかったんだ」
「どうせそれもおイナリに言われたんだろ?」
「なんでわかるん……あっ!」
カマをかけられたのだと口を抑えるには遅かった。双葉は白い目をに向けている。
「ふうむ、なるほど? 恋ってのは弱点と同義なんだな」
「くっ……こ、この……双葉ァ!」
いよいよに我慢ならぬと怒りに顔を紅潮させたのもとから、双葉はすばやく駆け出した。
その視線の先には出迎えのために車道を挟んだ道のずっと先を小走りに向かってくる少年の姿がある。肩から下げられた鞄からは尖った耳が覗いていた。
彼が近くにあるとなれば、は退散しなければならないだろう。
「じゃあな! また後で連絡するっ」
双葉は笑って、出迎えのためにはるばるここまでやってきた少年がいつもするように片目をつむってみせた。