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22:Her Masterpiece
……
見ていた夢の内容を語り終えて、少女は静かにまぶたを閉ざした。
眠りに落ちたわけではないだろう。呼吸は不規則で、落ち着きなく身じろぎを繰り返している。
薄暗いそこはルブランの二階、屋根裏にあたる部屋だ。怪盗団のアジトで、頭目が寝泊まりをする場所でもある。掃除は行き届いているようだが、インテリアに統一感が見られないためか少女―――には無秩序な印象を与えていた。
燃え盛る家から彼女を引きずり出した少年たちは、その身柄を消防や救急に託すことはせず、夜の街を潜んで歩いてはるばるここまで運び込んだ。
近所の医院から帰ろうとする医者を無理矢理引っ張り込みもしていた。女医は何故か診察の対象が確かに存在していることと、彼の友人がずらりと揃っていることにほんの少しがっかりした様子を見せていた。
おまけに彼女は内科医だ。専門じゃないと渋りつつ、また病院に連れていけない患者という点を訝しがったが、必要以上に穿つこともせず淡々と意識のないを診察してくれた。
いくらか煙を吸い込んで肺を痛めているもののこの程度なら自然治癒が見込めると診断を下し、痛み止めをいくらかと、表皮に負った火傷用の塗り薬を置いて女医は退散した。あまり危ないことはするなと厳命して。
少年は深夜の往診に厚く礼を述べ、深々と頭を下げつつ心の中で彼女に謝罪した。
危ないことはする。多分これから、今までで一番ヤバいことを。心配かけてごめんなさい……
そして、目覚めたは今見ていた夢の内容を語った。それは過去の記憶の再現だった。
父母と親友の死、祖父の名誉を汚されたと知ったこと、復讐を決意した彼女の前に現れた一人の少年と、彼のしたこと―――
まぶたを上げたは、横たわったまま部屋に集う一同を見回した。
難しい顔をして押し黙る者、怒りも顕に拳を握る者、不安げに仲間たちを見やる者もいれば、悲しげにまつ毛を震わせている者もいる。
そして、二人の少女は顔を青ざめさせて口を引き結び、じっと床を睨みつけていた。
とみに双葉の顔色は深刻だった。青を通り越して血の気が失せ、真っ白になっている。兄のような立場の少年が優しく肩を撫でてやっても彼女の顔色は戻らなかった。
仕方のないことだろう。彼女はたった今母の実質的な末期を聞かされたのだ。気遣いからかぼかされていたが、まだ幼い彼女には荷が勝ちすぎる内容だった。
奥村にしても同じことだ。やっと父をその手にかけた人物の名を知らされて、呼吸さえも忘れたかのように静止している。
誰もが沈黙を守り通した。他の誰でもない、語るべき言葉を持つのはその二人だけだろうとして。
その口から出るのが怒りか、憎しみか、あるいは赦しであったとしても、それは誰にも止められるものではない。
もそれを承知しているのだろう。ただじっと二人を見つめ、断罪の時を待っている。
もちろん彼女はその手に直接双葉の母親や奥村の父をかけたわけではない。心にしても、物質的な肉体にしても。
しかしそれは己の復讐のために他者を見殺しにし、子どもから親を奪った事実を消してくれるわけではないのだ。
はじめに、双葉がゆっくりと震える唇を開いた。
「……ふう」
こぼれ出たのはため息のような呼気だけだ。
それだけでピクリとの、シーツを握った手が震える。そして彼女は顔を上げた二人の少女の言葉に驚愕する。
「それで、どうする? 犯人の特定はできたけど、状況はあいかわらず最低突き抜けて最悪だぞ」
「そうだね。さんだってこのままじゃ危険だわ。まずは身の安全の確保が優先かな?」
のみならず、皆が目をぱちくりとさせて彼女たちの言葉に驚きをみせていた。もっとこう、取り乱して、怒りや悲しみをあらわにするものだと思っていたのに……
双葉はそんな皆の反応にまた、今度は明確に落胆を表してため息をついた。
「ご期待に添えなくて悪いけど、わたしは春みたいに優しくない」
「ふふっ、私だって優しくしたつもりはないけどね」
どういう意味だとは誰も思わなかっただ。猫ですらもヒゲを揺らし、困り顔で二人の少女を見比べている。
二人が感情もあらわに責め立てれば、それでは気も済むだろう。けれど彼女をここから追い出したところで、状況は何一つとして進行しない。却って悪化させるだけだ。
少女たちは無言の内にに告げている。
罪の意識を覚えているのであれば、責を果たせと。
は俯いて、まだ痛む身体を無理矢理起こした。寝台から降ろされた脚には真新しい包帯が巻かれている。
「そうだな。少し甘やかされることに慣れていたみたいだ、ごめん……」
小さく頭を下げて、すぐに顔を上げる。そこにはもういつもの気の強そうな表情が取り戻されていた。
少年たちはそのまましばらく今後の動向について話し合った。
一連の事件を引き起こし、仲間二人の父と母を殺害、今また阿藤勝利を死に追いやり、それらの罪を怪盗団になすりつけようとしている者―――その実行犯の名が明らかになった今、具体的な指針を得て次を考えることが可能となった。
頭目は顎を上げて得意げに鼻を鳴らした。その眼には一種傲慢とも呼べる色がある。
「おまけにあっちは完全に俺たちを牽制できたと思ってるだろうな」
「そうね。二件目の殺人容疑に、のこともあるわ。とりあえず表向きは普段より大人しめに過ごすってことでいいでしょう。……親しい友だちが死んだみたいに落ち込んだふりをしてね」
彼の言うことに、新島は指先で顎をさすりながら同意する。彼女の唇にも薄っすらとした笑みがあった。
「問題は裏でどう動くかよね。黒幕を直でといきたいけど、あまり表立って動けない以上、情報の収集には時間がかかるし……」
「その間にガサ入れとか入ったらヤベーよな」
坂本の言に、でも、と高巻が口を挟む。
「そんなイキナリわーってきたりするもん? たしかにウチらに容疑かかってるし、あっちに正体バレてるけど、具体的な証拠ってないわけじゃん?」
なにしろ認知世界というもの自体がまだ未知の存在であり、そこでの行いと現実の被害を結びつけて立証することは現状不可能といえる。
それは真犯人側にも同じことが言えるが、改心による自白を促せれば余罪のみでも検挙は可能だろう。
対して怪盗団は確かに改心を行ってきたが、現実のみに焦点を絞ったときその行いは軽犯罪の域を出ない。いずれも強硬手段による確保は難しいだろう。
高巻の言わんとするところはこれに尽きる。
しかし、新島は重々しく首を左右に振った。
「どうかしらね。最悪、証拠くらいはでっち上げられるかもしれないわ」
「なんだそりゃ。ケーサツやらケンジってのはそこまで腐ってんのかよ?」
モルガナの尾が床を叩く。
新島はこれにもわからない、と曖昧な答えを返した。
「お姉ちゃんがね、最近すごくカリカリしてるの。切羽詰まってるっていうか、鬼気迫るっていうか……なんて言ったらいいのかな、なにがなんでも私たちを捕まえてやるって、そんな感じ」
物憂げに述べた後、新島ははっと息を呑んでに両手を振った。
「あっ、知ってるのかな? 私のお姉ちゃん、地検で働いてて、ずっと一連の精神暴走事件や廃人化を追っているんだけど……」
「大丈夫、知ってるよ。直接会ったことはないけどね」
「そっか。あ、そうよね。彼から情報を得ていたんだものね」
新島が余計な気を回してしまったと照れたように笑う一方、はふむと唸って腕を組んだ。
「……以前、いくつか怪チャンに寄せられた依頼を勝手に受けてたんだけどさ」
「あっ! 変な書き込みの原因はお前だったのか」
「ごめん。言い訳するわけじゃないけど、それもあちら側からの指示だったんだ。あのときは怪盗団の信頼を地に落とすための布石かと思ってたけど……」
少年はムスッとしつつも彼女の言葉に耳を傾ける。
髪についた煙の臭いを気にしているのか、黒髪をひと房持ち上げて鼻先に寄せつつは言った。
「今思うと、あれは捜査の撹乱のためじゃないかって」
「それは妙じゃないか? あちらは俺たちを捕らえたいんだろう? 数々の嫌疑を押し付けるためにも」
「それはそうだな。間違いない。でも……新島さんのお姉さんは優秀な人なんだろ?」
「ん? んん……身内のことをあんまり褒めるのもどうかと思うけど……まあ、そうね。うん。まあ。んふ」
「まこちゃん、お顔が緩んでるよ」
指摘されて新島は慌てて口元を手で覆い隠した。
「まー実際のとこ前に見たデータ見る限り優秀なのは間違いないよな。一人でやったんじゃないだろうけど、地道なデータの収集と比較、そこからの推理と断定のための証拠集め……運もあるだろうけど、それも実力ってとこか」
「そうだね。私のお父様にたどり着いていたのでしょう? もしお父様がご健在のままであれば、きっと真相にも―――」
言葉を途中で止め、奥村は息を呑んで双葉と顔を見合わせた。二人ともが眉をひそめ、怪訝そうな表情を作っていた。
「ねえさん、捜査の撹乱のためって言ったよね?」
「ああ。私がしていたことはキミたちの邪魔というより、おそらく新島検事の足止めだろうな。あの人はちょっと早すぎたんだ」
がしていたことはつまり、怪盗団のアリバイ工作だ。活動の時期や規模、対象をバラけさせ、捜査の混乱を招いていた。
けれど今やそれもなくなり、新島冴はこの世で唯一認知世界の『外』から彼らに追いつこうとしている―――
「認知世界のことを知らない人の中で、最も真相に近い人、か」
少年は小さな声で「会って話をしてみたい」と呟いた。それは単なる彼個人の願望であって、特別なにかこの状況と絡んだ意図の籠められた言葉ではなかった。
「―――ねえ、なんだか変じゃない?」
そう言った奥村の眉はひそめられ、視線は言語化し難い違和感をまとめようとしているのか、足元の木目をなぞっている。
仲間たちは揃って彼女に頷いてみせた。
……
作戦会議は三十分ほどで終了した。
一応の結論にたどり着いた彼らは、仕上げにとの処遇について話題をシフトさせた。
「はこのあとどうすんの? またホテルとか泊まり歩くの?」
高巻の問いにはそのつもりだと答えたが、彼女が座る寝台の持ち主はやや渋い顔を見せた。
「とりあえず今夜だけならここ朝まで使ってくれていいけど」
提案も添えられる。
は少しだけ考えてから、片手に握ったままでいたシーツを持ち上げた。
「これ最後に洗濯したのいつ?」
「……ごめんなさい」
答える前に謝罪した彼に冷たい視線が注がれる。彼は口の中で小さく、近頃の慌ただしい状況や忙しさにかまけて洗濯を頼むことさえ忘れていたと言い抜けようとしていた。
「そもそもそれやったらキミはどうすんのよ。ここで寝んの? 祐介のときみたいに床に布団敷いて? それともまさか……」
「ないないないない! 下のソファで適当に寝る!」
「いや、世話になるつもりはないって。あっちは私のこと探すだろうけど、連中の死角なんていくらでもある」
言って、は立ち上がった。もと着ていた衣服はすっかりすすで汚れてしまったから、彼女はずっと少年が貸し与えた秀尽学園のジャージを着用している。
ふう、と諦観の籠もったため息を吐き出したのは喜多川だ。彼もまた救出の際藻の茂った瓶から水を被ったから、サイズの合わない借り物に無理矢理袖を通している。
「そこは安全なんだな?」
窮屈そうに肩を回しながらの言葉に、は首を縦に振った。
「ついでにまたスーツの予備を出してくる。あれさえあれば監視の届かない場所にも入りやすいからな」
「まだあんの!? ……いやいいや、たしかにそうかもだけどそんとき襲われたらどうするよ?」
「心配性だな」
がいくらかうんざりしたような視線を投げた先には坂本が、やはりこちらも借り物の服を着て濡れ髪をタオルで覆っている―――は預かり知らぬことであるが、彼もまた火災の現場にいたのだ。
はちらりと彼の足元のカルトンバッグに視線をやったが、特別尋ねるようなこともせず立ち上がった。
「キミたちの不利になるような真似はしない」
毅然とした言葉だが、返されたのは白けた空気だ。
なにしろ彼女には実績がある。負の方面の。
事実として怪盗団と関わる以前にもいくつも怪我をこさえているのだから、厳しい目が向けられるのもやむないことだった。
喜多川はほんの数ヶ月前のことを胸に返して低い声で告げてやる。
「そういえば、以前、足に怪我をしていたな」
「うっ……」
「今思い返せば、あれはお前の二件目の仕事と時期が合致する」
「ぐ……いや、あれは……」
「あれは? なんだったんだ? 言い逃れできるものならしてみせろ」
冷たい目線が突き刺さるのを感じて、は地団駄を踏んだ。
「なんなんだよぉ! 別にいいだろあれっくらいの失敗! そんなに怒ることないじゃないか!」
「でもそれ、下手したら捕まってたわよね?」
指摘する新島の口元には意地悪な笑みが浮かんでいる。彼女はちょっとこの状況を楽しんでいるような節があった。
パレスの中であれだけ大暴れし、かと思えば技術者然とした器用な振る舞いもみせたというのに、今目の前で震えているのは歳も大して違わない少女でしかないのだ。面白がるのはある意味では当然のことかもしれない。
「今回だって私たちが駆けつけていなかったらどうなっていたと思う?」
けれど彼女が親しみとわずかばかりの怒りを込めてこう言うのは、元より現場近くにいた喜多川はともかく、帰宅の途にあった二人の少年と猫をかき集めて運ぶ足を務めたのが彼女だからだ。タクシー代はその財布から出されていた。
それを知らぬは顔を紅潮させて激しく抗弁した。
「だから! そのために喜多川くん相手にあんな恥ずかしいことしたんだろ!!」
そして生来の迂闊さをここぞとばかりに発揮する。
深夜の屋根裏部屋はしんと静まり返り、喜多川だけが平坦な様子で彼女を見つめている。
やがて楽しげな調子で奥村が問いかけた。
「恥ずかしいことってどんなこと?」
もちろん彼女はそれがどんなことかを知っている。そもそも喜多川を色仕掛けに引っかかったと詰ったのはこの少女だ。
逃げ出そうとしたの腰元には首尾よく双葉が絡みついた。
「うわあ! 離せ! 触らないで!」
「へっへーん、このちーさくてかわゆーいわたしをふり払ったり叩いたりできるやつなんて……なんて……あっ……」
「自分で自分の地雷盛大に踏み抜いてんじゃねーよ……」
プルプルと震え始めた双葉の口に、坂本の手が寄せられる。そこには菓子が摘まれていた。
「オラ、グミでも食ってろ」
「あーん……もぐもぐ……ってオイ! これロココじゃねーか! こんなんグミじゃねーよ!!」
「いやグミだろ。書いてあるじゃん」
言って坂本は喜多川が持ち上げていたパッケージを指し示す。
いつも通りの様子でそれを口に運んだ彼は、咀嚼の後不思議そうに首を傾げた。
「この食感……なにか懐かしいものを思い出させる……」
「思い出さなくていい。仮に思い出したとしても女子の前で口にするなよ」
また横から菓子の袋を奪い取った少年もひと粒を口に運ぶ。
「どういうこと?」
言葉の意図を尋ねるような発言をしたのは高巻だった。喜多川はただ静かに噛み砕いたものを飲み下している。
少年はいかにも困った様子で眉をひそめた。
「セクハラしないで」
「いや別にグミの話してねーから。ていうかリーダーに訊いたわけでもないし」
「そういう態度取ってると家に忍び込んで制服全部クリーニングに出すぞ」
「そういう地味っぽいけど重篤な嫌がらせ考案するのやめてよ! この間だって―――」
喚いて床を踏んだ少女に、少年はツンと顔をそらして口を尖らせた。
怒りに顔を赤くして彼に詰め寄る高巻を奥村が宥めにかかり、そちらのほうに興味を引かれたのか双葉も笑いながら寄っていく。
新島はそっと喜多川の腕を引いて彼を立ち上がらせると、足音を忍ばせて階段を降りる少女を顎でしゃくった。
「あと頼む。いちお動けるよう待機してっから、なんかあったら連絡しろよ」
坂本が声を潜めて言った。彼の視線の先ではこの空間の主であるはずの少年が床に正座を強いられつつある。
喜多川は口元を綻ばせて彼に返した。
「竜司は優しいな」
「そうね、竜司は優しいわね」
何故かこれに新島が同調するので、坂本は口をへの字に曲げて渋面を浮かべる。
その足元ではモルガナがバタバタと激しく尾を振っている―――
喜多川はそのすぐそばにあるカルトンバッグをちらりと見下ろした。そこに描きかけの絵が押し込められているのはほかでもない坂本が気を回してくれた結果だ。彼は新島とモルガナが止めるのも聞かず燃え落ちかけたアトリエに飛び込み、これだけを掴み取ってきたのだ。
だから彼らは坂本を優しいと評し、モルガナは怒りに尾を振っている。
「竜司、礼を言おう。ありがとう」
「さっさと行っちまえ、バーカ」
喜多川は喉を鳴らして荷物を取り上げると、騒がしい声を背に階段へ足を乗せた。
降りた先、探し人はまだ喫茶店のドアの前に佇んでいた。
明かりの落とされた店内にあって、外から差し込む街路灯がレースのカーテンのように折り重なりながら彼女を照らし出している。
喜多川はほっと安堵の息をついて彼女に歩み寄った。
どうかしたのか、とも、帰らないのか、とも問いかける必要はなかった。彼女の目線の先には一枚の絵が飾られているからだ。
彼は静かに別の質問を投げかけた。
「その絵のことも知っていたのか?」
はわずかに視線を下げ、小さく顎を引いた。
「キミのお師匠さまのことも、だいたいは」
「そうか。……ああ、そうか。それで俺のことを知ったんだな」
また頷く。
「そうか」
彼の心は凪いだ海のように静かだった。見つめる先、背を向けた少女の黒髪越しには微笑んで小さな赤ん坊を見つめる母の顔がある。
失望や落胆など、この微笑みの前では塵芥も同じだと彼は思う。あらゆる受容を示す『偉大な傑作』を前にして、彼はいつもそのような心地になった。
何故ならその絵は彼が望まれて生まれてきたことを痛みさえ与えるほどに教えている。
揺れる瞳の色をそっと盗み見て、は上ずった声を発した。
「直接、見るのは初めて。贋作のほうは知ってたけど、こっちは……」
そこに罪悪感が隠れているのは明らかだった。隠そうとはしているのだろうが、声も眼も、かすかに震える身体が教えてしまっている。
喜多川にはやはり、彼女が他人の心を翻弄するのに向いているとは思えなかった。
どちらかといえば彼女は多弁なほうではないし、じっと己と己の得意とすることや好むものと向き合うのを好む性質だと彼は捉えている。
その物静かな情熱はこれまでずっと両親と親友の仇に、祖父の偉大な傑作を汚した敵に憎しみとしてぶつけられていた。
けれど今それが消えて、喜多川の前にはただ、彼の母の描いた絵画にまた熱心な眼差しを注ぐ姿だけがある。
喜多川はその揺らめく瞳を見つめながら尋ねた。
「気に入ったか?」
「……うん……すごくきれい……これこそまさしく、マスターピースと呼ぶに相応しいんだろうなって思うよ」
それは少年に対する最大の賛辞だった。母の遺したものをそのように表されるということは、彼の存在や命そのものへの称賛と同じだからだ。
その胸にはなんとも言い表し難い切なさのようなものがこみ上げている。
細い肩と腕、長いからとまくり上げられた裾から覗くふくらはぎ。いずれにも包帯が巻かれ、絆創膏が貼り付けられている。まだ痛々しい痣やすり傷、火傷の痕が残るそれらが、少年にはたまらなく愛おしく思えた。
彼は強く、しかしとりとめもなくそれらに触れたいと感じる。それは肉欲のような性的な欲求のようにも、より美しいものを求める想起のようでもあった。
けれど彼がそれを実行に移すより先に、はふり返って喫茶店のドアを押し開けてしまった。
「どうせついてくるんだろ? 行こう」
「……ああ」
頷いて、少年もまた彼女に続いて外へ身を滑り出させた。
冷たい風が狭い路地を吹き抜ける中、二人は黙々と駅とは反対の方向へ歩き続けた。
喜多川は目的地を知らないが、について行けばいずれはたどり着くと理解していたからどこへ向かうのかと訊いたりはしなかった。
狭い路地を抜けてもそこは街路だ。車通りはほとんどなく、夜更けの通りに人気はますます絶えている。
黙って夜風に髪を揺らしているは、しかし時折もの言いたげに隣の少年を見上げては俯いてを繰り返していた。
その仕草が気になって彼は尋ねた。
「どうした?」
はすぐには答えなかったが、空気が読めないなどと散々罵られるされることの多い喜多川にしたってその原因に察しは付いた。
何故ならの顔にはまた罪悪感のようなものが滲み出している。
彼女の語った過去の所業に、逃げ出す直前叫んだ言葉―――
そうとも。彼女は己の復讐を遂げるために多くの人の死から目を逸らし、己が身と心を守るためにこの少年を利用した。
「軽蔑しただろ、私のこと」
推察通りのことを口にしたに、喜多川は生真面目にふむと唸って考え込んだ。
軽蔑したかと言われれば、さて……
少年は素直に答えた。
「どうだろう。わからないな」
「わからないって……なんだよ、それ」
「お前のしたことは許されざることだとは思うが、同じ状況に置かれれば自分も同じことをするだろうなとも思う。双葉や春の立場であれば……許せないと考えるかもしれない」
俯いた少女を横目に、少年は言を重ねた。
「だが、俺はお前ではないし、あの二人とも違う。だから、そうだな。どうでもいいと言うのが正解なんじゃないか」
「……いいのかよ、そんなこと言って。仲間なんだろ?」
「駄目だろうな。言って自分でも虫唾が走った」
「なら、やっぱり」
喜多川を見上げる瞳には必死さがあるようだった。どうにかして彼から罵倒や叱責の言葉を引きずり出そうと画策するような、そんな奇妙な色だ。
喜多川は首をひねって問いかけた。
「お前は罰されたいのか?」
怪訝そうに眉をひそめた少女に、喜多川は再び言葉を重ねる。それは彼女にとってとんでもない内容だった。
「そういった倒錯癖が存在していることは承知しているが……そうか、うむ……よし、わかった。努力しよう。お前を満足させられるよう精一杯努めさせてもらう」
かっと少女の頬が何某かの理由によって紅潮した。
「ちがうよ! 私はふつうだッ!!」
「よかった」
張り上げられた声に、喜多川は心底安心したと言わんばかりに息をついた。
そんな様子に苛立ちもあらわに、は彼を睨みつける。
「あのな、いま真面目な話を……」
けれど彼にしても、はじめから真面目に受け答えをしているつもりでいる。
喜多川は再び真摯な光を宿した瞳を彼女に向けた。
「お前を軽蔑などしない」
言葉は端的で鋭く、断然としている。
彼ははっきりとした明瞭な口調で告げた。
「罰を受けるかどうか、それがどのような内容であるか、誰がいつ執行するのか、それらはいずれも俺が決めることではないだろう」
突き放すような物言いでもあった。は俯いて唇を噛んだ。
「俺にどうして欲しい? お前は俺に、どう思われたいんだ?」
「……私がなにを言ったって、キミが嘘だと思えばそれは嘘になる。人間ってそういうものだろ。見たいものを見るんだ。だから、私がキミにどう思ってもらいたいのかなんて、そんなのは……」
意味のないことだ。
つぶやいた少女の足はいつの間にか止まっていた。倣って立ち止まった少年の前、家と家の間、開けた空間にはいくつかのコンテナが並んでいた。
アジトの近くにこんな場所があったのかと感心する間に、は一つのコンテナに歩み寄ってシャッターのそばにしゃがみ込んだ。
その手が妙に忙しなく動くことに首を傾げつつ喜多川は語りかけた。
「意味はなくとも、意義はあるだろう。俺はお前の口から語られることが聞きたい」
「なんでさ」
「解らないのか? お前はさんざん、俺がこう思うように仕向けてきたんだろう」
「しつこい……」
掠れた声に喜多川は苦笑する。
「だが、お前が言ったんだ。俺は裸を見た女をほっとけないような、分かりやすい奴とな」
歩み寄って、彼は再び細い肩と腕と、露出したままのふくらはぎをよく観察した。
別に裸でなくたって、彼女は充分魅力的と思えた。
少年はその背に覆いかぶさるようにシャッターに手をつける。分厚い鉄の板は彼が体重をかけたくらいではびくともしなかったが、少女のほうは己の上に影が落ちたことに身を縮こませた。
「ほんとに大バカ野郎だ。私みたいなのに噛みつかれてヘラヘラして……それでいいのか? もうやめとけよ。報われることなんてないんだぞ」
「そうか? たしかに俺は自惚れが強いほうだとは思うが、それだけとは言わせんぞ」
それに、と結んで、少年はゆっくりと手を滑らせて膝を折る。ちょうどタイミングを合わせたように解錠されたらしい音が響いた。
「俺だってこんな自分が愚かしいとは思うが、今さらどうしろと言うんだ。なあ、俺はお前が―――」
「やめろバカ! 言うな!」
「言わずに済ませたところで心は変わらないだろう。諦めろ」
ため息をついて、喜多川は彼女の耳元に囁いた。
「、俺はお前が好きなんだ」
飾り気のない率直な言葉に、の手から曲げられたヘアピンが滑り落ちた。
「俺が言えることはそれだけだ。お前の言う通りなら、俺がそうだと思えばもうそうとしかならないんだろう」
少年の手がシャッターを押し上げる。中には大型のスーツケースとレザー製と思わしきトートバッグだけが無造作に置かれていた。
縋り付くようにそれへ手を伸ばした少女に追い打ちと彼は告げた。
「お前が好きだ。俺を受け入れてくれ」
ケースに手が届くより前に、は力尽きたようにその場にへたり込んだ。
「返事は?」
ぶるぶると震える少女は、勢いよくふり返ると彼を怒鳴りつけた。
「しっ、知るかバーカ! 保留だ! すぐに返事なんてできるわけないだろ!?」
罵倒の語彙は相変わらず貧弱なようだ。
けれど喜多川はこれを受け流し、口元を緩ませる。何故なら彼女はノーとは言わなかった。これもまた彼女の生来の迂闊さ故のことだ。
「保留か。なるほどな」
その事実を教えてやるように深く頷いた彼の姿に、はしばし呆然とした後、己の不覚を悟って瞠目する。
「あっ! あ、あ……! かっ、帰れよ! もう用は済んだだろっ!?」
「嫌だ」
「なんでだよぉ……」
もはや涙目になって震えるばかりの彼女に一切の配慮なく、少年は詰め寄った。
「なあ、俺は……正確には俺と他二名もだが、つい今しがたお前を助けるため決死の覚悟で炎の中に身を投じたわけだが」
「あ、ああ……うん。それは、ほんとにありがとう……」
しおらしく頭を下げたに、呆れたような視線が突き刺さった。
「それだけか」
「え?」
「褒美はないのか」
「はぁ……?」
「命をかけた対価だ。あって然るべきだろう」
「それは、そう……かもしれないけど……」
の脳裏にいくつかの候補が上がる。
一番は金だが、今この場で彼女が差し出せる金額など、子どものおこづかい程度だ。とても命をあがなえるような額ではない。
さりとて喜多川が欲しがるような物品はこのトランクルームには保管されておらず、また家にあった物も炎に巻かれて焼失してしまった。
ではこの身か―――?
そこまで考えて、ははっと息を呑んだ。
考えてみたら、そもそも彼女はとっくに対価を支払っている。多大な恥と引き換えに、彼にすべてを晒け出しているではないか。
「み、見せただろ! 私の……」
恥じらいに顔を赤くして歯切れ悪く述べる姿はそれだけで価値の有りそうなものではあった。
「たしかにお前の……いろいろと見たが」
「それで充分だろ!」
「えー」
「他になにを……あ、あれ以上見せろって……!?」
「ああ、それはいいな。よし、それで手を打とう」
「誰が打つかっ!!」
「わがままな。なんならいいと言うんだ」
「なんでキミが譲歩してやってるみたいな感じ出してるんだよ!」
「実際そうだろう」
「全然違うっ! だいたいキミ―――」
さらなる声量で何事かを訴えようとする唇に、喜多川は指を押し当てた。たったそれだけで少女は押し黙り、潤んだ瞳で彼を見上げるだけになる。
「声を抑えろ。通報されるぞ」
シン、とコンテナの中は静まり返った。
どこか遠くの道を車が通ったらしい低いエンジン音と、暖房をつけている民家が近くにあるのか室外機の唸る音もあれば、虫の音も辺りを満たしている。人の暮らす空間に完全な静寂は訪れない。こんな夜更けであっても生活音というものは確かに彼らを包んでいた。
けれどいずれも少年の耳には入っていない。指先に触れる感触に夢中になって、他の感覚とは一切切り離されているかのようだ。
やわらかい、と彼はしみじみ思う。
なにか下心があって指を突き出したわけではなかったし、触れてしまったのは完全に暗闇に距離を見誤ったからで、静かにさせようと思ったのも時間帯と場所と自分たちを取り巻く状況を鑑みてのことだ。
けれどこの指先に触れるやわらかな感触といったらどうだろう。
男の唇になんて爪の先ほども興味を抱いたことはないというのに、ただ性別が違うというだけで何故こんなにも価値のあるもののように思えるのか。
少年は無意識的に指を動かし、彼女の唇を指の腹でなぞっていた。
「……なんでキミはそうなんだ。ちくしょう……人選を間違えた。キミじゃなくて竜司くんやあのうさんくさいのにしておけば―――」
「泣くぞ」
「勝手に泣いてろよ」
やり取りの間も指は止まらなかったが、は嫌がるでもなく目を伏せ、したいようにさせている。
「キミでなきゃこんなこと……絶対に……」
少女は続く言葉を飲み込むと、意を決したように口を開いた。
「それは報酬になる?」
『それ』とは彼が今触れているもののことだ。
軽く驚きはしたが、頂戴できるのならこれほどのものはないだろうと喜多川は小さく頷いてみせた。
するとは触れる手を払い除けて少年に唇を寄せる。甘やかな香りが彼の胸を満たした。
喜多川は確信する。憎しみの失せた今、彼女の中の静かな情熱は己に向かっているのだと。それは自惚れなんかではないはずだ。
二人はしばらく時間と場所を忘れて夢中になっていた。そう大して長い時間ではないはずだったが、そばの通りをバイクが通り抜ける音に慌てて身体を離したころにはすっかり呼吸は乱れていた。
それでも荒い息のなかは述べる。
「……いいか、このこと、誰にも言うなよ……あと、連中の前でベタベタ触ってきたりしたら、ぶっ飛ばすからな……」
「目のない所ならいいんだな」
「うるさい」
ピシャリと言い放って立ち上がると、今度こそはスーツケースとトートバッグを掴んだ。そのまままだ立ち上がれない彼の横を通り抜け、冷たい外の空気で上気した頬を冷やそうというのか、パタパタと手で己の顔を扇いぎはじめる。すぐに立ち去ろうという気はないようだ。
その背に喜多川は問いかける。
「イエスということでいいのか?」
わざわざ尋ねる必要もないことだ。彼はただ、平然と振る舞おうと努める彼女の姿勢を崩してやろうと目論んだだけだ。
果たして少女はピタリと動きを止め、まだ赤い顔を彼に向けて、
「保留だよ、バーカ」と力なく罵った。
「そうか。ふっ、お前も強情なやつだな」
「うっさい。なんだよ。笑うなよ」
声を潜めて笑う喜多川を睨みつける瞳にも剣呑さはない。
彼は立ち上がってまた声に出して訴えた。
「お前が好きだ」
「く……保留だって言ってるだろ……」
「分かっている。だから今日のところはここまでにしておいてやろう。だが―――」
地面に足をつけ、隣に並んだ彼を見上げる瞳は潤んでいる。
「前も言ったな。俺はお前を逃がすつもりはないぞ」
赤らんだ頬に触れる手を、は振り払ったりはしなかった。触るなと訴えもせず薄っすらと笑って、
「そこまで言うなら、地獄までついてこいよ」とだけ返した。
別れの名残を惜しむようにもう一度顔が寄せられたときも、彼女はもう逃げる素振りすら見せなかった。