21:Fantasm-B

 ロッキングチェアに深く座した少女は、瞑想するように目を閉じて落ち着いた呼吸を繰り返している。
 眠っているわけではなかった。ただ静かに、内なる己との対話を楽しんでいた。
 ―――という女の子は、実際のところ家の長女というわけではない。系図状には兄と姉がいるが、長兄は死産し、長女は三歳のときに病気で亡くなっている。
 これによって両親は子を持つことを諦めたのか、長年この家に子供の声が響くことはなかった。引き換えに母親は児童支援に身を尽くし、死去する三年前まで多く時間と金銭を注ぎ込んでいた。
 が生まれたのは十六年と少し前のことだ。当時母親はとっくに高齢に差し掛かっていたから、子どもを身籠ったことに周囲は大きな驚きに包まれた。
 夫は出産には反対した。初産ではないにしても、いかんせん高齢だ。母体にも子にも負担が大き過ぎるとして。
 一方で彼女の父、の祖父に当たる男は特別反対はしなかった。したいようにすればいい。ただ己が死ぬとき、後悔の無いようにだけすればいい、と。
 そうやって産まれてきた赤ん坊は母子ともに健康で、病気の一つもすることなくよく周囲に愛されて育った。
 待ち望まれた誕生で、成長だった。
 彼女は望まれてこの世に生を受けたのだ。
 パチッと目を開いた望まれた子の前には、死という穢れと腐敗を描いた五枚の連作が並べられている。
 いずれは己もここへ至ると否応なく意識させられるそこに、しかし≪呪い≫などというものは存在しない。
 あるのはただ、狂おしいまでの愛おしさと、毅然とした意志だけだ。
 それは見つめる彼女の中にも宿るものだった。
「……後悔しないように、だよね。わかってるよ、おじいちゃん」
 独り言ちた少女の耳に、床板を踏む軋んだ音が届いた。
 立ち上がってドアに身体を向けると、タイミングを合わせたかのように扉が開かれる。
「来ると思ってた」
 なにかを言うより先に告げると、『彼』は愉快そうに目を細めた。
 彼女にとって見慣れない服装だった。日ごろ身にまとう高そうな制服ではなく、カジュアルな印象のジャケットに、下はいずれも暗色でまとめられている。肩口まで伸ばされた髪は珍しいことに一つに括られてもいた。
「思っていたより頭も働くんだね」
 侮辱的な発言に、は不快感もあらわに語気を荒げた。
「考えるまでもないことだろ。絵が揃い、阿藤が自分の罪を認める以上、私がお前たちに手を貸す理由はもう無い。けど、私はお前の飼い主のやってきたことを知っている……であれば、私はお前たちにとってこれ以上ないほど不都合な存在だもんな?」
 少年はパチパチと手を打ち鳴らした。
「すごいね、おおむね正解だ」
 えらいえらい、と小さな子どもを褒めるようにやわらかく微笑んで、少年は一歩部屋に踏み込んだ。
「だけどね、残念。阿藤はもうじき死ぬよ」
「やりやがったのか……」
「だって君がやらないから。手間を増やすなって何度言わせるんだい」
 今度はささいな失敗をした我が子か年下の弟妹を叱るような調子だ。
 はきつく拳を握りしめて彼を睨みつけた。
 それも柳に風と受け流し、少年はまたさらに一歩を進める。
「そして君の言うとおり、あの人は飼い犬に手を噛まれる前に手を打ちたがってる」
「だから、お前が来た」
「君が力に覚醒なんてしてなければ直接会う必要もなかったんだけどね」
「こっちだって必死だったんだ」
「思わず彼らを頼るくらいに?」
「お前らときたら、こっちを働かせるばかりでちっとも手助けになってくれなかったからな」
「よく言うよ。君が欲しがってた絵だって買ってやっただろ?」
「汚い金でだろ」
「金にきれいも汚いもないさ」
「考え方の相違だな。私は後悔したくなかった」
「それは僕もだよ。後悔したくない。そのためならどんなことでもするさ」
 ここは同じのはずだ。そうだろ?
 挑発的な視線に、は歯を見せて唸った。今にも飛びかかりそうな調子だが、瞳には理性の光が瞬いている。
 ふっ、と短く浅い呼気を吐いて、少年は彼女を抱きしめようとするかのように両腕を広げた。
「君もすっかり≪改心≫させられてしまったってことかい?」
「そうなのかもな」
「ふぅん? 案外侮れないってことかな。それとも君……」
「なんだよ」
「例の『彼』に『やり込められ』でもしたの?」
 完璧な挑発だった。広げられた腕も、椅子を挟んであと一歩の距離も、この上なく愉快そうな表情も、の怒りと動揺を誘うには充分過ぎるほどだった。
 ブチッ、となにかが切れるような音とともに、少女の足は二人の間に壁のように立ち塞がっていた椅子を蹴り上げた。重いはずの革張りのロッキングチェアが宙を舞い、少年の視界を塞ぐ―――
 翻った長い丈のスカートの下、ぶ厚いレギンスの上には強化プラスチックと金属で覆われたアーマーが装着されている。
 少年は笑ったままステップを踏み、すばやくロッキングチェアの破片と本体を掻い潜った。
 脚を振り上げた少女の死角、スカートの影に隠れるように身を屈め、下からすくい上げるように叩き込む。
 手応えはあったが、咄嗟に構えられた両の肘が少年の拳を防いでいた。
 それでも痛みはあるのだろう。少女の上肢にアーマーは装着されていない。
 少年は笑みを崩さぬまま踵を軸に身を捻り、右手を少女の脇腹に叩き込んだ。
 突き刺さるような鋭い痛みに、声こそ上げないものの少女の身体が意思とは関係なく強張る。
 幸いなのは、少年にじわじわとなぶって楽しむような趣味がないことだろう。彼はその一瞬の隙を突いていっぺんにの意識を刈り取った。
 なんと言うことはない。握った拳ではなく、平手でもって少女の顎を横から激しく振り抜いただけだ。痣くらいはできるだろうが、舌を噛んだりしていなければそれも数日で消える。
 ただ頭部への強烈な衝撃はこのときに限って彼女を前後不当にする。
 ガクガクと震えて膝をつき、糸が切れたように倒れ伏したを眺めて、少年はふう、と物憂げな息を吐き出した。
「やれやれ……装備が下だけで助かったよ、まったく……」
 ちらりと後ろをふり向けば、無残な姿と成り果てた高価そうなロッキングチェアの残骸が転がっている。
 一歩間違えば自分がああなっていたのかと想像して、しかし少年は薄っすらと笑ってみせた。
「君が苦労していろいろ作り出したように、僕もいろいろ仕込んでるからね。オンナノコに負けてちゃ、さすがにカッコつかないよ」
 聞く者も見る者もいないというのに、妙にキザっぽく言ってのける。
 それから、少年は窓から差し込む月光に照らし出された室内を一瞥して、倒れたの肢体をじっくりと眺め回した。
 かわいそうだ、と彼は思う。
 あんなに努力して、必死になって、傷を作ることもあったし、未だに毎夜悪夢にうなされているというのに……
「こんな結末になるんだもんな。同情するよ……」
 しゃがみ込んだ少年の手が優しく頭を撫でる。グローブ越しに伝わる艷やかな黒髪の感触はほんの少しだけ彼を慰めた。
 少年は壊れた椅子の座面と背もたれを床に寝かせ、その上に少女を横たわらせると念のため一つ工夫を凝らしてからまだ優しげな声で囁きかけた。
「……安心しろよ。君の意志だけは果たさせてやる」
 立ち上がりざま、少年はちょっといたずらっぽく笑ってもみせた。
「その分君は苦しむことになるだろうけどね。まあ許してよ。さすがに検死の段階で事故じゃないってバレちゃうと不味いからさ」
 当然少女は応えない。手足をときおり痙攣させるばかりだ。
 少年はもはやなにもかける言葉を持たず、ただ黙って部屋を辞した。『仕込み』はすでに済んでいるから、あとはこのまま家を出るだけでいい。
「あーあ、怒られるなぁ……まあ、阿藤と彼女と、ついでにあのバカ連中を追い詰められるってところで手を打ってもらわなきゃね」
 のんびりとした足取りで階段を下り、地下に続く落とし戸を飛び越えて玄関へ。
 眠りに付きつつあるこの時間、堂々と表から抜け出した彼を目撃する者は一人とていなかった。
「じゃあな、。地獄で会えたら文句の一つも聞いてやるよ」
 最後に残されたつぶやきもまた、耳にする者はいなかった。
 なにしろ彼の背後にある家は小規模な爆発音を上げて、内側から炎を吹き出したのだ。

 ビクッと身体全体が震えた途端、の意識は急激に再浮上した。体感としてはほんの数秒だが、現実としてはどれほど意識を混濁させていたのか。
 まだくらくらとする頭を押さえながら、は震える身体を叱りつけながら慎重に上体を起こした。
 途端、鼻をつく異臭を感じ取る。
 室内にあの少年の姿は見えない。彼が出ていったのであろう唯一の扉は開け放たれたままで、そこから真っ黒な煙が流れ込んできている。
 ぎょっとしてさらに辺りを見回すと、床板の隙間からも煙が立ち上っているではないか。
「あっ……あの野郎……! くそっ、くそ、くそぉ!」
 早く逃げ出さなければと立ち上がろうとして、しかしは部屋を見回してぎりりと歯を噛んだ。
 絵を置いていくわけにはいかない―――
 そう思うと、彼女の脳裏には『もう一枚』のことが思い起こされる。
 この部屋ではなく、裏庭のアトリエに置かれた描きかけの絵だ。
「……おじいちゃん……わ、私……」
 涙が滲んだのは黒煙に目を痛めつけられたからというだけではなかった。
 心底から湧き上がった痛苦に耐え切れず、思わずと滲み、こぼれ落ちたものだ。
 その上にさらなる苦難が立ち塞がる。普段ならなんの問題もなく起き上がれるはずの下半身が妙に重い。
 不思議に思って見下ろすと、本来腰部に取り付けられているはずのバッテリーがどこにも見当たらないではないか。
 サッと血の気が引いた。駆動している限り装着者を助けるアーマーは、しかし電源が入らなければ十キロ近い重りでしかないのだ。
 慌てて下肢を固定するベルトを外しにかかる。
 けれど焦りと火への原始的な恐怖に震える手はなかなか上手く動いてはくれなかった。
 廊下から流れ込む煙が部屋にも満ちつつあり、床からは下手に呼吸をすればそれだけで喉が焼かれそうな熱気が立ち上っている。おそらく下は火の海と化しているのだろう。
 ああ、と少女は感嘆の息をついた。
 炎がどこからやってきているのか、おおよその見当がついたからだ。
 階段下、隠し扉のすぐ足元、落とし戸の下。が三年の間にかき集め、作り上げたアーマーのデータも材料も加工用設備もすべてそこに隠してあった。
 おそらくそこに油なりが撒かれて火をつけられたのだ。
 となれば当然、階段はとっくに燃え落ちているに違いない。
 肌をじりじりと焼き焦がす熱に、汗が滴り落ちる。それもすぐに蒸発してしまった。
 ようやくベルトが外れたとき、少女は薄れた酸素に朦朧とした意識を繋ぎ止めるのに必死になっていた。
「ダメなのか……? さすがにこれは、いくらなんでも保険適用外か……?」
 よろよろと廊下に這い出た彼女が見たのは、案の定逆巻く炎に呑まれた階段だった。
「くそっ、こんな……こんなところで……!」
 諦めきれない、と無理矢理身体を引き起こした彼女の脳裏を過ったのは三年前の記憶だった。
 肌寒い山の夜、背中にあったはずのかすかなぬくもりが一歩踏み出すごとに訪れる激痛とともに失せていった記憶だ。 
 そばを何台も車が通りかかったが、誰も助けてはくれなかった。やっと辿り着いた民家でも、あまりの様相にか妖怪かなにかと勘違いされたのか、追い払われてしまった。
 やがて警察に通報がいって取り囲まれ、やっと救援を求めることができた。
 それも助けにはならなかった。
 父と母はすでに息絶え、背に負った唯一無二の親友もとっくに冷たくなっていた。
「……くそ……」
 握った拳に力はほとんど入らなかった。
「自業自得だってのか? 死ぬようなことを……したか……」
 ごめんなさい、とつぶやいて、少女はその場に膝をついた。
 最早なにもかもが手遅れと知って、無力感に打ちのめされて項垂れてしまう。散らばった黒髪に炎が迫っていた。
 痛みと熱、様々な感情からこみ上げる涙を拭いもせず、はただ心に浮かんだひとの名前を呼んだ。どうせ死ぬなら、最後は楽しいことを考えていたかったのだ。
 せめてアトリエには炎が及ばず、彼の絵だけでも無事であればいいと願いながら―――
「祐介くん……」
 そしてこの呼びかけに彼は応えた。
「呼んだか?」
 幻聴かと思ってふり返ったの目に飛び込んだのは、頭から足先まで、全身をすっかりずぶ濡れにさせて、頭には藻のようなものを貼り付けた喜多川祐介である。まるで海坊主のような様相であった。
「……キミってさ、空気読めないって言われるだろ」
「よく言われる。が、これに関してはお前が仕向けたことだろう」
 ずかずかと遠慮なしに歩み寄った少年は、やっぱりなんの杓子もなく力ない少女の腕を掴むと、強引に引っ張り上げて抱え込んだ。
「そうだとも、キミなら来てくれると思ってた。ハダカを見た女をほっとけないなんて、ほんと、わかりやすいやつだなキミも……アハハ……」
「悪かったな」
 乾いた笑い声にムスッとしつつも、喜多川の足は迷いなく窓へ向かう。いつの間にか開け放たれていたそこには、もう一人見慣れた黒髪の少年の姿があった。
「このお人好しの、ド素人どもめ……」
 毒づいた少女を見下ろす伊達のグラス越しの瞳は怒っているようでも、呆れているようでもある。彼の前髪からも水がしたたり、蓮の葉を頭に乗せていた。こちらは河童である。
 は恥も外聞も捨てて、喜多川に縋り付いた。
「助けて。ここで死ぬわけにいかないんだ」
「もちろんだ。ふふふ、やっと俺を頼ったな!」
「バカ……」
「なんとでも言え」
「……私の話、ぜんぶ聞いたら後悔するよ……」
「お前がなにを抱えていようと今さら気にするものか。よもやまだ俺を些細なことで怖気づく矮小な男と思っているのか? 実に心外だ」
「その言葉、忘れるなよ……!」
 震えながらも伸ばされたの腕が喜多川の首に回される。前髪同士が触れ、鼻先が擦れ合った。
 口づけを許されているのだと察して、少年は直ちに求めに応えようと動いた―――
「やってる場合か! あっつ! あーもう消防きちゃった! 早く出ろッ!」
 怒り心頭に発した頭目の怒声に遮られる。
 どうやらは最後の力を使い果たしたようで、そのままぐったりとして動かなくなってしまう。喜多川は最大の機会を逃したことを理解して、己が頭領を睨みつけた。
「空気を読んでくれ」
「そりゃお前だよ、バカ!」

……
 苦しい、という感覚の次に彼女が感じたのは鋭い痛みと熱だった。
 薄っすらと開いた目に映ったのは、見たこともない顔の男だ。目深に帽子を被った黒いマスクの男など、少女が知る由もなかった。
 なにより男は少女の華奢な首を両手でもって絞め上げている。知り合いであるはずもないだろう。
 力を込める手の親指は少女の首の太い血管をぐいぐいと押さえ、肺から酸素を奪うどころか脳への血流そのものをせき止めようとしている。
 苦しい。やめて。たすけて―――
 少女は出ない声で誰にともなく訴え、手を剥がそうと腕や足をバタつかせた。
 それも意味のあることではなかった。腕と足はそれぞれ片方ずつ、開放こそされていないが折れ曲がってしまっている。
 明滅し始めた視界に濃厚な死の気配を感じ取ったとき、唐突に彼女の喉を絞める手が緩められた。
 短い悲鳴と、低く唸る犬の声。
 激しく咳き込み、滲み出た涙で歪む視界の中、どうにか事態を把握しようと努めた彼女の目に映ったのは果敢にも男に飛び掛かる黒い犬の姿だった。
 ―――グリム!
 名を呼ぼうとした喉は未だ酸素を求めて収縮を繰り返している。地べたにつけた両手はすり切れ血が滴っている。
 助けてくれたんだ、と安堵の息をつくことができたのも束の間のことだった。
 黒犬に脚を噛みつかれ、激高した男の手に太く鋭い木の枝が握られる。
 やめて、と叫ぶことさえできず、少女の目の前で犬の太い首に横から枝が突き込まれた。
 悲鳴を上げた犬の身体を太い男の足が蹴り飛ばす。少女の元へ転がった犬は懸命に立ち上がろうともがいていたが、もはやぶるぶると震えて血をまき散らすばかりだ。
 再び、男の手が少女に伸びる。
 震える少女に抵抗の手立てなどあるはずもなく、逃げようにも足も腕も折れて激痛を訴えるのみだ。
 殺される、ときつく目をつむった瞬間、最期の力を振り絞った黒犬が男の喉元に食らいついた。
 引き剥がそうと男は幾度も犬の身体を叩き、どこからか取り出したナイフを突き立てもしたが、彼は決して男の喉笛を離さなかった。
 やがて低く小さな音とともに男の身体がビクンと大きく跳ねると、それきり男は動かなくなった。
 黒犬もまた、よたよたと男から離れ、少女を見つめてクゥンと小さく鳴いたきり、地に伏せてピクリともしなくなった。
 動くもののなくなったそこに風が吹き込んだ。揺れる針葉樹のざわめきに、少女はやっと自分の置かれた状況を理解し始める。
 秋の連休、家族で隣県に旅行に行った帰りだったはずだ。緩やかに林道を走っていた車が突然バウンドしてガードレールに突っ込み、後部座席で犬と大人しく座っていた少女は衝撃に車から弾き落とされた。
 見ればハザードランプの点灯した白のセダンが間近に停車している。運転席は無残に潰れ、助手席は倒れた大木が押し潰していた。
 そこにいたはずの父と母はもう助からないと直感で理解して、少女はまだぬくもりを残す勇敢な忠犬を担ぎ上げた。
 誰かに助けを求めようと思ったのだ。
 せめてこの子だけでも。パパとママはもう無理でも、血まみれになって私を助けてくれた彼を死なせるわけにはいかない。
 決意とともに歩き出した彼女の左足は折れ、左腕もまた上腕が中ほどで折れ曲がってしまっていた。
 それでも夜の闇の中、少女は犬を背負って無心に歩き続けた。山風は冷たく、通りかかる車は一台とて停まってはくれなかった。ようやくたどり着いた民家でもなにと勘違いされたのか、悲鳴を上げて追い払われた。
 警察と消防、救急が彼女のもとに辿り着いたとき、背中に負われた犬はすでに絶命し、冷たくなっていた。事故現場からは十キロ近くも離れていた。
 奇妙なことに事故現場にあった死体は彼女の両親のみで、黒犬の牙に倒れた男の遺体はどこにも見つからなかった。
 警察はこれを事故と断定。少女が目撃した男は錯乱状態が見せた夢や幻覚ということになった。
 傷も癒えぬうちに葬儀が始まり、ギプスと包帯でぐるぐる巻きにされたまま彼女は親族席に座らされた。
 大人たちがなにか難しいことを話し、怒鳴り合っているが、何一つとして彼女の中に染み入るものは存在しなかった。
 ……幻なんかじゃない。グリムは確かに私を守ってくれた。命を懸けて、死ぬ直前まで、忠義を示してくれた。会社も財産もどうでもいい。欲しいなら持っていけばいい。私が知りたいのはあの男が誰で、どうして私を、そしておそらくパパとママを殺したのかだけよ。
 少女のもとには、懇意にしていた弁護士の尽力で家といくらかの保険金、相続型信託の定時定額受け取りが残された。それらを頼りに独り生活しはじめた彼女は、傷を癒やしながら情報を収集した。
 そんな中、二年前に死去した祖父の絵が噂になっているのをネットの片隅で目撃する。
 元より怖い話が付きまとうような絵ばかり描いていた人だから、はじめは別段気にもしなかった。
 けれどこのとき彼女が目にしたものはこれまでのよくある噂とは一線を画していた。
 呪われた絵。所持した者は謎の死を遂げる。画家は狂気に取り憑かれていた。
 ―――挙げ句、家族さえも死に追いやった。
 少女が調べるべきことは更に増えた。
 父の伝手を頼り、絵が誰の手に渡ったのかを知るのは大した手間ではなかった。まだ傷も癒えきらぬ少女が目に涙をためて「寂しいからおじいちゃんの絵を見たい」と乞えば、誰もが簡単に口を割った。
 死者は確かに存在していた。けれど今年に入ってからは一人だけで、死因は自殺だ。
 それなのにこの噂はなんなの?
 己の両親の死が強調の材料にされていることは明らかだが、それにしても一つきりの実例に対して噂は大きく広まり過ぎている。
 そもそもこの自殺した人もどこで絵を入手したの? オークションや画廊で買い付けたわけじゃない、譲渡された様子だけど……
 誰がこの人に絵を譲り渡したの?
 一年をかけて、少女は手を変え品を変え、大人たちにしおらしく、涙を浮かべてすり寄り、ときには脅しをかけてまでして一人の男にたどり着いた。
 それは阿藤勝利という名の地方から中央へ参入した山出しの金持ちだった。
 しばらく前まではこれと言って目立った活躍も噂もなかったが、一年ほど前から急激に勢力を伸ばし始め、今や幹部級にまで登り詰めている。
 少女はすぐに阿藤が父の会社と財産のほとんどを受け継いだ男の叔父であることに気が付いた。
 もしかしたら。たぶん。きっと。
 思い込みに近い感情に支配されないよう、少女は慎重に阿藤を観察した。
 その間にも絵の所持者は次々に無くなり、一部の界隈では呪われた絵と画家として祖父の名と絵は知れ渡った。
 自殺なんかじゃない。多分きっと殺されたんだ。それを、呪いのせいってことにしてるんだ―――
 おじいちゃんの絵を利用して!
 確信があるわけではなかった。ただの推測では、訴えさえ起こせないだろう。
 それならせめて、これ以上の被害者を出さないようにすることはできないか。思案して、少女は絵を取り返そうと決意する。
 問題はその方法だ。これまでと違ってすり寄った程度で手放してはくれないだろうし、脅しなどもっての外だ。金銭による交渉も、彼女には厳しいものがある。
 思い悩む彼女の目に映ったのはテレビの中で快刀乱麻の活躍をする大悪党の姿だった。なんてことのない子供向けのアニメーションだ。大げさに誇張されたよくあるダークヒーローもので、話の中で彼らは大ぶりのダイヤのついた指輪を首尾よく盗み出していた。
 少女はそれを夢中になって眺めながらも自嘲する。あんな器用な真似なんてできっこない。あれはフィクション。
 ―――本当に?
 現実で人間にできることには限度があるが、それを補助する物は作れるんじゃないかな? パパが会社でやってたみたいに……
 閃きの傍ら、推測を確信に変える必要も彼女にはあった。
 表向きは真面目な高校生として勉学に励みつつ、その施設を利用して技術を磨くことに努めはじめた彼女は、阿藤勝利の講演会等に足繁く通いはじめた。
 阿藤は若者の教育と雇用にも強く関心を示していたからか、彼の語る場には同じ年ごろの少年少女の姿もちらほらと見受けられた。おかげで目立たずに済んでいたから、このときだけは彼の舌先三寸に感謝を捧げた。
 けれどあるとき、一人の少年が彼女に声をかける。
 やわらかな物腰と少女のように愛らしい顔立ちは、彼女にしても一度か二度、テレビや雑誌で見たことがあった。
 彼は己を探偵と名乗った。
 まだ年若い、己と大差ない年齢の少年が探偵とは恐れ入る。興味もなさそうに立ち去ろうとした彼女を少年は引き止めた。
「君、重工のお嬢さんだろ」
 朗らかな笑顔で吐き出された言葉に、少女は警戒をみなぎらせて立ち止まった。
 ふり返って彼を睨みつける目には疑惑とただならぬ覚悟が揺らめいている。
 慌てて、少年は両手を振った。
「落ち着いて。僕は別に、君の邪魔をしようってわけじゃないよ。ただ……知ってるやつは知ってるってことが言いたかったんだ」
 阿藤勝利と重工の繋がり方や、その裏で行われていると推察されること―――
 要は己の調査能力とやらをひけらかしたかっただけらしい。プロデュース業の一環だと彼は語った。
 少女は探偵にいくらかの金を支払った。
 安い買い物ではなかったが、どうやったというのか、彼は間違いなく一人の男を探し出して彼女に差し出した。
 それは一枚の写真だった。
 今より少し若い阿藤と、その隣で笑うスーツ姿の男。
 それは間違いなく少女の目の前で黒犬に喉笛を噛み切られて絶命した男だった。
 探偵は二人が血の繋がりのない兄弟だと語る。兄は阿藤の父親の再婚相手の連れ子だったが、まるで弟を守るボディガードのようだったと。
 けれどその兄は一年と少し前からぱったりと姿を見せなくなったそうだ。
「戸籍上はまだ生きているみたいだけど、死んでるね。阿藤もそれは知っているみたいだよ。それから、この男は過去に地元で幾度か傷害事件を起こしてるけど、家の力かな、すべて不起訴処分か、あるいは事件にさえされていないようだね」
 このことも含めて、荒事は血の繋がらない兄の担当だったことが伺える。
 まるで見てきたかのように語る探偵に、少女は推察や疑惑を確信に置き換えて低く唸った。
「……してやる」
「え?」
「殺してやる……あのクソ野郎、絶対にブッ殺して豚の餌にしてやる―――!!」
「わお」
 静かに激昂してわなわなと震える少女を、少年はひどく愉快なものを見るように目を細めていた。
「まあ落ち着きなよ。君一人でなにができるっていうんだい」
「刺し違えてでもやってやる!」
「馬鹿だな。頭を使えよ。君じゃ近づく前に抑え込まれてお終いだよ」
「そんなことない! 今試してるアレが完成すれば!」
「アレって?」
 少年は楽しそうに微笑んでいる。まるで年の離れた妹や姪っ子の面倒を喜んでみる兄のような風情だった。
 少女は口をへの字に曲げて落ち着きを取り戻した。
「……キミには関係ない」
 辛うじてそうと告げた彼女に、少年は断然として告げる。
「関係なくなんてない。復讐したいんだろ? そのためなら、どんな汚いことでもやってやるって顔だ」
「なにが言いたい」
「協力できることがあるかもしれない。お互いにね」
 ……探偵は、己には不思議な≪力≫があるのだと語った。
 人の心に入り込み、真実を盗み出し、ときには人を証拠もなく消し去れるような。
 当然少女はそんな与太話を信じなかった。
「じゃあ証拠を見せるよ。ちょうど一つ仕事をしなきゃならなかったから、ついでにね」
「薬かなにかやってるの?」
「失礼だな」
 歩き出した少年に、しかし少女は何某かの自信とでも呼ぶべきものを見出して後に従った。
「大丈夫さ、怖がることなんてなにもないよ」
 やがて彼はそう言って、少女を不思議な場所へ連れ込んだ。
 そこは現実世界とはまったく別の、物質的法則から解放された奇妙な空間だった。
 これが人の心だと彼は語る。
「誰の心なの?」
 問いかけた彼女に、少年は微笑んで『一色若葉』と答えた。

 ……

「じゃあね。誰かにこのことを喋っても構わないけど……キチガイ扱いされるのが関の山だ。これでビビるようなら、今日のことは復讐と一緒に忘れたほうがいいよ」
 呆然とした少女を現実の世界に置き去りにして、少年は立ち去った。
 しばらくの後、少女は自らの足で少年のもとを訪れた。
「なんの用?」
「……一色若葉が死んだ……」
「そうだね。それで?」
「女の子が一緒にいた……泣いてたよ」
「よくあることさ」
 君もそういう一例だったんだろ、と少年は悪びれもせずに言った。
 少女は震え上がる。目の前の少年が恐ろしくて堪らなかった。その気になれば彼は己をも同じように殺すことができるのだと彼女は己の目で見て知っている。
 けれどそれは、仇敵をも同じこと。
「ほんとに……こ、心をこわ、壊したからなの。ああなったのは、キミがあの人をあそこで……」
「さあね。そうだったらどうする?」
「パパとママを、グリムを殺して、おじいちゃんの絵を汚したやつも……同じようにできるの……?」
 震える声に彼はほくそ笑んだ。
「できるよ」
 俯いた少女は拳を握り、唇を噛んで瞳に憎悪の炎を燃え上がらせた。
 その耳にはまだ小さな女の子が泣き叫ぶ声がこびりついていたが、それを振り払ってでも目の前の少年の手は取る価値があるように思えた。
「やって。あいつを殺して!」
 ずいと迫った少女に、少年はますます笑みを深くする。目の前に転がる石の裏に黄金が隠されていると知って、喜んでいるかのような目をしていた。
「お願い、なんだってする。欲しいのなら報酬も支払う。……そんなには用意できないけど……」
「お金にはあんまり興味はないよ。あれば嬉しいけどね」
「やるってこと?」
「うん。タダでね」
「他になにか支払えと」
「うん。僕の仕事を手伝ってよ」
「仕事って……」
 サッと少女の顔が青ざめた。ほんの少し前、頭から血を被るような羽目になった出来事を思い返したのだろう。
 少年は嘲るように小さく喉を鳴らした。
「安心して、ああいうのはさせないよ。他の、そうだな、こっちの世界……つまり現実での厄介ごとの処理を頼みたいんだ。できるかい?」
「それなら、やる。や、やります……だから……」
「うん、いいよ。ただ、僕も自由にあの力を使えるわけじゃないんだ」
「そうなの……?」
「だから、その時がくるまで待ってもらうことになるけど……それでもいいかな?」
 少女は少しだけ迷って、首を縦に振った。
 怯え、震え上がって顔を青くして、それでも憎い相手に父母と忠犬と同じ苦しみを与え、祖父の名誉を取り戻すためならばと取引を受け入れた。
「そう……じゃあ、よろしくね、さん」
でいーよ……キミのが先輩なんだし……」
「じゃあ敬語つかえよ」
「やだ……」
 この後に及んで生意気な口を利く少女に、少年は肩をすくめた。
 唯々諾々と従われるよりはマシかと己を納得させて、軽く肩に手を触れさせる。
 単なる挨拶のつもりだった。これからよろしく、となんの気もなく指先で軽く叩いただけだ。
 だというのに少女は大げさに身体を震わせ、飛び退って距離までとった。
「……失礼な反応じゃない?」
「ご、ごめっ、でも、あの……」
 俯いた彼女の顔はまだ青ざめている。
「ま……まだ血のニオイがする気がして……お風呂には入ってるけど、き、汚いから……」
 少年は優しく微笑んで彼女の黒髪に手を伸ばした。少し癖のある長い髪は艶があって、猫の毛のように細く柔らかだ。
「大丈夫だよ。君はきれいだ」
 甘やかな言葉と笑みは、きっと多くの異性や、あるいは同性やその他の性別の者も魅了するだろう力を秘めている。それもまた彼の武器の一つではあった。
 けれど少女にはどうしたわけか通用しない。
 彼女の目にはただ家族の死と復讐ばかりが映り、彼にそれを濯ぐことはできなかった。
「……触らないで……」
 髪に触れる手を振り払って、は背を向けた。