20:Midnight Run

 平らな地面に正しい姿勢で両足の裏を着けて、ジョーカーは様々な感情の籠もったため息をもらした。なかなかスリリングな『遊び』とも、幾度も心臓を痛めつけられた危機とも、あるいは単純に肉体的な疲労によるものでもある。
 ただ彼は五体満足の仲間の姿を眺めて満足げに息をついた。
「よし、帰ろう」
 かすかな笑みとともに告げられた言葉に、仲間たちも頷いてみせる。
 今回も骨の折れる仕事だったが、こうして無事オタカラも手に入ったことだし、あとは帰って熱いシャワーでも浴びてとっておきのスイーツでも―――
 とは、当然なるわけがなかった。
 すでに上層部分のほとんどが破壊されたオベリスクに似た黒いビル、その進入口であるエントランスから、振り回される巨大な腕に似合いの足が突き出したのだ。
 どうやらそれは右足らしいが、爪はなく、皮膚は黒い。ネグロイドのような温かみのある黒ではなく、オブシディアンやオニキスのような鉱物的な黒さだ。
「ちょーっと、デカすぎじゃない……?」
 冷や汗を垂らしながらパンサーが後退る。彼女の目線はビルの上から一同を見下ろす巨大な顔に向けられていた。
 そこに頭があり、ここに足があるということは、どう考えたってビルの大きさが即ちシャドウの大きさということになる。
 その途方もない巨体を眺めて、ジョーカーは降り落ちる瓦礫から逃れつつ奇妙な違和感に胸を押さえた。辺りには巨体の肌色とよく似た色の外壁の破片が散らばっている。
 結論が彼の中で結ばれる前に、背後から声がかかった。
「迎撃するか?」
 ファングは真剣そのものの様子でジョーカーに問いかけている。敵の大きさと発言と、真剣な眼差しはかえってこの状況を笑い話のようにさせていた。
 とはいえ彼女自身は見た通り、真剣なのだろう。ジョーカーはかぶりを振って
「冗談じゃない」と答えた。
 あんな大物、どう倒せというのだ。
 いや、やろうと思えばできなくはないのか? あんな見た目でも弱点は必ずどこかしらに存在しているのだろうし―――
 自問自答を繰り返すジョーカーの背を叩くようなクラクションが響いた。猫の声。
 ふり返るととっくにエンジンに火をつけていたモルガナカーとハンドルを握るクイーンが彼を急かしていた。
 車内に滑り込むと同時にアクセルが踏み込まれる。
 とはいえ、モルガナカーの全速力など巨体の一歩にも満たないだろう。自慢の非排気エンジンもこのときばかりは力不足と言わざるを得なかった。
 轟音とともにビルの外壁が剥がれ落ち、巨人の全身が現れる。足や腕と同じく硬質的な黒い肌、額から生えた二揃いのヤギの角、筋骨隆々な肉体を棘と鱗が覆っている。
 シャドウは地鳴りを引き起こすような雄叫びを上げた。
「ねえもっと飛ばせないの!?」
「とっくにベタ踏み! ああもう、重いっ!」
「そら、八人も乗ってたら、そうよ」
「スカル、降りろ」
「あんでだよ!?」
 騒がしい少年たちを横目に、ノワールは帽子をフォックスの手に押し付けるとドアを開いて器用に車外へ身を乗り出した。その手にはリボルバー式のグレネードランチャーが握られている。
 一片の躊躇もなく華奢な指が引き金を引いた。軽い音とともに擲弾が射出され、放物線を描いて迫る巨大な足に着弾する。
 風音とエンジン音が響く氷の平原に爆発音が混じり、かすかに氷の地面を揺らす―――
「あら、まあ……」
 強風に乱れた髪を押さえつつ、ノワールは眉尻を下げた。シャドウの膝を狙った一撃は間違いなく狙い通りに命中していたが、かすかな凹みをつけるに過ぎなかったのだ。
「利いていないみたいね、どうしよう」
「やわらかいところを狙う、とか……」
 困り顔で座席に戻ったノワールに答えたのはファングだった。彼女もまた反対側のドアから怪盗たちを追う影を見上げている。
「やわらかいところ……」
 二人の少女の視線が巨大な、しかし人としての形を保ったシャドウの姿を舐め回した。
「試すだけ試すか」
 言って、ファングはどこからともなく全長一メートル弱の軽機関銃を取り出して膝射の姿勢を取った。
 そんな巨大な物をいったいどこから出したというのか。などという無粋な指摘は今さら誰もしなかった。よく分からないけどそういうことになっているのだと、心の棚の上に納めておくべき問題だと彼らは捉えている。
 ただファングはまだこの不可思議な現象に慣れていないからか引き金を引く瞬間、
「あれ、私今どこから出した……?」と眉をひそめた。
 それでも弾丸は発射される。
 ばら撒かれた銃弾は概ねほとんど狙った箇所に命中したが、やはりと言うべきかあまり効果はみられない。ただ男性陣―――幸いなことにモナはこれを目撃していなかった―――が若干顔を引きつらせただけだ。
「そういう下品なのやめてくれるか」
「え? 上品なつもりでいたのか?」
 それにあそこは性差なく人体の弱点の一つだ。言い切ってファングは再び射撃を行う。足、膝、股間を通り抜けて腹……いずれも大したダメージは与えられていない様子だ。
「だめだな。銃撃は大して通らないみたい」
「そうみたいだね」
 ナビの言に頷いて、ファングはライトマシンガンをしまった。
「あれ? 私いまどこに―――」
「後にしろ。百年後くらいに」
 ふり返って後ろに目をやったフォックスの視界に、先よりずっと速度を増し、あと一歩の距離まで迫った黒い足が映る。
 巨大な足はそれだけでモルガナカーより大きいように見える。
 焦燥感つのる車内にジョーカーの声が響いた。
「クイーン」
 彼はただ悠然と腰掛けたまま運転席でハンドルを握る少女の名を呼んだだけだ。
 けれどそれで彼女はなにもかもを承知して応えた。
「了解! みんな、舌噛まないでよ!」
 言葉の途中ですでに大きくハンドルを切っていたからか、なにも予期していなかったスカルの身体が傾いで床に転がる。
 ドリフト走行で右側に折れ、あらぬ方向に走り出した車を影はせせら笑って踏み潰そうと足をそちらへ向けた。
 巨大な質量が迫るが、しかし直前クイーンはブレーキを踏んで急停車、そのまま後方発進する。車内はクイーンの意図を掴めない者の悲鳴に満ちた。
「クイーン! なになになんなの!? 目が回るってばぁ!」
 代表としてパンサーが叫ぶように言うと、クイーンは前と後ろを交互に睨みつつ答えた。
「隙を窺ってるのよ。とにかく、あれこれ試してみなきゃはじまらないでしょ。逃げるにしても戦うにしても、まずは弱点を探らなきゃ―――」
 どうしたって速度で勝てる相手じゃないのだから、足を止めるなり撃破するなりの手段を求めなければならない。
 再びハンドルを切った彼女の言に、仲間たちはなるほどと頷いて、あるいはすでに承知して車窓やドアに貼り付き、巨体を見上げた。
「マジでっけぇ……あんなんどーすんだ? やるだけやってみるけどよ」
「正直あんま自信ないんだけど。いや、やるけどね?」
 それぞれ好き勝手に漏らしつつ、スカルとパンサーは窓から上体を乗り出して仮面を引き剥がす。放たれた炎と雷撃は、表面に小さな焦げ跡を付けただけで終わった。
 次いでフォックスと、ハンドルを一時パンサーに預けたクイーンが素早く攻撃を行う。
 結果は先と変わりなかった。
「弱点が無いタイプかぁ? だとしたら厄介だぞ……」
 ナビがバリバリと頭を掻きむしりながら唸る。彼女の悪い想像を後押しするようにノワールが「私の力も駄目みたい」と悔しそうに唇を噛んだ。
 ジョーカーがモナの代わりに疾風を投げつけても、呪詛や光柱をぶつけても反応は変わらない。
「うぐぐ……ダメージはあるっ、あるけど……一億のヒットポイントに対して三とか四とか与えてたら、いつまで経っても終わらねーぞ!」
 喚いて、ナビは足をバタつかせた。
 あらゆる力の及ばない存在とは、まるで神の如くか、神に最も近いもの―――
「ルシファー気取りか? コキュートスの奥だもんな」
「南極だよっ!」
「カタチはな」
 肩をすくめて、ジョーカーは焦燥感を募らせるナビを落ち着かせるような、彼のほうがよっぽど悪魔に見えるような笑みを浮かべた。
「降りてきたのは間違いだったな。ビルの屋上から『上』に行ければ、煉獄に繋がってたんじゃないか?」
「神曲の話はもういーよ」
「真面目な話」
「どこが?」
「ずっと気になってたんだ。モナはオタカラのニオイがうまく嗅ぎ分けられない、妙に混じってると言ってただろ」
「あー、そんなことも……んでも、オタカラは、ホレ、あの通りだぞ?」
 ナビの指が車の座席の一つにシートベルトで固定された風呂敷包みを指し示す。その中には盗みたてホヤホヤの例の絵画が収まっている。
「そうだな。だから―――」
 ジョーカーは足元、モルガナカーの床をくすぐるようにつま先で円を描いた。
「うひゃっ!? ジョーカー! ふざけてる場合じゃねぇだろ! やめんか!!」
「一つ確認してほしいことがある」
「今かよッ!?」
 金切り声で応えたモルガナカーのすぐ真横を、なぶるように巨人の足が踏みつけた。
「おっと……急げ、モナ。オタカラのニオイはまだ混じってるか?」
「なにを―――」
 戸惑いつつもモナは鼻をスンスンと鳴らしてみせた。ただし、車に変じた今の彼のどこに鼻が付いているのかは誰にもわからない。
 氷の上を半ばスピンしつつ彼は答えた。
「混じってはいない! ハッキリ感じ取れるけど―――それがなんだってんだ? そりゃこんなに近くにあるんだから当たり前だろ!?」
 いいや、とジョーカーは首を左右に振った。
「違う。あのビルを出たからだ。気が付かなかったか? ビルが一つ倒壊したにしちゃ瓦礫が少なすぎるし、あのデカブツの肌の色、外壁とそっくりだ」
 轟音が車体のすぐ真後ろで鳴り響く。氷の大地を砕かん勢いの踏みつけが落とされていた。
 ジョーカーは平然と語る。
「それに、気になってたんだ。なぜ阿藤のシャドウは直接姿を見せないのか……」
「御託はいい、結論だけ聞かせろ」
 焦りも苛立ちも感じさせない涼しげな様子でフォックスが遮った。その目はまるで、いつも己の熱弁を遮られたり受け流されたりすることの仕返しと言わんばかりだ。
 ジョーカーは苦笑して彼と、仲間たちに向けて結論を述べた。
「あのビルがそもそも阿藤のシャドウそのものだったんじゃないかってこと。俺たちはやつの『ナカ』を通ってきてたんだよ」
 一瞬の静寂の後、車中は驚愕と嫌悪に溢れかえった。
「えっナニソレ気持ち悪っ!」
 素っ頓狂な悲鳴をパンサーが上げたのを皮切りに、皆口々にエントランスホールは身体のどの部分にあたるのか、オタカラはどこに安置されていたことになるのか、あれはどうだ、これはどうだと想像を膨らませ始めた。
 その中で、ナビがあっと声を上げる。
「あ、あ、あ―――」
 奇妙な発声とともに膝の上にラップトップパソコンを広げ、高速のタイピングを行い始めもする。
 興味深げにスカルがその手元を覗き込んだが、彼にはナビがしようとしていることを理解することは叶わなかった。
 ただ、いよいよ弄ぶのにも飽きたのか、シャドウの足が今度こそ怪盗たちの直上に迫る。
『遊びは終わりだ!』
「こっちのセリフ、だっ!」
 ナビの指がひときわ強くYキーを押し込んだ。
 氷原に地鳴りが響き、辺り一帯を衝撃に巻き上がった微細な氷の欠片や雪片が白く染め上げる―――
 雄叫びとも取れる絶叫が轟いた。
 白い靄のような雪煙が晴れたとき、そこにあったのは膝をついて悶え苦しむ巨体と五体満足の怪盗たちの姿だった。
「どーだっ! わたしの特製ウィルス!」
 ガッツポーズを取ってナビが吠える。手には未だ青白い光を放つラップトップが抱えられている。
 単純な話だ。元よりビル内の基幹警備システムはとっくに彼女の支配下にある。
 一応自我らしきものがある粘液状生物はともかく、機械制御のレーザー兵器や巡回のロボットを暴走させることなど、彼女にとっては赤子の頭を吹き飛ばすより簡単なことだった。
『おのれ……このガキいぃ……!』
「お前はそのガキに負ける」
 カツンと踵を鳴らしてジョーカーが踏み出ると、巨大な眼は彼を射殺さんばかりに睨みつけた。
 今もその漆黒の肉体の内側では痛みが暴れまわっているのだろう。胸を押さえて呻いては身体をビクつかせている。
『うぐっ、うがああァァッ!!』
 悲鳴さえも巨体に相応しい大音響だ。ビリビリと空気を揺るがし、少年たちの表皮をなぶる。
 けれど一人として怖気づく者はおらず、退屈そうに毛先をいじったり、あくびを噛み殺したり、ぶらぶらと手足を振って調子を確かめるなどするばかりだ。
 阿藤は苛立ちと苦痛に苛まれ、巨大な身体をくの字に折った。喉の奥から込み上げるものがあったのだ。
 汚泥が小さなパイプ管から溢れるが如く、粘液状の生物がひと塊になってその口からぶちまけられる。
 汚え、とモナが引きつった悲鳴を上げたからか、それとも端のほうから手や足のような形を作って近寄ろうとしていたからか。あふれ出た黒いタール状のものは直ちに除去される。
「―――膝を付いたな、阿藤勝利」
 汚泥を弾き飛ばし、ジョーカーの横に並び立ったのはファングだった。その背後には牙を剥いた紅い目の黒犬が号令を待って唸っている。
 ジョーカーはふっと小さく呼気を吐き出して両手を広げた。
 好きにしろよという合図だ。
 ファングは愉悦に満ちた笑みを顕になった口元に浮かべている。
「ずっとこの日を夢見てた……パパとママが死んで、グリムが目の前で殺されて、その死体を引きずりながら何キロも歩いたあの日から―――」
 足元で揺らめく蒼い炎はまるで彼女の感情に呼応するように一層強さを増し、跪いて両手を地面につける男の鼻先を舐めた。
「テメェのクソみたいな顔面をぶっ飛ばしてやる日を!!」
 厚みと軟性のある素材に包まれたその全身に火傷や痣があることは皆知っているから、彼女の背後から飛び出した黒犬が巨人の顔面に食らいつくのを止めようとは誰もしなかった。
 そうでなくたって、さんざん痛めつけられても少しも懲りずにここまでやってきたような人物だ。止めるだけ無駄というものだろう。
 重く低い、濁った叫び声が響き渡る。
 見れば黒犬は食らいつくどころか数メートルもある眼球を食い破り、大きなうろを作り出していた。
 なるほどとジョーカーなどは足元で深く頷いている。いかなる鎧をまとおうとも、眼球だけはいかんともし難いものか、と。
『お゛おお……っ! この、糞餓鬼いぃ……!』
 滴る血は黒く、粘ついている。氷の上に落ちたものがどろどろと迫るところを見るに、どうやら血液の類ではなくあれも例のシャドウなのだろう。
 けれど目に見えているもの相手に手こずる道理は存在しない。
 波のように押し寄せる粘液状生物は一瞬にして怪盗たちの手によって元あるべき場所へ押し返された。
『があ゛あぁッ!!』
 手勢をまたたく間に散らされたからか、シャドウは怒りの咆哮を上げて巨大な腕を振り回す。
 それもファングをかすりもしなかった。足元をすくい上げるように伸ばされた腕を空中に飛び上がって逃れ、また従えた黒犬にもう片方の眼を狙うよう指示を飛ばしている。
 しかし唐突に彼女は姿勢を崩し、宙に浮いたまま苦痛に身体を硬直させた。
 阿藤の血に濡れた口元にはいやらしい笑みが浮かんでいる。再び腕が持ち上げられ、耳元をうるさく飛び回る羽虫の如くファングは叩き落とされた。
「っぐ、う! くそ……っ!」
 大した高さでなかったことが幸いしたのか、ふらつきながらも直ちに起き上がる。
「おい、すごい音がしたが大丈夫か? それに今のは―――」
「例のやつだ、呪いだかなんだか知らないが……くそぉ……!」
「逸るな!」
 支えた身体がまた飛びかかろうとするのをフォックスは懸命に抑え込んだ。足元にはすでにモナが駆けつけてくれている。
「フォローならいくらでもしてやるが、リソースには限界があるってことを忘れるんじゃねえぞ。ほらよ!」
 肉球が二度三度と膝を叩くと、彼の背後に浮かんだ半身がたちどころにファングの全身を覆っていた苦痛を取り除く。
 唇を噛んだファングの視線の先で、ジョーカーは肩をすくめていた。
 彼は唇の動きだけで『手本を見せてやる』と述べる。ファングのまなじりが釣り上がったが、彼は微塵も気にした様子なく進み出た。
 ≪呪い≫とは目に見えないものだ。漫画や映画、ドラマやアニメのように視覚化されて現れるものではない。それはこの認知によって支配される世界でも、阿藤勝利がそうであると思えばなおのこと『そう』なってくる。
 それでもジョーカーの鋭い五感は目に見えないものの気配を感じ取った。男の眼から放たれた可視外の≪力≫―――
 彼は避けようともしなかったし、そんな彼の泰然とした様子に慌てたのもファングだけだった。
 ……にんまりと歪められていたはずの阿藤の口が、ひっくり返ってへの字を描いた。
「……それで? 今なにか……俺にしたか?」
 挑発するように言って、ジョーカーはわざとらしく頭をかく。背後には阿藤の巨体にも負けぬほどの巨大な影が無数の腕を蠢かせて立っている。
「いや、ペルソナいくつも持てんのオマエだけだからな?」
 手本にゃならねぇよとモナはかぶりを振った。同意したような冷たい視線がいくつもジョーカーの背中に突き刺さったが、彼はせせら笑って己の仮面を指で弾いた。
「使えるものを最大限利用しろってことだ―――ヘカトンケイル!」
 名を呼ばれ、巨人はその巨体に見合わぬ俊敏な動きを見せた。未だ≪呪い≫の力が少年に通用しなかったことに呆然とする阿藤に迫り、百の腕を順繰りに叩き込む。
 硬質的なものが砕けるような音が響いた。
 ジョーカーの目がファングに向けられ、彼はまた目で訴える。
『お膳立ては済んだぞ。これを待ってたんだろ?』
 また彼は瞠目する彼女に向けて片目をつむってもみせた。
「そういうのが……いちいち……カンに障るんだよッ!!」
 がなりたてるファングの右と左で、尖った耳の二人組が頷き合っている。
「ワガハイもそう思う」
「否定はせん」
 さておきファングは今度こそ地を蹴り、半身を従えて空中で身を捩った。彼女の視線の先、黒曜石を思わせる光沢を有した阿藤の頬に大きなヒビが入っている。
 ファングは渾身の力とスーツのアシスト機能の全力を籠めてそこに己のつま先―――鈍く輝く工具鋼の隠し刃を叩き込んだ。
 ガラスの割れるような音が鳴り、ヒビはますます大きく、首にまで至って粉々に砕け散る。
 あらわになったのは日に焼けて浅黒いが、確かに血の通っていそうな皮膚だ。
「グリム!」
 小さな身を捕らえようと振り回される手から逃れつつ少女は吠えた。
「やつの喉を噛み千切ってやれ!!」
 黒犬は短く吠えて答え、一直線に巨大な喉笛に飛びかかった。二次元平面上に存在するはずの牙は鋭く、恐れなどとは無縁だと言わんばかりに主人の命に従い皮膚と肉を引き裂いていく。
 やがて危なげなく着地したファングを追って黒犬も舞い戻り、影の中に薄っぺらな身体を潜ませる。
 また阿藤の喉に空いた大穴から滴り落ちる粘ついた液体が追いつくが、触れるより早くこれらは焼き払われた。
 ふり返ってその力の持ち主を確かめたファングにウィンクを一つ。パンサーは得意がるわけでもなく笑っていた。
 けれど彼女はふと視線を上にやると、不思議そうに首を傾げる。
「なんか縮んでない?」
 指摘に仲間たちが見上げれば確かに、巨大だった質量はまだ十分巨大ではあるが、十五階建てのビルから十階建て程度にカサを減らしている。
「おっ、パンサー、ビンゴだ。間違いなく縮んでるぞ」
「あのシャドウを吐き出させればそれだけ、ってことね」
 ナビの答え合わせに、クイーンは拳を打ち鳴らした。
「ファング、あなたの復讐劇、私たちも介入させてもらうわよ」
 言って、クイーンは軽やかに、しかし激しく氷の床を蹴って踏み出した。
 その道を遮らんとまだ巨大な腕が振るわれるが、唐突に地面から突き上がった氷柱が絡め取ってせき止める。
「どうにも暴れ足りんな。そう思わないか」
「いーねぇ、やっちゃう?」
「急がないとクイーンに全部持っていかれちゃうよ?」
 斧を肩に担いだノワールが言うころには、クイーンはすでにシャドウの腹に拳をめり込ませていた。捻りの加えられた見事な突きが黒い皮膚を穿ち、ここにも放射線状にひびが入る。
 この衝撃にか、阿藤はつんのめって喉に空いた穴から多量の黒い液体を撒き散らした。
「消毒は任せといて。本体よろしくっ!」
 パンサーが手の中の鞭でピシャリと氷を叩くと、その軌跡を追うように炎が地を舐めながら広がっていく。
「例の≪呪い≫とかいうのは眼を起点に発生するみたいだぞ。気をつけろよ」
 ナビが言うのは少しばかり遅かったようだ。クイーンが存外可愛らしい悲鳴を上げて後ろに大きく飛び退っている。
「いっ……たぁ! ファング、あなたよくこんなの何度も耐えられるわね!?」
「痛いことは痛いけど後に引くわけじゃないし」
「あなたのタフネスには感心するわ、本当に……」
 息をついたクイーンの隣にスカルもまた身悶えながら着地する。
「マジで痛ぇよこれ! なんでヘーキそうにしてられんだよ!?」
「やせ我慢だそうよ」
「は? 別にガマンなんかしてないよ!」
 またさらにフォックスが弾き返されて戻り、語気を荒げて喚く。
「おい! なんだこれは痛いじゃないか! ファング、お前よく―――」
 しかし彼の発言は途中で遮られた。
「天丼は二回まで」
 フォックスに突きつけられたクイーンの手は、二回と言う割に人差し指を一本だけが立てられていた。
 はっとして上を見上げた少年たちの目に、叩きつけよう迫る巨大な右拳が映る。
 彼らが固まっていた場所を中心に轟音と雪煙が広がった。
「まあ……みんな、だいじょうぶ?」
 左腕を相手取って斧を振るっていたノワールが大して心配もしていなさそうな調子で問いかける。傍らのジョーカーなどははじめから気にする素振りさえ見せるつもりはないようだ。
「もう片方の眼を潰さないとな」
「そうだね。うーん、動きを止めることはできる?」
「やろうと思えば」
「じゃあお願いするね」
 はにかむような笑みとやわらかな眼差しを湛えた瞳。しかしその順手は得物を手に阿藤の腕を斬りつけている。
 ジョーカーはちょっと腰が引けつつも頷いてみせた。
 どいつもこいつも、何故自分のところにはこうもギャップの激しい連中ばかりが集まるのか。
 己こそがその筆頭―――現実では一見冴えない容姿の男子高校生が世を騒がす怪盗団の頭領―――である事実を棚に上げつつ、少年は再び仮面を剥いで巨人を招来した。
「超重量級対戦、アツいっていうか、暑苦しいな〜」
 後方のナビがのんびりとした様子で漏らした通り、二つの巨体は音が鳴るほど激しく組み合った。
 腕の数の差からジョーカーが有利とも思えたが、シャドウの額から突き出た角が巨人の顔面に突き刺さると、彼は呻いてたたらを踏んでしまう。特別痛みや出血があるわけではなかったが目眩に似た感覚がある。
 慌てて巨人を仮面に引き戻すと、組み合っていた相手が唐突に消えたシャドウの身体が傾ぐ。
「……そこっ!」
 発砲音が轟いた。
 三発の弾丸は驚愕の表情を浮かべたシャドウの顔面に三つの穴を空けている―――
 阿藤が最後に見たのは、こちらに向かって指を突きつける黒いマスクの少女と、その背後に立つ豪奢なドレスの顔のない女だった。
 空間全体を揺るがすような絶叫を上げ、阿藤は顔面を両手で押さえ、今や五メートル程度の大きさにまで縮んだ身を震わせた。
『ああぁっ! うがあぁぁッ!! どうして私が! こんなガキどもにいィ!』
「言ったろ、お前はそのガキに負けるんだって」
 挑発を受け流すだけの余裕を失し、阿藤はうそぶきながら声のした方向へ腕を振り回した。
 それも激しい衝撃に弾き返される。
「っし! 入ったぁ! どーよ俺のパンチは!」
「アンタのってか、アンタのペルソナのだけどね。しかも別にパンチじゃねーし」
 うるせぇよ! と返して、スカルは後方のパンサーを睨みつけた。間に挟まれるような形になったジョーカーは苦笑するしかないのか、やれやれと頭を振って肩をすくめている。
 また庇われるような形になったことはいささか気に食わないが、仕方がない。
「ほらな。スカルは優しいだろ」
「あ? なに急に」
「別にぃ」
 唇を尖らせてそっぽを向いた彼の視線の先では、モナが渋い顔をして尾を振っている。
 別段声に出して否定するようなことでもないし、ジョーカーの言に同意もできるが―――
 猫の小さなプライドがそれを拒絶していた。モナにとってはいつまで経ってもスカルはバカな男子高校生であってほしいのだ。複雑な猫心であった。
 一方で、刀を手に暴れ狂うシャドウの隙を窺うフォックスもまた渋面を仮面の下に浮かべている。
 攻撃がジョーカーに向かったとき、彼もまた飛び出そうと動いてはいたのだ。だというのに、タッチの差で出遅れた。
 それは思考速度の差や躊躇があったか無かったかというより、単純にスカルが考えるより先に反射的に飛び出していたというだけのことだ。
 フォックスはそれを羨ましいとは思わない。そうなりたいとも、そうあるべきだとも。
 ただ彼が悔しさを感じているのは、愚直と言い表せられるほど真っ直ぐに飛び出していった彼の姿に一種の美しさを見出してしまったからだ。
 肉体美という意味ではなく、心根の有様として。なにより整ったフォームと風を切る腕の振りの美しさよ―――
 振り落とされた拳を跳んで避けつつ、フォックスは声を張り上げていた。
「スカル! お前は陸上をまたやる気はあるのか?」
「だからなに急に!」
「あるのかないのか、さっさと答えろ」
「はあっ!? なんでそんなことオメーに言わなきゃなんねーの!?」
 離れた二点間でやり交わされる怒鳴り合いにシャドウの動きが鈍る。距離感を見失ったのだろう。
「あら、気になる話をしてるわね」
 そしてまたさらに離れた場所から声が加わる。
「部は再出発に向けて動いているんでしょ? 成績を考えたら返り咲く努力はしたほうがいいんじゃない?」
「話題性にも事欠かないよね。一度失墜したエースが雪辱を晴らすまで……うん、推薦貰えそう」
「おねえさまがた! 俺の人生なんですけど!」
 ……もちろん、一部の者を除いて、このやり取りがシャドウの混乱を呼ぶためだと解ってやっている。
 それは後方、ナビのそばへ一時退避したファングも含まれている。
「なんとなく、キミらの立ち位置みたいなものが見えてきたよ」
 呆れ返った声を頭上―――ネクロノミコンの屋根の上からふりかけられて、ナビはニヤッと笑った。
「やっとか? おせーぞホセ」
「悪いね。自分のことで精一杯でさ」
 吹く風に癖のある黒髪を流して、ファングはどこかすっきりとした気持ちでいた。
 臥薪嘗胆を果たした彼女の胸にもはや怒りや恨みの念はほとんど残っていない。まだシャドウは暴れ狂ってはいるが、かえってそれが彼女の目に哀れに映ったのだ。
 それに、と感慨深く思う少女の視線の先で白刃が煌めき、シャドウの腕を切り飛ばした。
 絶叫に震える空気の中、刀を手にした少年はふり返って彼女を見やる。
『もういいのか?』
 仮面の下の目がそう問いかけているのを見て、ファングははっきりと首を縦に振った。もういいよ、と。後は任せる、と意志を籠めて。
 そして三年の経験則に従ってつぶやく。
「……怒り続けるのって、疲れる……」
 今はまだ痛苦として彼女を苦しめるものも、完全に消えはせずともいずれは薄れてしまうものだ。どれだけ拒もうとも、どれだけ繋ぎ止めようと努力したところで、怒りを保ち続けるには多大な活力を要する。
 もしも本当に生涯を掛けて誰かやなにかを恨み、怒り、憎しみ続けるのであれば―――
 きっとそれこそが本物の≪呪い≫というものだろう。
 逆袈裟に振り抜かれたフォックスの刃によって、シャドウは氷の上に倒れ伏した。

 見慣れた人間の姿に戻った阿藤の影に、少女は言った。
「いいザマだな、ええ? 這いつくばって、みじめな姿を晒して……」
 男はなにも言い返さず、ただ呆然と虚空を眺めて震えるばかりだ。その目にはもはやファングの姿も、彼女の背後に立ち並ぶ仲間たちの姿も映ってはいないのだろう。
 ファングはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「……このド素人どもに感謝するんだな。お前を殺さないのは、お前のためでも、私のためでもない。彼らが望まない、ただそれだけでお前は死なずに済むんだ」
 誰かが後ろから「とっくにそんな気もなかったくせに」と野次を飛ばしたが、少女は低く喉を鳴らしただけだった。
「くくっ……現実に戻ったらおぼえてろよ? 訴訟起こしまくってクソも垂れ流せねぇくらいにおまえから毟り取ってやるからなァ……!」
 堂の入った恫喝ぶりを披露して、ファングは笑顔で一同をふり返った。晴れ晴れとした様子のまま皆の中心を通り抜けて、もはや用事は何一つないと言わんばかりに大股で脱出地点へ突き進む―――
 倣って歩き始めながら、スカルは声を潜めてフォックスに問いかけた。
「なあ……お前マジであれにアレなの?」
 曖昧にぼかされた表現にわずかに顔をしかめつつも、少年はうーんと唸ってから答えてやった。
「あれはあれで。俺といるときとのギャップが……」
「聞かなきゃよかった」
 スカルは早足で友人の隣を通り過ぎた。

……
 崩壊し始めたパレスを出たとき、時刻は夜の八時を回っていた。
 帰宅するスーツ姿の大人で溢れたその場で子どもたちの存在はひどく奇異に映ったのか、幾人もが怪訝そうな顔をして通り過ぎていく。
 少年たちはいくらか早足にその場を退散し、近くの公園に場所を移した。昼はオフィス街の憩いの場だろうこの場所も、この時間では人気は絶えている。
 木製の東屋に腰を落ち着けた彼らの前には薄闇と、一枚の額縁がある。
「ある意味で予想通りではあるかな」
 つぶやいた少年の伊達眼鏡は街路灯の明かりを反射して輝いている。その下のややつり上がった瞳に映りこむ四十号はあろう大きさの額、その中に収められているのは真っ白な紙だけだ。
 結局、≪呪い≫なんて存在しないということか。
 結論を得て満足げに頷く少年に対し、額の置かれたテーブルに軽く尻を乗せた高巻は唇を尖らせて不満げな顔を見せている。
「えー? 私はちょっと期待してたんだけど……ほら、大きいやつのがお金になるんじゃないっけ?」
「金かよ」
「なによ。興味ないとは言わせないからね?」
 坂本は肩をすくめて両手をひらひらと振った。特別抗弁するつもりはないということだろう。
 いささか不謹慎ともとれる会話ではあるが、は愉快そうに笑っている。
「どうだろうな。おじいちゃんの絵がそのままあったとしても、売り方を工夫しなきゃ大した金にはならなかったろうし、ある意味じゃこのほうが良かったかもな」
「どういうことだ?」
 首を傾げたモルガナには答えず、は静かに額縁を観察していた喜多川に目線を投げた。
 受けて彼は答える。
「そうだな……見るに、これはアンティーク調ではなく本物のアンティーク品だろう。正確な年代までは解らないが、おそらく戦前より前……目立った傷や汚れも見当たらん。なによりこの見事な彫刻、これだけで額装として成り立っている」
「高く売れそうってことね」
 早々に長広舌を打ち切った新島にいくらか不満げな視線を送りつつ、喜多川は頷いてみせた。
「専門に扱う店にでも査定を頼めばそれなりにいくとは思う。箱もないから本当にそれなりだろうが……」
「やたっ! ね、、これ売っ払っていいよね?」
「いいよー」
 パンと手を合わせた高巻の輝く瞳に、は極めて気軽に了承する。相変わらず坂本が呆れた様子を見せてはいるが、彼もそれなりの資金が手に入るとなれば喜ばしいのだろう。その口元は緩んでいた。
「じゃ、祐介。頼む」
「承知した」
「ねこばばすんなよ、おイナリっ」
「……端数くらいは」
「手間賃は下三桁までな」
「やった」
 顔をほころばせて喜多川は丁寧に額を元の通り風呂敷に包み直した。
 辺りは秋の虫の音に包まれ、わずかに残った夏の名残か、生ぬるい風がときおり肌寒さの中に混じっている。
 は静かに息をつくと、皆を見渡して沈黙を破った。
「まさか生きて果たせるとは思ってなかった。……ありがとう」
 語る口元には穏やかな笑みがある。当初彼女の身柄を拘束したときには信じられないような変貌ぶりだ。
 高巻は苦笑して返した。
「お礼なんていいって。にはかなり無茶してもらったしさ」
「それは別に。はじめは独りでやるつもりだったんだし……」
 ふっ、との瞳に暗い影が落ちる。
 けれど口元の笑みは変わらぬまま、彼女は言葉を重ねていった。
「刺し違えてでも殺すつもりだったのに、そうもならなかった。それもきっとキミたちのおかげだ。独りでやってたら、きっと生きてない。万事うまくいってたとしても、きっと……」
 だから、とはテーブルを挟んだ正面。ベンチに腰かける奥村春に目を向けた。
「あなたはどうしますか」
「私……?」
 奥村はおっとりとした仕草で首を傾げる。瞳には穏やかな光と、唇にはやわらかな笑み。その名の通り、春の日差しのような愛らしさがそこには宿っている。彼女がそうしていると、粗末な木製の東屋もまるでどこか人里離れた保養地の一角のようだ。
 奥村は笑顔で答えた。
「あなたと同じ答えにたどり着くんじゃないかな? きっとね。だって今も……楽しくて、心地よくって、問われるまでお父様のこと忘れてたんだもの。ひどい娘だよね」
 クスッと笑って、奥村は立ち上がった。スカートについたわずかなシワや汚れを払い落とし、両手を揃えて背筋を伸ばす。
 見つめ合う二人の少女の間には不思議な共感があった。悲しいことはいずれ、どれだけ必死に縋っても薄れてしまうものなのだと二人は実感を伴って理解している。
 もまた背を伸ばした。同じように向き合っているというのに、こちらは卑俗的な雰囲気を湛えている。
「そうか……なら安心して話せるよ。私の『協力者』のこと」
 途端、場には緊張感が満ちる。
 いよいよ春の父、奥村邦和を手にかけた真犯人の名が明かされる―――
 ひりつくような緊迫に、誰もが口を引き結んだ。
 秀尽学園高校校長の『殺人』事件、数々の廃人化、精神暴走事件。それらは結局どこか他人事でしかなかった。
 けれど事は今や身近に迫り、奥村と双葉の父と母を死に追いやった者としても真犯人は突き止めねばならない。
 そしての語る『協力者』とは即ちその真犯人だ。だからこそもわざわざ奥村に尋ねたのだろう。
 彼女の唇がなにかを発しようと開かれるのを、誰もが目を見張って注目した。
「―――ッ!?」
 ところが、そこから飛び出たのは言葉ではなく、ひどく驚いた様子を教える音だけだった。黒々とした彼女の瞳は強い光を反射している。
 その光の正体と事態を把握しようとふり返った少年は、げっと呻いて身体を強張らせた。
 同じく皆がそちらへ顔を向けると、誰であっても緊張を抱かずにはいられないような存在が懐中電灯を手に子どもたちを睨みつけているではないか。
「君たち、こんな時間になにをしているのかな?」
 薄っすらとした笑みを浮かべ、妙に馴れ馴れしい調子で語りかけてきたのは三十代ほどと思わしき紺色の制服に身を包んだ警察官だ。
 ヤバい。
 つぶやいた坂本の背に、少年がしがみついた。その手が小刻みに震えているのは経験則のせいかは彼にも解らなかった。
 いずれにせよ、気温が下がってきたころであっても暑苦しい。
 坂本は怪盗団の渉外担当に視線を送った。
 少女は言われずともと言わんばかりに胸を張り、金の髪を揺らして前に進み出る。
「えっとぉ……実はさっきまでみんなでご飯食べてたんですゥ」
 ……とはいえその口調はどこか棒読みだ。少年の腕が坂本の腰に回された。
「それで今解散しようとしてたんですけどぉ、私だけ駅の方向が逆側でぇ、タクシー呼んだほうがいいかなーって話してたところでぇ」
 後ろから背に額をつけて回された腕がじりじりと力を込めていく。坂本は呻いて後ろに蹴りをやったが、彼は決して離れようとしなかった。
 しかし―――
「そ、そういうことなら、僕が送っていこうか」
 鼻の下を伸ばした警察官の声に少年は直ちに坂本から離れ、何事もなかったかのように姿勢を正した。
「えーっ? ホントですかぁ? でもいいのかなーっ? お仕事中ですよねぇ〜?」
 言いつつ、高巻は警察官に歩み寄り、白く細い指を制服の裾に這わせる―――
 もう片方の手を背中にやって、虫を追い払うような仕草をしてもみせた。
「大丈夫だよ。困っている市民を助けるのも警察官の仕事だからね」
「やーん、かっこいー! じゃあお願いしちゃおうかなぁ〜」
 男の腕を掴んで、高巻は公園の出口に向かって歩き出す。
 一応職務を忘れていないのか、警察官は残りの面々に、
「君たちも早く帰りなさい」と言い置いて去っていった。
 後には白けた空気だけが残される。
「……じゃあ、まあ、そうね。今日は解散で……」
 辛うじて新島が告げると、少年たちはどっと襲いかかった疲れを引きずりつつ帰路についた。
 からの『報酬』はまた明日ということになった。

……
 三々五々に散った仲間たちの背を見送りつつ、喜多川は「約束を覚えているか」とに問いかけた。
 答えは当然イエスであった。
 二人は言葉少なに並んで歩き、電車を乗り継いでの家へ向かったが、別れを惜しむかのようにその足取りは遅々としたものだった。
 途絶えがちなやり取りの中、お互いにあえて『報酬』については触れようとしなかったのは、明日以降があると分かっているからだ。
 話すことの内容は他愛のないことばかりだった。
 家に帰ったらなにをするのか、とりあえず熱いシャワーを浴びてさっぱりしたい、その後は腹を満たして、きっと朝まで夢も見ずに眠るだろう……
 他に高巻のあの大根ぶりはどうなのかとも真剣に議論が酌み交わされもした。
 とはいえ、喜多川は一度あれに引っ掛けられているから、あまり多く語れることはなかった。彼にはあの警察官の気持ちがよく解る。
 そういえば、この女の子にもそうやって引っ掛けられたのだと思い至って閉口する。
 そもそもこの子はどうして己を引っ掛けようとしたんだろう? あの時点ですでに己と仲間の正体を把握している様子であったし、かといって怪盗団の妨害を目的ともしていないようだった。
 だというのにわざわざ自らの身を晒してまでして何故この自分を―――?
「……喜多川くん?」
 唐突に押し黙った彼に首を傾げたはすっかり自然体だ。疲れてはいても、もう嘘や演技をしているような様子は微塵も見当たらない。
「……いや、なんでもない」
「疲れているのなら、もうここでいいけど? 家そこだし、別に送ってくれなくたって平気だし……」
「馬鹿を言うな。必要があろうがなかろうが、これは……これくらいはさせてくれたっていいだろう」
 は目を細めて喉を鳴らした。
「くくっ、キミって本当に紳士だな。あいや、そうでもないのか……」
「え?」
「……別に……」
 かと思えば、ぷいとそっぽを向いて怒ったように踵を鳴らす。
 その足はちょうど見慣れた邸宅の門扉にたどり着いていた。
「着いた」
「そうだな」
「じゃ」
「ああ」
 短い言葉を交わして、の手が門扉の取っ手にかかる。
 幾日か空けていたからか、玄関先には湿った松の葉と楓の葉が積み重なっている。その上に足を乗せれば、センサーライトが反応してポーチを明るく照らし出した。
 喜多川はただ黙っての背を見つめていたが、かける言葉を見つけられずに彼もまた背を向けてしまった。
 けれどそのまま歩き出すこともできず、背中越しに踏石を踏んだ音を聞いて思わずとふり返った。
 ゆるやかに波打った黒髪が夜を裂く街路灯と玄関ポーチのささやかなオレンジ色の光を浴びて鈍く輝いている。
 以前もこんなことがあったなと思いつつ、彼はふり返ってくれないかと心の片隅で願ってみた。
 こちらを向いて、なにかを言って欲しい。紳士らしく務め、送り届けた褒美の言葉を頂戴したいとまでは思わなかったが、まだもう少し、彼女のそばに居残る理由を与えて欲しいと彼は願う。
 果たして少女はふり返り、そこにまだ喜多川の姿があることを確かめると嬉しそうに目を細めた。
「なんだよ。帰れよ」
 だというのに口からは憎たらしい言葉が出る。
 けれどその本心はどうだろうか。喜多川は試すつもりで言い返した。
「お前が家に入るまではここにいるよ」
 そして、はまったくこの計略に気が付きもしないで身体を彼に向け、背を古い玄関扉に押し付けた。
「じゃあ、私がここにいたらキミもずっとここにいるってことか?」
「そうかもな」
「ふーん……」
 は落ち着きなく視線を足元にさまよわせている。
 後ろ手に組んだ手はもみ絞られ、引き戸の取っ手に指をかけてすらいない。
 彼女はまた慎重に問いを口にした。
「なら……あ、上がってく……?」
 お茶くらいなら出せる、と付け足して、少女はいかにも恥じらった様子で俯いた。
 喜多川にはその言葉の意味をよく吟味し、推し量る必要があった。
 上がってくかと言う以上、敷居をまたぐ許しを得たということだろう。お茶はそのついでだ。
 しかしさて、それはいつまでなのか。
 茶をごちそうになってそれでお別れなのか、門限までおしゃべりするくらいは許されるのか。あるいは、もっと遅くまで―――
 いやいや、考えすぎるのはよそう。
 少年は自嘲して己を戒めた。
「それは次の機会にしよう。どうせ近いうちにまた来る」
 彼の返答に顔を上げたの瞳がいかにも失望していたのを見て、喜多川はいくらか慌てて言を重ねる。
「まだあの絵は完成していない。そうだろう」
「あ……」
「だからまた、明日にでも。構わないよな?」
 ははにかんで彼に応えた。
「うん……」
 見惚れるには充分な満面の笑みだった。彼女の造形や服の下のつくりとは関わりなく、こころのこもった美しい笑顔だ。
 強がりも捻くれもしていない心からの親愛の情を感じ取って、喜多川は深く満たされた気持ちになる。これこそが此度の仕事の最大の報酬だと。
 満足げに頷いて、喜多川は一歩門扉から離れてみせた。
「じゃあな。帰るよ」
 またな、と手を上げた彼をは呼び止めた。
「きっ、喜多川くん!」
「ん……? どうした?」
「あの……その……」
「うん」
 促すと、は足を揃えて両手を腰元に重ね、姿勢を正してみせた。
「い、いろいろ……ほんとにいろいろ、あり……ありがとう……」
 その瞳が様々な感情を湛えて潤んでいることにやっと気がついて、喜多川は心臓を掴まれたような心地になった。やはり今ここに留まり、彼女の気が済むまでそばに居てやるべきかとも。
 迷いつつ、喜多川は上ずった声を発した。
「まだ結果は出ていないが……」
「うん。でも、ありがとう。ほんとに……知り合ったのがキミで良かった」
 すん、と鼻を鳴らしてこすった少女の目はもう喜多川には向けられていない。足元に落とされているというのにどこか遠く、何年も前のことを思い返しているかのようにぼんやりとしている。
?」
 呼びかけると彼女はすぐに現在に戻り、照れたような笑顔を浮かべた。
「それだけ。じゃあな!」
 そしてやっと玄関扉が開け放たれる。喜多川の鼻先にも届くほどの木の香りだ。彼女の家の匂い。
 喜多川は少し迷って、頷いて返した。
「ああ……またな」
 コツ、と少年の足元が鳴いた。夜の闇の中、これが遠くまで響くのはここが繁華街からも遠い住宅地だからだろう。家々は眠りに就こうと静まり返っている。
「……キミならきっと……」
 けれど扉を閉ざした彼女の言葉までは少年の耳に届かなかった。

 の家を離れて駅に向かう喜多川のポケットが唐突に震え始めたのはいくつかの角を曲がり、住宅街を抜けようというころのことだった。
 なんだと覗き込むと、SNSのグループチャットに新着有りと通知が瞬いている。
 発信主はさんざ公権力に怯えてみせたあの少年だった。
『祐介、まだくんと一緒か』
 スクロールしてみると、似たような文言が他の仲間たちからも寄せられている。
 喜多川は不思議に思いつつも駅近くの大通りにたどり着き、ガードレールに腰を預けて返信してやった。
『さっき別れたところだが』
 途端、チャットには雪崩のようにメッセージが流れ込む。
『いつ?』
『何分くらい前?』
『変な様子なかったか?』
『今どこ?』
『みんな落ち着いて』
 眉をひそめた喜多川の目に、頭目の発言が止まった。
『見ろ』
 たった二文字にはURLが添えられている。見るにどうやら某かのニュースサイトのようだ。
 特別疑問にも思わずタップすると、インターネットブラウザが立ち上がる。
 現れた速報という文字とその見出しに、喜多川は息を呑んだ。
 速報という以上大した文量ではなかったが、周りの騒がしさに集中するのに少しの努力を要した。
 短くまとめると、それは一文にまとめられる。
 『阿藤勝利氏が意識不明の重体で緊急搬送』
 現在も懸命の治療が行われているが回復の兆しはみられない。また氏の自宅には『怪盗団』からのものと思わしき予告状が発見されている―――
 タイミングよく、少年の真後ろをサイレンの音が通り過ぎていった。まさか今の車両に阿藤が乗せられてはいないだろうが、驚くにはどちらも十分だった。
『どういうことだ』
 グループチャットに戻ってそう入力するが、答えられる者は当然いない。
 ただ頭目だけが彼に命じた。
『今すぐ彼女のところに戻れ』
 誰が阿藤をやったにせよ、次に狙われるのは間違いなく―――
 ガードレールから離れて道の先にやった喜多川の目に赤いランプが映り込む。
 赤い車体は働く車の象徴だ。放水ロープとはしごが取り付けられたそれを子供心にかっこいいと憧れた記憶が過った。
 視線を上げると、晴れ渡っていた空に黒煙が棚引いている。その根本は妙に明るい。
 おかしい、と彼は思った。
 繁華街は背後にあって、今向いている方向は、つい今しがた通ってきたばかりの静かな住宅街ではないか、と。



 古い家々が並ぶ道に人が詰め寄っている。
 普段は閑静なはずの夜の住宅地に、いったいどこにこれだけのと思わせるほどの野次馬が集っていた。
 彼らの視線は一様に古い和風邸宅に向けられている。
 入母屋造りの屋根と漆喰の壁、広い庭に植えられた松と楓。いずれもが赤い炎の光に照らし出され、黒煙をふき上げては燃え盛っている―――
 その炎と野次馬を、離れた場所からつまらなさそうに見つめる少年の姿があった。
 手の中のスマートフォンを乱暴にポケットにねじ込み、鼻を鳴らして肩口まで伸ばされた髪を払い除ける。
「……チョロい仕事だ。本当に……」
 くだらない、と吐き捨てて、少年は遠くで鳴り響くサイレンを耳にその場を立ち去った。