19:Preparation is Key

「なにをしようとしているの?」
 場所をセーフルームに移し、改めてファングの意図をいささか困った様子で問いかけたノワールに、ファングはキョトンとした顔を見せて―――実際にはマズルマスクとゴーグルに隠されて表情はほとんど窺えないが―――すぐに気まずそうに頭をかいた。
 壁をくり抜けないかというファングの質問に対する疑問なのだと気が付いたのだろう。
「ああ、そうか、ごめん。えっと、電源から繋がるケーブルを見つけたいんだ」
「見つけてどうするというんだ?」
「どんだけ強固なセキュリティも、電源の供給を断てば落ちるだろ?」
 なるほど、とフォックスは頷いてみせた。
「その隙に侵入しようということか」
「そういうこと。ただし非常用電源は当然用意されてるだろうから、十秒程度しか時間は確保できない」
「十秒……」
 つぶやいて、ジョーカーは脳内で‛シュミレート'を開始する。
 扉の前に立ち、電源がカットされる。ここから十秒で内部に入り、オタカラを掴んで元の位置に戻る。
 それ自体はごく簡単に行えそうなものだ。
 問題はそこからどうやって出るのか、だ。オタカラのサイズ如何によってはダクトをもう一度潜ることは不可能になる。手のひらに収まる程度の物であれば同じ道を引き返せばいいが、さて。
 その課題を見通したかのようにファングは部屋中央に置かれたテーブルで頬杖をつきつつ口を差し挟んだ。
「セキュリティを統括する専用線も壁の中にあるだろうから、ハブを噛ませられればナビがなんとかできるとおもうよ」
「アナログぅ」
 と言いつつも、すっかりファングに懐いたらしいナビは彼女の隣で両手をサムズアップさせている。任せろということらしい。
 受けてジョーカーは‛シュミレート'を再開し、幾度か繰り返してから指を鳴らした。ファングの目が不快そうに細められる。
「うん、いけそうだな」
「あなたが行くの?」
「行きたいのか?」
「結構よ。そういうのは私向きじゃないわ」
 でも、と区切って、セーフルームの出入り口付近に立っていたクイーンが苦言めいた言葉を投げつける。
「入ってすぐに出られるかどうかは分からないわよ。さっきも言ったけど、罠の可能性は十分あるんだから」
 とはいえ、電源ケーブルの破壊や専用線への侵入はそう何度も行える試みではない。今直接罠の確認をすれば本番に使用することはできなくなるだろう。もちろん罠を確認した上で新たに作戦を練ることも可能だが、万が一罠そのものが存在しなければ、確実な侵入路を失うことになる。
 それはクイーンも理解しているのだろう。打開策を求めて頭を働かせようとしているのか、しきりにこめかみを指先でさすっている。
 その理知的な横顔を眺めて、ナビは呻く。
「うう〜ん……振動の反射やいつものサーチじゃなにも引っかからなかったぞ? モナの鼻が詰まってるんじゃないのか?」
 そもそも罠の可能性を示唆する論拠はモナの鼻だけなのだと彼女は語る。
 当然モナは不快感もあらわに尾で床を叩くのだが、言われてみれば彼は表の寒さの中で鼻が効かないと訴えていた。その不調がここにきてまだ尾を引いている可能性もまた十分あった。
「ぐぬぬ……ワガハイの鼻が信用できないってのか?」
「鼻水垂らしてただろが」
 隣にしゃがみ込んだスカルに鼻先を弾かれて、モナは小さな悲鳴とともに床にひっくり返った。彼はすぐに起き上がり、スカルに反撃する―――
 そんな一人と一匹をつまらなそうに眺めていたフォックスがおもむろに口を開く。
「オタカラがあの部屋にあることは間違いないのだろう?」
 この問いかけに、ナビは確かなことだと首を縦に振る。
「では、罠とは例えばどのようなものが考えられる」
 続けられたこの問に、少年たちは想像を巡らせた。
 出てきたのは釣り天井という大げさなものから、スネアや落とし穴といった古典的かつ効果的なもの、地雷やグレネード等の殺傷能力の高いものに、例の高出力レーザー兵器も例に上がった。
 受けてフォックスは頷き、更に問を投げかける。
「それらが起動する要因はなんだ?」
「ワイヤーやセンサーに引っかかったり、踏んだり? あのレーザーも最初はただのセンサーだったよな」
 天井を睨みつつファングが答えると、これにナビが首を左右に振る。
「でもそんな反応なかったよ。スイッチもワイヤーもセンサーもパッドも……」
「であれば、それ以外の罠というわけだ」
「でも、電源は落とすんでしょ? それなら電気で動くようなやつは心配いらないんじゃない?」
 パンサーの言に、彼女自身も加えて少年たちは再び唸る。
「……じゃあ」
 停滞しつつあったコンファレンスを先に押しやったのはファングだった。
「そのオタカラとかいうものを取りに行くのは私に任せてくれないか? 私なら瞬発力って意味で突発的な事態にもある程度は対処できる」
 意外でもない提案ではある。彼女がその手でやりたがるだろうことはある意味で当然の権利と言える。
 けれど続けられる言葉にジョーカーはわずかな驚きを示して仮面の下の目を見開いた。
「ジョーカー、キミになにかあったら全体に影響がある。作戦面でも精神面でも」
「どうだろうな」
 誤魔化すようなことを口にしてみせても、彼にはその自負があった。仲間たちの間にも彼女の言に同意するような空気がある。
 ファングは小さな笑い声を漏らして告げた。
「もちろん、スタンドプレーなんてしない。キミたちのやり方に倣うよ。チームで動くんだろ?」
 答える代わりにジョーカーは唇の端を釣り上げてみせた。

……
 専用回線の物理線にハブの取り付けを済ませると、ファングは天井付近のダクトに飛びついて蓋を外し、その中に身を滑り込ませた。
 内部は狭く埃っぽかったが、装備を含めても通り抜けることは十分可能だ。
 その肢体がすっかり穴の中に消えたのを確認してナビは傍らのスカルに目配せを送る。
 彼は頷いて動き始めた。
 数分の後、オタカラの安置された大部屋の手前、強化ガラスと一枚きりのドアのみで隔たれた空間にファングが音もなく降り立つ。
「……配置についた」
「了解。みっつ数えたら電源カットするぞ。猶予は十秒」
「解ってる。カウントはじめて」
 促すとナビはどこか間の抜けた調子で数を数え始める。
「いーち、にーい、さーん、ゴーッ!」
 その楽しげな声に背を押されるようにファングは分厚いスチール製の扉を蹴りつけた。
 同時に部屋全体の灯りが落とされ、暗闇が彼女を飲み込むが、ファングの視界は緑がかったものにすり変わる。その中では物の輪郭や壁の凹凸、床の模様も見て取れる。
 彼女の視覚を補助しているのはなんてことのない市販のナイトビジョンだ。元々現実での怪盗活動にも用いていた物をここにまで持ち込んだだけのこと。
 そして彼女の前には見上げるほど大きな白いボードが立っている。その背後には唸りを上げる大型の独立型電源が並び、そこから伸びたケーブルがボードと、それを囲む計測機器に繋がっている。
 つまり、今もってそれらはなにかのデータを集積し続けているというわけだ。
 そのなにかがなんであるかは、小部屋に降り立った時点で把握していた。その上で彼女が平静を保つことができたのは、一人ではないからだ。
「クソ野郎……」
 つぶやいて見上げた彼女の緑色の視界の中央には、一枚の絵画が飾られている。
 粗末な筵の上に横たわった女。血の気の失われた頬は青ざめているが、閉ざされたまぶたはまるで安らかに眠っているかのようだ。
 黒崎明翫の代表作、五枚の連作『無題』のうちの一枚目がそこにあった。
 そしてその絵にはなにを読み取ろうというのか、可視から赤外までのスペクトラムを走査するエネルギー観測装置がいくつも向けられている。
 ファングは無遠慮に装置の横を通り過ぎて祖父の描いた絵画―――阿藤勝利の眼を通したものに歩み寄った。
 近寄ってみれば、ファングにはそれが質の悪い偽物だとすぐに判る。
 何故なら祖父の描いた女はもっと緻密に描画されている。ほつれた髪の一本一本、肌に刻まれたシワや肌理、力なくだらりと放り出された手指の指紋、爪の間にこびりついた汚れ、乱れた衣服の繊細なシワや模様、ほつれや穴を縫い合わせたり塞いだ跡……
 女の上には美しさと穢れ、精神力と憐れさが同居し、彼女が年若い処女のようにも、年老いた娼婦のようにも見える。矛盾したいくつもの要素が彼女を眠っているのか死んでいるのかをますますあやふやにさせている。
 だというのに、今目の前にある絵は、ただ美しい女が横たわっているだけだ。
 例えるならそれは青年誌の巻頭にあるカラーピンナップかアイドルのポラロイド写真風のカードだ。
 それはそれで充分価値のあるものだが、少なくともファングは少しも心を動かされない。
 舌打ちとともに簡素な額に収められた絵画に手を伸ばす。
 後はこれを取り外し、今来た扉に戻るだけでいい。十秒と言われたが、ここまでだって三秒もかかってはいないだろう。
 勝利を確信し、三年間の記憶を噛み締めながらファングはさらに手を伸ばした。指先が額縁に触れ―――
「あっやば、待って! 罠だっ!!」
 ナビの声が耳に直接入り込んだとき、部屋には眩いほどの灯りが点されていた。
 同時に警報が鳴り響き、背後の扉が空気を吐き出すような音を立てて閉ざされる。
「くっ、やっぱりか! ナビ! 状況は!?」
 咄嗟に絵から離れ、扉のそばまで跳び退る。ナイトビジョンのスイッチをオフにしてやっと室内の様子がファングの目にも映った。
 照らし出された室内に大きな違いは見受けられない。ただ、壁に取り付けられた赤色の回転灯が瞬き、怪しく室内を染め上げている。
「ナビ? どうした。スカル、そこにいないのか―――?」
 後ろ手にドアの取っ手に手をかけるが、押しても引いてもうんともすんとも言わず、また応答を求める声に返るものもなかった。
 引き換えに鳴り響く警報が耳を痛め続ける。
 ファングは歯を噛みながら室内を見回し、どこかに突破口はないかと探った。小部屋を覗く窓は強化ガラス製で、周囲の壁が彼女一人では破壊困難なほどぶ厚いこともすでに振動走査で判明済みだ。
 それでも諦め悪くスチール製の鉛入りドアを押したり引いたりしてみるが、なに一つとして変わるものはなかった。
「クソっ、クソっ、クソぉっ! ナビ! どうなってる! みんな、なんで応えないんだよっ!」
 喚いて戸を叩きつける。それでも彼女に応えたのは警報と―――
 愉悦に満ちた男の声だけだった。
『女の子がそんな口をきいてはいけないよ、のお嬢さん』
「―――――ッ!」
 ふり返ったファングの目に、空中投影ディスプレイによって映し出された男の姿が飛び込んだ。
 上等なスーツに身を包んだ齢六十ほどの偉丈夫。白髪混じりの頭、鋭い眼光。口元には鷹揚な笑みが湛えられている。
 阿藤勝利、そのシャドウが空中に投影された小窓から覗き込むようにして彼女を見下ろしていた。
『やはり君だったね。来ると思っていたよ』
「なん……」
『ああ、そのドアは開かないよ。開いたとしてももう警備の者がそちらへ向かっている。諦めて君も素材の一分になるといい』
「素材……?」
 低く吐き出された声に、阿藤の影は悦に入った様子で応えた。
『そこの絵だよ。呪いなんて信じちゃいなかったが、どうやら本当に存在しているらしいんだ』
「ふざけるな! そんなもんあるわけがない! みんなお前が殺したんだろうがッ!」
『どうかな? 誰がそれを証明できる? できはしないよ。呪殺を裁く法は存在しないのだからね』
「だから―――」
 なおも言い募ろうとする少女を、阿藤は悠然とした語りでもって押し留めた。
『君は蠱毒というものを知っているかな。古代中国は殷周時代から行われていた呪法で、壷の中に大量の虫を閉じ込め共食いをさせて生き残ったものを祀り、富と繁栄を呼び寄せるのだとか』
 不快感に少女の顔が歪む。虫の類は彼女が苦手とするものの一つだったからだが、それ以上に阿藤の語る行いに対する忌避感が強く表れていた。
 しかし阿藤はそんな感情になどまったく興味はないと言わんばかりに朗々と語り続ける。
『しかしね、この神霊を働かせるためには生贄が必要なのだそうだよ。人の肉を定期的に差し出さねばその家はあっという間に没落し、主人は惨たらしい最期を迎える……この習性を利用し、呪い殺したい相手にこれを譲り渡せればどうなると思うかね』
「知ったことか! キモチワルい……!」
『気持ち悪いとは心外だね。君の家族の話だというのに』
 ピタリと少女の身体が金縛りにでもあったかのように静止する。
 阿藤はますます饒舌に、熱心ささえ伴って言い聞かせた。
『君のご両親は虫、出来上がった毒はそこの絵だ。あれこれと言いくるめてそれを譲り渡すと、どうしてかな、その人は死んでしまう。どうしてだろうね? そうだ、君のご両親に礼を言わなければね。おかげで私は大した労力もコストも支払わずして邪魔者を排除することができるようになったんだから』
「ふ、ふざけ……」
 凍りついていた手が拳を作って震えだす。限界まで見開かれた瞳には、本当に呪いなどというものが存在しているのであればその怒りと憎しみだけで投影された男の影を殺しかねないほどの激しさが宿されている。
 絶対に許さない。
 そうと口にはすれど、彼女にできることなどなに一つとしてありはしなかった。
 背後には開かない扉、四方は分厚い壁に阻まれている。天井は高く、おそらくこの部屋だけ吹き抜けになっているのだろう。であればその上は屋上だが―――
『君ももう一度味わってみるといい』
 壁際に置かれた鈍い銀色の箱が唸り声を上げた。低いモーター音は誰かの苦しみ悶えるうめき声にも似ている。
「ぐっ、ううぅっ!?」
 ファングは突如として身体をこわばらせ、食いしばった歯の間から悲鳴を上げた。
 その全身には冷水に浸されたかのような冷たさと、言い表し難い痛みが走り回っている。
 それは彼女にとって初めて感じる種類の痛みではなかった。すでに一度ならず二度三度と同じ苦痛を味わわされている。ほんの数日前、己が≪力≫に覚醒したとき、仲間たちに武器を捨てさせた時に―――
 なるほどあれは、この装置によって生み出されていたものだったのか。単純な痛みは、おそらくあの絵を中心に引き出されているのだろう。その仕組みはいまいち理解できないが、それはおそらく、この男が半ば本気で呪いの力とやらを信じ込んでいるからか……
 床に膝を付き、背を弓なりに反らして獣のような悲鳴を上げながら、彼女のまだどこか冷静な部分がそう納得する。
『どうかな? 素晴らしいだろう。この力をもっと広く、現実でも使えるようになれば、私はこの場所を抜け出せる』
 言葉とともに痛みが消え、ファングは床にくずおれた。
 ゼイゼイと荒い息をつき、びっしりと浮かんだ脂汗を滴らせながら、それでも投影ディスプレイを睨みつける目に恭順の意志は一欠片も見当たらない。
「そんなことのために―――私のお父さんとお母さんを―――グリムを―――おじいちゃんの絵に―――目を付けたのか―――」
『そうとも。おかげで本当に助かったよ。山出しの田舎者と謗るものはいなくなった』
 喘ぎながらの言葉に、阿藤は鷹揚に頷いた。
 その瞳には酷薄な輝きがある。部屋でくつろいでいる最中に小さな虫を見つけてしまったときのような、それを指先で潰そうとするような、そんななんの感情も湛えられていない眼だ。
 ファングは奥歯を噛み鳴らして拳を震わせた。
 その胸には口惜しさで溢れている。これは常のことだ。両親と飼い犬を喪い、祖父の名誉を汚されたと知った時から続いていた。
 しかし俯いたその口元には昂然とした笑みが浮かべられている。
 彼女は勝利を確信していた。
 何故なら彼女は一人ではないからだ。
「楽しい話をありがとう。もういいよ」
 男の影はそれを単なる強がりか諦観として受け止めたのだろう。糸のように細められた目には相変わらずなんの感情も覗えない。
『そうかね。それが末期の言葉となるが、いいんだね?』
 少女は鼻を鳴らして頷いた。
 ただしそれは、阿藤の言葉に対してではなかった。
『では死ね。君も呪いの一部となるがいい』
 再び怨念の籠もったうめき声のような低いモーター音が響き始める。
 ファングは顔を上げ、腕を引っ張られたかのように伸ばした姿勢でその場を退いた。
 同時に建物全体を揺るがすような轟音が鳴り響き、天井からパラパラと埃が舞い落ちる。
『なんだ!?』
 驚愕した阿藤は天井を睨みつけている。どうやらビジョンの本体がいる場所もひどく揺れるのだろう、手近ななにかに手を付けて、転ばないようにと足を踏ん張る姿勢を取った。
 その空中に投影されたディスプレイの真上に一際大きな音と衝撃が叩きつけられると、次の瞬間ぶ厚いはずの鉄筋コンクリートが叩き割られ、巨大な瓦礫が雨のように降り注いだ。ビジョンは驚愕の表情を最後に消える。
 同時に、ファングは床を激しく蹴って飛び出し、ボードに取り付けられた絵を額ごと剥ぎ取った。
「よし、盗ったぞ―――」
 低く小さなつぶやきに、誰かが口笛を鳴らした音が返った。
「ごくろーさまっ、今ロープ下ろすからちょい待ってて」
 パンサーの朗らかな声に、ファングはわずかに口元を緩め、天井にぽっかりと空いた穴を見上げた。ちらちらと雪が吹き込むその縁に、やっと見慣れた珍妙な格好の仲間たちの姿がある。
「あーもー! 終わってんじゃねぇか! ナビ、お前もっと体力つけろ体力!」
「うるせーっ! スカルこそわたしを担いで階段ダッシュ余裕っくらいになっとけよ!」
 また別口の騒がしさが直接耳に飛び込んでくる。
 ―――ナビとスカルは、ファングの入室を確認すると同時にその場を離れ、屋上へ向かっていた。そして予め脱出用の穴を空けるため控えていた面々と合流した、というわけだ。
 ほどなくロープが垂らされる。
 ファングの手がそれを掴むと、消えたはずのディスプレイが再び空中に浮かび上がった。
『してやられたというわけかな』
「そうかもな。アンタがべらべら喋ってくれてたおかげで時間はたっぷりあった」
『なるほど―――』
 深く頷いた男はしかし、一片の後悔も忸怩も感じさせない。変わらぬ悠然とした態度でファングと彼女が抱える絵を睨みつけている。
『だが、それはこちらも同じこと』
 室内は相変わらず赤色回転灯が瞬いている。降り落ちる雪片は赤く染め上げられ、まるで花びらか血しぶきとでもいった風情だ。
 そしてその降り積もりつつある雪をなにかが踏みしめた。
 気がつけば閉ざされていたはずの扉が開いている。
 ファングの目にはなにも映らない。ただ、ちらつく雪が横風もない空間をゆっくりと落ちる様子だけを捉えている。
 その落下する雪がまなにかに貼り付いたかのように空中で静止する。
 例の可視外の存在が迫っているのだと理解したとき、彼女の首を狙った鋭い突きが放たれていた。
 阿藤の口角がいびつに釣り上がった。後手に回ったとて、それは即ち敗北ではないのだと男の様子が教えている。
 とはいえ、後の先というものは『彼』の得手とするところでもあった。
 目に見えないはずの一撃を、唐突に空中に現れた白刃が断ち切った。
 切り離された腕は勢いを失わず、しかし硬度は失してファングの顔面に叩きつけられた。
「いてっ」
 呻いた彼女の声に、彼はタールに似た粘液を撒き散らして悶絶する怪物を切り捨てながら応える。
「すまん。タイミングを見誤ったようだ」
「……別にいいけど、それ一体だけじゃないぞ」
 右にロープを、左に絵画を抱えているからか、ファングは行儀悪く足先で床に倒れた粘液を指し示している。
 すると見えない手がその膝を叩いた。
「足を下ろせ、みっともない」
「やめろ! 私にもキミがどこにいるのかわかんないんだからな!?」
「ああ、そういえば……もういいか?」
「いいんじゃない?」
「ようやくか、助かった。息苦しくてな」
 小さく息をつくような音を漏らして、後頭部からゆっくりと少年の頭だけが現れる。
 赤い光と相まって宙に浮かぶ生首のようなその光景に、阿藤は引きつった声を上げた。
『この、盗人ども―――!』
「呼ばれているぞ」
「キミのことだろ」
 言って、ファングは腰元に下げていた彼の仮面を返してやった。
「ふっ、それだとキミほんとに妖怪だな。妖怪首だけ狐」
「なんだそれは、見たいじゃないか。鏡はないのか?」
 とぼけたやり取りに怒りを煽られたのか、阿藤は手元のなにか―――おそらく机を―――激しく叩いて怒声を上げる。
『早くそいつらを片付けろ! 屋上の連中もだ!』
 急き立てられて少年たちを囲んでいたものが一斉に動き出した。
 二人の目にそれ自体は映らないが、蹴立てられた雪がその存在を教えている。
 構いもせずに少年は首の後ろを拭うような仕草をしてみせた。すると鱗が剥がれるようにして艶のない真っ黒なスーツに覆われた肢体があらわになる。またその手には鞘に収まった刀が握られているが、それもスーツと同じ素材に包まれ、腕と細いコードによって繋がっているようだった。
 ……二日前、ファングを猟兵とすることに決定し、少年たちは一計を案じた。
 当然、単純な罠であれば、彼女の瞬発力と機動力であれば回避は容易だろう。しかしそうでなかった場合はどうするか。
 オタカラの安置された部屋に出入り口が一つきりであれば他に出口を作り出せばいいという至極単純な結論に至り、増援が現れることを警戒して上から、ということになった。吹き抜けになった部屋の天井は屋上の床に繋がっているから、壁のように中身を配慮する必要がないことも採用の要因だった。
 次に罠は無かったが待ち伏せをされていた場合を想定して、単騎ではなくツーマンセルを組ませればいいということに相成った。
 このとき阿藤が必ずなにかしらを仕組んでいることが推測される以上、こちらも相手の裏をかく必要があるとして、さらに一計が案じられた。
 その裏がこの少年が身にまとうスーツである。
 元はシャドウの多くが着用していた熱光学迷彩搭載のボディスーツだが、どうにか奇襲を仕掛けたシャドウの一体を気絶させ、スーツを破壊することなく一着だけ入手に成功したのだ。
 大変な苦労を要した上、内側は例の粘液でベトベトになっていた。一応洗濯は済ませたが女性陣がこれを着用することを激しく、あるいはやんわりと拒絶した。
 その結果、サイズの問題も合わさって現在の状況が完成する。
 利き足を前にわずかに身を屈めたフォックスは、腕一本の距離に落ちた雪が不可視の足に踏まれたのを目視してすばやく刃を鞘から抜き放った。
 瞬電の一閃が疾走り、その軌道を追うように何も無いはずの空間に黒く粘ついた線が引かれる。バチッとなにかが弾かれるような音がして黒い線を中心に辛うじて人型を保ったシャドウが三体現れたが、声とも思えぬ音を発しながら仰向けに倒れ、シャドウらはその殻ごと泥のように溶け落ちて床に消えた。
「終わりか?」
「まだいるぞ! ブッ飛ば―――」
 つぶやきを聞き取ったわけではないだろうが、天井の穴からナビが身を乗り出して叫んだ。ただしいささか乗り出し過ぎていたからか、彼女は言葉の途中で慌てた様子のジョーカーとスカルによって引き戻された。
 カエルが潰れたような悲鳴が三つにクイーンのため息が重なる。
 それらを耳にしながらフォックスは仮面の下の目を細め、虚空を睨みつけた。当然そこにシャドウの姿を捉えることは叶わないが、そもシャドウがどの方向から向かってくるのかということさえ判れば充分だった。
 天色のグローブに包まれた手が仮面を引き剥がすと、背後に彼の半身たる男が現れる。
 青と赤の隈取で精悍な面立ちを飾った男は手にした巨大な煙管をひと振り、なにも無いはずの空間、今度は部屋中に渡ってを斬り裂いた。
 先にフォックス本人がやったときよりも広範囲の斬撃だ。確かな手応えを教えるようにバチバチと音が鳴り、姿を現した無数の粘液状生物がくずおれる。
「瀬踏みにもならんな」
 吐き捨ててフォックスはその場を退いた。ファングは既に上と合流を果たしている。
 後詰めを彼に放り投げたとも背を預けたとも取れる態度だが、どちらにしても信が置かれているのは間違いのないことだろう。彼女と一緒になって早く上がってこいと促す仲間たちにしても。
 口元を緩ませて、フォックスはロープに手を伸ばした。
 その背に重く低い恨みの籠った声がかかる。
『逃がしはしない―――』
 未だ浮かび続けるディスプレイ越しの男は、この上ない苛立ちと憎悪に燃える眼差しを彼に向けていた。
 さりとて少年は怖気づく素振りすらみせずにその身を宙に浮かす。上で彼の仲間たちがわあわあと何事かを言い合いつつロープを引き上げているところだった。
「あ、ファングより軽いわ」
「装備のせいだから。装備の」
「何キロ?」
「フツー女子の体重きく? サイテー」
「落とすか? やるかっ?」
「遊んでんじゃねぇよオマエら!」
 緊張感のかけらもない―――
 フォックスは苦み走った表情を浮かべたが、それも一瞬のこと。すぐに彼の唯一晒された口元には涼やかな笑みが湛えられる。
「その気があるのならば追ってこい。俺もいい加減腹に据えかねているからな」
 言うなり返答を待たず彼の身体は上方へ強く引っ張られる。
 見下ろす視線に耐えかねると言わんばかりに阿藤の影は姿を消した。

 屋上に手と手を打ち合わせる軽快な、しかしやたらと重い音が響いた。
 ジョーカーが掲げた手に、ファングが拳を打ち込んだ音だ。
「いっ……てぇ~……!」
 手を押さえて屈んだ彼を、ファングが絶対零度の瞳で見下ろしている。
「誰が七〇キロくらいありそうだって?」
 冷ややかな眼差しは彼女のみならず、女性陣によってそこかしこから送られていた。
 どうやら自分が上がるまでにそんなやり取りがあったらしいと見て、フォックスはふむとあごをさすった。デリカシーが無いとしょっちゅう誹られる彼にしても、女性の体重を訪ねたり勝手な類推を行うことがタブーであることくらいは理解していた。
 数値はただの数値であって、見た目や心根の美しさと関係ないものだ。なにより彼は、彼女の全身を包むスーツの下になにが隠されているのか、概ねほとんど承知している。
 あえてその話題に首を突っ込む必要はなかった。
 それよりもと見回した屋上は広く、室外機や採光窓、パイプに避雷針が並ぶ一角の他に、ヘリポートまでもが用意されている。
 怪盗団が大穴を空けたのはヘリポートではなく、室外機が並ぶ一角のほうだ。辺りにはひしゃげたファンやケージの残骸が散らばっていた。コンクリート片が散らばっているのは、入り口とそこから下に続く階段ごとスカルが破壊したせいだろう。
 またフォックスの目は仲間たちに向かう。そのうち、一際小柄な猫型生命体の背に見慣れない、しかしどこかで見た覚えのある風呂敷が背負われている。
 なるほど、絵はまたモナの背に収まったらしいとフォックス安堵した。
「さ、あなたたち、はしゃぐのはそこまでよ。脱出しましょう」
 背後からかかる声に振り返ると、クイーンがリュックサックのようなものを手にぶら下げて立っている。
「モナちゃんはどうしよう。絵を背負っていたら降りられないよね」
 隣ではすでにリュックサックのようなものを背負ったノワールが。彼女の足元には同じものが転がっている。
「ワガハイはコイツの肩にでもくっついてくよ」
 と言って、モナはぴょんと床を蹴ってスカルの肩に乗り上げた。
「えー、俺ぇ? おいジョーカー、飼い主お前だろ?」
「ダぁレが飼い主だダレがっ! 飼われた覚えはいっこもねーよ!!」
「いって! ツメたてんなぁ!」
 喚きながらもモナを落とすようなことはせず、スカルもまたリュックサックを背負う。
 想像していたよりもずしりとした重みが彼の肩にかかった。モナと同じか、それ以上だ。
 この中には速度制御機能付きの降下用ウィンチが封入され、リュックサックもハーネスのような形状になっている。耐荷重はおよそ百五〇キロの―――このためにジョーカーはファングの体重を確かめた―――火災等緊急時の非常脱出用デバイスだ。
 つまり彼らは、内部からの出入りを潰した上で飛び降りて地上まで戻ろうというのだ。轟音が階段があった方向から響いているから、すでに他に退路はない。
 怪盗たちはそれぞれ装備を済ませてフックを屋上の柵に取り付け、ただ一人ナビだけが浮遊できるという理由から己の半身に乗り込み、こわごわと下を覗き込んだ。
「……想像してたより高いんですけど」
 パンサーが呻く横で、ジョーカーが誰よりも早く空中に身を踊りだす。単に高所が好きなのか、それとも度胸を示そうというのか、はたまた怖気づくパンサーを勇気づけようというのか……いずれにせよ彼は飛び出した勢いより緩やかに壁を伝ってスルスルと下へ降りていく。
 そうなれば、いつもの如く彼に続くしかないのが怪盗団だ。
 こわごわと、あるいは楽しげに、もしくは無感情を装ってそれぞれ床から壁に足をつけた。
 しばらくは無言で下り、
「ねえ、今何階?」
 可能な限り下を見ないように努めながらパンサーが訪ねたのは全員が十階の窓を通過したころだった。
 最も彼女の近くに位置していたスカルが答えてやるが、ちょうど強く冷たい横風が吹いてパンサーの耳には届かなかった。
「わかんね。あと半分くらいじゃね?」
「え? なにー?」
「あーもう、さっさと降りちまおうぜ……」
 感覚としては坂道を後ろ歩きで下るのに近い。少し速度を上げようと踵に力を込めたスカルの上から、ファングがそれはやめておけと制止を呼びかけた。
「設計上耐荷重以上の負荷にもある程度は耐えられるはずだけど、保証はできない。取説通りの動きをしたほうがいいよ」
「だけどよ、こうタラタラしてたら上が来るんじゃないか?」
 疑問符を返したのはスカルの肩に張り付くモナだ。ファングは平然と下を見下ろしつつ答えた。
「それはキミがくっついてる人に訊いて。階段を通行不可にしたのはスカルだろ?」
「あー……一応丁寧にすり潰しはしたけどよ」
「なら平気だろうさ」
 快活に笑って、ファングは手と足を器用に動かしていく。滑るような動作はまるで蜘蛛のようだ。
 感心するスカルの耳に、腹の底に響くような重低音が届いたのはそれから二階層分も降ったころになってからだった。
 仲間たちもそれを感じ取ったのか、皆一様に怪訝な顔をして上を見上げている。
 正確な位置は不明だが、音は明らかに上階から発せられていた。
「今のは……?」
 困惑に満ちた声がノワールの喉から溢れるが、誰もこれに答えられはしなかった。
 重低音はやがて振動に変化し、音もまた高く歪んでいく―――
「……多少無茶はしてでも急いだほうが良さそうね」
 行くわよとクイーンの号令が投げかけられる。
 それも次いだ衝撃にかき消された。
 まず轟音が鳴り響く。音は振動としてビルを揺らし、少年たちの身体を支えるワイヤーと、その身体そのものを揺さぶった。
 続いて甲高い笛の音に似た高音とともに黒く粘ついた雨のようなものが彼らのそばを擦過していった。
 それは雨ではなく、さりとて雪でもなく、無数の眼球を伴って氷の地面に叩きつけられて霧散する。
 最後に、地響きとともに影が落ちた。
 見上げたビルの屋上に、巨大な腕が伸び上がっている。どうやらあれが鈍い陽光を遮っているらしいとは理解できても、なんであるかは誰にも理解できなかった。
 けれど間違いなく危険なものであるとは誰もが理解できた。
「全速力!」
 吠えてジョーカーは真っ先に壁を蹴り、下へ向かって垂直に走り始めた。背に負ったリュックサックから背筋の凍るような金属同士が激しく擦れ合う音が響くが、構ってはいられなかった。最悪速度調整機能が壊れたとてワイヤーそのものが切れるわけではないから、骨を折る程度で済まされるはずだと信じて。
 倣って仲間たちも同じ姿勢を取って走り出す。
 その間にも腕は伸び、右だけだったところに左腕も合流してビルの上層階を破壊しつつある。
 コンクリート片が怪盗たちの頭上に容赦なく降り注ぐが、これは各々である程度は対処が可能だった。
 攻撃も防御もできないナビを除いては―――
「ひっ―――!」
 ばらばらの間隔を保って降下していた怪盗たちのちょうど中央付近の高さをゆっくりと降下していたUFOの直上に影が落ちる。ネクロノミコンよりよっぽど大きな破片が恐ろしいスピードで迫っていた。
「ナビ!」
 ブーツの踵で壁をこすり、急ブレーキをかけたジョーカーが悲痛な声を上げる。誰も彼がそんな声を発するのを耳にしたことはなかった。そこには仲間という関係を超えた、家族のような絆が垣間見える。
 さりとてこのときその絆というものは、彼の助けとなってはくれなかった。伸ばした腕も剥ぎ取った仮面も、銃もナイフもなんの役には立たなかった。
 もちろんここがパレスの中である以上、死さえも乗り越えることができる。超常の力を用いれば黄泉がえりさえ容易なことだ。
 しかしそれと積極的に苦痛を与えたいかは全く別の問題だ。
 なすすべなく少女が半身ごと瓦礫に潰されるのを見守ることしかできなかった。
 鮮血が散らばり、ジョーカーの仮面の上に滴り落ちる。
 けれど身体を震わせた彼の目に映ったのはナビの無惨な姿ではなく、横から飛び込んでナビの位置をずらしたファングの、女の子にしてはややたくましい脚だった。
 ファングがアーマーのアシスト機能を起動させ、壁を走り抜けてナビを救い出したのだ。
 とはいえ咄嗟のことだったからか完璧とはいかす、コンクリ片は彼女の脚をひどく傷つけていた。
「……大丈夫?」
「うっ、あっ、だい、ダイジョーブっ!」
 どもりながらも応えた少女の姿に安堵の息をついて、ファングは彼女の半身、その外装をコンコンと軽く叩いた。
「早く降りよう。なんなんだありゃ……」
 血の滴るふくらはぎを押さえつつ、ファングは上を仰いで眉をひそめる。その言葉には誰もが同意した。二本の腕の間には今やその巨大さに相応しい大きさの頭が突き出している。
 なんなんだ、などと言いつつ、それが誰であるかは検討がついている。
 怒れる阿藤勝利がその本性を顕にしたということだろう。
 その証拠に、黒光りする腕には鋭い棘が生え、額には二本のヤギに似た角が突き出している。
 また巨大な男の影は轟く怒声でもって怪盗たちの居場所を訪ねてもいる。
『どこに―――行った―――小童ども―――』
 重々しく響く声はパレスの主に相応しいとも言える。臓腑ごと揺さぶられて、一同はうんざりした顔をしてみせた。
「キレ過ぎだろ……なんであんな怒ってんの?」
「知るかっての。ああもう、さっさとズラかろうよ」
 スカルとパンサーの間で、フォックスがそういえばと手を叩いた。
「追ってこいとは言ったがまさか巨大化とは」
「アンタのせいか!」
「このバカ! ちったぁ悪びれろ!」
「サプラ〜イズ」
 大した感情も込めずに言って二人の間を降下していったフォックスを、怒り心頭とスカルとパンサーは追った。
 見送るノワールの目には微笑ましげな色が浮かんでいる。しかしそれもそばのファングに顔が向けられると、怪我の具合を確認したのか心配そうに眉がひそめられてしまう。
「降りたらすぐ塞ぐいでもらおうね。急ぎましょう」
「うん、わかった」
 素直に首を縦に振ったファングに微笑んで、ノワールもまた壁を蹴り、速度をつけて降下する。
 振動も喚声も止まないが、しかし確実に地面は近づいていた。
 一同の足は五階を通過し、氷の中に閉じ込められた被害者たちの姿も確認できる距離になりつつある。
『どこだ―――絶対に―――逃さん―――!』
 一際強い怒りの籠もった声に背筋が冷えるのか、己が身を抱きしめながらも懸命に足を動かしていたノワールは唐突な浮遊感に短い悲鳴を上げた。
 彼女の背に繋がったワイヤーが阿藤の巨大な腕、その指先に絡んでいた。
 小さな身体が振り回され、空中に大きく弧を描く。背から伸びるワイヤーからはるか天上に繋がるフックの双方が嫌な音を立てるのが耳に届いたような気がした。
 再び全員の顔が青ざめる。
 高さもあるが、あの勢いで振り回されて地に叩きつけられたとき、どれほどの苦痛が待ち受けているのか。
 今回に至ってはファングも負傷と距離、速度の関係で飛び出すことができずにいる。ならばフィジカルに優れたスカルが行くべきかとなると、彼は彼でモナを落とすまいと抱えていて動けない。
 ただナビだけが冷静だった。先の失態を繰り返すまいと気を張っていたからからかもしれない。
「ノワール! ワイヤー切って!」
 ギョッとする一同を尻目に、ナビは目の前の入力装置を猛然と叩き出した。
 ノワールは言葉の意味とその意図を掴みかねていた様子だが、理解に努めるよりは彼女を信じたほうが早いと判断したのだろう。腰元に下げていた斧を掴むとひと振りでこれを断ち切った。
「よぉし、やるぞぉ」
 ほくそ笑んだナビの手が不訶思議な法則に支配されたこの世界の一部を限定的に書き換える―――
 硬い氷の上に叩きつけられるはずのノワールの身体は、柔らかな毛布やクッションに包まれたように優しく、一度やわらかく跳ねてからゆっくりと氷の上に横たえられた。
「しっ、心臓止まるかと思った……」
「今の全員分やれないの?」
「むり! つかれた! わたし先に降りてる!」
 起き上がってこちらに手を振るノワールの無事な姿に胸をなでおろし、ナビはさっさと地上へ降下する。
「……私ももう行く。キミらも急げよ」
 言うなり、ファングもまたハーネスを取り去って空中に身を踊らせた。
 見ていた者の心臓が縮み上がるが、それも一瞬のことだった。忘れていたが、そういえば彼女は高いところが平気なタイプだ。
 身軽に壁に貼り付いては小さな突起や凹みに手や足をかけて滑り降りる速度は早く、あっという間に彼女は氷の上に足をつけていた。
 その姿を眺めてジョーカーがぽつりと漏らす。
「あれいいな。俺も欲しい」
「頼めば作ってくれるんじゃねーか?」
「そう思うか?」
「無理じゃね?」
「誰か代わりに頼んでもらえば? フォックスとかに」
「やってもいいが動機が気に食わん。なぜ俺がジョーカーの物欲のために頭を下げねばならんのか」
「帰りにポテト奢ってやる」
「どうせSサイズだろう。もう騙されんぞ」
 ジョーカーの舌打ちに、クイーンのため息が重なった。
 もちろん今も巨大な阿藤のシャドウは猛り狂ってビルを揺らし、少年たちの頭上に瓦礫を降り注いでいる。
 地上ではノワールとファングが次々にそれを砕き、あるいは回避して残りの面々を待ちわびている様子だ。
 少年たちは逸る気持ちを堪えてビル壁を走り降りた。