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18:Show Must Go On
踏み込んだ警備室にシャドウの姿は無かった。
それも当然のこと、道を阻むものは全く別の姿をもって現れていた。
見た目にはただの監視カメラであるそれは、大手通販サイトででも買えそうなよくある室内汎用と大差はないデザインをしていた。おそらくそれが最も合理的な形であるということなのだろう。
問題は、そこから射出されるレーザーポインタだ。
単なる動体識別用のセンサーかと思いきや、クイーンの首から垂れてなびくスカーフの裾がわずかに触れた途端知的視覚による追跡を開始、少年たちがそこにいる資格を有しないと判ずるや高出力レーザーに変じて今度はパンサーの尾の先を断ち切った。
すると長く続く入り組んだ通路のあちこちに取り付けられたカメラが一斉に彼らを捉え、尾やスカーフの先どころか全身を切り刻まんと襲いかかった。バターでも切るかのようにやすやすと赤い尾が断たれたことからして肉の身に当たればタダでは済まされないだろう。
そしてジョーカーが下した判断は撤退ではなく突破だった。
不平不満が上がらなかったわけではないが、しかし彼が先頭をいって走り出せばついていくしかない。
辛うじてバラバラにされずに済んだ彼らは、息をせき切らせつつもこうして警備室の中に押し入ったというわけだ。
「あれなに!? あんなのもつくってんの!?」
「いや……動体捕捉のセンサーとカメラは他所のじゃないかな……」
室内に飛び込み、ここにまでは攻撃の手が及ばないことを確かめるなり床にへたりこんだパンサーは、そばで壁によりかかりながら脇腹を押さえるファングの脚に絡みついて喚いている。尾だけでなく自慢の美しいブロンドまで幾筋か焼き切られているから、彼女の怒りと嘆きはなかなか納まらなかった。
押すパンサーと後退るファングから離れて、長方形をした部屋の最奥に設置されているマルチモニタに少年たちは歩み寄る。
接続された端末にはシステムのパラメータを示す記号と数字が踊っていたが、そちらはひとまず置こうと光り輝くモニターを見上げる。
青みがかった画面はこれまで通った通路や部屋、階段とエレベーターらしき筒状の小部屋を映し出している。
動くものは見えないが、しかし画面上にはシリアルナンバーのような数字と点がゆっくりと移動していた。
「ああ……こっちからは一応シャドウの動きが把握できているんだな」
「そのようだな。見ろ―――」
モニタの一つをフォックスが指し示す。
そこにはつい今しがた疾走してきた通路が映し出されている。ただ彼が示しているのはその映像そのものではなく、そこを移動する無数の数字と点だ。
「あれだけ騒ぎゃそうなるよなぁ」
やれやれと言わんばかりに尾と首を振り、モナは曲刀を抜き放った。
警備室の出入り口は一つきりだ。身を滑り込ませることのできそうなダクトや隙間も見当たらない。
であれば迎え打とう。小さな背中はそう訴えていた。
反論の声は上がらない。ジョーカーもまたナイフを抜き放って手の中で弄んでいるから、迎撃を承認したのだろう。
しかし―――
小さな小さなモナの身体の前に、見上げるほど大きな赤い影が立ちはだかった。
彼女にはモナと同じ細く長い、赤色の尾が生えていて、その先端は焼き切られてしまっている。
「うー、食べてすぐ走ったからおなか痛い……」
そばではファングが相変わらず脇腹を押さえている。
パンサーは背後に半身を従えて吠えた。
「ざっけんじゃねぇってのよこんにゃろー!」
同時にぶ厚い強化ガラスの自動ドアが開け放たれる。膨れ上がった熱気に少年たちは慌てて部屋の隅へ退避した。
一拍の間も置かずドア向こうの空間を炎が舐めると、迷彩の殻を焼かれた粘液状生物が次々に姿を現して床にこぼれ落ちた。
パンサーの怒りはそれで収まることはなく、のたうち暴れる黒い液体たちを囲むように炎の檻を作り上げ、またたく間にひとかたまりにして蒸発させてしまった。
あとにはすすになるまで焼き尽くされた眼球と、カラカラになった黒いカスだけが残されて床にへばりついている。それもすぐに床に溶けて消えてしまった。
それでやっと溜飲を下したのだろう。パンサーはつんと顎を上げて腰に手を当てると、やっといつもの華やかな笑顔を浮かべた。
「ハイおわりっ! ナビ、ちゃちゃーっと済ませちゃってよ」
「アイマム!」
ビッと音が鳴りそうな勢いで敬礼して直立不動を取ったナビは、すぐにモニター下部に取り付けられた端末に向き直った。
「とりあえず……全部オフにしとくな。書き換えられないようにするから、ちょい待ってて。休憩しててくれていいぞ」
気の抜けた返事が返されるのも気にせず、ナビはシステムへの侵入と改変を開始した。
こうなると他の面々にできることはあまりない。せいぜい再びの襲撃に備えてモニターの監視と装備の確認をするくらいだ。
そんな中、焦げたドアを閉ざし、未だ横腹をさするファングにスカルが素朴な疑問を投げつける。
「ファングはさぁ、こういうのできねぇの?」
こういうの、でナビを示した彼に、ファングは素直に首を横に振った。
「無理。彼女ほど高度なことはできない」
「んでも監視カメラの乗っ取りとかしてたんじゃねえの?」
ほら、阿藤のクソでっけぇ家で―――
言いつつ指で円を描いて、スカルはまた首を傾げた。
「あれは別に。ハブをかませて私の元にも映像が来るように細工してたってだけ。それくらいなら誰にだってできるよ」
「はー、そんなもん?」
わかったような、わからないような、微妙な反応を示した彼に苦笑しつつ、ファングはそんなもんだと頷いてみせた。
この質疑応答に部屋の片隅に備えられていたささやかな休憩スペースを陣取ったパンサーが鼻先を突き入れる。
「ねえねえ、私も気になってたんだけど、あのカメラ……ここのやつね。さっきの。なんか出してきたじゃん。レーザービームみたいなの。ここってあんなのも作ってんの?」
ファングは直ちに両手を振った。
「まさか。あんな小型のレーザー装置があったらもっと現実で話題になってるよ。どうせあれも認知とかいうものの産物でしかないって」
答えた声の後半はどことなく残念そうな色を帯びている。パンサーは呆れつつもまた新たに生じた疑問をぶつける。
「んじゃ、この会社ってそもそもなにつくってんの?」
初歩的なこれに、今度はファングが苦笑する番だった。
ただしこれにはジョーカーやスカル、モナにフォックスらも興味があるようで、話に参加する姿勢を見せて向き直った。クイーンやノワールが加わらずに監視を続けているのは彼女たちはすでに知っているか、予め調べてあったことだからだろう。
ファングは記憶を探りながら指折り数える。
「キミらも見た光学迷彩みたいなのもあるけど……メインは自動車とか、船とか、あと航空機」
「おお〜……なに? 戦闘機とかも造ってたりすんの?」
「うん」
「マジかよヤベーな!」
「そんないいものじゃないよ。海外には出遅れてる。さっきのレーザー兵器の話もそうだし……なにより国内外からの圧力がすごくて大変だって父さんは言ってた」
「はー、そんなもん?」
「うん。特に今の首相は海外製品寄りのヒトだから厳しいって。だからほら、例の光学迷彩も現実じゃポシャってるんだよ」
本当ならあれは構想中のステルス機に搭載させる予定だった―――
語り終えて、呼吸や疲労が落ち着いたからか、さんざ訴えていた横っ腹の痛みが治まったとファングは息をつく。
「……阿藤勝利もどちらかといえばそういう論調よね」
ぽつりと漏らしたのは相変わらずモニタを睨みつけ続けるクイーンだった。
ファングはかすかに顔を俯けて唇を噛んだ。
「そうだね。それが動機なのかなと考えたこともあるよ。でも……」
「でも?」
消えそうなつぶやき声をジョーカーが捕らえて促した。その手には手近な棚に収められていた警備マニュアルが開かれている。巡回の経路でも載っていないかと思ってのことだったが、あるのは災害時の避難経路と手順に関しての記述ばかりだ。彼はすぐにそれを閉ざした。
ファングの目はちらりと未だ端末を噛り続けるナビの小さな背と、その傍らでモニタを見上げるノワールに向かう。それがなにを意図してのことかは誰にも解らなかったが、二人と彼女に共通する点はすぐに察せられた。
答えを教えるようにファングは口を開いた。
「そんな理由で父さんたちが殺されたんだと思いたくなかった……」
言葉が過去形である以上、今は可能性の一つとして認めているということなのだろう。
重苦しい沈黙で部屋が満たされたことに気がついて、ファングはわざとらしいほどに明るい声を上げ、パンと音を立てて両手を合わせた。
「そういえば、私も気になってたことがあるんだ!」
手が開かれると、その上には板切れ状のなにかが乗せられている。
まるで手品だと感心しつつ見ると、どうやらそれは監視カメラに内蔵されていた映像処理用のチップのようだ。
そういえば彼女は逃げる最中、一度飛び上がって天井からカメラをもぎ取っていた。単に飛んでくるレーザーを先んじて潰しただけかと思われたが、そうではなかったらしい。
その証拠に、ファングはどこか浮かれた声で一同に尋ねる。
「この精神世界にあるものを外部に持ち出すことって可能なのか? オタカラは認識上のものから現実に即したものに変化するって言ってたけど、こういう物もやっぱり変わっちゃう?」
「なんではしゃいでんのよ」
「だって、これ、かなり高精度の画像処理回路なんだ。カメラを引き剥がしたときに分かったんだけど、映像こそここに送信されてるけどパソコンなんかを経由せず独自に判断してリアルタイムで分析と処理をしていて、おまけに攻撃まで……」
「そうか、よかったな」
長広舌をジョーカーが遮った。彼はまた、淡々と彼女の質問に答えてやる。
「身に着けるものなんかはそのままであることが多いけど、そういった物に関しては……持ち出せることは持ち出せるだろうが、現状の機能を保ったままか劣化しているかは解らない」
「そうか……一応持ち帰ってみるだけみるか……」
唸って手の上のものをしまい込んだファングに、ジョーカーは失笑を隠しもせず問い返した。
「どうするつもりだ?」
「あの監視カメラの挙動を見ただろ。現実でも同じ動きが再現できれば悪いことが―――いや、いいこと……でもないけど、いろいろと……」
「フォックス、こいつから目を離すな」
「言われずともそのつもりだが」
「……一発目が着弾するまでに百発撃てるってロマンだろ……」
「コードネームはジャッカルのほうがよかった?」
「今のでいい」
むすっとして顔を逸らした彼女の姿に、一同は苦笑する。本気かどうかは分らないが、馴染むつもりがあること自体は喜んでいいだろう。
ジョーカーはいつの間にか力の入っていた肩を落として口元を緩めた。
―――彼女が本当に『こちら側』の人員となってくれれば、この上なく心強いに違いない。
仮面の下の目を細めて、彼はフォックスの脇腹をつついた。
「うっ……なんだ、なんのつもりだ」
「お前も怪盗の端くれなら、分かってるだろ」
「脇腹をつつくことと怪盗になんの関係が……?」
「そっちじゃない。諦めるつもりはどうせないんだろう」
ジョーカーの視線はモニターの監視に加わったファングの後ろ姿に向かう。フォックスの目もそれを追った。
途端、彼の目には熱が宿る。彼の使命ともいえる事柄に立ち向かうときとはまた別種の、清らかなようでも濁っているようにも受け取れる炎だ。
解らないでもないと傍らの少年は思う。
あの少女は見た目の魅力という意味でなら、思春期の少年たちの基準をお釣りがくるほど満たしている。お釣りの額は個々人の欲求によって異なるだろうが―――
さておき、少年は低く喉を鳴らして彼に囁きかけた。
「ハンムラビ法典」
「はぁ……?」
怪訝そうな顔をされるのもいつものことだ。気にもかけずに少年は続けた。
「やられたらそっくりそのままやり返すってことだ」
「……つまり?」
「怪盗団の一員として相応しい振る舞いを見せろ」
潜められた声に合わせて、フォックスもまた声を抑える。
「……盗み返せと」
「そう難しいことじゃない。パンサーの見立てじゃあとひと押しってところだそうだし……」
悪魔のような冷徹な笑みがその唇には浮かべられている。
「弱ってるところにつけ込んでこい」
フォックスは馴れ馴れしく肩に置かれた手を払い除けた。
「美しくない真似をさせようとするな。俺は正攻法でいくぞ」
胸を張って背筋を伸ばした彼に、ジョーカーはますます口角を釣り上げた。
そうとも。そうでなくちゃ楽しくない。お前ってやつはそうだからこそ楽しいんだ、と。
「これでもう例のズバババーってのはこないから安心しろ」
とのナビの言通り、監視カメラは完全に沈黙して道を阻むことはなくなった。
とはいえ道中には未だ不可視の巡回警備と目視はできるが警報を鳴らして増援を招くロボットがうろついていたし、エレベーターのカードキーは相変わらず未入手のままだ。
セキュリティの厳重さからオタカラは最上階の一つ下、特殊技術開発室にあるだろうとあたりは付けたが、凍りついた階段を登ってそこを目指そうにも該当の階層にはフロアに通じる扉どころかぶ厚い壁があるばかりで、道は再び閉ざされてしまった。
仕方なしとその一つ上、最上階フロアに忍び込んだ彼らの前に奇妙なものが現れた。
「なんだありゃ」
飾り気のない感想を漏らしたモナの視線の先には幾何学模様を描くタイル床の通路がある。その左右にはガラス張りの飾り棚が延々と続き、内部には無数のマネキン人形が飾られていた。
いずれも仕立ての良いスーツやドレスを身にまとい、見せびらかすようにポーズを決めてはどこか虚空を見つめている。
それだけでも十分奇妙なことではあるが、極めつけはこれらが瞬きをしたり、肩や胸が呼吸のためにかすかに上下していることだろう。
つまりショーウィンドウに飾られているのはマネキンなどではなく、生身の人間ということになる。阿藤の認識上の存在に過ぎないと解っていても不気味さは拭えない。
しばらく様子を見てもこれといった動きはなく、また物音を立ててみても反応がないことから恐る恐ると通路を進みはじめた彼らであったが、中ほどまで行ったところで一際大きなスペースを用いて飾られる男の姿に足を止める。
豪奢な椅子とそれに深く腰を下ろす痩せぎすの男。仕立てのいい上等な生地のスーツに身を包み、足元は高級ブランドのロゴが貼り付いた革靴と、腕には光り輝く高級腕時計―――
いずれもが男に似合っているとはお世辞にも言えない。どうにもアンバランスで、どこか不格好だ。
「……松下誠士郎」
ナビがぽつりとつぶやいた横で、ファングもまたかすかに首を縦に振っている。
松下誠士郎―――現在の重工業代表取締役社長にして、阿藤の甥に当たる人物だ。
しかしここがパレスである以上そこにある姿は阿藤の認知上の存在に過ぎない。どうにも覇気のない顔つきと虚ろな眼は、このようなショーウィンドウの中になくともマネキン人形のようだと人に思わせたかもしれない。
「この男なら少しは内部事情も知っていそうだけど、これじゃ尋問もできそうにないわね」
クイーンが残念そうに肩を落とす隣で、ファングはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「実際、松下と阿藤の仲は良好ってわけではないから、有益な情報はそもそも持っていないんじゃないかな」
「あんなにきれいな『おべべ』着せられてるのに?」
問いかけていつつも、ナビの瞳には確信めいた光がある。似合いもしない高級そうな衣服を着せられているという認知こそが関係性を物語っていると捉えているのだろう。
実際のところ立ち並ぶマネキンにもいくらかの差異が見られる。似合いの服をまとうものもあれば、松下のようにいかにもなお仕着せになっている者もいる。華やかな笑顔を見せる者もあれ、冴えない表情で俯く者もある。
それでもマネキンたちは平等にライトを浴びせられて飾り立てられている。
「これが阿藤の言うところの『一族』なのかもしれんな」
大した興味もなさそうにつぶやいたのはフォックスだった。彼の目線はマネキンにではなく通路の先を睨みつけている。今のところシャドウの接近はないが、警戒を怠っていい理由にはならないと思っているのだろう。
そもそも彼の基準としてはいずれの人形も美しいとは思えない。興味がないのは当然のことと言えた。
「見たことのあるお顔もちらほらあるから、そうなのかもね。ほら、こちらは大蔵省にお勤めの方で、こちらは大和食品の幹部の方……大和食品はうちのライバル会社だよ」
通路の右と左と、向き合う二人の男のマネキンを示してノワールが言った。彼女の目は複雑な色を湛えている。
「あそこは……夏に代表の方が亡くなられていたね。これはお父さまがなんらかの形で関わっていたのかも」
代表の急逝によって株価の暴落があったからと語って俯いたノワールの、その頭に被された帽子の羽飾りをジョーカーの指が弾いた。
「行くぞ」
肩にモナを担ぎ上げた彼は、ノワールが驚いて帽子のブリムを押さえるのも構わず歩き出した。ついでにと言わんばかりにスカルの尻とパンサーの尾を叩いて。
「いてっ、照れ隠しにセクハラすんのやめてくんね?」
「私のお尻を触る度胸はないくせにね」
うるさい、と吐いて先を行く彼の背とモナの尾を二人は追った。少し遅れてノワールもまた二つの黒い背中を追いかける。
クイーンやフォックス、ナビもやれやれとそれに続き、最後尾に位置したファングはほんの数秒、じっとそれらを眺めて不思議そうに瞳を瞬かせていた。
マネキンの並ぶ通路を抜けた先にはまた広い空間がある。二つならんだドアとそばの読み取り用らしき機器をみるに、どうやらエレベーターホールであるらしい。
出てきた通路とは別に、ガラス壁の向こうに繋がるドアが一つ。丸見えの室内を覗けば、更に奥へ繋がる重厚な樫の扉が沈黙している。
見える範囲の室内は整然としており、品のよい調度品や絵画が飾られているところを見るに、樫の扉は社長室に繋がっているのだろう。
しかしそちらにオタカラが無いことはモナの鼻が断言している。怪盗たちの興味は急速に薄れていった。
他にあるものといえば上に繋がる階段と先述のエレベーターらしき二揃いの扉くらいだ。
開かない扉を苦々しげに睨みつけながらパンサーはボヤいた。
「エレベーターが使えればなぁ……こういうの、無理矢理どうにかできたりしないの?」
ふり返った彼女の視線の先にはナビとファングが並んでいる。
二人は顔を見合わせて目でもって語り合った。
―――いけるか?
―――降りるだけならいけないことはないんじゃないかな。
―――やるか?
―――やるだけやってみようか。
頷きあった二人に、少年たちは胡乱な目を向ける。
「言葉で表してくれ、言葉で」
モナに促されてナビは仕方がないなと口を開いた。
「開けられないってことはない。けど当然、『ただし』って冠が付くんだ。要はカードキーを偽装しちゃえばいいんだけど……読み取り機を見るに非接触型ICカードキーだ。偽装するにはちょっといろいろ手持ちが足りない。ここからネットワークに侵入してってのもできなくはないけど、やっぱり今の装備じゃ時間がかかる」
そこで、と言葉を区切ってナビはファングに言葉の続きを受け継がせた。
「一階層降りるだけなら本来のエレベーターの使い方をする必要はないだろ? 箱がなくても下には繋がってるわけだからな」
ファングはヒールを鳴らしてエレベーターの戸に歩み寄る。ちょうどその正面に立っていたスカルが道を譲ると、彼女の手にはスカルが腰に下げていたはずの長物が握られていた。
「また! なんで俺の武器いちいち盗んだよ!?」
「使い勝手が良さそうだから」
重量のあるロングタイプのコンビネーションレンチだ。ファングはそのスパナ部分で優しくスカルの尻を叩いた。
「お前もか!」
嫌がってその場を飛び退った彼がいた場所に足を置き、ファングはエレベーターの扉、そのわずかな隙間に指先を掛けた。
掛け声の代わりにか、手の甲に取り付けられた小さなライトが鈍い燐光を発する。青みの強い紫色―――
ギギ、と重く硬質な音を立てて電子制御式の扉が片腕一本で開かれるのを、少年たちはやや腰が引けつつも見守った。
やがてため息をついて手が離される。ちょうどひと一人が入り込めそうな隙間を扉は作っていた。
そこにファングはするりと身を滑り込ませる。
ギョッとして駆け寄った怪盗たちの鼻先で、扉はまったく自然な動きで左右に滑り、内部の闇をすべて明らかにした。
「よっと」
そしてそこからファングが再び姿を現す。
「もうちょい待ってくれ。下のドアも開けてくるから―――」
「待て、危険な真似は」
「じゃあキミがやるか? 言っとくが、かなり怖いぞ?」
制止を呼びかけようとしたフォックスの前にスカルの得物が差し出される。彼女の目にはどこか底意地の悪さを教えるような輝きが湛えられていた。
高所は特別苦手な人間でなくたって恐怖する場所だ。ましてや命綱すらなく、突発的な死への衝動と恐怖に立ち向かわねばならない―――
フォックスはひったくる勢いでファングから工具を受け取った。
「どうせお前のことだ、俺をまだ小心者と思っているんだろう」
「へ……」
キョトンとした彼女を置いて、フォックスはひらりと穴の中に身を投じた。
「わあああっ!?」
悲鳴を上げたのはファングだけだった。残りの面々は呆れたり笑ったり、微笑ましそうにしながらファングの背と尻を見守るばかりで、取り立ててフォックスを心配するような素振りは一人とて見せていない。
それも当然か、ファングにとっても幸いなことに、穴の数メートル下でフォックスは巻き上げ機に繋がるメインロープに腕と脚を絡ませ、少し困った顔を彼女に向けていた。多少機械油で汚れたところはあっても、すり傷の一つとて負った様子はない。
安堵の息をついてくずおれた少女に、フォックスはいかにも困ったと言わんばかりの声色で尋ねる。
「それで、ここからどうしたらいい?」
「ばっ……ば、バカヤロー! やるならやるでちゃんと説明受けてからいけよっ!」
「お前が度胸試しのようなことを言うからだ」
「ぬああ……!」
バンバンと床を叩いて悔しがる彼女の隣に猫が転がる。彼の目は暗闇の中もよく見通して、ぶら下がる少年にすべきことを指示してやることができた。
「そこそこ。左手のちょい先に小さい箱みたいなのがあるだろ。それを壊すんだよ」
そのためのレンチだろ、と短い腕を振ったモナに、フォックスは了承を示して小さく頷いてみせた。
直後、項垂れたファングの耳に破砕音が届く。同時に感心したような少年の声―――
耳に残るこれを振り払って、ファングは背後に語りかけた。
「これで降りられるよ……」
苦笑いで応じて、怪盗たちは首尾よく階下に降り立った。
特別技術開発室などと言うといかにも怪しげな気もするが、降り立ったホールから通路を経由して向かったそこはなんの変哲もない清潔そうな広い部屋だった。
たしかに壁や柱には不可思議な紋様が刻まれているが、その間隔は秩序立ち、通路や他の部屋よりも人の理性とでもいうものが色濃く表れているように思わされる。
腰ほどの高さからガラスに切り替わるパーティションに仕切られた部屋にはデスクトップパソコンと見慣れない箱型の什器やコンテナ、大型の業務用冷蔵庫に似た機器が壁際に並んでいる。見える範囲にある隣室は広く、壁にはここに来て初めて目撃する緑が植え込まれていることと、小さなキッチンらしき台が設えられていることから察するに休憩室の類だろうか。
休憩室とは別に、また別の隣室に繋がった扉がある。ただしこちらにはエレベーターにあった読み取り機が取り付けられている。
モナは鼻先だけを廊下の角から突き出して鳴らし、その扉を指し示した。
「あそこの奥からオタカラのニオイがする……けど、なんだコリャ、やけにぼんやりしてやがるな」
「どういうこと?」
疑問符を浮かべたパンサーに、モナこそが困ったように尾を震わせる。
「なんというか、なんだろう。妙に混じってるっていうか、とにかくハッキリしないんだよ。ワガハイの鼻でも嗅ぎ分けられん」
唸り、モナは困り顔を一同に向ける。
さてどうしたものか―――
思案して、ジョーカーはクイーンに視線を送る。意見を聞かせてくれと目だけで訴えられて彼女は応えた。
「なにかしらはあるでしょうね。ここまで一度も阿藤本人の姿を見かけていないことも気にかかるわ」
シャドウらの襲撃があったことからむこうは間違いなくこちらの侵入を察知しているはずだ。現在の居場所までは掴まれていないとしても、かなりの警戒はされていると思って間違いない―――
「罠の可能性は高い」
結論を述べた女王陛下に、ジョーカーは同意見だと頷いてみせた。
「とはいえ回避はできない。だから、問題はそれがどういったもので、どうやって突破するかね」
「斥候がいるか?」
シャドウの巡回を警戒して背後を睨んでいたフォックスが言った。
ジョーカーはふうむと唸って腕を組んだ。
今日はとにかくオタカラの位置さえ把握できればいいのだから、無理を押す必要はない。であれば確かにフォックスの言う通り、斥候に誰かを行かせて確認だけで済ませるのも手か―――
緩やかに首を巡らせ、通気ダクトらしき孔を見つけ出していた彼の思考にファングの声が割って入った。
「特別技術開発室は……名前の通り技術開発のための部署なんだけど、他とはちょっと毛色が違うんだ」
だから特別なのだと区切って、少女は皆の顔を見回した。
その内のジョーカーが続きを促すように顎をしゃくると、頷いて彼女は続きを述べた。
「具体的に言うと無限エネルギーを利用した発電機。最後に確認した時点でもまだ成功はしてなかったみたいだけど、とにかく、ここで行われているのは装置自体の開発じゃなくて理論の構築と蓄積データの解析。組み立てや実験は他所に研究施設があるからそっち」
あらぬ方向を指し示したのは現実世界におけるその研究施設とやらの方向を教えているのか。誰にもそれは分からなかったが彼女は続ける。
「無限エネルギーなんて開発に成功すれば人類そのもののあり方さえも変えるような発明だから、セキュリティは当然厳重に厳重を重ねられていると思う。ここまでのはほとんど解除したけど、室内はそれとは独立した警備システムが置かれている可能性が高い」
壁や床、天井に柱を示しつつ語られたその内容に、怪盗たちはううむと唸る。
「じゃあどうする?」
対策を求めるジョーカーの言葉に、ファングは少しだけ言い淀んだ。視線を足元に落とし、口元に手を添えて熟考する。
やがて顔を上げると口元に置いていた手を振って傍らの少女を示した。
「斥候を出すより、ここから室内を探るべきだろうな。私とナビならそれができるはずだ」
「おっ、わたしか? いいぞっ」
いっちょやってみるか、とナビは元気よく挙手してみせた。
どうぞと手で促されると、二人は直ちに半身を呼び出して振動とそれによる探査を行い始めたが、これはシャドウの位置を探り出す作業より長く続いた。
幸いなことにその最中シャドウの襲撃を受けることもなく、ほどなく二人は肩から力を抜いて同時に息をつく。
「よし……いけた。たしかに中にオタカラっぽいものはある―――」
ナビの手が筆記用具を求めて空中をさまようと、クイーンがそこに望む物を手渡してやる。
床に広げられたノートに記されたのは、長方形の大きな部屋の内部を簡易に表したものだった。
北側の壁には冷蔵庫のような大きなスチール製の箱がここにも並び、西と東側の壁にはケーブルが走っている。南側には扉から繋がる小部屋があり、その内部には大型のコンピューターが押し込められている。そこから大部屋に出入りするための戸もあるあたり、おそらく小部屋は計測のための空間なのだろう。
そして大部屋の中央、やや北よりに大型のボードが設置されている。
ナビの手はこのボードに『ココ!』と注釈を付けた。
「反射波をみるにたぶんこいつがオタカラだな。モナの鼻もこの部屋を示してるし、間違いない」
ノートを囲んで床にしゃがみ込み、怪盗たちはふぅむと唸った。
できれば直接目で確認しておきたいところだが―――
「侵入はできそうか?」
「んっんー……」
これにナビは難しい顔をして腕を組んだ。
「侵入ルートの構築自体は、できてる」
断言に相応しく、ナビの手は迷いなく己が記した簡易図の上を走る。手前の部屋は通気ダクトを通ることで回避し、問題の部屋への侵入も同じくダクトを経由して侵入可能だ。
しかし、ここでナビの手は止まる。
「こっからが問題。小部屋から先にいくにはここの研究室専用のカードキーが必要になるっぽい」
というのも、扉に取り付けられている読み取り機が他の場所とは見た目の形状も内部の構造も違っているのだとナビは語る。
「つまり、ロックの解除のためにもうひと手間かかるってわけだ」
言ったのはファングだ。一人立ったまま、今さらになって壁の紋様を興味深げに眺めていた彼女は、時おり腕を伸ばしてペタペタと壁に触れたりもしていた。
その背を横目で眺めつつ、ジョーカーはどこからともなくピッキング用具を取り出してみせる。
「解錠なら任せろ」
などと言いつつも、仮面の下の彼の表情は残念そうに歪められている。
「でも電子錠かぁ……」
「腐ってんじゃねぇよ」
「宝箱いっぱい開けたじゃん」
三角形の耳がついた二人におざなりに慰められて、頭目は肩を落とした。
崖っぷちに立つような心地の彼の背をナビが勢いよく押した。
「おっしゃる通り、電子ロックだ。残念だったなジョーカー。まあわたしに任せとけ! と、言いたいところなんだが……」
そしてナビもまた肩を落とす。
「まじであん中だけでセキュリティひっくるめてイントラネットが構築されてやがる。今どき専用線かよぉ」
項垂れた二人にファングは肩をすくめて「機密だからな」と言ってやる。
とはいえ、そこに諦観の意志は無い。
彼女は紋様の刻まれた壁を叩いて、一同に目を配った。
「誰か、壁をくり抜くことってできる?」
唐突なこの質問に目を丸くする少年たちに補足を付け足す。
「できれば壁だけで、中身は傷つけずに」
とはいえそれは彼らの求める補足説明ではなかった。顔を見合わせた怪盗たちに、ファングは意味ありげにニヤリと笑ってみせた。
……
決行は一日のインターバルを挟んだ明後日と決定して、少年たちは解散した。
けれどどうしたわけかの足はすぐにはその場を動かず、必然的にこの日も警護を任ぜられた喜多川も居残る羽目になる。
それ自体に不満はない。喜多川はただじっとしてビルを見つめ、一言も発しない少女の隣で動き出すのを待った。間近ではさすがに見つかる危険性があると理解しているからか、彼らは四車線の道路を挟んだ暗がりに立ち尽くしている。
パレスを出たのは七時過ぎで、それから三十分は経過しただろうか。辺りはもうすっかり暗くなり、帰宅の徒につくスーツ姿の大人たちが幾人も通り過ぎて行った。
彼らは街灯の明かりも届かない場所に佇む子どもの存在にまるで気がつく様子もなく、ただ前や足元だけを見つめては疲れた様子で歩き去る。
吹き付ける風は完全に秋から冬に移りつつあって、二人のむき出しの頬や手の熱を奪っていく。
靴の下の足先までもが冷え始めたころになってようやくは口を開いた。
「変なの」
声には困惑とともに、奇妙な心細さが同居している様子だった。まるで道を見失った幼い子どもが、奇妙な世界に迷い込んだかのようだ。
「なにがだ?」
言葉の意味を測りかねて問いかけると、はやっとビルから喜多川のほうへ目線を移して答える。
「なんで私一人じゃないんだろう」
やはり意味は解らなかった。
さりとてそのまま解らないと告げるのも彼女を傷つけるような気がして、喜多川は状況を正しく表現してみせた。
「それは、俺がいるからだろう」
「まあ、そうなんだけど。じゃあなんでキミはここにいるんだ……とか、そういうのをさ、考えてたら……」
それはお前がそうなるように仕向けたからだ、とは言わず、喜多川は続く言葉を待った。
少女の黒々とした瞳は瞳孔が開いているからか、遠いはずの街灯を映し出して星のように瞬いている。
「なんだか変な気持ちになって」
「変?」
それは己こそが日ごろよく聞かされる言葉のはずだが。
などと考えている間に、は目を細めて瞬きを隠してしまう。
それを残念に思いながら、喜多川はまた続く言葉に耳を傾ける。
「明後日になったら、三年間ずっとしたかったことができるんだろ。でもそれは、私の考えていた形と違ってる。一人でやるつもりだったのに、キミやみんながいる……」
は己の肩を押さえた。そこはつい先ごろ、解散する直前、彼女の言う『みんな』が無遠慮に引っ叩いていった箇所だ。
彼らは口々に成功を確信し、彼女の悲願の成就を約束していた。やってやろうぜと意志を込めて、この少女の肩に気安く触れていったのだ。
それは一部の者を除いて音こそ派手であっても優しかったから、痛むわけではないだろう。
ただそこに不思議な暖かさが宿っているのだということを、喜多川はよく知っている。
だというのには弱り切った声を上げる。
「キミらにはキミらの目的や利益があるからだって解ってる。でも、それだけじゃないってことも解る。それがなんでかとか、どうしてとか、そうやってみんなのことを考えてたら……」
おずおずと伸ばされた手が少年のジャケットの裾に触れる。ごく軽く、本当に端の部分を指先で摘まれてやっと触れているのだと気がつけるほどの慎重さだった。
「そしたら気がついた。私はみんなと違って、明後日になって、作戦が成功して、復讐が終わったら……もうなんにもやることもやりたいこともないなって……」
いかにも弱々しいこれに、喜多川はほとんど反射的に反論をぶつけていた。
「そんなことはないだろう」
彼は心底からこれを口にしていたが、しかしの耳にどう届いたのか、彼女はただ小さく首を横に振った。
「なあ、キミはこういう気持ちになったりしなかったのか?」
「俺は……」
どうだっただろうかなどと考える必要もなかった。あのときの気持ちは今もずっと続いている。
わずかな後悔や今もって奥底にくすぶり続ける苛立ちがないわけではないが、それでもあの心が浮き立つような―――若者の特権とでもいう未来への不安でいっぱいになって、それでも己を縛るものが失せたことによる解放感が勝った感覚。
やりたいことが多すぎてどれから手を付けようかと迷うときの気持ちだ。
「不安というものは、無かったわけではないが、それより喜びのほうが強かったな。元より俺が目指すものは一つだったのだし」
正直に答えた彼に、は羨望の眼差しを寄越した。
「そりゃそうか。そうだよな。うん」
「お前にはそういうものは無いのか?」
「小さいころはお花屋さんとか言ってた」
「それでは駄目なのか」
「ダメじゃないけど、向いてない……」
がっくりと肩を落として、は「私に育てられるのは朝顔くらいだ」と項垂れてしまう。
そこでやっと喜多川は彼女の家の庭からなんだか散漫な印象を受けた理由を知った。
得心して頷いた彼の肩に重みがかかる。鼻先を向いてないと訴えられたばかりの花の香りがくすぐった。
「今まで全然そんなこと考えもしなかったのに。先のことなんて、終わったあとのことなんて、未来のことなんて……どこかで失敗するって思ってたってことなのかな……」
は隣に立つ少年の肩に頭を預けていた。
癖のある艶やかな黒髪は辺りの薄闇などよりよほど濃く、喜多川はそこだけが溶け落ちてしまったかのように錯覚する。
しかし腕は確かに存在していて、衣服の布地越しに触れ合う感触が嫌というほどよく分かった。
「お……お前の、例のアシストスーツに注ぎ込んだ技術はどうなんだ。あれを世の役に立てたいとは思わないのか?」
ぐっと縮まった距離にわずかばかり声を上ずらせながら辛うじて告げてやると、少女は小さく首を振った。
「あれか……あれはどうだろうな。既存の物を真似しているところが多いし、復讐のために作り上げたものだ。他人に身に着けさせるのは気が引ける」
そういうものかと喜多川は目を瞬かせた。
彼には今ひとつ理解できない考え方だった。己の信奉する芸術というものが師によって汚されていたとて追い求めてきていたのだ。たとえそれが薄汚い欲望を満たすためにすり減らされても、そのものが持つ美しさだけは決して損なわれないと彼は確信している。
彼女も同じように考えていたのではないか?
疑問とともに見下ろした少女は寒さからか小さく震えていた。それとも、いよいよ宿願叶うとなって武者震いでもしているのか。
そのどちらでもないようだった。
「いろいろ言ったけど、結局私はビビってるんだと思う。私がしくじればみんなにも迷惑がかかるんだって……」
再び縋るような目が少年に向けられた。その瞳は潤み、唇は震えている。
少年の脳裏にジョーカーが囁いた甘言が蘇った。
『弱ってるところにつけ込んでこい―――』
なるほど確かに、今や彼女を構成するパーツの一つ一つがご丁寧につけ入る隙があることをありありと彼に教えている。あるいはつけ入られることを彼女自身も望んでいるのかもしれない。
なにしろ今こそその時だと教えるように、小さな子猫が甘えるが如くその身が擦り寄せられたのだ。やわらかく暖かな感触が彼の腕に押し付けられもした。
たぶん、と喜多川は思う。
たぶん今なら、あの時果たせなかったことを求めても拒絶されたりはしないだろう、と。
それどころかもっとそれ以上のことが許されるかもしれない。思うさま、思いつくまま、欲望の限りを彼女にぶつけ、痛めつけたとしても、おそらく今の彼女はよろこんで受け入れるだろう。
それはたぶん、楽しいことのはずだ。
でも……
「喜多川くん……」
震える声が求めているのはそういった享楽的な喜びではなく、また彼自身が求めるものもそんな彼女の姿ではなかった。
そうとも、彼はジョーカーの甘言にこう答えたのだ。正攻法でいくぞ、と。
パチッと小さな破裂音に似た音が響いた。
喜多川の手が少女の両頬を軽く叩いた音だ。その手は今、肉をつまんで左右に引っ張っている。
「なにひゅるんだよぉ……!」
非難の声にパッとその手を離すと、彼はまた、今度は優しく両頬を包み込んだ。
「ぬるいことを抜かすからだ。まだなに一つとして済んでいないというのに、こんなところで腑抜けている場合か」
しかしその口から出る言葉は辛辣だった。
「なっ……なんだよ……ちょっとくらい甘えさせてくれたって……」
「ちょっと? 今のでちょっとなのか? 全力できたらどうなるんだ……?」
腕に押し付けられたやわらかな感触を脳内で再現し、少年は瞠目する。『あれ』がもっとということか? と。
「し、知るか。離せっ」
「あと九十六回。まったく……」
重々しいため息をついて、喜多川は怒りのこもった眼差しを目の前の少女に向けた。
「やることもやりたいことも無いだと? そんなもの俺が知るか。俺には俺の夢がある。お前のことまで面倒見切れん」
「薄情者……」
「ふん。どの口が言う。この口か?」
「はにゃせぇっ!」
「離さない」
指に絡む黒髪の感触を楽しみながら、少年はなおも静かに言い重ねる。
「作戦の要はお前だ。しくじれば俺たちにも累が及ぶだろう。それに怯える気持ちも、先のことを考えて不安になる気持ちも解らなくはないが、言っている場合か。やるしかないんだ、今さら後には引けんぞ」
「こ、この上プレッシャーかけてくるなよ!」
「うるさい。背を丸めるな。つけ込まれるぞ」
これには怪訝そうな顔をする。器用にも片眉を跳ね上げさせ、口をへの字に曲げているのはどこか滑稽な表情だった。
「誰につけ込まれるってんだよ」
踵をにじらせてどうにか拘束から逃れようとはしているのか、頭部こそ固定されている割に腰から下だけが半歩ほどの距離を稼いでいる。はたから見ればずいぶん間抜けな格好になっていたが、はそれにもまったく気が付いていないようだ。
そして彼はその涙ぐましい努力をぶち壊しにした。一歩前に踏み出して、半歩の距離をゼロに戻すどころかマイナスにまで引き下げたのだ。
「……俺に」
そのようにして二人の距離はゼロを越えてマイナスになっている。前髪どうしが触れ合い、互いの呼気がかかるほどだ。
元より喜多川につけ入るつもりはあったのだ。あとほんの少しの距離を詰めるくらいは簡単なことだった。
はその事実、距離と目の前の少年の思惑にはじめて気が付いたかのように肩を縮こませ、驚かされた猫のように目を見開いている。
しかしそれもつかの間のことだった。少女はすぐにぎゅっとまぶたを閉ざして顎を上げた。
―――しかしそれはおそらく、最後の歯止めだろうと彼には分かっていたから、静かに身を引くと手を離してまた軽く頬を叩いてやった。
「あいたっ! えっ? なんで? なんで……!?」
叩かれた頬を押さえてよろけたは今度こそ驚かされた猫のように目を皿のようにしている。
少年は呆れを装って肩をすくめてみせた。
「なにを期待しているんだお前は」
「きっ! 期待なんてしてない! 誰がするか!」
「目を閉じてた」
「うるさい! バカ! バーカ!」
激しい調子で罵倒するも、その顔は恥じらいか怒りによって紅潮していた。喜多川には一ミリも恐ろしいとは思えない。
薄々気が付いていたことだが、口が悪い割に彼女は罵倒の語彙がどうにも貧弱な様子だ。
喜多川は彼女に背を向けて駅に向かう道へ足を向けた。
「帰るぞ」
手で尾するように促したが、返ってきたのは
「一人で帰れっ!」という怒りの籠った喚き声だけだ。
喜多川はふり返って足を止める。
「」
名前を呼んでやると、たったそれだけで少女は怯えたように身を竦ませる。まるで叱られることが分かっている子供のようだ。
「な、なんだよ……」
声は拗ねた子どものものだ。
少年は苦笑して彼女に手を差し伸べてやった。
「今日のねぐらまで送らせてくれ。それで、明後日は一緒に帰ろう。お前の家まで」
はしばらくその言葉の意味を吟味するように瞬きを繰り返して沈黙した。拳を握り、しかしそれを振り上げることも、下ろすこともできずに小さく震わせている。
まだ怒っているんだろうか? 小さく首を傾げた喜多川の耳に、掠れた小さな声が届いた。
「……うん……」
はもう道を見失った子どものような顔はしていなかった。