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17:Fantasm-A
芝草の茂った庭で、小さな黒い子犬がきちんと足を揃えていまか今かと待ちわびるように激しく尾を振っている。
その視線は目の前に立つ藍色のワンピースを着た少女に注がれている。歳のころはまだ十にも満たないだろう、幼い顔立ちの女の子だ。
彼女の手の中には蛍光ピンクのフリスビーが握られていた。子犬はこれが放られるのを待っているのだ。
果たして彼女がフリスビーを放ると、子犬は嬉しそうにそれを追った。
美しい放物線を描いて飛ぶ円盤に小さな身体が食らいつくと、少女は歓声を上げて子犬を褒め称えた。
小さな身体にはまだ大きすぎるフリスビーを咥えて戻った子犬を膝の上に迎え、艶のある黒い頭や背をいささか乱暴に撫でてやる。
フリスビーを受け取ると、子犬はもっと遊んでくれとねだるように鼻先をこすりつけ、少女のまだ丸く柔らかな頬を舐め回した。
朗らかな笑い声を上げて少女はまたフリスビーを放った。
高く輝く夏の強い日差しが一瞬少女の目を焼いた。
その一瞬の間になにがあったのか、子犬はキャンと悲痛な声を上げる。
「グリム?」
顔を上げて子犬の姿を明るい庭の中に探した少女の目に映ったのは、大きく立派に成長した黒犬だった。
艶やかな短い毛に精悍な顔立ち。逞しい身体つきは太い骨に支えられている。誰が見ても惚れ惚れするような大型犬に成長した彼は、しかし首に奇妙なものを生やしていた。
首の左右からまるでアンテナのように木の枝が真っ直ぐに伸びているのだ。またその枝からは液体が滴り、地面に落ちては赤く染め上げている。
あっ、と少女は声を上げ、その場に尻もちをついた。
こぼれ続ける液体が犬の血液であると、枝は生えているのではなく突き刺さっているのだと理解したのだ。
そして彼女は己の背後に誰かが立っていることを思い出した。
背の高い男。手にはロープを握っている。
逃げなければと思うのに、気がつけば右足は関節を一つ増やして奇妙に折れ曲がっていた。
辺りはすっかり夜の闇に閉ざされている。唯一の明かりはそばで燃え盛る白のセダンで、運転席からだらりと伸びる腕は彼女の父のものだ。助手席に座ってピクリともしない母親の項垂れた後ろ姿も見える。
悲鳴を上げようとした少女の喉に、絞首刑を科すかのようにロープが回された―――
引きつった喉で無理やり息を吸ったの口から笛のような音が鳴った。
その音に自分自身で驚きながら跳ね起きる。
見慣れない場所だった。そう広くもない畳張りの和室の中央に引かれた布団の上に寝かされ、右手には閉ざされた水腰障子、左と背後には和襖、前には太い柱と床の間がある。
鼻には嗅ぎ慣れないよそ様のお宅のにおい……
はぼんやりとする意識を払うように首を振り、視界を遮る前髪を払い除けた。
「ここ、どこ……?」
問いかけに答える者は現れない。
どうしてこんなところにいるのか、記憶を探りながら自身を見下ろすとあちこちが窮屈なスウェットに着替えさせられているではないか。
当然、脚や腕、腰と背に取り付けていたスーツも見当たらない。
それとも、あれもあの蒼い炎にまかれて燃え尽きてしまったんだろうか?
意識が途絶える直前の記憶を取り戻し、身体のあちこちに手を這わせる。昨日か、あるいは一昨日負わされた火傷や打ち身、擦り傷と裂傷……新しい傷はこれといって見つからなかった。
それどころかまた新しい包帯やガーゼ、絆創膏が貼られているではないか。
少女はなにもかもを把握して苦笑した。
ちょうど背後の襖の向こうから、笑い声が聞こえてくる。
は軽く身なりを整えてから引き違いの和襖に手をかけ、彼らの前に顔を覗かせた。
「あっ、さん。もう起きて大丈夫なの?」
真っ先に彼女に気がついたのは奥村だった。
が寝かされていた客間らしき部屋の隣はこちらも和室になっており、中央にこたつが設置されている。奥村は開いた襖のちょうど対面に座していたというわけだ。
正方形を描くこたつはさほど大きい物ではなく、それぞれの辺に一人収まるのがやっとという程度だ。だからなのか、こたつに脚を入れているのは女性陣のみとなっている。
「むしろ倒れる前より顔色いいんじゃね? まさか単なる寝不足だったってんじゃねぇよな」
そういうわけで、ちゃっかり奥村の膝の上に陣取ったモルガナ以外の男子一同は、座布団や座椅子の上にあぐらをかいたり寝転んだりしていた。
「なんにせよ良かった」
優しげな声を発したのは座布団を二つ折りにして枕にしていた少年だ。彼はすぐに枕元に置いていた度のない眼鏡をかけると、その場にあぐらをかいてに微笑みかけた。
ただしその笑顔の裏には企みがある。
隣でそれを眺めて茶をすすった喜多川は、漏れ出そうになるため息をぬるい液体とともに飲み下した。
は首を傾げつつも襖をさらに開け広げ、敷居を越えて畳の上に膝をつける。
「……とりあえず、ここがどこなのか説明してくれると助かるんだけど」
答えたのは右手側でノートパソコンを叩いていた双葉だった。
「わたしんち」
端的かつ明快な答えに、は眉をひそめる。その手は窮屈なスウェットの襟首を引っ張った。
「じゃあこれも?」
「ん。わたしの。サイズが合わないのは諦めてくれ。オッサンのを着させるよかマシだろ?」
「おっさん……?」
「そうじろう」
「誰?」
「なんだよ、知らないのか?」
逆に問い返されては考え込むような間を置いた。
「キミの保護者か」
「そっ」
こくんと頷いてみせた双葉に、は片眉を器用に跳ね上げさせる。
なにかを言わんと唇を震わせたが、結局出てきたのは
「……世話を掛けたみたいだね。ごめんなさい。礼を言います」という定型文のような言葉だけだった。
そこに込められた誤魔化しの意図に気が付いているのかいないのか、手をひらひらと振って気にしなくていいと高巻が応える。
「あのまま放り出しておくわけにもいかないもんね」
言って、彼女はにじってこたつのスペースを少し空けもした。暖房は効いていたが、スウェットだけでは寒いだろうから入れと手招きもする。
はこれを固辞してその場に正座して彼らと向き直った。
「……あれが例の≪力≫ってやつ?」
「あ、そうそう。まさかさんにまで出てくるとは思わなかったけど……でも祐介が拾ってくるくらいだから、そういう縁? みたいなんがあったのかな?」
「そういうものなの?」
苦笑して、は頭をかいた。それは平らかな高巻の態度に戸惑っているようにも見える。
少女はまた、そっと縁なるものを手繰り寄せたらしい相手に目を向ける。
庭に面したガラス戸の前で座椅子に背を預ける少年は、目が合うとそれだけで嬉しそうに口元をほころばせた。彼女が意識を取り戻したことや、ここに居て逃げ出さず話をしようとしていることに喜んでいるようだ。
慌てて、は目を逸らす。
十秒もかからないこのやり取りに、怪盗団の頭目はやれやれと肩をすくめる。
「この≪力≫に目覚める基準もいまいちよくは解ってないけど、そこは別に重要じゃない。敵に回るなら厄介だけど、君は今のところ敵じゃないわけだし」
「味方でもないけどな」
こたつの天板にあごを乗せたモルガナが言う。
少年は然りと頷いてみせた。口元には悠然とした笑みが湛えられている。
「それはこれから分かる。そうだろ、くん」
馴れ馴れしく名を呼ばれたことにだろう。はかすかに目を細めると、顎を上げて口を引き結んだ。
続きを促すジェスチャーだと察したのは新島だった。言を継いで彼女は語りかける。
「つまり私たちと行動する気はあるかってことね。こちらとしても戦力が増すのは喜ばしいし、独断専行をされて狩場を荒らされるのは遠慮したい。あなたにしたって、復讐を自分自身の手で行いたいって思っているんじゃない?」
「それは―――」
は少し迷って首を縦に振った。
「ずっと思ってた。この手であの男の顔面を殴ってやるんだって。それが叶うなら……」
少女の視線は自身の手に落ちる。両の拳を握り、唇を噛んでつい今しがた見た夢の内容を胸に返す。
きつく閉ざされたまぶたの裏になにが映っているのかは誰にも解らない。彼女がそれを語らないからだ。
やがては顔を上げて応えた。
「いいよ、やってやる。命令でもなんでもしてくれ。可能な限り従う」
決然と言い切った彼女に満足げに頷いて、少年は指を鳴らした。
「よし、決まり。じゃあ次にパレスに潜るときは―――」
「いちいち指を鳴らすな」
「……連絡するよ」
少年が歯を噛んだ音が和室に響き渡った。
どうやら二人の怪盗の相性はすこぶる悪いようだと仲間たちは苦笑するしかない。
これと不確定要素の多さには不安を感じるが、先のパレスでの行動を顧みるに信を置いてもよいだろうとは、が昏倒している間に決定していることだった。
だからこその問いかけである。
はじめからそう定められていた筋道をなぞっただけという話だった。
さて、話は済んだと佐倉家を辞そうとするに、頭目は憮然としながらも護衛をつけた。
「監視のつもりか?」とはあからさまに嫌がったが、これも命令だと言われれば渋々ながらも従った。
そして当然というべきか、護衛に遣わされたのは喜多川だ。が嫌がった理由としては、こちらのほうが大きいのかもしれない。
「……いらないのに」
「そう拗ねるな。あいつはあれで心配性なんだ、許してやってくれ」
二人は四軒茶屋の駅から電車に乗り、一度乗り換えてから新宿に降り立っていた。この付近のカプセルホテルに今日は泊まるからと、は駅を出てすぐの建物を指し示した。
「心配性ね。どういう意味で心配されているんだか」
ふん、と居丈高に鼻を鳴らし、長い髪をかき上げる。
嫌々、渋々という態度を取りながら、しかし彼女はその場を動こうとはしなかった。
宿泊先を教えてもらい、その場所も歩いてすぐなのだから、喜多川としてもこれ以上彼女について歩くつもりはない。彼女が行くのであれば、彼は帰るつもりでいた。
それを分かって、足を止めているんだろうか?
自惚れた思考だと解っていても、喜多川はこみ上げるものを堪えきることができなかった。
「……なにニヤニヤしてるんだよ」
「そういう顔だ、ほっとけ」
「ふんっ」
ぷいと顔を逸しても、やはり彼女はそこを動かなかった。
国内で最も乗降者数の多い駅付近だ。休日の終わり際、繁華街の近いこの辺りは人で溢れかえっている。だからこそ彼女も仮宿としてこの場を選んだのだろう。
雑踏に耳を傾けたまま、二人は人の通行の邪魔にならないようにと壁側に寄り、しばらく沈黙し合った。
無言の時間は不思議と心地よかった。まるで言葉のないところで繋がっているような感覚がある。
のほうはそれに少しの戸惑いを感じているのか、落ち着きなくつま先でタイルの床を叩いている。その一方で喜多川のほうはその正体に検討がついている。
「俺の秘密はもうすっかり知られてしまったな」
ざわめきに紛れるように漏らすと、ははっと顔を上げて怪訝そうな瞳を彼に向けた。
そこには泰然とした笑みがある。
「いや、はじめから全て承知していたんだったか……」
「なに……」
「俺の身上の話だ」
は無言で俯いた。言葉はないが、その態度はイエスと言っているのと同じことだ。
苦笑した喜多川はそのつむじを眺めながら、改めて己の愚かしさと彼女の浅はかさに思いを馳せる。
先に奥村に指を突き付けられた通り、この少年は色仕掛けに引っかかったわけだが―――
それにしたって、という少女の気性は他者の心を翻弄するのにあまり向いているとは思えなかった。
それなら何故こうも簡単に落とされたのか……考えるに、おそらく途中までは彼女も完璧にこなせていたのだろう。それは喜多川こそが身をもってよく知っている。
しかしその完璧さはある時点でもろく崩れ去った。
それがどういうことなのか、確かめるように少年は手を伸ばし、落ち込む素振りをみせる少女の左手を優しく包み込んだ。
白いブラウスに包まれた肩がビクッと小さく跳ねる。
「さ……触るなよ……」
「あと九十七回」
「しつこいな!」
などと吠えても、手は振り払われなかった。
確信に少年は笑み崩れる。
「」
「な、なに……」
「お前の同道にもはや異を挟むつもりはない」
けれど、と言うなり、瞳に真剣な光が宿る。反射的には背筋を伸ばした。
「無茶や無理はしないと約束してくれ。俺は、あまり他人をカバーすることには向いていない。いくらか補助はできるが、どちらかと言えば露払いが主な役目だ。お前になにができるのかはまだ分からないが……」
握った手に力が込められる。
「約束してくれ。命に関わるようなことだけは避けると」
「……当たり前だろ……私だって、別に死にたいわけじゃない。やりたいことがあるんだから……」
「復讐か?」
「ん……」
頷いて、は空いた手で己の前髪に触れる。
確かに、と喜多川は思う。彼女の受けた仕打ちや過去の出来事は、そのような行動に走るのに十分過ぎる動機となり得るだろう。
彼自身身にも覚えのあることだ。今は公判中の師が明らかにした母の死―――それを聞かされたとき、内にあったはずの迷い、どれだけ酷い人だとしても、それでも世話になった恩があると思うと鈍る手を縛るものは全て打ち壊された。破壊したのは他でもない彼の内から湧き出た純然たる怒りだ。
きっとあの時の己と同じものが、彼女の中にはもう何年も渦巻いているのだろう。
けれど今の喜多川の中にそれは存在していない。復讐を果たしたからというより、ずっと底に淀んでいた澱のようなものをあの少年や仲間たちが蹴っ飛ばしてどこかにやってしまったからで、その後に胸の内が空虚にならずに済んでいるのはかねてより抱いていた夢がより肥大して占拠せしめたからだ。
喜多川の意識は繋がれたままの手に向かう。柔らかく小さな、傷だらけの暖かな手……
少しの不安が胸を過った。
「喜多川くん?」
不思議そうな声に我に返ると、がその顔を覗き込んでいる。
そのあまりの無防備さにめまいを覚えつつ、彼は静かにかぶりを振った。
「なんでもない。今言ったこと、忘れるなよ」
「ん?」
「死なないようにしろと言ってるんだ」
念押しにはどことなく馬鹿にするような笑いを漏らした。
「誰に言ってるんだよ。もう相手の手の内は分かってるんだ。この私がそう何度もやりこまれるわけないだろ?」
「」
「う……なんだよ。わかったよ……約束するよ」
「それでいい」
なんとも尊大に頷いた喜多川に、は不満げな様子をみせた。
それでもまだしばらく手は繋がれたままだった。
……
翌日の放課後、少年たちは再び阿藤勝利のパレスを訪れていた。
また本拠たる氷上のオベリスクが姿を消していたらどうしようと案じていたがこれは杞憂に終わる。前回記録した位置情報に従って向かった先にビルは間違いなく目に見えてそびえ立っていたのだ。
モルガナカーから降り立ち、すばやく玄関ロビーに入り込んだ一同は鏡のように輝く氷の床の上、滑らないようにと足を進めたところで一度立ち止まった。
広いホールはなんとも言い表し難い姿を保っていた。
太い柱に支えられた大広間は、辛うじてそこが大企業のオフィスビル、その玄関ホールであると認識できるが、壁や床は氷そのほとんどが氷に覆われ、わずかに露出した壁面には得体の知れない文字や紋様が刻まれている。
窓一つない空間に照明らしきものは見当たらない。その割に奥まで見通せるほど明るいのは何故かとは、考えるだけ無駄だろう。パレスとはそういうものだ。
広々とした冷たい空間には、しかしシャドウの影すら見当たらない。
「阿藤どころかシャドウもいねーな」
「また消えてるって可能性はあるんじゃない?」
「だとしたら厄介ね……ナビ、対策はある?」
ふり返って問いかけたクイーンに、ナビは不敵な笑みを浮かべた。
「むっふっふ……あるんだなぁこれがっ」
「お? 自信ありげじゃねーか。奇策でも思い付いたのか?」
尾を振るモナは寒さから逃れたおかげか、ようやく利くようになった鼻を鳴らしている。
ナビは笑って隣に立っていた少女の尻を勢いよく叩いた。静まり返ったフロアにパーンと小気味の良い音が鳴り響く。
「いったぁ……! な、なんで? なんでいま私のお尻叩いた……!?」
「いい音したな」
皮肉っぽく笑ったのはジョーカーだ。彼の手には小さな手帳があり、目の前の柱に記された避難経路図らしい図柄が刻まれている。そこに記された屋内の大まかな構造をメモしているのだろう。手は忙しなく動いている。
そんな彼の態度に噛み付こうとせんとした黒髪を捕まえて、ナビは彼女を一同の中央に押しやった。
「昨日ずっと考えてたんだ。短電波も赤外線もきかないってんなら、なにがいいかって。そこでこいつ、グリムが―――」
「うひゃっ!」
唐突に奇妙な声を上げたグリムの背後に、これもまた唐突なことにグリムが現れて不思議そうな顔をしている。
ナビは困り顔を見上げるほど大きな黒犬に向けた。
「えと……グリムのグリム……の、力を使って……」
「よ、呼んでないから戻りなさい、グリム……」
躾のなっていない飼い犬の行いを恥じつつ己の半身を引っ込めた少女は、ため息をついてナビの話に耳を傾けた。
「こほん……超音波探傷検査みたいなことができないかなって。おまえの力が、対象に直接衝撃を叩き込むものだってのは昨日簡単に解析してわかってる。衝撃ってのは、つまり振動だろ?」
「対象をより広域にして、例えばその場全体を震わせろってこと?」
「そそ、対象は壁とか床だけでいいんだけど……できるか?」
「やってみる―――グリム!」
今度こそ呼びつけられて、黒犬は直ちに影から飛び出して床に足をつけた。その尾は千切れんばかりにブンブンと振られている。
二足歩行のほうのグリムはあらわになった唇に人差し指と親指を添え、吸い込んだ空気を勢いよく吹き出してやる。
すると耳に心地よい指笛がフロアの片隅に響いた。
このごく単純なゴーサインに厚みのない黒犬は喉を晒すように頭を上げる。
黒犬の背後にはナビのネクロノミコンが控え、二つの間を目には映らない何某かの≪力≫が行き来する。
仲間たちはこれを感覚として捉えた。肌の露出している部分、顔や胸元などの表皮や産毛になにかがかすかに触れるような……
不快というほどではないがなんとも落ち着かない感触に、モナはぶるりと大きく身を震わせる。
「で、結局なにをしようとしているんだ?」
ピンとひげを広げたまま首を傾げた彼に答えたのは集中する二人の少女ではなく、唯一これからしようとしていることを知らされているクイーンだった。
「なんて言ったらいいのかしら……通常の探知には引っかからなくても、床や壁に足や手……って言っていいのかな……とにかく、どこかしらを着けていれば、そこが震えた時の振動の変化を感じ取れるみたいよ」
「ふーん?」
分かったような分かっていないような顔で大きな瞳を瞬かせたモナに、クイーンは肩をすくめた。
実際に行われていることは、まずグリムらが床や壁といった必然的に接する部分にごく僅かな振動を起こし、ナビがその無限とも言える反射波を分析して固定物等を除外、それ以外の存在、すなわちシャドウを探り出そうとしているのだ。
どちらにしても深い集中力を要する作業であった。ナビに至ってはいつも以上にUFOがUFOらしい動きを見せているから、自身の身体を固定することさえ忘れてしまうほどなのだろう。
しかしそれも長く続くわけではなかった。
「キャッチした! ミッションコンプリートだっ!」
唐突にそう言うなり、猛烈な勢いでネクロノミコン内の入力端末を叩き始める。
「ちょっと待ってろ、視覚情報に反映させてやる! あ、グリムとグリムは休んでていいぞ!」
「了解。ふう……」
肩から力を抜いて半身を帰すと、その顔はまたマズルマスクに覆われる。
そのまま手近な柱に背を預けた彼女に、ノワールがおっとりと語りかけた。
「待つ間にコードネーム決めようか?」
怪訝そうな顔をしたのは人間のグリムだけでなかった。
「グリムで決まったんじゃねぇの?」
スカルが率直に問いかけると、ノワールはゆるく首を左右に振った。
「グリムは彼女のペルソナになっちゃったでしょ? なんだかややこしいし、区別できたほうがいいんじゃないかなって」
あー、と感心したような納得したような声があちこちから上がる。
「そういうことなら、一応訊くけどなにがいい?」
やっと作業が終わったらしいジョーカーが手帳をポケットに突っ込みながらふり返る。視線の先の少女は難しい顔で虚空を睨みつけていた。
やがて彼女は、
「ギリアム」と真剣な顔をして言ったが、これは他でもないジョーカーによって却下される。
「却下だおこがましい」
「訊いたくせに一方的だし早い。宗教裁判かよ」
「まさかの時の―――ああもう、いい趣味してるなクソ」
悪魔的な態度の彼に、少女はそれならなんでもいいと肩をすくめた。
睨み合う二人とナビを除いた一同はうーんと唸る。
「……モンティ・パイソンはおいといて、見た目から入るのがいいよね?」
パンサーの言に頷いて、怪盗たちの目は人間のグリムに向かう。頭の天辺からつま先まで―――
いつものことではあるが、女性陣の怪盗衣装はいささか年頃の少年たちには刺激が強い。初めから参加する気もなさそうなジョーカーに続き、スカルとフォックスも早々に戦線を離脱した。
残された女性陣からはじめに案を出したのはクイーンだ。
「それって犬の無駄吠え防止用のマスクよね? それならドッグ、とか……」
言いつつ、これが安直であることは自覚しているのだろう、その声に普段ある自信深さや実直さは感じられない。
「犬かよ」
ちょっと呆れた響きの込められた言葉は戦場から離れたスカルのものだ。クイーンは拗ねたように眉をひそめた。
しかし犬呼ばわりをされたほうは皮肉っぽい笑みを浮かべて低く唸ってみせる。それは犬の唸り声によく似ていた。
「お手っ」
「ワンっ」
また彼女はパンサーが戯れに手を差し出すのに、犬の鳴き声をそっくり真似しながらそこに手を乗せてもみせた。
声帯模写という点では立派な特技だが、手まで出してやる必要はないだろう―――猫のマネもできるよと低く喉をゴロゴロと鳴らし始めると、モナの目がくわっと見開かれ、大きな三角形の耳がピクピクと神経質そうに動いた―――
さておき、ナビが「そろそろできるからはよ決めろ」と急かすと、黙り込んでいたジョーカーがいかにもどうでもよさそうな風を装って口を開く。
「じゃ、ファング」
リーダーたる少年に全員の目が向けられた。
「言いてぇことは分かるわ」
「仮面ライダーっぽい」
「もーちょっとなんとかならんのかオマエは」
「捻りはあるがまだ安直さは消えていないな」
「まあドッグよりはマシよね……」
「なんか合体しそう」
「えっと、私はいいと思うよ?」
ノワール以外から寄越された辛い点付けに、少年は憤慨した様子で足を踏み鳴らす。続けて飛び出すであろう罵倒の言葉はしかし、妙に落ち着いた声によって遮られた。
「―――なんでもいいって言っただろ。好きに呼べよ」
当事者こそがそう言うのであれば、部外者たちに言葉はない。
じゃあそういうことでとまとまったのを見計らって、ナビがひょいと手を掲げた。
「できたぁ」
短い言葉とともに少年たちの目の前にノイズが走った。各々の仮面に貼り付くようにして現れたのはナビとその半身の眼を通したヴィジョンだった。
かすかにオレンジがかった視界には黒点がいくつか打ち込まれ、その上に数字とmが刻まれている。どうやら黒点がシャドウ、上の数字は彼我間の距離を表しているようだ。
「おおーすっげぇ、ゲームっぽい」
「言うてそれリアルタイムじゃないけどな。えーと、ファングで決まり? じゃあそれ、あと何回か出してくれ」
移動の頻度や速さを見たいから、と請われてファングは頷いてみせた。
再びなんともむず痒い感覚が全員の知覚を揺する。ビジョンは直ちに変化し、シャドウらがそこここをうろついているのだということを教えた。
幾度かこれが繰り返されると、その移動速度や巡回ルートも見えてくる。
「よし……イレギュラーがなきゃ、もうシャドウの居場所が分かんないなんてことはないぞ」
―――なるほど確かに、と進み始めてしばらく、ジョーカーは深く納得してみせた。
エレベーターらしき四つの扉を見つけたはいいが、使用にはなにかしらのキーが必要であるらしく、彼らは階段を進むこととして歩き出した。いくつかの角を曲がるうち黒点が近づいたことを知って付近一帯を巻き込む攻撃を行うと、先日このビルを発見したときやファングが覚醒したときのようにステルス性を失ってシャドウが姿を現した。
とはいえこれはやっと互角になったという話だ。
いつものパレスなら潜んで進み、シャドウの後ろや頭上を取って奇襲を仕掛けるのが常套手段だ。正面切っての戦いが幾度も続くとなると当然疲弊するのは早い。
二階フロアに侵入するのも、セーフルームの一つに転がり込んで小休止と洒落込むのも想定より早くなった。
「辛いの平気?」
「え……今どこから出した?」
差し出されたルブラン特性のカレーライスにファングが怪訝そうな顔をする後ろで、クイーンとナビがここまでの道程について話し合う。
「やっと二階ってなると、ちょっとペースを考えたいわね」
「十五階まであるもんな〜」
二人の間には道中入手した内部の案内図が広げられている。いくつかの書き込みがなされているが、これはジョーカーがセーフルームや監視カメラの位置等を記録したものだ。その文字は乱雑で、解読には少しの時間を要する。
とはいえ二人の間を覗き込むノワールが難しい顔をしているのはその悪筆に対してではなく、入り組んだ構造とセキュリティの強固さ故だ。
古めかしくおどろおどろしい遺跡風の見た目に反し、内部には無数の監視カメラに赤外線センサー、自動巡回の警備ロボットなんてものも存在している。
「自意識過剰の定義についてまた話し合いたいものね」
肩をすくめたクイーンに、ナビがうんうんと首を縦に振る。
ノワールは苦笑しつつも案内図に指を置いた。
「セキュリティの解除か、エレベーターを動かす鍵をどこかで手に入れたいね。そういうのってどこにあるのかな?」
「その二つならだいたい同じ場所と思っていいかもな。警備室に行きゃあるだろ」
「ファング、そういう場所に心当たりはある?」
「ん?」
呼びかけられてふり返った彼女はちょうど口にさじを入れたところだった。
「待っへ……うっ、辛い……!」
「コーヒーもある」
「んぐ……あっ、苦い! お前! わざとやってるのか!?」
「いやカレーは辛いもんだしコーヒーは苦いもんでしょ」
喚くファングの横で同じく喉を潤すパンサーがニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。彼女はまたお子様舌とファングをからかった。
「くそぉ……他の飲み物はないのかよ……」
「あるよ。青汁でいいか?」
「いいわけあるか! もっと別の、水とかないのか?」
「水道水でよければあるが?」
「もうそれでいいよ……くれー……」
項垂れつつもフォックスの手から水の入ったボトルを受け取り、ファングはやっとクイーンたちに合流した。ただしその手には水以外にもまだカレーの皿が納まっている。
「悪いけどその辺りは役に立てないよ。現実のここに来たのなんて子供のころ数えられる程度だし、その記憶とも全然違う。あんな変な模様の壁も氷もなかった。構造も……」
言葉を区切って、ファングは考え込みながらまたさじを口に運んだ。直ちに眉がひそめられるが、彼女は決して咀嚼を中断しなかった。
そんなに辛いのなら食べなければいいのに……
思えど口にはせず、クイーンは思案する素振りをみせる。
「うーん、そっか。そうなると……どこに行けばいいのかしら」
「セオリーとしては一階や地下だけど、一階にはそれらしきものは無かったし、地下は駐車場だけだっただろ? 防災にしても防犯にしてもあまり高い階層には置かれないはずなんだがなー」
図面を睨みつけて腕を組んだナビに、ファングは然りと頷いて同意を示す。
「そうだね。普通は……美味いなこれ、キミがつくったの?」
「うん」
「チッ」
「なんで舌打ちした」
「ごめんジョーカーちょっとあっち行っててくれる?」
「喧嘩を売ったのはそっちなのに」
「あなたたち、構ってやって」
女王陛下からの下命に、離れたところでだらしなく椅子や床に身を預けていた男性陣から不平不満の声が上がる。
「最近ちょっと俺の扱いが雑じゃないか? 家出するぞ」
「ムッ、ワガハイのマネっ子か?」
「あ、じゃあウチこいよ!」
「なにをするんだ? ゲーム? ドカポンか? いたストか?」
それでも少年たちは少年たちで盛り上がり、この日のシゴト上がりにどう遊ぼうかを計画し始める。
ファングはさじを置いてクイーンらに向き直った。
「普通、警備室やモニタールームなんかは一階だよね。どうだったっけかな……」
「セキュリティに侵入できればオタカラの位置も掴めるんだよ。思い出せっ」
急かされて、ファングは困り顔を浮かべ、プラスチック製のさじの持ち手を指先でこすりながら視線を天井の隅に投げて記憶を探る身振りをしてみせた。
「んん……」
唸って、ファングは落ち着きなく足先を揺らした。まだ半分以上残っているカレーを睨みつけ、水の入ったボトルを軽く握る。
「基本この建物はオフィスなんだけど、研究開発のための施設もいくつかと……あと、警備は他所の委託じゃなくて、ここで直接雇ってた」
「シャドウの元になってんのはそいつらか?」
「そうなのかな。わからないけど、だとしたら厄介かも。防災と情報漏えいのためにかなりの人数を―――」
記憶を探りながらカレーのルーとライスをかき混ぜていた手が唐突に止まる。
もしや異物でも混入していたかとその手元を覗き込んだパンサーとノワールに顔を向けて、ファングは思い出したと立ち上がった。その手にはやはりカレーと水が握られている。
「警備室! 配置が変わってなければ三箇所だ!」
「おせーよホセ」
「ごめん、忘れてた! えっと、十三階と、九階と、四階!」
その手から落ちそうになるカレーと水のボトルを、それぞれパンサーとノワールがすくい上げる。
ファングはそのまま二人の周りをぐるぐると歩き始めた。
「それぞれ下三つのフロアの警備を担当してて……セキュリティ管理用の端末があったはず」
カツッと踵を鳴らして立ち止まった彼女の前に、椅子とカレーと水が差し出された。ファングは受け取って座すと、またカレーに口をつけ始める。
「つまりぃ、それでエレベーターが動かせるようになる?」
行儀よく食べ始めたファングを見守りつつ、パンサーが小首を傾げる。隣でノワールが頷いた。
「ダメだったとしても、探索は楽になるかもね」
「わたしにまかせろー」
「そうね、じゃあまずは四階に向かいましょうか」
言ってクイーンは判断を仰ぐために少年たちのほうへ視線を投げる。
―――彼らは肩と額を寄せ、真剣な表情でなにかを議論しているところだった。
「……なにしてるの?」
きょとんとした顔のパンサーが問いかけると、中心で腕を組んでいたモナが唸り声で応えた。
「む、むむ……いや、なんというかだな、ネコ派かイヌ派かという議論を……」
その尾の先端、白い部分は芋虫のようにうにうにと揺れている。
額面通りにこれを受け取ったパンサーはアハハと軽い笑い声を上げ、歩み寄ってモナの小さな手、その肉球の感触を楽しむように揉みさすった。
「なに? モナはやっぱネコ派なの?」
「パンサー、ワガハイはネコじゃ……いや、うむ。ネコ派ではあるんだけどぉ」
「やっぱネコなんじゃん。うりうり」
「ンにゃっ、ゴロゴロ……」
喉の下をいささか乱暴にでも撫でられると、ネコ型の生き物は目を細めて喉を鳴らし始める。
しかし彼の幸福は長くは続かなかった。ジョーカーの腕が首根っこを摑まえるとひょいと持ち上げられて、ぬいぐるみにするようにその腕に抱きしめられる。
「俺もネコ派」
天国から地獄―――
とモナが思ったかどうかは解らないが、彼は悲鳴を上げてぬるりとその腕から逃れ出た。