16:Seize the Day

 巨大な白蛆は絶えず口を開閉させているが、その内部に牙や歯、舌らしきものはわずかたりとも垣間見えず、ただのっぺりとした口腔内の肉壁だけが覗いている。
 それによってジョーカーと彼が抱えるナビを丸呑みにでもしようというのか、裂け目のような口を大きく開き、鎌首をもたげて二人に襲いかかった。
 一瞬の判断でジョーカーは腕の中の小柄な身体を、前方数メートルの距離にまで寄っていたグリムに向かって放り投げた。
「ひえぇっ!?」
 悲鳴を上げたナビを横目に、自身は真横に跳んで逃れる。白蛆の口は再び空を食んだ。
 一方でグリムは見事に空中でナビを掴み取り、切り返す勢いで後方へ大きく跳躍をしてみせている。
 安堵の息を漏らしたジョーカーの傍らで白蛆は獲物を逃した悔しさにか、ブルブルとその身を震えさせ始めた。
 嫌な予感に突き動かされるようにしてジョーカーは拳銃を構えた。あぶくのように浮き出ては消える眼球目掛け、連続して弾丸を叩き込む―――
 効果はあった。蛆は仰け反って呪いの言葉らしきものを吐いたがその意味を理解することはできず、またすぐに蛆はその円盤状の顔を彼に向ける。
「チッ!」
 舌打ちとともに蛆の視界外、腹の下に潜り込もうとした彼の頭上で古いカメラのストロボのような強く白い光が瞬いた。
 全身にそれを浴びることなく済んだのは、咄嗟の判断力のおかげだろう。
 しかし―――
「うあッ!?」
 ガクンと少年の身体が傾ぐ。見れば左足、ふくらはぎから踵にかけてが真っ白な氷に覆われている。
 冷たい。
 これは当然のことではある。氷というものは冷たいものだ。
 問題はその度合いだ。氷を押し付けられているのとは比べ物にならない冷気が貼り付いた氷片から放たれている。その冷たさは皮膚の下を流れる血液までもを凍らせ、筋組織を壊死させかねない勢いだった。
 すぐに、ジョーカーは己の仮面に手を当てて、無数の仮面のうち一つを選んで呼び出した。
 赤子を抱えた鬼女は彼の足にへばりついた冷気の塊を剥がさんと手を振るうが、わずかなヒビさえ入れることは叶わなかった。
 なんだこりゃと思う隙こそあれ、仕方なしにジョーカーは凍りついた足をそのまま白蛆の腹の下から転がり出た。
「気をつけろ! 今のその光っ、ピカッてやつを浴びると凍っちゃうみたいだ!」
 すでに陣形を組んだ仲間たちの後方に控えたナビが、グリムの腕から飛び降りつつ大声で叫んだ。
 なるほどそういう仕組みか。
 理解してジョーカーは忌々しげに足を振ろうとしたが、氷によって固定された関節は思い通りの動きをしてはくれなかった。
 いつの間にか彼の足元に駆けつけていたモナもまた難しい顔でそこを睨みつけている。どうやら猫の治癒の力でも氷を剥がすことは叶わないらしい。
 となれば後は熱に頼る他ないか。
 その際に与えられるであろう痛みを思って顔をしかめたジョーカーに、蛆は身体ごと向き直った。相変わらずその口裂はしきりに動き、眼球は膨れては弾けを繰り返している。
 攻撃がくる。それもこの上なく厄介なやつが。
 ジョーカーとモナは直ちに照射されるであろう光の範囲から逃れようと左右に散った。しかしすでに片足の自由を奪われたジョーカーはどうしても出遅れる。
 閃光が瞬き、ジョーカーは全身が冷気に襲われることを想像して身震いした。寒いのは苦手だ。
 けれど光は硬質的な甲高い音を立てて弾き返される。
「―――よしっ、予防措置は可能みたいだね」
 言ったのは後方に陣取っていたノワールだ。その愛らしい顔には薄っすらとした笑みが浮かんでいる。
 彼女の背後には豪奢なドレスを身に纏った顔の無い女が佇み、羽扇を扇いでいる。ノワールがこの半身の力を用いて、言葉通りの予防措置―――人智を超えた力を弾き返す盾をジョーカーの前にかざしたのだろう。
 しかし反射され、蛆の身に返されたはずの力はそのもの自身にはまったくなんの影響も及ぼさない。それも当然か。蛆はこの冷気こそを好んでいる様子を見せている。
 どうにか立ち上がったジョーカーの鼻先を、その冷気を含んだ風が疾走る。
 次鋒を務めるフォックスが素早く斬り込んでいた。例の吹雪を呼ぶシャドウと違っていつも通りの働きができるからか、彼はどことなくイキイキとしている。
「離れろフォックス! そいつがわたしの知ってる怪物なら……」
 けれど唐突に後方のナビが警告を告げた。
 困惑しつつもそれに従って素早くその場を脱したフォックスであったが、その足跡を追うように噴き出した蛆の血液を目にして顔を青ざめさせる。
 ジュウッと嫌な音とともに氷の上に滴った赤紫色の液体が強い腐敗臭とともに凝固し、小さな石筍を作り出していた。
「う……美しくない……っ!」
 叫びながら慌てて鞘に収まった刀身を確認すると、己の顔が映り込むはずの白刃には液体が錆のように付着し、金属を腐食させてしまっていた。
「ああぁ……」
 この得物は気に入っていたのにと項垂れた彼と入れ代わり、クイーンが青くほとばしる閃光を叩き込んだ。
 これは一定以上の効果がみられた。蛆が身を震わせて後退ったのだ。
 けれど疲労と消耗のためか致命傷とまではいかず、蛆は痛打に逆上したとでもいわんばかりに胴とさほど変わらない太さの尾を振り回して少年らに襲いかかった。
 身軽な猫や狐、フィジカル面で優れたスカルやクイーンはともかく、パンサーやノワール、片足とはいえ自由を奪われたジョーカーがまともに食らって弾き飛ばされる。
「くそッ、クイーン! ここは任せた!」
 受け身こそ取れたが冷たく硬い氷の上を転がったジョーカーは指揮権を前方に投げ渡した。
「了解! 叩くわよスカル、フォックスとモナはカバーに入って! ノワールは動けたら補助を!」
 応とこたえて続いたスカルと大きく手を振ってみせたノワールはさておき、フォックスはまだ肩を落としたままだ。
「斬れない敵とはな……」
「ボヤくな。やるぞ!」
 それもモナの一喝に潰される。
 もとより異論はないのだ。フォックスはすぐに蛆の動きを見定めて牽制する位置へ走った。
 後方では、ジョーカーがパンサーを捕まえて足の氷を溶かそうと苦心している。
「う……」
 うめき声を上げて顔を逸した少年の足に、炎の塊が撫で付けられる―――
 しかし氷はますます強い冷気を放ち、逆に炎を飲み込んでしまった。
「ウッソ、なんで!?」
 驚愕するパンサーに分からないと首を振ってナビに視線を送るが、彼女もまた同じように首を振るばかりだ。
「たぶん……あいつがわたしの知ってる怪物なら……これ、なにしても取れないよ」
「打つ手なしか」
「いちおうそれも認知の産物に過ぎないはずだから、ここから出れば消えると思うけど……」
「それじゃ意味ないな」
「ズボン脱いでもダメなの?」
 キョトンとした様子で首を傾げたパンサーに、ジョーカーとナビは沈黙する。
「……脱いでいいの?」
 前線の激しい剣戟による轟音に我に返ったジョーカーが静かに問いかけたが、彼女が答えるより先にナビが激しく首を左右に振った。
「だめ。やめろ。汚い。見たくないっ」
「この下にどんなオタカラが隠されてるかも知らないくせに汚いとは何事だ」
「な〜にがオタカラだ。その未使用新品ちゃんとしまっとけよ!」
「未使用でなにが悪い! むしろいいことだろうが!」
「キミたちっていつもこうなの?」
「そうだけど、それはコイツらだけね。お願いだからそこんとこは区別して」
 前線にはノワールも加わって激しい戦いが繰り広げられていた。
 チェレンコフ光が溢れ、豪風とともに雷鳴が轟き、それらに怒り狂う閃光が襲いかかっては鏡のような盾が弾き返す―――
 一見すれば旗色は子どもたちにあるように見えた。
 しかし、蛆はどれほどの攻撃を受けても執拗にその身を狙い続ける。無尽の体力があるかのように。
「この……クソしつけぇなオイ!」
 丸呑みにしようと迫った口を手にした長物で叩き返して、スカルが吼える。その額には玉のような汗が浮かび、息はすっかり乱れている。
 最も肉体的に優れた彼がこうなのだ。モナやノワールは息を荒げて猛攻をかわすのに必死になってしまっていた。
「チマチマ削ってもダメね……私たちでは弱点も突けないようだし……」
 蛆の身体から噴き出す腐食性の体液を避けつつ、クイーンの目がさっとスカルとフォックスに向かう。
 少年たちは言葉もなく小さく顎を引き、得物を構え直した。
 一撃デカいのを叩き込んでしまおうと彼女の瞳が告げていたのだ。であれば、彼らがやることはそのための下準備だ。
 はじめにフォックスが走り出した。
 真っ直ぐに己に向かってくる無防備なその姿に、白蛆は大口を開けて身体を起こす。
 己の全身に巨体が影を落とすのに構いもせず直進した彼は、覆い被さるように落とされた顔がぶつかる直前、速度を早めて滑るようにぬたくる身の下に潜り込んだ。
 すると彼の目の前に相変わらず胸の悪くなるような臭いを放ちながら体液を滴らせる傷が現れる。先に彼が切り開いた箇所だ。
 そこに鞘に収まったままの得物を渾身の力を籠めて挿し込んでやる。勢いに跳ねた液体が数滴手や腕に掛かり、一応痛覚があるらしい蛆が太い尾で氷を叩いて暴れたが、やはり少しも構わず、転がりながら刀を引く。鞘はすっかり分厚い皮膚と肉に絡め取られてしまっていたが、刃は問題なく引き抜くことができた。
 起き上がりざま切っ先を腹に突き立て、錆びて切れ味を失った刃を肩で押しながら巨体の下から走り抜ける―――
 腹の下から飛び出した彼の背後で、蛆の臓物らしきものが不快な音と悪臭とともに氷の上に落ちた。
 耳をつんざくような絶叫が蛆の口から上がり、弓のように背が反らされる。
 スカルは氷を蹴って跳ねると、その晒された首あたりの節に足をかけて円盤状の顔の上に乗り上げた。
 そこには薄っすらとした二つの鼻の穴と、ボコボコと泡のように溢れては消える眼球を備えた二つの眼孔、そして幾度も彼らを丸呑みにせんとした巨大な口―――
 少し迷って、スカルは左の眼孔に己の得物を突き刺した。
 なんということはない、ただの鋼鉄製の鉄筋だ。主にコンクリート等の補強に使われるリブの刻まれた直径三センチほどの棒でしかない。
 呑み込まれる前に飛び降りた彼は、まだ地に足がつく前に半身を呼び出して蛆に指を突きつける。
 指鉄砲を構えた彼は、なんの気もなしに
「Bang!」と楽しげに囁いた。
 同時に突き刺した芯棒に稲妻が落ちる。
 正体の知れない怪物にもやはり筋や神経があるものなのだろう。強力な電流が全身を走り、そのものの意思とは無関係に硬直した。ピンと背を反らして直立する姿は突き立てられた鉄の棒と合わさって地に串刺しにでもされたかのようだ。
 その硬直は一瞬のことだった。
 けれどこの一瞬こそを待ちわびていたと、クイーンが己の仮面に手を添え、引き剥がして己の半身に跨った。
 白銀に輝くボディに涼やかな女の顔を張り付けたそのものは、蓄えていた力と本体のフラストレーションをいっぺんに吐き出すかのようにカッと目を見開いて咆哮を上げた。
 光さえも置き去りにした力が蛆の丸々と肥えた腹に突き刺さる。蒼白い光が辺りを包み、その中心から水風船が破裂したかのような勢いで赤紫色の液体が散らばる―――
 大きな音と振動が響いた。舞い上がった雪と氷の破片はすぐに風に吹き飛ばされ、蛆が横ざまに倒れ伏した姿をあらわにしてくれる。
「……ふうっ、なんとかなったかしら」
 横髪を払い、息をついたクイーンの声が広く氷の上に響く。応じるものがないことが、彼女たちの勝利を教えていた。
「おつかれさん! ヤバかったわ、見ろよこれ、穴空いちまった」
「俺もだ。クイーン、早めになんとかしてくれ。ものすごく……痛い……っ!」
 女王陛下の剛撃に巻き込まれまいと左右に別れて退避していた少年たちも歩み寄る。
「はいはい、見せて。わっ、結構深いね……モナ、動ける?」
「しょーがねぇなぁ。ほれ見せてみろ」
 なんとかなったかと息をついたのはジョーカーたちも同じことだ。一連のやり取りの後ろでどうにか氷を剥がそうと苦心していたが、どうやら必要もなかったらしい。
「とりあえず、今日はもう出よう。対策についても話し合いたいし……」
 不自由な足をどうにか動かして立ち上がろうとする彼にパンサーが手を差し伸べてやる。が、どうにも彼女一人の力では見た目より重量のある彼を支えきれないようで、パンサーは碧の瞳をグリムに向けた。
 それはなんの裏もなく、ただ手伝ってと訴えている。
「……私がさ、実はキミらをハメるつもりだったらどうするんだよ……」
「え? なんで? そんなんできないでしょ?」
「なんで」
「だってキミ、フォックスのこと好きじゃん」
「な……なんで……」
「は? 隠してるつもりだったの? ジョーダンでしょ?」
「ちょっと……待って……どうしてそう思ったの……!?」
 どこか弾んだ様子のパンサーと、相反して戦慄したグリムの声が頭上で交わされることにジョーカーは苦笑する。そして彼もまた戦慄した。
 それも『女の勘』ってやつ?
 とは、聞く気にもなれなかった。
 なにしろ未だ空中に浮かんで敵の様子を伺っていたナビがけたたましい警告音を鳴り響かせたからだ。
「まだ! 生きてる!! ノワール、弾いてっ!!」
 警句にほとんど無意識的にノワールは動いた。己の仮面を剥ぎ取りながらクイーンらの前に立ち、降り注ぐ閃光に向けて手をかざす。
 いくらかの光はそれによってかわすことができた。
「ううっ……! みんな、動かないでね―――」
 しかしノワールの足元、つま先から腿の中ほどまでは凍りつき、氷像と化したかのように地と一体化してピクリとも動かすことが叶わない。
 それでも彼女は腕を降ろさず、閃光を弾いてみせた。
「この虫ヤロウ、よくもやりやがったな!」
 モナの小さな身体が氷を蹴り、ビクビクと震えながら顔を上げていた蛆に一刀をかざす―――
 断末魔の悲鳴は短く小さかった。憤慨したモナの斬撃によって斬り刻まれた蛆は、今度こそピクリとも動かなくなったようだ。
「クソ、なんなんだよこれ! 剥がれねぇ!」
「足場ごと切り取って運ぶしかないか……?」
「大丈夫? 痛む?」
 ふり返ったモナの視線の先、凍りついて動けないノワールを囲んで、クイーンたちがオロオロとその周りを回っている。
 モナはため息をつきつき、尾を引きずって彼女たちに歩み寄った。
「ノワール……バカもの、自分の身も守れないのかオマエはぁ……」
 呆れと叱責の言葉とは裏腹に、大きな瞳は潤んでいる。
「だ、大丈夫だよモナちゃん。みんなも。冷たいけど、そんなには……あの、ただ、そのぉ……」
「やっぱりどこか痛むの!?」
 慌てた様子で顔を寄せたクイーンに、ノワールは恥じらいつつ耳打ちをする―――
 ……クイーンは神妙な顔で頷いて、男二人に彼女の足場を慎重にくり抜くよう厳命した。
 ともあれ、これで今度こそ本当に危機は去ったのか。
 ジョーカーはナビを仰いで返答を待ったが、帰ってきたのは引きつった笑い声だった。
「うひっ、なにこれ……ものすごい速度でなんか来てる……」
「なにが―――」
 来ているんだ、と問おうとする彼の前方で、つい先ほども味わった衝撃と振動が起こった。
 ノワールを囲んだ子どもたちのすぐそば、倒れた蛆のちょうど真横から、そっくり同じ円盤状の顔が氷を突き破って顔を突き出していた。
「―――フォックス! クイーンを―――」
 スカルの言葉の最後まで聞かず、フォックスはクイーンを担ぎ上げ、モナを脚に引っ掛けて走り出した。
「待って! ノワールが!」
「スカルに任せろ! とにかく一度陣形を整えるんだ!」
「ンぎぎ……くっそぉ、もう一体いたのかよ!」
 少年たちの背後でパッとエレクトロニックフラッシュが瞬いた。
 それは足元を強烈に照らしている。ノワールを狙ったものだが、辛うじてスカルが飛びついてこれを反らしていた。
「ナビぃ! もう一体いるんなら早めに言えよ!?」
「しょーがないだろぉ!? 地中……っていうか、氷ン中を高速で移動してくるなんて普通は思いつかない―――」
 叫び返したナビの広い視界の中央で、スカルが蛆の頭から振り落とされる。
「あっ、ちょ、タンマ……穏便にいこうぜ? 話し合う姿勢って大事だなーってボクは思うンすよ……」
 尻もちをついた格好でじりじりと後退る彼に、蛆はずいと顔を寄せた。
 薄っすらとした鼻、泡立つ眼孔とそこから滴る血液、横一文字に裂け、しきりに開閉を繰り返す大きな口―――
 ガバッと大きく開かれたその中には歯も舌も無く、ただのっぺりとした肉がスカルを取り込もうと脈動していた。
「うわあぁっ! ヤベーって! 俺今すっげー汗かいてるからやめてぇっ!?」
 バネ細工のように起き上がって走り出した彼を蛆虫は猛然とした勢いで追い始める。
 当然速さの点では芋虫のような動きのそれとスカルでは比べ物にならないが―――
 怪物は唐突にギャッと短い悲鳴を上げて足を止め、ぐりっと顔を横へ向けた。
 眉をひそめて視線の先を追えば、青ざめた顔のノワールが腕を前に突き出した格好で怪物を睨みつけている。見れば、蛆の頭のすぐ下には彼女の得物である斧が突き刺さっているではないか。
 脚も動かせない状況であの斧を一投したらしい。なんという剛力か。
 感心するのと同時にスカルは踵を返し、蛆の横っ腹に向かって走り出した。
 正直なところを言えば、彼だってこの気色の悪い生き物に触れるのは御免こうむりたい。なにしろ冷たいのにブヨブヨとして、しっとりと濡れた感触がするのだ。分厚い皮膚の下で筋組織らしきものが蠢いているのも吐き気を誘う。
 しかしやらないわけにはいかなかった。ノワールが決死の覚悟で作ってくれたこの隙をうまく利用できねば、明日からスカートをはいて竜子ちゃんと名乗らなければならないだろう―――
 スカルは泣きそうになりながらノワールを睨む顔、その円盤の縁を掴んで渾身の力と体重に勢いを乗せ、氷の上に叩きつけた。こんなことになるのなら得物を手放すべきではなかったと後悔するが、今さらだ。
 仮面を引き剥がし、半身の力を触れた手越しに注ぎ込む。バチバチと奔る雷に合わせて蛆の尾がバタバタと暴れ回った。
「大人しく……してろォっ!」
 一際強い雷光が迸り、蛆はビクンと一度身体を跳ねさせてから硬直した。
「よくやったスカル!」
 好機とジョーカーが足を引きずりながら前に出る。
 しかしその瞬間、それこそを待っていたと言わんばかりに蛆はジョーカーに顔を向けた。
 攻撃が来ることを察して慌てて防御に動こうとするが、彼が呼び出した半身はすでに攻撃姿勢に入っている。前に進む脚を回避に使おうにも片方は自由が効かず、もう片方は氷の上を滑ってしまっている。
 彼にできたのは無理やり身体を捻って利き手を身体の影に隠すことくらいだった。
 目を焼くようなエレクトロニックフラッシュ。
「マジかよ……冗談だろ……」
 呻いたのはジョーカーではなかった。
 彼の前には血の気の引いた顔の友人が立っている。
 元いた位置とここまではそれなりに距離が空いていたはずだが、一息でここまで駆けつけたのだろう。その俊足が健在であることは喜ばしいが、しかし素直に喜ぶことはできなかった。
「やべぇよコレ、お前らよく平気な顔してられんな……」
 スカルの背と、ジョーカーを突き飛ばすのに伸ばした腕はすっかり氷像と化していた。全身を覆う冷気に歯の根が合わないのか、カチカチと歯を鳴らしている。
 ジョーカーは目を細めて口を開閉させた。礼を言うべきか、余計なことをするなと罵倒すべきか解らなかったのだ。
「な、なるべく早めに、なんとかしてくれよ……」
 その惑いを見透かしたように、あるいはまったく意識せずにか、スカルは告げる。口元には不敵な笑みさえあった。
 ジョーカーは身動きのできない彼の腹を小突いた。
「ちょっと待ってろ。すぐ終わらせる」
「いてっ! なんで叩いたの……?」
 鼻を鳴らして、ジョーカーはスカルの脇をすり抜ける。攻撃を食らう直前に放った彼の一撃はどうやら当たってくれていたらしい。しかし怯ませる程度であるところを見るに、炎の類も弱点ではない様子だ。
 それならもう一度、先のクイーンのような一撃を叩き込むなりしてから全員で囲んで叩けばいい。
 問題は―――
 ジョーカーは前方と背後、左右の気配を探った。
 怒り狂う蛆虫のそばには身動きの取れないノワールが佇んでいる。彼女の武器は蛆の首に突き刺さったままだ。背後のフォックスも得物を失ってしまった。……あれ、安くなかったのに。クイーンは目立った怪我こそないものの先の大技で疲労している。モナも似たような状態だ。
 であれば比較的余裕のあるパンサーに攻撃手を任せるべきだろう。
 さて、彼女に大技を使わせるにしても、隙を作り出せるスカルとその介添えたるノワールが動けないのが本当に痛い。もっと慎重に動くべきだった。後悔先立たずだ―――
 ひとしきり考えつくして、少年は小さく呻いた。スカルとノワールが抜けて空いた穴を埋めるには彼自身が動くしかないのだ。できないことはないが、片足が使えない現状を思うとため息も漏れようというもの。
 それでもやるしかない。
「さて、どうやって隙を作ろうかな……」
「どれくらいだ?」
「パンサーが集中できる程度だから、十秒くらい」
「分かった。手伝ってやるよ」
「ん?」
 考え事に没頭していた彼は、そこでやっと問いかけてきていた声が己の独り言ではなく第三者によるものであると知った。
 すぐ隣をバネのように影が飛び跳ねる―――
「うわあっ!? 戻れグリム!!」
 奇声を上げたジョーカーとその内容に仲間たちはふり返る。その頭上を軽々飛び越えた少女は、まだ事態を把握していない怪物の頭部めがけて足を振り下ろした。
 ギャアッと甲高い悲鳴が上がった。グリムの脚が刺さりっぱなしになっていたノワールの斧を押し込んだのだ。
 また彼女はその手に短銃身の散弾銃を抱えていた。
「俺のベネリ!」
 スカルが吠える。どうやらグリムは凍りついて動けない彼の持ち物を拝借したらしい。
 かすかに眉尻を下げたスリ師は、しかしなんの躊躇もなく蛆の頭部に取り付いて、たった今己こそが広げてやった傷口に銃口を挿し込んで引き金を引いた。
 なんの変哲もないエアガンのはずのそれは、本来なら三発のBB弾が射出される銃口から12ゲージを吐き出した。
 それ自体に驚きはない。グリムはとっくにこの現象を目にして、理解することは放棄したが把握はしている。
 一撃では足りないとコッキングを行う動きにも淀みは無かった。
「うっ……なんでバネ抜いてないんだよ!」
「返せよー」
 ふり返ることもままならないスカルはただナビが浮かぶ後方を睨みながら訴えるしかない。そんな彼の耳朶を重く強い発砲音が幾度も叩いた。
 蛆は身体の内側に直接散弾を叩き込まれる苦痛の原因を取り払おうと身体をくねらせ、太い尾を持ち上げる。
 しかしそれが振るわれることはなかった。
 ダメージという点ではなんの影響も及ぼせないが、物質的に氷結という現象は蛆の尾を氷の上に縫い付けることが可能だったからだ。
「ナビのそばに居ろと言ったはずだが」
「本気で聞き入れてもらえると思ってたの?」
 そう訊いたクイーンに、フォックスは力なく首を左右に振った。
「……長くは持たん。そこを退けグリム!」
「言われなくても」
 大きな跳躍をみせるのと同時に縫い付ける氷柱を砕いて尾が激しく振り回される。
 その間も白蛆の顔はグリムをじっと捉えていた。一際強く床を叩いて止まると、首を伸ばして大口を開け、まだ空中にある身を追いもした。
 伸ばされた巨体が少女の脚に追いつかんとしたまさにその時、パンサーが吠える。
「オッケー! やるよっ!」
 鞭を手にした彼女の背後には、すでに無数の火の玉が浮かんでいる。
 誰にも止める理由はなかった。
 彼女の前で防護を担当していたジョーカーは、道を譲るように身を引いて手で示してみせた。
 そうすると、まるで彼の手こそが導いたかのように火炎がそこを通り過ぎていく―――
 一発、二発、三発、休む暇もなく叩き込まれる炎の塊に、白蛆の肉体からは煙とともに悪臭が漂った。
「スカルとノワールの仇ぃ!」
「いや俺ら生きてっから」
「殺さないでー」
 一際大きな炎塊―――元気玉、とまたナビが言った―――を叩き込んで、パンサーは満足げに背をそらし、高らかに笑い声を上げる。
「どぉ? さすがにイっちゃったでしょ?」
 かかと笑う彼女の声に怪盗たちは肩をすくめた。イったかどうかは分からないが、痛打であることは間違いないのだ。
 事実もうもうと上がる黒煙が晴れた先に倒れ伏してピクピクと痙攣する蛆の姿があった。五体満足でパンサーのそばに着地したグリムなどは、いくらか顔を引きつらせている。
 とはいえこれで今度こそ戦いも終わっただろう。
「はーっ……つっかれたぁ……マジもう今日は帰ろ。モナ〜、座らせてぇ」
 間延びした声を上げて疲労感をあらわにするパンサーに、モナは慌てた様子で駆け寄って飛び跳ね、空中で三回転。車両に変じて彼女に座席を用意してみせた。
 ステップに足をかけて車中に消えるパンサーを見送ったグリムもまた額に滲んだ汗を拭う。自信があったからやったことではあったが、上手くいって良かったと安堵の息も漏らした。
「……グリム」
 すると恨みがましげな目でフォックスが歩み寄る。
「なんだよ」
「なぜ無茶をした」
「無茶ってほどのことじゃないだろ。怪我一つないんだから」
「一歩間違えばどうなっていたかは分からないだろう」
「この私がしくじるわけがないだろ!」
 鬱陶しげに狐面を睨みつけ、語気を荒げる。その声はすっかり吹雪の収まった氷原に響き渡った。
 なんだと怪盗たちは二人に目を向け、スカルとノワールの救出作業にあたっていた手を止める。
 比較的そばに控えていたナビが怯えた様子を見せていたからか、すぐにジョーカーがフォックスの尾を引いてやり取りを中断させた。
「フォックスも手伝え。あんたはナビのそばを離れるな」
「おい引っ張るな、ちぎれる……!」
 さしたる距離ではないが離れた少年たちを遠目に、グリムは肩を落とした。
 少年らのさらに向こう、オベリスクめいた建築物との間に倒れ、黒煙をたなびかせていた虫の姿はいつの間にか靄のように消え失せている。
 そっと隣に立つナビの顔色を窺って、グリムは慎重に声を発した。
「もう大丈夫なの?」
「ん……どうだろ。今探ってるとこ。サーチの範囲を広げるから少し待て―――」
「そうじゃなくて、大きな声出してごめんって……」
「よーし、今度こそ安全だぞ! 周辺一帯に不審な影はなし!」
 パンと手を合わせて、ナビはグリムをふり仰いだ。その長い髪にはところどころ雪片が付着してしまっていて、グリムの手が優しくこれを払い落とした。
 スカルとノワールが足元の氷ごと切り出されてモルガナカーに収容されたのはその五分後のことだった。
「よし、今度こそ今日は退散。この攻撃のこともあるし、パレス本体に入るのならもっと準備して……」
 指示なのか独り言なのか判別のつけ難いつぶやきを漏らしつつ、ジョーカーは助手席に乗り込んだ。運転席ではクイーンがハンドルを握っている。
 あとはナビとグリムが乗り込んで、それで今日の探索は終了だ。来た道を真っ直ぐ引き返せばいい。
「……しかし、まさか本当に隠れていたとはな」
 なんの気もなしに漏らしたのは座席に深く身体を預けたフォックスだった。その長身故窮屈そうにしていることが多い彼だが、このときは姿勢を変えられないスカルとノワールがそばにいるからか普段より余計に身を縮めていなければならず、疲労も合わさって顔には渋面が浮かんでいる。
「まあねー……コーガクメーサイだっけ? こんだけ完璧に消えられるもんリアルにあったらヤバそう」
 同調して所感を述べたパンサーの顔にはどことなく嫌悪感じみたものが滲んでいる。
 現実に存在し得ない怪物より、今まさに作り出されようとしている技術のほうがより身近ではあるからだろう、似たような感情は皆大小に関わらず抱いているらしい。事実としてどことなく苦みばしった空気が車中には満ちつつあった。
「―――技術は、ただの技術だ。それそのものには何も無い。良いとか悪いとかいう価値観を貼り付けるのは人間のほうだよ」
 打ち払ったのはナビに続いてステップに足をかけたグリムだった。唯一顔を隠すものを持たない彼女の表情は複雑な感情に彩られていた。
「私のスーツだって本来なら医療や介護の現場で使われるものだけど、さっきみたいな使い方もできる」
 そして、それ自体は決して悪ではないと彼女は語った。先に語った通り、技術そのものには決して善や悪といった属性が存在しないからだと。
 耳を傾ける少年たちはそれもまた言い訳に過ぎないと断じることもできた。
 何故なら技術開発に携わる者たちが本当に賢明であるなら、自分たちが作り出すものがどのように活用されるのかまでを視野に入れているはずだからだ。
 ましてやただの好奇心のみによって過ぎた技術を作り出そうとしているというのであれば、それこそが純粋なる悪ではないか、と―――
 とはいえそのような善悪の基準をこの場で論じるつもりも、その体力も気力もない。
 今はなによりも固く口を閉ざすばかりだった彼女が己の胸中を少しでも明らかにしようとしていることへのほうが皆の関心は強かった。
「……大事なのは、その功罪じゃない。作り出したやつがどんな意思を籠めたのかを知ることだ。真の意志を受け取るほうが正しくなくちゃ、どんな『偉大な傑作』にも意味はない―――」
 言いながらまた一歩踏み出した少女の背後には、高くそびえるオベリスクに似たビルがある。
 悔しそうに歯を噛んでいるのは阿藤なる男の心の中にこれが存在しているからか、それともその中で作られている技術を目の当たりにしたからか、それとも……
 誰もその胸中を推察することはできなかったが、ただ一人フォックスだけは耳に覚えのある単語に眉をひそめていた。
 『偉大な傑作』―――
 何度か彼女の口から聞いた言葉だ。時として怒りとともに吐き出されるこの言葉がなにを指しているのかは、今となっては明らかだろう。
「おじいちゃんの絵も……」
 少年の胸の内を肯定するように少女はつぶやいた。
 ふり返ったナビはその意味を掴みかねて首を傾げている―――
 けれどすぐに彼女は全身に警戒を漲らせ、ゴーグルの下の瞳をいっぱいに見開いてジョーカーの襟を引っ掴んだ。
「だっ、誰かが……見てるっ!」
「は?」
「誰かがこっち見てる……すぐそば……そこ―――」
 青ざめたナビの指が車外を指し示した。
 グリムのすぐ背後の空間にはしかし、雪と氷以外になにもありはしなかった。
「あ? どうしたんだよ?」
 首を傾げ―――ようとして、凍りついてそれもままならないスカルが問いかけるが、怯えたナビはなにも答えなかった。
 代わりにか、妙にザラついた男の声が響く。
『もう帰るのかね?』
 最も顕著な反応を示したのはグリムだった。顔を青ざめさせ、拳を握って勢いよくふり返り、なにも無いはずの空間に向けて脚を振るいもした。
 すると奇妙なことが起きる。
 かすかなうめき声とともに足元の雪と氷が乱れ、景色が歪んだ。それと同時にバチッと静電気が火花を散らすような音を立てて、地面に倒れたそのものが姿を現す。
 それは真っ黒で光沢のない材質の、ウェットスーツに似たもので全身を包んだ人型のなにかだった。
 なにかと表したのは、仰向けに倒れたはずの身体が動画を逆再生させたかのような動きで起き上がったからだ。人間には到底再現不可能な気味の悪い動作だった。
「なんだ、今の感触……ぶにょっとして―――」
 呆然とする少女の首を『目に見えないもの』が掴んだ。
「ッ!? なに、これ……!?」
 またたく間に彼女は膝をつく。今や首のみならず、頭と肩、腕と足を掴んだなにかが全身を押さえつけていた。
「うわぁっ!?」
 車からは悲鳴が上がった。車両に変身したモナが、『なにか』が己に触れるのを感じて毛を逆立てていた。
 そしてその中で、ナビが頭を抱えて縮こまっている。
「いいいいっぱいいる! なんでっ、さっきまでなにもいなかったのに……!」
 言って、ナビは疑問そのものが答えであることにすぐに気がついた。
「私のサーチにも引っかからない……まさか!」
 視線の先ではそれが正解だと教えるようにグリムが床に組み伏せられている。動きを補助する人工筋肉が奇妙な収縮を行っているのを見るに相当な力でもって押さえつけられているらしい。
「なにこれ、どうなってんの?」
 怪訝そうな声を上げて腰を浮かしかけたパンサーは、しかしすぐに座席に戻る羽目になった。
 モルガナカーが全体を左右に揺さぶり始めたのだ。
「ちょっと、なに―――モナ、あなたなの!?」
「ちがっ、うよ! なにかがワガハイを掴んで揺さぶってる! それも、なんだこれぇ、いっぱいいるぅ!」
 限界だ、と唱えて、モナは身震いして元の二足歩行タイプに戻ってしまう。
 突然表に放り出された少年たちは悲鳴を上げて地の上に手や膝をつく。そしてやっと、無数の気配が自分たちを取り囲んでいることに気がついた。
 しかし視界には相変わらず先にグリムが蹴り倒したことで姿を現した一体きりだ。
 つまりはそういうことだった。
 ビルを覆い隠していた迷彩、それと同じものを身に纏った存在がそこここに立っている―――
 戦慄して武器に手をやった少年たちに鋭い制止がかかる。
『やめなさい。そこの子がどうなってもいいのかね』
 ギクリと身を固くした一同の視線が未だ氷の上、一人―――に見える―――でもがいているグリムに集中する。
「構うな! やれ!」
 叫ぶように吐き出された言葉に嘲笑が降りかかった。当然それは先の声の持ち主のものだ。
『あの程度ではまだ懲りていないようだね。どれ……』
 少年たちの目にも張本人であるグリムの目にもなにが起きたのかは解らない。ただ、多大な苦痛が彼女の身に降り掛かったことは確かだ。
 その証拠に彼女は強い力で押さえ込まれているはずの背を弓なりに反らし、声にならない悲鳴を上げて手足を暴れさせている。
 ジョーカーは手にしていたナイフを氷の上に叩きつけた。
「やめろ! 武器は捨てる、今すぐそれを止めろ!」
 倣うように仲間たちも得物を床に放り捨てる。
 ややあってからグリムは糸の切れた人形のように動きを止め、ぐったりと倒れ伏した。
『賢明だ。さて―――なるほど、君たちが噂の怪盗団かね』
 一拍の間が置かれる。素直にそうだと答えることに屈辱を覚えたが故の間であった。
 けれどそんな小さな反抗さえも許さないと言わんばかりにまたグリムの身に苦痛が注がれる。
「―――ッ、あ、ぐ―――!」
「やめろ! そうだ! どの噂だか知らないけど、俺たちが怪盗団だ!」
『結構』
「うっ、く……」
 再びグリムは床に伏せる。
 声は悠然と告げた。
『なんだ、やっぱり怪盗団と繋がっていたんじゃないか。嘘は良くないよ、のお嬢さん―――』
 苦痛以上に名指しされる不快感によって顔をしかめ、少女は拳を握りしめる。
 唇は震えていたが、それでも最後の反抗を示すように彼女は声を張り上げた。
「ちがう! そいつらと私はなんの関係もない!」
 ほう、と声は面白がっているような様子を垣間見せた。それは単なる勝者の余裕か、あるいはパレスの主としての絶対者的な振る舞いか―――
 ともすれば手放しそうになる意識の中で少女は叫んだ。
「だから、気にするようなもんじゃないだろ! 助けてなんて一言も言ってない! 早く武器を拾え!!」
 それができたら苦労はしないし、そもそもこの場に立ってすらいない。
 そう言い返そうとしたジョーカーを制するようにまた苦痛が彼女の身に訪れた。
「よせッ! お前の目的はなんだ! こうして接触してきた以上、なにか俺たちに言いたいことがあるんじゃないのか!」
 いずこにいるとも分からぬ声の主に語りかける虚しさと屈辱に苛立ちながらも虚空に激しく喚き立てる。
 声はまた面白がるように喉を鳴らした。
『君は血の巡りが良いようだね。―――取引をしよう』
「取引……?」
 仮面の下の眉をひそめてつぶやいたのはクイーンだ。ざらついた声は然りと彼女に応えてやった。
『私は君たちの活動を重要視している。良い意味でも、悪い意味でもね』
「嬉しくねぇっての……」
 極めて小さな声でスカルが囁いた。
 声はこれには応えない。単純に聞こえていなかったのか、あるいはあえて無視したのか。もしかしたらスカルという少年をさほどの脅威と捉えていないのかもしれない。
 いずれにせよ、愉悦に満ちた声が告げる。
『契約を結びたいのだよ。私は君たちに定期的に依頼をし、君たちはそれを遂行する。引き換えに、いくらでも便宜を図ってあげようじゃないか。それとも、金や何らかの地位がお望みかな。ああそうだ、見たところまだ子供のようだし、受験や就職を手伝ってやってもいいよ』
 怪盗たちは目を細めた。
 声の主が提示した報酬は確かに魅力的だ。金や社会的地位、受験や就職の斡旋となれば、人生というゲームはあっという間にイージーモードに成り代わるだろう。
 しかし甘い話の裏には罠が潜むものだと彼らは今や理解している。
 警戒もあらわにジョーカーは問いかけた。
「あんたの言う依頼ってのは?」
『それは君、改心だよ。他にあるのかね?』
「なるほどね。ではそのターゲットは?」
『私の道を阻む者全てだ』
 どこからどうやって見られているかは分からないが、ジョーカーは静かに辺りに目線を走らせる。彼の優れた五感は確かに周辺を囲む無数の気配を感じ取っていたが、しかし生き物ならば本来あるはずの呼吸や衣ずれ等の音も体臭も感じ取れない。
 背筋を駆け上る嫌な予感を堪えながら彼はまた問いかけた。
「あんたの道?」
『安寧さ。我が一族の繁栄と、穏やかで牧歌的な、恒久的な平和―――』
「一族……」
 これは問いかけではなくいつもの彼の独り言だ。
 声はおそらくパレスの主、阿藤勝利であろう。その彼の一族―――血縁者ということだろうか? 血の繋がった親と子、孫、配偶者。一族となれば親類も関わってくるか。
 具体的な範囲は分からないが、その一族なるものの平和のための改心……?
 彼はまた問う。
「なぜ改心が必要なんだ?」
『警察や公安と積極的に揉めたくはないからね』
「だから俺たちにやらせる、と?」
『そうとも。そして私は君たちにその見返りを差し出す』
「なるほど、合理的だ」
『そうだろうとも。今の手立てはなかなか下準備も後処理も大変でね、新しい手段を講じなければと頭を悩ませていたんだ。私を手伝ってくれないかな?』
 ジョーカーは静かにまぶたを伏せた。
 今の手立てと彼は言った。
 ここまで聞き及んだ話を総合するに、暗殺めいた手段による排除と、その後の裏工作のことだろう。すなわち捜査機関への圧力と、マスコミの情報操作による隠蔽。ご丁寧に民衆へは呪いという形を与えて疑心を逸している。
 少年の腹の底にはふつふつと沸き立つような怒りがあった。彼だけではない。彼の後に続く仲間たちは皆、同じものを抱いて瞳に剣呑な光を湛えている。
 けれどこの場で喚き散らすわけにはいかなかった。
 なにしろ目にも探知にも引っかからない存在が周りをうじゃうじゃと取り囲み、少女が一人押さえ込まれている。
 ジョーカーは仲間たちに視線を配った。
 人先ず適当に頷いて誤魔化そう。と彼の目は語っている。反論する者は出なかった。
「―――いいだろう。その契約とやら、受けてやってもいい」
『ああ、それは良かった。断られたらどうしようかと思っていたよ』
 白々しい、と子どもたちは眉をひそめる。圧倒的な数でこちらを制圧しておいてなにを言うのかと。
「細かい話はまた次回でいいか。さすがに今日はクタクタでね。話を聞かされても記憶できる自信がないんだ」
『ふむ……』
「それと、彼女を離せ。こちらに返してもらう」
 うーむと声は唸っていかにも困った様子を取り繕った。
 演技であることは明らかだった。
『残念だがそれは聞けないね。これは君たちの仲間でもないんだろう? 私に必要なのは怪盗団だけだ。ただのこそ泥に用はない』
 何故なら続けられた言葉に迷いはなく、予め定められていたかのように断然としていたからだ。
「どうするつもりだ」
『いつものように処理するだけだ。心配しなくていい。それもどうせ≪呪い≫のせいになる』
 パキッ、となにかが割れるような音が鳴り響いた。音の発生源の最も間近に立っていたパンサーが、慌てて彼の尾を掴む。
 一同の足元には、先は無かった霜が降りていた。
 ジョーカーは小さくかぶりを振って、諦観のため息とともに告げる。
「悪いが、そういうことならこの話はナシだ」
『ほう?』
「彼女を気に入ってるのが俺たちの中にいてね」
 戯れるように足下の霜を踏む。土とも雪とも違う感触が足裏から伝わるのを楽しむジョーカーの背後で、フォックスが鼻を鳴らした。
「惚れていると言ってくれ」
 堂々としたものである。誰に憚ることも恥じることもなく言い切った彼に、ナビが下手くそな口笛を鳴らした。
 いたたまれないのはグリムのほうだ。そんな状況でもないというのに頬には赤みが差し、目を見開いて脚をバタつかせたりする。
「ば、ば、バカか! なに言ってんだ! 私のことはいいからさっさと―――」
 暴れる足は再び抑え込まれ、冷厳とした声が交渉の終わりを告げた。
『残念だよ』
 途端、今までなにも無かった空間に殺気とでも呼ぶべきものが溢れかえった。
 未だ目視すらできぬ存在が明確な殺意をもって襲いかかる気配に、少年たちは一斉に己の仮面を引き剥がした。
 火炎や疾風、電撃や超高熱、不可視の力が同時に周囲を薙ぎ払う。
 するといくつかの景色が人型にゆらぎ、光沢のない黒となって傾ぐ。
 その間隙を縫って一人がグリムを押さえ付けるもののことごとくを斬り倒した。
「グリム! 大丈夫か!?」
「バカ! 人の心配してる場合か! いいから早く逃げろよ!」
「できるかそんなこと!!」
 怒鳴り返して、フォックスは腕を伸ばした。
 グリムは幾度も目を瞬かせてそれを凝視し、戸惑いつつも自由になった手を上げる。
「俺がお前を助けないなんてことがあるわけ無いだろう。お前がそう仕向けたんじゃないか……」
 呻いて、グリムは反射的に伸ばしかけた手を引いた。彼の言うことに痛いほど身に覚えがあったからだ。
 責められたような気にもなった。お前は酷いことをした酷いやつだと言われたような気になって、目を逸らした。
 けれど言ったほうは微塵も気にしていないというのか、引かれた分またさらにぐいと腕を伸ばして震える手を掴もうとする。
 手と手の指先が触れた。
 そんな些細なことが信じられないと言わんばかりにグリムは目を見開いている。ただ指先が触れたというだけのことに大仰に驚き、困惑を浮かべている。
 どうしてそんなにと少年は問いかけようとしたが、しかし寸前、見えない腕が伸びて彼の首に絡みついた。
「なに―――ッ!?」
 瞠目する間に次々と腕が伸び、彼を拘束する。
 辛うじて首を巡らせた彼の背後では、同じようにモナやパンサーが目に映らない何者かに羽交い締めにされていた。
 仲間の危機に彼は振りほどこうともがいたが、音が鳴るほど激しく額を氷に叩きつけられて一瞬意識を途切れされる。
 気がつけば目の前のグリムもまた捕らえられ、糸のついた操り人形のような奇妙なポーズで硬直してしまっている。
 背後からクイーンの悲鳴が響いた。彼女を呼ぶナビの悲痛な声がそれに被さる。
『見たまえ』
 沈黙していた声が再び発せられたのはグリムの、の耳元だった。
『君のせいで皆倒れていく』
 サッとの顔が青ざめた。
 声の言う通り、この状況は彼女の危機を皮切りにもたらされているからあながち的外れというわけではないだろう。しかし状況を作り上げた張本人が言えた台詞でもないはずだ。
 フォックスなどはそう思って反論しようとするが、一際強く頭を押さえつけられて声を発することができなかった。
 声は歌うように楽しげに告げる。
『これが≪呪い≫でなくてなんだというのかね』
 は引きつけでも起こしたかのように強く身体を跳ねさせた。また苦痛を与えられたのではなく、言葉に反応したのだろう。
 ある意味ではそれは肉体的な痛みよりよほど彼女を苦しめた。当然彼女と怪盗団に関りなどないし、まして仲間などという間柄でもないが、しかしそれと今目の前で多少なりとも見知った顔がなぶられて平然としていられるのかは全く別の話だ。
 食いしばられた歯が青くなった唇から覗いている。
 それらを目撃していた少年は、それが彼女でなくたって、雪のように白くなった頬と目尻に滲んだ悔し涙を目にしてなお黙っていられるような男ではなかった。
「黙れ……」
 引っかかるもののない氷の表面を幾度も掻きながら、フォックスは懸命に不可視の拘束から逃れようと足掻いた。
 彼の背後で倒れ、組み伏せられた仲間たちも同じようにまだ諦めるには早すぎるともがいている。
 それを背後に感じながらフォックスは叫んだ。
「黙れ! この世に呪いなど存在しない!」
 再びの身体が跳ねる。単純に呪いという単語に反応しているのか、少年の怒声に驚いたか怯えたのかもしれない。
 解りはしないが、フォックスは猛然と姿さえ見せない声の主に向けて吠え続けた。
「そんなものは所詮誰かが作り上げた幻想に過ぎん! ≪グリム≫も≪呪い≫も、あの絵も、その中に宿る真の意志は貴様の思うようなものじゃない!」
 熱弁はしかしため息にかき消された。反抗的な子どもを見下す態度を隠しもせず、声は見えないものを操って彼を氷の床に叩きつけた。
 側頭部への衝撃は急激に少年の意識を刈り取った。視界が明滅し、天を覆う分厚い曇天が闇夜のようにも、よく晴れた日の輝く入道雲のようにも見える。
 は呆然とそんな彼を眺めながら、先の言葉を反芻する。
 その中に宿る真の意志、と彼は言った。
 それはつまり、彼こそが真なる意志を理解しているということだろうか?
 なにも解らなかったが、はほとんど無意識的に首に絡む見えない腕を掴み、アシストスーツの補助機構を起動させていた。
 けれど腕はピクリともしないどころか、ますます強く彼女を絞め上げる。
 ―――悔しい。
 湧き上がったのは無力感と強い悔しさだった。
(こんなんじゃダメなんだ。もっと出力を上げて、その分強度もエネルギー効率も改善しなきゃ)
 眇めた目はまたフォックスに向かう。
 すっかり血と泥に汚れてしまったその姿を見るうち、少女はあるはずのない鳴き声を聴いた。
 弱った獣がクゥンと寂しげに鳴く声だ。いつもの幻聴だとはすぐに解ったが、しかしいつもと違って濡れた鼻の感触を首筋に感じている。
 幻聴はともかく、濡れた感触は少年がもたらしていた。血に濡れた鼻先を彼女の首筋に擦りつけて、悔しそうに歯を食いしばっている。ゴミを部屋の隅にまとめておくような乱雑さで放り捨てられたのだ。
「く……しばし待て、すぐにこの状況を打破して……」
 ゴミやガラクタ扱いをされてなお不遜な物言いをする彼に、は場違いな笑いを漏らした。
 気がつけば少年の腕はすっかり少女を包み込んでいる。その力強さと暖かさ、ドサクサに紛れてのちゃっかりしたその行動に、少女はますます笑みを、呆れに寄せて深くした。
 ……目の前の少年がそう動くよう仕向けたのは彼女自身だ。そうさせた以上、彼女にはその想いにある程度は報いるべきだろう。
 ただ受け入れて、助けてと乞えばいいだけだ。
 それだけで目の前の少年は万難を排する力をふるい、身を削って課せられた勤めを果たし切るだろう。
 けれど、彼女自身の心というものはとっくにそれを望んでいなかった。
 ただの駒とするには、この少年は癖があり過ぎたのだ。それは例えば余人に変人とか変態と呼ばれるような彼独特の思考回路や行動理念であり、強い信念でもある。
 そしてそれこそが彼女の心を惹きつけていた。
 青ざめた唇を皮肉っぽく歪ませて、少女は胸のうちで傍らの弱った獣に語りかけた。
(私もずいぶん単純なやつみたい。一生懸命な姿を見てほだされるなんて、バカのすることだ。そうだろ、グリム)
 呼ぶ声に気配は雄々しく吠えて応えた。
(そんなに必死になる必要なんてないんだ。私はそんなにいいものじゃない)
 幻聴はクゥンと鳴き、気配を纏ってそばに寄った。
 ―――往古、犬という存在は『穢れ』と同義とされた。古の人々は死肉を漁り貪るこのものを見て、死という穢れと結びつけたのだ。
 それはこの生き物がそれだけ人と生息域を近くしていたことの証明でもある。
 やがて犬は人の生活の中に組み込まれた。それが合理的な考えのもとによるものか、はたまた言語の介在しないコミュニケーションの結果によるものかはまだ議論の余地があるところだろう。
 ただ、犬を人の世界に引き寄せたのは女であるとされている。何故なら神話や伝説に語られるとき、犬は多く女神のそばに現れるからだ。犬たちはたいていの場合女神の館を、寝所を、門を守る役目を果たした。
 一方で死肉をも食らう習性故か、ハゲワシやオオカミ、ジャッカルと同じく彼らは死者の埋葬とも強く結び付けられている。世界各地には古い風習として犬に引きずらせる、かじらせる等遺体に直接触れるものから、新しく作られた墓地には一番最初に犬を埋葬するというものもある。
 今や人類の忠実な友であり隣人である彼らは、かつて『死』そのもののシンボルだったのだ。
 そして彼らは、女を守るオスの象徴でもあった。
 死であり、汚れであり、男であり、守護者であり、また導き手でもあるそれは、すなわち女のそばにあるものである。
 そしては間違いなく女であった。
「喜多川くん……」
 呼ぶ声に顔を上げたフォックスは再び瞠目する。ほんの少しまぶたを閉ざしていた間に、目の前の少女の身を蒼い炎が包んでいたのだ。
 なにより彼を驚かせたのはその顔に貼り付いた、犬用と思わしき無駄吠防止用のマズルマスクだ。
―――それは―――」
「……私のスーツ……」
「え?」
「三年もかけたんだ。構想と設計に製作、試験も何度もやって……やっと形になったのが今年に入ってからで、実地で動かしたらメンテに毎回お金も時間もとんでもなくかかって……」
「あ、ああ……そういうものなのか……」
 頷いて、少女はやんわりと少年を己から引き剥がした。彼女は自由に身動きが取れている。
「変なんだよ」
「なに?」
「だから、変なんだ。あんなに時間も、お金も、アイデアも注ぎ込んで、復讐のためだけに作り上げたのに……」
 唸り声が少年の耳をくすぐった。
 それは少女の喉から漏れているようで、実のところまったく別の場所から溢れているものだった。
『ご主人―――』
 呼びかけたのはどこかハスキーな少年らしい声だった。
『やっと認めてくれたね。ぼくは幻聴なんかじゃないよ。そうとも、ここにいるんだ。間違いなくね』
「うん……」
 どこか虚ろな瞳をしたまま、は立ち上がる。
『スーツはダメだったんだね。仕方がないよ。そういうこともあるさ』
「まあね」
『さて、それじゃあどうする? 諦めちゃう?』
「それは嫌だ」
『ぼくには牙と爪があるよ、ご主人』
「……おまえは、それで私を守ってくれたね。忘れてないよ。一生忘れるもんか。おまえは立派に役目を果たした」
 薄っぺらな犬は主人からお褒めの言葉を賜って、千切れんばかりに尾っぽを振った。
『えへへ、へへへ……ねぇご主人、それで、これが必要かな? それともまた黙っているつもりかな?』
 少女は決然と首を横に振る。
『じゃあじゃあ、一緒に戦おう。墓を漁り、死者の尊厳を踏みにじる連中に裁きを下すんだ! きっと楽しいよ!』
「……アハハ、いいよ。そうしよう。おまえは本当に遊ぶのが好きだね。番犬のはずだったのに……」
『誰だって遊びから狩りのしかたを学ぶんだよ。ご主人はどう? 狩りのやり方は解ってるよね?』
「もちろんだ……この私がしくじるなんて、あり得ない……!」
 喉を鳴らして、少女は己の顔と口を覆うものに手をかけた。
 すっかり皮膚と同化して癒着したそれを剥がすのには力が必要で、激しい痛みも伴ったが、彼女はいっぺんの躊躇もなくそれを己の顔面から剥ぎ取った。
 開放された目と鼻と、そして口からは鮮血とともに雄叫びが上がる。
 それはさながら、嵐に見舞われた夜の森に反響する犬の遠吠えだった。
 荒れ狂う雨風に反響し、薄れ、しかし決して消えることなく遠く遥かにまで響く叛逆の意志を伝える声―――
 応えて、獣が立ち上がった。見上げるほどの巨体をしている。
「やつらの喉笛を噛みちぎってやれ―――」
 蒼い炎に巻かれながら、しかし少しも熱がる素振りも見せずに彼女はそのものの名を呼んだ。
「こい、グリム!!」
 呼びかけに応じて少女の影から一枚の黒い紙が浮き上がった。
 それは真っ黒な影そのものであり、闇夜から切り抜かれた薄っぺらな存在であった。厚みは無く、横から見ればただの線のようにしか見えない。しかしその眼の血のような赤い輝きはどの方向からでも間違いなく見る者の姿を捉え、決して逃さないと、逃げることなどできないのだと教えている。
 巨大な黒い獣は喉を反らして高々と雄叫びを上げた。
 すると奇妙なことが起きる。
 少年たちを捕え、掴んで踏みにじっていた不可視の腕や足がブルブルと震え、拘束を緩めたかと思った次の瞬間、ことごとくが破裂した。
 まるでたっぷりと水の詰められた水風船のように黒い人型から溢れ出したのは、無数の眼球が浮いたタールのような液体だった。
「ああ、なるほど中身は液体か……だからあんな変な動きを……」
 納得したようにジョーカーが独り言ちる。その腕に引っ越しの荷物のように抱え上げられていたナビもまた、うんうんと強く頷いている。
「んだな。不定形だからこその柔軟すぎる動き……テケリ・リ、テケリ・リってわけか、はーん」
「納得してる場合か! お前ら―――」
 他にもっとすることとか、リアクションとかあるだろう、と訴えようとしたスカルは、しかし次の瞬間顔面から氷の上に転がり落ちた。
 今の今まで身体を固定していた冷たさが唐突に失われてバランスを崩したのだ。
「あ? なんで……」
 打ち付けた額をさすりながら上体を起こした彼の視界に、困惑顔のノワールが映りこむ。
 いつの間にか彼女の傍らにはが立っていた。
「グリム……あ、そっちじゃなくて……ええと、さん……?」
 戸惑った様子で語りかけるノワールに構いもせず、は軽く彼女の凍りついた脚を蹴りつけた。
 すると耳元を羽虫が飛んで行ったような不快な高音が響き、瞬く間にノワールの脚を戒める白い氷に微細なひびが刻まれていく。
 再びの足が氷を蹴ると、それは粉々に砕けて雪とともに足元に降り積もった。
「きゃっ」
 唐突に訪れた自由にノワールの身体が傾いたが、彼女はスカルのように倒れる前にの腕に抱きとめられる。
「大丈夫?」
 女の子にしては力強い腕と、先の咆哮によって掠れた声―――ノワールは何故か顔を赤らめて俯いてしまった。
 なんだかかぐわしい花の香りでもしそうなものだが、辺りはまだ死に絶えていないらしい粘液上生物の放つ悪臭が漂っている。
 そこかしこに散らばったそれらは少年たちの足元を這いずり、一つのところに集まりつつあった。
「合体からの巨大化は基本だな」
 またナビがしたり顔で頷いている。
 彼女の言う通り、意思のあるらしい粘液は一つに固まり、大きく膨れ上がって無数の眼球を少年たちに向けていた。
 ジョーカーはナビを半ば放り投げるように床におろして、背後に身体を向ける。
 は精悍な顔つきの黒犬を従えて、彼に視線を送っていた。それはなんだか、彼女の半身にお似合いの忠義めいた色を湛えている。
 指示を待っているのだ。
 怪盗団という集団としてまとまった群れの中、たとえよそ者とて勝手な振る舞いはすまいというお硬い意志が垣間見える。
 ジョーカーは苦笑してすっかり乱れた黒髪を撫で付けた。
 その手の内、指を一本だけ立てて粘液の塊を指し示してやる。
 するとすっかりなにもかもを承知したようには顎を上げる。
 再びの咆哮が響いた。
 目に映ることのない『それ』は一秒もかからず粘液に襲いかかり、その不定形の身体を激しく振動させる。
 やがて浮き上がっていた眼球とともに粘液は弾け、氷の上に叩きつけられる。
 衝撃、あるいは振動が彼女の力なのだろう。
 なるほどなと一つ頷いたジョーカーに、少女は囁きかけた。
「叩くなら今だと思うけど?」
 どことなく挑発的な響きのこれに、少年は苦笑してブーツの底を踏み鳴らした。つま先と踵で二回。
 それはあらかじめ伝え聞かされていたゴーサインの一つだった。
 床を蹴った彼女に合わせ、怪盗たちは一斉に震える粘液に襲いかかった。
 声を発する器官がないからか、粘液は悲鳴こそ上がらないものの打ち据えられては苦痛を示すようにその身を震わせ、次々に千切れ飛んだ。
 一つにまとまって大きくなっていたはずの身体はいつしか人型を保っていたときより縮み、それよりずっと小さく刻まれたものはもはやピクリともせず氷の上にへばりついている。
 その最後のひと塊に少女のつま先が突き刺さり、粘液の中から固形物を切り裂きながら引き抜いた。
 真っ二つに裂かれて氷の上に落ちたのは、どうやら粘液の脳かコアといったものだったようだ。
 その証明に、残された不定形生物は一際強く身を震わせるなり、粘性を失って地の上に液体らしく広がった。
「歯ごたえのないやつだな」
 掲げていた脚を下ろし、踵を鳴らした少女はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
 それ以外に響くものはない。辺りは完全な静寂と凍てつく世界を取り戻したようだ。
「……阿藤も引っ込んだみたいだな」
 呼吸を整える間も沈黙していた様子からジョーカーはそう断じる。それでもなお返答はないから、おそらくこれは事実だろう。
 あるいは沈黙を保ってこちらの様子を窺っているのかもしれないが……
!」
 フォックスの声にジョーカーはため息をつきつきふり返る。名を呼ばれた彼女が膝をついているのも、それをフォックスがすくい上げているのも、見なくたって分かる光景だった。
「さ、触るなって……何回言わせる……」
「あと九十八回だ」
「このやろう……」
 ただ、彼女がそう漏らすなり崩れ落ちるのは予想外のことだった。
? おい、しっかりしろ!」
「わっバカ揺さぶるな! 頭を打ってたらどうする!」
 慌てて止めに入るジョーカーの背後でモナはなにも言わず跳びはねる。キャット空中三回転。
 車になった猫を示して、ノワールがそっとフォックスの袖を引いた。
「とにかく横にしてあげよう? いい? そっと運んでね」
「わ、わかった……」
 運び込まれる少女を見送って、ジョーカーは肩をすくめた。
 初めから帰るつもりだったし、相当な危害を受けているだろう彼女を助ける気はあるから文句はないが、なんだか妙なことになったな、と。