15:The Coming of the White storm

 この女を蹴り出せと彼は言ったが、振り上げた脚は―――はじめから当てる気もなかったが―――軽々とかわされてしまった。
 氷獄に忍び込んだ怪盗団はまずベースとなる場所を求め、零下の中ナビの指示のもと風を避けられる場所へ向かった。
 それは切り立った崖に空いた小さな洞穴であった。扇状に穿たれた洞は一番深いところで三メートルほどの奥行きがあり、ひどく風が吹き込んできてはいたが、壁のない中をうろつくよりはよほどマシな場所だった。
 そこに呼び出した半身の力を用い氷柱を重ねては風よけの壁を作り出すことで、モナは暖を求める女子たちの腕から解放され、ナビはアダムスキー型UFOから降り立つことができた。
 ついでにと火も起こせば、一息つくだけの余裕も生じる。
 そのようにして、ジョーカーはこの場において異質な存在であるところのを指して「君は帰れ」と言ったのだ。
「なんで。寒さ対策ならできるよ。ジャケット入ってる」
 相変わらず引きずったままのスーツケースを叩いた彼女に、頭目は仮面の下の眉をしかめた。彼女のことを慮る以上に疎ましがっていることは明らかだった。
 その理由は様々あるが、一言で表せばただ『寒いから』に尽きる。活動に支障の出ない範囲の気温ならともかく、この寒さの中でペルソナを使えない彼女を庇って進もうだなどと、想像するだけで疲弊しそうなものだ。
「……足手まといは、必要ない」
 そういうわけで彼は、彼女の怒りを煽って追い出す作戦に出る。
 しかしこれは浅はかな試みであった。
 何故なら彼女は一度、この超常の力が支配する現象界と異なる世界でひと立ち回りを演じている。
 薄ら笑いを浮かべて怪盗は怪盗に答えた。
「私を誰だと思ってる? 先はキミたちにしてやられたが、同じ轍を踏んだりしない」
 自信満々に鼻を鳴らして胸を反らした彼女に、ジョーカーのみならず全員が胡乱な目を向ける―――
 確かに、あのような尋常ならざる機動性を生身で行えるとなればシャドウに攻撃はできなくとも回避くらいはできるだろう。魔法のように対象そのものに発生する現象に関しては射程距離が存在するから、ナビとともに離れていてくれれば問題はないか。
 納得しかけた一同の中で、スカルがぶるぶると水気を払う犬のように首を激しく右に左に振ってみせた。
「いやいやいやいや、いけっかもって思いかけたけどさ、さんのアレ壊れたじゃん!」
 あ、と異口同音に子どもたちの口から納得と感心の織り混ざった声が漏れる。
 そういえば熱くあれの処分方法を語った末、ホテル側で片付けさせる訳にもいかないと頭目が引き取って持ち帰ったのだ。そしてあのガラクタは、もちろんまだ彼の寝床に放り出されたままになっている―――彼は一度だけそれを身に着けようとしてモルガナに強く叱られた―――。
 しかしはふんぞり返る。その踵でスーツケースを叩きつつ、なんということか、足元までをすっかり覆い隠すスカートをめくり上げはじめたのだ。
 瞠目した少年たちと慌てる少女たちの前に、の下半身、その下腹部までがすっかり晒し出される。
 なんということはない、素肌の色も窺わせない厚手のレギンスに覆われた脚には、つい昨日にも見た『なんだかメカメカしいもの』が貼り付いていた。
「ん……? 昨日見たものとタイプが違うな……」
 感心したように言ったのはの足元にしゃがみ込んで、彼女の脚部をまじまじ眺めるフォックスだった。
「そう、これはMark.Ⅶ。壊れちゃったのはMark.Ⅸで、あっちは都市部における活動のための身軽さと機動性を重視したタイプ」
「なるほど?」
 頷いた彼の隣では、まくり上げられたスカートに半ば頭を突っ込みつつあるナビがはしゃいでいる。
「ふおーⅦはアーマー型ってところか? 材質は……FRPに、ケブラーかっ」
「う、うん。わかる? あとね、つま先に工具鋼を採用してあって、コンクリ壁くらいなら軽く削れ―――あ、ちょ、スカート引っ張らないで……」
「見せろ見せろっ! 駆動制御は空圧? あっゴムチューブ!」
「うわあ! 触らないで!」
 さらなる奥へ顔を突き入れようとしたナビを保護者を兼ねる少年が引きずり戻す。
 ほっと胸を撫で下ろしつつ、は壁際まで後退って続けた。
「守ってくれだなんて言う気はない。血肉も払わず人任せにできるくらいなら、はじめから怪盗なんてバカな真似もしてない」
「誰がバカだ」
「ちょっと黙ってて」
 思わずと反応したジョーカーを二人の女主人、クイーンとノワールが押し留める。
 はスーツケースを蹴り開けて毅然と言い放った。
「邪魔はしない。足手まといにもならない。怪我をしてもキミたちの責任だなんて言うつもりは毛頭ないし、なんなら離れてついていく。だから、連れて行って」
 少年たちは顔を見合わせる。
 もちろん、ジョーカーの意見に同調する者がほとんどだ。この寒さの中で非戦闘員を連れ歩くには難儀するだろうし、たとえ責任がないと言われたって怪我をされれば当然気にはするものだ。
 本音を言えば無理矢理押さえつけてでもお帰り願いたいが―――
 そうしたところで彼女は従わないだろう。予感があった。
 であれば、目に付くところにいてもらったほうがよほど精神衛生に優しいのかもしれない。
「はあ……フォックス、任せる」
 ため息とともにジョーカーは判断を仲間の一人に投げつけた。
 受けて彼は立ち上がり、緊張した面持ちのと、開け放たれたスーツケースから覗くアーマーの上肢パーツを眺めて応えた。
「俺は正直、反対したい」
 仲間たちは肩をすくめて同意を示した。その後に続くと予測される言葉に対しても。
「だが、お前がそうしたいと言うのであれば無理強いできる道理もない。ナビのそばにいれば危険もさほどないだろう」
 仮面の下の表情を窺うことはにはできなかったが、それでも細められた目に優しげな色が宿されていることくらいは見通せた。
 少女は照れたように顔を逸して、小さな声で礼を述べる。
「あ、ありがとう……」
 少年たちは彼女の身支度が整うのを待って攻略に取り掛かった。

 道を遮るシャドウの姿ははじめ、顔の無い真っ白な面をつけた亡霊の姿として現れた。
 その面を剥ぎ取ると、影は本来の姿を取り戻す。たいていはロケーションに相応しい神や悪魔、怪異の形をしているのだが―――
 今少年たちの前に立ち塞がる鋭い角を鼻先に生やした怪物は、どことなく白熊に似た容貌をしている。禍々しい鉤爪を生やした前足と後ろ足の間、脇腹のあたりからもう一対、合計で六本もの脚を備えていなければ。
 さらに言えば、このシャドウの奇妙な点はその存在にではなく周囲を取り囲む冷気にあった。
 視界を狭める猛烈な吹雪はこのシャドウを中心に発生しているようで、接敵した場合には骨の芯まで凍りつくような冷たさに襲われる。
 難敵と言えた。
 しかしそれは裏返せば、これを斃せば吹き荒ぶ冷たい風が収まるということだ。
「パンサー、頼む」
 ジョーカーの声にパンサーが応える。
 ヒールの踵を足元に降り積もった雪に突き刺して立つ彼女は、雪上迷彩めいた白いダウンジャケットを羽織っている。これはが彼女に貸し与えた物だ。
 防寒具と激しい運動によって暖まった身体にはやる気が漲っていた。
「よーっし! 任せなさい!」
 風音にも負けぬ威勢のいい声とともに鞭をひと振り。激しく氷の床を叩いて仮面に手をやる。
 立ち上がった彼女の半身は、高笑いとともに豪炎を作り出して怪物に叩きつけた。
「いいぞパンサー! 効いてる効いてる!」
 後方からナビが告げる通り、怪物は炎にまかれて雪と氷の上を転がりまわって身悶えている。
「やっちゃってジョーカー!」
 白く塗り潰されたかのような空間で一際目立つ真っ黒な少年に手をかざす。彼は景気の良い音を立てて受け、その期待に応えた。
 同時に暴れ狂う怪物が炎を振り払い、二本の脚で起立する。その身の丈はジョーカーよりもひと回りもふた回りも大きい。
 体格差は致命的とも言えるが、しかし彼は迎え打つ鉤爪をかわし一足で懐に入り込むと、咆哮を上げる不揃いな牙が並ぶ口に銃口を突き入れた。
 吹雪に覆われる氷上に銃声がこだまする。間隔を置かず、連続して四発。
 一拍の後、空薬莢が落ちるどこか耳に心地よい音が響くころには、吹き付ける風も雪も、冷気さえもが弱まり、怪物はピクピクと痙攣しながら大の字になって倒れ伏していた。
「ふうっ……うあ、まつ毛凍った」
「おつかれさん」
 ボヤいた彼の肩をバシッと叩いて、牽制のため怪物の背後に立っていたスカルが合流する。
「やっぱコイツが吹雪の原因で間違いなさそうだな」
 言って見つめた先で、シャドウは塵となってかき消える。本来あるべき場所へ帰還したのだろう。
 これと同系のシャドウを相手取るのはこれで三度目だ。一度目は弱点を探ることで手一杯だったし、倒した途端冷気や風雪が弱まったのは偶然と思えたが、二度目にも同じ現象が起こり、今またこうして一息つける程度に収まったことを思えば確かなことと受け止めていいだろう。
 頷いて、ジョーカーは辺りを見回した。
 先よりも広がった視界は広々とした氷河の上に彼らが居ることを教えていた。左右には切り立った崖があり、雪と風の向こうには険しい山のシルエットがぼんやりと浮かんでいる。
 そして……
「きゃあっ!」
 可愛らしい悲鳴を上げたのは周辺の警戒を行っていたクイーンだった。寒さ以外の要因から青褪めた彼女は己の足元を見つめ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「わお……悪趣味の極みだな」
「南極なんだか地獄なんだかハッキリしろよ〜」
 いくらか離れた場所からグリム―――怪盗団のお約束に則り、暫定的にはこう呼ばれることとなった―――とナビが、まばらな感覚で氷から『生えた』ヒトの頭部に呆れたような感心したような、はたまた嫌悪感をにじませつつ歩み寄る。
 よくよく見れば氷の下、根のように人の身体が繋がっている。
「コキュートスだぁ」
 さすがに触れることには戸惑いを覚えるのか、しゃがんで観察するに留めたナビがもらす。
「それじゃあ最奥にはブルータスがいるのかな?」
 怯むクイーンの背中を優しく叩いてやりつつノワールが言う。その発言はダンテ・アリギエーリの神曲、その地獄編に基づいている。
 うーむとナビは唸って首をひねった。
「どうだろな。見ろよ―――」
 そして目の前の青褪めた頭を指し示す。すぐにジョーカーがその手を叩いて「人を指差すんじゃありません」とお説教めいたことを言った。
 さておきなんだと歩み寄って身を屈めたフォックスがハッとして息を呑む。彼にはその顔に見覚えがあったのだ。
「たしか、この人は……自殺者の一人だったはず」
 名前は忘れたと口惜しそうに眉をひそめた彼の前で、物言わぬ氷漬けの頭はピクリともせずに佇んでいる。
 彼の隣からこわごわとこれを覗き込んだパンサーなどは、クイーンほどの怯えを見せずともすぐに目を逸らしてしまう。
「でも……地獄ってことはこの人、こんなんされるほどの悪党なんでしょ? そんな話だったっけ?」
 素朴なこの疑問に答えたのはグリムだった。
「どうだろう。法に則ればなんらかの罪には該当するだろうけど、ここまでされるのかと言われれば……この人は大槻聡太。二年前に亡くなられた、二枚目の絵の所持者だった人だよ」
 ギリリと音が鳴るほど強く歯を噛んで、グリムは幸田なる男の身上を語る。
 とある政治的信条を一致させる組合の一員にして幹部の一人だった大槻は、一時は現政権における対立野党の旗印と呼ばれていた男だ。というのも大槻は弁の立つ男で、与党の政治献金にまつわる不祥事が激しく報道された折、その厳しい追求ぶりと韻を踏んだ言葉選びがネットミームとして広まり、若者にまで浸透してその年には流行語大賞にもノミネートされるほどの流行りになったからだ。
 今となってはそんなものもあったなと頷く程度だが、言われれば確かにこの男だったかもと少年たちは手を叩いた。
「あ―――」
 そしてその内で、思い出したとクイーンが顔を上げる。
「そういえば、当時お姉ちゃんがこの人の自殺の件を調査してたはず……」
「マジで? どうなったん?」
「詳しくは。教えてって言って教えてもらえるものじゃないし」
 それもそうかと頷いて、スカルは肩をすくめた。
 グリムは風と雪によってすっかり乱れた黒髪を手櫛でまとめつつ、暗い顔を俯けて語る。
「その捜査なら、途中で終了させられてる。たぶん阿藤が捜査に圧力をかけて……」
 何故そんなことを知っているんだという視線に応えて、グリムは言を重ねた。
「警察のデータベースから、破棄された資料を復元したんだ。正確な死因は大量の睡眠薬を服用したことによるショック症状。でも、この人は過去十数年に渡ってそういった薬物を利用していた形跡はない。奥さんは飲んでたみたいだけど、それも大量に用意できるようなものじゃなかった」
 言葉を切って、グリムは一度獣のような低く掠れた唸り声をもらした。
「誰かがこの人を自殺に見せかけて殺害したんだろうってところまでは掴んでいたみたいだけど、そこで捜査は終了」
 それは、と誰にともなく息を呑む。
 グリムは己を落ち着かせるように深呼吸をし、寒さによって赤くなった鼻先をこすった。
「テレビで見た憶えもあまりないだろ。報道にも規制が入ってたんだと思うよ。あの男はそっち方面にも顔が効くみたいだから」
「それってやっぱ、阿藤?」
「確証があるわけじゃない。でも、それで、いつの間にかこの人の死が娯楽として消費されたことを考えれば、たぶん」
「どういう意味だ」
「わかんないのかよ。この死の不自然さは、呪いを強調させる材料にされたんだよ」
 忌々しげにかぶりを振った彼女に、フォックスは仮面の上からでも判る程度にはっきりと顔をしかめた。
 声には出さず、唇だけで「許し難い」とも述べる。
 重く沈んだ空気と、ピリピリとした怒りがにわかに雪風に織り混ざる。
 これを拭い取ったのは思案顔をしたナビの声だった。
「そういう意味じゃ、パンサーの言ってることは的を得てるかも。たしかにここは地獄だけど、その罪の尺度は法律や宗教ってより、もっと個人的なルールに基づいたものなのかもしれん」
「もともとパレスってのはそういうもんだからな」
 そう言ったモナは、本当に珍しいことに自らジョーカーの足元に擦り寄っている。それは単に弱まったとはいえ相変わらず吹きつけ続ける風と雪を避けるためであったが、擦り寄られたほうはどことなく感慨深げな目をしていた。
 さておきモナは語る。
「問題はその基準―――この環境とオタカラの場所だぜ。悪いがワガハイ、鼻が……ずびっ、はにゃがきかにえかりゃ……」
 たら、と猫の鼻と思わしき部分から水が垂れ、直ちに凍りついた。前脚で慌ててそれを払うが、垂れるものは止まらなかった。
「闇雲に歩き回るのも危険よね。ナビ、他に反応はない?」
「んんー……今倒したシャドウと同じやつのなら、ここから三キロくらい西に行ったところにあるよ」
 ウンザリしたような声があちこちから上がる。シャドウの強さとしては大したものではないが、なにしろ吹雪を纏う存在だ。好んで近寄りたくはない。
 しかし撃破の度に進みやすくなることを鑑みればやらないわけにはいかないだろう。
 少年たちは手指や足先が冷えて痛むのを堪えて歩き始めた。

 ―――時おり、氷原の上には雪をブロック状に固めたものを積み上げた、イグルーらしき丸天井の小屋が現れた。
 これを住居とするイヌイットは北極海沿岸を中心に分布する民族だとナビなどは憤慨していたが、そもそもこのパレスは南極そのものではないのだから誰もそれには同調してやらなかった。
 内部は外の大きさを無視するような高い天井と、雪片など一つも見当たらない近代的な構造になっている。四方のうち三方をスチールの棚が塞ぎ、高い位置に採光用らしきはめ殺しの窓があり、その明かりが中央の粗末な長机と棚に納められた大量の段ボール箱を照らし出している。
 グリム曰く、重工本社ビル内、その倉庫の一つではないかとのこと。
 ジョーカーたちにとっては見慣れないが、よく知る場所ではある。パレスの中にはこうした、持ち主の預かり知らぬ空間がセーフルームとして現れるのだ。
「ああ〜……ダリぃ……ちょっと俺しばらく休ませて……」
 早々と床に倒れ込んだスカルの上にモナを置いたのはジョーカーだった。彼は猫にしばらくスカルの背中を踏んでやれと命じて、自分は長机の上に積み重ねられていたパイプ椅子を拝借して腰を落ち着けた。
「あーソコソコ。モナ、うめーじゃん」
「嬉しくねぇなぁ……うりうり、どうだワガハイの肉球は」
「お前じゃなくてちゃんとした猫だったらよかったかもな」
「ワガハイは猫じゃ―――アレ、猫じゃないからいいのか……」
 各々好きな場所を見つけて身体を休める中、スカルが一段と疲労しているのは、あの熊のような怪物を相手にするときどうしても彼の負担が大きくなるからだ。
 分厚い毛皮と脂肪、そして筋肉と、太い骨に鋭い牙と鉤爪に角。相手取るには足場の悪さも合わさって、一番肉体的に頑強で体力に余裕のある彼が矢面に立つ他ない。その隙を狙って他のメンバーが叩き伏せるというわけだ。
 そういう意味では、今回スカルの補助を担う形になったフォックスもまた机に突っ伏して静かにしている。
 属性相性という点で魔法的な攻撃も、前述の通り分厚い鎧のような肉体相手では刃もなかなか通らない。ならばと補助に回ったその活躍はいぶし銀ではあったが、慣れない立ち回りは普段より色濃く彼を疲弊させている様子だ。
 ジョーカーは静かに部屋を見回した。
 部屋の隅の長椅子の上ではクイーンとナビが道中交戦したシャドウの傾向と対策を話し合い、パンサーとノワールはドアの近くに積み上げられた段ボールを椅子代わりになにやら他愛のないおしゃべりに夢中になっている。
 グリムはどちらにも参加することなく、脚部に取り付けたアシストアーマーのピストン・クランク機構に似たその連結部をなにやら弄り回している。凍りついてしまっているというわけではなさそうだが、素人目には解らない微細な違いでもあるというのか。
「いって! モナ! ツメ出てる!」
「あ、悪ぃ。なんかつい出しちまった」
 ふと、彼の視界の中で、騒がしくするスカルとモナの声に反応してフォックスがのっそりと頭を上げる。彼はしばらくじっとそんな二人の様子を眺め、そのまま再び顔を伏せることなく部屋を見回した。
 そして、先にジョーカーがそうしたようにグリムの姿を見つけて目を止める。
 違うのは彼が小さく安堵の息をついたことだけだ。
 ジョーカーは頬杖をついて誰にも悟られぬようひっそりとため息をもらした。
 もう『女の勘』とかいうものも、『慧眼』とやらも必要ない。
 誰かを激しく恋い慕うというのはこういうことかと思い知らされたような心地になって、少年は背もたれに体重をかける。脱力した身体を支えた安いパイプ椅子はギイッと甲高い悲鳴を上げた。
(今さらそこを咎めるつもりはないけど……)
 頭の後ろで手を組んで枕代わりに、天井の埃っぽい蛍光灯を睨みつける。
(狙われたのがスカルじゃなくてよかったと思うべきか、もしくは俺だったら―――)
 ちらりと視線を向けた先で、グリムは立ち上がって軽く飛び跳ねたりして調子を確かめている。
 少年はなにも言わずに脳内の過程を放り投げた。
 そんなことより、考えるべきはこの後の道程だ。
 ナビが言うには吹雪を呼んでいたシャドウらは感知できる範囲内にもう見当たらないとのこと。これは体感として明らかに寒さが和らいでいることからして確かだろう。
 一方でナビは強い難色を示している。
 それもまた彼女曰く、フィールドが広大かつ平坦でセーフルーム以外にこれといった建築物やオタカラの在り処となりそうな場所が見当たらないのだと。
 これもまた確かに、どこまで行っても平たい、あるいは緩やかな傾斜が続くばかりの氷の平原だ。切り立った崖はあるが、そこを登っていく手段は今のところ思い付かない。
 こうなってくるとこれまでのパレスのように入り組んだ迷宮めいた構造をしてくれていたほうがよほど取り掛かりやすいというもの。
 ジョーカーは再びグリムに目を向けた。彼女はもう飛び跳ねたりはしておらず、退屈凌ぎにか手近な段ボール箱に押し込まれていた古い書類の束に手を付けていた。
「グリムくん」
「……なに」
 呼びつけると、なんとなく据わった目が返される。ジョーカーは気にすることなくもう一脚パイプ椅子を組み立て、彼女をそこに手招いた。
「攻略のヒントになりそうな発言をしてくれ」
「なんだそりゃ……いきなりそんなこと言われたって思いつくわけないだろ。こんな寒いところだなんて思ってもみなかったし」
 椅子には腰掛けず背もたれに手を置くに留めた彼女は、そう言い返したもののなにかを考え込むような素振りを見せた。
「そもそもパレスって、みんなこんな……広々したもんなのか?」
「いや―――たいていは、もっと建物らしいものが現れるはずだ。周辺を街や砂漠に囲まれていたことはあったけど……」
「なら、ここもそうなんじゃないのか。場所的に考えたら氷の城? 雪の女王みたいな……」
 単語に反応して、会話に耳をそばだてていたパンサーとノワールが歌い出す。それはそれで耳にも目にも良い保養になりそうなものであるが、ジョーカーはこれを黙殺した。
「氷の城ねぇ……それくらいならわたしの探知に引っ掛かるはずなんだけどな」
「寒さで鈍ってんじゃねぇの」
 よっとかけ声一つ、起き上がったスカルが長机に尻を乗せて脚を組んだ。その隣にモナが跳び上がって着地し、伸びを披露する。
「そんなんあるかっ! たしかにさっきまでは空気中の氷やらがチャフんなって分かんなかったけど、今は違う。地形ははっきりわかるんだよ。なんなら地図にして書いてもいいぞ」
「じゃあその範囲外とか?」
 歌い終わったパンサーがフォックスの傍らに手を付けてにゅっと顔を突き入れる。いつの間にかノワールは優雅に安いパイプ椅子に腰掛けていた。
「それも、うーん……誰か紙とえんぴつくれ」
 伸ばされたナビの手に、クイーンがリングノートとシャーペンを寄越してやる。立ち上がったナビは長机の上にそれを広げると、淀みなくサラサラと歪な芽の出たじゃがいものようなものを書き記していく―――日ごろ見慣れたメルカトル図法によって引き裂かれた南極大陸の本来の姿だ。
 ナビの指先がその中央からやや南にずれた地点に小さな点を描いた。
「スタート地点が、ここ。で、今いる場所が、ここ」
 そしてすぐに、一ミリ離れた箇所にまた点を打つ。
 少年たちは驚きに目を見開いて身を乗り出した。
「はぁっ!? あんだけ歩いたのにこれっぽっち!? ジョーダンでしょ!?」
 素っ頓狂な声を上げたのはパンサーだった。他の者も声にまで出さずとも似たようなことは思っているのか、いささかげんなりとした様子を見せている。
 ナビはグルリとじゃがいもを囲むように円を描いた。
「しょーがねーだろぉ、一千四百万キロヘーベーもあるんだから」
「意味わかんねぇ……東京ドーム何個分?」
「……三百億個分くらい……?」
「余計わかんねー」
 バリバリと頭を掻いたスカルに、答えたジョーカーも賛同するように肩をすくめた。
 つまりナビが言いたいところは、これだけ広範にわたる探査を行って一かけらも敵の本拠を捉えられないなど、ありえないということだ。
 ナビの指はなぞるように北端の沿岸部をなぞる。
「たしかにフィールドが広くて端っこのほうはふわっとしてるけど、動くものや大きな建造物があればわかる。さっきクイーンとも話してたんだけど、吹雪で隠されてるって可能性もあるな。でも、例のシャドウを倒しても、高低や地形の入り組んだとこは見えても、他になにか新しく出てくるってことはないんだ。だから、最悪雪中行軍でこの広さをしらみつぶしにしなきゃならない」
「それもシャドウを相手にしながらね。この調子じゃどれが本体を隠す門番なのか……」
 ナビの発言を補足したクイーンの、その鉄仮面ノ下の顔にはげんなりと言いたげな色がありありと伺える。
 それは彼女だけに言えることではなかった。皆似たような表情をして絶句し、ただ一人状況を把握できていないグリムだけがポカンとした顔で全員を見回している。
「あー……? つまり、ここの中心になるようなものが見つからないのが問題?」
「そゆこと」
 頷いて返したナビに、グリムはふむと唸って考え込むように口を引き結んだ。
 カツカツと踵が床を叩く一定のリズムがセーフルームに響くのを、一同は静かに見守る。
「キミの探知というのは、具体的にどういうものなの? 電波を飛ばすレーダーみたいなもの?」
 やがて顔を上げた彼女が問うたことに、ナビはキョトンとした顔をしてみせる。これまでそんなことを訊かれたことがなかったのだ。
「えっと、うんと、そう。パルス波をわたしのペルソナで擬似的に再現して、それで対象の位置や大きさや、動きを把握してる。見えてる感じとしては、船舶用のレーダーを想像してくれれば」
「なるほど。じゃあキミこそがデータ蓄積装置の役目を果たしているんだね。あるいはそこの女王様がか」
「その呼び方、やめて……」
 どことなく恥じらうように顔を伏せたクイーンにグリムはやわらかな笑みを差し向けた。それはどうやら、歳の近い同性をからかう意図があるらしかった。
「もうっ……とにかく、グリム、あなた、なにか思いつくことでもあるの?」
「いくつかは。まずは単純に地上に存在していない」
「その可能性は、こちらも考えてはいたわ」
「ん。地下の反響音を確かめたけど、人工的な空洞は無かったぞ」
「いつの間に……」
 指示した覚えがないぞと口を尖らせたジョーカーを横目に、グリムは唸って前髪をかき上げる。指の間を通った癖のある黒髪は、溶けた雪によってわずかに湿っていた。
 広がった視界の中に一同を置いて彼女はまた口を開いた。
「それなら、単純に短電波を逸らされているんじゃない?」
「プリズムとか、鋭角? でもそれ、完全に逸らそうと思ったら照射する方向を把握しておく必要があるだろ?」
「ならRAMや光学ステルス」
「それなら目視で捉えられる」
「あ、そうか……」
 がっくりと肩を落として、グリムは足をバタつかせる。
「やめろ、埃が立つだろう」
 するとそれをフォックスが咎めて、少女はピタリと動きを止めた。その視線は己の足元に熱心に注がれている。
 動きを止めて顔も上げない彼女に、さほど厳しく叱りつけた気もない彼はおやと首を傾げた。己の知るこの少女なら一言二言は言い返してきそうなものだが、と。
 やがて少女は足元を睨みつけたまま
「そうか、そういうことか」と一人なにかに納得したかのようなつぶやきを漏らす。
「どうした?」
 胡乱げなモナが問いかけてやっとグリムは顔を上げた。そこにはどこかほの暗い喜びを湛えた笑みがあった。
「ここは私んちの―――元、だけど―――会社なんだろ? それならやっぱり、光学迷彩だ」
 少年たちは各々の仮面の下で顔をしかめた。光学迷彩とはまた、なんだかフィクションめいた名前が飛び出したなと。
 しかしその内でナビが手を叩いてあっと声を上げる。
「インビジブル・メルセデスか!」
「あったね、そんなCM」
 クスッと笑って、グリムは身を乗り出してナビと向き合った。
「あれとは少し違うけど、うちでも似たようなものの開発を行っていたの。可視光線を回折させて反対側を覗かせるためのごく薄く、軟性のある素材を作ってたんだ。主には医療外科の現場で用いられることを目的としてね」
「実際には違ってたってことか?」
「いや。たしかにうちはどっちかっていうと軍事関連のが強かったけど、兵器への転用を危ぶまれる声もあった。電波や赤外線まで透過させる完全なステルス性を持たせる案もたしかにあったんだけど……」
「熱光学迷彩じゃん! 案ってことは実現しなかったのか。残念過ぎる……」
「そうでもないよ」
 グリムは唇の端を吊り上げた。
 話に耳を傾けて首を傾げるばかりだった少年が、この間隙を縫ってくちばしを突き入れる。
「分かりやすく、簡潔に説明してくれ」
 こぼれ落ちたため息と、彼に同意するいくつもの視線にもグリムの笑みは剥がれ落ちなかった。
 彼女はどこかうつろな目でもって告げる。
「ここは認知の世界なんだろ。それなら、開発研究中の素材が実用段階にまで繰り上げられていてもなにもおかしくないじゃないか」
「つまりなに? 開発されてた素材を使って隠れてるってこと? ナビのサーチかわせるほどのものじゃないんじゃないの?」
 パンサーの疑問にグリムは分からないと首を左右に振った。その胸には悪い予感があるのだろう。答えが曖昧なのはそのせいだ。
 それを解っているのかいないのか、クイーンが悪気もなさそうな様子で確信に置き換えるようなことを言い出した。
「おそらく、現実で……完成はしていなくともグリムの言った案が通っているんじゃないかしら。だから、認知上の世界に存在できていて、ナビの探知に引っかからない」
 もちろんこれも可能性の一つに過ぎないけど。
 そう結んで、クイーンは再び思案顔に戻った。
 なにしろこの通りであるなら、目視も電波も、赤外線に熱感知も通用しないものをどうやって見つけ出すのか。
 あるいはまったく違う可能性もある。この広い大陸のどこかにポツンと一つ、宝箱が半ば雪に埋まっているような―――
 漂い始めた陰鬱な空気を打ち払ったのはこれまで黙って話に耳を傾けていたフォックスだった。
「俺にはその熱光学迷彩とやらの原理は解らんが……しかし、それは見つけられないだけなんだろう? 攻撃を跳ね返したり、迎撃する機能があるわけでないのなら……」
 顔を上げ、ピンと背筋を伸ばした少年は、普段なら筆を握る繊細な指先でテーブルを叩きながら極めて暴力的な発言をしてのける。
「範囲を定めず無差別に衝撃を与え続ければ、そのうち壊せるんじゃないか?」
 小部屋は静まり返り、神妙な雰囲気に包まれた。
 それは呆れとばかばかしさと、感心や喜びをない混ぜにしたような、なんとも言い表せない感情による沈黙だった。
「まあ……そうかもね……私の知っている物なら、キミたちの魔法みたいなやつをぶつけられれば十分破壊できると思うけど……」
 真っ先に我に返ったグリムが苦笑しつつ言うことに、フォックスは我が意を得たりと満足げに頷いてみせた。
「どうなのそれ。ウチら一応ドロボーしに来てんのに……できないことはないけどね?」
 二番手にパンサー。彼女はしかし、やれと言われればやる気ではあった。
 さて、決定を下す立場であるところのジョーカーは思案にふける。
 スマートかつクレバーに行うのが彼の思う怪盗だが、彼個人、自然人として言えば、大量の火薬やグリーンバックに合成されたCG映像のような派手な爆発も好みではある。
 けれどパレスの主に警戒されることはすなわち危機を引き寄せることでもある―――
「折衷案」
 ポツリとつぶやいて、ジョーカーはナビの小さな、しかしぎっしりと中身の詰まった頭を掴んだ。
「なんだよ」
 不満げに寄越された視線に、ジョーカーは開かれたままのノートを指し示した。
「例のシャドウの配置パターンを割り出せるか?」
「ああー? あー、あー、なるほど? できるよ? でも言うことあるんじゃねーか?」
「帰ったらお高いアイス買ってやるから」
「そんなものにこのわたしが釣られクマー!」
 ナビはすぐに再びノートとシャープペンを手に取り掛かり始めた。
 要は広域爆撃は行うが、無差別にではないということだ。
 イセカイナビの性質上、侵入地点からパレスの中心から何万キロも離れていることはまずない。このことから推察するに、これまで通り過ぎてきた場所で本体と呼べるものと接近しているはずなのだ。
 あの吹雪をまとうシャドウはその目印になってくれるはず―――
 希望的観測ではあったが、それなりの根拠はあった。
 ナビの書き記したいくつかの候補地域を受け取って、ジョーカーは立ち上がる。
 はじめから立っていたグリムはさておき、仲間たちは倣って椅子や机から腰を上げた。

 闇雲に雪の中を歩き回るより目的を定めて動くほうが精神的にはよほど楽だ。
 とは、すっかり冷えた肉球を一時休ませるためスカルの肩に乗り上げたモナの言だ。
「つってもなかなか当たらねーもんだな……ほんとにあるんだか」
 ボヤいたスカルの目線の先では、パンサーが太陽と見紛うほどの巨大な炎の塊を頭上に作り上げていた。これからそれを投げつけ、前方数百メートルに渡って焼き尽くそうというのだ。
 後方でそれを見守っていたナビが小さく「元気玉」とつぶやいて、グリムがそれに吹き出している―――
 さておき、成果の有る無しに関わらず見守るだけで暖かいというのはありがいことだ。モナなどは両手をかざしてゴロゴロと喉を鳴らしている。
「っせー、のぉ……っ!」
 かけ声とともに彼女の半身が優雅に艶やかなドレスの裾を翻し、炎の塊がぶち撒けられる。
 中空を狙い、扇状に放たれた熱炎は雪や風など存在しないかのように伸び、輝きとともに燃え盛っては瞬時にかき消える。
「んあー! もー! ハズレ!」
 悔しそうに地団駄を踏んで、パンサーは次はどこだとジョーカーの手からノートの切れ端を奪い取った。
「次どこっ?」
「落ち着いてパンサー、あなたはそろそろ休憩よ」
 そしてまたその紙片を横からクイーンが奪い取る。
 ここまで都合八回。四箇所でパンサーは同じことをすでに行っている。力の行使に伴う疲労が現れ始めていた。
 とはいえそれは皆々似たようなものだ。来た道を引き返して順繰りにということで移動はモルガナカーで済ませているが、一部はすでに肉体的にも精神的にも近く限界に達するだろう。
 空になった両手で雪玉を転がしながらジョーカーは立ち上がった。右と左に一つずつ。
 手の中でそれらを接合させつつ彼は言った。
「今日はこの辺りにしておこうか。続きは明日また―――」
 撤退の指示にモナは車に変じ、各々それに乗り込み始める。
 全員が乗車したのを確認して、ジョーカーもまた簡易雪だるまを足元に残して助手席に乗り上げようとする。
 その背後で奇妙な音が響いた。
 バチッと静電気が走ったときのような、極めて小さな爆発音だ。
 思わずとふり返った彼の目線を、仲間たちも警戒とともに追う。この頭目たる少年が常人より優れた五感を有していることは、すでに全員の共通認識であった。
 一際大きな破砕音とともに風景に変化が表れ始めた。
 一同から数十メートル離れた先、さらにその向こうにある凍りついた景色の一部がゆらいだと思った次の瞬間、上から墨でもかけられたかのように真っ黒に染まり、プツンとなにかが切れるような音とともにそれも消える。
 ほんの数秒の間の出来事だった。
 そしてただそれだけの間に、この氷の平原には似つかわしくない、オベリスクを思わせる近代的なビルが姿を現していた。
「やたっ! 大当たり!」
 いささか場違いとも受け取れるはしゃぎ声をパンサーが上げた。とはいえ彼女の功績であることに違いはないのだから、誰もなにも言わなかった。
「やっとかぁ……どうするリーダー、ちょっと寄ってく?」
 コンビニに寄るかどうかを確かめるかのような気楽さでクイーンが問いかけると、まだ車外にいたジョーカーは少しだけ考えるそぶりを見せた。
 消耗を考えれば引き返すべきだが、明日来たときにまた消えている可能性を考慮したら、せめて入り口にだけでもマークを付けておきたい―――
 ジョーカーは手を振って待機と、一部の人員には追尾を示した。その一部であるところのナビだけがぴょんと飛び出して、黒いコートの背を追って走り出す。
 耳に心地よいエンジン音に二つの足音が氷を踏む音が重なり、車内には気だるい空気が満ち満ちた。
「てかさ」
 座したことで疲労を認識したのか、日ごろあるはずの活気を緩めたパンサーが、ふと声を上げる。
「グリム、この後どーすんの? マジで昨夜っていうか、今日の朝どこで寝てたの?」
「漫喫でちょっと寝たよ」
「なに読んだん?」
 からかうような語調でスカルが問いかけると、グリムは少しだけ唇を尖らせてから高名な少女漫画の名前をいくつか上げてみせた。
「あ、それ私も読んだことある。あれ最後どうなったの?」
「今読んでみようかなって思ったところだから言わないで!」
 会話を耳に入れていたのだろう、運転席でハンドルに身を預けていたクイーンが焦った様子でふり返った。
 そのあまりの慌てぶりに車中は笑い声に満たされる。
「心配しなくても、私も最後までは読んでないよ」
 申し訳なさそうに喉を鳴らしつつグリムが言うと、それならばとノワールが手を叩く。
「ねえ、グリム。良ければ帰り、一緒に行ってもいいかな? 私もちょうど続きが気になっている漫画があるの」
「え―――」
「あっずるーい。私も行く! クイーンも行けるでしょ? 時間あるよね?」
「んー? じゃあそれ読もうかな……」
「えー……」
 まだイエスともノーとも答えないうちに勝手に話が進むことに目を白黒させる彼女を置いて、この上さらにフォックスが話に割って入ってくる。
「俺も行く。途中が気になるやつが……」
「あー、アレか。やられたな、フォックス」
 そしてまたスカルが訳知り顔で言う。どうやら彼は事の顛末を承知している様子だ。
「なに、アレって」
「……ジョーカーに半ば押し付けられる形で二十冊ほど借りたんだが、途中一巻だけ抜けていて、仕方がなく飛ばして読んだらその抜けていた一冊がちょうど話の転換になっていたらしく、まったく続きの意味がわからなくてな。寄越せと言ってもそこだけ実家に置いてきたなどと、ああ……!」
 見悶えて頭を抱えた彼に、そこここから同情の籠められた視線が送られる。
 じゃあ行こうか、と誘いの言葉をかけようとしたパンサーの隣で、グリムはなんとも言えない顔をして車窓の外に視線を投げた。
 まだ連れていくなんて一言も言っていないのに……
 思えど、しかしそう主張したほうが相手を頑なにさせることは解りきっていたから、グリムは口を結んで方尖柱めいた建物の入口付近にしゃがみ込むナビとジョーカーの小さな後ろ姿を眺めることに集中した。
 どこかで適当に撒いてしまおうとまで考えるのとちょうど同じタイミングで視線の先の二人が立ち上がる。どうやら作業は完了したらしいと息をつくが、彼女はすぐに腰を上げて車中から転がり出た。
 唐突なその行動に他の面々も慌てて彼女を追うが、そのころにはその行動の理由も把握できていた。
 のんきな顔をして慌てる一同を見つめるナビはともかく、ジョーカーもすでに状況を把握しているのだろう。鳴動とともに地面が揺れるのと同時に小柄なナビの身体を抱え上げて大きく前に飛び跳ねる。
 一瞬前まで彼らが立っていた場所の氷が割れ、巨大な顎が空を食んだ。
「ぎゃあっ!? なんっ、なぬ……っ、デカっ! デカいっ!」
「見ればわかる! それ以外の情報を教えろ!」
 とにかく合流を果たさねばと懸命に脚を動かすジョーカーの背後で、食い破った分厚い氷の下からぞろりと奇妙なものが姿を現しつつあった。
 それは分厚い皮膚をもった白い蛆のような生き物だった。つるりとした表皮には体節によるものだろう皺以外に特徴はなく、顔と思わしき部分は円盤状になっている。辛うじてそこが顔と判別できるのは浅い鼻腔らしき小さな穴と、口らしき裂け目、そしてあぶくのように膨れては消える赤い眼球がうごめく眼孔があったからだ。
 そして今やその白蛆は穴から全体を見せている。全長は五、六メートルはあろうか。巨体はとぐろを巻いた尾を振って、二人のすぐ背後に迫りつつあった。