14:Thus Spake Phantom

 ―――≪怪盗グリム≫が語って曰く―――
 今からちょうど三年前の冬、が十三歳のころ。
 一家は山梨からの旅行の帰り、自動車事故に遭ったのだという。
 場所は夕暮れの山間を走る一般道だが、他に車通りは無く、また見通しの良い直線道路であった。
 ゆったりと進んでいた父の運転するセダンは突然、両の前輪がパンクし、異変に急ブレーキを踏んだものの勢いを殺しきれずにスピンしながら右手側の林に突っ込んだ。
 その際後部座席で眠り込んでいたは車外に弾き出された。
 しかし幸いにしてもろともに飛び出した愛犬の身体がクッションとなって、彼女はただ一人生き残った。
 目覚めたとき彼女はまだ愛犬の毛皮の上にいて、そこから煙を上げる車、その運転席と助手席には血を流して項垂れ、ピクリともしない両親の姿を目撃する。
 それらとともに、車の前輪がバーストでもしたかのようにホイールだけに成り果てている姿も。
 周辺にはパンクの原因となるような自然物は見当たらなかった。車に関しても、数日前にレストアから戻ってきたばかりだ。
 眠っていたには、事故の瞬間なにがあったのかは解らない。やがて駆けつけた警察や救急は、呆然とする少女から聴き取りすることを諦めて自損事故としてこれを片付けた。
 後のことは怪盗団が集めた情報とおおよそ変わらない。戦中から続いてきた重工業はの家の者の手を離れ、財産のほとんど、土地や株式はも預かり知らぬ誰かの手に委ねられた。
 幸いにして生活に困ることはなかった。これは両親の残してくれた死亡保険金と、身寄りを失った彼女の身元保証人を請け負ってくれた弁護士のおかげだろう。
 父方の祖父の代から付き合いのあるこの男は老齢に差し掛かるころの恰幅の良い人物で、長年連れ添った妻はいるが子宝に恵まれず、仕事忙しさから養子を取ることもなかった男だ。これ故彼はを引き取ろうとまで進言してくれたがは頑なにこれを固辞し、独りあの家で暮らすことを選択した。
 それは、父母の死とともに奇妙な噂が耳に入ったからだ。
 狂人が描いた呪われた絵画。その血に連なる者もまた、呪いによって死に追い込まれたのではないか。
 狂人という言葉は彼女の祖父―――黒崎明翫を指していた。
 信じられないことだった。
 彼女にとって祖父は、甘やかすではないが優しく接してきてくれた穏やかな賢人だ。その描くものは確かに幼い彼女に大いなる畏怖を与えたが、しかし、それだけでないことは、他でもない彼女こそがなにより承知している。
 独りになったはなにかに急き立てられるように思い付いた伝手―――今や親代わりとなった弁護士の男以外―――を当たって噂を調べ尽くした。
 その中心にあるものが祖父の代表作にして偉大な傑作である『無題』だと知ったとき、彼女は怒りにその身を焼き焦がした。
 誰がなんの為にかは解らぬが、しかし、あって然るべき祖父と祖父の偉大な傑作に対する畏敬の念を捻じ曲げられたと知って、少女は決意する。
 ―――≪呪い≫なんてものがこの世に存在しないってことを、馬鹿な連中に教えてやる。
 はそのための手段を求め、曽祖父の代から続いてきた工業技術、その才能を遺憾なく発揮させた。それこそがあの尋常ならざる力をもたらすスーツである。
 そのようにして研鑽と修練、下準備を重ねた彼女は、今年になってようやっとシゴトに取り掛かり始めた。
 それこそが、喜多川が目を付け、屋根裏部屋に持ち込んだ絵画の窃盗事件である―――

 聴き終えて、怪盗団は反対する者もなく執行を決定した。
 まずは阿藤のパレスの場所戸キーワードを探そうということで話はまとまる。
「問題は」
 と、音頭を取っていた少年が、白みつつある都会の空を窓ガラス越しに睨みつけつつ言う。
「シゴト中のの身の置き所だな。顔を見られて、名前も素性も知られてるとなると、家も学校もバレてるだろう」
「なるほど、たしかに家に返すのは危険か」
 受けてモルガナはちらりとのほうに視線を投げる。話の途中で寒いと訴えたからか、彼女は毛布でぐるぐるに巻かれていた。
「ホテルとか泊まってたら? なんなら漫喫って手もある―――」
 高巻の案に喜多川が声を被せる。
「俺の部屋に来るか?」
 彼は坂本の手によって床に沈められた―――お前寮だし相手は女子だし飯出す金もねぇし―――
「別に、平気」
 汗のにじむ額を押さえて、は小さくかぶりを振った。治療の前に熱いシャワーを浴びさせたがあの凍てつく庫内の影響は大きいようで、顔色はますます悪くなっている。
「これくらい対処できる。追われること自体は想定内だから」
「けど」
 遮ろうとする奥村の不安げな声と言葉を振り払って彼女は立ち上がる。
「依頼はしても、そこまでおんぶ抱っこされるつもりはない。こっちはこっちでどうにかする」
 毅然として言い放つと、はそのまま部屋の隅に置かれたカルトンバッグに手を伸ばした。とはいえその腕も脚もまだどこか覚束ない。
 白い壁紙に手を付け、いくばくかの間動きを止めもする。
「くそ……」
 それでも毒づいて歩き出したその脚の前に、にゅっともう一本脚が伸びる。
「うわっ!?」
 素っ頓狂な声を上げて傾いた彼女の脚を引っ掛けたのは高巻で、床に転びそうになったその身と鞄を受け止めたのは喜多川だった。
「無理をするな」
「触るなって何度言わせるんだよ」
「知らん。あと百回は言う支度をしておいてくれ」
「開き直るなっ」
 喚いたその顔が赤らんでいるのは照れているわけではなく発熱によるものだろう。事実として触れた腕は熱を持っている。
 それを見抜いているのだろう、をすっ転ばせた張本人は素知らぬ顔で金の髪をかき上げつつ問いかける。
「マジな話どーすんの? まだパレスに入るキーワードも場所も判ってないから、二、三日で片付くとは限んないし。寝るだけならウチ来てもいいけど?」
「いらないって言ってるだろ。監視してくれなくてもキミたちの不利益になるようなことはしない」
「強情ねぇ……ふわぁ……」
 眠たげにあくびを噛み殺したのは新島だ。彼女の膝を枕に、双葉はすでに寝息を立てていて、その頭には誰かのいたずらか例の無能帽が乗せられている。
 その誰かさんであるところの坂本もまた、大口を開けて目尻に滲んだ涙を拭っていた。
 ひとしきり眠気を払う儀式を行ってから彼は頬杖をつきつつ述べる。
「ま、サンがそう言うんならいいんじゃねぇの?」
「竜司……!」
「せっえなぁもう、いちいちキレんな。さんさ、ヤケになってるワケじゃねぇんだろ?」
「当たり前だろ。……いい加減はなせっ!」
「じゃあいいじゃん。取引の内容ン中にはさんがこっちのシゴトが終わるまでクチきける状態でいるってのも入ってんだし。契約をホゴにすりゃ、どっちにもマズイことになる……なんて、もう一回説明する必要ある?」
 突き飛ばされて床に倒れた喜多川に憐れみの目線を送りつつ、彼は語り終える。
 頭目などは一言も発していないというのに、何故か己の意見であるかのように腕を組んでふんぞり返っていた。
「そこの……りゅうじ? くんの言う通りだよ。ちゃんとアテはあるんだ。想定内ってのも、ホントのことだし。信じてくれと言う他ないけど……」
 そちらの案件が片付くまで、しばらくは安全なところで身を隠しているつもりだと告げて、は今度こそ鞄を手に背筋を伸ばした。
「気をつけろよブルース」
「誰がだよ」
 もはや言うこともなしと先を行ってうやうやしく寝室のドアを開けてやった少年に、少女は顔を歪める。
 それでも部屋を辞し、ドアが閉ざされる直前、
「じゃあ、よ……よろしくお願いします……」
 か細い声で頭を下げる。その声と仕草は確かに全員に届いた。
 やがて足音が遠ざかると、少年たちは互いに見交わし合ってふーむと唸った。
「……どう思う?」
 そのうちに怪盗団の頭領が意見を求めると、仲間たちは忌憚のない意見を並べ始める。
「嘘はついてないんじゃね? 多分だけど。喋ってないことも多そうだけど」
「そうだな。明らかに誤魔化している感じではあった。あれが精一杯の譲歩ってところか?」
「それは例の情報に繋がってるからかもだよね。強がってる感バリバリだったけど」
「まったくだ。熱もあるだろうに、どうしてああも強情なのか……」
「仕方ないんじゃない? 彼女としては私たちを頼ること自体が不本意なんでしょ」
「マジで認知訶学についてある程度認識してんなら、わたしたちと敵対関係にある可能性のが高いしな」
「でも、あの様子だと裏切ることはないんじゃないかな? そこは本当に心配しなくてよさそう」
 一通り意見が出揃ったところで、彼はまた唸った。おおむね、仲間たちの言ってることは彼の考えと一致していたのだ。
 そのことに安堵するのと同時に、彼はまた部屋の隅に打ち捨てられたガラクタに目を向ける。
 深く思考を巡らせて、真剣な表情でもって少年は言った。
「あれは粗大ごみでいいのかな……」
 ……少年たちはしばらくそのまま、ゴミの分別に関しての議論を重ねた。
 それは夜明けまで続き、双葉を除いた女性陣はそのままチェックアウトまでホテルで仮眠を取ることとし、双葉と男性陣は電車が動き始める時間になるなり家路についた。
 寝て起きたら、阿藤勝利の身辺調査を開始しようということになった。

 さて―――
 阿藤勝利という男は現職の国家公務員であり、国土交通省の審議官は局長級、いわゆる幹部に当たる要職に就く齢六十一の人物である。
 若いころは柔道に励んでいたからか、その身の丈は日本人の同年代男性平均身長より飛び抜け、二メートル近くもある。
 しかし見た目のいかつさとは相反し、笑うとクシャッと崩れるその顔はなんとも人好きのする、ブルドッグのような愛嬌があるからか、マスコミを通じて世間一般からの好感度はかなり高い。
 一方で、公益法人や一部の民間企業との強い繋がり、それら官庁からの関連会社への天下りの斡旋といった黒い噂も、近年まことしやかに囁かれている。
 確証のある話ではないが重工業もその一つであると、怪盗団は協力者の一人から情報を得ていた。
 いずれにせよ子どもたちはその目で阿藤勝利が一人の少女をいたぶった末に殺害しようとした場面を目撃しているのだから、噂は限りなく事実に近いものとして受け止められた。
「それも認知の歪みの一つっちゃ一つだけどな」
 印象によって真実とは無関係に事実が捻じ曲げられることはままあるものだと言って、双葉は全員のスマートフォンにSNSを経由してデータを送信させた。
 各々が受け取ったのは、件の阿藤が懇意にしている企業名とその本社の所在地だ。飾り気もなく羅列された文字の膨大さに、坂本は悲鳴を上げた。
「げーっ、ンだこりゃ! 多すぎ! クソにも限界があんだろ!」
「限界のないクソってなんだよ。そっちのがヤバいだろ」
 すかさず応じたモルガナにしても覗き込んだ双葉のパソコン画面に表示されたものの膨大さにうんざりとした顔を見せている。
 怪盗団はいつもの如く屋根裏部屋に集い、ソファやダイニングチェア、ベッドの上等、好き好き腰を下ろしていた。
「これ一つ一つ当たんの? ヤバくね? ダルくね? ついでに寒くね?」
「主に懐が寒いな……」
 移動にかかる費用を思って項垂れたのは悲しいかな当然と言うべきか、喜多川だ。頭目などは「パレス攻略にキチンと来てくれれば調査はお休みでもいいよ」と言ってやっている。
「あとはなに? 阿藤の本宅に、こっちは……後援会事務所? そんなのもあるんだ。うへー」
 天井を仰いで両腕を上げた高巻の隣で、新島もまたどことなく疲れた顔をしていた。
「心の歪みの中心になる場所よね……そもそもいつからパレスが生み出されるほどの歪みが生じたのか、そこが分かれば場所ももう少し絞れるかなぁ……」
 そしてこの発言に奥村があっと声を上げる。
 なんだと己に集中した目線に、彼女は手をパタパタと振りながら応えた。
「えっと……さんが盗んでいた絵、あるよね?」
「ああ、『無題』だな。黒崎明翫の代表作とも言える―――」
「うんうん、それは分かってるの。あのね、その所有者がたくさん亡くなられ始めたのは三年前からだよね」
「たしかそうだったはずだが……ハル、なにか思いついたのか?」
「うん―――」
 頷いた彼女の手に、屋根裏に保管されていた≪グリム≫に関する調査資料のファイルが手渡される。
 奥村はそれをめくり、目的のリストを見つけ出すとファイルを逆さにして一同の前に示した。そこには人物名と自殺の文字が並んでいる。いくつかは別の死因もあるが、比べれば自死が最も多い。
 そして彼女はその自殺者たちを示して言う。
さんはこの絵に執着していた。それはやっぱり、この死者の数の多さに関係があると思うの―――」
 彼女の並べた推測はこのようなものだった。
 の最終的な目的が復讐であるというのなら、その対象は間違いなく阿藤勝利だ。
 そしてその手段として彼女は祖父の代表作、五枚の連作を次々に盗み出した。このことからこれら絵画と阿藤にも繋がりがあると推察できる。
 可能性は二つだ。
 一つは≪グリム≫が絵画に籠められた『呪い』の力を利用して阿藤を殺害しようとしているというもの。
 しかしこれはあまりに―――不可思議な≪力≫を繰る彼らにしても肯定し切れない非現実さを孕んでいる。
 そもそも彼女は呪いを否定しようとしていたし、なによりも祖父とその作品を敬愛する様子を見せていた。これは彼女と親しくしていた喜多川が強く主張するところであった。
 双葉に言わせればそれも認知の歪みの一種ではあるが……
 それらを抜きにして考えても、にパレスが存在しないことも併せてそこまでの心理的な歪は彼女に存在しないことは明らかだ。魔法や呪術といったあやふやかつ、手段や知識の確保が難しい方法を彼女がとるとも思えなかった。
 そのようにして導き出された二つは、まったく正反対の可能性だ。
 彼女は『殺人を行おうとしている』のではなく『殺人を止めようとしている』―――
 三年前から続出する死者たちはその経歴や身上は様々だが、いずれにせよ皆件の絵画を所有していた。これ故に呪いの存在が噂された訳だが、しかし実際には、噂自体は絵が発表された時代、即ち戦後の動乱のころから在った。
 絵の向こうから誰かがこちらを覗いている。それも充分薄ら寒い話だが、この噂はここ三年で急激に変化している。
 それは当然、多くの死者の存在がそうさせていた。
 これもまた非現実的な話ではあるが、見ようによっては『呪い』の力が増した、とも表現できるだろう。
 その要因はなにか?
 この場合は死者が出たから力が増したのではなく、力が増したから死者が出ている。
 つまり―――
「人を殺す≪力≫を籠められた瞬間が存在するんだよ」
 言って、奥村は死亡者リストの行間をなぞった。そこにはなにも記されていないが、彼女の言葉通りであるとすれば、なにかがそこに存在するのだ。
 そしておそらく、その『なにか』は阿藤勝利その人か、彼に関連する何者かだ。
「≪力≫が籠められた瞬間……ああ、なるほど、そうね……」
 奥村の言わんとするところを聡く読み取って、新島がスマートフォンを手繰った。
 程なくして機械音声が告げる。
『ヒットしました―――』
 無機質なこの声に、下級生らと猫は瞠目する。
「え? 私全然分かってないんだけど……なに? どこ?」
 みんなは分かってんの? 分かってないの私だけ? と不安げに一同を見回す高巻に、少年たちは同じ当惑の感情を示している。
 受けて新島は答えてやった。
「あの子が言ってたでしょ。三年前になにがあったのか……」
 苦痛に歪められた眉に、彼らははっと息を呑んで沈黙した。
 にとっての三年前。それは即ち、両親が死去した年だ。
「だが、あのコの家族が死んだ時期とどう繋がる? 子どもが死んだから、その親が描いた絵の力が増したってことか?」
 尾の先端の白い部分を芋虫のようにうにうにと動かして問いかけたモルガナに、今度は奥村が答えた。
「それもある意味ではそうなのかもね」
「ハルぅ、勿体つけるなよぉ……」
「うふ、ごめんねモナちゃん。だからね、そういう風に思っちゃう下地はもともと充分にあったんだよってこと。そして、呪いの力を欲しがった人がそれを利用したの」
 ―――娯楽程度の恐怖刺激を誘発する不気味な絵画。その作者の親類を死に追いやり、≪呪い≫を≪現実≫のものとした。
「それが阿藤勝利ってことか? そんじゃ、パレスの場所は……」
「ここ」
 首を傾げた坂本の鼻先に、新島はスマートフォンをかざしてやった。
 画面にはイセカイナビではなく、ありふれたマップアプリが表示されている。中央には赤いピンが刺され、その場所の名を浮き出させていた。
重工業本社』
 これにまた坂本はあんぐりと口を開けて困惑を示した。
さんの親の会社? ナンデ?」
「あっあっあっあー……分かったぁ、はる〜おまえ知ってて黙ってたな!」
 地図を横から覗き込んでいた双葉が真っ先に反応する。彼女は片手でキーボードを叩きながら頬を膨らませていた。
 そちらの画面には立ち上げられたインターネットブラウザ、その中に一人の男の名と経歴が羅列されている。表示されている人物は松下誠士郎なる三十代の男で、現在の重工業代表取締役にして阿藤勝利の妹の息子、つまり甥にあたる人物だ。
 奥村は困った顔で笑いながら、両手を合わせて拝むような仕草をしてみせた。
「ごめんなさい。はじめにさんのお名前が出たときは関係がなさそうだったし、その後も……その、自分のことでいっぱいになっていて……」
 ふ、とその表情が翳りを帯びるのを見て、双葉は歯を噛んでさらなる追及の言葉を飲み込んだ。
 屋根裏にはにわかに重い雰囲気が湧き立ち始めたが、これは喜多川が蹴り飛ばした。
「なるほど。のご両親の会社を皮切りに、官僚の斡旋先を集め始めた、というところか」
「たぶん、そう……うん……全員じゃないけど、自殺した人らの中にはなんかしらの会社のおえらいさんや、主要株主がいることはいる」
 引き続きインターネットで簡易な検索を行っていた双葉が補足する。
「実際のところはもっとちゃんと調べなきゃわからん。こんなのはただの推測で、情報の恣意的選択だ」
 だから軽々に結論を出すのは危険である。と結んで、双葉は顔を上げた。
 その視線の先では彼女の兄のようなもので眼鏡仲間の少年が、作業机の上のピッキング用ツールを磨いている。
 彼は手を止めずに言う。
「事実だけを追おう。阿藤勝利にはパレスがあり、そのパレスの場所は重工業本社。俺たちがすることは改心で、あと必要なものはキーワード。俺はとりあえずその場所に行って直接見てみたいかな。他になにか意見は?」
 淀みなく流れた発言に反対する者はなかった。
 少年は見もせずそれを確かめると、ツールをまとめて鞄の中に放り込んだ。
「じゃ、行くか。このあと予定あるやついる?」
 これにも返す声はなく、怪盗たちは無言で彼の後に続いた。

 重工業は第二次世界大戦後期に帝国だったころの日本の軍需産業の一部を担い、戦後の動乱期を建設機器や船舶、車両の製造販売によって切り抜け、巨大化した企業である。
 近年には航空宇宙産業にも乗り出し、事業の拡大と発展を見せている―――
 しかし元を辿れば、下町の小さな町工場だ。の曽祖父にあたる人物が立ち上げ、飛行機のリンク機構のパーツ製造から、やがて航空機の大型化を睨んで油圧シリンダ装置の開発と製造に勤しみ始めた。これが軍の目に止まり、小さな町工場が今や巨大な機械産業に成長した、というわけだ。
 少年たちの前にはその証明であるかのような巨大なビルが建ち聳えている。
 高度の低い太陽光を浴びてギラギラと輝く黒い壁面は、まるで地面に突き立てられたオベリスクにも見えた。
「うへー……さん、春と同じ人種かよ」
「うーん、まあ、そうなのかもね?」
 並んでビルを見上げる坂本と奥村の背後では、彼らと相反して仲間たちが手の中のスマートフォンを睨んで視線を落としている。その中ではイセカイナビが最後のキーワードの入力を待ちわびていた。
「キーワード、キーワードねぇ……」
 つぶやきながら、各々思いつく限りを入れていく。
 洋館、屋敷、ポストアポカリプス、孤島、閉鎖空間、湖畔、寺、神社、廃屋―――
 どうにも彼らは呪いという言葉のイメージに引きずられて、怖い話やホラー映画等によくあるロケーションを片っ端から入れていっている様子だ。
 しかし帰ってくるのは『該当する場所が存在しません』という無機質な合成音声ばかりだ。
 これは一度引き返して阿藤に関するさらなる情報を求めなければならないか―――
 そう思った矢先、マキシ丈のスカートの裾を翻した少女が彼らの前に現れた。
「調子はどうだ? 進んでるのか?」
 気安く問いかけて片手を上げたのは、他ならぬだ。少年たちは驚きもあらわに後退った。
、もう体調はいいのか?」
「いや訊くとこそこじゃねーから」
「舐めるなよ。あれくらいどうってことはない」
「アンタも答えないの!」
 がなる高巻に、は皮肉っぽい笑みを浮かべる。気のおけない友人のような彼女の態度を気に入ったのかもしれない。
 なんにせよ、引いていたスーツケースに尻を預けつつ彼女は言う。
「いろいろ考えたけど、キミたちのそばが一番安全かなって。心理的死角ってやつだ」
「まあ……逃げたやつが自分の懐にまた飛び込んでくるとは、なかなか思わんかもしれんが……」
 渋い顔をするモルガナの腰はちょっと引けている。の目が彼を追ってどことなく興味深げに輝いているのは、彼が喋る言葉が聞き取れる言語として耳に入ることを面白がっているのだろう。
 けれどやがて彼女の興味は別のところに移る。
「それで、実際にどうなんだ? 私の依頼は進んでる?」
 それは、と言い淀んで新島は困ったように眉をひそめた。まったくのゼロと比べれば進んではいるが、パレスに侵入するための最後の一歩がなかなか踏み出せていないのが現状だ。
 しかしそれをなんと説明したものか―――
 考え込む彼女の隣で、奥村が手を合わせた。
「そうだ、ちょうど良かった。ねえさん、キーワードに心当たりはないかな?」
「キーワード?」
「……そこまでは知らないのね」
「え? なにが? 説明してくれなきゃわかんないよ」
 ふう、と息をついて、新島は彼女に改心の仕組みを説明してやった。
「なるほど、キーワードね……阿藤勝利は、そうだな、女好きではあるかな。奥さんの他に愛人が三人、それらを除いたお手付きが八人、金だけの繋がりが―――」
「具体的な数はいいよ……おサカンですこと……」
 ウンザリとした顔を見せる坂本に、は肩を竦めた。
「だから、そうだな。場所を指す言葉としてなら……娼館? もしくはラブホとか? どちらもあいつが利用しているところは見たことないけど」
「その情報もいらねーって」
 相変わらずの調子で返しつつ、坂本が彼女が口にしたキーワードを入力する。
 しかしこれも外れのようで、また『該当の場所がない』と返されるばかりだった。
「うーん……金や地位に拘ることも、すでにアホみたいに資産があるからなのかあまりないし……ここがそのパレスとかいうものの場所だってなら、ストレートに会社は?」
「……はいハズレ。次」
「えー? じゃあ、出身は山奥の田舎のはずだから、山村とか、山城とか……」
「……ダメだな」
「く……温泉、サウナ、キャンプ場、史跡……」
「ダメ、ダメ、ダメ、ダメ……」
「なあ、そのキーワードってどうしてもなくちゃダメなのか?」
「ダメなんだよ。なんでかわかんねーけど」
 なんてことだと天を仰いだ二人の傍らで、追加された阿藤の個人的データを元に少年たちも思い付くものを再び入力し始める。
 そも頭脳労働は自分の仕事ではないと、坂本はに向き直った。
「つか、そのトランクなに? 着替え?」
「うん。着替えの他に、現金とか日用品とか」
「わざわざ取りに戻ったん?」
 問いかけに、はっと顔を上げた喜多川が二人の間にくちばしを突き入れる。
「無理はするなとあれほど」
 彼の手はまたの肩を掴んでいる。
「ぎゃ、触るなって―――」
「あと九十九回だ」
「やかましいわ」
 はむずかる子猫のように身体を震わせて手を払った。
「だいたい、無理なんてしてない。こういうのをあちこちのトランクルームや貸コンテナに入れてあるんだ。想定内だって言ったろ?」
「あ、それいいな。なあなあ、俺らもそーゆーのやったらいんじゃね?」
「えー? あー、装備とか、クスリとか? わざわざ取りに行くのめんどいよ……」
「でもいかにも秘密基地っぽいっつーか、秘密結社っぽくね?」
「あっ、ホントだ。ヤバいな。貸コンテナか……こっちだといくらくらい?」
 呼びかけられた彼もまたキーワード探しに飽きてきたのか、これ幸いと友人から振られた秘密基地や結社という心躍るワードに喰い付きはじめる。
 新島やモルガナが咎める視線を送りはしたが、彼は意にも介さず坂本とはしゃぎ続けた。途中で高巻までもがこの馬鹿話に参加し始めて、張り詰めた空気はすっかり―――いつも通りに―――散ってしまっていた。
「……これがキミの言っていた『仲間』ってやつ?」
 いかにして秘密組織めいた雰囲気を作り出すかを真剣に議論する同級生らを眺めて、がもらす。これを耳にしていたのは彼女の傍ら、穏やかな表情でそれを眺めていた喜多川だけだった。
 彼は答える。
「ああ―――いいものだろう?」
「どうだろうな。私の依頼をこなす気があるんだか」
「それは当然。与太話の中で閃くこともある」
「ふーん」
 曖昧に頷いて返した彼女の頬に貼り付けられた大きな絆創膏に喜多川の視線は絡め取られる。「本当に、もう大丈夫なのか?」
「キミは案外心配性だな」
 こんなの『へ』でもないさと笑って手を振る彼女は確かに昨晩より顔色は良くなっている。以前あった目の下のくまも消えているから、別れた後、もしかしたら今の今まで寝ほうけていたのかもしれない。
 ほっと安堵の息をついた少年のその暖かな視線にか、はそっぽを向いて唇を尖らせた。
「だ、だいたい。この私がちょっと冷凍庫で氷漬けにされただけで、へこたれたりなんてするかよ」
 強がってるのも、心配されていることをくすぐったく思っているのも明らかだったが、彼は口元を緩ませるだけに留めた。
「……ふんっ、私を本当に凍らせるなら、もっと寒い場所にでも連れて行くんだな」
 これに秘密組織のアジト計画から未来産猫型ロボットの話に移行しつつあった少年らが顔を上げる。
 なんの気もなしに彼は問いかけた。
「得意?」
「なにが」
「寒いの」
「普通」
「ふーん」
 訊いておきながら大した興味もなさそうに唸った彼に、は歯を剥いてみせる。
 彼はまた、独り言のように言い連ねた。
「寒いところっていうとどこかな。北極?」
「ロシアとか、アラスカとか、グリーンランド?」
 応じて高巻が指折り国名を並べ立てる。その隣の坂本などはちょっと嬉しそうな顔をしてこれに乗った。
「あ、いいな、旅行いきてー。海外とかぁ、パーッとさぁ」
「オーロラとか、ペンギンとか、犬ぞり見に?」
「寒いとこなら南極がいいっ! 狂気山脈さがしに行こうぜ!」
 またぞろ与太話に花を咲かせる一団に双葉がぬるりと入り込む。彼女はそのまま、かつてその山脈を支配していた古のものなる異形の存在について熱く語り始めた―――
「バカ集団……」
 冷めた目でそれらを眺めてが言う。気がつけば隣にいたはずの喜多川も双葉の語る、十数億年も前に宇宙から飛来したこの先住種族に興味を惹かれて話に参加していた。
 代わりにか、奥村がやってきて彼女に困り顔を向ける。
「あれでも一応、真面目にやっているんだよ。怒らないであげてね?」
「そうですか。奥村さんも苦労するね」
「ふふ。私よりまこちゃんのほうが大変だと思うけどね」
 と言って、奥村はちらりと新島を見やる。
「まこちゃん……あー、そう。大変そうだ」
 視線の先では新島が猫と額を突き合わせてまだスマートフォンと格闘していた。
 別段それを哀れに思ったわけでもないが、は思索にふける。
 キーワードと言われても、思いつくものなどさっぱり無かった。
 恨みつらみは山ほどあるし、その日その日のスケジュールであればいくらでも提供できようものだが、その心の有り様と言われると、わかることは多くない。
 気がつけば新島までもがモルガナとともにのそばに寄っていた。
「ごめんなさいね。少し時間をくれる? もうちょっと阿藤の精神性について掘り下げないといけないみたい」
 眉尻を下げた彼女に、はゆるく首を左右に降った。
「構いません。最悪地方の観光地にでも身を潜めますから」
「そう? ならいいんだけど、その時には連絡を―――」
 おそらく新島は連絡先の交換を申し出ようとしたのだろう。手にスマートフォンを乗せ、の前に差し出していた。
 その画面には未だ彼らを他社の心の中に導くアプリケーションが起動されたままで、音声認識もオンになったままだった。
『ヒットしました。案内を開始します』
「え? 今なにも言って―――」
 ない、と言う間に、少女たちはもろともになって現実世界から陽炎のように消失していた。


 ……
「さっ―――」
 吹き付ける横からの強風に、引きつった声を上げたのは高巻―――今やその全身を真っ赤なラバースーツに包んだパンサーだった。
 彼女はまた、直ちに己が身を抱きしめ、震えながら叫んだ。
「さっむーい!! ナニコレなにこれぇっ! こっ、こ、こ、凍え死ぬっ!」
 さっとその場にしゃがみ込んで小さくなった彼女の左右には、壁になるように二人の少年―――ジョーカーとスカルが立ち尽くしている。
「なんだコリャ……うわ、やべ、口ン中凍りそう」
「ほんとだ。えー、どれだ? おい、ナビ、フォックス、お前たちなにを言った?」
 強風にはためくコートの裾を手で押さえながら振り仰いだ先で、やはりこちらも先ほどまでの身軽な服装から変じた二人が顔を見合わせている。
「んー……? 蓬莱学園? ノイシュヴァーベントラント?」
「エレバス山かテラー山では?」
 ダメだこりゃ、と顔をそらしたジョーカーの口から「朝松健でも読んでろ」というボヤきが漏れたかどうかはさておき、二足歩行になったモナは身を震わせて彼の足元、その黒のコートの裾の下に潜り込んだ。
「わ、わ、ワガハイ、寒いところはぁ……」
「うわ、足元ぬくとい。モナのぬくもりがじんわりくる」
 所感を述べた少年の足元に、すばやくパンサーの腕が伸びる。
「ずるい! モナぁ、私も私も!」
「フニャーッ!? パンサーやめ……あっ!?」
「や〜ん生毛皮あったか〜い」
「……にゃ……」
 憎からず思う少女の胸に抱き寄せられて、モナは口を閉ざした。ぬいぐるみのように扱われているとて、抱擁は抱擁だと、彼は己を納得させてだらりと身体から力を抜いた―――
 一同は、強風吹きすさぶ平坦な氷の大地に足をつけていた。
 スケートリンクのように透き通った氷からは霧氷と呼べそうな白いもやが立ち上り、風と共に視界を塞いでしまっている。
 その風にも冷たい飛沫が混じっていることからして、どうやら雪が降り注いでいるらしい。
 霞んだ視界の中、それでも視認範囲を確かめるに、どうやら凍った川か湖、海氷や棚氷の上のようだが―――
 考えている暇はなさそうだ、とジョーカーは風よけにスカルの背に貼り付きながら唸る。スカルはすぐに彼を己の影から蹴り出した。
 ふざけている余裕も長くは続かないだろう。じっとしていればあっという間に体温を奪われて、シャドウに見つかる前に倒れてしまいそうだ。急いで風を避けられる場所を見つけよう。
 そのように仲間たちに告げようとふり返った彼の視界に、八人の姿が映る。
「ん……?」
 首を傾げて、ジョーカーは端から仲間の名を呼び始めた。
「スカル」
「ンだよ。お、フォックスお前よく見たらいーもんつけてんな!」
「モナ」
「ハッ! わ、ワガハイは……! はにゃしてくれぇ!」
「パンサー」
「やーだー! モナの毛皮は今だけ私専用だからね!」
「フォックス」
「ここに。おいスカル、引っ張るな……よせナビ! 乱暴にするな、抜け……ッ!?」
「クイーン」
「はいはい、なーに? うう、寒い……ノワール、くっついていい……?」
「ナビ」
「うおお……もこもこえりまきつえーぞこれ。あたたか〜い」
「ノワール?」
「なぁに? うふ、くっついてると少しはマシだね。さんもいらっしゃいな」
「……くん?」
「気安く呼ぶんじゃ―――きゃっ!? ちょ、ちょっと、奥村さん、触らないで……あっ! ダメ……」
 ジョーカーは激しく床を踏みしめてパンサーの腕からモナを奪い盗った。
「ぐえっ!」
「あーん!」
「一人多いことに先に言及しろ! 寒さ対策は後―――」
「へぶちっ」
 がなる彼の背後から、可愛らしいくしゃみが響いた。
 ふり返ると、ナビがフォックスの尾……の・ようなものを首に巻きつけて鼻を赤くして震えている。
 ジョーカーはがっくりと項垂れて己のコートを彼女の頭に被せてやった。
「とにかくまずは、この寒さをなんとかしないと……」
「避けられる場所がないか、探してみる」
 毛皮の襟巻きとコートをせしめたナビが言って、すばやく己の顔を隠すものに手を触れさせた。
 途端、それは足元から噴き上がった蒼い炎とともに消え、代わりに彼女の精神を護る鉾と盾としての形を得る。
 奥村に抱かれていたなどは、驚きに目を見開いてたたらを踏んだ。
「それが……例の―――」
「……今は追及しないどいてやるけどな、、おまえほんと発言気をつけたほうがいーぞ」
「え? ……あっ!」
 ハッとして両手で口を押さえた彼女に、白けた視線が突き刺さった。
 さておき、己の影に身を預けて浮かび上がったナビは、まずはじめに「あっこんなかあったけーわ! いらね! 返す!」と言ってコートと襟巻きを外に蹴り出した。
 持ち主たちは憤慨して手を振り上げたが、頭上に浮かび上がった彼女にそれが届くはずもなく、虚しくもとの通りに着込むことと相成った。
「う、わ―――雪と氷の粒がチャフみたいになって―――」
「見えねーのか?」
 足元から心配そうに見上げるスカルの声に、ナビは答えた。
「んや―――完全になにもってことはない。ちらほらレーダーに引っかかる―――」
「なんかあんの?」
 これはパンサーが。彼女はモナを抱き締めること自体は諦めたようだが、相変わらずその手を握りしめて暖を求めている。
「小さな―――なんだこれ―――ボール……?」
「なにか見つけたのか?」
「うん―――でも、風をしのげるようなもんじゃない。待って―――もっと範囲を広げてみる―――」
「なるべく早くしてくれ、これはちょっと……」
 急かすなと返して、ナビはより深く意識を広域化させる。
 それは常人には理解の及ばない感覚だった。自らの感覚すべてが薄く広がり、自己なるものまでもが希薄になる。その上でなお思考を保つことこそを、彼女の半身が担っていた。
 やがて彼女はゆっくりと高度を下げると、かすかに震える声で仲間たちに教えてやる。
「フォックス、おまえの言ったやつだったみたい」
「あー?」
 身を寄せ合って震える中でも比較的平然とした様子を見せていた彼は、器用に片眉だけをしかめてみせる。
 ナビは白くけぶる彼方を睨みつけた。その眼前には、鮮明ではないが拡大された遠くの風景が映し出されている。
「エレバス―――つまり、冥府だな。ここはたぶん、地獄ってやつだ」
 彼女の目は分厚い氷の下で悶え苦しむ人々の姿を捉えていた。