12:Let Us Go On

 二人は電車を乗り継いで、ルブランに向かう道を歩いている。
 あたりはすっかり夜の帳が落ちているが、街灯や車のヘッドライト、家々や道に面する店舗から溢れる明かりが足元をこうこうと照らし出しているためか、影ははっきりとした輪郭を得て浮かび上がっている。
「いい夜だな。散歩びよりだぜ」
 鞄から飛び出し、二人を先導するように先を行くモルガナが気持ち良さそうに夜風にひげを揺らして歌うように言った。
「そうだな。あー、涼しい、ずっとこの気温ならいいのに」
 応えた少年も心地よさそうに目を細めている。田舎からやむを得ずこちらに出てきた彼としては、やっと落ち着ける気温になったということなのだろう。
 ……秋は短く冬は夏の暑さと比例して厳しくなるとはあえて言わずに済ませた喜多川は、半ば連行されるように同道しているからか、まだどことなく剣呑な雰囲気を湛えたままだ。
「……こんな時間に出歩いて、マスターに追い出されても知らんぞ」
 言葉にもいささかばかりの棘がある。
 しかし少年も猫もこれを笑い飛ばした。
「それはオマエもだろ」
「門限あるんじゃないのか」
 こう返されては、喜多川に反論の弁は無い。
「ふん」
 鼻を鳴らして顔を逸した彼に、少年は苦笑する。
「そんなにむくれるなよ。あとをつけたことは謝る」
「今さらだな。どうせお前のことだ、なにもかも承知しているんだろう」
「まさか。俺はただ派遣されただけだよ」
「ワガハイは付き添いな」
「どういうことだ」
「言ったろ、みんな心配してるって。一番はじめに言い出したのは杏だけど」
 彼はいつぞや、双葉の特訓という名のおしゃべりの場を掻い摘んで語ってやった。
「なんなら、杏はもっと前から気が付いてたのかもな」
「女の勘とでもいうやつか……恐ろしい……」
「だよな……ゾッとしたわ……」
 震え上がる少年たちをふり返って、モルガナはまなじりを釣り上げた。
「バカども! アン殿のすばらしい慧眼になんの不満があるってんだ!」
 もちろん、二人ともに不満があるわけではない。その能力が役に立つことだってあるだろう。
 しかしそれと、あの少女の内に宿る女なる未知への恐怖は別の話だ。
 それを追い払うようにかぶりを振って、少年はまた仲間たちの声を喜多川に伝える。
『なんだか様子が変だったね。まあいつもちょっと変だけど。でもそれだけじゃなくて……ううん、なんだろう。ちょっと心配かな……』
 新島がこう言ったのは昨晩一同が解散した直後のことだった。彼らはその様子のおかしい一人を除いてタクシー乗り場に再集合していたのだ。
 受けて喜多川は渋面をつくる。
「真の本音が垣間見えるんだが」
「事実だから仕方がねぇよ、諦めろ」
 慰める気もなさそうな猫の尾を、喜多川の手が捕まえた。
 ぎゃっと上がった悲鳴を背景に彼はまた語る。
『あいつ、おイナリ。なんか隠してるぞ。人間ってのはやましーことがあるとき、腕を組んだり、視線を上に投げたりするもんだ』
 これは先の新島の発言より前、≪グリム≫のメッセージカードを双葉が盗み出して皆の前に晒し出した後のことだ。
 喜多川は己の行動を思い返して首をひねった。
「していたか?」
「してたよバカモノっ」
 叱責に、彼はモルガナの首根っこを掴んでつまみ上げた。
 再びの悲鳴。少年は構いもせずに語る。
『なんだかとても傷ついたお顔をしていたよ。もし想像の通りなら、彼の助けになりたいって思う。ねえ、私、お節介かな?』
 これもまた昨晩の別れ際に囁かれた言葉だ。
 喜多川は少年を介してもたらされた、彼女こそが深く傷ついているだろうその言葉に顔をうつむけさせて猫を解放してやった。
「お節介、なんてことは……」
 流石に思うところがあると消沈する彼に、モルガナはふんっと鼻を鳴らした。
「ハルの優しさによぉく感謝することだな」
 返事はなかったが、しかしかすかに顎が引かれたのを確認して、モルガナは溜飲を下した。あまり責め立てるのもかわいそうだと思ったのかもしれない。
 少年はそんな猫と友人を眺めて肩をすくめる。その姿はいかにも楽しげで、今ある危機など目にすら入れていないかのようだ。
 彼はまた、手品でも披露するかのように指をパチンと鳴らして注目を促した。
「さて、トリは竜司だ。俺の大本命―――」
『アイツまさかか? 俺らに黙ってカノジョとかマジに作ってたんか。うわーショックなんだけど……でもざまあだわ。騙されてやんの。バーカ』
「悪口じゃないか!」
「照れ隠しだよ。だって俺がここに居るのは……」
 穏やかな表情で、彼は記憶をさらう。
『まあでも? アイツがヘコんでるかもってなら、なんかしちゃう? パーッ遊ぶとかは無理だけどよ。アイツ、落ちこんでもゼッテー言わなそうじゃん。だから多分、俺らのほうから仕掛けてやらねーとさ……』
 ―――そも、少年と猫が揃って喜多川のもとに現れたのは、坂本の発案によるものだ。
 頭目を使い走りにした彼のその情の厚さというものに、喜多川は項垂れてきつく歯を噛んで毒づいた。
「くそ……なんなんだあいつは……馬鹿にしているのか……」
 先を歩くモルガナは、足を止めてブンブンと尾を振った。それは同意を示している。
「言いたいことは分かるぜ。言わねぇけどな」
「俺は言う。というか、もうずいぶん前に言ったはずだ」
「なにを……」
 少年は自慢げに伊達眼鏡のブリッジを押さえ、宣言する。
「竜司は優しいよ」
 応じて猫は鼻を鳴らし、尾の先で強かに地面を叩いた。
 言いたいことはあるらしいが、しかし、そんなものはすべて、少年の言葉を否定する材料にはならないのだと分かって口を閉ざしている。
 何故ならこの猫もまた、少年の主張するところ、優しい誰かさんたちに促されてここにいるからだ。
 そしてそれらを直接差し向けられた喜多川は、感嘆の息をつく。他にできることなどなかった。
「……認めてやる。ああ……俺の負けだ……」
 彼はやっと理解して、敗北を受け入れる。
 そうとも、『心の怪盗団』だとか『認知世界』だとか『反逆の精神』だとか、『ペルソナ』だとか―――
 共通の秘密なんかなくたって、こいつらと俺は友だちなんだと、彼はやっと心の底から思えたのかもしれない。

 二人の足がルブランにたどり着いたとき、時刻はすでに二十一時を回っていた。
 だというのに、その店舗部分にはすっかり怪盗団の面々が揃い踏みして、派遣された使い走りらが喜多川を連れ帰るのを待ちわびていた。
 頭目はすぐに作戦会議を開始とはせず、一先ず仲間たちを憩わせようと、近ごろずいぶん板につき始めた喫茶店の手伝いらしく、コーヒーの用意などをしはじめる。
 少し肌寒い夜の空気に皆いささか体を冷やしていたから、これを喜んで待つ間を歓談に費やした。
「マコトは来て大丈夫なのか?」
「別に平気よ。お姉ちゃんは今日は泊まりだってだいぶ前に着替え取りに戻ってそれっきりだし。春はいいの?」
「うん。少し一人になりたいって言ったら、誰も私を止められないよ。友だちの所だとは言ってあるから平気」
 穏やかに笑う奥村の、しかしその陰に潜む意外な強かさに新島はわずかに腰を引いた。
 流れを変えようと、カウンターチェアに浅く腰掛けた高巻が新島たちの対面、ソファに腰を下ろした坂本を指し示す。
「つか、一番ヤバいの竜司じゃない? お母さんになんて言って来たの?」
「ふっふっふ……」
 何故か怪しく笑い出した坂本の手には、コーヒーが苦手だからという理由から、先んじて双葉と揃いのココアが湯気を立てている。
 彼は肩を落として言った。
「黙って抜け出してきたからバレたらやべぇ……」
 呆れたような、同情するような、あるいはわずかな羨望のこもった声や目線があちこちから彼に向かって投げかけられた。
 それとともに、用意されたコーヒーが他の面々にも差し出される。
 坂本はさっそく口をつけた喜多川を怒鳴りつけた。
「祐介! てめぇバレたらお袋にシャクメーしてもらうからな! 女にフラれておいおい泣いてたの慰めてもらいましたって言えよ!?」
「泣いてないしフラれてない」
 返されたのは冷たい声だったが、その目と口元は愉快そうに綻んでいる。
 ルブランにはにわかに穏やかで、眠気と相まって気だるい空気に満ち満ちた。
 けれどそれも、エプロンを折り畳んで双葉の隣、奥側のソファ席に座した頭領の声に真剣さを帯びる。
「さて、話してもらおうか」
 視線は喜多川に集中する。
 とはいえそこに責めるような色はなく、だからこそ彼は口を開かねばならなかった。
 さてどこから話したものかと思案して、ゆっくりと語り出す。
「結論からいこう。、彼女が≪グリム≫だ。決定的な証拠は押さえられていないが、これは間違いない」
「根拠は?」
「体つきと例のスーツ、それから≪グリム≫の印章。いずれも俺は見たことがある。彼女の自宅や持ち物としてな」
「なるほどね……ん? 身体ってなに?」
 はてと首を傾げた新島に、喜多川はさもおかしなことなどなにも無いと言わんばかりの態度でこたえた。
「彼女にモデルを引き受けてもらって、そのときによく観察した結果だ」
 淹れられたばかりのコーヒーの芳ばしい香りの上に沈黙が伸し掛かった。
 素知らぬ顔でそれを口にする喜多川に、何ヶ月か前の記憶を胸に返して坂本が動揺もあらわに目を瞬かせる。
「ちょま、えっ、なにそれ、杏のときみたいにってことな……?」
「やめてよ! 私ギリで脱いでなかったから!」
 一緒にしないで―――
 懸命に主張する高巻とは別に、頭領は身を乗り出して真剣な表情で問いかけた。
「どうだった?」
「なに訊いてんだよオマエはぁ……」
 傍らのモルガナなどは呆れ顔をみせる。彼にとっては、強く己を惹き付ける存在以外の裸体など、爪の先ほどの興味も抱けないものなのだろう。
 しかしニンゲンであるところの彼にはそうではないようで、じっと注がれる妙に熱っぽい視線に、喜多川は一つ頷いて応えてやる。彼にもその想いが理解できたからだ。
「素晴らしかった」
 とはいえそれはここで発揮されるべきものではないだろう。
 そういうのは男子だけで集まったときに勝手にやってくれと言わんばかりに肩を落として、新島はため息をついた。
「祐介も答えないの」
 そんなことよりもっと話し合うべきことがあるはずだと、切り替えようとした彼女の前に、しかし高巻が眉を釣り上げて立ち上がる―――
「ちょっと聞き捨てならないんだけど。なにそれ、私より?」
「どこで張り合ってるのよ……」
 新島はカウンターに突っ伏してうめき声を上げた。隣に座した奥村が、困った様子でそんな彼女と高巻とを見比べている。 
「優劣つけ難いが……全体的なバランスや調和という点においては杏のほうが上だな」
 また喜多川が真面目そうな声と顔で答えるから、新島はますます脱力してしまう。
「おイナリ……ヘンタイぶりに磨きがかかったな……」
 かろうじて奥の座席から双葉が感想らしきものを漏らしたが、それも高らかに拳を掲げた高巻に打ち消された。
「っし! 勝った!」
「なにと戦ってるのよぉ……」
「まあまあ、とにかくこれでわかったことが一つあるよね」
 はしゃぐ高巻に、さっそくくたびれ果てた新島。二人を交互に見ながら、奥村はビシッと喜多川に指を突きつけた。
「あなたは色仕掛けにまんまと引っかかった!」
「うぐっ!」
 指先から弾丸か光線でも発射されたかのように彼は胸を押さえてうずくまった。なにしろ彼自身にも、その通りだという自覚がある。
 一度ならず二度までも―――
 そう歯を噛んだ喜多川を見下ろして、一度目であるところの高巻は言う。
「にしたってやり過ぎじゃん? コイツ騙すんなら脱ぐ必要なんてなかったのに」
「……待て、その言い方では、杏、お前は脱ぐ気さえ無かったのか!?」
「ねーよ。金積まれてもイヤだから」
 フンと鼻を鳴らして金の髪をかき上げた少女の、その剣呑な様子だからこそ顕れる触れ難い美しさといったらどうだろう。喜多川は胸を押さえてがっくりと項垂れた。
 一方で、戸惑いなどと言うものとは無縁だからか、はたまた異性として意識さえしていないからか、頭領は揶揄するようなことを言う。
「百億出すって言われたら?」
「うっ……」
 呻いて、高巻は大胆に脚を見せつけるショートパンツの裾を指先で、ほんのわずかにめくってみせた。
「ち、チラッ……?」
「グラついてんじゃねーか」
 あざけ笑う坂本に高巻が腕を振り上げる。それが叩きつけられるより先に持ち直した新島が己の手を叩いて打ち鳴らした。
「はいはいー真面目にやってよ眠いんだから」
 言葉通り、眠たげに目を瞬かせた彼女に従って、怪盗団は膝を突き合わせて今後の動向を話し合った。

 その翌日、グリム、ないしを捕獲するために怪盗たちは彼女の活動開始に合わせて動き出した。
 キーワードは『ジャンピングババア』と『メメントス』だ。
 彼女を捕獲しようという行動には、もちろん各々の目的がある。
 例えば新島は『無題』の所有者たちが次々に自殺していった件の真相を明らかにするため。双葉は彼女が少なからず認知訶学についての知識を備えているその理由を知りたがっている。高巻や坂本などは、諸々の情報から≪グリム≫の背後には黒幕―――もしかしたら自分たちが追う精神暴走・廃人化事件とも関わりのある存在がいるのではないかと睨んでいた。
 喜多川はまた、彼女の身を案じている。
 という存在とここまでの情報を統合すると、一つ気がかりなことがあるのだ。
 分散されているとはいえ、≪グリム≫とを繋げる線は無数に存在する。背格好にパワーアシストスーツ、犯行が行われる周期。
 しかし双葉が覗き込んだ警察の捜査資料にも、怪盗団の協力者がもたらした情報にも、その特徴的なシルエットに触れるものが一つとして見当たらなかったのだ。
 よほど巧みに忍び込み、盗み出してみせたのかと思いきや、しかし彼女は一般人にその姿を動画として残されてしまっているどころか、オカルト系のまとめブログやSNSを介して跳び回る姿を拡散されてしまっている。
 犯行の際の目撃証言としてこれが上がらないのは不自然なことだ。
 つまりそれは、何者かが捜査に手を加えて情報を握り潰している可能性を示している。
 坂本や高巻が睨む黒幕とはこの可能性である。
 そして、もしもそのような、公権力にまで影響を及ぼせるような存在がいるとして―――
 人を死に至らしめると囁かれる絵画が全て揃ったとき、手段たる≪グリム≫をどう扱うだろうか。
 結ばれた推論に、若者たちははやる気持ちを抑え、目的地に向かう電車に乗り込んだ。向かう先は『無題』の一枚が保管されている阿藤の別宅ではなく渋谷駅だ。
 彼の背後では奥村がいつも通りの穏やかな笑みをたたえて、車窓の外を見つめている。
 その瞳にどこかへ昏い輝きがあることには誰も気が付かなかった。

……
 はじめに、数日前から阿藤邸のネットワークを監視していた双葉が≪グリム≫の侵入を察知する。
 これはさほど難しいことではなかった。……双葉にとっては。
 すでに監視カメラはグリムによって動作を支配されているが、他の家々に仕掛けられたカメラは別だ。もちろん、それらは取り付けられた家を守るための仕事に従事していて、阿藤邸には向けられていないが―――
 グリムは物理的なハブを噛ませてコントロールを奪っていたが、双葉はネットワークからいくつかあるカメラの主導権を奪い取り、放課後の時間帯を狙って阿藤邸に首を向け、監視を行わせた。
 喜多川が彼女の正体にたどり着いた時点で早いうちに行動を起こすだろうとは思われていたから、すぐ翌日に動きがあることは想定内であった。
 このために怪盗団の面々は放課後になるなりルブランに集合し、役割を確かめて動き出した。
 まず、双葉のゴーサインに従って新島が一人店を出る。彼女の前には250ccの国産アメリカンバイクが待ち構えていた。
「免許取ったばっかりなんだけど」
 と不安げに言うものの、パンツスタイルに着替えた彼女が赤い車体にまたがる姿は様になっていた。
 これを見送った一同はぞろぞろと駅へ向かい、たどり着いた先でスマートフォンを用意して待機する。
 辺りはもう夜の帳が落ち、酔客らしき若者から老人まで、数えるのもバカバカしくなる数が彼らの前を通り過ぎて行った。
 秋の冷たい風が手や足の先を冷やしたが、食料調達に一度坂本がコンビニに走らされた以外、彼らはいっときもそこを離れなかった。
 やがてその足元で膝を折り畳んで小さくなり、ラップトップパソコン越しに新島とやり取りを繰り返していた双葉が顔を上げる。
「出た」
「やっとか」
 そばの自販機で購入したコーンスープで指先を暖める少年が応えて、ニッと歯を見せて笑う。
 彼は双葉と、己の喉元に取り付けたマイク、その向こうの新島と、仲間たちに告げた。
「よし、やるぞ。行こう―――」
 誰も腰を上げなかったが、代わりに耳にはめたイヤホンからエンジン音が響いた。
 足元からは双葉の唸り声。彼女は相変わらず小さくなったまま、ラップトップを忙しなく操作していた。
「赤、緑、赤、青、赤、緑、青、青、青……」
 ブツブツと漏らしては野暮ったい眼鏡にブルーライトを反射させる少女の姿はやや不気味ではあったが、イヤホンからはどことなく楽しげな新島の声が漏れ聞こえている―――
『うわっ、わわっ、こっ、これっ、楽しい……! 一つも信号に引っかからないって、いいわね! もっと飛ばしていいかなっ!?』
「追い抜くことが目的じゃない。追い込んでくれ」
 乾いた笑いとともに厳命されて、新島がハッと息を呑む音が全員に伝わった。
 ―――そもそも、ここに至ってグリムが絵を盗み出すこと自体を阻止する緊急性は低い。喜多川はやや渋ったが、確実性を求められると彼も口を閉ざした。
 つまり、一度グリムに絵を盗み出させ、彼女を誘導することが目的なのだ。それは彼女のねぐらやアジト、絵の保管場所を知るためではなく―――
『双葉、そちらからも見えてる?』
 イヤホン越しに届く新島の問いに、双葉は短く「見えてる」と答えた。
 なんだと仲間たちが覗き込んだ液晶画面には、新島の現在位置を示す地図上の光点と、強調された信号機とその色、その付近の交通量、また新島のまたがるバイクに設置されたドライブレコーダー、そのリアルタイム映像が表示されている。
 いずれのことを指しているのか分からずに首を傾げる仲間たちの姿は見えていないだろうが、新島は補足するように言う。
『さっきからずっと同じ車両がついてきてる。念のためナンバー控えて。たぶんこれは―――』
「阿藤のか? けどなんで……」
 眉をひそめた少年に同調して、鞄の中の猫も首をひねる。
「ケーサツに通報は入ってないんだろ? わざわざ自分で追いかけてきたってのか?」
「そんだけ大事なコレクションってこと?」
 高巻の声を受けて、ふむと喜多川は顎をさする。
 金銭的価値というのであればさほどでもないというのが彼の見解だ。もちろん簡単に手が出るような値でもないが―――数ある美術品に比べれば、誇って集めたくなる類のモチーフではないこともまた確かだ。
 あるいはこの男もまたあのどこか倒錯的な死と悲嘆の中にある≪愛≫に取り憑かれているのか。
 結論は出る前に新島の勝ち誇ったような笑い声に上塗りされた。
『ふふふっ……でも、おかげで予定より早くそちらに着けそうよ。準備して』
 地べたに腰をつけていた者も膝を折り畳んでいた者も、壁に背を預けるだけでいた者もこれに勢い込んで立ち上がり、背筋を伸ばした。
 ガラス張りの通路から外の道路やビルを眺めて、姿を探す―――
「いた、彼女だ」
 喜多川が指し示した先、特徴的な形状の屋根にちょうど着地した影がある。傍目には大きな鳥のようにも思えるが、そのものが立ち上がるとすぐにそうではないことが知らされる。
……」
 名を呼んだ彼の切なげな様子に、背後で高巻が少年二人から小銭を徴収したりもしたが、それは彼の耳目に入らない。
 やがてその影が再び大きく跳躍したとき、いの一番に走り出したのは彼ではなく、秋めいた色合いの清楚なワンピースの裾を翻した奥村だった。
「ハルっ!?」
 モルガナの声にもふり返らず、踵を高らかに鳴らし、人波をすり抜けて一心不乱と進んだ彼女の前には、外部に取り付けられた非常用階段に繋がる重い鋼鉄製の扉がある。
 それを軽々押し開けて、吹き抜けた強風に髪を押さえる。瞳は間近のビル壁に取り付いた影の姿を確かに捉えていた。
「……さんっ!」
 後を追う仲間たちにも届くような大声で呼びかけると、影は確かにフードの下に隠された顔を奥村に向けた。
 目があったことを確信して、奥村は―――なんということか、高い柵から身を乗り出し、脚をかけて中空につま先を踊り出させた。
 ギョッとしたのは仲間たちのほうだ。作戦としては確かに≪グリム≫を間近に引き寄せる必要があったが、それは仲間内で最も身軽なモルガナが担うはずであった。
 そして影もまた動揺をあらわに壁を蹴る。それは奥村の身が中空に滑り落ちるのとまったく同時だった。
「いや―――!」
 悲鳴を上げた高巻を、坂本が半ば突き飛ばすような形で背後に押しやる脇を通り抜けて、少年二人と猫が蒼白な顔を柵につけて地上に目を向ける。
 そこに奥村の姿はなかった。ただ無数の人影がなにも知らずに通り過ぎるばかりだ。
「ハル―――どこに―――」
 震えるモルガナの声に応えたのは、頭上から届く冷たい声だった。
「こうしてくれるって解ってたよ、さん」
 顔を上げた彼らの視線の先には、奥村を抱えて柵に取り付いた見覚えのある姿があった。
 目深に被ったフード、そこから一房だけ垂らされた黒髪、艶めかしい身体のラインを浮き出すウェットスーツに、それらを覆うパワーアシストスーツ。
 今やそこにある表情をも窺える距離だ。は悔しそうな顔をして唇を噛んでいた。
「なんのつもりだ……! 死ぬ気か!? 私を捕まえるにしたって、お前たち、彼女にこんな真似をさせるなんて、なに考えてやがる!」
 激昂した様子の彼女に、少年たちは懸命に首を左右に振る。
 クスッと小さな笑い声が響いた。当然それは、奥村のものである。
「私が勝手にやったことだよ。彼らは関係ないの」
「お前、なんで……! まさか、父親のことでヤケにでもなってるのか!?」
「その様子だと、私のこともご存知なんだね」
 奥村はずっと手の中に握りしめていたスマートフォンをの鼻先に突きつけた。
「私が怪盗団に加わったのは最近のこと……お耳が早いのね。その情報源、お聞かせ願える?」
 画面には何某かのナビゲーションアプリがすでに起動されており、いくつかの入力項目が並んでいる。
「あちらでゆっくりと―――ね?」
 そのうちの一つには、メメントスとすでに入力されていた。

 気がつけば彼らはどことなく馴染みのある地下鉄駅の改札前に立ち並んでいた。
「これは……」
 ただ一人見慣れぬだけが戸惑ったような声を上げるが、しかしすぐに状況―――常ならぬ衣装と仮面を着けた面々に囲まれていることに気がついてその場を飛び退った。
 その腕の中に抱えられていたままの奥村―――ノワールもまた彼女を追って走り出す。
「えっちょっ待っ……ノワール! 待てってオイっ!」
 慌てた様子で改札を抜けたスカルの足元を、二足歩行に変じたモナがすばやくすり抜け、グリムが先にしたように跳び上がって前へ出る。
 そのまま空中で一回転。彼はちょっと間の抜けた音とともに車へ変じ、エンジン音を唸らせて仲間たちを急かした。
「乗れ!」
 短く鋭い号令を発したジョーカーが運転席に身を滑り込ませる傍ら、仲間たちも動揺を隠すまではいかないものの、すばやくモルガナカーに飛び乗った。
 同時に、メメントスに激しい排気音とブレーキ音が鳴り響く。
「状況は―――?」
 フルフェイスのヘルメットと車体を放り捨て、腰にしがみついていたナビ―――中継と合流の役目を務めていた彼女を抱えて、クイーンはすぐさま己の半身を呼び起こした。
 鈍く輝く白銀のボディに乗り換えて、女王は直ちにエンジンをかける。その腰にしがみつく形で再びナビがそこに相乗りした。
「あっやべ、あの人、、ペルソナ使いじゃないからかっ? 反応がさらえない!」
「目視で行くしかないわね」
「まだモナの鼻で追える距離だ! 行くぞ!」
 六つの車輪が猛然と回り、荒い道床の上を走り出した。

 メメントスの様子に変わりはない。いつも通り、仄暗い回廊に横たわる線路が複雑に絡み合い、その上をシャドウたちが跋扈している。
「ノワールめ……どうしてあんな無茶を……!」
 エンジン音の奥で唸り声を上げるモナに、同意するようにジョーカーの足がアクセルをさらに踏み込んだ。
 二人に追いつくのに大した時間はかからなかった。
 ニオイを追って進んだ先、広間のようになった空間の中にノワールの姿がある。その視線の先、太い柱の天井付近に、まるで蜘蛛のように貼り付く影もまた。
「ペルソナ―――」
 地に足をつけた一同の前で、ノワールの手がその顔を隠す仮面に触れる。蒼い炎とともに現れた顔の無い女は扇をひと振り、目に見えない力を用いて柱を掴み、空間と内部の鉄芯ごと歪めてひしゃげさせた。
「なん……うわっ!?」
 悲鳴を上げて、グリムは柱から柱へ跳び移る。するとそれを待っていたかのようにノワールはダブルアクション・リボルバー式のグレネードランチャーを構えた。
 発射された擲弾はグリムの着地地点、そのすぐ真下に着弾し、爆発する。
「く―――」
 衝撃と飛び散ったコンクリの破片に怯んだグリムの手が柱を掴み損ね、傾いだ身体は宙に放り出された。
 あわやと思われたが、しかし彼女は空中で身体を捻り、姿勢を整えて拳を握り込んだ。小さく空気の抜けるような音がすると、姿勢制御が働いたのか、彼女は危なげなく足から地に降りてみせた。
 ホッと息をついたのは誰だったか。しかしノワールはそんな寸暇さえ与えないと走り、再び跳躍しようとするグリムに飛びついてこれを阻止した。
「うわっ、くそ、離せ……っ!」
「嫌よ―――」
 ノワールの両手はグリムの手首を捕らえている。その手が再び手の中、感圧式らしきスイッチを押そうとするのを見て、ノワールは手のひらに手のひらを重ねるように絡め取った。
さん、教えてくださる?」
 仰向けに倒れたグリムの腹の上、馬乗りになった彼女の表情は誰にも窺うことはできない。今や彼女の背後には駆けつけた仲間たちが居並び、戸惑いもあらわに二人の様子を見つめている。
 震える声で彼女は言った。
「あなたが―――お父さまを―――この手にかけたの―――?」
 ああ、と誰にともなくうめき声が漏れる。
 一連の暴走ぶりは、つまりそういうことかと納得もしていた。
 つい先ごろに死した彼女の父親は、誰かに殺害されたと見て間違いないだろう。その犯人が認知世界に深く関わっていることもまた明らかだ。
 であれば、という少女が怪盗団の情報に精通している様子を見せる以上、彼女も確かに疑わしくはある。
 怪盗団の面々のいずれにしても、ノワールの胸にある言い表し難い複雑な感情も理解できないわけじゃない。
 それでも、フォックスは決然と首を横に振る。
 にそんなことができるはずがないと彼は確信していた。何故なら彼女には、『殺人を行わない動機』がある。
 彼の耳にかつてのの発言が蘇った。それは青い芝草や泥のにおい、雨粒がひさしや屋根を叩く音を伴っていた。
『絵にはそれを描いた人の『想い』が宿る。それはなにものにだって汚してはならない聖域だ。『偉大な傑作』は守られねばならない―――』
 冷然とした声だった。けれどそれが表向きだけであることを喜多川は知っている。
 己がそうであるように、彼女の内側にもまた、芸術なるものに対する焦熱の如きものが宿り、うねりを上げていると。
 かねてより推測していた通り、それ故に彼女は≪怪盗≫になったのだ。その対象がなにゆえ黒崎明翫の『無題』であるのかは解らぬが、しかし―――
 『無題』が『偉大な傑作』であるからこそ彼女が≪怪盗≫になったのならば、曰く聖域であるはずのそれを、彼女自身が汚すような真似をするはずがない。
 いわんや殺人などという最も罪深い行いによって―――もちろん窃盗も十分許しがたい犯罪だが―――『偉大な傑作』を辱めるなど、言語道断だろう。
 だから、彼女は犯人ではないのだ。
 進み出てノワールを止めようとする彼を押し留める者があった。
 ジョーカーが彼の腕を掴み、かすかに首を振っている。その瞳は気が済むようにさせてやってくれと語っていた。
 もちろん、なにかあれば全力で止めるぞ、とも。
 己が頭領にそうと訴えられれば、フォックスは引く他ない。
 静まり返った広間に、ノワールの痛切な声だけが響き渡る。
「教えて―――たしかに、お父さまは善人でも、聖人でもなかった。ひどい人だった。悪いことをたくさんしていた……」
 その表情を見ることが叶うのはグリムだけだ。彼女の目に映るのは、漆黒のマスクの下の大きな瞳を潤ませ、今にも泣き出しそうな気持ちを懸命に堪えるただの独りの女の子だった。
「でも、それは、命を奪われるほどのことだったの? 殺されなければ、濯ぐこともできないほどの罪だったの?」
 仲間たちは唇を噛んでノワールの小さな背中を見つめることしかできなかった。
 父親の異様な死に様を目撃して青ざめたまま走り去り、幾日か学校を欠席して―――それから、彼女はまた屋根裏に姿を見せた。
 もう大丈夫なんて言って、あなたたちを信じていいのと問いかけた。
 ジョーカーは確かにそれに応えた。それでいいと彼女に信を求めた。
 当然それは間違いのないことだ。事実として彼らは奥村邦和を殺害しようとも、してもいない。しくじりがあったのかもしれないが、これまでの改心のパターンを顧れば第三者の介入があった可能性のほうが高い。
 だから信じろ。
 そう訴え、それを受け入れること自体にはなに一つ間違いなどありはしない。
 けれどそれと心の問題はまったく別のところに存在するもので、この奥村春という女の子は誰にも知らせずずっと考え続けてきたのだ。
 なぜ? どうして? 彼らでないのなら、私でないのなら、誰が? なんのために?
 そこに都合よく≪グリム≫が現れ、と結び付けられる。
 そしてこの小さな可能性によって、抑え込んでいたものがいっぺんに膨れ上がり、しずくとして現れた。
 それは瞳からあふれ、グリムの頬にポタポタとこぼれ落ちる。
「教えて……なにかを知っているというのなら、話してください……私はただ……本当のことを知りたいの……」
 は己の頬を濡らすものと、明らかに思い詰めた表情の少女とを受けて、かすれた声で言う。
「仇を討ちたいのか」
「えっ……」
「親の仇を討ちたいの?」
 声は優しげで、ほんのわずかに悔悟の念が滲んでいる。
 それはノワールだけでなく、彼女の背後の者たちをも戸惑わせた。
「わ、私は……」
 仇を討つという具体的な行動を示されて、ノワールはグリムを押さえ込む手を緩めた。
 悲しみに打ちひしがれ、怒りを堪え、焦燥感に突き動かされたとしても、これまでそのようなことを考えもしなかったのだ。
 殺されたから、その犯人を―――?
 想像して、ノワールは背が粟立つのを感じる。それが恐怖や忌避感からのものなのか、恍惚や喜悦によるものかは解らなかった。
 そしてはその迷いを見抜いているかのように続ける。
「あなたのお父上を手に掛けたのは―――」
 誰もが目を見開き、つばを飲み込んで言葉の続きを聞き逃すまいと聴力を傾けた。まさかこんなところで真犯人にたどり着けるとは思ってもみなかったのだから、当然のことだろう。
「―――ッ!?」
 しかし決定的な名が飛び出す直前、は息を呑んでノワールの手を振り払い、彼女を抱えて大きく跳躍してみせた。
 よもや先の言葉はでまかせで、こちらの油断を誘うためだったのか―――
 思うが、しかしそれを口に出す前に彼女たちが横たわっていた場所に火柱が立った。
 激しい熱と風が少年たちを襲い、強い輝きが目を焼いた。
「こんな時に!」
 忌々しげに吐き捨てて、ジョーカーは腰元の短剣を抜き放った。その目線の先には炎と、その向こうに佇む異様な存在、メメントス中に充満する薄闇を凝固させたかのような黒い人影―――シャドウを捉えている。
「散開! コスト度外視でいい!」
 言いつけるなりジョーカーは炎に向かって走り出した。彼の背後に控えていた仲間たちは号令に従って互いに離れ、それぞれ得物を構える。
 一直線にシャドウに向かったジョーカーは壁のように立ち塞がる炎にぶつかる直前、己の顔を隠す仮面に手をやって引き剥がした。するとピリリとした痛みとともに全能感とも呼べる力と自信が湧き上がる。彼はその者の名を呼んで形を与えた。
「アトロポス!」
 陽炎のように浮き上がったのは鋏を手にした女神だ。黒衣に身を包んだ神性はものも言わず、ただ己を呼びつけた少年の背に向けてふうっと甘やかな息を吹き付けた。
 同時に彼の身は炎に飛び込んだが、舐めるように全身を包む高熱は彼の髪の一房さえも焼き焦がすことは叶わなかった。
 低く地を這うような格好で火炎の中を駆け抜けたジョーカーの身が、ネコ科の動物のようにしなやかに動いてシャドウの巨体の足元に滑り込んだ。彼はそのまままたぐらをくぐり抜け、身を翻して驚嘆に硬直する背を踏みつけて跳び上がった。
「正体を見せろ―――」
 頭上を舞う影にシャドウが顔を上げると、その顔を隠す仮面にジョーカーの手がかかった。
 それは影の身の一部として癒着していたが、勢いの乗った少年の重さに耐え切れず、油膜のはった泥のような液体を撒き散らしながら剥がれ落ちる。
 着地したジョーカーの背後でシャドウは形を失い、人々の無意識に刻まれた共時性を伴って再び顕現する。
 青白い肌をした黒衣の女だ。地に足をつけず、魔女のような帽子を頭に乗せている。
 またその背後、天井や崩れた柱の影から星の形をした無数の新手が這い寄りつつあった。
「うへ、多い」
 呻いたが、彼の口元には笑みが湛えられている。
 真紅のグローブに覆われた指がパチンと音を立てて弾かれると、左右に別れて控えていたスカルとフォックスが同時に女の懐に飛び込んだ。
「あ、これ俺らハタから見たら完全にヤベーやつじゃん」
「考えるな。動きが鈍るぞ」
 通り抜けざまの強烈な一撃が女の腹と顎に入る。
 また時を同じくして、ゾロゾロと群れて進む星―――よく見れば中心にひげを蓄えた男の顔が貼り付いている―――の進行方向にパンサーが立ち塞がった。
 仮面を剥がした彼女の背後には艶やかな女の影が、奴隷たちをマットのように扱いながら高らかに笑っている。その視線の先で星の形をした太古の天空神らが勢いを弱めたのを眺めて、パンサーは道を譲るように身を反転させた。
 空いた場所にスカルとフォックスが叩いた女が弾き飛ばされてやってくる。
 苦悶を浮かべた顔は一同と、霧散した炎と崩れた柱の向こうで未だノワールを抱えて顔をしかめるグリムを順に睨み付けた。
 女の唇が何某かの呪文を唱える。それはどこか別の国の古い言葉のようだったが、意味を理解できる者はおらず、また聞き取れる者もいなかった。
 ただ、再びその視線を辿るように火花が散るのを見て、次になにが起きるのかは理解できる。
「あぶない!」
 警句とともに最後尾でたゆたっていた浮遊物―――俗にアダムスキー型UFOと呼び慣わされる形をしたもの、ネクロノミコンと名付けられたペルソナに身を預けていたナビがその線上に身を滑り込ませる。
 二人のすぐそばで、どういうわけか半身を戻し生身でもってぶつかって、射線上からもろともに転がり抜ける。
「なるほど、これが……」
 ぼう然とした声を上げたグリムの目の前で、波のように押し寄せた炎が地を舐めた。
 その炎の向こうから爆音が鳴り響く。それは臓腑ごと身体を揺するエンジン音だ。鳴りを潜めていたクイーンが、勢いよく鉄火場を横切っていた。
 眩い光と熱がその軌道を追うように迸る。青白い光は幸いなことに直接ぶち当たるでもしなければ人体に影響はないようで、その場にいたシャドウたちを粉砕しただけだった。
 折り重なる悲鳴を耳にしながら、グリムはノワールを優しく床に下ろし、腰にへばり付いたナビもまたやんわりと引き剥がした。
「逃げるのか?」
 素直に離れて問いかけた少女を見下ろして、グリムは肩をすくめる。
「悪いけど、まだやることがある」
 彼女の手には大型のカルトンバッグが抱えられている。
「私の目的はまだ果たされてない。ここでキミたちに捕まるわけにはいかない……」
 じり、と踵をじらせてグリムは後退る。炎はまだ彼女たちと仲間を分断していた。
「ごめんなさい、奥村さん、一色さん。目的を果たせたら……そしたら、必ずお話します―――」
「え……」
 瞠目したナビとノワールを置いて、グリムは踵を返すと直ちに走り出した。行く手にはさらなる増援が沸き立っていたが、振り下ろされる凶爪のことごとくをすんでのところでかわして遠ざかる。
 無防備なその背中を追うシャドウにノワールの銃撃が突き刺さると、逃走速度はますます増した。
「いいのか?」
 開いた距離に立ち塞がるものを打ち払いながらジョーカーが問いかける。
 ノワールは複雑そうな顔をしつつも答えた。
「あの方、なにかを……お父さまの死について、なにかご存知の様子だった……」
 だから無事でいてもらわなければ困る。
 意志の宿った瞳にジョーカーは小さく息をついて、前方のスカルが小型のシャドウを地に叩きつけて影の中に押し戻すところに目線を戻した。
 そして、彼は目を逸らしたままノワールの帽子の上から拳を落とす。
「きゃっ」
 小さな悲鳴。ジョーカーはふんと鼻を鳴らしてダガーを腰元の鞘に収めた。
「後で話があるからな、先輩」
「ワガハイもな」
 その足元からはモナがじっとりとした目を向けてきている。
「まあ……なにかしら?」
 ノワールはとぼけたふりをして視線を遠くに投げたが、そこにも怪盗団の仲間が立っていて、やっぱり彼女を睨みつけていた。

 さておき今はグリムを追うことが先決だ。
 怪盗たちはノワールへの仕置を後回しにすることとして、モルガナカーに乗り込んで来た道を引き返した。
 道中のシャドウに少し手こずったこともあり、彼我の距離はずいぶんと開いてしまっていたが―――
「さっき、飛び付いたとき、発信機つけといたぞい!」
 ナビの指示に従って最短でメメントスを抜けた彼らは、再び現実の世界で彼女を追うことになる。
 とはいえその目的地は自宅である可能性が高い。追跡と誘導とはまた別にチームを分けて待ち構える班を作ったほうがいいかもしれない。
 そのように取り決めて人員の配置を話し合う一同の足元で、折り畳んた膝の上にラップトップを広げた双葉が右に左に首を傾げていた。
「んあ? なんだこれ?」
 なあなあと手近な坂本のズボンの裾を引いて注意を引くと、全員が彼女のほうに視線を向けた。
「どした?」
「なんかすげー勢いで移動してる。ちゃんと道沿いに……」
「またジャンピングしてるんじゃねえの?」
 さすがに名と顔を知ってババアと形容することはためらわれたのだろう、奇妙な文言で言い表した坂本に、双葉はぶんぶんと首を横に振った。
「いや、たぶんあれ、脚部のバランサーかエアクッションがイカれてる」
「なんでわかんのよ?」
「逃げてったるとき、前方に跳んでも天井や壁にはほとんど跳ねなかったんだよ。だから援護が必要だった」
「そう……そうね。確かにジャンプできていたら、私の支援は必要なかったかもしれない」
 奥村が双葉の弁を尻押しする。
「車かバイクにでも乗ったのでは?」
「もしくはタクシー捕まえた、とか?」
「あの格好でか?」
「いやーねーわー……」
 一同の脳裏にグリムの珍妙な格好が過る。機能性という意味では有意やもしれないが、見た目としては……各々の反逆の意思の表れであるところの怪盗服に少し似ているかもしれない。
 そう考えると、人目につくところで大っぴらに着たいとは、一部を除いて思えない。
 あるいは協力者の運転する車輌にとも思えたが、もっと別の可能性を閃くのは奥村が一番早かった。
 彼女の足はただちに車通りの多い道に向かい、手を掲げてタクシーを停めさせる。
 ふり返って奥村は一同を急かした。
「乗って! 双葉ちゃん、ナビ!」
「へあっ!? ほぁい!」
 奇妙な返事をしてみせた双葉が一番に乗り込んで、奥村はもう一台を求めてさらに手を振る。
 すっかり四足歩行の姿に戻ってしまった相棒を抱えながら先に止めたタクシーに乗り込み、少年はうんざりした様子でぼやく。
「そういえば、追手は俺たちだけじゃなかったな」
「……あの時やはり止めさせるべきだったな」
 恨みがましげな喜多川の声に少年はついと目を逸らした。視線の先、助手席では双葉がどもりながらも懸命に運転手に指示を飛ばしている。
 後ろを見れば背後の車内で奥村が同じく運転手になにごとかを言い付けている様子だ。
「とにかく追うしかないよね。あーんもう、このゴチャゴチャ感、誰かさんを思い出すなぁ……」
 最後に乗り込んできた高巻の目線は、閉じたドアの向こう、三度バイクに跨った新島の姿があった。
 よもや通じたわけではないだろうが、フルフェイスヘルメットの下で新島が車中をじろりと睨めつける―――
「じゃ、出しますよ」
 はやる少年たちの心境など露知らず、のんびりとした調子で運転手は言った。