11:INFORMEL

 三日後の夜半、少年たちは各々家を抜け出して遠く離れ、高級住宅街の一角、高い塀や柵に囲まれ、静まり返った夜道を連れ立って歩いていた。
 双葉が語った通り、そも彼らに物質的な現象はさほど意味がない。改心を行うにはあくまでも心の中に入るためのキーワードや名前、場所の情報が必要なのであって、犯行の現場を直に押さえる必要はないのだ。
 だというのにこんな場所―――阿藤勝利の邸宅の一つの近くまでやって来ているのは、≪グリム≫の出現を嗅ぎつけたからだ。
 現状、改心を行うにしても≪グリム≫に関して判っていることは多くない。
 呪われていると噂され、実際に近年には複数の所有者が自死している絵画を盗み集めることに執心し、そのためにこそ怪盗になったと思わしき人物……
 せめてシルエットだけでも、目元か口元だけでも確認できればなにか掴み取れるかもしれない。
 そう訴えた高巻の願いを叶える形で彼らはここに集うことと相成った。もちろんそれには、この現実世界で怪盗活動を行う『同業者』に対する興味や好奇心が大いに散見された。
 しかし残り二枚の絵のうちこちら―――阿藤邸に目星をつけたのは、もう一方に比べてこちらのほうが警備が厳重だったからである。
 警備会社の防犯システムに、おそらく阿藤自身の私兵とも呼べる人員、無数の監視カメラにセンサーとまるで誰かに命でも狙われているかのようだ。ましてこの家は本宅ではない。自意識過剰の定義について花が咲く程度には盛り上がった。
 そう結論付けた双葉に、では彼は警備が薄いほうにいくのではないか、連作の順番的にもそちらが先だろうという意見も出たが、しかしこれを頭目が否定した。
 彼はいつも以上にぼうっとする喜多川に作業机の上のぬいぐるみを投げ渡しつつ言った。
「祐介、お前は言ってたな。メッセージには奇妙な点がある、と」
 雪の妖精と見つめ合う彼に薄笑いを浮かべながら頭目は続けた。
「たぶん、それに深い意味はないんじゃないか。もしくは文言にではなく、このメッセージカードその物になんらかの意図が籠められている……つまり順番はそこまで重要視されていないと考えてもいいとおもう」
 それからもう一つ。前回の犯行から二ヶ月も期間を空けたというのにこの警備だ。それはつまり、これは特別な状態ではなく常態であると考えられる。それがさらに犯行を重ね、近く≪グリム≫が訪れると知れたら、どうなるか。
 そのようにして阿藤邸を集中的に見張ることとなったわけだが、≪切り札≫の予測は的中していたようで、ほんの数時間前、この邸宅のネットワークを監視していた双葉が何者かの介入を感知した。
 その者は監視カメラの無線接続を『直接』弄り回しているようで、映像に乱れが入り、邸内の監視ネットワークとは別所へも映像が送信されはじめている。
 つまり、今まさにこの時、誰かが阿藤邸に侵入していささかアナログな手段でもって監視システムに介入しつつあるということだ。
「なあ双葉ぁ、ホントにいんのか?」
 喜多川の背に負われながらなおもラップトップを覗き込む双葉に坂本が胡乱げに問いかける。
 彼女は自信深げに首を縦に振った。
「現在進行形だよ。表に設置されてるののほとんどはやられちゃってる。残り一機しかないっ」
「やべっ、急がなきゃじゃん」
 慌てた様子の高巻が大きく一歩を踏み出すと、それを追って坂本もまた足を前に運ぶ。
 すると運の悪いことに、そこにはほとんど闇に紛れる形で歩いていたモルガナがいて、彼は悪気もなにもなく、猫を力いっぱい踏んづけてしまった。
「フギャアーッ!!」
 静まり返った住宅街に猫の悲鳴が響き渡った。
 これに最後尾を歩いていた新島が呼応して大げさに体を震わせ、一歩前を歩いていた奥村にしがみつく。
「きゃあっ!?」
 悲鳴を上げた奥村が前に突き飛ばされ、彼女もまた縋るものを求めて腕を伸ばし、前を歩いていた少年の腰のベルトを全力で引っ掴んだ。
「えっ、あ―――うわあぁっ!?」
 彼は悲鳴を上げてその場にうずくまった。何故なら渾身の力の込められた奥村の意外なほどの豪腕と彼女と新島の分の体重が合わさって、ベルトが敗北したのだ。
 幸いなことに暗闇に紛れて彼の下着の色が明らかにされることはなかったが、しかし悲鳴はやはり家々の間に行き渡った。
「ちょっ、ばかっ! 静かにしろよっ!」
 双葉の警句もいささか夜の街に対して大きすぎる。
「リュージっ! 足どけろっ!」
「えあ、悪ぃ……っ、とと、おわっ!?」
「ンなっ! ちょっとどこ触ってんのよオラっ!」
「いったぁ!? 杏! 今のは俺じゃない!」
「ま、まこちゃんっ、く、苦しい……」
「ごめんなさいっ……きゃあっ!」
「は、春、ベルト離してくれ、パンツが、パンツが……」
「あっ!? ヤバい全部やられてるぅっ!」
 混乱する場はなかなか治まりそうにない。なにしろ本来ならここで平静を呼びかける参謀も頭領も我を失ってしまっているのだから、さもありなん。
 そしてここにさらに混乱を助長するような者が割って入った。
「おいお前らなにしてる! その子から手を放せ……ってうわあ!?」
 鋭い咆哮とそれに続いた悲鳴は妙にざらついていて、男のようにも女のようにも聞こえた。おそらく音声変換用の機器を通して発話しているのだろう。
 ハッとした一同のそば、見上げた塀の上に立っていたのは細身のシルエットだった。
 月のない夜だ。目深に被ったフードと相まって顔は見えない。ただその輪郭は彼らとそう歳の変わらない少女のもののようだった。
 けれど、それらは奇妙な物に覆われてひどく現実感を欠いている。
 彼女の全身は外骨格とでも言い表せそうなフレームに覆われていて、半ば機械に取り込まれているかのようになっていた。
 ただ、突然現れたそのひとがひどく驚いていることは、影の中にあっても察することができた。
「まさか……あんたが≪グリム≫なのか?」
 ポカンとした様子で口を開いた少年に、すぐに呆れたような視線が突き刺さる。
「パンツしまえよ……」
「うるさいな!」
 喚いた彼に鼻を鳴らしてグリムは膝を折り畳んだ。わずかに距離が縮むが、顔はやはり窺うことができない。
 こほんと咳払いを一つして、彼女はまたじっと一同を品定めするように見渡した。
「ふん、心の怪盗団とかいうのにもついに追いつかれたってことか……」
 奇妙な発言だった。音声がという意味ではなく、それがまるで『彼らの正体を承知している』内容だったからだ。
 少年は目を見開いて彼女を見つめ、震える声で問いかける。
「お前は俺たちを知っているのか?」
「は? お前たち、なにも知らないできたのか? まさか『私』を追って? それとも―――」
 言葉を切って、少女はちらりと背後の邸宅に目をやった。明かりの落とされたそこは静まり返っている。
 それもそのはずで、この家は持ち主の阿藤にとってあくまでも別宅でしかなく、本宅はまた別所に構えられている。そのため現在このデザイナーズ建築とでも呼ぶべき建物の中にいるのは家を預けられた一人の女性とその身辺を警護する男たちのみだ。
 それを考えて、少年は首をひねった。その内に彼らが追うべき人物は取り立てて思い当たらなかったのだ。倫理という観点から見れば女性は仕置の対象かもしれないが、パレスが存在するほどではない。
 少年は目を細め、余裕ぶって小さくかぶりを振ってみせる。
「教える義理はない」
 どうにかベルトを締め直し、背筋を伸ばしもする。体裁は一応整った。
 しかしどうやら彼女は彼の下着にもベルトにも興味はない様子で、立ち並んで警戒を顕にする彼らのうちの一人をチラと眺めてほくそ笑むばかりだ。
「なるほど。そうか。本当に悪くない考えだったな……」
「なにを言っている?」
「気にするなよ。それより、なにを狙っているにしても、もう帰ったほうがいいぞ、ド素人ども」
「は―――?」
 ピクッと少年のこめかみに青筋が浮かび、それを察知した坂本や高巻の手が先んじて彼のベルトを捕まえる。
 それを知ってか知らずか、グリムはいかにもおかしそうな笑い声を上げた。
「だってそうだろ、ここはお前たちの舞台じゃない」
 立ち上がって、彼女は手足の感覚を確かめるようにブラブラと揺らし始めた。なにかの準備運動なのだろうが、その仕草はひどく不気味なものとして彼らの目に映る。
「私のシゴトも今日はおしまい。通報してもいいけど―――」
 動かしていた手をピタリと止め、なにかを握り込むような動作をすると、グリムは再び身を屈めた。
「私が捕まれば次はお前たちだってことを忘れるなよ、『ご同業者』さん」
 かすかに空気が抜けるような音がしたかと思った次の瞬間、グリムは高い塀から脚を離して跳び上がっていた。
 誰が危ないと叫んだのか判然としないなか、慌てた何人かが落下地点を予測して足を踏み出した。
 しかし、彼らの上には影すらも落ちてはこなかった。
 見上げた月のない夜空に細身のシルエットが躍っている。
 彼女が人間にはあり得ないような脚力によって塀を蹴り、宙に跳び上がったのだと理解するのにしばしの時間を要した。その間に彼女は電柱の上に足をつけて再び跳躍し、また別の足場を選んでは飛び跳ねて遠ざかっていく。
 その姿はさながら野ウサギかカンガルー、あるいはカモシカの一種のようだ。少なくともあの跳躍は人間ではなし得ない。
 ならばあれはヒトにあらざるナニかなのかと言われれば、当然そんなわけがないと、それくらいは皆理解できていた。

 一先ずその場を辞した彼らは、とんぼ返りの道の最中これを語り合った。
「たぶん、あの取り付けてた機械だとおもう」
「あーあの、なんか……なにあれ? 体中にガチャガチャくっついてたやつだよな?」
「あれなんなの? なんかどっかで見たことあるよ〜な気もするんだけど……」
 先頭を歩く坂本と高巻の間に挟まれ、転ばないようにと左右の肩を掴まれながら、それでもスマートフォンを手繰る双葉が語って曰く。
「見たことあるのは、こういうやつじゃないか? いわゆるパワードスーツってやつ。機械制御で力仕事の補助なんかをするやつ」
 彼女はまた、スマートフォンの画面を二人に見えるように掲げもした。
「あー、これ。これぇ? これだったかな……」
「なんか、色々ちがくね? グリムのはもっとゴチャゴチャしてたじゃねーか」
「たぶんだけど、あのジャンプ力を出すためにはあれくらいの大きさじゃないとだめなのかも。着地も難なく行っていたところを見るに、バランサーや着地時の衝撃を和らげるための機能も搭載されてるんじゃないか?」
 ブンブンとスマートフォンを振り回す双葉の声色はいくらか興奮している様子が垣間見える。
「や、そーいうんじゃなくて……ん、んー、なんだっけかなぁ……絶対どっかで見てるんだよああいうの」
 腕を組んで頭を右に左に傾げては金の髪を揺らす高巻を横目で眺めつつ、坂本もまた記憶を探るようにうーんと唸る。
「そー言われっと俺もなんかそんな気がしてきたわ」
 やがて彼は「あっ」と声を上げてポケットからスマートフォンを取り上げた。
「思い出した! ババアだよ! ジャンピングババア! 杏、お前言ってたじゃねーか!」
「はあ? おばあちゃんこの話に関係なくない? ていうかジャンピングババアってなにその名前の付け方。おばあちゃんだってジャンプくらいするでしょ、よっぽどヒザが悪いとかでもなきゃ」
「だーかーらー……!」
 バタバタと足を踏み鳴らしながら、坂本は双葉を放り出して高巻に画面を突き付けた。
 一分にも満たない動画だ。こうこうと照らし出された夜の闇の中を飛び跳ねる影が映し出されている―――
「あっ……あー! これ! これーっ!」
 素っ頓狂な声を上げて、高巻もまた双葉から手を離した。
 確かに、彼女は数ヶ月前にこの動画をSNS上で見かけて面白がり、怪盗団の集う屋根裏場屋に雑談の種として持ち込んだことがある。
 あのときは単なる冗談混じりの怪談話の一種としか捉えていなかったが、よもやそれが―――
「≪グリム≫がジャンピングババアだったってこと!?」
「声、でかい。ちょっと抑えろっ」
 双葉の指摘に、高巻は慌てて口を押さえる。
「あ、ごめん……えっと、でも別にババアじゃなかったよね」
「や、そこあんま重要じゃねーから。つかマジかよ、こんなころから目撃されてたってことじゃねぇか」
「ウカツ」
 唸る坂本の声に紛れて、双葉がつぶやけば、その通りだと高巻は頷いてみせる。
 自分たちだって危ういところは幾度となくあったが、現在に至るまでかわし続けられているのはその手段が非現実的なものだからだ。けれど≪グリム≫はそれに比べれば実にアナログな手段によって盗みを行っている様子だ―――
 先を行く三人は難しい顔をして揃って腕を組み、うーんと唸った。
 一方でその後ろを歩く新島と奥村、そして頭目と猫もまた難しい顔をして、やはり唸り声を上げている。
「ヤブヘビだったなー……」
「そうね。まさかむこうがこちらのことを把握してるなんて……」
「でも、どうして彼女は私たちのことを知っていたの?」
「わからん……が、ヤツを放置しておくわけにはいかないぞ」
 モルガナの言葉に呻いて、少年は坂本のように彼を踏み潰すわけにはいかぬと一瞬だけたたらを踏んだ。
「うわっ」
 するとその背にどんとぶつかるものがある。
「あ、すまん……」
 どことなく精彩を欠いた喜多川だった。
 彼は先にグリムと邂逅を果たしてからずっとこのように心ここにあらずと呆けている。
 少年は眉を寄せ、また思案にふむと唸った。
 脇に避けて足元の猫や前を行く坂本たちにぶつからないようにとはしているのだろう。覚束ない喜多川の足取りを見て、彼は声もなく新島にサインを送った。
「……そうね。了解」
 小さな声で答えた彼女に、理解の追いついていない奥村が不思議そうに首を傾げたが、新島は短く「あとで説明する」とだけ告げて、駅に繋がる大通りに続く道を大股で進んだ。

 とにかく今日はここまで。時間も時間だし女子はタクシー代を団費から出すからそれで帰って。野郎は自腹で帰れ。
 頭目から下された命に従って、少年たちは三々五々に解散した。

 そして数々の思惑通り、その翌日の放課後、喜多川はうつむき加減になりつつも家の敷居を跨いでいた。
 理由は一つだ。
 彼にはあの闇夜に浮かぶシルエットに見覚えがあった。
 女性らしい細身の、しかし肉付きのよいラインと、やや太めの脚。
 散々眺めて写し取って、手に感覚として刻んだものを、彼が忘れるはずがないのだ。
 あの身を包んでいた機械類にも彼は覚えがある。
 いつぞや彼女に見せてもらったパワーアシストスーツ。その設計段階の3Dモデル。彼自身がこうしたらどうだと見た目にアドバイスを与えもした―――
 彼は確信していた。
 こそが≪グリム≫であると。
 後押しするのがあのメッセージカードに刻まれていた印章だ。金で箔押しされた犬の横顔。牙を見せて吠えるその瞳は赤かった。
 彼はこれにも見覚えがある。の部屋で、もっと以前に彼女の落とし物を拾ったときにそれを目撃している。
 ―――けれど、彼はそれらを仲間たちに話すことがどうしてもできなかった。昨晩の帰りしなも、寮へ向かう電車の中でも、横たわった布団の上、朝の時間、授業中にも、ここへ至るまで幾度も言わなければと思ったのに、どうしても彼はそれを口にすることができずにいる。
 せき止めているのはただ恋慕の情と深い煩悶だ。
 本当に彼女がグリムだとしたら、あの朗らかな笑顔は、捻くれた優しさは、夢を肯定してくれた言葉はなんだったんだ? と。
 またグリムは明らかに怪盗団の手段とその正体を知っている様子だった。
 それはいつからか? はじめから?
 知っていたから接触してきたのか?
 であれば―――
 あの時間は、すべて己にこのような気持ちを抱かせるための演技だったのか? では今仲間たちに彼女のことを話さずにいるのはその思惑通りということか?
 思い悩む彼は家の裏手、垣根から庭に直接繋がる小さな門扉をくぐって庭の芝草を踏みしめていた。
 辺りはすでに夜の闇に覆われている。日の入りの時間がすっかり早まったとはいえ、時刻は二十時を回っている。
 だというのに門に鍵はかかっていなかった。まるで来ることが解っていたような、その上で招き入れているかのようだ。
 庭からは住居部分、台所に繋がる戸と、洗濯機の置かれた家事室から外の物干し台に出るガラス戸が見える。そちらには明かりが灯されておらず、闇の中に埋没してしまっている。
 一方で、渡り廊下とそこに繋がるアトリエからは仄かな明かりが漏れ出ている。
 喜多川の足は迷いなくそこへ向かった。小さなウッドデッキに土足で乗り込み、ガラス戸に手をかけると、やはりそこにも鍵はかかっていなかった。
 当然だろう。小さく絞られた明かりの下、が彼を待つかのように椅子に腰かけ、書きかけの絵を見つめている。
「連絡くらいしなよ」
 ふり向きもせず苦笑して、は抱えていた膝を伸ばした。
「もう遅いけど、続きする?」
「いや……」
 かぶりを振って、彼は小さな背中に歩み寄った。まとめられることもなく垂らされた黒髪は緩やかに波打ち、仄かな明かりに鈍く輝いている。
さんは……」
「ん……?」
 すぐ背後に立っても、彼女はふり返らなかった。ただじっと製作途中の絵だけを見つめている。
 今や喜多川の心臓は不規則に脈打ち、内側から彼を破壊せんばかりに激しく脈打っていた。こみ上げる焦燥感が彼に嫌な汗をかかせ、喉の奥にひりつくような感覚を与えている。
 目の奥には痛みすらあった。
 普段あまり表に出ない、しかしただ潜んでいるだけの彼の激情と呼ぶべきものが今にも溢れ出そうとしている。
「お前は、俺といて楽しいか?」
 彼はそれが表に現れる前に早口に言った。
 するとは再び苦笑する。
「不粋ってやつだよ、喜多川くん」
 声には心がこもっているように感じられた。
 あのとき、はじめて彼女の素顔の一端を覗き見たときと同じ言葉を返されて、彼は安堵するのと同時にますますひどく落ち込んだ。
 何故なら、真相によっては彼女はあの時からこうなることを見越していたかもしれないのだ。
「それはお前の本心か?」
 真実を求める声は震えていた。彼はそんな己をみっともないと思う。情けない、小さな男だと。
 がふり返ろうとしないことはある意味で彼にとって幸運だった。
 臆病になってみじめに縮こまっている姿を見られたくない。
 この上まだそんなことを望む事実がさらに彼をみじめな心地にさせた。
 それを察しているのか、返された声はやはりこの上なく優しい。
「妙に穿つね。どうかしたのか?」
「お前に嘘をつかれたくない」
 ギッと椅子の脚が床を擦る不快な音が鳴り響いた。秋の庭からは打ち水でもしたのか、妙にじっとりとして冷えた風が足元に吹き込んでくる。
 立ち上がったはかすかに首を巡らせ、長い髪の隙間から鼻先だけを覗かせつつ応えた。
「それはお互い様だろ」
 声は極めて優しげで、まるで普段通りだというのに、そこには明確な拒絶の意思が乗せられている。
 それこそが喜多川には耐えられなかった。
 友人としてでも、異性としてでも、惚れた腫れたを切り離しても、頼りにされないということは彼の矜持を強く刺激して、その脚を前に踏み出させた。
「では、俺がすべてを明らかにすれば、お前も話してくれるのか?」
「どうだろうね。そうすることで私にメリットがあればするかもな」
「利益がなければ話さないと? お前の利とはなんだ。あの絵を盗み出すことか?」
「それは……」
 言い淀んではやっと彼に顔を見せた。薄闇の中、小さな明かりに照らし出されたその表情にはなんの感情も湛えられていない。
 ただ、瞳の奥に揺れるものがあって、震える拳は彼女がそれを押し殺そうと懸命になっていることを教えていた。
「なあ、もうやめなよ。こんな問答に意味は無いんだからさ」
 声もまたわずかに上ずっている。
 喜多川はきつくまぶたを閉ざして首を左右に振った。
「嫌だ。このまま帰れば、俺は二度とあいつらに顔向けできない」
 そのまぶたの裏にあるのは彼にとっての仲間たちの顔だった。忌々しいことも、疎ましく感じることも、美しくないと思うことさえもあるのに、すっかり心の一部を占拠して、愛着を覚えさせている連中こそが、彼がここに赴いた動機だった。
「俺は訊かなければならない。さん、昨夜、あそこでなにをしていたんだ?」
 決して具体的な語を用いらずに語られた言葉に、しかしは目を細めた。その意図を理解していると教えるように。
 喜多川はそれを見て言を重ね、ますます歩を詰める。
「頼む、話してくれ」
 はしばらく沈黙して、なにかを考え込むように視線をさまよわせた。
 逃げ出さないのはこここそが彼女のホームだからだろう。そして喜多川にも逃げ帰るつもりはない。であれば、いくらでも彼は待つ気でいた。
 たとえなにをされようとも。
さん―――」
 決然としてさらなる追及を行おうと詰め寄った少年は、しかしそれ以上を口にすることができなかった。
 どん、と身体ごと彼女がぶつかってきたと思えば、その白い腕が首に絡まり、手が後頭部を掴んで捕らえたのだ。
「うっ、―――ッ!?」
 驚愕によっていっぱいに見開かれた目にはまぶたを閉ざした少女の顔が映っている。それは文字通り目前に迫っていた。
 なにが起きているのかを把握するのにずいぶんと時間がかかった。その間、それはずっとそこにあった。
 やわらかな感触と吹きかかる吐息にくすぐったさを覚える。唇が触れているのだと理解したころには、彼は無意識的に彼女の腰に腕を回していた。
 幾度も擦り寄せられるその感触に彼はあっさりと陥落し、心地よさに促されて眠りに落ちるようにまぶたを閉ざした。
 睡眠と覚醒の狭間のようなその感覚が気持ちいいからというばかりではないが、彼は一度離れようとするの襟首と、そこに絡む黒髪を捕まえて自ずから顔を寄せた。
 再び訪れたものに、何故と疑問に思う気持ちと、答えをはぐらかすための手段だと解っていることもすべて吹き飛び、なにもかもがどうでもよくなる。手の中の少女がどのような感情によってかは解らぬが、かすかに震えていることもまた、彼にとってはもはやどうでもいいことだった。
 ぐっと手を握ると髪が引かれて痛むのだろう、小さなうめき声が少年の口内に直接響く。
 けれど本当に苦しいのは喜多川のほうだ。
 心をいいように操られているのだと解っているはずなのに、口づけを許されて天にも登るような情感を抱いている。コントロールの効かないその感情こそが彼を痛めつけていた。
 その上さらに、トン、と彼女のこぶしを作った手が少年の胸を叩くのだ。
 そろそろ離してくれという意思表示だとはすぐに察せたが、しかし彼はこれをやわらかく握り込んで封殺せしめた。せめてもの復讐のつもりだったのかもしれない。
 諦めたように少女の身体から力が抜けるのを感じ取るやいなや、彼は髪を掴んでいた手を再び背に、腰に滑らせて抱き寄せ、ぴったりと身を寄せる。
 そうしていると、女の子というものがどれだけやわらかくて華奢なものなのだと思い知らされるかのようだ。厚い生地の下の皮膚と筋、脂肪と骨、いずれもが己と全く違うと意識すると、口づけはより情熱的なものになる。
 やっぱり、と彼は思う。
 自分は単純な人間だとも。
 好奇心をくすぐられたからとか、一緒に過ごして楽しかったからとか、裸を見たからとか……理由は色々あるだろうが、本当に単純な話だ。
 好きになるように仕向けられ、知らずにのせられていたのだとしても―――
 もう解っている。この子が好きだ。愛おしい。
 語として表すとなんとも安っぽく思えるが、しかし彼は常にそうであるように真剣だった。
 もはや誤魔化しようのない感情を隠す気も、怯えて縮こまる気も彼には失せていた。いま腕の中にあるものと胸のうちの燃え上がるような感情に比べたら、あらゆるものは彼にとって障害にすらなり得ない。
 そうとも、奪われたのなら奪い返せばいいだけだ。
 彼はそのように決意してやっと少女を解放した。
 気がつけば膝をついていた二人はすっかり乱れた呼吸を落ち着けるのにしばしの間を置いた。その時間には差があった。
「はっ、はっ、はあ、はあっ……なん、なんで……」
 先に落ち着きを取り戻した喜多川は、まだ荒く息をついてぼう然とするにまた身を寄せる。

 名を呼び、肩に手を触れて優しく彼女を床に横たわらせもした。
「は? え、なに……」
 瞠目する彼女を置きざりに、流れる黒髪を避けて床に手をつけて覆い被さる。左手は別の部位に着地した。
「うわっ、やわらか―――」
「ぎゃあっ!?」
 色気のいの字のかけらもない悲鳴とともに破裂音が鳴り響き、彼は床に引き倒された。
 ポカンと天井を見つめる目は幽霊か宇宙人か、あるいはレプティリアンか地底帝国の巨人でも目撃したかのように見開かれている。
「……なぜだ? なぜ今俺は殴られたんだ……?」
「ヘンなところを触るからだ! なに考えてんだ!」
 バネ細工のようにびよんと俊敏な動きで身体を起こしたが喚けば、喜多川は叩かれた頬を押さえて言い返す―――
「ど―――どういうことだ! 今のは完全にそういう空気だっただろう!?」
「雰囲気に流されてんなバーカ!」
「その雰囲気を作ったのはお前だろうが!」
 罵倒に言い返しつつ、喜多川もまた立ち上がって怒りと失望とともに詰め寄れば、その分彼女は絵を盾にするように身をずらす。
「こっち来るなぁ! 変態! 痴漢!」
「洒落にならんことを言うのはやめろ! 今のはどう考えてもそちらの過失だ!」
「うるさいっ! 私は悪くない! キミが想定外のことばっかりするのが悪いんだ!」
 二人はしばらく言い合いながら絵の周りをぐるぐると回り続けた。戦利品を奪い合ってギーと化したトラのような勢いだったが、幸いなことに二人は溶け落ちる前に足を止めることになる。
「なんでこうなるんだよぉ……なんでキミは、こんな計画と違うことばっかりするんだ!」
「知るかそんなもの!」
 少年の手がやっと彼女の腕を捕まえたときには、滲み出した涙がこぼれ落ちる寸前だった。悔しそうに食いしばられた歯も、顰められた眉も、どう見たって拗ねて泣き出す直前の子供の姿でしかない。
「やめろ、私に触るな……うぅ……」
 ぐっと呻いて、彼は手を引いた。なにしろ彼女がしゃくりあげた途端、恥じらいか屈辱に赤く染まったその頬を水滴が伝い落ちたのだ。
「くっ……それは、卑怯だ……」
 ため息とともに両手を上げ、後退する。
 もちろん彼に瑕疵などありはしないだろう。はじめに手―――正しくは口―――を出したのはであって、彼はただそれに乗ったに過ぎない。それをこのような最終手段とも取れる武器をちらつかせて責め立てるのだから、卑怯以外のなんだというのか。
 ため息とともに腕を下ろし、呆れた視線を向けてやる。
「だいたいなんだ、その計画とやらは」
「ゔるさいっ! ぐすっ、帰れよ、もう帰って……!」
 めそめそと泣いては鼻をすすり、口元を懸命に手で拭う姿に彼はまたこみ上げる怒りと失望を堪えるのに多大な努力を要した。
 そんなに嫌だったらどうしてキスなんてしたんだ。文字通りこちらの口を塞ぐためでしかなかったのか? よもやそれで逃げ帰るほどの小心者と思われていたのか?
 問い詰めたい気持ちを飲み込み、代わりにもう一度ため息を吐き出す。
 彼はようやっとの心地で彼女を安心させてやろうというつもりで言った。
「わかった、引き下がろう……」
 撤退を意味する言葉に、はぐすっと鼻をすすって縋るような目を喜多川に向けた。
 それを真正面から見つめて、彼は正々堂々と、恥じることなく宣言する。
「だが、憶えておけよ。俺はお前を、絶対に逃がすつもりはない」
「なに―――」
 どういう意味だと問おうとするに、少年は決然として告げる。
「俺はしつこいぞ。覚悟しておけ」

 ぼう然として声も出ないを放ったまま、喜多川は宣言通り彼女の家を出てすでに日の落ちた道を歩いて引き返した。
 駅の近くまでくるとちょうど電車が滑り込んで来たところで、わっと吐き出された人の群れで構内は一時とはいえ混み合っていた。
 電車の時間を確かめるためと、未だどこか昂ぶった精神を落ち着けるため、彼は人通りを避けて構内の隅、タイル張りの壁に背を預けて人波を眺めることに没頭することとする。
 サラリーマンらしきスーツ姿が多いのは時間帯もあるだろうが、このあたりが新興住宅地だからだろう。家の周辺は古くからの住宅が多いようだが、駅を挟んだ反対側の土地は都心近くの新たなベッドタウンとして期待されている開発地となっている。駅を出てふり返れば、建築途中のマンションの姿も見えるはずだ。
 一般に働き盛りと形容される年代の割合が若干多く思えるのはそのためか。ふむと唸って、喜多川は無数の人々の輪郭を無遠慮に眺め回しはじめる。
 しかしにわかに取り掛かり始めた人間観察は長くは続かなかった。
「はぁい、お兄さん一人ィ?」
 妙に甲高くて鼻にかかったような甘ったるい声がかけられたのだ。いつの間にか、喜多川の隣には同じように壁に寄りかかる者が一人―――
「誰かイイ娘にフラれちゃった? かわいそ〜俺と遊ぼっかぁ」
「俺って言っちゃってるじゃねーか」
「あっ、しまった……」
 肩から下げられた鞄の中から投げつけられた冷たい指摘の言葉に、甲高い声は瞬時にいつも通り、聞き慣れた少年の声に戻る。
 喜多川は馴れ馴れしく肩をさする手を叩き落とした。
「はあ……ララさんには到底及ばないな」
 叩かれた手をふりふり、ため息をついた少年に耐えきれんとモルガナが顔を出す。
「失礼すぎるぞ! オマエあの人にどんだけ世話になってると思ってんだ!」
「良い人だよね。正直ときどきドキッとするんだけど、ヤバいかな……ほら、年の差とかさ……」
「オマエのオンナの趣味はどうなってるんだよ……」
 わあわあと猫と言い合いをする彼に、通りかかる人々は怪訝そうな、あるいはどこか微笑ましいものを見守る、生ぬるい視線を投げては通り過ぎていく。
 喜多川はそれらのむこう、はるか彼方のどこでもない場所を睨みつけながら低い声で呻いた。
「―――悪趣味が過ぎるぞ」
 それは、二人の会話、ひいては彼の異性に対する嗜好ではなく、おそらくは今日の喜多川の行動を見越してあとをつけていたことに対して向けられている。
 今の喜多川は冷静だ。に振り回されて忘れかけていた本来の彼自身を取り戻し、元来持ち合わせていた視野を備えている。
 つまり、よく考えたらこの男が―――奇人変人ばかりが集う怪盗団をいいかげんにまとめ上げる≪切り札≫たる少年が、己の不審な行動やちょっとした素振りでさえも見逃すはずはないのだと、気がついている。
 それすらも見抜いているかのように少年は低く喉を鳴らした。
「くくっ……お前よりはマシだろ」
「ほっとけ」
 ツンと顔を逸した友人の姿が面白くて仕方がないと言わんばかりに彼は笑い、バシバシと肩を叩いた。
 喜多川は痛みに呻いたが、少年は構いもせずに壁から背を離し、彼の前に立って妖しく囁きかける。
「水臭いこと言うなよ。お前はお前自身が思ってるより強くないぞ」
「なにが言いたい?」
 跳ね除けるような強い視線を突き刺されて、少年は肩をすくめる。
「みんな心配してるってことだよ」
 度の入っていないグラスの下の瞳には優しげな輝きがあった。みんな、などと言いはしているものの、その筆頭はきっと彼なのだろうと思わせる色だ。
 喜多川は緊張を解いて、壁に背を預けたままずるずるとしゃがみこんだ。