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09:Doublethink
暗闇の中にポツポツと等間隔に光が灯されている。
その明かりに照らし出されているのはいくつかの緑と塗装の剥げかけた遊具―――
都心の中にある数少ない憩いの場は深更の中にあって昼日中の騒がしさからかけ離れ、動くものもなく静まり返っている。
そんな中でただ一人、少女がかすかな光を浴びながら荒い息を整えようとしている姿は異様だった。
なにも息を乱して独り佇む姿がという意味ではなく、顔をフードで隠し、ダイビング用のウェットスーツで首から足元まですっぽり覆い隠すという奇妙な出で立ちも、奇抜なファッションであると主張されれば一人二人くらいは納得してくれるかもしれない。
問題はそれらの上に外骨格的なフレームが装着され、半ば機械にその身を取り込まれているかのようになっていることが状況と状態の説明を困難にさせている。
またさらにその足元では一人の男が仰向けに倒れ、口や鼻から血を垂らして気を失っていた。
「くたばれ……このド変態の、サディスト野郎……」
荒い呼気のなかに悪態を織り交ぜつつ、少女の脚がその脇腹をつついた。男はどちらにも反応しない。
どうやら完全に気を失っているとみて、少女は被っていたフードを取り払った。
するとそこから艶とやや癖のある長い黒髪がこぼれ落ちる。
「っはー、暑……ヤバ……つ、通気性の問題もどうにかしなきゃ……」
うめき声とともに少女は一つにまとめられた髪を持ち上げ、自ら白いうなじを晒し出してそこに貼り付いた汗をしきりに拭っては顔をしかめて襟元を緩め、身にへばりつく暑さを振り払おうと懸命に首を振っている。
それも徒労と理解するのに時間はかからなかった。
そのようにしてげんなりとした少女の背後から、一人の少年が現れる。
少女のように甘やかな顔立ちに肩口まで髪を伸ばしたその人は足音も少なく彼女に歩み寄ると朗らかな様子で彼女に労りの言葉をかけた。
「やあ、お疲れさま。調子はどう?」
「なんの用?」
少女はふり返りもせず冷たい声で応える。少年はやれやれと大仰に肩をすくめ、ちょっと拗ねたような表情をしてみせた。
「ちゃんとやれてるかなって心配になってさ」
「ウソつけ暇だったんだろ」
「あのさ、僕がそんなに暇を持て余せると思う?」
「仕事ばっかりしてないで学校行けよ。そんなんだからキミ友だちいないんだよ」
「普通に傷つくこと言わないでくれるかな。そもそも君のほうこそクラスに馴染めてるのかい」
二人は揃ってどこか彼方に視線を投げて沈黙した。
……お互いにお互いの突かれたくない部分を指摘し合うことの無意味さに気が付けたことは不幸中の幸いだったのかもしれない。
気を取り直すようにかぶりを振った少女が再び口を開く。
「あ、そうだ、ちょうど良かった……」
そしてその手は腰に下げたデイバッグを探り始めた。
少年は首を傾げつつ、そこから何が飛び出してもいいようにとその身に緊張を漲らせる―――
けれど差し出されたのは、古めかしい書体でどこかの店名が印刷されたビニール袋と、その中に収められた三つの薄い長方形の箱だった。
ぽかんとする彼に向けて、少女は早く受け取れと言わんばかりにさらに腕を突き出してくる。
「え? え……なに? これ」
やっとそれを受け取って、しげしげと眺め回す。店名には彼も見覚えがあった。これは、確か―――
記憶を探る前に彼女は言った。
「お土産。京都の。修学旅行行ってきたから。もう一つはあの人と、職場の方たちに」
「……本気で?」
「は? お土産に冗談とかあるのか? 木刀のほうが良かったってこと?」
「いらないよ。そういうことじゃなくて……」
「なんだよ」
「ん、んー……」
少年はいかにも困った様子で頭をかいた。
「躾が行き届いてるって言い表すべき?」
「バカにしてんのか?」
「こっちの台詞だよ。うっわ……」
その目が不気味な物でも見るかのように箱とそこに印刷されたロゴをしげしげと眺める。
やがて彼は年相応の光を宿した瞳で彼女に問いかけた。
「開けていいかな?」
「好きにすれば」
ウンザリとしながら応えて、少女は再び足元で伸びている男の処理に取り掛かった。その間にも少年の手が包装紙を遠慮なく破り取っていく。
開かれた箱の中から現れたのはニッキときな粉の香りだ。暗闇の中にあってもそれが三角形が特徴的な銘菓であることはすぐに察せられた。
「ド定番」
「文句があるなら返せ」
彼は立ったまま、一つをつまみ上げて口に放り込んだ。
「やだよ。貰ったものをどうして……あー、お茶欲しくなるなぁコレ……」
「ペットボトルでよければあるけど」
立ち上がった彼女の手には用意のいいことに汗をかいた緑色のボトルが握られている。
おそらくこの『シゴト』に取り掛かる前に自販機なりで購入した物なのだろう。開封すらされていないところを見るにこうなることを予測していたというより、汗をかくことを想定していたのだろう。
少年は首を振ってこれを辞退する。
「毒とか盛られてたらたまらないし」
「口に直接農薬ぶち込むぞ」
唸るように応えて少女の手がキャップをひねった。
ゴクゴクと喉を鳴らして飲み下していくのを眺めながら、少年は二つ目を口に放り込んだ。
少女のほうはほうで、どこからともなく三角形のおにぎりを取り出して口に運んでいる。包装用のフィルムにはこんぶと印刷されていた。
「立ったまま食べるのやめなよ。しかもこんな所で……」
彼の目は足元で昏倒し続ける男に向けられている。こんな所、というのはそれを指しているのだろう。少女はさして気にしてもいないと言わんばかりに三角形に齧り付いた。
「お腹空いた。それにキミだって食べてる」
「はぁ……あっちにベンチがあるから、そこに座りなさい」
「先輩ぶるな、気色悪い」
悪態をつきながらも、少女はおにぎりを片手に指し示されたベンチに足を向けた。
「そういえばさ」
話はまだ続く。少年は相変わらず立ったまま、しかし菓子は箱ごと手にしていたアタッシュケースにしまわれている。
「なにその格好?」
示されたのは彼女のちょっと珍妙な格好だった。陸の上でウェットスーツ、外骨格。襟元からはフードが垂れ下がっている。
「……この間、人に見られて」
「は? まさか『シゴト』を目撃されたのか?」
「違う! この私がそんなヘマするもんか! 帰り際に……この間のやつ、すごい逃げ回りやがって、それで眼鏡を落として踏んじゃって、返り血も服に着いちゃって……」
「それで、探られたのかい?」
「……いや、たぶん別のことに意識が向かってたはず」
「ふうん……」
問題無しと決定付けるにはいささか論拠が弱い―――
彼の目がそのように訴えるのを見て、少女はバツが悪そうに頭をかいた。
「相手はアレだし。気にしなくてもいい」
「迂闊であることに変わりはないね」
「だからこんなカッコしてるんだろ! こんな……クソぉ、ジロジロ見るなよ……」
言いつつ少女は己が身を守るように膝を抱える。
彼は呆れたような顔と仕草でこれに応えて、思案するように指先であごを叩いた。
「跳んで帰れば?」
「もうやった」
「どうだった?」
「知ってて言ってるだろ」
「あの動画、再生数エグいことになってるよね」
「なにしに来たんだよ! 帰れよ!」
気が立っているらしい少女が腕を振り回す。当然それは届きもしないが、それでも彼は唸る狂犬から逃れるように一歩距離を置き、くるりと踊るように身をひるがえして背を向けた。
どうやら本当に帰るつもりらしいと安堵の息をつきつき、しかし少女は抱えた膝を下ろしてその背に問いかけた。
「あれはお前がやったのか?」
「なんのこと?」
ふり返りもせず問い返した彼に眉を寄せて補足してやる。
「シュージンの校長」
ああ、と彼はため息か、それとも納得を示しているのか、どちらともとれる呼気を漏らした。
朗らかな声で彼は答えた。
「あれは『自殺』だよ」
そういう報道もされていただろ?
からかうような語調が返されたことに少女は苛立ちと失望を隠しもせず眉をしかめる。
すると彼は背を向けているというのに、すっかりそれを見抜いているかのように言う。
「怖いの?」
「はあ……?」
ピクッと少女の眉頭が不快さに跳ねた。
それもまた背に付いている目で見でもしたのか、彼は小さく喉を鳴らして言を重ねる。
「心配しなくていい。君の働きぶりにはあの人もご満悦のご様子だし、もうそろそろご褒美ももらえるんじゃない?」
言葉とともに踏み出したその足は、未だ倒れ伏したままの男のそばにまで至る。
「こういうのも例の『自殺』で必要なくなりそうだし」
ちらりと少年の目が倒れた男の胸元……その上に置かれた赤と黒のポストカードに向かう。そこには仰々しい文体でその男の罪が書き連ねられている。女性への暴行、盗撮や盗聴といったストーカー行為、家屋への侵入と窃盗……
少年は路傍に吐き捨てられた痰を見るような目を男から離すと、やっとふり返って大きく両腕を広げてみせた。
「『最後』のシゴトの許可もきっとすぐに下りるさ」
ベンチの上で行儀悪くあぐらをかいた少女は、いつの間にかウェットスーツの上体部分を脱いでタンクトップ姿になっていた。癖のある黒髪をかいて、唇を尖らせてもいる。
「最後、ね」
「なんだい?」
わずかに傾けられた少年の首に目を向けて、少女はかすかに首を左右に振った。言うべきことはなにも無いと言わんばかりに。
少年はそれに肩をすくめる。瞳には駄々っ子を見るような色さえあった。
しかし彼はそれ以上はなにも言わず、会話は済んだと再び足を動かし始めた。
少女は遠ざかって闇に紛れつつあるその背を長い前髪の間から覗き見ながら、言わずに済ませた疑問を口内で呪文のように繰り返す。
―――最後だって? じゃあその最後のシゴトを済ませたら? そのときは、どうなるんだ?
当然答えるものはなく、辺りには静かに夏の終わりが近いことを教える虫の音が響き渡っていた。
……
お土産だ、と言って差し出されたものにはあからさまに顔をしかめてみせた。
「なにこれ」
その指先が示した先、喜多川の腕の中に抱えられていたのは木製の円柱に厳しくもどこかユーモラスな表情が複雑な紋様とともに刻まれた異国情緒溢れる像だった。
彼は瞳を輝かせて語る。
「ティキ像だ。ハワイの守り神で、もとはポリネシアから伝来したそうだが、ティキという言葉自体はニュージーランドのマオリ族の言語に由来するらしい。しかしポリネシア、即ち太平洋東部に広く伝わる伝統工芸品であるこのティキはそも原初の神がはじめに作り出した人間の姿を表しているそうだ。つまり、胎児だな。所有者の霊力を高め、身を守ると言い伝えられて―――」
の手が彼の腕から木製の胎児を奪い取った。
「そういうことじゃない。キミ、行き先ハワイだったっけ?」
なんだ聞きたかったのはそっちの話かと手を打って、彼は何故か自慢げにこれに答える。
「ああ、本来の目的地ではないな。本土にハリケーンが上陸中で飛行機が着陸できなくて……」
「雨どころか嵐を呼ぶ男か!」
「そう褒めないでくれ。照れるじゃないか」
「褒めてないからな……!?」
うんざりとしながらも腕の中の木彫り像を眺め、は困りきった様子で唸った。
「ええ……どこに置くんだこれ……玄関……?」
「ああ、監視の意味合いもあるそうだから、いいかもな。番人として働いてくれるかもしれん」
「ちょっと黙ってて」
「なんで……」
不満げにしつつも彼は忠実に口を閉ざした。
二人はまたの自宅、そのアトリエではなくリビングルームに置かれた食卓を挟んで差し向かい、茶を啜っている。この日の喜多川の訪問の目的は作業の続きをすることではなく、この土産の品を手渡すことだった。
それで差し出されたのがこれだから、はため息をつく。
「なるほどこれが冗談のお土産か……」
つぶやいた言葉の意図を掴みかねて首を傾げる喜多川に、しかし悪意やからかいの類は見当たらない。
どうやら本気でこれを渡すのが相応しいと考えているのだろう。
は苦笑してこのちょっと明後日の方向を見つめる厚意を受け入れることとした。
「しょうがないなぁ、まったくもう。部屋に飾っておく。ありがとね」
「どういたしまして。部屋に置くのか?」
「ああ。一番目立つところに飾ってやるよ」
ふうん、と頷いて、喜多川は身を乗り出した。
「どこにあるんだ?」
「あ?」
「君の部屋だ」
「なんでそんなこと」
「入ったことがないだろう」
「百年早い」
冷たく応えるが、どうしたことか喜多川は顔を綻ばせて嬉しそうに目を細めている。
「それは……俺と百年後も一緒にいてくれるという意味か?」
「ポジティブだな!?」
吠えるがしかし、喜多川は愉快そうに笑って肩を震わせるばかりだ。
埒が明かないと茶を啜り、彼女もまた背後のソファの上に置かれていた紙袋を取り上げて彼の顔面に押し付けた。
「ほら、こっちもお土産」
「ありがとう」
覗き込んだ袋の中には長方形の薄い箱ともう一つ、紙袋が収められていた。箱のほうは見るからに定番の菓子だが、はて、こちらはなんだろうと手を伸ばすと、はニヤッと口元を歪めてみせた。
「キミに似合いそうだなと思って」
現れたのは赤べこやだるまといった郷土玩具によく用いられる張り子技法によって作られた面だった。
そしてそれは尖った耳と突き出た鼻に、金色の瞳を持つ白狐を模している。
「これは……」
喜多川が隠しきれない驚きや動揺を示したのは、彼が『シゴト』をする際に現れる仮面もまたこのような形をしているからだ。
彼の手はその感情のゆらぎを隠すため素早く動いた。
面を己の顔に押し付け、すっかり顔を覆ってみせると、は歓声と笑い声を上げた。
「思ったとおりだ、よく似合ってる。ふっ、ふくくっ、あははっ!」
金の目の瞳部分に開けられた穴から覗き見る少女は、腹を抱えて身体を『く』の字に折っている。なにがそんなに愉快なんだろうと思えど、しかし彼にしても彼女の笑い声は心地よいものだったから、釣られるように緊張から開放されて口元が緩む。
「ふふふ、キミ、そのまま作務衣でも着てどこか林にでも立ってたら、神使と間違えられてお供え物を貰えちゃうかもな」
「それはいいな。托鉢に回るよりよほど手間が少ない」
「なんだそれ」
はまだ笑っている。それを見て喜多川は面を顔から離し、いつも通りの涼しげな表情を彼女の目に晒した。
―――口外できない秘密があるということは、彼にとってちょっとした自尊心や優越感を抱かせる一要素だった。その秘密こそが己と仲間を繋ぐ絆そのものであり、友情や好意の証と思えたのだ。そしておそらく、それはそれで間違いのないことだろう。
なにより人々が口頭に上げて関心を寄せ、正義を『心の怪盗団』に求めるということは、大っぴらに表しはしなくとも彼にだって愉快なことだ。
けれど猫も杓子も、雲霞のごとくに、どいつもこいつも、今や些細な恨みや人との軋轢までもを怪盗団に解決させようと集っている。
それも、暴力的な手段を伴って。
元より世間の怪盗団人気は高まりつつあったが、これほどまでの熱狂ぶりではなかったはずだ。日本国内を飛び出して海外にまでその名を馳せてこそいたが、それはまだ都市伝説的な、どこか他人事の、冗談めいた存在として受け取られていたはずだった。
火がついたのは修学旅行が終わった直後、帰国の最中、一人の男が自殺したことに端を発する。
秀尽学園高校の校長であった男はよりにもよって警察署の目の前で走行中のトラックの前に飛び出して自らの命を断ったのだ。
そして―――彼らにはまったく身に覚えのないことだが―――学園の校長室には一枚の予告状が発見された。そこには死した男の罪を暴き立てると脅すような文言が記されていたらしい。
これに対する世間の反応は様々だったが、多く肯定的な、狂信とも呼べる熱狂に紛れて冷静な批判は押し潰されてかき消された。
今や人々は強く願っている。気にくわないやつを怪盗団が代わりに殴っちゃくれないか、と。
そんなの知るか。自分でやれ。俺たちが相手取るのは―――
相手取るのは、どんな連中だったっけ?
カモシダもマダラメも、カネシロも間違いなく悪人だった。フタバは違うが、あれはあれで悪人の仕置には繋がっていた。
じゃあ、次は? 誰にする? 世間も注目するような、大逆無道の悪人を選び抜いて、それで、それで……
人々に称賛されて、いい気になる?
秀尽学園の校長に関しては完全な冤罪だ。怪チャンに書き込まれる身に覚えのないお礼の言葉も。
恐ろしいのは罪を犯すことでもしくじることでもない。それは当然避けるべきことではあるが、今彼を恐怖させているのは他でもない大衆の盲信ぶりだった。
どうしてそんなに、顔も名前も知らないどこかの誰かに頼り切って、あまつさえ自らは安全なところからリスクも負わず、コストも支払わずに死者を嘲笑えるのか。
顔の見えない無邪気な悪意が彼らを苛んでいた。
―――この日、喜多川がここを訪れたのは当然修学旅行のお土産を渡すためだが、結局のところそんなものは言い訳に過ぎない。
彼はただ恐怖に侵蝕されつつある日常の一欠片を求め、言外に彼女を頼っただけだ。
「……だいじょうぶか?」
そしてはそれを見抜いているかのように問いかける。
喜多川ははっと息を呑んで顔を上げ、それでやっと己がもの思いにふけっていたのだと自覚する始末だった。
「あ、ああ……問題ない。少し考えごとを……」
「そうか。そういうこともあるかもな。うん」
はで思案顔をしてみせている。
二人の間には奇妙な沈黙が横たわった。なんだか居心地の悪い、お互いに言えないことを抱えているような―――
喜多川は再び≪秘密≫について考える。
もしも彼女に、己こそが世を騒がす『心の怪盗団』、その一員であると明かしたら……
この女の子も誰かの改心を求めるだろうか?
そう思ってじっと瞳を見つめると、彼はそこではじめて彼女の目の下に薄っすらとクマができていることに気がついた。
眠れていないんだろうか?
想像して、思わずと彼は手を伸ばしていた。
「ひっ」
引きつった声がの喉から上がる。
喜多川の手はテーブルの対面に置かれた彼女の手に触れていた。
「そっちこそ大丈夫か?」
「え、なぬ、なにが?」
瞠目する彼女に、彼は目の下のクマを指摘してやった。
「あ、あ、ああ……これ。平気だ。なんていうか、ちょっと……最近、遅くまで色々やってたから」
しどろもどろに答える彼女の目線は己の手に触れた喜多川の細い指と顔とをしきりに行き来している。
動揺していることは明らかだったが、喜多川は少しも構わずまた身を乗り出した。
「俺になにかできることはあるか?」
声とともにその手がの手を握る。
握ると言っても手のひら同士を合わせたわけでもなく、ただ指先を軽くつまんでいるような状態だ。
けれど、たったそれだけの接触面積から、この少年の溢れんばかりの優しさと厚意や情が伝わるようだった。
「いや……だい……だいじょうぶ……」
とは言うものの、は酸素を求める魚のように発語以上に口をパクつかせ、顔を真っ赤に染めている。
「……本当に? 熱でもあるんじゃないのか?」
額に触れようとますます身を乗り出してもう片方の手を伸ばした彼に、は慌てて身をよじって手を引き、椅子から立ち上がって届かない距離まで後退った。
かと思えば眉尻を吊り上げ、怒ったような顔をして声を張り上げる―――
「なんだ急に! ベタベタ触ってくるなよ!」
喜多川は目を点にして浮かしかけた腰をストンと座面に戻した。
そんなに怒られるほど御大層なことをしでかしたつもりはない。というのが彼の言い分だが、しかしに聞き入れる余裕は見るからになさそうだった。
「なぜ怒っているんだ?」
「怒ってないよ!」
「怒ってるじゃないか」
淡々とした指摘は逆効果だったらしい。はますますいきり立って床を踏み鳴らすと、手―――触れたほうではない手―――を突きつけて彼を怒鳴りつけた。
「うるさい! もう帰れ!」
「ええ……」
この一瞬の攻防の間に彼女の中でどのような作用が発生したのか、喜多川には、あるいは自身にも理解が及ばないでいる。
それでも唸り声を上げて身を低くする犬のような彼女の姿に両手を上げて、少年は刺激しないよう慎重な動きで立ち上がった。
「分かった、帰るとしよう」
元より夕方を過ぎて夜になろうかという時間帯だ。今から作業を始めようものなら日付が変わるまで気が付けない可能性は大いにある。悔いは大いに残るが、今日は退散すべきだろう。
「今日はな」
そうとも、今日は。
意思を込めた言葉には顔を俯けて沈黙する。
さよならの言葉さえ貰えないのかと肩を落として踵を返したその背には、扉に手をかけたたときになってやっとかすかなささやき声が投げかけられる。
「ま……またね、喜多川くん」
少年はうっすらとした笑みを彼女に向けて頷いて、それから帰路についた。
……
ここに一人の少女が登場する。
美少女仮面とは世を忍ぶ仮の姿―――真の名を奥村春と名乗るこの女の子は、日本有数の食品加工販売会社、およびファストフードチェーンストア、オクムラ・フーズの代表取締役社長、奥村邦和の一人娘である。
さて、彼女の父邦和は優れた経営手腕と溢れんばかりの才気、そして野心をその胸に宿す男であった。
彼の望みは己こそを遥か高みへ誘うことであり、一人娘である春は、悲しいかないつしか親子としての情はすっかり薄れ、父の手駒の一つとしてしか数えられなくなっていた。
娘には父を押し上げるための計画の一部、婚約者があてがわれ、彼女は俯いてこれを受け入れた。
その名の通り、穏やかな春の日のひだまりのように優しげな美貌は陰りを帯び、背中を丸めて足を引きずるようになってしまった。
するとそこに夜の闇を凝縮したような真っ黒な衣装で身を包んだ仮面の少年が現れる。
彼は言った。
「それで? 実際のところ、婚約者の男をどう思っているんだ?」
娘は答えた。
「無し寄りの無し。好みじゃないし、気持ち悪い。生理的に無理」と。
美少女仮面は名を改めた。
黒衣の少年に倣ったわけではないだろうが、彼女は己を『ノワール』として、親離れを決意し、優しかったころの父を取り戻すため戦うことを自らに決定付けた。
……
そのようにして彼女が加わったことで、怪盗団が抱える案件のうちの一つが偶然にも進展を見せる。
「さんのことを憶えてるか?」
「モナをいぢめたやつ!」
「ウッ、頭がぁ……」
「ケツ痛だろ正確には」
「てめリュージやんのかコラぁ」
「けーんかはやーめてー」
議場の音頭を取っていた少年が妙な節をつけながら、睨み合いを始め二人をまとめて抱きしめる。
「うげぇっ!」
「おぎゃあ!」
締め上げられた二人が奇妙な悲鳴を上げた横で、進行役を務める新島が軽く手を叩いて注目を促した。
「そのさんについてよ。彼女、祐介の正体に気が付いている節があるって話だったわよね?」
知慧に溢れた瞳が一同を見回す。彼女の前には潰れかけた坂本とモルガナ、素知らぬ顔の潰した張本人と呆れ顔の高巻、面白がってそれを見つめる双葉と、困ったように笑う奥村―――
しかしここに喜多川の姿は見当たらない。いくらか気が引けたが、この日は彼を抜かしての集いとなっていた。
というのも議題の中心がその某についてだからだ。
もしも彼女が本当に怪盗団の正体に勘付いているのであれば、それはつまり彼女こそが精神暴走や廃人化事件の黒幕ないし、なんらかの繋がりを有しているという意味でもある。
夏の終わりごろから地道に聞き込み等を行った結果、彼女が都立福益高等学校機械科二年であること、人付き合いはあまりないが、これは女子の数が少ないためと思われること、それから―――
友人らの伝手を頼ってここまでの情報を入手した高巻は、沈痛な面持ちで告げる。
「ご両親は三年前に事故で亡くなってるみたい……」
そしてこれにその通りだと肯定するように奥村がはっきりと首を縦に振る。
「この間も少し触れたけど……三年前の交通事故、私もよく憶えてる」
この間、というのは奥村が怪盗団のメンバーとして活動しはじめた後、オタカラを盗み出すことに成功した彼女たち、女性メンバーのみで先んじて行われたささやかな集いのことだ。ただの女子会と言うこともできた。
彼女はその席での名に反応してみせた。さんってどんな方? もしかして、私の知っているさんだったりするのかな? と。
そしてそれはその通りだった。
「でも、私も一方的にお名前を知っているくらいだから、詳細までは分からないんだけど―――」
前置いて、奥村は語る。
「彼女、元は重工業の一人娘だったの。それでちょっと、親近感、みたいな……ほんとに私が一方的に感じてただけなんだけどね?」
「だったって、過去形?」
はてと首を傾げた坂本に新島が頷く。元より彼女たち女性陣はあらかじめ奥村からこの話を聞き及んでいるから、説明はこの場の男子三名のみに向けて続けられる。
「ええ、彼女のご両親が事故で亡くなられたとき、別の方が跡を継がれて……それで彼女は会社の運営とは無縁の生活をなさっているはずだよ」
「ふぅん……他には?」
「うーん、相続の際に色々あったらしい、くらいかな。お……お父さまが、我々はああはならないようにしないとなんて仰っていて……」
奥村の瞳がふっと虚ろになって、どこか遠くを見つめて焦点が揺れる。そこには過去を懐かしむような色があった。それが数日の後には取り戻せるのだという希望も―――
ふうっと短く息をついて、彼女は過去から現在に帰還する。
「要するに後継者争いだよね。でも長くはならなかった。遺言状が出てきて、それであっさり収束してる。ただ―――その遺言状を持ち出してきたのが当時さん、さんのお父さま、あの方が懇意になさっていたのとは別の弁護士の方だったの。そのせいで反発もあったみたいだけど、結局それ以降は何事もなく収まった……って話だったかな?」
語り終えて、奥村は再び息をつく。
一拍を置いて双葉が挙手すると、奥村に集まっていた視線は彼女に向けられた。
「んで、その新社長の名前が松下誠士郎な。念のためパレスの有無の確認はしたけど無かったぞ」
少年たちと猫は揃って首を傾げてうーんと唸った。
「やっぱ改心して欲しいんじゃね? 親の会社を取り戻したい、とか。なんも言ってこねーのはパレスが無いからそこで諦めたんじゃねえの?」
坂本としては同い年の女子が一連の事件や殺人と思わしき犯行に関わっているというのは想像し難いのだろう。声にはいくらか同情と擁護めいた響きが宿されていた。
「けど、そもそもどうやって俺たちのことを知ったんだ?」
「結局ソコだよなぁ」
モルガナは困った様子でプルプルと尾の先を震わせている。
「いろいろ探っちゃみたけど、これといって怪しいところはないんだよなー」
双葉はまた長い髪をかき乱して膝の上のラップトップを弄り回した。
彼女の前にはどこかの銀行のサーバーから抜き取った出納の記録が堂々と並べられていて、覗き込んだ新島などは顔をしかめている。
「そういう普通の子がどうやって俺たちの正体を知れたんだ?」
「んん……可能性としては危惧している通り彼女が一連の事件の真犯人というものと、犯人の関係者、あるいは認知訶学に関する知識を有している……あるいは、単純に私たちがシゴトをしているところを偶然目撃したって線もまあ、無くはないわね」
指折り現状思いつく限りの可能性を列挙してみせた新島に、少年はまたふうむと唸る。
「春の親父さんが改心によってどこまで自白してくれるかにかかってくるか……」
「そうね……春、そちらの様子はどう?」
「うーん、ちょっと元気がない、かな……なんだかボーっとして、食欲もあまりないみたいで……」
それなら心配しなくていい、と言ったのはモルガナだった。奥村を弟子のように捉えている彼は先輩風を吹かせながら、しかし優しく言い聞かせてやる。
「文字通り、心の問題ってやつだな。改心の影響でこれまで自分がやってきたことを自覚して落ち込んでるんじゃないか?」
「そっか……じゃあ、全部が終わったらきっと元気になってくれるよね?」
少しだけ心細げに微笑んだ彼女の目は一度床に落とされてから頭領たる少年に向けられる。肯定を求めて縋るような瞳と声色に、彼は望み通りに応えてやった。
いずれにせよ、あと数日で様々なものに答えが出るのだ。少年たちはそれを待つことと決めてこの場は解散した。
そして、すっかり秋も深まり、冬の足音が近づきつつあって日の入りの時間が早まるころ。
辺りはすっかり夜の闇に包まれているが、彼らの周りは煌々とした人工光に囲まれ、すぐそばの海から吹き込む潮風はまだ少しだけ夏の名残を孕んでいる。
首都圏に存在する日本でも指折りのアトラクションパーク、デスティニーランドは今日このとき、普段なら数え切れないほどの数の人に溢れている姿からすっかりかけ離れ、極少数のスタッフと少年たち―――『心の怪盗団』、そのメンバーだけになっていた。
というのも、奥村邦和のパレスの攻略が完了した打ち上げにパーク全体が貸し切り状態にされているのだ。
もちろんと言うべきか、これは彼らのための特別のはからいではなく、本来はオクムラ・フーズの社員を対象とした福利厚生の一環だったのが、社長である邦和の体調不良を理由に取り止めになってしまったところを利用させてもらった、というだけだ。
怪盗団とはいえ、一介の高校生にはいささか過ぎた褒美ではあるが―――
楽しい時間を邪魔する者は、この場には現れない。
「ひとまず春の件はこれでスッキリ終わるわけだよね!」
朗らかな声で高巻が幾度目かも分からない乾杯の後に言ったのは、ひときわ大きな広間の中央に置かれたテーブルの上にところ狭しと並べられた料理が若者たちの旺盛な食欲の前に敗北を喫したころだった。
彼女の背後にはライトアップされた西洋風の城があって、日本人離れした彼女の容姿と合わさって皆を夢の世界に誘う手助けをしているかのようだ。
ぼんやりとそれを眺めながら、新島はくすっと小さく笑ってみせる。風紀や規律を重視する彼女にしたって、浮ついた気持ちを抑えきることができないようなシチュエーションだった。
「まだ気になることはあるけどね」
それでも口は胸に残った小さなしこりを示して言う。
「あーね、色々ね。あーもう……」
頬杖をついてそれに同調したのは意外なことに坂本だった。つい先ほどまで高巻とともに新島が呆れるほどはしゃいでいたとは思えないテンションの落差に、しかし新島は然りと首を縦に振る。
そもそも、奥村邦和のパレスに挑むことになった理由は多岐にわたる。
怪チャンのアンケート調査、モルガナの家出、春の身売りまがいの婚約に―――
身に覚えのない殺人、傷害の容疑。
世間が彼らを英雄として褒め称える一方、確かな司法の手がその身に迫っていることを察知した彼らは、本物の殺人犯を追うことを余儀なくされる。
手がかりはあった。怪盗団の前に情報として度々現れる『黒い仮面』の人物。これが虚偽の存在でなければ、廃人化―――欲の具現化であるパレスの核を破壊された状態と、その末路である明確な死をもたらしたのはこの者である可能性が高い。
しかし怪盗団を陥れた輩がそのままイコール黒い仮面の人物ではない可能性も充分ある。例えば彼は実行犯に過ぎず、命令を下した人物が他にいて、その者が己の罪を怪盗団になすりつけたということも考えられる。
その論法でたどり着いたのが奥村邦和だった。
とはいえ、喜ぶべきことに奥村邦和は彼らの想像する黒幕ではなかった。確かに彼もまた一連の廃人化事件に関与している様子ではあったが―――
いつ途絶えるかも分からない手がかりの糸を追う息苦しさが打ち上げの席に乗り込もうとする気配を動物的勘によって察知したのか、頭領たる少年の横でホイップクリームのたっぷり乗ったケーキに鼻先をつっこんでいた猫―――もとい、モルガナが顔を上げてヒゲを揺らしつつ声を差し挟んだ。
「……だいぶ放ったらかしてるけど≪グリム≫もまだ捕まってないぜ」
今回の件に関わるようになってからとんとご無沙汰の名前だ。当然奥村は首を傾げる。
「グリム……?」
「えーとね……」
少年たちは奥村に『怪盗グリム』その人のここまでの情報を語ってやった。
「なんかなんだかんだアイツとも長い付き合いになってるよなぁ……」
一連の犯行とそこにまつわる奇妙な事象、それに対する推論を語り尽くしたことで付属的にこれまでのやり取りが思い返されたのか、どことなくやっきりした様子で坂本は頭をかいた。
するとその対面で、『怪盗グリム』の件を持ち込んだ張本人である喜多川がおかしそうに喉を鳴らす。
「フッ、そうだな。一度も対面したことはないが、もう五か月近くかになるか」
「あー、そんなに経ってるんだ。そっちもなんとかしたいけど……とりあえず≪グリム≫の元には今んとこ例の絵が三枚あることになるんだよね?」
高巻の問いに、喜多川はその通りだと答えた。
「てぇと、あと何枚?」
「あと二枚だ」
奇妙なことに≪グリム≫の犯行は八月の十一日からぱったりと途絶えている。残りの二枚を所持している相手が警戒しているために手を出しあぐねているのか……
推論を組み立てようとする彼の思考を、高巻の弾んだ声が遮った。
「あ、ほら、記者会見はじまった―――」
……
薄闇の中に少女が独りつぶやく声がこだましている。
「あとちょっとなんだ、あとちょっと、もう少し、もう少しで終わる……終わるのに……」
それは苦しみに身悶え、己にこそ向けられた怨嗟の声だった。
「……やめろ、落ち着け、考えるな……」
それは次第に怒りを孕み、呼吸とともにゆっくりと置き換えられていく――――
「私には『目的』があるだろうが。浮かれたマネをしてる場合じゃないだろ!」
そしてその怒りはやはり、彼女自身に向けられていた。
は怒りと焦燥をその顔に湛え、血がにじむほど強く親指の爪を噛んでいる。
「しくじるわけにはいかない、やるしかないんだ、もう後ちょっとなんだ、後ちょっとで、ちょっとで……」
彼女の前には光沢のある布の掛けられた描きかけの絵が置かれている。
部屋の隅、全体を薄闇に包まれたそこで一層濃い影の中にひっそりと置かれたそれはものも言わず、しかし確かに彼女に訴えるものがあった。
煩悶は彼女がこの絵の『元』になった絵画の存在と、その意図されたところを理解していることを示している。
彼が何故図々しくここでこれを描き続けているのかも。
少女の手はいつの間にかそれを覆い隠す掛布を取り払っていた。
骨描きが済まされ、下塗りの段階に至ったそこには見間違いようもない彼女自身の姿が精密に写し出されている。これからさらに色を重ね、本格的な彩色に至るのだろう。
立ちのぼる墨と絵の具の独特なかおりを胸いっぱいに吸い込んで、は物憂げな息を吐き出した。
それで思い悩む時間はお終いと言わんばかりに背筋を伸ばし、表情を引き締めて掛布を戻す。
そして一度だけ、指先で布の下に隠されたそれを慎重に撫でる。
「……喜多川くん……」
声にも息にも甘やかな響きが宿っていることから目を逸らして、少女は素早くそれに背を向けて逃げるようにアトリエから飛び出した。
戸をくぐり、階段を駆け上がって飛び込んだ先は太い梁の覗く一室だった。八畳ほどの広さで、壁には古めかしい本の並ぶ棚が作り付けられている。その棚と棚の間には押し込められるように二十四インチの液晶テレビが置かれ、それと向き合うように革張りのロッキングチェアが所在なく佇んでいた。
の足はよろよろとその椅子に向かうと、倒れ込むようにそこへ腰を落とした。
ギシッと座面と脚が鳴くが、構いもせずに少女はテレビのリモコンを取り上げ、電源を入れる。
画面の中では見知らぬ男がつい先ほどまでの彼女と同じか、それ以上の苦しみによって身悶え、胸や首を掻き毟ってては襟元を乱し、カッと見開かれた瞳は虚空を睨んでいたかと思った瞬間、グルリと白目を剥いて目尻からは血と涙が混じり合った液体がこぼれ落ちた。
「……私は……」
画面の中の男が崩れ落ち、スピーカーからは悲鳴が溢れるが映像はすぐに途絶えて『しばらくお待ちください』という文章と白い背景にすり替わった。
少女は手の中に握りしめていたスマートフォンに目を落とした。
そちらの小さな画面には何度も交わされたメッセージのやり取りが表示されている。大抵は他愛のないものだ。今日は来るのか、行ってもいいか、時間は、場所は……
は音が鳴るほど強く歯を噛んで、スマートフォンを部屋の隅に放り投げた。
「―――バカ、なにしようとしてるんだ、私は……私は、あんなふうにならないために……!」
膝を抱えた少女の背後の壁には、五つの額縁が下げられている。その中には同じ女をモチーフにした絵画が飾られていた。
大した価値のあるものではなかった。
金銭というすべての人に共通した価値観においてさしたるものではないそれは、しかし彼女にとっての『宝』であった。
「あとちょっとなんだから……他人のことなんて考えてる場合じゃない……」
は怒りと憎しみをいっぱいに湛えた瞳でふり返る。
「そうだ、もう『あと一枚』なんだから……」
そこには五つの額縁が下げられている。
うち四つには同じ女をモチーフにした絵画が飾られ、空いているのは一つきりだった。