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08:Meaningful Coincidence
結局その日は少年の体調を慮って会議は中断された。
とはいえ≪グリム≫が『無題』を狙っている以上、現在の所有者の名が判明すればマークはしやすい。
まして正式に佐倉双葉が怪盗団の仲間となった今、絵がどこに保管されているのかを調べ上げるのに大した時間はかからなかった。
問題はどう≪グリム≫を改心させるかだが―――
そちらに関してはさらなる来歴の調査と自殺者たちの素性を調べようということでまとまる。
ただその腰は、皆積極的に口にはしないが重かった。
初めに持ち込まれた時と今では怪盗団の世間からの評価は大きく変わってきている。都市伝説めいた懐疑的な存在が、今や実在のヒーローだ。
そうなると≪グリム≫はいささかここまでのターゲットと比べると小物に見える―――
そうでなくたって彼は現実の窃盗犯で、認知世界への関わりも無く、『心の怪盗団』が狙う理由はここに来て薄まり始めている。
案件を持ち込んだ喜多川でさえ、これは本当に怪盗団のシゴトだろうかと考え始めたころだった。
そしてそんな夏休みも終わりが見え始めたころ、喜多川は描きかけの小下図を見てに連絡を取った。
これから会えないか。
たったこれだけのメッセージを送るのにずいぶんと手間取った割に返信は早かった。どうやらは暇を持て余していたらしい。
一度寮に戻ってから支度を整えて待ち合わせ、喜多川は再び彼女の家、そのアトリエに上がり込んだ。
「なんだか……焼けた?」
はてと首をひねった彼女に、喜多川は己の手の甲をさすりながら口元を綻ばせた。
「ああ、海に行ってきたんだ」
「ふうん。それは結構なことで」
小さく肩をすくめた彼女は、汚れた部屋の床の上に腰を下ろし、すでに裸体の上にタオルケットを羽織るだけの格好になっている。
それから目を逸らしつつ、少年は手早く再開の準備を整えようと手を動かした。
「……君も誘えればよかったんだが」
しかし怪盗団としての集まりに彼女を誘うわけにもいかなかったし、社交辞令としての意味合いも含まれている。
けれどそれ以上に……見ることができるのなら、見てみたい。例えば、そう、彼女の水着姿とか―――
そもそもこうやってもはや必要もないのに彼女の家に上がり込んでいるのは、下心が大いに影響している。そればかりというわけではないが、さて……
怪盗団の女性陣もそれぞれ個性の違った美しさを湛えていたが、あの健康的な魅力に対して目の前の少女どうだろう。歳も大して変わらないはずなのに、彼女の言動からはどこか毒のある草花を思い起こさせる。それも特別なものではなく、夾竹桃やエンゼルトランペットといった、民家の庭先にもよくみられる身近な毒だ。
それがきっと彼女だけが持つ美しさなのかもしれない。
では、それがあの眩い太陽と蒼くどこまでも続く水平線と白い入道雲の下にあったら―――
「この上私の水着も見たいと」
少年の想像や妄想をすっかり見抜いているかのようにつぶやかれた低い声に、彼ははっと我に返ってたたらを踏んだ。
「いや、まあ、それは」
その通りなんだが。しかしなんだか、その言い方ではよこしまな考えだけでここにいるみたいじゃないか。
己は下衆な精神だけでそう思ったわけじゃないと訴えようとする彼に、はニンマリと笑ってみせた。そこにはやはり、人を死に至らしめるような毒がある。
「正直だな。いいことだ」
呻いて、少年は肩を落とした。これ以上言い抜けることなど不可能だと思えたし、この場で諦めの悪さを発揮するのは悪手だと打ち筋を読むことくらいはできた。
「と、とにかく、今日もよろしく頼む」
「はいはい」
気安く答えて、は床の上に死体のように寝そべった。
そうやって手を動かし始めると、相変わらず家人の姿の見えない邸宅は静まり返る。セミの声と子どものはしゃぐ声、隣家で点けっぱなしにされているらしいテレビの音声に、車やバイクの走行音……
そこに喜多川が手を動かす音が重なっている。
視線は好きにしろと言われているからか、は庭木が揺れる様を眺めている。開け放たれたガラス戸のむこうに投げられた視線は、時折喜多川の顔や手元に向けられることがあった。
そこには喜多川には捉えきれない不思議な光が宿っている。
なにかを懐かしむような、惜しむような……
正体は判然としないが、悪い感情ではないことはかろうじて理解できた。
それなら好きにしてくれていい。表情に表れるわけではなかったから、喜多川は構うことなく作業に没頭した。
いつしか彼の背後、青々とした芝草に覆われた庭にはパラパラと雨が降り始めていた。
耳にその音を聴いて天候の変化を感じ取った彼は少しの間だけの反応を窺った。雨となればしなければならないこともあるだろうと考えたが、しかしはぼんやりと雨にけぶる庭を眺めるばかりだ。どうやら必要はなかったらしいと見て、喜多川はすぐにまた手を動かしはじめた。
そうやってどれほどの時間を費やしたのか、そろそろ下描きは完成としてもいいだろうかと思えるころになっても雨は降り続いていた。
断続的に降り落ち続ける水滴に連日の猛暑で温められた大地も冷やされたのか、外から吹き込む穏やかな空気の流れはひんやりとして心地よい。運び込まれた土や草の香りは心をよく落ち着かせもした。
満ち足りていることを自覚して、喜多川は目を細める。
ああ、自分は今すごく楽しいんだなと思うと、疑問が首をもたげはじめた。
それは常日頃そうであるように絵を描いているからか、はたまた彼女を描いているからなのか―――
(わからないけど、たぶん、きっと……俺が今日ここに来ているのは……)
意識が手から離れたその瞬間を見計らったかのように電子音が鳴り響いた。
それは部屋の隅に作り付けられた棚に置いた彼の鞄の中からだ。一瞬で集中力を削ぎ落とされた喜多川は、慌てて立ち上がってそこへ駆け寄り、音の発信源であるスマートフォンを取り上げる。
音からして着信だ。電話が掛かってくる機会が師の失脚とともに激減した今、相手は数少ない友人―――怪盗団のいずれかからの可能性が高い。彼らとは普段チャットアプリで連絡を取り合っているから、通話となれば緊急性の高い連絡である可能性がある。
慌てて発信主の名に目を落とした彼は、驚きによって目を見開いた。その名は怪盗団の誰でもなく、古い知り合い―――師のもとで生活していたころ、兄弟子としてよく面倒を見てくれていた男のものであった。
「……喜多川くん? だいじょうぶ?」
背後から気遣わしげな声がかけられて、喜多川は未だ鳴り続けるスマートフォンを手に大きくかぶりを振った。
「だ―――大丈夫だ。けど、少し……すまない、電話に出てくるから、ああ、その、だから……」
「少し家の中をうろつくくらい、構わないよ」
言葉の意図を察して肩をすくめたに、彼は小さく頭を下げて小走りに部屋を出ていった。
しばらくの後戻った彼はイーゼルの前に置かれた椅子に再び腰を落ち着けるが、しかし一向に作業を再開させようとせず、暗い顔でガラス戸のむこうの雨を睨みつけていた。
なにかをに言おうと幾度か口を開きかけたが、しかしその度に言葉に迷って眉を寄せ、苛立たしげに前髪をかき上げてはため息をつく。
「……ほら」
「え?」
声をかけられて顔を上げると、いつの間にかTシャツに袖を通していたが手にグラスを持って彼に差し出していた。
「まさか麦茶が飲めないなんて言わないよな?」
「あっ、ああ……」
呆然としたままグラスを受け取ると、よく冷やされた麦茶の薫りが彼の鼻孔をくすぐった。水出しではなく煮出したものなのだろう。
はじっと彼を見つめている。その目が飲めと脅すように眇められていたから、喜多川は慌ててグラスを煽って液体に口をつけた。
浮かべられていた氷がカランと鳴く音とともに一口を喉に流し込む。鼻先にあった薫りが今度は喉の奥から立ち上った。
それを見てよしとして、もう一つ手に下げていたグラスに彼女もまた口をつけた。
細く白い喉が嚥下に動くのを眺めて、喜多川は口を開く。
「……さっきの電話……」
ああ、とは応じてその場に腰を落とした。あぐらをかいている足の付け根をちらと盗み見た限り、下着くらいは下にも履いているようだ。
それを残念と思うような思わないような、とにかく彼は作業の中断のわけを語ろうと、胸につかえて動かない重く鈍い痛みをもたらすものを吐き出そうと努めた。
「君は知らないだろうが、俺には師匠がいたんだ」
「ふうん」
「斑目一流斎の名前は知っているだろう。あの会見の映像はしばらく話題になった」
あまり関心のなさそうな声に補足してやると、は「ああ、あの」とやはりどこか無関心さをにおわせながら肯してみせた。
喜多川はさらに続けて語る。
「それで、今、兄弟子から連絡があって……」
目線は再び濡れそぼる庭に向けられる。青々とした芝草に、松の木と小さな池。端に置かれた小さな植木鉢には赤と群青の朝顔が一つ二つ花を開かせている。反対側にはまた薄青色の薔薇が地に直接植えられている。こうして見ているとなんともまとまりの無い、雑多な庭だなぁと思う。もう少しなんとかならないものか……
頭の中で庭木や庭石、池や鉢の位置をシュミレートしながら彼は言う。
「先生が起訴されて、刑事裁判を受けると……」
だから、今日はもう何かを集中して描けるような心地じゃない。
そう訴えた彼に、は「そうなんだ」とやっぱりあまり関心もなさそうに応えた。
けれど、全く無関心というわけでもないのだろう。背を丸めた喜多川の肩に馴れ馴れしく肘を乗せると、体重を預けて彼が見つめるのと同じ先に目線を投げた。
「まだ執行猶予がつく可能性もあるだろ」
「ああ……」
「というか、キミはどっちなんだ? 嬉しい? 悲しい?」
「どちらとも……複雑な気持ちだ」
「どんな?」
うーんと唸って、喜多川はかけられてた重みとその暖かさに促されるように口を開く。
「多くの人の心を濯ぐためにも、明確な形として罰を受けるべきだとも、もうご高齢なのだから斟酌を受けるべきだとも」
「ふーん……」
なるほど、と頷いてはちびちびと舐めるように麦茶をすすった。
「すまない。つまらん話だな」
「いや、興味深い。その事件の話なら知ってるよ。弟子から作品をパクりまくってたって奴だろ」
包み隠さない彼女の表現に、グラスを手にした喜多川の腕が震えた。カランと溶けかけた氷が鳴く音が、ホワイトノイズのように広がる雨音のなか不気味なほど部屋に響き渡った。
そしてまた彼女は、まるで歌うように滑らかに語る。
「そしてキミこそがその『弟子』なワケだ。キミが自らの身命を賭して作り上げてきたものをお師匠様は盗んできた。あるいは、それ以上のものも」
喜多川は息を呑んで虚空を睨みつけた。その胸に蘇ったのは身体の内側すべてを焦がすような怒りと憎悪だ。
顔も憶えていない母の末路と、それを語る老人の浅ましい正体。彼女の最期の『偉大な傑作』を汚したと語る声……
拳を握って震え、歯を噛む彼には小さく笑った。
「どうした? 寒い?」
「……いや」
首を振って横に目を向けると、ちょうど彼女の首から胸元にかけてが視界の中央に入り込んだ。
なだらかな曲線を描く丸い肩と繋がる鎖骨、その下の稜線。重力に従って垂れるやわらかそうな双丘を包む艶のあるパールホワイトの生地には黒の糸で繊細な花模様が刺繍され、同じく黒いレースが縁を飾っている―――
そんな視線こそを見つめる視線に気が付いて、喜多川は慌てて顔を逸した。
「……見てもいいのに」
挑発的な発言に、少年は目をむいて肩を震わせた。
恐る恐ると目をやった彼女の顔には、意地の悪い笑みが乗せられている。
「そしたら通報してやる」
「ほ……本気か?」
「それはどっちに対して訊いてる?」
からかわれているのだとやっと気が付いて、喜多川は唇を尖らせて答えた。
「両方」
は少年の肩に顔を突っ伏し、未だ激しく降りしきる雨音にも負けない大声で笑った。
「アハハハ! あはっ、っく、くひっ、んふふ……っ!」
「……笑い過ぎだ」
「くっ、くくっ、ごめ、あははっ! だってキミ、もう私のハダカさえ見たってのに……今の、思春期って感じの……っ」
「うるさい」
ぶすくれて麦茶を口に含んだ彼に、は目尻に浮かんだ涙を擦りつつおざなりに「ごめん」と謝罪を口にする。
心がこもっていないことは明らかだったから、喜多川はこれを聞き流した。
「っふふふ……キミはキミのお師匠様を許したいんだな」
続けられたこの断定的な言葉に顔を上げる。
なにかを反論しようとする前に彼女はさらに言を重ねた。
「ひどいことをされてきたのに。それともまだその支配から抜けきれていないのか?」
「……解らないな。腹立たしい気持ちは充分すぎるくらいにあるとは思う。あの人は芸術とそれを志すたくさんの人の心を踏みにじり、死にすら追いやった」
そうとも、だから改心を行ったのだ。許してやる理由は何一つとして無いとして。
でも……パレスの有り様やシャドウの言動がその人の全てではないことも今になって解り始めている。だからこれほどまでに惑い、己の意思を定めかねているのだ。
人は一つの面だけで表されることはない。様々な側面が複雑に絡み合い、矛盾と混沌を内包しながら人格というものは形成される。
今このとき、隣にいる少女が毒婦のように思えたり、いたずら好きな同い年の女の子に見えたり、明らかに悄然とした少年を思いやって飲み物を差し出し、この自己憐憫に満ちた問答に付き合ってくれて……
「なら―――」
恐ろしいほど冷たい声を発したりするように。
「罰を受けるべきだ、そうだろ?」
しとしとと降り続ける雨よりもずっと冷ややかな、真冬の風の強い日に横から叩き付けられる氷雪のような、骨の芯まで凍り付かせる声だった。
「絵にはそれを描いた人の想いが宿るものだろ。それはなにものにだって汚してはならない聖域だ。『偉大な傑作』は守られなきゃダメなんだ」
一切の反論を許さない厳然とした様子に少年は言葉を失って目を瞬かせた。
呆然としつつも、彼は納得もしてみせる。たしかに彼女の言う通り、反論の余地のない金言だと。
そのひとが身命を賭して作り上げたものは、たとえ周りがどのような評価を下そうとそこにある真の価値が揺らぐことはない。いわんや他者の悪辣な意思によって汚されるようなことはあってはならないのだ―――
だから、この少年は師の歪んだ欲望を盗み出し、改心をさせた。
今その犯してきた罪に対して罰が与えられるというのは、きっと正しいことなのだろう。それは社会的な規律の遵守などではなく、ただ……
定められることの無い曖昧な感覚に満ちた芸術の世界を守ることに繋がるはずだ。
少年は背筋を伸ばして胸に手を置いた。
そこにあった迷いのすべてが打ち払われたわけではなかったが、それでも現実を咀嚼して飲み込むことができていた。
傍らの少女はそれを見抜いているのか、それともやはり大した興味も無いというのか、肩に置いていた腕を上げて伸びを一つ、素足のまま木床の上をぺたぺたと歩いて庭に繋がる開け放たれたままの戸のそばに腰を下ろした。
いつの間にか空間は雨音だけに満たされている。隣家や表の通りにあったはずの人の気配というものも騒音も、この雨にすっかり家々の中に避難してしまったのだろう。
喜多川は彼女に倣って雨に濡れる庭に目を向けた。整えられている割に雑然とした印象の拭えない緑の空間は、慈雨を浴びてますます青く喜んでいるかのようだ。
「なんだかキミといると雨になることが多い気がするな」
ポツリとふり返りもせずがつぶやいた。
「ああ……昔からこういうことは多いんだ。俺がどこかに出かけたりすると雨が降る」
「ふ、雨男か」
「そうらしいな」
「ふうん……」
立てた膝を抱えて顎を乗せ、は楽しげに目を細めた。おそらく彼女にとってこの季節の雨は好ましいものなのだろう。
喜多川はその小さな背中を見つめながら、眠りに落ちる直前のような、どこかぼんやりとした心地で思い出を胸に返した。そもそも雨男だとか雨女だとかいう称号は褒め言葉ではないから、浮かび上がった子どものころの記憶はちょっと苦いものだった。
「もっと小さいころはよく詰られたものだ。お前が来ると雨になるから来るな、と」
「はー? バカバカしい。そんなの偶然だろ」
ましてネガティブな体験はポジティブなものより印象に残りやすいものだ。正確な統計を取れば値は平均に収まるはず。
きっぱりと言い切る彼女の姿は堂々としていて、少年に過去の記憶を更に深く掘り返させた。
―――本当にまだ小さなころの話だ。お前のせいでと詰られて追い出されて、泣きながらあのみすぼらしい家に帰った少年を老人はよく慰めた。
道理の解らぬ者にどれだけ真理を説いたところで意味は無い。であれば、異を唱えられないほどの力を手に入れればいい。誰にも崩せぬ牙城を築けば、もはや誰にもお前を傷つけることは叶わないのだから―――
……今にして思えば、これはまさしくあの老人のことこそを表していたのだろう。
しかしその頑強な城も、内からの攻撃には脆かったと言うわけだ。
皮肉な笑みを湛えて、彼は脳裏を走ったどこか苦い思い出を誤魔化そうと努めた。
「子どもには、そんな難しいことは解らない」
彼の虚無的な笑みはガラスに映り、の目にも入っている。
「なるほど」
頷いて、彼女はなにを思ったのかやおら立ち上がるとアトリエから突き出した狭いウッドデッキの上に素足を着けた。
「……おい、なにを……」
外はまだ雨が降り続いている。おそらく夜が明けるまで降り続くだろうとぶ厚く黒い暗雲が教えている。
喜多川は腰を上げて彼女に歩を詰めたが、それより素早く彼女はひさしの下から飛び出して行ってしまった。
「うわ、冷たっ!」
悲鳴を上げる間にも見る見るうちに頭から肩から、裸足のつま先まで雨水に濡れていく。
ギョッとした喜多川も後を追ってウッドデッキに足を乗せると、はふり返ってこの上なく楽しそうな笑顔を彼に突き付けた。
「私は、雨も嫌いじゃないよ。ガキのころはよくこうやって遊んで―――」
「ば……馬鹿! なにをしている!」
「……ほらね、怒られたりした」
「早く戻れ、身体を冷やして風邪でも引いたらどうするつもりだ!」
焦って腕を伸ばす彼に少女はケタケタと笑っては濡れた髪をうっとうしそうにかき上げ、
「ダメダメ、キミも少し付き合えよ」
「うわっ、やめ―――ッ」
想像以上の力強さで彼を道連れにした。
屋根の下から眺めていた以上に雨脚は強く、彼もまた悲鳴を上げている間にずぶ濡れになって呆然とする。
「おっ、色男、濡れ鼠も似合ってるよ」
は相変わらず愉快そうに、底意地の悪さばかりが目立つ笑い方をする。それは彼に怒りや苛立ちと、かすかなくすぐったさを教えるには充分だった。
「この……!」
喜多川は不躾にも己を指差す手首を掴むと、振り回すような勢いでそれを引っ張ってやった。しかしその勢いとぬかるんだ足元にバランスを失ったの身体が大きく傾いだのを見て、慌ててもう一方の腕を伸ばす―――
二人はもろともになって濡れた芝草の上に転がった。
が頭を打つ結果にならなかったことに安堵はすれど、しかし喜多川も彼女も、すっかり泥まみれになってしまっている。
だというのに、彼女はまた楽しそうに笑ってみせた。
それは彼女を歳よりずっと幼く見せる。小さな子どもがいたずらに成功して、大人が驚いているのを影から覗き見ているような、そんな笑顔だった。
喜多川はもう項垂れるしかない。シャツもズボンも、その下の下着にまで水は染み入っていた。
濡れた布が肌に貼り付く不快感に顔をしかめる彼に、はますます愉快そうに笑みを深める―――
「アハハ……こういうのを酔狂って言うんだろうね」
「狂ったような真似だが、酒に酔ってはいないだろうに」
彼には苦々しく返すのが精一杯だった。濡れて重くなった前髪を撫で付けて視界を確保するが、額から流れて落ちる水滴がまつ毛にしがみついてそれをすぐに滲ませてしまう。
そのぼやけた視界の中ではだらりと肢体を放り出して仰向けに寝転がった。
「いやあ、酔ってるだろ」
「なにに?」
「自分?」
この切り返しは喜多川にしてもなかなか愉快なものだった。確かにそうだと彼を納得させた。
雨の中で二人揃って泥まみれになって寝転がるなんていうのは、奇矯の枠を超えた自己陶酔の類に思えてならない。
「そうだな、こんなのはナルシシズムの極みだ」
思ったことをそのまま告げると、気を悪くしてもおかしくないようなこの発言にしかしは同意してみせる。
「だよね。バッカみたい」
「なのにやめないのか?」
「冷たくてきもちいーい」
またはしゃいだ笑い声を上げる彼女にばかばかしいとため息をつきながらも、喜多川は倣って芝生の上に身を横たえた。
呆れのまま屋根の下に戻らなかったのは―――彼女が己のちょっと苦い思い出を、別なもので塗り潰そうとしてくれているのだと彼にも理解できたからだ。
解りにくくて遠回しで、もとの形が失われているくらい捻くれていても、その優しさは降り注ぐこの雨のように静かに少年の心に沁み入った。
(あ……)
そして彼は戸惑いととも、己を見つめるの楽しげに細められた瞳を見つめた。
(どうしよう……)
青々と茂り、硬く尖った芝草に頬を擦り付ける。かすかな痛みには痒みが伴われたが、それも打ち付ける雨水がすぐに冷やして忘れさせた。
けれどその胸にこみ上げた痛みと熱はどうにも治まることはなく、彼を焦がしてその眼に少女の姿を焼きつける。
(俺はたぶん、この子のことが……)
意識して語として表そうとすると、彼は胸を内側から握り込まれたような感覚に襲われる。それは痛みとともに切なさと、そしてなにより胸を焼くような甘やかさを彼に与えた。
それはここしばらく、ずっと彼女から与えられ続けていたものだ。
一緒にいると楽しい。己の大言壮語を笑わず、夢を肯定してくれた。ちょっと意地悪で挑戦的な笑顔や、彼女にもまた夢や目標があるのだと教える煌めく瞳に……
このひねくれた優しさは、なにより彼の心のほとんどを奪い取っていた。
(この子を好きになっているんだ)
だから、今日、もう≪グリム≫に繋がる手がかりを追う必要性も薄れてきているのに、そもそも絵を完成させる意味は無いのに、ここへやって来て、彼女と過ごす時間を得ようと画策したのだ。
それは彼女を欺いている以上に、彼にとって己自身に対する裏切りでもあった。
何故なら絵を描くことが目的ではなく、手段にすり替わってしまっている。
もしも―――
彼女にこのことを知られてしまったら、どう思われるだろうか?
想像して、喜多川は小さく唇をかんだ。
彼女が恥を偲んでモデルを引き受けたのは、この少年が画家を志していると知っているからだ。けれど実際には怪盗団のシゴトのためであったし、今は彼の恋慕のためだ。
年頃の女の子の裸を見るためになどと―――もちろんそれは副次的な産物に過ぎないが―――知られてしまったら、きっと嫌われてしまう。
そう結論付けると、彼はすぐに己の感情を飲み下してすっかり元の通りに押し隠してしまった。元より見た目の感情の起伏は零か百かの極端さを誇る人物だ。その心の内ではさざなみのように様々なものが駆け巡っていても、他者はたいてい彼が何を考えているのかを読み取れない。
それを利用して彼は誤魔化そうと努めた。
「はぁ……君はいいかもしれないが、俺はどうやって帰ったらいいんだ?」
もっとも怪盗団の仲間たちに言わせれば『分かりやすい奴だな』とか『ポンコツ過ぎるわ』とか『見てんの分かってるからね?』となるのだが……
果たしてはその境地に至っているのかいないのか、彼の誤魔化しに乗って苦笑する。
「着替え貸すよ。サイズが合うかは分からないけど」
それでも二人はしばらくそこで、雨に打たれて身体を冷やしていた。
風呂場を借りて泥を落とし、身体を温めた喜多川に差し出されたのは少し古臭いが、いずれも仕立ての良い長着やワイシャツだった。少しだけナフタリンのにおいがすることから、長らくしまわれっぱなしだったのだろうことが窺える。
シャツを着て上布に袖を通して戻った彼を、こちらもまだ濡れ髪ののままのが出迎えた。
場所はアトリエではなく、家の中央に位置する居間だ。板張りの床が石油式ストーブの火に照らし出されて輝いている。
かすかに焦げ臭さが漂っているのは、が大して掃除もせずに引っ張り出してそのまま着火したためだろう。
先に風呂で温まったはずなのにこの上まだ暖を求めるのかと思うが、部屋を満たすやわらかな暖かさに促されるように喜多川もまた季節外れのストーブのそばに腰を落ち着けた。
それは布張りのソファで、二人がけの、の右隣にあたる。
「キミ、遠慮しないな」
「誰のおかげで身体が冷えたと思っている」
「仕方がないなぁ」
「こちらの台詞だ」
嫌味の応酬には、しかしトゲは双方ともに無いようだった。
などは書生スタイルとでも呼ぶべき格好になった彼を見つめて、どこかぼうっとしている始末だ。
……もしかして、彼女はこういうのが好きなんだろうか?
喜多川の頭を過った予想は、他でもない彼女自身によって打ち砕かれた。
「おじいちゃんみたいだ」
「そこまで老けて見えるか?」
「違うよ。それ、私の祖父のものなんだよ」
「ほう」
それはもしかして、例の老楽に絵を嗜んでいたというあの―――
記憶の隅に押し込まれていた好奇心がぞろりと頭をもたげるが、しかしこれもまたがへし折った。
「どうにもつんつるてんだけど」
「ほっとけ」
足元を指し示して言われた言葉に喜多川は顔をしかめた。
気勢をすっかり奪われて思考を投げる。彼女の身上について問い質したいことは山ほどあるが……
この子のことが、と思うと、彼は途端に臆病者に変化してしまった。知りたいと思うけど、それを嫌がられたらどうしよう、と。
喜多川は額を押さえて肘掛けに身を預け、小さく揺れる火を睨み付けた。その胸は己への罵倒で溢れている。
―――こんなのは、なんだかちっとも自分らしくない。
でも……じゃあ、自分らしいってなんだろう?
思考に深く沈んだ彼に倣ったわけではないだろうが、もまた口を閉ざして暖気を放ち続けるストーブに目を向け、廊下を挟んだ隣の部屋で回されている洗濯機と雨音だけがその場を支配した。
ただ彼女の目は時折喜多川に向けられて、なにかを確かめるように上に下にとその輪郭をなぞってはあかあかと灯る火に戻された。
やがて喜多川がやっと己が何者だったのかを思い出して顔を上げる。
「そうだ……」
そうとも、この少年には誰にも譲ることのできない夢がある。そしてそれこそが、彼のほとんど全てだった。
「あの絵……君を描いていた、あれなんだが」
「ああ、うん。あれが?」
首だけを動かして彼を見る瞳に深く満足げに息をつきながら彼は続けた。
なんということはない、彼にあるのはただ絵を描くことへの情熱だけだ。そこに少し邪念が入り込んだって、それもまた元素の一つに過ぎない。
「ここに置いていっていいか? 君が嫌でなければ、このままここで完成まで描かせてもらいたい」
図々しい提案だったが、意外なことには首を縦に振った。
「私は構わないけど」
「ではそうさせてもらう」
「他の製作や課題はないの?」
「今のところは。というか、あれ、課題として提出していいか」
「今さらだなー……別にいいけど」
「ありがとう、助かる」
謝礼の言葉には気安く手が振られただけだった。
「夏休みが明けるとしばらくは来れないかもしれないが」
「そうなの? あ―――修学旅行か」
「そうだ。君もか?」
「ああ」
頷いて、はどうしてか唇を尖らせた。いかにも拗ねたようなその風情に、喜多川は首を傾げる。修学旅行なんて、普通は楽しみにするものじゃないのか、と。
「どうした?」
「いや……」
「気になるだろう。なんだ?」
呻いて、彼女はまだ湿っぽい髪をかき上げた。
「京都に行くんだ」
「いいじゃないか。見るべきものが山とある」
「三回目なんだ」
「……まさか」
「そう―――」
重々しく頷いて、は人差し指を立てた。
「小学校のときに行って」
中指が並べて立てられる。
「中学でも行って。ここまではまたかよと思っても楽しかった」
そして薬指が。彼女は苦虫を舌先ですり潰したような顔をしてみせた。
「今回で三回目。しかも、うちの科は女子が少ないんだ。ほとんど男子」
「つまり?」
「キミ、経験ないか? 遠巻きにチラチラ見られるやつ。なんだよ、もう。気にするなら仲間に入れてくれればいいのに……」
つまり項垂れたこの少女は、修学旅行という思い出作りの場をほとんど独りで過ごすことになりそうだと言いたいらしい。
「あー……」
曖昧に頷いてみせた喜多川に縋るような視線と問いを投げつけた。
「君は?」
「アメリカ」
「わお、国外か。いいなー……」
またがっくりと肩と頭を落とした彼女に苦笑して、彼もまたまだ湿り気のある前髪を払い除ける。
「お土産を買ってくるよ」
このいかにもな慰めの言葉には乾いた笑い声を返した。
「ヘっ……じゃ、私もなにか適当に、いるかいらないかの絶妙なラインにあるやつを見つけてくるよ」
「ちゃんとしたものにしてくれ」
呆れつつも、彼女の言葉が照れ隠しだと解っていたから、彼はへそを曲げることもなく笑い声を返した。
そのうち洗濯機とそれに付属された乾燥機が役目を終え、濡れて泥にまみれた衣服をすっかり元の通りに直してみせると、彼はそれに袖を通して帰路についた。
雨はまだ振り続けていたから、は彼にこれもまた古びた、しかし作りの良いこうもり傘を貸し渡した。
礼を言って去った彼を見送り終えて、独り家に取り残された少女は恐る恐るとつい今しがたまで少年が袖を通していた長着を手に取り、形を整えるように広げてはほうとため息をついた。
「びっくりした……」
誰に聞かせるわけでもないつぶやきは虚しく室内に響くばかりだ。
はまた折り畳んだ上布の腰に当たる部分に腕を巻き付け、抱きしめるようにしてそっと額を押し付けた。
「ちょっと似てるんだ……体格とかは全然似てないのに、うん、全然……」
そのまま息を吸うと少女の鼻にはナフタリンの独特なにおいと、その影に隠れたかすかな彼の香りが触れる。
「全然違う……」
感嘆の息をついて、彼女はしばらくその場に佇んでいた。