07:Love is the Measure of All Things

 少年が決意を表明する一方で、空調のよく利かされたその階下に涼しげなドアベルの音が響き渡り、一人の少女が鞄を片手にのんべんだらりと喫茶店を訪れていた。
 どこか落ち着きなくキョロキョロと店内の様子を見回す彼女の様子に、佐倉惣治郎は感慨深げに目を細めている。
 現れたのは佐倉双葉という名の少女で、彼女は唯一の肉親である母を数年前に亡くし、この男に引き取られるまであちこちの親戚をたらい回しにされてきていた。それらの環境はいずれも良好とは言えず、見かねた惣治郎が彼女を引き取ろうと訪れたとき、この小さな女の子はまるで飼い主を失った厭世的な犬のような有り様だった。
 その経験が尾を引いているのか、それとも、もっと強烈な―――母親である一式若葉の『遺書』のせいなのか、惣治郎の家に引き取られた後も双葉は部屋にこもって誰とも顔を合わせようとせず、男はただ困り果てて見守るしかできずにいた。
 それが数日前なにがあったというのか部屋どころか家を出て、表を歩いてルブランに顔を見せるようになったのだ。
 しかも、なんだか近ごろは屋根裏の少年らと一緒になって『特訓』なんてことをしているらしい―――
 自分がまごついている間になにがあったのやら。惣治郎には一つもわかりはしなかった。
 ただ、子供というものは不思議だと、また感慨深く思う。
 それとも……
 屋根裏のあの子どもがなにか特別なのだろうか?
 解ることは何一つ無かったが、惣治郎の前、カウンターに手をついた双葉の姿が本物であることははっきりしている。
 彼は読みかけの本にスピンを挟んで閉ざし、娘に問いかけた。
「どうした双葉、腹でも減ったか?」
「ん……ちょっと」
「なんか食ってくか?」
「まだ、いいっ」
 ぶるぶると首が左右に振られると、オレンジ色に染められた癖のない長い髪がゆらゆらと揺れる。母親に似たその髪質を微笑ましく見つめながら、惣治郎はまた問いを重ねる。
「じゃ、どうした。また必要なもんでもあるのか?」
「今は、無い」
 今はときたか。男は苦笑して肩をすくめた。
 双葉はそんな男の顔をじっと見つめて、言うべきことを口内で確かめるように一度つぶやいてから外へ押し出した。
「あいつは?」
 はて誰のことやら、などととぼけるつもりは惣治郎にはない。この小さな娘の交友関係は悲しいかな、まだ限られている。ここにやってきて居所を確かめるような相手は一人きりだ。
「あいつなら帰ってきてからずっと上だ。さっきまで猫と一緒になんだかはしゃいでたみたいだけどよ」
「そか。わかった。わたしも、モナと遊ぶ」
 答えると双葉はぱっとカウンターから手を離して階段のほうへ脚を向けた。
 小さな手が遠ざかることを惜しく思いつつ、惣治郎はそのまだ頼りない背中を見送った。
 本当に―――
 この変化はなんだろうか。

……
 軽やかに階段を駆け上がって、双葉はそこにいるであろう猫の名を、妙な節をつけて連呼した。
「もなー、もなもな、もーなもなー」
「普通に呼べないのかよ」
 応えた猫はベッドの上で香箱をつくってどことなく拗ねたような表情をその顔に浮かべている。
 双葉は足音も軽く彼に歩み寄ってその毛皮に手を這わせた。
「なんだよ〜元気じゃねーか、ウリウリ〜」
「ンぎゃっ、やめろやめろ! 元気じゃねーから! 雑に触んなっ」
 起き上がって窓のほうに逃れた猫をにんまり笑って見つめながら、双葉はさてと抱えていた鞄を寝台の上に置いて作業机に向かっていた少年の背に呼びかける。
「持ってきたぞ。これでいいのか?」
「んー……」
「こらぁ、聞いてんのかっ?」
「聞いてる……ちょい待ち……っし、できた」
 丸まっていた背筋を伸ばした彼の手の中には細長く、先端が曲がりくねった金属製の棒のようなものがある。
 机の上には似たような、しかし一つ一つ微妙に形の違う棒が並べられていた。
「なんだそれ?」
「ピッキング用の棒」
 いくらか抑えた声で答えて、少年はいそいそとそれをまとめて布に包み、そばの鞄に放り込んだ。
「それもシゴトで使うのか?」
「そういうこと。宝箱開けるのに必要になるから」
「おおっ、ゲットトレジャー! 燃えるな!」
 はしゃいだ声を上げる少女をふり返って、彼は双葉の手が鞄の中からラジオに似た機器と、それにコードで繋げられたアンテナのような物を引っ張り出しているのを目に映す。
「それが?」
「ん!」
 頷いて、双葉はアンテナを両手に構えて掲げてみせた。繋がったコードが揺れて彼女の髪に絡みついたが、いささかも気にしている様子はない。
 モルガナはしげしげと機器を見つめ、鼻を寄せてにおいを確かめたが、埃とカビくらいしか彼には感じ取れなかった。
「こんな古臭そうなもので盗聴器があるかないか判るのか?」
「ところがどっこいしょ」
「どっこいしょ?」
 首を傾げたモルガナのそばにアンテナを放り出して、双葉はポケットから親指の先ほどの小さな箱を取り出してみせた。箱からは一本だけ、触覚のような細い金属線が飛び出している。
「これが、ルブランやこの部屋に仕掛けてあった盗聴器なんだけど」
「おい……」
「安心しろっ、深夜の聴き取りは控えた」
「あーもう……そういうことを言うのはやめなさい」
 手をひらひらと振って少女の下世話な発言を払う彼に、双葉はニヤリと笑ってみせた。
 それはさておき、と双葉は盗聴器を少年の手に預け、自身は再びダウジングロッドめいたアンテナを握りしめ、本体のスイッチを入れる。
 途端スピーカー部から不快なノイズ音が走り始めた。ザラザラとした高音に思わずと猫と少年が顔をしかめるのをとっくり眺めて、双葉は手のアンテナを彼の手に寄せた。
 するとノイズがいっそう強くなり、ガリガリとなにかを引っかくような激しい音にすり変わる。
「……な? こんな感じ」
「なるほど。どこで手に入れたんだこんなもの」
「メルカリで売ってた」
「マジかよ」
「というわけでモナ、やるぞ〜」
 少女は再びニヤッと笑ってアンテナを猫に指し向ける―――
「ううっ……お手柔らかに頼むぞ……」
「んっふっふ、まーかせろぉ」
 ―――しかし、さて。アンテナをモルガナのどこに向けても、スピーカーからは静かなホワイトノイズが流れるばかりで、一向に反応は無かった。
 十分ほどアンテナを向けたり本体を弄ったりした後、双葉は首をひねりつつ結論を述べた。
「んんー……その女のところで、盗聴器やらが着けられた感じではないっぽ」
「確実?」
「うん」
 ほっ、とモルガナは猫にはないはずの肩を落とした。その場に平べったく寝そべって、安堵に尾をパタパタと振りもする。
 それを視界の端に留めながら、少年はふうむと唸った。
「じゃあなんだったんだろう。彼女、どうやら俺たちの正体を知っている様子だけど……監視までする気はないのか……?」
「もしくは、その必要がない、か」
 鞄の中にアンテナを押し込みながら双葉が付け加える。
 ―――佐倉双葉という少女は、そのこぢんまりとした見かけとは裏腹に、世界規模で見ても有数のハッキング能力を有している。
 そして彼女はその能力を用い、メジェドと名乗って、義憤から他者の不正を暴いてきた。
 するとその姿勢に倣う者が現れた。それは一人ではなかった。気がつけばメジェドは正体不明のハッカー集団として名を馳せ、人の世の闇と秘密を明らかにする塊と化していた。
 そのころには双葉はとっくにメジェドを引退していたし、そもそも集団としてのメジェドにはほとんど関与もしていなかったが……同じころ、彼女は己の内から滲み出た母親の幻影に苦しめられていたのだ。
 死に誘う母の声から逃れる術を探すため、頼り少ない彼女は少しでも情報を得ようとこのルブランに盗聴器を設置した。
 そして彼女は≪怪盗≫たちの正体を知った―――
 かくしてアリババとして転生した双葉は呪縛から解き放たれ、部屋を出てここに至っている。
 つまり……怪盗団の監視という意味で、彼女は他の誰よりも先ん出ている。
「おまえたちの正体を、ぜんぶ知ってるなら、今さらちまちま盗聴なんて、しなくていい。居場所さえわかれば、それで充分」
 そうだろ、と見上げる目線に意思を込めて、双葉は鞄のジッパーをきちんと閉める。
 猫はまたふーむと唸って尾でシーツを叩いた。
「だが……それはなんのためだ? ワガハイたちのことを知って、泳がせるつもりでいるというのなら、なんでわざわざそんなことを?」
「んん……わたしみたいに、おまえらに、やってもらいたい……っていうか、盗んでほしいものがある、とか?」
「それじゃあ彼女は俺たちの『手段』を知っているのか?」
「それは、どーだろ。認知世界のことを、知ってる、なんて……」
 すっと少女の顔や声から感情が抜け落ちる。
 もともと抑揚があまりないか、ちょっと発声に難のあるところからこれが消えると、彼女の言葉はこの上なく冷ややかで、怒りを湛えているかのように聞こえてしまう。
 事実彼女は怒りに似た感情を堪えようと必死になっていた。
「お母さんを……こっ、殺したやつ、と……同じ……」
 ヒュッと細い喉が鳴る。呼吸が乱れているのを感じ取って少年は直ちに腕を伸ばし、優しく細い肩を叩いてやった。
「あっ……だ、だい、だいじょうぶ……へいき、もうへいき……」
「ウソつけ、泣いてるじゃないか」
「なっ! いてねーしっ!」
 カッと頬を紅潮させて調子を取り戻したらしい彼女に、少年はやれやれと肩をすくめてその腕にモルガナを押し付けてやる。
「ンにゃ?」
「うっ、重……うう〜……っ」
 重いと不平を漏らしつつ双葉の細い腕は猫を決して離さない。
 モルガナは己の毛皮の柔らかさや暖かさが彼女を落ち着ける一助になっているとすぐに察して緊張を解き、細く長い息をつきつつ大人しくその腕に抱かれてやった。

 ……その後も二人と一匹は議論を重ねたが、結論が出ることは無かった。
 なにしろいずれもが推測の域を出ないのだ。
 解っているのはただあの少女が『怪盗団』の正体を知っているかもしれないということだけだ。
 その上で彼女は喜多川に接触してきている―――
「かんっぜんにハニトラじゃんな。おイナリ、だっせー……」
「あれは仕方がないと思う。だって……」
 ひらひら、と少年の手が虚空をさまようと、双葉の顔が嫌悪と呆れに彩られた。
「うわあ……さいてー……けだもの! あなたって本当に最低の―――」
「双葉! こら! やめなさい!」
 続く言葉に嫌な予感を覚えて思わずと声を張り上げた彼に、しかし双葉は歯を剥いて逆らうばかりだ。
 まったく扱いづらいのが出てきたなと息をつきつき、少年はこの場の結論を絞り出した。
「……祐介を尋問するか」
 すると何故か双葉がまとわりついてはしゃいだ声を上げる。
「拷問だ! とにかく拷問にかけろ!」
 その瞳の輝きに、少年はハッとして彼女を見下ろす。二人の間には言いようのない深い親愛が結ばれつつあった。
 彼は応えた。
「愛してるぜ、ベイビー!」
 双葉はグッと拳を握りしめてこの少年が己の仲間であることを確信した。
 まるで血のつながった兄妹のような息のあったやり取りは微笑ましいはずなのに、しかし二人の共通言語の意味を汲み取れないモルガナはうんざりとした様子でベッドの上に身を伏せている。
「オマエら、ユースケになにをするつもりだよぉ……」
 呆れ返ったこれに、しかし二人は議論は済んだとテレビの前の古ぼけたゲーム機に取り付いて気がつきもしなかった。

 ……けれど結局、彼らの言う『尋問』も、『拷問』も、『愛してるぜ、ベイビー』も行われることはなかった。
 何故ならここに一人の少女が登場する。
 彼女は高巻杏と言う名前のクォーターの女の子で、豊かな感受性と感応性を持った心の暖かな人物である。
 そんな彼女が、双葉の特訓―――屋根裏部屋でおしゃべりしようと、彼女と坂本、主賓の双葉に保護者として猫と少年が集まった折、事の次第の説明とともに本人に直接問いただそうという提案に、困った様子で言い出したのだ。
「やめといたほうがいいんじゃないかな」
 当然仲間たちはこの理由を聞きたがる。
「んーとね、あのね……たぶんだけど、アイツけっこうマジでハマってるっぽいかなって」
「ハマってるって……あの生徒手帳に?」
「その呼び方もどうなんだよ……」
「るっせぇよ猫! だって名前知んねーじゃん!」
「誰が猫だ! ワガハイは猫じゃないと何度―――」
 言い合いの気配に少年が割って入る。彼はパンと手を打ち鳴らして注視を促して二人を止めた。
「暫定、謎子で」
「それもどうなんだよ」
 双葉の指摘を受け流して彼は高巻に続きを求めた。
「だからね、好きになっちゃってる……か、その手前って感じ? 気になる女子ってやつ」
 曖昧な表現に一同は顔をしかめる。彼女がどうしてそんなことを言い出すのか、誰も理解できなかったのだ。
「なんかこー……最近アイツ、ボケっとしてること多いでしょ。もともとぼーっとしてるけどさ。私と話すときもなんていうか、前より、遠慮? ちょっと距離できたんだよね。いい加減学習したのかと思ったけど、その話聞く限りだと、たぶんアイツなりになんか、女友達と気になる女子の区別を付けようと無意識に行動に出ちゃってんじゃないかな?」
 これに少年たちは戦慄して高巻を見つめた。たったそれだけでそんなことまで見抜くのか―――
 これが世に聴く『女の勘』とやらかと思うと薄ら寒いものを覚えて彼らは我が身を抱きしめた。
 また高巻は、だからと繋げて言を重ねる。
「最初のころ思い出してよ。ウチらが斑目の盗作のこと言ったら、アイツすっごいキレてたじゃん。ホントのこと知ってたのにさ。今回のも、その謎子ちゃんに関しての私の考えが当たってたら、たぶん……訊いても答えてくんないどころか、怒るかも」
 呻いてうなだれた少年たちと猫に、双葉だけが首を傾げた。
「……おイナリ、怒るとそんなにヤバいのか?」
「ヤバいってか、めんどい」
 即座に答えた高巻に坂本が同意するように肯してみせる。
「ダルかったなー……何回アイツんち行かされたよ……」
 これみよがしにため息ももれる。その隣ではモルガナもまたそっくり同じく重いものを吐き出していた。
「パレスに入ったあとも手を焼かされたよなぁ……いや、原因はマダラメだったんだけどよ」
「言っとくけどあんとき一番苦労したの私だからね!?」
 喚く高巻の横で少年が当時の出来事の子細を双葉に説明してやっている。
 坂本とモルガナからおざなりな憩いの言葉を差し出された高巻は、ソファの背もたれにだらりと身を預けておとがいを晒し、天井を睨みつけた。
「とにかくさ……直接ってのは、ちょっと時期みたほうがいいと思う。んでも、バレない範囲でなんかするならいーんじゃない? ていうか、私もその子がどんな子なのかは気になるし!」
 パンと手を打ち鳴らして一転満面の笑み―――下世話な好奇心とたっぷりのいたずら心、それから企みがそこには乗せられている―――を見せた彼女に、頭目は肩を落として苦笑する。高巻はまた双葉の柔らかな頬をつつきながら彼女に同意を求めた。
「アンタも気になるでしょ〜? 祐介がマジになっちゃうくらいってどんなのよ?」
「やめろぉつっつくなぁ」
 双葉は嫌がって身をよじったが、突き飛ばすほどではないのだろう。そういう意味ではこの特訓は十分成果を果たしていると言えた。
「どんな子か、ね……それも調べるか。今のところ分かっているのは顔くらいだ」
「名前ならわかるぜ。たしか、って呼ばれてた」
 ふうんと唸って、頭目は頭をかいた。その表情は連日の暑さによる寝不足が重なっているためか、いくらかの疲れが垣間見える。
 唇からはため息も漏れた。
「問題は山積みだな。三島が言っていた自演の件もある」
 すると呼応するように坂本もまた肩を落とす。
「≪グリム≫の件もあれっきり進んでねぇよな」
「あー……細かい依頼もいくつか溜まってたよね……」
 ため息が重なって、部屋にはいくらか重苦しい雰囲気が漂いはじめる。
 双葉は少年たちと猫の顔を見回して、おずおずと口を開く―――
「≪グリム≫って、例の絵画窃盗犯だよな。そいつのこと、調べてたのか?」
 これに彼らはおや、と軽い驚きを示して一斉に双葉に目を向けた。合わせて八つの瞳が一度に己を映し出したことに双葉はひっと喉を引きつらせて机の下に身を滑り込ませた。
「なに隠れてんのよ。こら、汚れるでしょ、出てきなさーい」
 すかさず高巻の腕が彼女の首根っこを捕まえてずるりと引き出す。呻きながらも抵抗せず元の位置に戻った双葉の膝の上には、重石代わりにかモルガナが安置された。
「ううー……」
「んで? その口ぶりだとなんか知ってんのか?」
 気遣いなのか、小さく震える双葉の前に菓子を差し出してやりながら坂本が問いかける。
 スティック状のポテトスナックをかじりながら彼女は答えた。
「大したことは、分からない。早い段階でおまえらと、無関係だってわかったから。軽く事件の概要見たくらいで……」
「あーそっか。一応むこうも≪怪盗≫名乗ってるもんな」
 だから双葉も一旦は≪グリム≫のことを調べようとして、しかし途中で彼が『心の怪盗団』ないし認知訶学に関わりがないと察知して手放したのだろう。
 双葉はまた彼らに問いかけた。
「そいつもターゲットの一人……なのか?」
「まあね。手がかりは今のところほとんどないんだけど……」
「ふうん……」
 膝の上のモルガナの背を撫でて、双葉はなにかを思案するように視線をさまよわせた。
 少年たちは彼女がなにかを言い出すのを待ったが、結局双葉は沈黙を保った。
 ならばと代わりに頭目が口を開く。
「とはいえ、手がかりは完全にゼロじゃない。しばらく取り掛かれてなかったけど、祐介のところに絵の来歴がまとめられている」
「そういやそうだな。なんかいろいろあって放置してたけど、どーすんだ?」
「双葉が良ければ明後日にでも特訓のまとめと一緒にやっちゃおうか」
 応えて彼の目は坂本から双葉に移る。
 猫の耳の下を掻いていた双葉が頷けば、反対の声は上がらなかった。

 結局日中は高巻が主導となっておしゃべりが続行され、彼らは日が落ちる前に解散した。
 なんだかんだ双葉もずいぶんあの二人に馴染んでくれた様子だとほっと息をつくのも束の間、寝る支度をすっかり整えた少年にその双葉からメッセージが届いたのは、夜中の十一時を過ぎたころだった。
『終わった』
 なにが? 世界が?
 冗談めかして返そうとした彼に、双葉は淡々と追加のメッセージを寄越した。
『自演のやつ』と。
 端的なこれに少年は顔をしかめる。
 確かに昼間、怪チャンにおける自演工作めいた一幕に関することを口にはしたが……一言二言程度だったはずだ。
 しかし一体どうしてと問う前に、双葉はさらに追撃を行った。
『例の書き込みはほんとに個人っぽいぞ』
『ちょっと待て。いつ調べた』
『さっき。昼間、言ってたから』
『そうだけど』
 頼んだ覚えはないぞと続けようとする彼に、双葉はすばやく返信する。
『いろいろ、わたしのせいで滞ってたんだろ』
 確かに彼女の言うとおり、≪グリム≫に関する調査が停まっていたのはメジェドの脅迫めいた動きのせいだろう。
 けれどそのメジェドは、双葉ではないのだ。
『お前のせいじゃない』
『うん。そう言うと思ってた。でもじっとしてるの嫌だったから』
 ……意外と、この少女は義理堅いのかもしれない。
 感心とともに唸って、少年は報告をありがたく頂戴することとした。
『匿名化させるソフトなんかも噛まされてない生IPだけだった。プロバイダの契約者名で調べたけど、ほとんどが都内在住で、一人だけ千葉。業者やサクラにしては書き込みの頻度が低いし、そもそもリピーターじゃない奴が大半』
 ただし、と彼女は言い添える。
『ネットの外で実際なにが起きてるかまではわからない』
 即ち、個人が何者かに金銭と引き換えにこのような書き込みを依頼された可能性は払拭できない。と結んで、双葉は報告を終了させた。
 与太話としてこうも告げる。
『なんかちょっと、怪チャンのノリやばい』
『どうして?』
『おまえ見てないのかよ』
 見てないよ、と返してベッドに寝転がった彼に、双葉は何枚かのスクリーンショットを送りつけてやる。それには件の『お礼』の言葉と、怪盗団を称賛する美辞麗句が溢れかえっていた。
 熱狂とも呼べる盛り上がりぶりの中には、確かに暴力的な解決手段を喜ぶ声が多数見受けられる―――
『なあにこれぇ』
『変だよな。おまえらリアルで誰か殴ったりなんて、そんなにしてないだろ』
『こっち来てから一度もないよ。たぶん』
『だよな。そもそも改心ってそーゆーことじゃないし』
『ずっとこんな感じ?』
『ざっとログ見た感じでは。Xデーからこっち流れ早くて』
 追うのが面倒だともらして、それきり双葉からの連絡は途絶えた。
 どうやら眠りに落ちたと見て、少年はまた別の人物へ向けてメッセージを入力し始める。
 怪盗団の協力者は幾人か存在するが、そのうちの一人、大手新聞社―――その娯楽部で記者を担当する人物、大宅一子に明日の夜にでも会えないかと打診して、返信が来る前にまぶたを閉ざした。
 実際に暴力的手段を用いて何者かが怪盗団を騙っているのであれば、それは傷害事件として少なからずマスコミの耳目に触れているはずだ。彼女ならなんらかの手がかりを示してくれるだろう。
 期待しているうちに、彼もまた安らかな眠りの中に落ちていった。

……
 すべての特訓が終了したとなればあとは今回のシゴトの打ち上げとして海に繰り出すだけ。
 そのような楽しみの前に『コレ』を差し出すことに若干の抵抗を覚えつつも、喜多川は一同の前にまとめてファイリングした紙束を差し出してやった。
 明日こそ海へとなった前日、夏休みの終盤。子どもたちはすっかり定番となったルブランの屋根裏部屋に集合していた。そこに喜多川が持ち込んだのは、長らく様々な事情から取り付けなかった≪グリム≫の一件、彼が狙う連作『無題』の来歴についてまとめられた書面だった。
 印字された文書は几帳面にも絵画が発表された年月日からキャンバスの号数に技法の派閥に関するところまで。いささか少年たちにとっては目の滑る、必要のない情報も多分に含まれているあたりに作成者の人格がよく現れていた。
 けれど今回の本題はかつての所有者である。
 喜多川自身も真っ先にこれを見てほしいとして前文を飛ばしてリストを皆の目前に広げていた。
 そこには十数人の名前と職業、都道府県名に、大まかな入手時期と所有していた期間、売買の方法と―――人によっては没年月日と享年が記されている。
望月総一郎―――二〇十三年 自殺 享年四十八歳
間宮創―――二〇十三年 自殺 享年二十四歳
大槻聡太―――二〇十四年 自殺 享年五十六歳
蜂屋美也子―――二〇十五年 自殺 享年三十三歳
飯嶋雅己―――二〇十五年 自殺 享年六十七歳
神谷綾香―――二〇十五年 自殺 享年四十四歳
幸田塔次―――二〇十六年 自殺 享年六十一歳
 ……十五名のうち半数近くが自死によって亡くなっているという事実は少年たちを大いに驚かせた。
 他にも死去した者は二名存在しているが、こちらは単純に高齢であったためと、絵画を所持していた期間から大きく外れているため、不審というほどではないだろう。
 とはいえ……
「七人自殺してるって……ヤバくない……?」
 うっすらと顔を青ざめさせた高巻の言葉に、少年たちも難しい顔をしてみせた。
 その胸中には共通した単語が瞬いている。
「呪い、か……」
 こぼれた屋根裏部屋の主の声に、新島はかすかに首を左右に振った。
「そんな馬鹿な。絵があるだけで人が死んだりなんて、ありえないわ」
 もっともな言ではあるが、しかし声はかすかに震えている。
 それを押し隠そうとしているのか、毅然とした態度でもって彼女はさらに言い募った。
「この国では年間三万人は自殺者がいるのよ。行方不明者の何割かが人知れぬ土地で命を断っていると仮定すればそれはさらに増える。十五人の中の七人ではなくて、何万の内の七人だと考えれば……」
 不自然なはずはない、と、しかし彼女は言い切ることができなかった。
 坂本の指がその没年月日を指し示したのだ。
「ここ三年でってのはどう考えたらいいんだよ」
「それは……」
 この『無題』が描かれたのは戦後間もなくのことだ。そこから六十年以上が経過していることを思えば、これは大きな偏りと言えた。
 新島は己の言葉にこそ論拠が足りないことを認識して悔しそうに唇を噛んだ。
 とはいえそれは呪いの存在を認めたというわけではないのだろう。彼女にとって呪いはあくまでも人間の思い込みや認知の暴走が引き起こすものであって、形而上のなにか不可思議な力や怨念といったものが引き起こすなど、ありえない。
 実際に、さんざ原因不明と囁かれた精神暴走事件や廃人化事件には認知世界が関わっているのであろうことが明らかになりつつあるのだ。
 だから―――
 新島は縋るような目を、下級生の、しかし自分たちを率いる役目を負う少年に向けた。それはなにか合理的な、整合性のある結論を求めている。
 彼は応えて紙面を睨みつける喜多川に目を向けた。
「祐介、お前ならどうだ?」
「えっ?」
 唐突に水を差し向けられて彼はちょっと間の抜けた声を上げた。
 それに小さく笑いながら問いかける。
「お前の描いた絵で、ひとを殺せる自信はあるか?」
 問いの内容にぎょっとしつつも室内の視線は一斉に喜多川に向かった。
 受けて、彼は戸惑ったように己の手と、仲間たちの顔をそれぞれ見比べる。
「それは……それは―――」
 その胸中でどのような動きがあったのか、理解できる者は一人とていなかった。ただ、喜多川の普段筆を持つ手がゆらゆらと空中をさまよう様をじっと見つめている。
 やがて彼は戸惑いがちに、しかしはっきりとした声で答えた。
「そのつもりで描けば、そのような結果を得るだけの自信はある」
 瞳には断然とした耀きもある。彼が心の底からそうと確信しているのであることが窺い知れた。
「おいおいマジかよおイナリ……」
 若干の怯えを見せつつ双葉が坂本の影に入り込む。それをいくらかうっとおしそうにしつつも追い払いまではせず、坂本がますます顔をしかめて唸った。
「んじゃ、呪いはあり得るってことか……?」
 新島がまた困ったように頭目へ目線を送る。彼女ははっきりと否定して欲しがっていた。
 そしてこの期待に応えたのもまた喜多川だった。
「違う」
「え―――?」
 再び視線は彼の元へ戻った。
 その整った眉目はしかめられ、なにかを思い返すように目は足元のなにかをなぞっている。
 彼は拳を握って、ますますきっぱりと断言する。
「絵で人を殺めることができるからこそ、あり得ない。あの絵で人が死ぬはずがないんだ」
「ど……どういうこと?」
 碧の瞳をぱちくりとさせながら高巻が戸惑いつつ問いかけると、喜多川はやっと顔を上げてそれに答えた。
「例えば―――俺が絵で誰かを殺そうとしたのなら、そこには俺の憎しみや怒りといった想いが籠められるはずだ。誰かを殺したいと思って筆を取るほどの激しい憎悪が……」
 誰かの死を望むほどの怒りや憎しみ……子どもたちは言葉からそれぞれの因縁や業とでもいったものを思い返して複雑な表情をみせる。
 それほどまでの感情を抱かせるほどの仕打ちとは、果たしてどのようなものだろうかと想像もする。自分たちが味わってきた苦痛なんて、それに比べたらちっぽけなものなんじゃないかとさえ。
 しかし続く喜多川の言葉にそれらは吹き飛ばされる。
「だが、あの絵にはそれが無いんだ。あそこには憎しみも怒りも存在しない」
 だから、人が死ぬような力なんてないんだ。
 そう結んで不愉快そうに鼻を鳴らした彼に、記憶を探るようにこめかみをさすりながら高巻が応じる。
「そう言われると……たしかに、そうかも。あの絵はなんていうか、気味悪いって思うけど、でもそれ以上に、なんか……悲しい……?」
「そうだな。失われたものへの悲哀……死した妻を想う、永遠に目覚めない女への無尽の≪愛≫こそが、あの絵には籠められている」
「なんでそんなこと、わかるんだよ」
 まだ坂本の影から顔を覗かせた双葉が問うのに、喜多川はわずかに目を逸らした。
 ……ある人にモデルになってもらって、似たようなものを描かせてもらっているからとは、何故か言い出せなかった。
 それを汲み取ったわけではないだろうが、頭目が大した関心もなさそうに代弁してやる。
「なにかあるんだろ。芸術家にしか解らないようなものが」
「ふーん?」
 それきり双葉はまた坂本の背中に引っ込んだ。壁役を押し付けられた坂本はテーブルの上に広げられていた菓子を一つつまみ上げて背後に放り投げる―――小さな悲鳴。
 さておき、喜多川は結論を述べる。
「あるわけがないんだ。あの絵によって人が死ぬなどと」
 しかしこれはこれで問題である。
「じゃあ偶然、ここ三年だけで七人も自殺したってこと?」
 それはそれで釈然としないと新島は眉を寄せている。呪いはなくとも彼女だって偶然で片付けられる数とは思っていないのだ。
「なにか別の理由があるのかもしれないな」
 モルガナの言葉に一同は額を突き合わせてうーんと唸る。
「その理由が≪グリム≫に怪盗をさせてる……?」
「だとしたら調べる価値はありそうだけど……そうでなかった場合は徒労に終わるわね」
 新たな情報がここに来てやっと行き渡ったことは喜ばしいが、しかしさらなる混迷を招いただけかと頭目は苦笑する。
 彼はまたファイルをめくって現在の所有者のリストに目を落とした。
 横からは高巻と坂本、その後ろからさらに双葉が顔を覗かせる。
「それが今の持ち主?」
「もう後二枚だけだよな」
 書面には簡潔に二人の人物の名と簡単なプロフィールが記されている。
 どちらもがこの国の政府機関に属する為政家で、その名はテレビや雑誌といったメディア媒体で幾度か目撃したことがあった。
 阿藤勝利と獅童正義。
 並ぶとなんだか冗談みたいだなと高巻らなどは思う。だって勝利と正義、なんて……
 言葉もなく見交わし合って忍び笑う彼女たちの視線の先でファイルが床に落ちる。
 誰もが瞠目してそれを見つめていた。ファイルを追うようにそれを手にしていた少年が床にくずおれたのだ。
「―――ちょっ、と大丈夫!?」
 真っ先に高巻が動いてうずくまる少年の背に手を当てる。覗き込んだ彼の表情は青ざめて、額にはじんわりと汗がにじんでいる。
「やべ、暑さにやられたか!?」
 同じように顔を確認した坂本が直ちに彼を支え、いささか乱暴にベッドの上に放り投げる。
 新島などはすでに階段に足をかけ、氷をもらってくると言って姿を消した。高巻が慌ててそれを手伝おうと後を追う。
「あ、あっ、あっ、そだ、扇いでやる!」
「足を上げさせるんだったか……?」
 双葉は作業机の上からプラ板を取り上げ、喜多川は無遠慮に少年の足から靴を引っこ抜いて掲げさせる。
「最近あんまり寝れてなかったからな。だから早く寝ようぜって言ったのによ……」
 枕元に上がり込んだモルガナからはお小言を。
 しかし額に押し当てられた猫の肉球は優しかった。その柔らかさとひんやりとした感触に少年は天井の木目を見つめながら声を上げる。
「うう……なんか優しくされると泣きそう……竜司、ギュッてして……」
 うめき声とともに伸ばされた腕はしかし無情にも払い除けられた。
「嫌だよあちぃもん。祐介、代わりに頼むわ」
「ひどい、涙引っ込ん……」
「相わかった。里心がついたか、よしよし」
「ぎゃあっ!? ほんとにするやつが……あっつーい!」
「なにしてんのよアンタたち……」
 氷と水を貰って戻った高巻と新島が呆れ返る先で、少年はもう元気よく暴れていた。