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06:Scarlet Lady
『最近ちょっと働きすぎじゃない?』
と、怪盗団の協力者の一人である三島由輝から連絡が入ったのは、夜も更けたころのことだった。
天から降り注ぐ大粒の雨を窓越しに眺めながら目を落とした少年は、彼の言いたいことを掴みかねて指を動かす。
『なんのことだ』
三島の返信は早かった。
『またまたとぼけちゃって。すごいよ、お礼の書き込みいっぱいきてる』
やっぱり、彼にはなんのことを言われているのか解らなかった。
『なんのことだ?』
『だから、依頼をこなしてくれたんだろ?』
『どれくらい?』
次の返信にはいくらかの時間を要した。
少年が見上げる窓越しの空からは延々叩きつけるような勢いの雨が振り続け、窓ガラスを叩いている。その音と背後で点けっぱなしにしたテレビから垂れ流されるテレビショッピングの商品説明を耳の中で混ぜ合わせながら、彼は眠たげにまたスマートフォンに目を落とした。
するとちょうど三島からの返信がポップする。
『ざっと確認しただけだと十件くらいあるかな』
これは奇妙なことだった。
三島の語る書き込みとはすなわち、彼が立ち上げた『怪盗お願いチャンネル』―――通称怪チャンなるウェブサイトに設置されたコンテンツの一つ、掲示板に記される大衆からの依頼や議論、雑談のことを指している。
少年は関連を否定してはいるものの、三島はときおり深刻そうなものや急を要するようなものを見繕っては受け渡して、怪盗団はそのどこかの誰かの悩みを解決してやることがあった。
けれどそれはあくまでもパレスの攻略の傍らになってしまっている。夏休みとはいえつい先ごろまで大きな危機に苛まれていた彼らに十件もの依頼をこなすのは至難の業だ。
少年は飾り気のない言葉でこれを言い表した。
『心当たりがない』
とはいえ彼がこのようにそらとぼけた態度を見せるのはいつものこと。オオカミ少年を前にしたように三島は困惑を返した。
『それっていつもの? それともマジ?』
『いつものも含めてマジ』
冗談めかしたこれに、三島は通信回線の向こうでうーんと唸った。
『それならなんでこんなにたくさん来てるんだろ』
『俺が知るか』
『業者やサクラってやつかな?』
それこそ知るかよ、と少年はつぶやいてリモコンを取り上げ、テレビの電源を落とす。
『なんのためにそんなことを?』
寝台の上に腰を下ろすと、先に丸まっていたモルガナが迷惑そうに片目を開いた。
『怪盗団を盛り上げてやろー、とか?』
『それこそ、なんのために?』
『応援してるんじゃない? ファンなのかもよ?』
『それならもっと別にアプローチのしようがある』
『まあたしかに』
モルガナは音もなくベッドから飛び降りると、するりとスチールラックの最下段に滑り込んで香箱を作った。どうやら本当にそこは涼しいらしい―――
古ぼけた扇風機の弱々しい風を襟から胸に迎え入れつつ、少年は思案して三島に一つ問いかける。
『個別のIPは調べられる?』
サイトや掲示板の管理者であれば容易であろうと推察しての発言であったが、これは正解だった。三島は直ちに
『簡単になら』と返してくれた。
『頼む』
『りょーかい!』
気安い返事に苦笑して、少年はスマートフォンを充電器に繋げて寝転がった。電気を落として暗闇に身を浸し、眠りが訪れるのを待つ―――
寝付きは良いはずなのに、しかしこの都会の熱気というものはなかなか彼に快適な安らぎを与えてはくれなかった。
幾度目かの寝返りを打ったのかわからなくなった頃、スマートフォンが通知ランプを瞬かせる。
『寝た?』
三島であった。少年はまだ起きていると短く伝えると、続けられるであろう彼からの報告を待った。
『お礼の書き込みはどれもIPは一致してなかったよ。都内か近郊からで、ほとんどが家庭用回線で公共施設からが一つ。時間帯や機種もバラバラだった』
『つまり?』
結論を求めた彼に答えて曰く、
『業者や誰かのイタズラって感じじゃなさそう』とのこと。
また三島は『やっぱりファンなんじゃない?』と述べる。
しかしこれに少年はやっと眠気の訪れはじめた目を眇めた。
『嘘はよくない』
三島は『まあね』と素早く返信を寄越した。
『それによく読んでみたらなんかちょっと変なんだよ』
『なに?』
『怪盗団は改心するだろ? なのにこの書き込み連中、「痛い目見せてくれて」とか「復讐してくれて」って、なんかちょっと物騒なんだよ』
まるでターゲットに直接危害を加えたかのような表現がなされていると告げられて、少年はますます顔をしかめる。
『妙だな』
『だよね。あんまりこういうのが続くようならアク禁するよ』
頼む、と返しそうになって、少年は慌てて打ち込んだメッセージを一度削除して打ち込み直した。
『頑張れ』
いつものそらとぼけた、己は無関係だと言わんばかりの態度に、三島もまた乗っかってやる。
『はいはい。おやすみー』
『おやすみ』
返して、今度こそ少年はスマートフォンを置いて腕をシーツの上に放り出した。
誰かが工作をしているのか、あるいはただのいたずらか……本当に『痛い目』や『復讐』を行っている者がいるとなれば、それはありがた迷惑と言うものだ。少年も仲間たちも、別段暴力を好んでいるわけではない。
この件も眠り続けるあの子のことも、それに≪グリム≫も、なんなら夏休みの課題や予習のことも、考えなくてはならないことは無数にあった。
しかし少年は気がつけば眠りの中に落ちてしまっていた―――
翌日、起き抜けに坂本から遊びに行こうぜと誘われて、彼は渋谷の駅前までやってきていた。
お目当ては八月の頭に封切りとなった最新のスパイアクション映画であるらしい。そのシリーズなら彼も大いに好んでいたから、二人は大いにはしゃぎながら二時間ちょっとのスリルとスタント、爆薬とグリーンバックに満ちた時間を楽しんだ。
「あそこのさ、バイクで追っかけるシーン、すげー良かったよな!」
「ラストのカーチェイスも捨てがたい」
「あー! あれもな! オープニングの飛行機んとこスタント使わなかったってマジなんかな?」
「らしいよ。あれも含めてアクションの割合が多くて良かったな。前作じゃラストにしか出てこなかったやつがまた出てきてくれたのも……」
映画館を出て、近くのファストフード店に腰を落ち着けた二人はあれやこれやと感想をぶつけ合った。その間に挟まれたモルガナは、ちょっと小馬鹿にしたような、どこかニヒルな笑みを浮かべている。
ガキどもめ、はしゃぎやがって―――
そう思うも、彼もやっぱり少し映画の中のスパイの活躍に心を浮つかせていた。ワガハイもニンゲンになったらああいう渋さと愛嬌を持ち合わせたイケメンマッチョに違いないと妄想を膨らませたりもする。
ふと、そんなに二人と一匹の前、ガラスに遮られた街路を背の高い少年が横切った。
「んあ、ユースケじゃないか」
真っ先にモルガナが反応して尾を立てると、少年たちも彼の尾が指し示すほうに目を向ける。
なるほどたしかにそこには見慣れた喜多川の姿があった。この暑い中、何故だが常ならぬそわそわと落ち着かない様子で強い日差しにさらされている―――
けれど彼はなにかに気がつくなり落ち着きを取り戻すとぎこちなく笑って手を振ってみせた。その視線の先では一人の少女が同じように手を振っている。
二人は瞬時に椅子を蹴立てて立ち上がった。
「おいおいおいおいおい」
「竜司、ちょっと俺の頬つねって」
請われて坂本は彼の頬をつねりあげた。
「いった、いたた、もっと優しくして!」
悲鳴を上げた友人から手を離し、坂本は剣呑な様子で低く囁く。
「夢じゃなさそうだな」
「そうだな……ああ、残念だ……」
がっくりと肩を落とした彼に坂本も倣う。少年たちは沈痛な面持ちでガラスのむこう、穏やかな様子で語り合う二人の男女に目を向けた。
鞄の中からそんな二人と喜多川の様子を交互に見やっていたモルガナは、静かな怒りを湛える子どもたちに小さくかぶりを振ってやる。
「ちょっと落ち着けよオマエら……」
これは聞き流された。
少年は飲みかけのドリンクを手に鞄を担ぎ上げ、坂本のすねを軽く蹴って後に続くよう促した。また彼は店の出口に猛然と突き進みながら常識的な範囲の声量でもって猫と友人に告げる。
「ハニートラップに違いない! 祐介が危険だ!」
「だな! 俺らが助けてやんねーとあのポンコツなにされっかわかったもんじゃねーよ!」
同調して並んだ坂本に大きく頷いて店を出る―――
モルガナは呆れ果てつつつぶやいた。
「アイツがモテてるとは認めたくねーんだな」
もちろんこれも聞き流された。
そして彼は鞄の中から熱気揺らめく街路の上に放流される。
「うわアッチぃ! なんだよ下ろすなよあちあち、ニャーっ!」
その場でバタバタと暴れまわった末小さな日陰に飛び込んだモルガナに、少年は顎をしゃくって上から申し付ける。
「モルガナ、あいつらのあとをつけてくれ」
「ええ……」
当然モルガナは拒絶の意思とともに非難の目を彼に向けたが、夏日に輝く伊達のレンズのむこうの瞳はどうやら平静を取り戻しているらしかった。
どういうつもりだと尾を振る猫に、彼は歩きはじめた二人をじっと見つめながら告げる。
「あの子、あのときの子だ」
え、とモルガナと坂本も喜多川の傍らで先導して歩く少女に目を向ける。緩く編まれた黒髪に、いくらか釣り上がった眼差しはどこか少年的で、彼らに精悍な印象を与えた。
「ほら、真が大暴走したことあっただろ」
補足するように人のあまり思い出したくない失敗を上げた彼に、坂本がぽんと手を叩いた。しかし彼は己の得た結論を信じ切れずに怪訝そうな顔を見せている。
「もしかしてあんときの生徒手帳? マジ? もっとジミなコじゃないっけ?」
「間違いないよ。俺はよく見ている」
自信深げに首肯した彼に、モルガナは猫の顔をしかめて尾をぶんぶんと振った。
「どこをだよ……」
「行け、モルガナ。なにもなければそれでいい。ナニかがあるのなら食い千切ってこい」
「ワガハイになにをさせるつもりだオマエは!?」
喚いた猫の尻を手でグイグイと押して、少年はじっと遠ざかりつつある友人と正体の知れぬ少女の背を睨みつけた。
そこには多大な嫉妬と―――頼もしいが、大いに迂闊なところのある友人を心配する色があった。
……
喜多川の前には立派な門構えの和風邸宅が建ち聳えていた。
大棟から葺きおろされた入母屋屋根には夏の日差しを浴びて鈍く輝く瓦が整然と並び、その大棟の端には数珠掛若葉の鬼瓦が取り付けられている。壁は漆喰か、経年によるものらしいいくらかの汚れが付着しているものの、左官の腕を見せつけるように繊細な波が遠目にもよく見える。
また門扉から玄関戸に続くアプローチの脇に植えられた松の木の先には広大とは呼べないがよく手入れのされた庭があり、木立の合間には長い縁側が覗えた。
全体を見ればさしたる坪数ではなさそうだが、立派な日本家屋と言って遜色ないだろう。
喜多川少年はかつて暮らしたあばら屋の姿を思い描いてふっと口元に虚無的な笑みを浮かべた。また師が語っていた本宅とやらはこういった佇まいなんだろうかとも―――
「こっち」
門扉を押し開けて彼を促したの声に少年は我を取り戻す。
慌てて敷地内に足を踏み入れながら、彼は先を行く少女の背に戸惑いつつ問いかけた。
「ご家族は?」
そうとも、日中の一軒家だ。特別な事情がなければ家人が一人か二人は中にいてもおかしくはない。
しかしは平然とした様子で手の中の鍵を鳴らして答える。
「ずっと空けてる。気にしなくていいですよ」
「そ……そうか……」
困惑する彼の前で鍵が差し込まれ、程なく引き戸が横に滑らされると、内部からはかすかに湿った木の匂いが溢れ出した。目には暗い色合いの木床がずっと奥へ長く続いているのが映る―――
数日前、雨の中で約束を取り付けた喜多川は、しかし素描のための場を欠いていることに気がついて愕然とした。もうあのあばら屋には戻れないし、学校付属の寮に彼女を招くわけにもいかないだろう。では許可をもらって学び舎に招待すればとも思ったが、しかし夏休み中とはいえ誰が現れるかも分からない空間はとに激しく拒絶されてしまった。
芸術だから気にしないと言っていたではないかと口を尖らせた彼に、は苦渋とともに場を提供すると進言した。
それがこの純和風の家屋……つまり、彼女の自宅だ。
家族の留守中に男を迎え入れるなんてなんとも思わないんだろうか?
少年はちょっと潔癖で人によっては古臭いか、お育ちがいいと言われそうなことを考えた。
けれどそれも、廊下を二度曲がった縁側の先の部屋に通されると霧散する。
「あ……」
息を呑んだ喜多川に、はいたずらっぽく笑ってみせた。
少年の鼻を刺激したのは彼にとってよく馴染んだ香りだった。墨と膠、ドーサ液や岩絵具の入り混じったにおい……
まるであのあばら屋に暮らしていたころのような感覚にとらわれて、彼は一瞬だけ心を過去に飛ばした。同じ志を抱いた兄弟子たちに囲まれていたあのころ―――
「……私の祖父も、絵を描いていたんです」
喜多川はの楽しげな声に現実に引き戻された。彼女の前には空のイーゼルがぽつんと寂しげに佇んでいる。
よく見れば床のあちこちに絵の具が付着し、壁際に置かれた古ぼけた木の棚には筆や鉄鉢、未使用の麻紙にボードやパネルが押し込まれているではないか。それらほとんどが埃をかぶってしまっていることが、その祖父とやらが長らく筆をとっていないことを教えていた。
「もうずいぶん、描いていないのか?」
率直にこれを尋ねた喜多川に、はわずかに顎を引いてみせた。それが肯定を示していると気がつくのには少しの時間が要った。
黒黒とした瞳にあるのが悲しみの色だと彼はすぐに察して、それ以上の追求を飲み下した。もしかしたら老楽の一つでしかなかったのかもしれない。
けれど―――
こんな偶然があるだろうか?
少女のその横顔は何度見たって近ごろずっと追い続けていたあの絵画、『無題』に描かれた死した女によく似ている。
彼は先の疑問と引き換えに問いかけた。
「君、誰かに似ていると言われたことはないか?」
はわずかに首を巡らせて立ちすくむ少年に目を向けた。そこにはもう悲しげな色はなく、ただ目の前の少年のすべてを写し返すだけの鏡のような様子を見せている。
感情を窺えないその姿にわずかに身を引くと、はまたおかしそうに笑って顔をそむけた。
「ないよそんなの」
答えつつ、彼女の手が壁際に寄せられていた椅子を中央にまで引きずってくる。
喜多川もまた持参した画帳をイーゼルに置きながら、納得がいかないと、好奇心が抑えられないと饒舌にまくしたてた。
「本当に? それならなぜ君はあんな似合わない眼鏡なんてしていたんだ。顔を隠すためじゃないのか? そう、君は俺が知っている絵画に―――」
衣ずれの音に彼はハッとしてふり返った。
裏の庭に続く大きな開口部から射し込む日差しを浴びて、眩いほどに輝く真っ白な背中がそこにはあった。
なだらかな曲線を描いて浮かび上がる肩甲骨に背骨のライン。僧帽筋と広背筋の緊張に合わせて隆椎の凹凸が皮膚の上にまであらわれている。
それらを横切る無粋な水色の線が彼女の下着だと理解するのにはずいぶんと時間がかかった。
「―――ッ!?」
喜多川少年は思わずと後退って椅子にふくらはぎを強かにぶつけてしまう。
目の前の光景が信じられなかった。
だって、あの子は、杏は全然戸惑って、渋々と言わんばかりの態度だったのに突然快く了承して、やっと現れたと思ったらなんだか結局、肝心なところはなに一つとして見せてはくれなかった―――
それなのに!
の手は手早く身にまとっていたブラウスを畳むと、すぐにジーンズにかかった。それは止める間もなく下ろされて、揃いの水色に包まれた丸い尻のラインを明らかにしてしまう。
もちろんこれは彼が望んだことなのだから、止める必要なんてなかった。
「ま、待ってくれ、少しは躊躇とか……!」
しかし彼は焦りとともに告げて踵を軸に身を反転させる。背後からはまた衣ずれの音と呆れた声が投げつけられた。
「脱げと言ったのはキミだろ……?」
「たしかに……そうなんだが……」
「ならちゃんと見て」
背を軽く叩かれた衝撃に、喜多川は縋るものを探すように椅子の背もたれを掴んだ。そのまま膝を座面に預け、恐る恐るとふり返るのに、彼は多大な勇気を支払った。
「……どう?」
「な、なにが?」
「いや、だから、私の身体」
腰に手を当てて顎を上げた少女は、本当に何一つとして身につけていない。
「言っておくけど……誰の前でも脱ぐわけじゃないから。キミが画家を志していると知っているから、だから……」
そうと言われて、喜多川はやっと我を取り戻して背筋を伸ばし、椅子に腰を預けて彼女の肢体を観察した。
豊かな胸の膨らみにくびれた腰は、彼女がもう少女より少し先を言っているのだと強く主張している。うっすらと汗の浮いた腹にはわずかに筋の境目が見えるから、やはり彼女は『文学少女』なんかではなく、肉体派なのだろう。その証拠に脚はちょっと……太いかもしれない。
それでも、背を丸めることなく堂々と立つ姿は、戸惑いや不埒な期待をかすかにでも抱いていたことが恥ずかしくなるくらいに美しかった。
彼はそのことを素直に口にする。
「きれいだ。俺の理想とは少し違うが、君は一つの芸術の到達点……ミケランジェロのピエタ、あのサン・ピエトロの若きマリアのように美しい」
この大げさな賛辞の言葉に、は喉を鳴らした。
「言い過ぎ。でも……ありがと」
ちょっと照れくさそうに応えて、は身をよじる。その仕草からやっと彼女が恥じらいを堪えているのだと読み取って、喜多川は素早く画帳を開いた。彼女に恥をかかせないためだった。
そうして横たわらせた女の姿を写し取っていると、邪な念などすぐに消え去った。
ある意味では失礼なことなのかもしれない。女の裸体を前にして一ミリも昂ぶらないというのは。
ただ彼は別種の意味でひどく興奮している。
『無題』の女と同じ顔をした少女を写し取るという作業は彼をなにか深い精神的な沼のようなところによく浸した。
あの男も―――黒崎明翫もこのような心地だったのだろうか? この昏く、足元からジリジリと焼き焦がされるような感覚を味わっていたのだろうか?
そこには被虐的な悦びがあった。自ら苦痛を欲し、求めて受け入れる背徳的なものが存在していた。
目の前のこの女の子が本当に死体だったらどうおもうだろう。呼吸にかすかに上下する胸が動かなくなり、瞳から生気が失われたら―――
そのときこそ己は黒崎明翫の意図を汲み取ることができるだろう。
だが……
よどみなく手を動かしながら少年はじっと己を見下ろすなにかの気配を感じていた。それは己自身の影だ。
影は彼を嗜めるように笑っている。
よく見よ―――そこな娘は生きておる。命の輝きを見失うほど、その目は濁ってはおるまい。
そうとも、『無題』の女、黒崎真理とは顔以外のなにもかもが違っている。
血色のよい頬と唇、少年の足元を通り過ぎて庭木を見つめているのだろう輝く瞳、呼吸に動く胸に、瑞々しさを主張する肌理の細かい肌には汗が滲んでいる。
なによりここに≪死≫は存在しない。
その皮膚の下では健康な心臓が確かに鼓動を刻んでいる。
そも彼は追体験をしたいのではなく、絵に籠められた意図から≪グリム≫の尾を掴むためにここに座しているのだ。
そしてここには、『眠る女』から感じ取ったもの、正解が間違いなく存在している―――
はじめからわかっていた通り、彼はとっくに答えを知っていた。
強い執着、胸を締め付けるような激しい感情、死してなお失われぬあの女への……
具体的な語として現れる直前、彼の思考を引き裂いてデフォルトのまま設定変更されていないらしい着信音が響いた。
それは庭で喧しく鳴く蝉の声をかき消して彼を現実に呼び戻した。
「えっ……あ……」
己のものではないと瞬間的に理解するのと、がのっそりと起き上がるのは同時だった。
彼女は止める間もなく部屋の隅に畳まれた己の衣服に歩み寄ると音の発信源であるスマートフォンを取り上げて音を停止させる。
波打つ黒髪が吹き込んだ風に揺らされていた。彼女は少しの間そのままふり返らなかった。
「さん?」
せっかく答えが掴み取れたところだったのにと焦れた少年が呼びかけると、少女はやっと顔を見せた。しかしどうしてかいささか機嫌を損ねたような表情をしている。
「どうした?」
首を傾げた彼に、は小さく首を振ってしゃがみ、衣類を手早く身につけ始めた。
まだ出来上がってない。そうと主張しようとする彼の前で、少女の肢体はすっかりもとの通り隠されてしまった。
「ごめん、用事ができた」
「え―――」
「本当に申し訳ないと思うけど、今日はもう帰って」
「けど」
「ダメ。おしまい。お家に帰って」
小さな子供に言い聞かせるような調子だった。彼女の手はまた強引に画帳を閉ざしもする。
起立を促されて椅子から立ち上がった喜多川にはまったく訳がわからない。おそらくスマートフォンが何某かの連絡を彼女に寄越したことが原因ではあろうが―――
彼は己の不安をすすぐために問いかけた。
「俺はなにか君を不快にさせるようなことを仕出かしただろうか?」
おもちゃを取り上げられてしまった幼児のような拗ねた表情と声だった。はふっと口元を和らげると、極めて優しく彼の肩を叩いた。
「ここにいるキミがというわけじゃない。それに、もう嫌だって意味でもないよ」
「……また続きを描かせてくれるのか?」
「タダでね」
皮肉っぽく吐かれた台詞に、しかし少年はぱっと表情を明るくさせる。それはにも笑顔を取り戻させる効力があった。
「喜多川くん、キミはさ……」
部屋を出て玄関口まで送り出した末、は笑みを湛えたまま喜多川に問いかける。
「本当に自分の行いが正しいって信じてる?」
太陽はすでに傾きかけているものの、まだ降りかかる日差しは強く、肌を刺すようだ。近くの庭木にセミがとまっているのか鳴き声は喧しく、また住宅街の中にあるためだろう、どこかで小さな子供がはしゃぎ回る声が彼らの元にまで届いていた。
喜多川は、言葉の意味をよく理解しようとしばし沈黙した。
己の行い、なんて突然言われても、彼にはなにを指しているのか解らなかった。今日のことを言っているのか、絵を描くこと―――画家を志す使命めいた想いを指しているのか、それとも……
いずれにせよ、彼は答えた。
「そうでなければここにいない」
背筋を伸ばして臆することなく返されたこれに、は嫣然とした。
それはまた喜多川の胸を締め付ける。内側からぎゅうっと心臓を握りこまれたような心地になって、ふと彼は『ついさっきまで一糸纏わぬ姿の彼女と一緒にいたんだ』と気がついて身を引いた。
彼の目は優れた画家の卵の証としてその眼に、手に焼き付いた裸体の記憶を微笑む少女の上に重ねている。
少年は慌てて踵を返して彼女を視界から追いやった。
「と、とにかく―――今日は帰る。いろいろと……ありがとう」
「どういたしまして。また、キミの都合のいいときに連絡して。迎えに行くよ」
「うん……」
歯切れ悪く応じた喜多川に短くそれじゃあと告げてもまた彼に背を向けた。
背中越しに門扉が閉ざされる音を聞いて、少年は肩越しに彼女へ目線を送る。ゆるやかに波打った黒髪が強く痛みさえ与えるような陽を浴びてキラキラと輝いていた。
ふり返ってくれないかと彼は心の片隅で願ってみたが、少女はものも言わず戸をくぐって姿を消してしまった。
そうなればこの少年にできることはない。後ろ髪を引かれるような思いのまま彼は来た道を引き返しはじめた。
「……ん?」
ふとその足が止まる。喜多川は人の影も見えない通りをきょろきょろと見まわしたが、猫の姿は見当たらない。あの不遜な口を利く黒猫の声が聞こえた気がしたのだが――――
気のせいかと独り言ちて、彼はそこを歩き去った。
その部屋が薄暗いのは雨戸が閉ざされたままになっているからだろう。どことなく湿ったにおいが充満しているのはさして広くもない空間で、片隅には経年ですっかり色あせ、ひびの入ったモザイクタイルの流し台が誂えられていて、そこに取り付けられた蛇口からは断続的に水が滴り落ちている。これが湿気の正体だろう。
部屋の中央には学校施設でよく見られる天板が黒い実験台が置かれていた。
「想像以上に食い付き早かったなー……過保護なのか、実績でもあるのか……」
そこへ、一人の少女が扉を開けて進入する。彼女は右手にペット用のキャリーバッグを下げ、左手で電灯のスイッチを入れた。
明かりがともったことで明らかになった部屋の様子に、キャリーバッグがガタガタと揺れる―――
少女はにっこりと笑ってそれを実験台の上に優しく置いた。
「フギャッ!?」
衝撃は小さかったはずだが、しかし中に収められた生き物は悲鳴を上げた。
少女はそれに構いもせず、どこから取り出したのか肘までを覆う分厚いグローブを手にはめてますます楽しそうに笑ってみせた。
「ふ、ふ、ふ……怖がらなくっても大丈夫だからね? おいで~」
口からは文字通り猫なで声。しかし猫はバッグの奥底に身をへばりつけて毛を逆立てる。
そして少女の手は無遠慮にその襟首を掴むといささか乱暴に『彼』をそこから引きずり出した。
「ニャーッ! ニャアーっ! んぎゃーっ!」
「怒ってる猫ってなんでこんなにかわいいんだろう……」
独り言に『彼』はますます手足を振り回して暴れたが、その爪も牙も分厚いグローブ相手に役には立たなかった。
「さて、ねこちゃん。大人しくしようね。キミにもなにか秘密があるみたいだな?」
「ンにゃ―――」
「隙あり」
かぽっ、と音を立てて『彼』の視界は塞がれ、開口も制御される。それがキャットマズル―――猫の噛みつき防止用のマスクだと気が付いたときには手遅れだった。『彼』はマスクと毛皮に覆われた顔をサーっと青ざめさせて懸命に後退ったが、少女の手がその身をまさぐるほうが早かった。
「うーん……マイクや発信機のような物は……やっぱり首輪かな」
つぶやきとともに『彼』の首に巻かれていた黄色い首輪が取り外される。
「なんにも無し、か。住所もお名前は記入されてない……おまえ、名前は、なんてったっけ……ええと」
台の上に首輪を放り投げて、少女はしばらく記憶を探るようにその辺りを歩き回った。その気配と足音が右に左に、前に後ろに回ることだけを知覚して『彼』はますます身を硬くする。
「そうだ、思い出した。ねこの名前は……モルガナだ」
ポンと手を打って少女は立ち止まる。
『彼』―――モルガナはじりじりと後退って台の端に辿り着いたが、落ちることを危惧したらしい少女の手がこれを阻んだ。
「首輪にも触った感じもそれらしい物はないし、どうしてこの子だけをここに寄越したんだろう……おまえ、スタンみたいに喋れたりするの?」
スタンって誰だよ。と言い返したかったが、モルガナは口をふさがれてムーと呻くことしかできなかった。例え発声できていたとしても、彼女にこの生き物の言葉は届かなかっただろう。
柔らかな毛皮を抱き上げて、少女は再び台の中央にモルガナを安置する。
「となると、内側……? 悪趣味だな、なんて奴らだ」
ぶつぶつとなにごとかを口内でこね回しながら少女の気配は背後に回った。
モルガナは戦慄した。尾の根本をむんずと掴まれて硬直もする。それが誤りであると知ったときにはもうなにもかもが手遅れだった。
衝撃が彼の全身を貫いた。
いつの間にかグローブを取り払い、薄手のゴム手袋をはめた少女の手が、細い指が、彼の『出口』に触れ、あろうことかそこを『入り口』にせんと侵入を果たしている。
猫の尾と背中の毛が通常の五倍は膨れて体積を増したが、彼女は何一つ構うことなく指を―――
……モルガナは声にならない悲鳴を上げて己をここに送り込んだ輩を力の限り罵った。
そして、その輩はほうほうのていで帰還した黒猫の話を聞き終わるや否や寝台の上で丸まった毛布に顔を突っ伏して震えはじめた。
「もっ、モル、モルガナっ、ぶっ、くくくっ、うはっ、んははっ、っひ、ひぃっ……おま、おまえそれで、ひっ、ケツを弄くり回されたって……っ?」
「笑うなあぁっ! ワガハイは……ワガハイは……! ワガハイの純潔があぁ……うわっ、うわああぁん!」
両前足で顔を覆って屋根裏部屋の床の上に伏せった猫の姿はさすがの少年の笑みを消し去った。
彼は相棒の傍らに膝をつくと、優しくその背中を撫でてやった―――
「触んじゃねぇよぉっ!」
しかしその手は直ちにはたき落とされた。
「いって」
「このやろー! おまっ、オマエが潜入してこいなんて言うからだぞ! オマエが行けばよかったんだ!」
「俺はちょっと……知らない女のコにケツいじられるとかそんな、レベルが高すぎる」
「ふざけんニャあっ!?」
「まあ怪我もないんだろ? なら上出来だ。少なくとも彼女はお前を弄り回すような『事情』を抱えているってワケだ」
むっと顔をしかめて、モルガナは四足を揃える。倣うように少年も床の上にあぐらをかいた。
「そもそもお前、どうして捕まった?」
「……家に入ったところまでは良かったんだ。でも、ユースケがいた部屋の近く、廊下の端に隠し扉があって」
これに少年はほうと唸って興味深げな目を猫に向けた。
「一見するとただの壁なんだけど、横に引けるようになってたんだ。だからチョッと入って……それで、その先の階段を登ったら」
「後ろで入ってきた扉が閉まっちゃった、と」
「ううう……」
モルガナは再び床に伏せて顔を覆った。すると少年もまた汚れるのも構わず横に転がる。
「隠し部屋ねぇ、なにがあったんだ?」
「小部屋があったみたいなんだが、その先に入り込むより前にいきなりあのコが戻ってきて捕まっちまったんだよぉ……」
よよよ、と嘆く猫の小さく震える尾を眺めつつ、少年は『役立たず』という言葉を飲み込んだ。
彼はここ最近この猫型の相棒が色々とストレスを抱えているらしいと見ている。その原因も解ってはいるから、今回のことは良い機会だと思って活躍の場を与えたつもりだったのだが―――
逆効果だったか。
舌打ちしそうになるのを堪えて、少年は起き上がった。
今は猫より人型の友人のほうが気がかりだった。
妙な秘密を抱えているらしい女子と親しくする、それ自体は構わない。好きにすればいいと思う。
けれどモルガナが聞いた範囲から察するに、どうやら彼女は喜多川祐介とその友人たちがある一つの秘密を共有していることに勘付いている、あるいは知っている様子だ。
その上で喜多川祐介に接触している節がある。それはなにかを探るためか、攻撃するためにか―――
判然としないが、しかし彼はこれを許すわけにはいかなかった。
「気に入らないな……」
ポツリとこぼされたつぶやきに、モルガナは涙に濡れた瞳を上げて少年をじっと見つめた。
片膝を立ててそこに肘を置き、頬杖をついた少年は虚空を、そこに思い描いた少女の姿を睨みつけている。
「オトコの純情を利用するなんて、いい度胸じゃないか」
「……ぐすっ、ワガハイたちも前に同じことやったけどな……」
「あれはいいの。祐介を助けるためだったんだから」
「そおかよ……うう……」
「なんにせよ、あいつは簡単に堕とせるような―――いや、堕ちることは堕ちるだろうけど、それで済むだけのやつじゃない」
滲んだモルガナの涙を指先で払ってやりながら、少年は立ち上がってあざ笑う少女の影に宣言した。
「俺の仲間を傷つけてみろ、必ず後悔させてやる」
きっぱりとしたこの言葉に、しかしモルガナは項垂れて力なく尾を床に寝かせた。
ワガハイだって仲間じゃねーのか。後悔させてきてやってくれよ。
まだヒリヒリと痛む尻を押さえながら、猫は泣きぬれた。